カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

フェイクより自分の立ち位置

2017-02-28 | net & 社会

 トランプさんのおかげでまた脚光を浴びているが、世の中にはフェイク・ニュースというのがあって、実際に影響があるように思われるようになった。胡散臭い噂話の類というのは以前からあったし、いわゆる週刊誌のゴシップ記事なんてものは、大手のものであっても、そのようなものがごまんと混ざっていた。ところが近年の特徴は、いわゆるSNSで、素人が平然と嘘やデマを積極的に世の中に流したり拡散させたりすることにある。発信元にはいろいろな動機があるだろうが、面白半分や時には正義感などにかられて、嘘の情報を流す。それを見た人が同調すればいい訳で、拡散する人々の多くは、罪の意識などもないし、場合によっては最後まで事実を信じて拡散してしまう。そこには何か、事実と判断するためのプロセスや常識のようなものが、すっぽりと抜け落ちている。気分は受け身だが、きわめて凶暴なものを感じる。
 以前なら、いわゆるこれは釣りというやつだ、という指摘をする人もいた。怪しかったり嘘だったり感情をあおったりするものを拡散させることで、広告収入などを得る商売の人がいるらしい。もちろん今もいるが、これが多すぎて、いちいち指摘をしなくなる。それくらい個人で分かって当然、という気分もあるし、よっぽどの知人が間違って興奮しているのを見かねて、ちょっと横から指摘する風の人が残っている程度であろう。
 正直に言って僕も基本的に無視する。知り合いの人が残念なことになっているとは分かっていても、いつかは分かるだろう、という気分もあるかもしれない。また、妙に政治的だったり、信条のようなものが絡む風景も厄介さを感じる。本人に疑いが無いばかりか、検証する気分にないことも見て取れる場合がある。そのコミュニティが成立しているらしいこともあるし、いわゆる蚊帳の外だから、残念があるのは仕方がないと諦めてしまうのかもしれない。しかしあえて言っておくと、嘘は嘘であることに違いは無い。ウソから誠が出るのはことわざくらいで、根拠が間違ったものから出発してまともな結論に至るわけが無い。要するにいつかは失敗や破綻する。そういうのが残念だな、という気分だけかもしれない。
 しかしながら、やはり注意は必要だ。情報の中の、嘘とは言えないまでの、間違ったものというのは、もう本当に多すぎる。最初に戻るとトランプ問題。これはもう絶対にないという断言の言論は根強くあった。それもアメリカの専門家と言われる多くの人々がこぞってそのようなことを言った。これは予想を外したということで無視している人が多いかもしれないが、中には自分の信条の希望的観測を述べた嘘つきもいたのだ。
 トランプさんになったことで沖縄の基地反対者は希望をもっていいはずだが、喜んでいない風に見える。TPP反対者は勝利の雄叫びをあげていいはずだが上げていない風に見える。マスゴミの言うことなんて信じない人が、トランプのツイッターをどう見ている? 円高でも円安でも困る人は困る。そんなことはごく当たり前の極当然のことだ。さて、自分は立ち位置で何をどう自分で発言する? 結局問われているのはそんな単純なことなのだ。
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褒めて伸ばそうの話   映画ビリギャル

2017-02-27 | 映画

映画ビリギャル/土井裕泰監督

 わざわざ映画と銘打ってあるのは、原作がある為らしい。原作は小説ではない。要するに実話をもとにしているらしいが、その舞台となっている塾のことなら、何かのテレビ番組で見た覚えがある。いわゆる褒めて伸ばす教育の実践をしている最高の成功例なのだろう。いわゆるこの先生も女生徒も実在の人物らしい。
 学年でビリだったギャル女学生が塾で勉強に目覚める訳だが、まずこの女学生の家庭環境が少し微妙だ。父親は弟の野球のことにしか関心が無く、娘たちは放置している(馬鹿にしている?)。母親は異常に過保護に見え、娘たちを信用しすぎているように見える。しかし高額な塾費用のために、ケナゲに働いている。で、この娘は、ほとんどキャバクラ嬢のような恰好で夜に遊んで廻るという図式である。映画では、カラオケばかりやっているみたいだったが。
 塾に来て小試験をするが、見事に0点という状態。知識としては小学生レベルであるということらしい。でもまあ、目標は響きがいいので慶応ということにする。先生も目標は目標としてそれを積極的に認める。やればできるんだから頑張ろう、という訳だ。普通はそこに違和感があるわけで、当然勉強はするが、特に試験が近づくまで、夜遊びは止めず、昼の授業は寝てばかりだ。もちろんカラオケやりながら勉強している様子だったが。当然学校の先生との関係も悪い。そうであるから物語としては面白い訳だが、信用できる話としてはどうなのかという疑問はわく訳だ。でもまあ、結果はそれでもよくないと話はまとまったりは出来ない。それは分かっているが、その勉強ぶりがスパルタでないところが、一番のミソかもしれない。
 とにかくいいところを見つけて、褒めてやる気にさせるということである。そんなんで上手くいくはずが無いという、おおかたの先入観を崩すことが大切らしい。しかしこの女学生にはこれが有効だったのは間違いなかったようで、とにかく勉強は続けている。やり方についても先生はどんどんアドバイスを的確にしていく。いわゆる効率も良いということかもしれない。一見塾の宣伝のような感じもするが、そういういいところなら、困った子を入れて勉強させたいという親は多いのではないか。実際そういう子がまた入って来ていたようだが。
 実話ということなので、単純なファンタジーではないかもしれない。しかし観終わってもファンタジーだと思ってしまうのは、やはり特殊な例である疑いが晴れないからだろう。本当だとしても、特殊なら仕方がないような気がする。いくらグレていたとはいえ、素質として頭の良い子だったのではないか。さらにさらっと映像で流れるが、信じてなかった学校の担任の先生は、賭けに負けた約束を守って全裸になったりしていて、そっちの方が素晴らしい先生のような印象も受けた。なかなか普通の大人には出来ないことだ。
 まあ、褒めて伸びる子も世の中にはいるんだということは、そうなんだろう。要は勉強するのは本人次第。真実はそこにあるような気がした。
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買ったけど(持っているけど)使われてないもの

