カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

マッチョは罪なのかもしれない   パワー・オブ・ザ・ドッグ

2022-03-31 | 映画

パワー・オブ・ザ・ドッグ/ジェーン・カンピオン監督

 牧場を経営している兄弟とカウボーイたちが、牛を売るために町までやってきて、あるレストランに入る。そこは未亡人とその息子(従業員もいるが)が切り盛りしていて、なかなかにいい感じの店なのだが、マッチョで粗野な男たちにはいささか気どり過ぎたものがあり、そのリーダーのフィルはせっかくの手作りの造花の花に火をつけて煙草を点けるなど、店のサービスを踏みにじり侮辱する。しかし同行していた弟のジョージは、未亡人のローズに恋心を抱き、これがきっかけで結婚してしまうのだった。
 連れ子のピーターは男としてはなよっとした感じで、明らかにゲイっぽい雰囲気を漂わせている。当時の時代背景もあるのか、カウボーイたちにとっては、ちょっと許せない男で侮蔑の対象になっていた。しかし、牧場生活になじめない母を支える存在でもあり、いわば耐え忍び、将来は医者になる勉強をしながら生活を送っているという感じだろうか。
 一方マッチョのカウボーイの真のリーダーであるフィルには秘密があり、実はゲイであることを隠しているのだった。彼は男らしい世界の中で、屈折したものの見方をする偏狭な価値観にとらわれている人間だった。実は大学出のインテリで、音楽にも通じてバンジョーの腕もある。馬に乗ることももちろんだが、カウボーイとしての道具の扱いにも通じており、風呂に入らないなど妙な男らしさの信念があるものの、この世界の男らしさの象徴でもある。しかしゲイであることは知られてはならず、弟の妻になったローズも嫌いだし、そもそも女性嫌悪があるようなのである。そういう中、連れ子のピーターは、ちょっとしたきっかけでフィルがゲイであることを知るのだった……。
 ものすごく評判のいい映画で、なおかつnetflixで観られることもあって、鑑賞できた。まあ、ジェーン・カンピオンの映画だな、ということは言えて、こういうのが批評家ウケする現代作品なんだな、という感じである。性的問題を現代的な正しさで観た場合に、このように料理すると素晴らしい、ということなのであろう。後半ちょっと分かりにくいところはあるが、ミステリとしてもどんでん返しはあって、まったくの芸術だけの作品でなく、娯楽作としても成り立っているということだろう。
 でもまあ、そうはいっても終始嫌な感じは付きまとうし、楽しい映画ではない。演技合戦はいいのかもしれないけど、あえて謎めいた説明を省きすぎているので、よく分からんものは分からんのである。とりあえず褒めておくにはいいというだけのことで、本当の傑作なのではないだろう。世の中には観るべき映画はたくさんある。けれど、結構つまらないものを観てしまうのは避けられない。その中間くらいの映画かな、という感じであろう。
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女抜きは悲しいか?

2022-03-30 | ことば

 映画「ドライブ・マイ・カー」が賞を取ったからだと思うが、原作と言われている村上春樹の「女のいない男たち」を引っ張り出して、読み返したりしている。これには前書きがあり、この表題で多くの人がヘミングウェイの「男だけの世界」を思い出すだろう、と言っている。原題が「Men Without Women」だから。高見浩の訳の方が日本語の語感として捻られていて、村上のものはあえて引っかかる直訳である。村上も「女抜きの男たち」の方が原題に近い、とも書いている。単純だけど、翻訳ってやっぱり面白い。それに、ドライブ・マイ・カーなのに運転手が主人公の車を運転している話なんだから、これもなんとなく変な感じもする訳だ。いつか映画も見なくちゃな。
 ということで、本文の内容も、今読み返して感じることは、やっぱりヘミングウェイっぽいということだ。これは「男だけの世界」を村上作品として作り上げた世界なのかもしれない。そういうのなんて言うんだっけ? モチーフにするとかインスパイアするとか。まあ、無理にそんな風に言う必要は無いか……。
 同じく「バーニング」(韓国映画)という名で映画化された「納屋を焼く」だが、納屋のことはbarnだから「Burn the barn」というような洒落なのだ、と小谷野敦が書いていて、そうだったのか、と改めて気づいた。小説では納屋を焼いたり、映画ではビニールハウスを焼くことが、なんとなく重要だが、しかし、実態としては、そんなに重要なのかよく分からない。洒落だったのなら仕方がないのかもしれない。
 ノルウェイの森も映画化されたが、これには何もないか、と思ってはいけない。これは実は前にも書いたのだが、大有りである。原題の Norweigian wood というのは、直訳すると「ノルウェイの木」とするのが普通だろう。それにビートルズの歌詞をちゃんと読むと、これはノルウェイの家具のことである。ノルウェイの家具の置いてある女の子の家で遅くまで飲んで話をしたのにもかかわらず、結局やらせてもらえず風呂(水の入っていない)の中で寝て、起きてみると彼女は既にいなくて、頭にきて火をつけた、という物騒な歌詞だ。メロディは美しいのに恐ろしい(というか変ですね)。
 もっともこれは、村上訳がノルウェイの森を採用しているだけで(というか訳している話ですらなく、借用しているだけだけど)、昔から日本ではノルウェイの森である。英語を勉強していてビートルズも聞いている村上少年としたら、あれっ、この邦題ちょっと違うんじゃないか、という違和感を抱いたのではなかろうか(勝手な想像だが)。そうしてそういう違和感を抱えながら大人になり、長編小説を書いた。そうしてそれは大ヒットして、おそらくノルウェイの森は、再度英語に翻訳されたことだろう(結局はNorweigian woodとして)。村上作品は、作品自体もだけど、そういうところが連鎖的に面白くなってしまうのが、なんとも言えないところかもしれない。
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ほとんど漫画の痛快作   ANNAアナ

