カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

苦学生は夜働く

2021-11-30 | 境界線

 映画の中で、キャバクラ嬢が実は学生で、いわゆる苦学生なのだという設定になっていた。本当は性的な目的が一番だったはずの男は、それで一瞬ひるむような感じになるのだが、はて、しかしそれってふつうにありふれたことなんじゃないか、とみている僕は思っていた。ぜんぜん意外なことなんかでなく、普通過ぎることに過ぎないことを知っているからだ。
 実際の風俗産業というのは、主婦や学生がいないと成り立たない世界である。そればっかりではないとはいえ、むしろ夜だけの人の方が珍しいのではないか。まあ、本当はキャバクラ嬢というのは、一定の会話能力も必要だし酒も飲めないといけないので、高校を卒業したばかりの女の子にはハードルが高く、女子学生の多くは風俗嬢の方を選択する場合の方が多いのだというが、話が複雑になるので詳細な実態はすっ飛ばして語るとすると、苦学生が夜の街で働くというのは、今も昔も当たり前の話である。知らない方がどうかしている。
 しかしながら、そうかといって学生だと明かす人が、必ずしも学生であるとは限らないこともある。それというのも、そういう話の展開で、もっとありふれた話というのを結構聞いたことがあるからだ。
 苦学をしてそういうところで働いているというと、確かに妙に感心してしまう男というのは結構いるようで、いわゆるお金をはずむという行為に至る場合があるのである。はずみすぎて、実際に援助を申し出る人だって見たことがある。匿名ではないので「あしながおじさん」ではないが、そういう行為をしたがる小金持ちというのはいるのである。もちろん下心があって、一種の囲いというか、愛人というか、そういう関係に至ることを期待している場合もあるんだろうけど、たとえそうであっても、お金を提供しやすい口実であることは間違いない。いきなりお小遣いをちょうだい、なんて言っても、くれる人なんてほとんどいないだろう。
 でもまあ、本当は学生じゃなかったけど、勉強は大切だし援助するから、と言われて、学校に行き直して就職した、という女の子の話を聞いたことはある。夜も好きだからまた働きだしたということで、何だかちょっと回り道したという感じもしないではないが、美談ではある。
 そんなことを聞いて心配になる人もいるかもしれないが、実際こういうところがあることで、苦学した女学生の多くは感謝している場合の方が多いのだという。普通のバイトだといくつも掛け持ちして時間を取られ、勉強する暇さえない。奨学金などの借金も必要なくなった人さえいるらしく、いわゆる一流企業へ就職できた大きな要因は、風俗のおかげだとする女性も多いのだという。
 また、田舎だと学校自体が無いから、要するに都会の学校を選択した女子限定の話ではある。地元だと自宅から通うので、そもそもそういう危険は少ない。田舎のスナックの年齢層が高いのは、そういう現実をあらわしているのだろう。
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戦隊ものに参加することが困難   女子ーズ

2021-11-29 | 映画

女子ーズ/福田雄一監督

 世界征服をたくらむ悪の軍団があるようで、それらから地球を守る軍団が結成されたのが、女の子だけのグループで、女子ーズということになった。女の子たちはそれぞれ微妙な立場と年頃であり、さまざまな事情を抱えて日常が忙しい。家庭が貧乏でバイトに明け暮れている人もいるし、逆にお金持ちのお嬢様で世間を知らない人もいる。演劇に打ち込んでいるものもいるし、洋服店のマヌカンをしている人もいる。リーダーは建設会社で新図書館の企画を練っているまじめな女性で、仕事が忙しく、無能な課長とうまく使えない部下との間で葛藤しながら仕事をしている。しかしながらそういう忙しいときであろうとなかろうと、かまわず悪の軍団はやってきて、仕事を中断せざるを得ないのである。女子ーズは皆がそろわなければ必殺技を繰り出すことができないという設定になっており、そういう忙しい女の子が一堂に会すること自体が至難の業、と言える状況に陥っていくのであった。
 一応緩いギャグということになっているが、その理由が今時の女の子たちの事情を抱えたままでは、ヒーロー戦隊の維持をしていくことは非常に困難である、という事である。女の子だからゆるい理由に見える場合があるということもあるのかもしれないが、彼女らの抱えている事情から考えて、本来的に仕方がないのである。むしろ正義の組織の指令を出す男は非常に不真面目で、彼女らが本当に活動しやすくするために、何らかの動きを見せて誠意を示す必要がある。悪の軍団は根気強く正義の都合に合わせて戦ってくれるが、そもそもたいへんに力が弱く、いろいろ出てくる割に頼りない。結果的に地球の平和が守られているということになり、我々も平和だ。正義の戦隊の苦しい事情を汲んでやれる一般市民の意識の浸透に至る道は、なかなかに厳しい。
 戦隊ものは、そのシリーズが終わるまで戦ったらなんとかなるようだから、これは映画であって、彼女らもきっとそのあとは解放されたことだろう。その後誰が集められたのか、ということは謎だが。ああいうのはジャニーズとかAKBとか、それなりの供給力のある事務所から選抜すると、簡単なんじゃないだろうか。そもそもが存在がパロディのようなものであり、この深刻さというのを笑いたいのであろうけれど……。
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気持ち悪いが気分はいい   悪人伝

