カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

バイト敬語

2006-05-31 | ことば

 バイト敬語というのがあるらしい。いや、話は聞いたことがあるよ、と思っていたのだが、読んでいると身に覚えがある。僕はほとんどファミレスやコンビニを利用しないので知らなかったのだが、学生時代にバイトしているときは、こういう言葉遣いは普通だったように思う。というか、そういう言葉遣いをするよう強要されていたことを思い出した。
 僕が17から19ぐらいの間のことだから、その当時の店長が40代ぐらいだったから、団塊の世代かそのちょっと後ぐらいの人だったろう。だから、たぶんそれくらいの大人の人の語感とか、その時代の背景がそういう言葉を生み出した可能性がある。僕らが日頃使う言葉とか、学校やクラブ活動など団体生活で使う言葉とは異質なものだったので、僕なりに苦労して覚えたという記憶がある。
 五千円とか一万円からお釣りを払う時は大声で「一万円からお預かりします」と言え、といわれていた。違和感があったが、業界用語だろうと思ってそうしていた。確かに恥ずかしい気がする。まあ、あの頃の思い出なんて恥ずかしいことばかりだが。
 同じく「~のほう」とか「いらっしゃいませ、こんばんは」とか、「よろしかったでしょうか」は、そういわなければ怒られた。今思うとこっちが怒ってやりたい気分である。若い頃は辛抱強いので我慢ができたが、今ならとても勤まる環境ではない。今の若い人は更に偉いものだと思う。恐らく素直に先輩や上司の言葉を倣っているのだろう。
 しかしながら少し違うのは、「ございます」はつかっていた気がする。当時の銀行では「~さん」といっていた気もする。今は押しなべて「~様」になってしまったが、僕は「様」と言われたくない。なによりはしたなく思えるし、恥ずかしい。しかし、もう無理だろうな。仕方ないので引きこもりたいが、逃げるのも嫌である。
 話を戻すが、若者言葉といわれるものも、企業を展開する無知な世代が最初に作り出した可能性の方が高い気がする。チェーン展開する店や、マスコミ、音楽業界など、当時の新興企業が現在の走りだったのではないか。僕が当時覚えているのは、「パニくる」というような新語がどんどん生まれていたのは、学生時代に入った後ではなかったか。その前にはいきなり古いが、父などが「メッチェン」とか「オルグ」とかいっていた程度の隠語としての若者言葉だったのではないか。
 若い世代が変な敬語を使うのは、見苦しいが、仕方がない。今は社会に浸透するので困るけれど、敬語という考え方さえ、古いものになるのかもしれない。いや、今の企業に至っては、却って言葉遣いは利用しているに違いない。ひところ政治家なども「させていただきます」なんて連呼して、失笑を買っていた。消費社会の宿命として、こういう変な感じは更に拡大していくのだろうと思う。
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闘病とやるせなさ

2006-05-31 | 時事

 たまたま米原万理の「必笑小咄のテクニック」を読んでいたのだが、米原万理が死んだということを今朝知った。単なる偶然に過ぎないが、少なからぬショックだ。米原の言動すべてに同意しているわけではないけれど、ある意味で凄い人だと、私淑していたようなものだ。どうしてそんなにシモネタや洒落を好むのかは不可解ではあったけれど、言葉を扱うことになにより精力的だったからこそ、逆に気になってしまうのであろう。

闘病については日垣隆の「ガッキーファイター(メルマガ購読している)」を読んで、考え込んでしまう。以下引用する。

「 温熱療法の効果が実に疑わしいとは知りつつ、また藁にもすがる思いで千代
田クリニックを訪ね、そのあまりの痛みに耐えかねて――。
《施術後、院長に、部分麻酔は使えないものだろうか、と尋ねると、にわかに
顔を歪め、「貴女には向かない治療法だから、もう来るな。払った費用は全額
返す」と言われてしまった。》(上記「その二」)
 医師は、患者に治療法についてとやかく言われるのが我慢ならなかったよう
です。米原さんのようによく調べ、言うべきことを言う女性ですら、このよう
に言われて黙らされる現状には、深い溜息が何度も漏れ出てしまいます。
 彼女は、連休明けの号に「その三」をついぞ書き終えることができなかった
ようです。体力がついたら、『お笑い癌治療』という本を書く、と言っておら
れたのに。 」

