カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

何か人間というのは、名誉も欲しくなるものなんだろうか   リンカーン

2015-03-31 | 映画

リンカーン/スティーブン・スピルバーグ監督

 伝記ものというのはそれらしく作られているとそれらしい訳だが、いくら有名な人のものであるとはいえ専門家でもないし、後に伝わる逸話というのが正確なものばかりでないことが多いわけで、実際にはそれらしいというのが一番怪しい。これを見ていてまず思ったのはそういうことだ。現代人に分かるように描くためには多少のデフォルメは必要だし、なおかつこの話のように偏見や密室のドラマが繰り広げられているようなお話になると、細部がそれらしいからといって、素直にそのようであったとは、逆に考えにくいのではないか。当時のアメリカの偏見というのは根深いものがあるし、現代には現代の偏見がある。特に奴隷制というような現代と180度真逆の価値観を語るときには、その複雑さの入れ込み具合には途方もない紐解きが必要だろう。実際に南北戦争が終結して奴隷制が法律でも禁止となったのちになっても、それなりに長い時間をかけて奴隷解放や差別というものが変化を遂げていったのは紛れもない事実だ。当時の人の自由の概念と現代における自由というのは、正確な意味で一致することは無いだろう。議会において圧倒的に多数派であった共和党の方が、北では奴隷解放をうたって戦争を優位に終結させる(ヨーロッパ諸国からの資金援助などの問題もあったようだ)方便にしていたという話も聞いたことがある。映画の中でも語られている通り、個人的な動機としては、奥さんから子供を戦死させないため強く言われていたという事もあるようだ。やはり戦争に勝たないことにはどうにもならない訳で、そのために有利に政局を進めるという事が、何より大きな動機だったのではなかろうか。非難しているわけでは無く、歴史というのは勝者の持つ最大の特権的な解釈である。後に敗者の言い分が発掘されたとしても、それが歴史的に残ることは稀であろう。要するにリンカーンというのは、偉大な勝者の代表のような人であって、それが歴代の米国の偉大な大統領の象徴なのである。
 映画としては正直にいって抑揚が少なく、たいして面白いものでもない。主役の俳優の演技力は評価されたが、ダニエル・デイ・ルイスというのはぶっ飛んだ演技が最も素晴らしいと思っている僕のような人間にとっては、かなり残念な演出であるとも感じた。実にもったいない。正直言ってスピルバーグも焼きが回ったな、というようなことを考えさせられる作品になっている。まあ、失敗作もそれなりに楽しめる人には、帳面消しに観ておいてもいいのかもしれない。
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耳鳴りは何故するの?

2015-03-30 | HORROR

 以前公園などに若者がたむろしないように、蚊の鳴く(蚊の飛ぶ音)ような不快な高周波数の音を流して若者を排除する方法を非難する話があった。若いころには高い周波数の音が聞こえているらしく、年配の人にはまったく不快ではない、というか聞こえないらしい。倫理的にどうなのかという話なんだろうけど、面白いな、と思っていた。
 この間やはり年をとると高周波数の音が聞こえなくなることで、その領域が無音になり、そこで耳鳴りがするというメカニズムをテレビで見た。そうして実際に高い周波数の不快な音が流れたらしいが、つれあいなんかは耐えられないほど嫌な音だったらしいが、なんと僕には何にも聞こえないのだった。かなり愕然としましたね、はっきり言って。
 で、正直言って、若いころから僕は耳鳴りがいつもしているので気にしないようにしているのだけど、実はよく耳を澄ますと、かなり今は耳鳴りがいつも激しいようだ。僕は孤独がそんなに苦にならないのだけれど、だからと言って静かな空間は落ち着かない。それはたぶん耳鳴りのせいかもしれないな、とやっと気づいた。静かになると耳鳴りのうるささが際立って落ち着かなくなるのである。だから適当にやかましい空間がリラックスできるわけだ。そのせいなのか、つれあいの話だと音楽やテレビの音量もそれなりに大きいのだという。そうだったのか。
 耳鳴りがうるさくて寝られないということは無いけれど、シラフだとだからちょっと気になるかもしれない。休肝日などに寝つきが悪いのは、耳が悪くなっているためかもしれない。なんだか嫌になっちゃうね、まったく。
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お粥さん