2021-11-28 | 映画

悪人伝/イ・ウォンテ監督

 韓国映画。物取りが動機なのかはっきりしない、凄惨なめった刺し殺人事件が起こる。どうもいくつか点在して同じような殺人が起こっている様子であるが、被害者に共通項は無く、警察は捜査の糸口をつかめずにいた。そういう中、狂暴さのかたまりのようなヤクザの派閥のボスが、ふらっと一人で車の運転中追突され、その後やはり刺されて重傷を負う。自らの力強さで刃物の男を撃退するものの、取り逃がす。自分を襲うようなヤクザ者とは考えにくい(組織の倫理に背くため)が、敵対するグループとの抗争も激しさを増していく中、独自に犯人を捜そうとする。一方、そもそもサイコパスによる連続殺人であると踏んでいる逸脱熱血刑事とともに、いきさつ上捜査協力をすることになって、全力で犯人を追うことになるのだったが……。
 韓国映画なので、血しぶきが上がるのは半端ではない。とにかく彼らは草食系でないことは間違いなく、殴ったり切ったりするのに容赦がない。さらに体力があって、ターミネーターも真っ青になる迫力のバイオレンスが続く。刃物で切る快感を求める殺人犯も恐ろしいのだが、しかしこの映画のバイオレンスの主役は、武闘派ヤクザのボスである。ちゃんと悪人でひどいことばっかりしているけれど、これが間違いなく僕らのヒーローなのだ。いや、安直なヒーローものではないはずなのだが、おそらく見ているものを捉えて離さないすさまじいダークな魅力で、物語を引っ張っていく。最初は彼の暴力に嫌悪しか覚えなかったはずの僕らが、いつの間にか犯人を捕まえ、切り刻む日を待ち望むようになっていく。なんだか不思議な感覚だが、正義感の塊の若い暴力刑事なんかより、数段味方をしたくなるに違いない。
 映画には何段階か展開の流れがあって、単純に連続犯を捕まえる物語では無い。基本路線はそういうはずだったのだけど、警察の内部の話だったり、やくざの抗争の物語だったり、法律の正義を問うことにもなったりする。物事は暴力で解決できないというけれど、そんな単純なことで解決可能な物事の方が、実は少なかったりするんじゃなかろうか。少なくともこういう映画を観て、自分の力ではどうにもならないことではあるんだけど、気分的には納得できることってあるんじゃないでしょうか。まあ、それがいい解決では無いことは明白なのだけれども……。確かに気持ち悪くなる映像も多いけど、傑作なので見るべし、です。
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結婚できないって、こんなにつらい   愛しのアイリーン

2021-11-27 | 映画

愛しのアイリーン/吉田恵輔監督

 東北の農村にパチンコ店がある。そこで勤めている岩男は、年老いた父と母と同居している独身男だ。同じパチンコ店に勤務している年増の女性と性関係を結んだ過去もあるようだ。岩男の誕生日をきっかけに、同じホールで働くバツイチの女性といい感じに飲みに行き、ゴリラのキーホルダーを貰う。これで岩男はすっかり舞い上がってしまうが、同僚から、実はこのバツイチ女は誰とでも性関係を結ぶ女だと知らされ、激しく混乱する。酔った勢いでキーホルダーを返しに行くと、本気になられても困るとだけ言われるのだった。絶望と怒りに駆られて、勢いでフィリピンに行き、現地妻見合いに参加して、疲れてどうでもよくなってアイリーンという女性と結婚することにする。アイリーンは貧しい漁村の子沢山の生まれの͡娘で、家族に仕送りをすることが条件で結婚してくれるのだった。
 原作に新井秀樹の漫画があるらしい。あーっ、新井作品だったのか! おそらく漫画は素晴らしいはずだが、それでこんな映画になったのか、と素直に思った。これじゃあもう仕方ない。漫画に力がありすぎするんだろう。
 そうやってアイリーンを農村の我が家に連れ帰ると、すでに父は死に、母親はアイリーンに猟銃を突き付けるほどの嫌悪をむき出しにする。アイリーンは、金で結婚したのは確かだが、できれば夫婦として本当の愛を育んだ上に結ばれたいと望んでいる。しかしながらもう夫婦として日本にまで来ている岩男としては、発情してセックスのことしか頭にない。いつまでもお預け状態で、激しく苦しんでいる。そういう中、フィリピンの女性の性を扱うヤクザの男たちの暗躍もあり、アイリーンに嫌悪感しか持てない母親の思惑と陰謀が重なっていくのだった。
 ホラー映画化していき、バイオレンスが炸裂する。岩男はタガが外れて、できるセックスはとにかくしまくる精神状態になっている。誰も信用できないし、とにかくおびえて落ち着いていられない。いったいなんだこいつは、という状態で、ちょっと意味不明である。
 岩男の母親も軌道を逸しまくっている。こんな日本人はほとんどいないだろう。ただ岩男愛のためなのか、意固地になってアイリーンへの憎悪が悪魔的にまで高まるばかりだ。僕にはまったく共感のかけらもできないし、これはもう母とかいうような生き物ではないのではあるまいか。
 というようなお話で、もう終わってもいいのにな、というところから少し長い。もっとすっきり行くと、ショッキングと道徳観がもう少し考えられたのではなかろうか。こういう日本に誰がした。こういうフィリピン妻に誰がした。である。差別と偏見だらけのお話なのだが、あえてそうしてはいるのだろう。それにしてもフィリピーナ、可哀そうだけどな。
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英国の敗北を喜ぶ、が、それでもむなしいが