彼女のような人でも医者の妙なプライドに引き回されてしまう現実があったということに、やるせない思いがする。ましてや一般の闘病生活をしている人たちは、泣き寝入りを余儀なくされていることが推し量られる。いや、意識のあるほうがさらに追い討ちをかけていじめられることもあるのかもしれない。人間という生物は、どこまでも残酷である。
病気になるのは運命というか、たんなる運のようなものだが、結局現代人は予防医学というまやかしに左右され、病気になることすら自分の責任にされかねない。陰謀のようなことをいうと、益々信用されないかもしれないけれど、実は医学界や現代思想の単なる責任逃れだという気がする。その人にとって完治を目標とする治療ということもなにより大切なことは理解するが、どのような選択をすることが大切なのかということに対して、本当の専門家である医師は謙虚に考えて治療にあたらければならない。それは一銭にもならないことかもしれないが、医師が医師である最後の一線なのではないか。
もちろん、それは医師ばかりの問題なのではない。企業倫理というものであっても、同じようなことである。コンプライアンスの遵守をあえて謳いあげたほうが信用される世の中は、既にかなり病んでいる。自分の利益追求が当たり前とホンネで思っているはずだという思想は、実はホンネというところでも違うのではないかと僕は信じている。いや、信じたいだけなのだろうか…。
弱者という立場を作らない。そういうことにも関係があると思うが、さて、今の世の中でこういうことを言っても、流れに竿をさしているようなものなのだろうか。
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涙目の理由

2006-05-30 | 雑記
 終日会議の一日。朝から長崎市内某所にてゴニョゴニョ。異議なしで早く終わって弁当食って散歩する。

 ご近所の知り合いと偶然ばったり。同じく会議だという。そういえば夜にも同じ会議でご一緒する予定。それでは後ほど、といって別れる。
 一時間ほどぶらぶらして二本目の会議。同じく異議なし。
 どうも風邪をひいたらしく、ずっと鼻水が出る。ポケットティッシュを消費して、トイレのペーパーをぐるぐる巻いて持ち歩く。ティッシュのくずが、ボケットをふさいで膨らんでゆく。
 終了後研修会。これはなかなか面白かった。全国の会長さんのお話だったが、日本のことがダイナミックに伝わる。
 財界では既に小沢シンパが席巻し始めているらしい。しかしながら、そうならそうで、別の意味で業界は苦しくなる可能性も大きい。財界はこれ以上の企業の保険の負担を危惧している。そうすると消費税より他に無い訳で、その上に地方分権の加速が進むと、長崎県の多くの問題は崩壊する。所詮現在のシステムから考えて、地方にやれないことが多すぎるのである。小泉さんでも壊れるが、小沢さんならもっと壊すということらしい。なにより財界がそれを望んでいるし、世論もそういう動きに同調しているようである。命運尽きたか…。しかし、税なら何とかなるな、とも思う。
 今まで当たり前だったことが、今では考えられないことになっている。逆に夢のようなホラ話が当然のように現実になっている。気がつくと、本当に世の中変わるものである。

 帰ってもろもろの報告を聞くと、懸案事項がいくつか解決している。僕が居ない方が好転するようだ。ちょっと複雑であるが、まあ、良かった。
長期入院していた名物Sっちゃんも帰って来ていた。さっそくやって来て仕事の邪魔をしてくれる。困るがこれがいつものペース。これからもよろしくね。

 前の会議が長引いたらしく別室で待たされる。ただ待つのも飽きたので、会場をうろうろする。壁に陶板やら絵が立てかけてある。じっくり見る。こんなことがなければ見ることも無いが、なかなか力作だ。美術は余裕が無いとわからないものなのだろうか。
 やっと本日最後の会議なり。みんな疲れて異議なし。
 終了後家に帰る連絡後、U田君より電話あり。帰ってきてるから一緒に食事しようということになる。つれあいに送ってもらって居酒屋へ。二人で食うには多めかなと思ったが、U田君は大食漢なので、きれいに平らげる。実に気持ちがいい。
 二次会三次会。最後はクマオちゃんと話していたけど、内容は忘れた。
 U田君の話を聞いていると、僕は大企業の営業はできないだろうな、などと思った。大変というか、僕は愚痴って嫌な人間になりそうだ。僕は接待というのはしたことがないけれど、それが悪いというより、続くと嫌になるだろうな、と思う。結局何か考えていたいと思う。勿論仕事は尊い。必要だから飲んでいるのである。飲んでいるときは偉くなりたくないし、もちろん卑屈にもなりたくない。つまり、仕事をしたくない。
 いつの間にか話すのがつらくなるほど酔っていた。何かし忘れたような気もするが、忘れたのでいいだろう。

 翌日は下を向くのがつらい二日酔い。さっきまで打ち合わせなどしていたが、酒臭かったことだろう。具合が悪くて涙目で話をしていたので、壮絶感があったのか、僕の主張が全部通ってしまった。
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エビちゃんは誰だ