2017-02-26 | なんでもランキング

 買ったけど使われていないものの代表として、よくジューサーミキサーがあがる。これは、使うのがあんがい面倒だからだと思う。まず何をミキサーにかけるのかという問題があって、ジュースなどにする素材そのものを買うのが面倒だ。また、こういうのが習慣づくのにそれなりに修練が必要そうだ。その後飽きるというのもある。使った後洗うのも面倒というのもあるだろうし、けっこう場所をとるので、結局しまい込むということもあろう。でもまあ一番は、これはいいな、と思う動機が、シンプルに安易すぎたせいではないか。でもミキサーで出来たものを消費するのは一瞬。それに対して準備や片付けまでの手順が多すぎるというギャップが大きすぎるのではないか。僕は子供の頃、玉子と牛乳をミキサーで混ぜて飲んでいた記憶がある。ちょっと砂糖も入れてたっけ? あれは何の流行だったのかまったく思い出せない。けれどやはり長続きはしなかった。結構マメにミキサーを洗っていた記憶もあるんだけどな。
 大阪の人は必需品だと言われるが、タコ焼き器も眠っている家は多いのではないか。なんとなく欲しくなるのは分かるが、本当にそんなにタコ焼き焼くだろうか。縁日のようなところで買うというのは楽しいが、家でタコ焼き焼いて食べるというのが、やはり習慣にないし、家庭の風景としても無い。それは大阪人という人達との違いといってはなんだが、当然という気もする。それにやはりたこ焼きを上手に焼くのは結構難しい。熟練の技になるために、いったいどれくらいの消費を必要とするのか。修行が足りないまま離脱する。そうして結局遠ざかる。タコ焼き愛が足りないだけだろうが。
 電動髭剃りもどこかに行ったな。これは剃刀負けしたからだ。剃れるのは悪くないが、その後すぐに痒くなって閉口した。僕にはダメだと思って普通にお蔵入り。いまだに出勤中にすれ違う車の中で電動で髭を剃っている人を見かけるが、器用というより、肌が強い人なんだろうな、と思います。
 電動歯ブラシも一回くらい使ったきりだと思う。結局使いづらいというか、そんなに効果が実感できないというか。電動で無い方が細かく磨けるような気分があるかも。
 ぶら下がり健康器は子供の頃にあったかもしれない。思い出すだけでなんとなく恥ずかしい。友人の家でも見かけたりして、バカにはしないが、お互いに恥ずかしい。
 まったく使わない訳では無いし、必要だから数年に一度は買うが、タイヤチェーンも探せばいくつかあると思う。やはり雪があんまり降らないし、降っても相当でなければ使わない。できれば使いたくないという意識もあるだろう。使われない方がいい道具である。
 栓抜きは瓶ビールを買わなくなったから。缶切りも缶詰自体をやはり買わない。それに最近の缶詰は、缶切りがいらないものが多いんじゃないか。ワインオープナーもあんまり使わないけど、これは持っておかねばという気もする。
 服ではマフラー。これは相当年数した経験が無い。もう持ってもいないかも。
 以前は長らくアコーディオンを持っていた。結局弾けないというのがあった。練習もあんまりしなかった。でももったいない。その後人にやったかもしれない。
 絵の道具や習字道具も眠っている。自発的にはやはりやらない方面かもしれない。彫刻刀もどこへやら。学校教育は身につかないということかもしれない。
 実は読んでない本が一番たくさんあるかもしれない。でもまあ読書家なら知っての通り、そういうものなんで仕方がない。これは使わないというものとは意味が違うと思いたい。いや、もう物理的に許される限り続くことなんだろうと思う。
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なんか無茶だが、そんなもんだろ   キッズ・リターン 再会の時