2021-11-26 | 時事

 英国でのCOP26での会議が終わってみると、素直な印象としてはいったい彼らは何をやっていたのかな、という感じであろうか。いちおうの形を作りたいとか、主導権を握って議論を進めたいという各国(特に欧州とUK)の思惑が強すぎて、最終最後で反感を食らって決別して終わってしまった。誰もが納得のいく話し合いなんて不可能だから、これもこれでいいと言えばいいのだけれど。むなしい風が吹き通っていったのだな、という感じである。
 いまさらながらだが、地球環境を語ると言いながら、地球の上の環境があまりにもさまざますぎるのである。いちおう温暖化による脅威の未来に備えるために、現在節制できるやるべきことを整理して振り分けて、実行してもらおうということであったはずだ。単純に考えるとそれは悪くないアイディアに聞こえるけれど、実際に何をするという段階になると、現在置かれている状況によって、ずいぶんと不公平な枠組みを押し付けあう戦いの場に変貌していくのだった。圧倒的に良い条件下にいる開催先進国の突きつける条件は、実現のために多くの血や汗を強要する脅しに変わっていった。その結果、本当にまじめにそんなことに付き合えるはずのないという本音がうっかり出てしまい、それが大きな共感となってぶり返して衝突した。結論ははっきりせず、そうして実行は不透明のまま、事実上持ち越しとなったと言っていいだろう。
 前半から中盤にかけては、一方的に日本は殴られまくった。前向きでないとして、失望のブーイングを受けまくった。そうしてダメな国としてレッテルも張られてしまった。いじめられ役として慰み者になり、一国がスケープゴートで終わるはずであった。実際の話としては、原発事故を起こしたうえに資源のない国であり、現実的な路線を素直に話しているに過ぎなかったのだが、新しい科学技術の研究の意味も理解されなかったし、将来性があるともみなされなかった。そうして現実の火力発電でしのぐしか方法がないにもかかわらず、それさえも悪の根源として嫌悪された。
 英国で動いている火力発電所は7基で、日本は150基である。同じ土俵で同じスケジュールで廃棄することの方がナンセンスである。ベースとなる電力が確保できないまま自然エネルギーを開発することはできない。他国から原発などによる電力を回してもらえる環境とはそもそも違うのである。
 さらに炭酸ガスを出す火力発電だからすべて悪いという思考停止に陥っているだけのことで、環境そのものを整える切り札としての将来性は、安全かつ膨大な資源で調達先が複数である火力発電が一定以上あることで、国際社会は安定して温暖化に備えられる可能性の方がはるかに高いことも分かった。災害に備えるためには、電力供給と貧困問題の方が重要なのである。
 さてそういう結論が読み取れた人がどれだけあったのか。やはり冷たい風が通っただけの会議だったのだろう。
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違和感ある会話と男女の普遍性   殺さない彼と死なない彼女

2021-11-25 | 映画

殺さない彼と死なない彼女/小林啓一監督

 原作はツイッターの漫画らしい。内容は群像劇になっている。科白が現実っぽくないので、ついついこれは舞台演芸の映画化ではないかと思いながら見ていた。
 突っ張りなのか自堕落なのかわからない男子学生が、自殺未遂を繰り返す変わった女子高生に興味をもって付き合うようになる。この会話が「死ねっ」というような語尾の過激さがありながら一定のテンポになっていて、掛け合いの漫才のようなコントになっている。
 実際に可愛いがぶりっ子の女子高生と、まじめで地味な女子高生同士の、なんだかんだと離れられない友情のような繋がりを描いたエピソードのもの。
 熱烈に一方的にグイグイ告白してくる同級生の女の子を、冷たくあしらうようにしながら恋愛に発展していくカップルを描いたもの。
 そういう三つの群像劇を織り交ぜながら、殺人事件が起こるというもの。
 短いエピソードがいくつも続いていくのだが、それぞれが完結したコント様式になっていて、なるほどな、というような展開ではある。演劇的な要素が強いセリフ回しながら、それぞれあり得ないキャラクター設定とはいえて、まあ、お話としては合っている。最初はその会話自体に違和感があるけれど、そういう人たちなんだな、ということがわかりさえすれば、あんがい普通の考え方をする若い人々である。エキセントリックな言動をしているけれど、その内実はナイーブで感受性が強い、ということの裏腹さである。ハッピーエンドもあるが、もの悲しいトーンの方が強いかもしれない。終わってみると、もっと素直になっていれば良かったかもな、という余韻が残るもののように感じられる。多かれ少なかれ、人の感情はそういうものだけれど。
 いわゆる若者映画だとは思うが、そういう意味では、若者でなくとも理解可能で、なおかつ楽しめる映画ではなかろうか。学生のころには、似たような経験をした人も多いと思うし、時代は繰り返されるということか。そういう意味では、演出を更新した普遍性のあるコントの集まった物語と言えるだろう。そんなに突っ張らなくてもいいとは思うけど、若いというのは仕方ないことなのである。
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諏訪公民館、帰り道