2022-03-29 | 映画

ANNAアナ/リュック・ベッソン監督

 旧ソ連で麻薬に溺れてどん底の生活をしていたアナだったが、どういう訳か才能を見込まれて鍛えられ、パリでモデルとして活躍するかたわら、スパイ活動を行い、暗殺者として活躍する。しかしながら敵のCIAも黙ってなくて、行きがかり上二重スパイでKGBの上官を殺すように仕組まれていくのだったが……。
 筋書きも一応そういう感じであるにはあるが、ほとんど激しいアクションの応酬を楽しむ映画なのだろうと思う。ロシア系の美女が、おそらくあんまりスタントマンを使わないままに激しいアクションを繰り広げていく。ほとんど漫画なのだが、強靭な男たちを虫けらのように殺しまくるのを、これでもか! というくらい見せつけられる。この監督さんはこれで有名になった人気ものだが、何の衒いもなく、そのまま得意分野を映像化したという開き直りさえ感じさせられる。ほとんどスプラッター・ホラー映画みたいなんだけれど、観ているものは痛快に身を任せて楽しめばいい作品である。
 一応悲惨な境遇から実力をもって這い上がるサクセス・ストーリーにもなっていて、ほとんど不可能なミッションを、それなりに苦労しながらも達成していく。しかし難題は続いて、ちょっと絶望的にもなりかける。それでもものすごい力を発揮して、東西に彼氏を作りセックスしまくり、彼女だかもいて、忙しい。そうしてそのすべてが過剰に激しい。リアリティのかけらもないのだが、畳みかける過剰な凄さがあって、やっぱり圧倒される感じもするだろう。こんなの今時いくら何でも常識的にやらないんじゃないか、と思えるような無茶さ加減であって、ところどころ笑ってしまいそうになるのだが、しかしやはりやっている方は真剣な様子でもあり、正気に戻らざるを得ない。余分なことを考えても仕方ないので、この面白さにのめり込むよりないようだ。
 過剰だけれど、出てくる人物設定は明確で分かりやすく、何を考えているのか手に取るように理解できる。そのうえでの駆け引きがあって、利用したり裏切ったりする。その理由もよく分かる。これだけ分かりやすいのに、謎解きもどんでん返しも、それなりに驚かされてもしまう。やっぱり娯楽作品は、こうでなくちゃということなんだろう。そうしてこの女優さんは、おそらくだがスターになるのだろう。まさに出来すぎである。
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困難な時代に入ったからこそもっと正確に

2022-03-28 | 時事

 会う人と少し話を続けると必ず出る話題が、完全にコロナからウクライナ問題へ変換した。僕もブログで取り上げてもいるし、そうして読んでくれている人からも言われることは、その後僕がどのようにこの問題を考えているのか、という事でもあるようだ。確かに二度ばかり取り上げて、その後はちょっとだけだが、書いていない。僕のブログは、ほとんど15日程度前に書いたものが多いのだが、時事問題だけは、たまに二三日くらいであいだにはさむこともある。だが、皆さんもご存じのように、いつの間にか一ヵ月になろうとするこの問題において、いわゆる明るい展望を開ける予想はたてづらく、僕が書くべきと思われるものもそんなにない気もしていた。ちょっと書きたくないようなことしか思い浮かばないし、調べても材料がだんだんと悪くなっている。僕はNHK以外にはテレビのニュースは見ないし、情報は新聞とネットしかないので普通の人より少ないことは間違いないが、しかし出会う人の話から聞くことによる情報の多くは、ミスリードが多い印象も強く受けている。日本のマスコミだから偏っていることは間違いないし、それを真に受けている人が多いのでさらに仕方ない事なんだが、聞いていて残念に思うことも多い。だからと言ってどこまで真実と考えていいのかを、そしてだからと言って言うべきことがあるのかという事も考えると、口が重たくならざるを得ない。ウクライナとかロシヤというのは、改めてそういう問題なのである。
 一番いいのはウクライナがロシヤに曲がりなりにも勝つことである。そういうと、「なんだ?」という反応をする人が多いが、NATOとか米国とか、いわゆる西側人間の思いは、実際はそうではなかったのだろうか? 
 プーチンを暗殺する方法があるはずだ、という人もいる。それはゴルゴ13の見過ぎではないかと僕は思う。他力本願というか。実際に画策しているとは考えられるけれど、どれほど実行可能性があるのか、というのは、やはりわかりえない問題だ。
 長期戦については、両方の見方がある。最終的にはプーチンは間違っていたのだから、いづれにせよ失脚し、ロシヤも崩壊する。まあ、願望でしょうね。そういってみたい気持ちは痛いほどわかるけど。
 逆にわざとロシヤは時間をかけてじわじわやっている、というのもある。時間がかかって困るのはドイツを含めて西側の方だ、ということだ。そういう見方の担保は必要だが、しかし両方困るのであって、もう少し天秤のかけ方の重量の違いを図る必要がある。
 国民が困ると困る国と、国民が困るけど困らない国がある。そもそも同じ価値観でさえない。今回改めて感じたのは、民主主義というのは、一定の地位にある人間にとって、生死を分けても厄介だという事なのかもしれない。付き合わされる我々大衆は迷惑だが、そういう平和を享受する間の時間に生きていただけの存在なのかもしれない。平和というのは、戦争と戦争との間の時間帯のことを言う、という人間の歴史を、今は体現しているということなのかもしれない。
 今は比較的地政学的に遠い場所の話のように思える日本人は多いと思う。戒めを言いたいわけではないが、それは多分間違いである。だから僕らは関心を寄せているわけであり、正確なことを知りたい。僕らが考えるべきことは、その正確な捉え方による行動倫理のようなことなのではないか。
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消したくなるのは失敗だけではない   デリートヒストリー スマホの履歴を消去せよ!