2017-02-25 | 映画

キッズ・リターン 再会の時/清水浩監督

 北野武の同名作品の続編ということらしい。その前作はもちろん観たことがあって、なかなか良かった。北野作品として一番いいと評するファンも多い作品だ。おそらくその所為もあって、北野監督作品でないこの続編は非常に評判が悪い。そういうことは後で知ったのだが、観終わってみると、まあ、仕方がないかな、という気もする。しかしまあ楽しめない訳では無くて、それなりに前作の雰囲気は持っているようにも感じた。上手くいかないもどかしい感情が鬱積しているが、なんとなくのカタルシスはある。それで良かったかどうかの悲しみもあるし、これはこれでいいのではないか。
 元不良の友人同士が10年後に再会する。一人はさえないボクサー(もうやめようとしている)で、もう一人は出所したばかりのヤクザ(さらに組は解体寸前)。ヤクザの方は組を立て直すつもりでヤクザらしく暴力をふるい、ボクサーの方は励まされて咬ませ犬の立場で奮起する。
 乾いた暴力描写はタケシ映画らしい雰囲気があるし、もどかしいような空気感も、前作のものとよく似ている。キャストが違うので別物映画という見方もできそうだが、もちろん前作を知っている方が楽しめるだろう。まあ、多く人は比較して失望したらしいが…。
 繰り返すが、僕自身はタケシ作品でないからダメという気はしなかった。ものすごくいい映画ではないかもしれないが、それにはっきり言ってそんなにすっきりする映画ではないが、ささやかながら力にはなるような感じはする。世の中はそんなに単純じゃないし、やっぱり自分が何かしないことには何も始まらない。そういうことが、映画を通じて伝わってくる。前作ではなんとなく走りたくなるような高揚感があって、たぶんそれは僕の若さもあったことだろうけど、お互い年を取って、まあ、やっぱりこんな感じかもな、というところなんじゃなかろうか。
 訳が分からない人も多いかもしれないが、またやる気になりたいような人向きの映画ではないだろうか。僕なんかは、下手な啓発映画より、よっぽどいいと思うんだけどな。
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本当は僕だってうんざりしてたけど

2017-02-24 | 境界線

 僕は学生時代中国の泉州というところに留学していた。最初の年にいきなり天安門事件があって引き返して来たが(北京はずいぶん遠いので、危ないということは無かったけれど)、またしばらくして舞い戻って、合計が2年半くらいは居た。向こうの学校の卒業式が7月なのと、天安門事件ということがあって、中途半端なタイミングと期間、あちらに居たことになると思う。今となっては記憶があやふやだけど。
 だからということになるが、中国についてはいろいろと意見はある。まあ、別に留学しなくたって意見くらいはあろうものだろうが、そういう経験からくる思いのようなものが、少しくらいはたくさんあるんじゃないかということだ。楽しい思い出もたくさんあるのは間違いないが、それなりにひどい目にもあった。本当は僕が個人的に受けた問題だから逆恨みのようなものだが、中国人なんて大嫌いだと思ったことも、そりゃあ、ある。何処の国の人だって、長い時間居れば、そういうこともあるのは当然だと思う。日本に来ている外国人だって、恐らくそういうものだろう。
 それで、半年くらいして仲間と旅行に出ていた。僕は最後までたいして言葉は憶えなかったが、とにかく最初の頃だから、本当にまだずいぶんひどい語学力の状態で、行く先々でトラブル続きに見舞われ(まあ、今考えると当たり前だけど)、身も心も折れんばかりに衰弱していた。旅行も留学もほとほと疲れて、本当に日本に逃げ帰りたかった。言葉が通じないというだけでなく、まちが汚く思えたし(実際に汚なかったが)臭いが嫌だったし、人々の行動が気に障った。食べるモノも、旨いのかどうなのかよく分からなくなっていて、とにかく酒で胃袋に押し込むように食べていた。でも学生だから暇だし、貧乏旅行だし(あっちは時間をかけて移動すると料金は安いのだ)、どのみち日本には一人では帰られそうにないし、まだ、とにかく旅行は終わってなかった。
 そういう中、正確にどこの場所だったかどうしても思い出せないが、日本人の団体客とばったり観光地で同じになった。オウオウ、日本の同志よ、なんとなく懐かしいな、などと思って言葉を交わしていた。日本語お上手ですね、などと言われ、向こうから見ると、それなりに現地に溶け込んでいたように見えていたらしい。
 それはそれで最初は楽しかった。しかし、その中の一人、僕から見るとおじさんというか、今考えると40代くらいの、いわゆる団塊世代の人だった思う。旅行中だから昼間から酒を飲んでいるらしく、ちょっと饒舌になっている様子だ。その人が、改めて「廻りをよく見まわしてみろ」という。何だろうと思っていると、「よく見ると、みんな何か足りない顔付をしてるだろう」という。「あいつらは、日本人と違って、みんな人種的に馬鹿なんだよ(大意)」というのである。最初は僕もヘラヘラ笑いながら聞いていたと思う。でもなんだかムラムラというか、怒りのようなものが湧いてくるのが分かった。こんな馬鹿な日本人がいるんだということが、心底腹立たしかった。もうお前なんか帰れ、と心の中で思っていた。でも、口に出してはなんとなく言えなくて、そういう自分にも腹が立った。
 一行と分かれて、なんだか解放されたような気がした。もう一緒にいるのはうんざりだった。
 それからも、旅行の方はトラブル続きだった。まったくひどい目にも、またたくさんあった。でもそれは、ある意味で当たり前の話だったようにも思う。少なくとも、旅行中出会った中国人が馬鹿だったから、僕がそんな目にあった訳では無かろう。不思議なもので、もっとこの地を知って頑張って行こうという気持ちが、強くなったように思った。
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悪いやつが悪いから爽快   アジョン