2021-11-24 | 散歩
 諏訪駅前の広めの空間。以前は花壇なんかもあったような気もするけど、高架が掛かるときに無くなってしまった。


 この辺りも戦前戦中にできた住宅街です。


 赤司歯科脇のたぶん赤道。


 諏訪公園。なんか工事中かな。



 説明版には、長崎市の諏訪神社の元のようなことが書いてありますな。一度キリシタンの焼き討ちでなくなったけど、跡地にこのように再興されたもののようです。さらに元々は長野県諏訪郷の旧官幣大社が本社なんだとか。調べて書かれてあることなんでしょうけど、ここがそうなのか、というのは、にわかには信じがたい感じもしますね。




 以前はここに選挙の投票に来てました。おふくろが一番乗りで投票したいっていうので、時間前から来てた頃もあったけど、同じような考えの高齢者って多いようで、結構人がたむろしてた記憶があります。だから一番乗りにはなれなかったんじゃないでしょうか。正確に覚えてないくらい残念な記憶です。



 以前はこっちにお好み焼き屋がありました。社会人とヤンキーが一緒になって飯を食う、稀有な社交場でもありました。




 池田郵便局。



 いわゆる諏訪線に出てきました。僕は子供のころに郵便バイクにはねられたことがあります。まあ、おおらかな時代で、頭打ったけど、他に怪我無かったので大丈夫ね、ということで家に帰ったと思います。ウチでも問題視しなかったようで、車じゃなくて良かったね、という感じだったんじゃないでしょうか。



 ここらあたりに少年キングを毎週とってる友達のウチがあったんだけどな。二度も落雷にあって火事になったりしてるようなところだったけど、跡形もなく分からなくなってしまいました。






 支流にあたります。




 田圃への取水跡でしょうね。新道あたりの住宅地は、以前は広く田んぼが広がっていて、電柱もなく冬場は格好の凧揚げ場所になってました。今は田圃はすべてなくなってしまいました。



 保育園裏の公園。


 シーソー。以前はふつうにどこの公園にもありましたが、怪我して危険だとされ、多くの場所で撤去されていきました。残ってるだけでもえらいもんです。






 タクシーには、ここで曲がるって合言葉みたいになってます。



 坂道横に残る抜け道。こういうところもほとんどなくなってしまいました。


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題名のような勝利のための映画ではない   遥かなる勝利へ

2021-11-23 | 映画

遥かなる勝利へ/ニキータ・ミハルコフ監督

 ロシヤ映画。見終わって気付いたが、主演俳優の髭のおじさんが監督さんでもあるらしい。映像も凝っているし、構成もなんとなく重層的だし、よくできた作品である。そういう評判を聞いてこれをメモしておいたんだな、と納得した。
 お話の初めは、いきなり指揮官の酔っぱらった勢いで、無茶な突撃命令が下されてしまう。銃弾の飛び交う中、どうにか生還することが出来る。もともとの従軍経験などで偉かった人らしく、この戦闘後以前の名誉を取り戻して軍隊で再度偉くなった男が、実は妻が生きていたと知らされ帰還することになる。そうすると、妻は以前の友人と結婚し子供をもうけていた。仕方ないこととはいえ多少絶望を覚えていると、再度無理な突撃命令くだされて、それを指揮するように言われるのだった。
 他に耳は聞こえるがうまく話せない娘がいて、彼女は従軍の看護師として前線近くで奮闘している。そういうエピソードとも重複して話が進んで最後には再会することになるが、これも見てのお楽しみということになるか。これはロシヤ風のお話なのか分からないが、ちょっと皮肉がききすぎていて、笑っていいのかどうかよく分からない。だいたいこれは反戦ものなのかもよく分からないし、重たいテーマであるはずだが、なんとなく滑稽なテンポがあって、いわゆるハリウッドや、その他の国の映画とは、やっぱり何かが違うような気もする。そういう意味では、面白い作品であることは間違いない。いや、実際なかなか楽しめるだろう。
 戦闘場面も迫力があるし、一定の緊迫感があるので、人の命って何だろうと考えさせられはする。戦場では本当に簡単に命が失われていく。一方で、ちょっとご都合主義的な感じも無いではないが、戦闘の真っただ中で出産があったりして、命は生まれてくる。妻は失われるが、結婚するものもいて、彼らはその時代なりに祝福されしあわせを手にするのだろう。そういうものがパッチワークのように組み合わさって、この映画を形作っている。見終わってみると、なるほどいろいろあったな、という感慨がわいてくる思いだ。戦争のせいで様々な人間模様を垣間見て、妙な余韻を残す映画と言っていいだろう。
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自衛隊周辺、以前からあるんだろう路地を行く