2022-03-27 | 映画

デリートヒストリー スマホの履歴を消去せよ!/ブノワ・ドゥレピーヌ&ギュスタブ・ケルヴェン監督

 ネットやスマホにはまっている関係で、さまざまなトラブルに巻き込まれた三人が、大元の原因から打開すべく、奔走する物語。ネットにはまるあまり、通販で買い物しすぎて借金だらけになったり、仕事中にネットを盗み見て事故を見逃し失業したり、酔っぱらって知り合った男とセックスした画像をネットに公開すると脅迫されたり、とにかく困った状況に陥ってしまう。自分も悪いのかもしれないが、そもそもスマホやネットが無かったらこんなことにはならなかったはずなのだ。
 最初はグダグダと話が展開して、そんなに面白くなさそうな感じなのだが、一定のトーンに慣れてくると、そういう間合い自体がギャグとして機能してきて面白くなる。そういえばフランス映画だったな、という感じだろうか。ハリウッドや日本などとは、なんとなく映画の文法が違うのである。
 また、これもフランス映画のためなのか、性に対してあけすけで、ものすごくセクシーという訳でもエロ過ぎるわけでもないが、ともかく簡単に性の話や場面になる。おそらく奔放で自由な女というのは、簡単にセックスするものだというあちらの常識のようなものがあるらしいのだが、東洋人の僕は、なんだか戸惑うような、ちょっと理解できないような感覚がある。こういうのも男女同権というか、当然でしょ、というのがどうなんだろう、と思うのかもしれない。僕はそれなりに保守的だったんだな。
 後半に入ってからのネットに対する人々の変わった行動が、なかなかに意外で笑わせられる。皮肉も効いているし、後味も悪いものではない。そういう意味で話題になった映画なのかもしれない。まあ、よく出来ているのである。
 告白すると僕はこれまで、Deletoキーのことをデレート・キーと発音していた。なんとなく恥ずかしいです。
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嘘つきは泥棒の始まり、なのか

2022-03-26 | Science & nature

 正直者は好かれ、噓つきは嫌われる。正直であることの美徳は、人間の倫理において絶対のように言われ、嘘つきが社会に混ざっていることの悲劇は、数限りなく伝播されているように感じられる。少なくとも僕はそのような言動を聞きながら成長し、社会生活の中においても、一種の教訓として胸に刻み付けてきたように思う。大げさに聞こえるかもしれないが、嘘をつきたくないために、その整合性を高め、環境を整えているような気もする。
 しかしながら、心理学等の世界においては、ホワイト・ライという言葉があって、人間が人間たらしめている特徴として、嘘をつけるということが重要だということなのである。子供が嘘をつけるようになったのなら、それはむしろ喜ぶべき成長のあかしであって、その後もちゃんと嘘をつけるように学習していくことが、人間関係を円滑にさせる能力として重要になっていくのである。
 要するに、嘘が困ることは、相手に嘘をついて騙すことによって、不利益を生じさせることにあるわけで、そういう嘘は本当に困ることではあるのだが、相手を騙すことによって、むしろお互いの利益が保たれる場合の方が多い、ということなのである。
 自分の思っている正直なことを口に出すと、それでその場の混乱が起こる。そういうことを防ぐとか、関係を円滑にさせることに長けることで、結果的に人間は社会生活を営む術を得たということかもしれない。
 そういう視点で一日のうち自分の行った嘘と思われることをつらつら考えてみると、ウム、あれほど嫌っていたにもかかわらず、少なからず嘘をついていたことに気づかされた。実は二日酔いで気分がすぐれていなかったのに、問題なく平気だと言ってみたり、髪がちょっとはねている人を見たけど、まあいいかと気づかないふりをした。頂いたお菓子はダイエット中なので食べる気はなかったけど、あとで頂きます・ありがとうと言ったし、ある政治活動をされている方からアンケートをお願いされて、面倒だったけどいいですよと気軽に答え、まあ適当に〇×などを付けた。またたまたま出会ったある方が子供を連れておられたが、ふつうに可愛いねと声を掛けたし(いうまでもなくそれほど可愛いとは感じていなかったと思う)、仕事の電話で面倒なことを持ち掛けられたと感じたが、前向きに取り組む旨をお伝えした(これは実際に面倒だから敢えて先に片づけたが。→というのは本当です。嫌々だったことは言うまでもないが)。実はまだあるが、もういいでしょう。
 そういう風にして振り返ってみると、僕の一日は実に多くの嘘にまみれていた。なんと僕は汚い人間だったのだろうか。そういう嘘にまみれた人間なのに、僕は少なからぬ正直者だと迂闊にもこれまで考えていたフシさえある。なんと愚かしい人間だったのだろうか。
 そういう訳で、人間としてはいくぶんの成長を遂げていたとは考えられるものの、僕は正直者では無かった。残念だが、ある程度それでいいということも分かった。単に気が小さいということは言えるかもしれないが、平和主義としてはそれもいいだろう。事なかれ主義という言葉もあるが、考えないことにしよう。
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ヤクザの事務所から大金を奪うと   アドレナリン・ドライブ