2017-02-23 | 映画

アジョン/イ・ジョンボム監督

 貧困層住宅の片隅で質屋をやっているいかにも影のありそうな青年のところに、万引き常習の少女がよく遊びに来ている。少女は寂しさもあって青年をアジョン(おじさん)といって慕っているようだが、青年もなんとなく少女に好感を持っているらしい。そんな折に少女の母(ストリップダンサー)が麻薬組織のヘロインを盗んだことから事件に巻き込まれ、少女と共に誘拐される。母親が盗んだブツが隣の質屋にあると踏んだ犯罪組織は、質屋にも侵入。そこで青年は急に少女を救出するために悪の組織や警察そのものを敵に回して奮闘することになる。
 先に不平を言うと、青年が何故強いのかというような過去は、特に警察が知らなくてもいいような問題だと思う。そうして結局最後にああいう結末に至るが、それではやはりこれまで殺した数を清算することは、法ではとてもできそうにない。特にエンディングもむやみに長くて無駄だ。
 そういう欠点はあるものの、映画としては非常に楽しいつくりになっている。特に死闘を演じるアクションシーンは素晴らしいと思う。韓国映画らしく、暴力が凄まじく、拷問ややること自体はえげつないのだけれど、だからこそという感じで、復讐する場合のバイオレンスも、すっきりと溜飲が下がるような快感を覚える。いや、もっと残酷にねちっこくやってもらってもいいような、そう言う気分にさえなる。精神の韓国化は健全とはいえないかもしれないが、映画としては本当に素晴らしいものだ。
 いちおう韓国のヤクザと中国系のヤクザの違いのようなことになっているけど、これはやっぱりどちらも大変に同じように韓国的に悪い奴らだと思う。警察の連中もぜんぜん健全さが無くて、まちの人たちも荒れているように感じる。駄菓子屋の親父だけがちょっと違うが、まあ、それも悪を知っているが故かもしれない。誰もが極端に自己中心的で悲しみが深い。そういう極端だが人間臭いむき出しの感情が、韓国アクションの最大の魅力かもしれない。
 冷静になって考えてみると、変な人たちばかり出てくる映画だけれど、アクション娯楽作としては、ズバリ名作といっていいでしょう。韓流好きのおばさんでなくても、ウォンビンにはしびれますよ、きっと。
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葬式は呼ばれて行くわけではない

2017-02-22 | 雑記

 通夜や葬式によく行くようになった。世の中の人がたくさん死ぬようになったということではなさそうで、要するに知り合いは増えて、関連する人の死も増えたということか。もちろん先輩の人が圧倒的に多いが、以前は知人の親など世代を超えた先輩だったものが、直接の友人とまでは言えないまでも、つきあいのある人本人が無くなるというケースが増えている。生前どんな人か直接知っている人が亡くなるというのは、やはりこたえるものがある。
 先日ある先輩と酒を飲んでいたら、やはり誰彼が死んだという話になった。その先輩の付き合いのある一連の人の死に方が激しいという話だった。まずその世代のキーマンのような一人が死んだあと、次々にその世代の人が雪崩を打ったように亡くなってしまったという。そういうつきあいの方面が、ぽっかり穴が開いたようにさみしくなってしまったらしい。
 その先輩はかつてスポーツで鳴らした人で、いまだにジョギングなどもするという。そのようなジョギング仲間というのがあるようで、皆年の割に体力には自信を持っておられるようだ。問題はそのような仲間の中にもぼつぼつ欠けるような事が起こっているらしく、単に走るのをやめたというのではなく、体調を崩したり入院をしたり、という連鎖のような兆しがあるという。僕からすると一回りくらい先輩だから、確かに少しばかり鬼籍に入るには早いかもしれない。健康には自信があったはずなのに、何か極端に不安を感じるということだった。そうして、まだ死にたくないと。
 さすがにそれはまだ先輩に限っては…、などと言ってはみたものの、何かそういうものが僕にも忍び寄っているような、そんな気分が伝わってきた。
 まあ、たまたまそんな話になったというのはあるんだろうけど、元気な人と付き合った方が精神的には健康的である。葬式があるのは仕方ないが、もう少し年配になると、もうあんまり出ないというのも聞いたことがある。なるほど、そう言う理由かな、などと思ったりした。そういうのは不義理というより、防衛本能なのかもしれない。
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人間はちっぽけだが、精神の強さが生死を分ける   レヴェナント