2006-05-29 | 時事
 内田樹が「エビちゃん」を知らないということと、フェミニズムの凋落に驚いていたが、フェニミズムの凋落はともかく、普通のおじさんはエビちゃんを知らなくて当然だろう。僕自身はエビちゃんが誰だか見たことはあるけれど、考えてみるとどうしてエビちゃんなのかはよく知らない。たぶん名前か何かからのニックネームだろうが、まさか蛯子ではないだろう。
 Qちゃんは高橋尚子だということと、由来が「オバQ」の歌を歌って盛り上がったためだということを知っているし、荒川静香の「イナバウアー」は「レイバック・イナバウアー」だということは知っている。しかしながらおじさんというものは、エビちゃんがどうしてエビちゃんなのかは知らない。それはまっとうなことなのではないか。
 ちなみにエビちゃんという人の若い女性への影響力は、現在日本最大のものであるそうだが、どうしてそういうことが分かるのであろうか。僕にはどうしてそうなっているのか興味はないけれど、そういう風に分析される考え方が分からない。それはたいしたことには違いなかろうが、同時に若い女性への誤解につながらないか。
 僕自身の勘違いもあるとは思うけれど、若い頃の画一化と憧れへの同化はいつの時代にもあることだし、そうした社会現象が脅威であることは、いわゆるおじさんの無知から来る誤解であろう。面白いといえば面白い現象だということに過ぎないわけで、そういうことが分かったとしても、恐らく若者理解につながるようなことでもあるまい。
 お互い理解ができないほうが自然であって、変に理解のある大人は大抵胡散臭いと若い頃の僕は思っていたくらいだ。ぜーんぜん分かってないよ、とバカにできる大人の方が、たぶん尊敬できるし立派である。だからエビちゃんはずっと僕とは関係なくて心配ない。そしてそれは、健全性のバロメーターなのであろう。そうでなければ若い女性が、エビちゃんを選択するわけが無いのである。
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弛緩する

2006-05-28 | 雑記

 法人の理事会も無事に終わり、精神的にずいぶん楽になった。先の予定はまだまだいろいろと詰まっているけれど、自分の受け持ちの最大の山は、とりあえず越したという感じである。行政監査が先に控えているにせよ、それはそれである。企業であれば株主総会を終えた後のようなものではないか。まあ、そこまで大きな事業体ではないけれど、少なくとも区切りという感じではある。もちろん、これからもある程度は気を引き締めていかねばならないが、そんなことは当たり前なのでどうでもいい。

 株主総会といえば、なあなあですませるほうがファシズムではないかということを日垣隆が言っていたような気がする。僕のファシズムとジャーナリズムの感覚は違うのだろうか。しかしながらファシズムと戦うという感覚は難しい。中島義道を小谷野敦が批判しているが、潔癖なのではないか。誰でも恣意的に話は作る。程度ということはあるにせよ、面白いという程度なんだから、仲間割れはよくない。

 理事会の前の日に市のPTA総会に参加する。総会と懇親会の前の時間に到着したが、準備する待機時間にもうもうと煙が立ち上がる。教育界に関心のある、または、参加できる保護者層の喫煙率は相当高いと見た。もちろん僕は彼らや彼女らの応援サイドなので、すばらしいと思った次第。こういう悪癖が文化として残ることが、教育界で重要だとつくづく思う。

 映画を観る。後で記録しようと思うが、「ドッグヴィル」という作品だ。この監督は、たぶん、精神に何か問題があるのではないか。もしくは、悪魔ではないか。

 ともあれ、少し弛緩した感じだ。疲れているが、酒も特に必要ない(実際はどうだか)。
 ひところ山を越えると逆にそういう感じになるような気がする。考えていることの整理もしたい。僕の考えを発信するより聞き入れるほうが重要だという気もするのだけれど、それはそれだ。日本人は重要なこと以外に気を使いすぎる気がする。僕はもちろん強要されてそのような習慣を享受(皮肉です)しなければならない時間をすごしてきた。反乱の時は今であるかな、なんて思っている。たいしたことはしないけれど、僕は教育者ではない。そこのところ、何とかしてほしいと思っている方には、申し訳ないが僕は聞き入れない。あなた方はファシズムだと失礼ながら僕は感じている。今から、逆襲を開始するのは僕のほうなのである。
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ギャンブル宣言