2022-03-25 | 映画

アドレナリン・ドライブ/矢口史靖監督

 おそらく営業で先輩と一緒に運転中に、先輩のいじめの所為でやくざの車に軽く追突してしまう。事務所に呼ばれ恐喝を受けるが、その時事務所でガス爆発が勃発。ちょうど痛めつけられて床に転んでいたために爆発の影響が少なく若い男は難を逃れ生き延びるのだが、ちょうど救急車で救助されるヤクザと、これもちょうどその場に居合わせた別の病院の若い看護婦と救急車に乗せられてしまう。ところが運ばれている途中のヤクザが目覚め暴れて救急車は事故を起こし、やくざが持っていた2億円を若い男と看護婦は持ち逃げして逃避行に出るのだった。
 まあまあ面白そうな展開になるのだが、基本的に演出の所為なのか、若い二人(というか特に男の方だが)が頭が悪すぎて、そのために命がいくつあっても足りないような危機が続く。一ミリも同情の余地が無いアホさ加減で、当然見ている方はイライラする。けれどまあギャグとコメディなんで大目に見て展開に付き合うのだが、結局グダグダは延々と続いて、これって学生が作った映画だったんじゃないか、と最後には考えてしまった。矢口作品とはわかっていたけど。
 矢口監督は「ひみつの花園」とか「ウォターボーイズ」とか「WOOD JOB!」とか面白い作品はちゃんと撮っており、ヒットメイカーなのではあるが、独特のわざとらしさが消えなくて、このような作品も撮ってしまうようだ。今作品は「ひみつの花園」系列ともとっていいお金にまつわるコメディなのだけれど、「ひみつ」の方は西田尚美のちょうど天然系の演技もあって、荒唐無稽な話が成功していたのだが、これはちょっとうまくいってないようだった。いや石田ひかるはそれなりにいいと思うが、女性以外が天然系になると、うまく話が進まないという感じだろうか。でもまあ結局見てしまったし、終わり方は良かったね、という感じなので許してしまうよりないのかもしれない。今の時代から見た当時の古さも、感慨深いものがあるわけだし。
 女の人が眼鏡をはずして服を着替えると別人のようになるというのは、漫画ではよくある話だが、実写だとあんまりうまくいかないものだ。しかしながらこの映画は、そういうところは上手くいっている。そういう願望が、ひょっとすると僕らの中にはあるのかもしれなくて、それがお金の影響だというのであれば、やっぱりちょっと面白いかもしれない。
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近所のサウンドスケープ(音風景)

2022-03-24 | 散歩

 歩いていると様々な音が耳にはいって来る。たまに学校のそばを通ると、チャイムの音が聞こえる。最近の傾向なのかどうか知らないが、何かちょっとした短いメロディが流れている学校もある。新幹線なんかでも短いメロディが流れるが、ああいうたぐいのよく知らない曲である。
 学校に限らず、さまざまな施設で大きな合図の音を流しているところがある。やはり近くの集配センターでは、かなり大きな電話の着信音のようなものが鳴る。その後、誰それに電話です、とアナウンスがある。
 田舎に住んでいるので、あちこちにスピーカーがある。これがサイレンや防災や案内の放送をする。地震の時は携帯の奴とも似ている不気味な警告音である。あれはもう犯罪的に嫌な感じである。火事の時は、以前はカランカランと消防車が何かのアナウンスをするときのような音だったが、今は長い警告のサイレンが鳴るようになった。これもやっぱり不安があおられるのか、嫌な感じである。
 夕方と正午にも音楽がなる。正午がシューベルトの「野ばら」。夕方6時が「夕焼け小焼け」のようだ。これは散歩でなくうちの自宅の近所で鳴るので、ひどくうるさく迷惑である。あんなに大きな音で鳴らないで欲しい。ほんとに嫌な感じだ。
 で、自宅だとうるさすぎて単に不快なのだが、たまに外で聞くと、場所によってということかもしれないが、妙に音程がずれて聞こえる。こんなに音痴なメロディだったかな、と思う。そうして鳴りやむときに、あちこちの場所から残像のように音が消えていくのが聞こえる(消えるのが聞こえるという表現は変だが)。いろいろな場所から時間差でメロディが流れるので、音程がずれて聞こえるのかもしれない。そうしてこの微妙な音の外れ方が、妙なおかしみを生んでいる。変な感じなので本当に鳴りやんで欲しいと思う。
 近所に住んでいる独身のお兄さんの部屋から、よくギターと歌声が聞こえていた。何年も聞いているとなんとなく愛着のようなものがわくものである。そうして努力の甲斐あってか、だいぶ上達して上手くなっていた。また、ちょっと前くらいに、女の人が立ち寄っているようなことがあるような気配がしていた。時々女の人の笑い声が混ざって聞こえる。そりゃよかったね~、と思って通り過ぎていたのだが、なんだかしばらくして、今度はステレオから流れる大きな音楽だけになっている。女の人の声は、混ざってはいないようだ。そうして、もう彼は歌わなくなってしまったのだろうか。
 杏月ちゃんと散歩していたころ、ある通りを行くと、必ずクラシックの大音量をながしているお宅があった。杏月ちゃんが死んで、なんだかつらくなって、その通りをその時間帯に歩くということをしなくなった。でも先日久しぶりにそこを通ってみると、やっぱり大音量でクラシックの音楽が流れていた。やっぱりこれは近所迷惑なんじゃなかろうか。まあ、田舎っていうことで、これでいいのかもしれないが。
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残酷が好きな人にはお勧めです   ブルータル・ジャステス