2017-02-21 | 映画

レヴェナント/アレハントロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督

 副題に「蘇りし者」。時代は北米西部開拓時代のもののようだ。インディアンたちの本拠地で白人たちが毛皮を獲っている。そういう中で現地人に襲われ、多くの犠牲者を出しながら、川下りルートを断念して山登りで逃げようとする。道中、道案内も兼ねていた、現地の人間とも半分関わりを持っている男が、クマに襲われ瀕死の重傷を負ってしまう。一行はこの怪我人と二手に分かれることになる。けが人を負った4人の中に、もともとこの計画に不満を持っており現地人に恨みを持っている男がいて、一方的に負傷の男の混血の息子を刺し殺し、さらに重症の男を半分土に埋め見捨てて逃げていくのだった。
 体が不自由なままであるばかりか、武器である銃も奪われ、まさに地を這いながら、壮絶なサバイバルを展開していく。熊から受けた傷は深く、ただ表面を縫い合わせただけだから、傷口は腐りとても自由に体を動かせている訳では無い。鹿の死肉や骨髄などをあさり、川に石を組んで魚を追い込み素手で捕まえ、生で食らう。水を飲んでも喉の傷から血が噴き出してくる。極寒の中川下りをしたり、そのまま野外で寝るより他に術がない。追っ手の現地人から、見つけられたら命は無いのである。
 とにかく延々とサバイバルは続くように見える。極寒の大地にあって、頼れるものは何もない。自分の持っている知恵と、そうして少なからぬ強い肉体。瀕死の状態ながら凍える大地に這いつくばって、必死で命を灯している感じ。何とか精神をつないでいるのは、恐らく復讐心一つ。時には運があって助けてくれる人があったり、しかしその人は簡単に殺され、現地のインディアンは白人を恨み見つかれば確実に殺すように襲ってくる。現地の知恵も彼らの方が上だ。裏切者の所為で自分の命は既に無いものとして伝わっているはずで、野営しているはずの仲間の本拠地は、果てしなく遠いのだ。
 やや、単調なところはあるにせよ、凄まじい生き延び方である。劇場映画なのに、カメラに雪の粉がついたり、血糊が飛び散ったりするまま撮影されている。それがそのままドキュメンタリーのような迫力を生んでいて、観ていて本当に痛々しい。ディカプリオ、寒くないのか? と思わず心配してしまう。誤って本当に死んでしまってはシャレにならない。まあ、映画的な特撮があるのは当然として、撮影スタッフと言えども、皆ひどい目に会ったのではなかろうか。そういう何だか気の毒になりながら大自然に畏敬の念を抱かずにいられない作品と言えるかもしれない。
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ロボットに奪われる未来

2017-02-20 | HORROR

 最近は単純な労働であれば、その仕事は機械(ロボットなど)に奪われるようになるということが話題になったりする。今人間がやっているほとんどは、たとえサービス業の仕事であっても、機械による代替が将来的に可能になるだろうという話だ。それは大変にいいことだなと、僕なんかは直感的に感じるが、どうもそういう趣旨ではなく、多くの人々はロボットに仕事を奪われ、失業してしまうということらしい。機械に代替できない弁護士などの仕事は残るというが、そういう困った人が弁護士に相談して金を払えるんだろうか。
 こういう話の気分というのが今一つ僕には分らない。ロボットや機械が人間の敵であるということを言いたいのだろうか。機械を操っているのもお仲間の人間だろうし、じゃあ、仲間割れの話じゃないか。
 それにしてもどんどん働いていた人間をクビにして生産性があがるならば、その企業は儲かっていい話である。さぞかし潤沢にお金を使えるだろうから、その周辺は潤うだろう。その使う金全てをロボットに支払うのなら別だけれど。ロボットに支払ったとしても、受け取るのはその雇い主だろうけど。
 要するにお金を使って喜んでいる癖のあるのは人間であって、みんな失業して金を使わなくなると、そもそも何も生産する必要もなくなる。ロボットなんか使っても何の意味も無いのではないか。失業した人だってロボットを使って何かやったらどうだろうか。
 こういうのを心配する人は、いったい何を心配しているのだろう。いや、失業が怖いということなのかもしれないけど、ライバルロボットのおかげで空いた時間に、もっとやるべきことが見つからないのだろうか。
 特段ロボットのいなかった時代から仕事はいろんなところから奪われてきたはずだ。近年では周辺国からだったろうし、周辺国はそのまた周辺国からだったろう。それぞれどうしてきたかは僕らは目の当たりにしてきたはずで、いろいろ仕事は変えて、何かやってるんじゃないだろうか。もちろん昔ながらの職人さんというのも僅かながら残っておられるかもしれないが、わずかだから残っているのかもしれないではないか。
 まあ、そう言うことで、有り余る仕事の中から何かをまた選択するという面倒を別にすると、心配事は減るんじゃなかろうか。もっとも真っ先に必要とされなくなるのは、他ならぬこんなことを言っている自分自身であるというオチも待っているかもしれないが。
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あんがい実用的な理解の書ではないか   うつヌケ

2017-02-19 | 読書

うつヌケ/田中圭一著(角川書店)