2015-03-29 | ことば

 先日職場の利用者さんが体調が悪くて、ある人が「それじゃ、お粥さんにしなくちゃね」と言った。それはいいが、なんでお粥に「さん」を付けるの? という人もいた。確かに言われてみるとそうかな、と思ったわけだが、僕の場合は自分では使わないが、度々聞いたことがある覚えがある。少なくともこの地区では必ずしも一般的ではないが、しかし女性の多くはそんなに違和感はない(その場の数人だが)ということだった。
 聞くところによると関西なんかでは一般的に言うのではないかという話だが、どうも佐賀なんかでも言うよ、という話もあった。そこまでは知らないが、だから僕なんかも聞いたことはあるという事かもしれない。
 しかしながら「お粥」だからそんなに一般的じゃないという事も言えて、例えば「お稲荷さん」なら普通に聞かれる単語だ。だから食べものに「さん」を付けるからおかしいという議論は短絡的だ。子供の頃に「お芋さん、蒸かしてあげようか」なんかも聞いた覚えがある。
 さん付けというのは、何も人だけのつけるものでは無いのかもしれない。神様には様付だけでなく、さんも付ける。大黒さんとか。神社も神社さんというのも聞くし、お寺さんも聞く。最近では企業なんかそこから来た人に、例えば日産さんとか言ってるのを聞く。人だけという限定が、そもそも怪しい。
 自然のものだってさん付けだ。お天道(てんと)さんなどと太陽のことを言う。同じくお月さんだってお星さんだって。でも水星さん火星さんは言わないな。自然のものでも富士山は違うし、お岩さん、と言えば、さらにちょっと違うな。
 挨拶なんかも、おはようさん、なんかはいう人がいる。でもご苦労さんは、少し違う気もしないではない。でも、やっぱり「さん」なんだろうな。
 僕は外国人にミスター佐藤さんって言われたことがあるけど、そうなるとちょっと過剰な感じもしますね。でも、おそらく外国の人にも、この「さん」という言葉の不思議さを面白がっていたんだと思われます。
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いつまでも戦争をやりたい人々

2015-03-28 | 境界線

 ドキュメンタリーの「ヒトラーチルドレン」というのを見た。ナチスの子孫たちの今の姿を追ったものだ。元ナチスの名前は、考えてみたら僕でも知っている人ばかり。ゲーリングやヒムラー、ヘスなど。ある者は自分の子孫が残らないように避妊手術を受けていたり、ある者はイスラエルの若者につるし上げられたりしている。ユダヤの老人から慰められて感極まり涙ぐんだり、逆に自分の親を激しくののしりユダヤ人と一緒になって過去のナチスを憎んだりしている。
 率直に大変なんだが、まず思うのは、彼らはいつまでもしつこいことだ。肉親をホロコーストなどで殺されているのだから当然だという考えもあるんだろうが、ほんとにそれが当然でいいのかというためらいが少ない。悪いことが確定している戸惑いの無さと強さが感じられる。そうした徹底ぶりは、ナチスがユダヤ人を虐殺したものと何が違うのだろうか。僕は東洋人で敗戦国の日本人だから特にそう思うのかもしれないが、このような世界観で戦争をするというのは、人間の近代的な幼さを感じる。もちろん個人の感情だから肯定されてしかるべきだとは思うが、それでいいとは到底思えない。
 多くの人が関連して思うのだろうが、これが日本の比較になるのではと考える人がいるのではないか。事実近隣の国には似たようなことをしつこく言うところがある。戦後がいつまでなのかは知らないが、さらに人間感情としてそれがあるのは仕方のないことだが、だからといって東条家などのいわゆる戦犯と言われる個人の子孫や、天皇家そのものというのが、直接的に非難にさらされたりはしていないだろう。戦後すぐにはあったかもしれないと思われるが、いまだにそれをやるのは人道的に許されることでは無いだろう。もちろん、日本の軍部に個人的に強靭に指導力を発揮して虐殺をしたような人がナチスのように居ないことと、南京虐殺などを挙げる向きもあるが、実際にホロコーストのような虐殺が無かったという捉え方も、多くの場合共有されていることもあるだろう。もちろん、歴史認識が国によって違うのは当たり前だから、そういうナンセンスをしない態度としては、ドイツやイスラエルよりはかなり成熟した文化という事はあるのかもしれない。もちろん、これをやりたい人は存在はするだろうけれど。
 ナチス幹部の子孫たちに複雑な心情があろうことは自然ではある。しかし特に自分の感情の逃げだろうけれど、イスラエルに出向いてまで自分の先祖を罵るような人間が、正常でまっとうな人生だという感覚は、かなり異常だ。そうしてしまうナチスが悪いという事かもしれないが、そういう罪を犯した原罪があるのだという理屈かもしれないが、そのようなことを考えさせられるような残忍性は、最も人間として卑劣なものではなかろうか。実際に彼らは、この子孫たちに何の罪もないことを知っていてこれをやっているのである。またその本人も、自分には何の罪もないことを知らない訳では無かろう。
 このドキュメンタリーは、戦争の不幸を描こうとしているのだろう。しかしそのような底の浅い現実は、単なる人間の愚かさの証明であるという事のように思える。平和な世の中にあって前を見ない生き方は、人々を幸せにしない。戦争が再び起こるとしたら、そのような非寛容の連鎖が終わっていないという事が最大の原因になるのではないか。再び戦争を起こさない努力は、人を恨み続けることでは無い。現実に今何をするかである。彼らの不幸の連鎖は、結局は次の戦争の火種にしかならないだろう。
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読むことを法律に定めるべき本   殺人犯はそこにいる