2022-03-23 | 映画

ブルータル・ジャステス/S・クレイグ・ザラー監督

 行き過ぎた捜査を市民から通報で取り上げられ、ただでさえ警察の差別的な取り締まりに対して風当たりが強い中にあって、二人の警官が6週間の停職処分にされる。さらに無給だ。彼らにも事情があり、経済的に行き詰まってしまう。そもそも警察の仕事として極悪人を危険を顧みずに逮捕し続けているのに、警察内部の政治駆け引きに無頓着だったせいで、長く勤めていてもまったく給与は上がらず、むしろ減給騒動などを起こしていたせいで、治安の悪い地域に住まざるを得なくなっている。妻は病気で体が不自由だ。娘は治安の悪い環境で通学時にジュースをかけられたり(これは一種の脅迫めいたもの)のいたずらをされている。年頃の女の子に育っており、さらに危険である。そういう境遇になってみると、もともと警官にしてはリベラルだったのに、犯罪を繰り返す最下層の有色人種に対するいら立ちが募っていたということが言えるのかもしれない。本当に警官の仕事にも嫌気がさして来て、あるお金の動きそうな事件のネタを掴み、その金を横取りしようと考える。無理かもしれないが、同じく停職処分の相棒も誘うのだったが……。
 ギャグなのはわかるが、科白回しに独特のものがあって、意味深だがはっきりと真相をつかみきれないものがある。だんだんと慣れては来るが、会話としてはやっぱり不自然である。間が長すぎる。そういう単調ながら複数の出来事が錯綜し、しかし暴力描写が容赦ない。銃による相手への脅迫は、この世の地獄である。途中で変な人が出てきてお話と関係なさそうな雰囲気があるが、単なる残虐の仕掛けだったりする。この映画監督頭がおかしいんじゃないか、とも考えていたが、まあ、そういう作風なんだろう。多少おかしい方が、才能があると言われる世界だ。観ていて苦痛になりながらも、もう少し尺を短くできるだろう、と悪態をつきたくなりながらも、やっぱり引き込まれて観てしまった。なんという映画だろう。後味も悪いし、ぜんぜんいい映画でもないが、してやられたぜ。
 という訳で、観る人は選びまくる映画だが、これがたまらなく好きになる人がいるだろうこともよく分かる映画だ。いくら演技とはいえ、このようにみじめにいたぶられ、そうして虫けらのように殺される人にはなりたくない(いや虫けらさんごめんなさい)。銃世界に生きている人々がいることに、最大の嫌悪を覚える映画である。でも銃規制をしようという映画でもない。やるせないが、関連作品を観てみたくなる。これはたぶん病気である。
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ハリガネアートが来てる?

2022-03-22 | 雑記

 雑誌で知ったのだが、ハリガネアート(ワイヤーアートとも)というのがある。もともとぜんぜん知らなかったわけでもなさそうだが、まったく興味が無かった。石膏などを固める基礎などでも針金のようなもので形成することがあるだろうから、もともと芸術関係とは深いつながりがあるんじゃなかろうか。そうしてその骨組み自体がすでにアート作品として独立してしまったかのようなものが、ハリガネアートなのではなかろうか。適当な想像だが。
 針金で動物やモノを造形するわけだが、確かにそれらしきものというのは、以前から見たことはあったようだ。懐かしむほどではないが、オブジェ的に作られた、針金だったか、糸のようなものであったか、あやふやな記憶ながら、見たことはある。しかしながら今回興味を持ったのは、他でもなく雑誌で紹介されていたからで、一瞬で見とれてしまった。
 それはHayU(ハユ)という人の作品らしく、すでに超有名なんだとか。ハユという名前で作品は発表されているが、小川学さんという名前でも、著名なようだ。もともとバラ農園を営まれていたらしいが、バラ農園でたくさんの針金を使うことがあるようで、暇な時などにそれを使って造形していったという。これももともと芸術的な素養を積んだ人のようで、そういう作品群をためて展示会などをやって人気が出て、石田ゆり子などが部屋に飾ったインスタなんかも話題になり、ものすごい人気で、すでにバラ農園は休止しているのだそうだ。作品を買おうにもすぐに売り切れてしまい、予約がとんでもなく詰まっているのだという。もう本業だったかもしれないバラづくりはやれそうにないのではないか。
 針金で作られた線で描かれる動物などの頭が多いようだが、針金なので立体である。そうして立体でありながら奥が透けて見える。そうすると線自体が何だかぼやけたような印象を残し、しかし遠近法で自分の目のレンズで行ったり来たりしてピントを合わせて作品を鑑賞することになる。僕は写真でしか拝見してなくて、実物であればこの作業が何度も行き来して楽しめるのではないかと思われる。そういうところがハリガネアートの面白さなのだろう。
 実際に壁にひっかけてインテリアにして楽しみたい人が大勢いるのだろう。掃除はどうするのかよく分からないが(下手に触ると壊れそう?)、これはやっぱりかっこいいですね。また、実物がいいのは間違いなさそうだが、写真でもいい感じなんである。ブームとはいえ、こういう感じで皆が注目しだした可能性は、ちょっと何かありそうにも感じる。
 さらにハユさんのものではないハリガネアートも当然たくさんあって、これがまたずいぶん個性が違うのである。線だけの勝負というのでかなり印象を変えるというのもあるし、そもそもの針金の使い方自体がまったくの異次元で、色を変えたり重ねたり太くしたりなど、かなりのバリエーションの広さが感じられる。みんなこの機会に、たくさん売れるといいですね。
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犬を怒らせるな!   ホワイトゴット 少女と犬の狂騒曲