 漫画。実際はキンドルで読む。副題は「うつトンネルを抜けた人たち」。著者自身がうつ病歴があり、そのうつ病のトンネルからどう抜け出してきたのか、ということと、同じくうつ病に苦しんだ経験のある人たちのエピソードを読み切りの形で描いている。たくさんの苦しみが描かれているが、手塚マンガのような絵でコミカルに表現されており、なるほどと思いながらスラスラ読める。悲惨な話は多いが、皆抜け出した人たちなので、結果的に大変に救いになるような気がした。
 鬱の気分というのは、実は誰でも経験はしていることとは思う。ただ病気としての鬱になると生活に支障が出る。支障が出るばかりではなく、生命の危険も伴う。鬱は物理的には癌などの病気ではないけれど、恐ろしさにおいては、そんなに変わらないというようなこともなんとなくわかる。しかしながらこれは、こういうものを読んでいると分かる気がするだけで、実際に鬱病状態の人に接すると、多くの人は戸惑うだけなのではあるまいか。身近な人なら一緒に困ることになるだろうし、身近でなくても、なかなかこれは難しい状況である。そうであるからこそ鬱病というのは大変に厄介であり、そうして闘病が難しい病気なのだろうと思う。
 人によって異なるだろうとはいえ、著者はいわゆる自己肯定の大切さも説いている。行き過ぎたナルシズムと誤解されることを恐れずにいえば、自分を素直に好きだと思えるようなことが、病気のトンネルからぬけるときに必要らしい。皆が正直になれば当然のことと思うのだが、自分のことが好きだったり嫌いだったりするのは普通の感情だと思う。ところがどうも鬱病状態にある人々は、何か自分を素直に好きになれない状況に陥っているものらしい。ただ、絶望感や嫌な感じに包み込まれて身動きできなくなってしまっているが、そういう中で、自分自身を見失ってしまうものらしいのだ。今のダメかもしれない自分を含めて、それでいいのだということに、なかなか考えが及ばないし、また、到底そう思うことすらできなくなっている。そういう状態が長いトンネルの中にいるようなもののたとえとなっているのかもしれない。ただし、トンネルだからいつかは抜け出すことができるはずだ。だからこの比喩は、闘病している人にとっての希望として描かれている訳だ。
 ある程度の傾向らしきものは書かれているけれど、だからと言ってそういう性格の人だから必ず鬱病になるということでは無い。また、鬱病と無縁らしいと思えるような人が、実は鬱病で苦しんでいるという話は、結構聞くことではなかろうか。むやみに怖がり過ぎるのもいけないとは思うが、この病気はそういうものなんだと思う。かくいう僕もこういうものに興味がある時点で、それなりに疑わしいものがあるわけだが…。
 そういうことではあるんだけれど、特に興味がなくたって、鬱病のことを知っておいて何の損も無い。むしろ、鬱という気分そのものを考えることにしても、なかなか示唆に富んだお話なのではなかろうか。このような感じというのは、確かに鬱病の理解には早いと思われる。気になる人も気にならない人も、けっこう役に立つのではないだろうか。
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通夜の審議事項

2017-02-18 | 散歩

 いくら田舎とはいえ、空家はある。いや、都会ならすぐに売れるので、田舎の方が深刻という話も聞く。ぽつぽつ売り家と表示される家ならまだ、古いまでもなんとなく売れるかもしれないという雰囲気はかもしだしているけれど、少なくとも長らく人が住んでいないらしいだけの家というのは、そのまま朽ちていくことが見て取れて、物悲しい。
 当たり前だが旧住宅街の高齢化が進んでいる地区に目立つ。僕らの子供時代の友人たちの多くが住んでいた訳だが、要するにその親たちがボツボツ亡くなったり家を出たりしたということなんだろうと思われる。地元に就職した人間というのは少数派だし、きょうだい含めてこちらに居ないなんてことはありふれている。核家族化とマイホームの夢は、時間が経過するとそういう風景になるということなんだろう。
 さすがに朽ちた空家より空き地が増えて月極の駐車場なんかがあちこちに増えた。ひと月2千円というのも見たことがある。借りたところで知れているが、しかし移動するのにタクシーでは割高になろう。もっと用事のあるところに空いた土地が無いだろうか。
 空家になった時点でどうするか、なかなか残った家族で決めかねるというのが第一にあるんだろう。思い出の家でもあり、荷物の整理も簡単にはいくまい。よく考えてみると引き取るのも大変だから、そうとう必要なもの以外は廃棄するより無いだろう。探せばお宝のような価値あるものだって無いとは限らないが、基本的に自分がいらないものを選別していると言ってくれるような人が見つかるのか。専門業者もいると思うが、廃棄処分の物品から選別できる人間の専門性を考えると、やはり少しは家族の誰かの手による選択がある程度は必要と思う。それが出来ないのなら、やはり廃棄だろう。遠方に行ってしまった子供たちなら、やはりそれすらが難しいことかもしれない。
 しかし時は金なり。そうやって放置するだけでも税金はかかる。近年は空家は社会問題化しており、さらに固定資産税は上がる傾向にある。迷っていてはそれだけ贅沢をしているのと同じである。さらに時間が経過すると、資産としても目減りする。借家としての価値がなくなるとともに、いざ貸そうとしても、そのための改修費用もかさむわけだ。上物をどうにかできないのなら、土地として売ることも難しいだろう。結局どこかでけりをつけないことには、どうにもならない問題である。国なら問題を棚上げしても税金を浪費するだけのことだが、個人の資産はそれで済むんだろうか。
 冷たいようだが、親などが死んで不動産が残ったら、通夜の席などで大筋の問題提起をしておき、初七日までくらいには処分方法を決めるべきだろう。それが出来ない人たちは、結局何年も放置することになるんではなかろうか。おせっかいかもしれないが、通夜の席で何を語るか、思い出話以外にも、けっこう議題があるようである。
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何処の家にでもやって来るかも   ババドック