2006-05-27 | 雑記

 人生はギャンブルのようなものだ、といわれる。誰が言ったかは覚えていない。そういうものかもしれないとは、一応同意する。思い起こすと、そんなようなこともあったように思う。選択することをいちいちギャンブルと考えると、一日のうち、いろんなギャンブルをしているようなものだ。
 しかしながら、実際にお金をかけたギャンブルというものはほとんどやらない。つれあいや子供とは、時々先の予測でアイスクリームなどを賭けるが、大抵負けている。もともと勝負運は悪いと思う。絶対勝つという精神力に乏しい。
 実は賭け事は好きなのだろうと思う。高校生の頃には既にボート場に行っていた。当時バイトしていた先の先輩に物凄く詳しい人がいて、その人の勧める以外の船券を買うと勝つようであった。詳しい人は大穴を狙うので、そういうことになる。
 パチンコも閉店まで粘るタイプだった。その前に帰らなければならないときは、大抵破産している。当時はチンピラに知り合いがいて、イカサマ八百長で結構稼いだりしていた。あるパチンコ店の店員から呼び出され、「君の事はマークしているよ」と脅されて、素直に足を洗った。チンピラとの付き合いも煩わしかったし、引き際だと観念した。なにより、悪いと思っていたのだろう。
 ある大会に参加するために出張していて、都合で時間が空いた。一緒にいた人たちとパチンコ店に繰り出すことになった。久しぶりに玉をはじいて、あっという間に三千円すってしまった。計っていないが、十分にも満たなかったのではないだろうか。文庫本なら五六百円で三四時間つぶせる。そう思って以後足を向けない。臆病なのだろう。
 そういうわけで、日常は賭け事をやらないが、ギャンブルのようなものだ、ということに何故同意できるか。
 先のことは不確実だと思うからだろう。確実なことは、いづれ寿命が来るということぐらいで、そのいづれであっても不確実に思える。もっと極端なことをいうと、努力は報われるということでさえ、疑わしく思うような年になった。だから努力はしないということではない。勝つためでなく、面白いからやるようにした方がいいと思っている。勝つのがなにより面白いという理屈もあろうが、そういうことに疲れてしまった。
 負けることに寛容になるのかもしれない。阪神が強くなったのは真に良いことだが、なんとなく寂しいような気もする。弱い頃の巨人ファンはすぐに関心をなくすようにも感じる。そういう感じが、僕にはどうもなじめない。
勝っているときは何も考えなくていい。負けているといろいろ考える。たぶん、そういうことの方が面白いのではないか。失敗も勉強などという。最近、そういうことだろうと思うようになった。負け癖がつくのもよくないが、程よい負けず嫌いで、寛容であるというのが理想だ。最近の負けず嫌いは、まわりに当り散らしている言い訳に使われることが多いようで気になる。そういうのは論外で、美学に反する。
さりげなくギャンブル的な毎日。そういう具合にいってみよう。金ちゃん的にアクセントをふむとずっこけるので、小声で決意することにしよう。
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正座する

2006-05-26 | 雑記
 父は自分の葬儀には椅子に座るようにしろと生前言っていた。本当は葬式なんてする必要もないが、残ったものはそうもいかんだろう。せめて参列する人には窮屈なつらいことはしないで欲しい。ということらしい。過去に相当懲りた経験があるのだろう。実際の葬儀では会場の都合で椅子になり、遺言(というと大げさだが)は果たすことができた。遺骨は飛行機で世界中にばら撒けと言っていたが、そのことは忘れることにした。
 さて、お札のお払いに昊天宮に行ったわけだが、久しぶりに正座して真に苦しい思いをした。前に座っておられるI野理事長方に遠慮して、できるだけ辛抱していたのだが、痛みはあるが、感覚がない(よく考えると、矛盾した表現だ)という状態まで至ってしまった。玉串奉奠の役がないので救われたが、もし順番がまわってきても役目を果たすことはできなかったであろう。
Tきちゃんは審議前の事業に備えて辛抱していたというが、そういう事業なら妨害したい心境だ。
お隣のK又副理事長は、一度くずしたが、又正座しなおす根性を見せた。俺もしぶしぶ終わりを見計らって正座しなおすお人よしだ。今思い起こしてもつらい。来年は違う部会の担当をしたいものである。結局資金だったりすると困るけれど…。
しかし、お払い自体は浦安の舞なども見られて、結構面白いですよ。僕は仏教のお経は呪文として疑問を感じるが(本来は説法だろう。わからなければ意味がない)、神社の祝詞はユーモラスで好きである。よくわからんことも多いが、頭の上に曇っている災いがはらわれているというイメージは、なかなか気分もよろしく、面白い発想だと思う。
しかしながら、正座のことだけを思うと、昔の人は偉かったなあとしみじみ思う。こういう拷問の中に、日本人の教育があったのかもしれない。
僕も父に習って自分の葬儀では正座を禁止する。誰か覚えておいて実行してくださると安心して死ねる。
いいわけだが、僕は交通事故の影響で正座をすると左足の状態がしばらく悪くなる。歩いていると電気信号が膝の内側を走る。そんなに痛いものではないが、不快である。正座は、現代人には負担が大きい。まあ、習慣なので禁止する必要はないが、自宅で葬儀という連絡を聞くと、それだけで憂鬱だ。ご家族もお気の毒だ。
つれあいには正座のし過ぎでくるぶしに正座ダコ(というのかな)がある。それぐらいだから、正座は特に苦にはならないらしい。ところが正座をしていると、足を崩してくださいといわれる。言うことを聞いて崩すと、足がしびれて困るのだそうだ。人の悩みは、かのように多様で不可解なのである。
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フォーガットン/ジョセフ・ルーベン監督

2006-05-25 | 映画
不条理と女の情念(執念)