2022-03-21 | 映画

ホワイトゴット 少女と犬の狂騒曲/コーネル・ムンドルッツォ監督

 おそらく近未来なのだろう。そこでは雑種の犬を飼うと重税に課されることになっている。貧乏人は雑種が飼えないのだ。少女は家や学校での暮らしの中で、なんとか愛犬ハーゲンを守っていこうとするが、父親は遠くの町で犬を捨ててしまう。捨てられたハーゲン君は、否応なく人間から虐待を受ける。他の強制保護された犬たちも同じように、ひたすら虐待されていく。そういう中何匹かの犬には、厳しい社会に適応しているようなものがいる。ハーゲン君はそういう犬社会の中で頭角をあらわしていき、そうしてついには保護施設で反乱軍を従えて、人間へ反旗を翻す暴動に展開していくのだった。
 基本的にダークファンタジーなのだろうと思うが、犬が虐待される場面が続き、観ていて結構つらい。犬が反乱を起こして人間を血だらけにするのも、結局はなんとなくスカッとしない。しかしまあ犬たちの演技が素晴らしいこともあり、それなりに観ることはできる。カットのつなぎ方や、実際は飼い犬だから、この背景に様々な飼い主たちが奮闘してるのだろう。そういうことを想像しながら展開を読んでいくと、二重で楽しめることもあるかもしれない。そうではありながら、こういう撮影は難しいのではないかという場面が結構ある。いわゆる絵になるわけで、この世の中にあって、SF映画はCGを使いまくって映像を成り立たせているが、この映画はその対極にあって、壮大なスペクタクル場面を作り上げている。お話は陳腐極まりないが、それだけでも買いである。実際は犬に寛大な心があるからこそ、こういう映画が撮れたのだろう。まあ本当の事情なんか知らないから、そう思いたいだけのことであるけれど……。
 ということで、ほんとは映画を我慢してみて、最後におおッというのが一番いいが、トレーラー(予告編)でもスペクタクルは楽しめるので、観てみてください。ほんとにこんな感じの映画です。
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母は愛すべき対象か   Mother

2022-03-20 | 映画

Mother/大森立嗣監督

 ギャンブルやホスト通いなどで金を散在し、すぐに生活を破綻させているシングルマザーの女には、小学生に上がるくらいの男の子が居る。金に困ると肉親に金をねだり、工面してもらっても返す気など無い。元夫からの養育費もあるようだし、細かくは分からないものの、行政からの養育支援費のようなものも得ているのかもしれない。もっともガスも電気も停められるような状態で、おそらくだが家賃だって怪しい。どんどん破綻する一方で、新たな恋のどんちゃん騒ぎは過熱していく。母(その女)は新しい男と旅行に出て帰って来ると、その男と画策して役場の男が息子を虐待した、と言ってお金をせびることにする。役場の男は困惑しチンピラともみあいになり、どういう訳か腹に刃物が刺さってしまう。怖くなって電車で逃亡し、皆と旅館街に逃げ込むが、しばらくしてほとぼりが冷めたころ実家に電話すると、どうも役場の人間は死んではいないようだった。喜んでまた金をとったりなんかしながら遊び暮らしていたが、どうも新しい男との間に子供ができた様子で、それを話すと「無理」だと言われ、殴られるなどした後男は去っていくのだった。
 そうして月日がなれてホームレス然としていた時に、行政なのか支援団体なのかに保護され、荒れている中でも部屋を与えられ生活ができるようになり、下の妹を世話しながらではあるが、息子はその団体が支援している学校へときどき通えるようになった。そういうつかの間の安定した生活が送られるようになった中、無理だと言って逃げていた男(妹の父)が、突然支援宿泊所に現れるのだった……。
 結局そういう具合に次から次へと破滅の道を歩み続けるお話である。そんなことをしても必ず破綻するようになることは目に見えていながら、金を借り、盗み、それをパッと使って楽しんでいるように見える。実際は大して楽しそうでもないが、不安を抱えながらもそういうことをやるしか考えつくことが無い。そうしてその考えの延長に至る最後の手段として、どのように金を作るのか、という事件を起こすことになっていく。
 最初から何かの救いのようなものがあることは、期待しづらい。何か非常に頭の悪い人たちなのか、とも思ったが、頭は良くないにせよ、分かりやすく壊れている感じである。周りの人間は何度も裏切られてきたことにうんざりさせられており、その場限りの嘘しかつかない女に、とことん愛想をつかしている。息子だけが、ただ母だということだけで、その嘘を補完し、犯罪を繰り返すことに躊躇が無い。母からの命令だから、感情を殺して言われたままに行動ができるようなのだ。こんなことではだめだということは分かりながら、母が困っていることから逃げることができない。少年は年を重ねていき、母から逃げ出すチャンスが何度もあった様子なのに、結局は母の不条理さから逃れることができないのである。それは何であるのかは、僕には最後まで分からなかったが、要するに共依存という精神病だったのだろう。
 物語では、魅力的な母親に複数の男が絡んでいるようにみえる。それで、このような生き方ができたことが示唆されている。しかし、あまりにも場当たり的で、そうやってセックスで得た報酬は、実はさほど大きなものではない。もっと大きなものが狙えたはずなのに、その場限りの小金をごまかす程度なのだ。もしもセックスなしにそのまま生活して行けたなら、それよりはるかに大金が、時間とともに彼女らに投下されていったことだろう。
 問題提起という感じでは少しは意味があるのかもしれないが、壊れていく人は、もう少し違う分野の人たちであろうと思う。分かりやすくするために、そういうものが損なわれているのではないかと、僕のような人間は考えてしまった。結局まだ、この物語は終わっていないのだろうか……。
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リアルな現状を期待だけで傍観してはならない