2017-02-17 | 映画

ババドック/ジェニファー・ケント監督

 副題「暗闇の魔物」。豪州映画。育児に手を焼きながら奮闘するシングル・マザーが、子供に読んで聞かせる不気味な絵本をきっかけにして怪現象に追い込まれていく。
 どうも7年前に事故があったらしく夫を亡くしている。息子は他の子供に攻撃的なところがあるらしく、武器も自作する。母は介護の仕事をしているが、夜も落ち着かない息子のためか、不眠でいつもイライラしている。子供が学校で問題を起こすと退学(転校という意味だろうが、行き先が決まってない)させるが、家にずっと放っておくわけにもいかない。近くに住む妹家族とも上手くいかないし、他に生活をサポートしてくれるような人も見当たらない。息子が寝る前に絵本を読んで聞かせることにしているが、ある日選んだ絵本がちょっと妙である。絵も不気味だが、ある化け物がやって来てそれを見たものが死を願うようになると、まるで自分たちを脅しているようだ。その後息子は、その絵本の化け物であるババドックに取りつかれたようになっていく。家の中でもクラック音がしたりして、まさに何かが迫っている。もとになった絵本を破り捨てるが、ある日また玄関先に破られ捨てられたはずの本が、整えられて置かれている。
 ババドックという何かが徐々に近づいてくる恐怖もあるが、息子の行動を持て余して、寝られなくなって、どんどん衰弱して、おかしくなっていく母親が気持ち悪い。息子やババドックの所為で追い込まれていることは分かるが、どんどんかたくなになっていき孤独で眠られない。寝られないのに深夜に古いドラマをボーっとしながら観ている。現実と夢の境があいまいになって来て、時折激しい悪態を息子に吐いてしまう。
 ババドックの姿はなかなか出てこない。身近に迫っており、家の中にいるらしいことは感じるのだが、明確にどのような姿をしているのかがあいまいだ。夜の闇にまみれて動いているし、音や声はする。そういう設定が、まずは大変に成功している。何やらどうもそんな感じみたいだな、というのが少し分かりかけてくると、かえって怖さは半減するような感覚があった。
 憑き物映画には違いないが、しかしテーマは極めて現代的かもしれない。また、特に日本の若い母親においては、このような危機というのは、いつでも起こりうる問題という気がする。パートナーが死んでしまったので仕方がないが、他に家族が居る場合でも、ババドックがやってくる家庭というのは、あんがいあるんじゃなかろうか。
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断捨離は、憧れます

2017-02-16 | 掲示板

 中崎タツヤという漫画家がいる。彼のモノに執着しない生き方は、本当に人間として行き過ぎて素晴らしい訳だが(ぜひ、読んでみて下さい)、でも極端すぎて一般の人間が安易に到達できるものでは無い。彼のような人間になれたらどんなにいいだろう。
 日ごろ生活していくうえで、モノというのはたまりやすく、又は滞留しやすい性質を持っている。要するにあちらからは安易に手元にやって来て、こちらから外に出にくいということである。
 仕事の上で、郵便物や通知などがほぼ毎日やってくる。メールの類も閲覧確認の作業のために、多くの場合紙資料化させる。基本的には出来るだけすぐに見るが、見ただけで済むものと済まないものが当然ある。案内などは手帳を見てすぐに返答するようにしているが、料金のかかるもの、宿泊交通手段の必要なものなどは、別にその手段を調べて検討する。ネットでさっとやっつけるだけで済まないものがあって、出席予定者と相談すべきこともあったりする。いくつかポイントを抜き出しておいて、今すぐか後に回すか決める。そういう案件も、当然いつのまにかどんどん溜まる。また案内の中には、後日必要と予想されるものがある。これも一応紙資料にする。メールであったら再検討する仕訳をしておく。怠ると、後で探すのが面倒だ。
 それからメール返答する前に、やはり確認等の電話をする必要のある場合もある。またメールでOKの返答をとりあえずしておいて、後でお断りをする場合もある。覆される可能性のあるものでも、いちおうは形として出しておかねばならないという感じ。忘れたらお互いに困るが、何の返答もしないと、相手が確認に困るかもしれない。そうして日常的な電話対応と予定を交えながらやり過ごしていく。それで一日終わることもある。実際には何か済んだ気がしないので、ちょっとむなしい。
 さて、少し詰めておかなければならないこともある。次の会議に必要だったり、先方に出かけていく際にまとめておかなければならないものなど。僕の場合関連の在りそうなものは、とりあえず机にドカッと広げる。そうして少し手を付けたものを中心にして、不必要なものをどんどん脇に置いていく。書き込めないものには付箋紙を張りメモ書きして、そのほかのモノには容赦なく赤ペンなどでどんどん書き込んでいく。そのままカバンに詰めるものもあるが、小さくまとまったと思ったら、パソコンで書き出して復習して、終わり。その時周辺にあって一度も触らなかったものはとりあえずゴミ袋の中に入れる。これで困った経験も無いではないが、結局残すと邪魔だし、経験的に効率が悪い気がする。紛失した後悔は、後でした方がいい。
 他にもいろいろあるが、そういう風にしても残ったものは(やはり捨てきれないもの)仕方なくファイルする。ファイルした棚から取り出したら、しまうときには手前に持ってくるようにする。だから使われないものは段々と押し出されていくイメージだ。日常的な資料はそんな感じ。
 それとは別にしまってあるのは当然あって、しかしそうしておおよそ10年もすると、もう中身を確認せずに捨てる。10年と言わず古い感じ、たとえば3年程度のものでも、なんとなく目障りに感じるようになると、ちょっとだけ中身を見て、感覚的に気に入らなければ捨てる。
 そういう風にできるだけやりたいというのが理想だが、そういう風にならない資料も数多い。だから不明資料などは、机の周りや地面に現実に積まれている。これも一定の高さになったらやはり目障りだから、思い切って崩して捨てる。それでも選別されて残って、また積まれるものもある。しかし、それでもいったん崩すことが大切だ。何度も崩して、何度も残るものはタチが悪いが、やっぱり必要かもしれない。でも見たくないのだから、しょうがないので箱に入れたりする。そうして別の倉庫に積んでおく。そこが溜まれば、また問題だが、いったんは大変気分がいい。
 あれも持ってたはずだとか、あれが必要だったな、と時々思うが、見つけられないものはしょうがない。本などなら持っていることを知っていても、また買う。捨てることに時間を使ったのだから、探すことに時間を使うのは不合理である。もちろん不完全だが、そういう風に思おうとして頑張っている感じかもしれない。
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ある意味奇跡的な作品   ギャラクシー街道