 この映画は巷間では非常に評判が悪かった。しかし実際に見てみると、実はそんなに悪い出来ではない。サスペンスも緊迫感があるし、ぶっ飛びシーンには正直驚いた。ただ、しかし、みる人を怒らせるのも無理ないかと感じることも確かだ。いまさらネタバレがどうだと気にする必要もないのかもしれないが、こういう結末に至る収束では、観客は満足できないのであろう。不条理なんてわけがわからないから不条理なのであって、もっと観客を突き放してしまうとカルトファンもついたであろうが、良心的な偽善経営者が、そういう結末は望まなかったのではあるまいか。最後まで見るぶんには頭にくる映画ではあるが、途中までは緊迫感のある、むしろ面白いサスペンスに仕上がっているので、適当なところで中断してしまうと評価が上がるかもしれない。見るほうの判断でそんなことはできないだろうから、上映中にのっぴきならない事故でも起こして、中断させる方法を考えてはどうだろうか。後で金を返せといわれるかもしれないから、しらばっくれるタフさも必要だけれど…。
 こういう結末をみせられると、自分ならどうしたろうかと考えてみる。ハリウッド映画なのだから、相手を完膚なきまでに叩き潰す方法が一般的だろう。どう考えてもこちらには分がないので、秘密対抗組織と協力して戦えば…、そりゃマトリックスになっちゃうな。相手に意外な欠点があって、ひょんなことから自滅崩壊するとか…、そりゃ宇宙戦争じゃん。と、いう訳で、この映画の方が、実は結構意外な結末なのだ。意外な結末といいながら、知らず知らず予定調和を図ってしまう心理というものはないのだろうか。
いや、シックス・センスはあくまで意外だったよ、という意見もあろう。しかしながら、ああいうどんでん返しは、反則といえば反則である。似たような映画が量産されたが、だから他の映画は皆感じが悪かった。そういうやったもん勝ちのアイデアは、そうそうできるものではないのだろう。
実はフォーガットンでさえ、先行したある映画の、似たような設定の焼き増しではある。また、SFの世界では、むしろありふれた設定なのかもしれない。映像や展開もなかなかだったからこそ、失望が大きかった。もう少し出来が悪ければ、あるいは救われたかもしれないという、実に変な立場におかれた作品といっていいのではないか。
もちろん、僕はそれなりにこの映画が面白いと思う。いや、面白くない映画にも教訓は隠されている、と思う。そう思わなければやってられない。これだけ訳のわからない女の情念というものは恐ろしいけれど、ありそうだから面白い。実際にこういうことが行われても、本当にこういうことができてしまうのは、たぶん女だろう。夫のことはあっさり諦めても、子供のことは忘れはしない。ひょっとすると、そうかもしれない、などと考えてしまったのであった。
しかし、男性の多くはそんなことは気づいていないし、女性の多くは、そういうことは認めそうもない。やっぱり理解する人のほうが少数派にならざるをえないかもしれない。
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前向きにいこう

2006-05-24 | 音楽
 パールジャムとレッチリがある種の喪失感でアメリカの気分を代弁している時に、天気の状態が思わしくない日々が続いた。いささか気分も重たい感じだ。久しぶりに新譜を聞けるという喜びもあるのだが、重苦しく気分が乗らない感じなのだ。僕の気分とは裏腹に、両バンドともお互いに曲調はなんとなく吹っ切れている。完全なる原点回帰ではなかろうが、昔っぽい空気は伝わってくる。もうすぐ夏が来るのだろう。
パールジャムはともかく、レッチリは夏の方がいい。フリーも少しばかり楽しんで演奏している感じもする。よく聞くと冒険的な曲もあるようだ。僕はある程度は新しいもの好きの傾向があり、金太郎飴より好感が持てる。それにしてもフルシアンテは、昨年から大量に曲を書いて演奏しているわけで、自分でつくっているとはいえ混乱しないのだろうか。昔と比べたらギチギチではないし、応用が利くのかもしれない。
パールジャムはおおむね本当に期待どおりだろう。メディアも安心して歓迎しているように見える。巨大組織と戦い、政治と相克し、事故で複雑な対場に追い込まれた数年だった。そういうことがよいことか悪いことかはよくわからないが、本当に一皮剥けたようだと思われる。多少疲れちゃったよ、という正直なところもあるのだろうが、表現者としてはそれぐらいのほうがいいこともあるのだろう。巨大な塊が強引に進んでいく感じは、グランジの王道をいって気分がいい。僕はライブは好きではないが(ずっと立つのが嫌だし、暑い)ライブのビデオなら見てみたい気がする。まあ、いづれは出るだろう。

 取材旅行で飛行機に乗っているときにズートンズの新曲も聴くことができた。帰ってから急にラジオでズートンズがかかっていることに気づく。なんとなく安っぽく聞こえるが、実に上手い構成力だ。それになんといっても元気になる。
こういう七十年代最初の頃に英国で盛んに歌われていた空気というものが現代に戻ってくると、時代に共通性があるものか気になるところだ。実際のところは新しいという感覚で若い人が受け入れているのだろうけれど、僕のような世代にはずいぶん懐かしい。しかしながら本当のところ、当時の僕は幼かったので、その時代の英国のことはよく知らない。
ポンキッキでビートルズ程度は聞いていたが、キンクスは兄貴のレコードからしか聞けなかった。中学生になって大阪の中古レコードで買いあさった経験があるので、その頃も既に古典だったのだろう。レイ・デイビスは例えは適当でないだろうが、郷ひろみのように何度も復活するアイドルだったが、年を重ねるごとにうるさくなっていった。そのうるさくなる前の状態に近い感じがする。日本だと、松田聖子の登場前である。さて、そんなことはどうでもいいかもしれないが、似てないでしょうか。比べようがないな、やっぱり。
好きなんだけど、若い世代がこしゃくに上手いというのは癪にさわるところもあるのは確かだ。しかし、実際下手に昔と比べるとレベルが随分高くなっているように感じるのは僕だけだろうか。前座バンドが終わったら客がサーッと帰ってしまうような、一抹の寂しさを覚えるが、この恐怖感を心配するほど、僕は枯れてしまったのだろう。それでも気を取り直してやってみっか、という風に昔なら考えただろうに、いかんいかんと気を引き締めるというか、気をだらけさせることも大切だと、思う次第である。
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愛しき東北弁