2021-11-22 | 散歩
 急カーブ途中の住宅の、


 間に抜け道があります。



 陸上自衛隊に出ます。


 何故かナンバーの無い車が多数。


 あっちはハローワーク方面(それにしても変な名称だよね。職安で何が悪いんだろう)。


 突き当り児童養護施設。


 ここも楠並木があります。




 ハマーがたくさん。かっこいいなあ。


 木が高いなあ。


 色違いハマーもかっこいいな。



 この道は自衛隊の敷地の間を抜けるような感じになってます。


 なんだか枝ぶりのかっこいい木がありました。



 自衛隊を囲むまっすぐな道。いかに区画がきっちり分けられていたか分かります。当時の軍の力もあって住宅なども整備されたものと思われます。その前はどんな感じの風景だったんでしょうね。今となっては分かりえないですが……。



 というわけで、区画整備から外れた可能性のある路地に入ります。


 車が行き交うには不便だろうけど、歩く分にはいい散歩道です。



 区画割りされた地域と明らかに違うのは、畑などの形状に沿って、おそらく道ができ家が建てられただろうということが、このような無秩序な路地の入り組みようでよく分かると思います。一見まっすぐに行くような道の先が予見できない曲がり方をしたりします。でもまあこの辺りは子供のころに自転車でウロウロしまくったので、結構知ってるんですけどね。





 でもまあアパートが建ってたり家が建て替わってたりして、子供のころとはやっぱり違うようです。世代も入れ替わったのかもしれません。


 以前は線路わきぎりぎりまで野菜が植えられていたり、そうして勝手にわたる道があったものですが、今は危険防止もあるんでしょうけど、金網にさえぎられて行けなくなっているようです。なんとなく面白くはないです。







 狭いし車が出るには確認が必要なんでしょうね。


 ジャングルのような畑もあったりします。


 丸い石垣は、川から運んだからですが、近くに川なんてないので、わざわざ運んだという富の象徴なのかもしれません。だいたいこういう石垣に囲われたお宅というのは、古い農家や地主さんが多いのではないでしょうか。





 ちょっと広めの道路に出てきた。


 南天みたいだけど違う赤い実がたくさんついてました。



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過去のどんくさい男が後悔する訳   ペパーミント・キャンディー

2021-11-21 | 映画

ペパーミント・キャンディー/イ・チャンドン監督

 最初の場面は、皆50代くらいだろうか、河原で同級生たちが集まってバーベキューをしながら何故かカラオケなどをして遊んでいる。そこに一人の男が迷い込み、しかし彼も同級生で、なんだか荒れていて、結局列車に飛び込んでしまう。それから時系列がさかのぼって、この奇妙な男の過去の話がいろいろと明かされていく仕組みだ。どんどん明かされては行くが、どうもこれがやはり変で、昔失恋があったり、不倫があったり、失業があったり、人を殺したりする。要するに彼のどうしようもなくなった現在は、やはり過去のどうしようもない過ちの積み重ねの集積なのだ。
 妻の浮気の現場を押さえて暴れるのはいいが、その時には自分も浮気相手を車の中に待たせている。そうして面白くなさそうにしている。こういうのがまず、僕にはちっともわからない。お互い様だからではない。この凶暴な気持ちが、分からないのである。
 さらに刑事時代があって、先輩たちから拷問のやり方をおそわり、そうして自分もそういう暴力世界に染まっていく。最初は確かに苦悩があるが、いわば乗り越えるという意味なんだろうか。
 その前の軍隊生活の時には、限りなくどんくさい。集団生活が、そもそも下手すぎるのかもしれない。そうしてさらに許されない過ちを犯す。
 男の哀しい理由は明かされていくが、こんな男が自分の命を絶ったとしても、何の同情もわかない。そういう映画ではなさそうだけど、この男に生きる価値などあるのだろうか(そうであっても生きていていいけど)。そうして過去に女たちは不幸になってしまった。やっぱり取り返しはつかない訳で、もうちょっと静かに死んでしまえばよかったのに。さらに人を巻き込もうとするわけで、それがなんというか韓国的な悲劇なのかもしれない。見ていてちょっと腹が立ってしまって、冷静に観ることができなかった。今もそれを引きずりながら書いてしまったかもしれない。「バーニング」はそれなりによかったんだけどな。まあ、同一監督作品というのは、成長もあらわすことがあるわけで、そういうものかもしれません。
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桜馬場、卜沈 並松、開楽新地