2022-03-19 | HORROR

 雑誌「UP」3月号の記事で金正恩の10年を振り返った文章を読んで(宮本悟:北朝鮮研究)、なんだかずっと引っかかっていた。それというのもロシヤのウクライナ侵攻なのである。これほどの愚行が行われるはずがないと西側は高をくくっていたところがあったのだが(今となってはそのことも忘れているようにさえ見えるが)、事はほぼ最悪のシナリオ通りに突き進んでいる。
 10年前に金正日が亡くなった折には、北朝鮮の終わりの始まりを説く論調が、ほぼ日本のメディアを支配していた。二代目金正日の時代にあっても、どのみち何れにせよ北は崩壊するのだ、という予想の方が強かった。しかし正日はなかなかにしたたかで、国際社会でダークな役柄を演じ切り、天寿を全うしてしまった。小泉首相と会談し、事実上拉致被害者の一部を日本に帰したことで(それで硬化したことでもあるが)、多くの人はその後の展開にも期待を持っていた。駆け引きもあることだが、北朝鮮の経済はガタガタで、少なからぬ国民は飢えに苦しみ、餓死していると伝えられていた。日本は地政学的な立場から、この関係の中心的な役割があることは明確で、経済支援や逆の制裁などのカードを握っており、交渉ができる可能性を持っていた。しかし北朝鮮は経済支援をしたところで、軍事力による脅しのカードをひたすら使うのみだった。
 そうしてなんだか意外に思われた後継者が、金正恩だった。スイスで学んだこともあるとされ、数か国語を理解し(来日したこともあるらしい。母親は在日朝鮮人で日本人の血がある)、しかし極めておとなしい性格で、能力はまったくないとされ(北朝鮮指導部の傀儡ともいわれていた)てもいたが、おおむね全くの未知数の若者だった。
 ところが米国と日本などによる厳しい経済制裁が科される中にあって、北は核開発やミサイル開発を加速させ、次々にその能力を高めていくのだった。一度米国との交渉で食糧支援を受け入れたこともあったが、その先にある軍事開発に対する交渉はすぐに破綻し、何のためらいもなく食糧も拒否してしまった。経済制裁をかいくぐり、北欧やアジアの国々とは小さいながらも経済的なつながりを保ち(多くは中国だっただろうが)、反米諸国と強調して核開発と弾道ミサイルなどの開発をつき進めていくのだった。その間日本は、ほぼ交渉の機会を失ったまま、いずれ北朝鮮は破綻するという論調を保ったまま傍観を続けるよりなかった。その結果の今を見ると、北朝鮮は事実上米国と対峙しての核戦争というカードを掴み、他国の侵攻を許さない強固な反米国家として安定してしまったのである。
 しかしながら冷静に振り返ると、これは元々北朝鮮という国家が独立国として目指してきた目標だったことに他ならない。北朝鮮の労働新聞を中心にその分析を試みると、それはずっと一貫して推し進めていた政策の実現に過ぎなかった。傍観していた我々は、その姿を完全に見誤っていただけかもしれないのだ。
 さて、北朝鮮とロシヤは、まったく違うと言えばまったく別の性格とスケールの国ではある。北はある意味で小さすぎるので国際社会は無視していたとも考えられる。しかしながら今のロシヤの、当初の予想からすると苦戦している状況や、ウクライナとの交渉が少なからず進んでいるとされるものを受け、将来的な楽観的な見方をする論調も増えてきた。実際に現実的なロシヤの孤立状況を鑑みると、プーチンが間違っていることのみは明確そうで、長期的なロシヤの危機は間違いなさそうに思える。そうしたことからの楽観論だとしたら、やはりそれは危険なものを含んでしまうかもしれない。孤立しても目標を達成していく北朝鮮は、実は意外でも何でもない現実国家である。今の狂ったプーチン・ロシヤであっても、現実を見ているはずなのである。
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蘇っているのはペットだけだろうか?