2006-05-22 | ことば
 長岡安平の手がけた公園や庭園を取材するために東北に行っていた。詳細はタカトシ記に譲るが、アカデミックな内容と、同行しているメンバーの多彩さで、ハードでヘビーな時間を過ごし、大変に疲れた。

 ふざけて東北弁をつかって遊んでいたのだが、帰ってきてもその癖が抜けない。キーボードにも、つい「ヌゲネ」と打ってしまったりする。
そういえば、関西などにいったりすると、そういう現象に悩まされる。現地では普通に話していたのに、こちらに帰ってきてから他人の会話にいちいち「何ゆうとンねん」などと突っ込みを入れたくなるものだ。言葉の文化的影響力は、大きいと見た。
それにしても案内をしてくれた人たちは、比較的男前の人が多かったのだが、彼らの言葉のイントネーションが妙にミスマッチで、真剣にお話を聞きながら、心の中で笑いをこらえるのがつらかった。同じように九州の方言も、あちらの人にはユーモラスに聞こえるものなのだろうか。
僕が中国語を勉強していた当初は、中国語の発音が珍妙に聞こえてならなかったが、ある日突然、イントネーションがかっこよく聞こえるように感じられるようになった。それからは比較的楽に言葉を覚えられるようになった経験がある。残念ながら、言葉自体は大抵忘れてしまったけれど、言葉というのはそういうものじゃなかろうか。
しかしながら、九州の言い回しがかっこいいかというとそうでもないので、勘違いかもしれない。少なくとも女と会話する時は、標準語を使うとかっこ悪い感じがあるが、気恥ずかしいということなのだろう。
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レベルの低い私

2006-05-18 | 雑記
 雨が降ると散歩に出られず不満だ。だが空を見て、ちょっと止んだ隙に外に出てみる。ぽつぽつ雨に当たって、ボツボツ歩くが気分が乗らない。やっぱり止めた、と帰ってくる。
計画がその通り達成できないとつらい。軽い神経症だろうかとも思う。気分なんてケミカルな問題だと思うこともある。酒の依存症は、そういうことだろう。

 娯楽室の前を通ると、S伯君がテレビを見ている。なんかのレポートものだろうか。その番組で、ローリング族を紹介している。そして、検挙された一人にインタビューしている。
「どうしてローリングして走るんですか」
「スリルがあるからじゃないですかね」
「ローリングするとスリルがあるんですか」「はい」
「じゃ、車の音で眠れない人に対しては、どう考えてるんですか」
これってただの嫌がらせである。テレビってゲスなメディアだな、と思う。仕事にブライドはないのだろうか。

 A生君が退院して理事会に代理出席してくる。眼の病気で大変そうだ。彼は高校時代の後輩で、部活も一時一緒だった。当時はかわいらしい顔をしていたが、今はおっさんになってしまった。だから再会してもちっとも気づかなかった。
 まじめに理事会に参加している姿を見て、なんとなく切ない気持ちになる。僕はなんとなく遠くに来てしまったような気がしてきた。I野理事長が委員長の時に、僕は入会し、代理出席で初めて理事会に出席した。報告事項さえロクにできなかった。協議事項で答弁をしたはずだが、結局担当副理事長が全部解説する始末だった。ボロクソになって恐縮していた。こんなところにどうしているんだろう、なんて考えていたと思う。
 A生君は、確かに勝手はよく飲み込めていないようだけれど、それなりに立派なのではないか。入会した年齢の差もあろうが、僕以外の人は偉いものだなあ、と思う。

 きらくやで上がり。食い物を頼みすぎで、結構残っている。こうなると貧乏性がでて、バクバク食ってしまう。ハッと我に返るが、やはり食ってしまったようである。昼食はカレーだったにもかかわらず、遠慮して少しだけ食った。意識の歯止めは、夜には効かない。
 代行運転の人は見覚えあるが、家を間違えそうになる。そういえば思い出した。この人は前回も間違えた人だよ。
進歩のない人は僕以外にもいる。なんとなく安心してしまう僕のレベルは低いと思う。
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許容のない私