2021-11-20 | 散歩
 かっこいいバイクが停まってますね~。ここはバイクショップってわけではないのかもしれないけど、いわゆる娘さんが女優さんで有名な店の大村店です。事実上ここにお父さんは住んでおられるんでしょう。お父さんは有名なバイク乗りさんで、お客さんはそういう仲間なのかもしれません。


 ここの押しボタン信号長いんだよな。




 車が多くて、警備の人が車の誘導整理をしてました。100均の店がリニューアルしてたんですね。



 向かいが、中古車屋さんとドラモリ。


 コンビニと横断歩道。


 ケーキ屋があって眼鏡屋さん。


 向かいの奥に胴塚があるはずです。


 でも今日はそっち行かず反対側の道を行きます。


 菜園がありますね。


 細長い畑が残ってます。


 きれいに耕された畑、何作られるんでしょうね。


 で、その先が墓所です。


 この中に千葉卜沈の墓があるのです。




 説明掲示板にあるとおり、卜沈さんがここらあたりの地域を開拓させた功績により、何もなかったところが開けた、ということのようです。たくさん植えられた桜があったということで(今もたくさんありますが、あとからの時代のものでしょう)、地名も桜馬場となったようですね。しかしながら並松宿だったところが、どうしてひっくり返って松並になったんでしょうね。卜沈さんとは関係ないかもしれないですけど、気になるところです。



 桜馬場保育園。


 Aプライス横から国道に出ます。ここは以前トヨタカローラだったですね。



 九州教具があって、


 お向かいがドンキです。ここはパチンコ屋さんだったり、居酒屋さんだっけ? 鍋かなんかの店があったよな。それに駐車場通り抜けられるところだったんだけど、今は奥がふさがれております。


 新生電気。


 うちだ屋うどん。


 移転した大村塗料跡。


 ガソリンスタンドがあって、中古車屋さんです。


 黒木医院から自衛隊さん方面へ。


 自衛隊さんの門の側なんで、飲み屋さんもそれなりにあります。


 ここは二十数年前に一度行ったことがあるような気が……。なんてお店だったっけ? 思い出せません。



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グリーンピースで遊んではならない   ミッドナイト・スカイ

2021-11-19 | 映画

ミッドナイト・スカイ/ジョージ・クルーニー監督

 ジョージ・クルーニーの監督・主演作。にやけた二枚目男が老人になったら、撮りたくなった映画なんだろうな。いちおうSF作品だが、ちょっと観念的なところのあるファンタジーかもしれない。いや、もしかしてホラーなのか?
 何らかの理由で地球は滅亡の危機に瀕している。北極の天文台観測所の人間は、家族と会うために次々とそこを離れていく。しかし一人年配の博士は、何か重い病気にかかっており、おそらく余命いくばくか、という理由と、さしたる家族がいないことから、そのままとどまる選択をする。しかしある日、キッチンの下に隠れていた少女を見つける。天文台職員の誰かの子供なのかもしれないが、彼女は口がきけない様子で、確かめるすべがなかった。そのまま共同生活が始まる。一方宇宙では、遠方の星から帰還途中の宇宙船がある。すでに地球は滅亡途中なので、それを知らせなければならないと、博士は考えている。だがどういう訳か通信が不能だ。別の観測所なら通信が可能かもしれないという可能性をもとに、少女を連れて過酷な環境下、移動を試みるのだった。
 結論を言うと、いろいろと問題の多い作品であった。雰囲気はいい感じの映像世界なのだが、展開の理由が今一つなのだ。北極の限界の世界にありながら、氷の下に落ちて平気だったり、また、移動手段を失っても徒歩で移動出来たり、宇宙空間の機器の故障であると単に勘違いして、とてつもなく危険な任務を選択したり、などなど、どうにもお話に説得力が足りない。そもそもの話、そんなことになるだけでお話は終わりだ。おそらくサスペンスを盛り上げるための工夫なのだろうが、SF作品というのは、そこらあたりのリアリティを大切にしないと、その作り物の世界を上手く構築できないものなのだ。それで何となくいい加減な気分にさせられてしまって、大筋のお話が台無しになってしまうのだ。
 しかしながら、やりたいことであったのなら、それはそれでいい。個人としての夢がかなえられたのであれば、それはいいことかもしれない。僕は単にそれに付き合わされただけのことである。人が寛容であるための修練の旅は、続いていくのである。
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放虎原の楠、自動車教習所の裏

2021-11-18 | 散歩
 大村には戦時中第21海軍航空廠という軍事工場がありました。とにかく広い敷地面積だったようで、飛行機の滑走路の街路樹なのに楠のような大木になる木が植えられました。自衛隊の敷地にも楠は多いので、日本の軍隊には楠にちなんだ何かゆえんがあるのかもしれませんね。