2022-03-18 | 境界線

 だいぶ前にクローン羊のドリーというのが誕生した、というニュースが流れた時には、世間としてはずいぶん冷ややかな空気があったように感じる。その後そんなにしないうちにドリーは亡くなったようで、クローンだから長生きしなかったのかどうかも知らないうちに、しばらくは世間は沈黙した。しかしちょっとした倫理問題のような議論はあったように思うが、やはりクローンで様々な生物は作られているらしいと、また話題に上がるようになってきた。それというのもペット問題である。
 日本でも飼っていたペットが亡くなった後、そのペットの細胞を用いてクローンで生き返らせているところはあるはずである。それなりに高価であるようで、しかし表立って宣伝しているのかどうかまでは知らない。アメリカだって同じような感じ、とも聞く。しかしアメリカは、素直に金持ちがそのようにする、ということのように思える。
 熱心にこのビジネスが盛んになっているのは、やはり韓国や中国である。隣国だから声が届きやすいのか、というより、やはりたいへんに盛んなのだ。猫だと300万くらい。犬だと300~800万という感じのようだ。数回の失敗については、返金するという。しかし顧客は最終的にはお金を払う。クローン・ペットに満足するのだ。
 クローンを買い求める人々にだって問題意識はある。承知の上で、ペットを飼う選択の一つとしてクローンを選んでいるのだ。値段もすごく高いことも認識している。しかし、それがペットへの愛の深さを証明してもいる。中にはほとんど破産している人までいる。借金を抱えてもなお、仕方がないとでもいうようにしていた。
 ドキュメンタリーなので、多少の行き過ぎにクローズアップしているのかもしれない。飼い主の一部は、このような撮影にも酔っている部分はあろうかとも考えられる。犬の代理母の問題に、積極的に関与していこうとする女性もいた。それはまるで罪の償いのようでもあった。
 失われた家族を取り戻そうという気持ちは、僕にもわかる。分かるところはあるが、クローンで取り戻した家族は、失った家族の分身では無いだろう(のような存在だろうが)。かなり似ているのは確かそうだし、性質の多くも受けついでいるのだろうかとも思う。そうしてたとえそうでも、僕は違うだろうことも分かるのである。一卵性双生児が違う人格のように、クローン動物であっても、その個体とは違うのである。求めているのが失われた個体である以上、僕にはクローンは受け入れられない気がする。いっそのこと違う個体の方がいいのではないか、とも思う。似ていると、その似すぎているところが、最終的にはずっと気になってしまうのではないのだろうか。
 ペットなのでクローンで蘇らせようとするというのも、どこか現代の人間らしい考え方のようにも思う。いづれ人間でする人も出てくることは確実そうで、ひょっとすると水面下でやっている例もある可能性すらある。できることは止められない。本当に恐ろしいのは、人間のそういうところなのである。
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北欧は何か薄暗い   特捜部Qカルテ番号64

2022-03-17 | 映画

特捜部Qカルテ番号64/クリストファー・ボー監督

 北欧を舞台にしたミステリ作品として人気の高い小説を映画化したもの。そのシリーズの一作品である。
 過去の未解決の事件を追う部署がある。ある隠し部屋が見つかり、その部屋でミイラ化した三遺体が見つかる。今回の事件も古い事件との絡みがあるようで、すでに閉鎖された不良少女などを収容している施設が関連する事件らしい。昔のことで残された資料も乏しく、関係者の全貌がよく分からない。さらに今も続く人種差別を首謀する団体が存在しているらしく、その組織に関わる人間は、政治などでも重要なポストについている人間もいるようだ。捜査している人間関係も縦横に絡みながら、捜査は難航するのだった。
 なんとなく暗いトーンのようなものが作品に流れており、過去の少女の虐待も絡めて、何か尋常でない人間の残酷物語が展開される。捜査チームの中にも、人種問題もあるためか、何かギクシャクした亀裂が生じつつある。それぞれに考え方があるのだが、それが上手く理解されていないのだ。チームプレーとしてはあまりよくないが、しかし捜査はなんとなく核心に触れつつあると感じられる。邪悪な思想を持つ集団は現代の社会情勢と絡んで、差別的な偏見に満ちている。北欧の移民政策と保守的な政治の対立もあるようなのだ。もともとこのシリーズのメンバーには、多民族性が絡んでいるようで、それはヨーロッパの諸問題の政治的な正しさとも絡んでいるのだろう。誰もが自分の名前を出したくない環境にあって、どれだけ秘密裏に事件の解決を図ることができるのだろうか。
 実はこのシリーズの一作を、読んでないままにして本棚にあるのを発見した。映画で観たものとは違う一話であるようだが、なるほどこのような話を土台にしているのだな、と分かった。これから読むかどうかはともかく、こういう社会性と絡んだ事件を好むミステリ・ファンというのは世界中にいるのだろう(だから日本でも翻訳がある)。そういう意味では、世界的に関心の強いテーマ性を抱えているシリーズなのかもしれない。
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