2006-05-17 | ことば
 夜は神事部会。行政のかかわっている会場なので宗教関係はNGということで、会場表記は「しんじ」部会とひらがな表記である。言いたかないけど、バカですね。そしてその無知さ加減に悲しくなってくる。
地方行政はどう考えているか知らないが、中央官僚のドン達を仕切っている大臣という役職は神に仕えているからという由来が強い。だから共産主義である中国には大臣はいないのだが、翻訳の都合で首相がいたりする。まあ、誤訳なんだけど、定着したのでわからなくなっただけだ。
日本は理屈の上では民主国家だけど、実際の制度は天皇を中心とした非民主国家である名残を継承しているわけだ。いや、それでいいんですよ。由来はそうだったんだね、面白いね、さっちゃん、と思えばいいことだ。ちなみに西洋諸国も宗教と政治が分離されている国はまれだ。意識下にないだけで、近代新興宗教思想の下、国家というものは形作られているわけだ。
かなり脱線したが、「しんじ」と書くことで、満足する程度だから民意が低いのだ。大丈夫、神という漢字を使ったら宗教団体と認識する方がバカなんだから。むしろ「しんじ」表記が自分の馬鹿さ加減を堂々と主張しているところが恥ずかしいのである。本当はまっとうな市民でない人たちは使ってくれるなということなんだろうか。権力で嫌がらせするのは止めてもらいたいものだ。
というか、こういう言葉の書き換え意識は、自主規制の暴走なんだろうな。あいまい社会日本で、ちょっと厳密に考え出すと、暴走する傾向があるようだ。だからあいまいはイケナイ、と勘違いして短絡化する悪循環が起こりやすい環境になっているのかもしれない。僕の反応がそういう助長になるのなら、やっぱり無視するのが健全なんだろうか。
いや、やっぱり公共機関だから、特にこの自主規制が行き過ぎるのではないか。構造改革は道半ばだな…。

会議のほうは毎年のように妨害紛糾が入って、嫌な感じ。これでいいとは思えないが、面白くないことにはかわりがない。ま、仕方ないか。別のことを考えよう。

膳で上がり。生ビールが100円の所為か、もともとなのか、繁盛している。
牛蒡サラダは乾燥が保たれるともう少し旨いのではないか。スパゲティはのびていないほうが美味しいと思う。
焼酎はお湯割を頼んだけれど、水割りが来た。ここで問題だけど、あなたならどうしますか? 
僕は学生時代長く接客のバイトをしていた。こうした間違いに結構厳しく怒られたものである。一般的な対応はどうなのか知らないが、最近はひどく怒る人が増えた気がする。勿論怒ってもいい状況なのだろうが、だから堂々と怒るというのはなんとなく抵抗がある。いやね、注文したものに金を払うのだから、違うものがきたら正当に料金を支払うために訂正をするのは筋ですよ。でも、やっぱり頭にくる権利の行使のような気がして、怒る態度に躊躇してしまうのかもしれない。
僕は二杯目からはお湯割りにしてもらったが、流石に汗をかいた。季節はシフトしているのかもしれない。許容の問題は、本当は重要じゃないのかもしれないな。そうであるなら、やっぱり忘れることにしよう。
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チャーリーとチョコレート工場

2006-05-17 | 映画
親の影響を受けた幸福
チャーリーとチョコレート工場/ティム・バートン監督
 正直に言ってチョコレートはそんなに好きではないが、お菓子の王道であるという感じはする。子供がチョコレートに惹かれる心情も今となっては忘れてしまったが、ありうる現実なのだろう。
 さて、子供向けファンタジーなので大人が面白くないかというと、監督はティム・バートンである。下手をすると子供さえ面白くないと感じる可能性もある。僕としてはそれなりに感心はしたものの、特に興奮せずに観ることができた。さて、子供のほうはどうなのかというと、なんと息子達は結構喜んで観ていた。居間が笑い声に包まれて映画を鑑賞することはきわめて珍しい。ひょっとするとまっとうなファミリー映画なのかもしれない。
 お話自体は虐待ものである。というと、語弊はあるかもしれないが、実は正直に言っている。いけ好かない子供達を虐待して楽しむということをするために、バートン監督はこの話を選んだのだろうと僕は思う。そうでもしなければ、ハリウッドでまっとうな配給に乗せられない。結構知能犯なのであるな、と感心した。差別的な表現も満載だが、ファンタジーならOKなのだろう。勿論僕自身はファンタジーでなくともOKなのだが、なんとなくツボを外した感じがゆるくてよかったと思う。いや、繰り返しになるが、子供は喜んでいたので、永遠の少年監督は、やはり只者ではないのだろう。脱帽である。
 さて、本当のテーマは親子の和解なのだが、父親は出てくるが母親の影が薄い。まあ、大抵の親子の確執は父子と相場が決まっているらしい。厳格な父親は歯医者という立場もあって、ウォンカ氏から甘い食べ物を禁止してしまう。確かに不幸なことではあったが、子供は親を選ぶわけにはいかない。勿論親だって子供を選んで産んだ訳ではないのだからお互い様である。しかしながら親の教育方針の犠牲になる子供のことを思うと、一時的な不幸の原因の一部は親にあることがわかる。そうではあるけれど、そのために子供が絶対的な不幸になるしかないのかというと、そうとは限らない。むしろそのおかげで天才ウォンカ氏の本領も発揮されているようにも思われるのだから、父親の方針が大変によかったようにも思われる。親はなくとも子は育つわけだから、親があって影響を受けて育ったウォンカ氏は、不幸なようで幸福なのだ。
 最後までチョコレートやお菓子が美味しそうに感じられることはなかったが、工場で働くリスだけは、近所にいると楽しそうな気がした。勿論頭を叩かれないように注意しなくてはならないけれど…。
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なんかの塊の噴出、反復