 市民病院。訳あって何年も通っております。いつもお世話になっておりますです。何年か前に立派になってよかったです。


 向かい側に太陽食品大村工場。海苔を作っているようです。


 同じ敷地内に長崎冷蔵という会社もあります。直売所もあります。



 で、その向かいに新しくなったうえに移転してきた中地区公民館があります。以前は市民病院の駐車場と大村市の備品倉庫なんかがあった場所です。椅子とか大量に借りに来たりしてた頃が懐かしいです。
 何度かここで会議の予定があったんですが、コロナの関係ですべて中止になったりして、まだここの中に入ったことはありません。まあ、いつかは機会が訪れることでしょう。


 ここにも確かに大楠が植わってたんですよね。多分それの根っこがこれなんじゃないでしょうか。



 お弁当屋さん。


 そのお隣の食堂。お弁当屋さんの娘さんがやっておられるという話は聞いたことがあります。


 斜め前に消防署。その先が警察署。
 消防署にはお孫さんを連れたおじいさんが(たぶんですが)、消防車見学に来てました。署員さんが丁寧に解説している様子でしたよ。
 ここの消防署ではないのですが、つれあいも子供を連れてよく消防車見に行っていたそうです。消防車ってかっこいいですもんね。


 広い敷地に自動車試験場。


 ここの交差点の信号って、点滅してから赤に変わるの早すぎるんですよね。そうして横の信号はすぐに青になります。黙って見てると結構信号無視ともとれる車が出てしまいます。また、信号が変わっても交差点内に高い確率で車が残ってしまいます。ものすごく危険度が高い交差点の一つだと思います。警察署や試験場の前がこれなので、何かの陰謀ではないかとさえ勘繰られても仕方ありません(まあ、考えすぎですが)。


 試験場前は道が細めで、歩道も片側にしかありません。こういうところも区画割の計画性の無さを露呈してます。当時の人たちの事情なんでしょうけど、もう少し考えたらよかったのにね。


 郡岳がよく見えます。


 少し背の高い旅館が二軒見えますが、長崎県には離島が多いので、そのようにはなれた場所から来る人が運転免許の試験を受ける場合などに、主に宿泊するようです。


 写真ではわかりにくいですが、経ヶ岳、多良岳、五家原の電波塔なんかも見えますね。という事は、あちらからもここが見えるはずです。すぐに確かめられませんが。



 ここも事故の多いといわれる小さな交差点前を渡って。


 自動車教習所側にもわたります。


 で、通りたかったのはここの細い路地です。


 教習所にあるニセの線路横断。何となくかわいいです。


 で、路地は続きます。


 レンタルビデオ屋さん、やよい軒、写真屋さん、自動車整備屋さんの裏を抜けていきますと。


 空港通りに出てきました。



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ヒトラーの望みはその後   ヒトラー~最後の12日間~

2021-11-17 | 映画

ヒトラー~最後の12日間~/オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督

 ネットの世界では、この映画の一場面を使って、勝手に吹き替え内容を変えてギャグにしている作品がたくさんある。ヒトラーが激昂して何か言うのを部下たちは戦々恐々として聞き入れるよりない。その緊迫感のある場面にふざけたことを吹き替えて言うと、妙な面白みが出てくるということだ。そうした有名な場面を、映画の実際の科白回しで聞いてみると、なるほど、人生の行き詰った絶望感というものは、このようなものかもしれない、と思わせられる。歴史的に運命はすでに知っているが、しかし当事者は、その運命にあらがい、そうしてある意味では受け入れていった。形勢はだんだん悪くなっていったものであろうが、その後は何もかもうまくは行かなかったろう。最後はただ、願望あるのみである。そうしてその願望を共有している者たちは、結局は裏切られるのだ。
 ヒトラーの二面性は、ときどきは語られてきたことである。冷徹で極悪な人間であるというのは歴史的に決定した顔であるが、しかし、時に非常にやさしい面があったことも間違いないことであった。静かに話をすることもできたし、人のことを気遣うこともできた。もちろん自分の都合の良い機嫌の良い時間と範囲があったのかもしれないが、こと女性や子供には優しく接したとされている。たとえそれがユダヤ人であったとしても、表面的には優しいおじさんになっていた。でもその後は簡単に殺してしまうのだが。
 この映画の題名通り、戦争の一番末期の数日間を描いている。戦っている兵士も一般市民も、そうしておそらくヒトラー自身も、これはもう終わりであることは分かっている。どう終わるか模索してはいるが、多くの人が、なんとかヒトラーが降伏しないか、と思っている。ヒトラーは頑なにそれを拒否するが、さらに絶対に拒否を続けるヒトラーに一定以上忠誠を誓うものもいるが(洗脳されているのだから仕方ないことなのだが)、しかし止められないといっても、終わりは終わりなのだ。それでも戦闘は続いていて、戦いもやけくそ気味である。戦況が悪くなったと報告すると叱られ、壊滅されたと聞くとさらに怒って別の奴を連れて来いという。従わなければ死刑である。こういう状況で探し出して殺さなければなならない。どうせ死ぬかもしれないが、ほとんど意味なんてものはない。無駄なうえにさらにむなしいだけなのだ。
 そういう馬鹿げている中に自分がいる。それは一体どういうことか。ナチスに従ったのは自分の意志だったかもしれない。それは本当に自業自得なことなのか。ヒトラーは自分を選んだ民衆の運命は、まさに自業自得なのだという。だから同情に値しないともいう。そういう話を聞いて、さらに自分自身の心の中を探ってみると、どのようなこたえがでてくるというのだろうか。そうしてもう死ぬにしても、こういう終わりでよかったのだろうか。
 ヒトラーをどう考えるかということは、今の僕らにとってはそれなりに意味があることだと思う。それは一般的にヒトラーの評価なんて決まっている。それは一般的にそうした方が都合がよかった結果である。もちろんそれはヒトラーのまいた種だが、個人としてヒトラーをどう考えるか。少なくとも現在の社会は、多かれ少なかれヒトラー後の社会だ。彼がいなかったら、おそらくちょっと違った世の中になっていたかもしれない。彼自身も怪物だったけれど、彼を怪物にしている社会もあるのかもしれない。僕らはただ、考え続けるよりないだろう。
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採血の恐怖と折り合いをつける