2017-02-15 | 映画

ギャラクシー街道/三谷幸喜監督

 宇宙の飛行船の航路なのだろうか。まあ地球と貿易している星との間の休憩所にハンバーガショップがあって、そこ限定で繰り広げられるドラマである。見始めてすぐに、はて、なんでこれを観ようと思ったのか、という動機を激しく呪うことになる。おそらくそれは僕以外の誰でも同じように悩んだはずで、実は出演している役者たちやこれを撮っていたスタッフだってそう思っていたに違いないと思う。正直に言ってそれくらい凄まじく酷い映画に仕上がっている。それも最初から最後まで徹底してすべて酷い。いったい何が起こってしまったのだろうか?
 出ている俳優たちの演技もひどいと言えばそうだけど、恐らくそれは三谷監督の演出に忠実だったからだろうと思われる。脚本も筋もひどいのに、これではどうにもならない。それは狙ったものだろうということは、深く考えなくても分かる。分かるが、それなら最初からやらないだろうと思うくらいには分かる。しかしそれをやっぱり試してみて、その上で本番でもやってしまったという事実がフィルムに記録として残されている。そうとしか言いようがない悲劇が、延々と展開されているのである。
 恐らくこれを実地にやっていた人たちは悲しかったのではなかろうか。三谷作品ということで多くの注目を集め、それでその証拠として自分はこの現場に出てしまった。なるほど事前に企画を聞かされていたまでは面白そうだと思わないでもなかった。何しろ三谷作品だし、悪ふざけにしても悪くないと思う要素が無いでは無かった。何といってもギャグなんだし極端な設定だし、科白自体は舞台でやっていたものとそう変わるわけではない。まあ、そんな映画だって他にもあるにはあるだろう。しかしこれがスクリーンの前の客がどう受け止めるか、それを考えると、やりながらぼんやりと分かっていたのではないか。でも逃げられない状況であることには変わりない。自分はいったい何をがんばっているのだろう…。俺はここまで追い込まれているが、周りにいる人間は、本当はバカなのではないか。
 勝手な想像だが、まったくご愁傷様でした。
 ひょっとすると三谷監督は大御所になりすぎたのかもしれませんね。誰か、何かは絶対に言ったはずだと思うけど、それを完全に無視できるほど偉いのだろう。おかげで世界でも例を見ないほどひどい作品が生まれることが許された。それはそれで奇跡的なことなのかもしれない。喜ばしいことでは無いのだけれど…。
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身体的に受け付けにくい?

2017-02-14 | ことば

 最近は、フィジカルは無いまま曲がヒットする、などという。もちろん意味は知っている。というか、文脈から分かりはする。近年のネット環境から、ダウンロードなどで音楽を楽しむことの方が中心になり、いわゆる物理的なCDの売り上げを重視しない流れを受けてのことだろう。しかしそのフィジカルであるCDの売り上げがまったくない訳では無く、そのような統計はいまだに取られてはいる。さらにそれが「売れた」という一つの形態であることに変わりは無い。もっとも日本の場合、僕のような高齢化世代か、オタク文化のコレクションとしての物理的な収集を指しているらしいが。
 しかしながらフィジカルという言葉がなんとなく引っかかるのは、日本語化しない単語の語感というのがある。例えば音楽の場合は、いわゆるデジタル化した商品対義語としては、日本語的にアナログという感じがある。しかし英語の語感だと、デジタルの対義語にフィジカルで何らおかしくないようだ。そういう感じが、なんだかな、というものを残している感じがする。
 また、やはり肉体的身体的という意味で、スポーツ界で広く使われている語感に引っ張られる。精神面とフィジカルと、とか、フィジカルに勝る外国勢に、などという表現をさんざん聞かされてきた身としては、音楽界でフィジカルと言えばヒップポップの暴力系のことが頭をよぎったりするわけだ。勝手な勘違いであるが、そう言う感じの方が、面白く感じるではないか。
 フィジカルの反応は悪かったけど、ライブでは人が一杯で盛り上がった。などと聞くと、まあ、分かるが、日本語的にはやっぱりなんかしっくりこないな、と思う。要は単にカッコつけんじゃねえよ、という気分なんだろうけど、もうちょっと何とかならないものだろうか。
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