2006-05-16 | 雑記
 天気の具合が悪く降ったり止んだり。鼻かぜを引いたらしくティッシュペーパーを大量に消費する。僕は鼻炎もあるようなので、ティッシュのハードユーザーである。箱ティッシュ、ポケットティッシュなどを、さまざま場所に予備で配置して生活している。車や鞄や机など。
ゴミ箱はティッシュのものと書類などのものと分けるようにしている。ティッシュだけなら大量に入るが、普通の紙が混ざると効率が悪いのである。妙なところは神経質で自分でも不思議だ。

 夜は会議二本。夏越と活き活き。
一つ目は代理出席のつもりじゃなかったけれど、代理出席で発言の機会もあった。デリケートなご意見も聞かれ、もう少し公的でない方がいいのかもとも感じる。感覚的に客観公平は、意外に信用できない。祭に協賛するという歴史的かかわりは、表面的なもので判断するわけにも行かないのかもしれない。しかしながら、それこそ表面的要望は、つまるところ単純化だ。時間をかけても、理解できるのは一部であろう。方法論が違えば、出来上がるものは恐らく違う。それが変遷なら仕方がないか…。僕はそろそろ石を次に移したい。
 会議を跳ねて、新婚K村直前の帰宅宣言で散会となる。実は晩飯はあらかじめキャンセルしていたので、「もう寝るところ」というつれあいに支度してもらう。
風呂上りに食事して、ほろ酔いで近況を話していると、つれあいが返事をしなくなる。「いいたくないけど、それは既に何回も聞いた話」なんだそうだ。
誰かの話をしていると決まって展開するパターンもありそうだという。この人の話から、こういう話を経て、結局どういうことになってしまう、というパターンの形勢が見られるそうだ。恐らくキーワードが隠されており、そのキーワードを口にすると、スイッチが入り、固まった話の展開となるのではないか。そんなことを考えて、それが老化というものだろうか、などと反省する。
年寄りの話は聞きたくないと思っていたが、今や我が身がそうなっている。反省してもどうせ忘れる。だから繰り返してしまうのだろう。反省するのは若者の特権。暴走は老人の特権のようだ。
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わんぱく相撲と遠のく意識

2006-05-15 | 雑記
 サッカーの翌日はわんぱく相撲大会。前日は設営のお手伝いができずに申し訳なかった。早朝にもかかわらず、結構既にメンバーが集まっている。たいした設営も残っておらず、順調確実にことは運ばれているように見えた。
 僕の役割は土俵まわりでの子供の出場順番確認。試合である一番をとるのに、ほとんど1分もかからない。ぞろぞろざわざわしているので、こちらもこんがらがってくる。東か西か。簡単なようで難しい。
 一回戦で残念ながら簡単に負けてしまう子がたくさんいる。エントリー後に期待と不安の日々を送り、当日まわしをつけて裸一貫で勝負する。半日で二百番近い取り組みがあったわけだが、その一番の重さは決して軽いものではない。勝負は一瞬でも、勝負を含めた前後の時間には、はかりしれないドラマが隠されていると思う。何気ない出来事にも、僕らに知れないでいるだけで物凄いことが隠れているのではないか。そういうことは、やはり尊いことではないかと感じた。

 閉会式後、地元の寓話を基にした人形劇や、少し怪しい地域の歴史のお話も聞く。いろんな一所懸命があるんだな。郷土愛というのは、うまくいえないが、あんがい表しにくい概念ではないか。愛国心が表しにくいはずだよな、と考えてしまった。まあ、愛国心なんていう言葉のセンスじゃ、たぶん駄目なんだろうけど…。

 片付けを終えてしばらくしてあがりの会があるという。考えてみると忙しくて飯も食う暇がなかった。家に帰るとカップ麺がある。カレー味なので服を脱いで食えという。なるほど、そんなことは考えたこともなかった。
 なんだか久しぶりに自宅の風呂に入って、ここのところ頻繁に通うシルクハットへ。
Y介委員長とK又副理事長を始めとするメンバーの慰労は和やかに行われた。酒が入るといろんな話しが聞けて、やはり面白い。それぞれの複雑さを抱えたまま、ある意味ではいろんなものを犠牲にして物事をやり抜く。そこに理屈を超えた何ものにも変えがたい価値が生まれる。
それにしてもみんな疲れていた。二次会三次会と流れて、母の日に妹が帰ってきていると電話を受け失礼した。考えてみるとやはりヤクザなものかもしれない。帰ってさらに焼酎のお湯割を飲んでいると、意識を保つことはできなかった。
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