2021-11-16 | HORROR

 僕は元々注射が嫌いだったわけでは無かったと思う。もちろん、好きだったとは言えないまでも、そこまで嫌いだったという記憶がない。いや、子供のころに集団接種から逃げて、僕だけしなかったことがあるような気もするので、やっぱりそれは嘘か。
 いやいや、なんというか、ちょっと強がりをする年頃があって、要するに中学や高校くらいのころには、注射なんかを怖がるのは、何か恥ずかしいというか、合理性に欠ける人間に思えて、嫌だと言ったりはしなかった。交通事故で手術を(大量の麻酔注射は痛かったけど)した時も、それで具合が悪くなるということは無かった。注射が怖くて気分が悪くなるようになったのは、たぶん大人になってからだ。
 僕の腕の血管はあんまり表に出ていないように見える。しかし実はちゃんとそこにあるらしくて、採血をするときに、ちょっと難しい素材であるようなのだ。なぜそう思うかというと、ときどき失敗をされるからである。あんまり何度も失敗をされるので、腕に内出血跡がついてどんより黒ずんでいく。夏だと肘の内側の色が変色して奇妙である。
 腕立て伏せをして血管を浮き上がらせようと努力したが、なんとなく馬鹿らしくなったころに、また採血の時期がやってくるということが重なった。僕は結局、努力をあきらめてしまった。腕立て伏せだってきついのだ。
 そういうことで点滴や採血するときの注射は、かなり緊張する。この緊張感は相手にも伝わるらしく、なんだか異様な空気に包まれる。時計の秒針は妙にコツコツ音を響かせるようになり、耳鳴りの音はジェット機のように轟音と変わる。そうして看護師さんは、あっ、と言って、刺している針を抜く。また失敗したのだ。そうして腕を変え、時には担当者も交代される。一度毎日の点滴が必要な入院をした時には、その階の婦長さんがやってきて、あなたは日ごろからもっと健康に留意して、入院などしない努力をすべきだ。看護師泣かせなのだから、と注意までされた。僕は、健康に留意してこなかったこれまでを、深く反省させられた。
 ところで、恐怖の克服方法に、メタ視力を使うというのがあるらしい。要は自分の置かれている状況を客観視して、あたかも自分の姿を傍から眺めているように観察をする。できるだけ文章化して自分の今を語る。今僕は恐怖におびえていて、注射をさされるべく左腕を前に差し出している。というように、心の中で実況してみると、かえって落ち着くものなのだそうだ。幸いというか、三か月に一度くらいは、定期的に血を抜かれる(しかし年には5~6回)。それで実際に試してみた。
 最初のころは、いくら実況をしてみたところで、恐怖感の和らぐ実感は伴わなかった。ところが一年くらいそれを続けていると、なんとなくコツがつかめるというか、なるほど僕は怖がってるな、というのが分かるようになる。怖いのは怖いが、ひとごとのような気分が少しわかる。それまで生きた心地のしない恐怖感で、終わると深いため息のような安堵感に包まれたものだけれど、終われば終わったで、軽い終了という気分になるようになった。それに比例して、看護師さんが失敗する度合いが低くなっていった。今では年に二回くらいしか、失敗されないのではないか。
 注射自体はいまだに好きにはなれない。血を見た後は、なんだか横腹の奥が痛くなる。気分も確かに悪くなる。そういうことは続いているものの、まあ採血なんだから仕方ないよね、という気分にはなるようになった。つらいけれど必ず終わりが来る。それが原因で死ぬこともたぶんないだろう。
 定期的に採血をすることで、僕の悪いなりの数値はずっと把握できている。僕は突然死ぬよりも、だんだんと弱って死ぬことになるのだろう。そういう、なんとなくの予想が立つような気がする。それはいつかやって来るにせよ、明日では無いことだろう。
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