2015-03-27 | 読書

殺人犯はそこにいる/清水潔著(新潮社)

 副題は「隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件」。少し前だが菅家さんという人が冤罪で釈放されたことは報道に覚えがあったが、その事件の真相がどうだったかという内容が主である。それだけではそんなに興味の湧かない人もいるかもしれないが、はっきり言ってこれはものすごく衝撃度の高い、まさに後世に残るべき凄まじい名著と言っていい内容だ。
 この本が多くの人に読まれるべき理由は多い。これは警察や検察だけの問題ではないということだ(もちろん、それは大変に大きいことだが)。さらに報道などのメディア関係者などを含む問題点を洗い出すためだけではない。少し大げさに聞こえるかもしれないが、日本人そのものの根幹にかかわることだし、ひょっとすると、人間という生き物、ヒューマニズムという概念そのものを考えるためにも必読の書なのではないかとさえ思われる。読んでいる最中も、そうして読み終わった今となっても、このような感情の激しいゆさぶりを治めることがとてもできない。さらに言って、この本を読んで確信的に理解できているからこそ、いまだに解決されていない、いやむしろ構造的な問題から野放しになっている殺人犯が、限りなく特定されていながら普通の暮らしをしているらしい事実に、本当に激しい怒りを覚える。それが日本という社会だという事と、警察という組織の本質だという事が、事実であるがゆえに、とても信じられない思いだ。
 これだけ話題になりながら、そうして、これだけ確証的な事実の積み上げがありながら、認めることになると別の問題が絡んでいるという理由を前に、サボタージュしなければならない組織というのは何なのだろうか。それは単なるメンツであるとか、過去にさかのぼっての信頼であるとか、そうして身内内部の保身や、さらに個々の単なる無責任が原因なのではなかろうか。少し大きな組織になると、組織にあって個人の責任というものは、限りなくゼロに近づく。さらに個人というものは、その組織のルールから外れることは、自分自身の死活問題にもなりうるタブーなのかもしれない。まさか自分たちのことが書かれているこの本の内容を知らない警察組織の人間がいないとは考えにくいが、事実関係者の、かなり中心的な人物であっても、この事は重々承知しているだろうことがあっても、それでも本気になって自分を変えることが出来ない。それが、なんと現代社会の本当の日本人の姿なのだ。誰も認めたくないのは分かるが、なんと醜く卑劣な姿なのだろうか。これは日本人をまともに映す鏡なのだ。
 ここまで書いていながら少し不謹慎に聞こえるかもしれないが、この本はエンタティメントとしても大変に優れている。手に取った人なら間違いなく感じたことだろうが、面白く読んで惹き込まれてとてもページを繰ることを止められない感覚になるだろう。著者の前著である桶川ストーカー事件もそうだったが、迫真の事実というのは、凄まじいまでに面白いのである。この体験をしない人間は、人生の幾分の一かの損をしている。それくらいにもったいないことなのではなかろうか。この本は中学生くらいの人間の課題図書にしてしまえば、物事を考える大変に有益なものを得るだけでなく、間違いなく読書の習慣が、自然に身についてしまうに違いない。
 広く一般の人が自然に読むことも重要だが、しかしやはりこれは行政などの公務員、そうして絶対的に警察関係者は、たずさわるからには必ず読むべき本と法律に定めるべきだろう。読んだらなら、その意味は必ず理解されるはずだ。さらに本当にその必要性までも。そうでなければ普通に生きていくことさえ怖いと感じるかもしれない。それが実はごくごく身近に存在するものだからなのである。
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場所が変わると、たぶんできるのかもしれない

2015-03-26 | culture

 他人の話を聞いているときに足を組むのは行儀がよくないと言われたことは無いか。僕は具体的に怒られた記憶があるが、怒られても、まあ、そうかなというか、怒る人がいるんだから悪かったのかもな、と思った記憶がある。僕の知り合いの先輩は、会議の時など司会や発言をするときに、膝をほとんど真横になるくらい組んで話す癖のある人がいる。この人は態度が悪いという評判がある。いい人なんだけど、たぶん横柄な感じがするんだろう。
 これが諸外国だとちょっと事情が違うらしい。面接などの時、相手の話を聞くときなど、ごく自然に足を組んだ方がいいのだという。リラックスして相手を受け入れ、大変にフレンドリーな態度としてそうすることがふさわしいのだそうだ。足を組まないでいると、何か距離感があって、打ち解けず、相手を受け入れていない頑なな態度ととられかねないという。だからあえて足を組んで話をするように、とさえ言われることがあるんだそうだ。
 文化と言えばそれまでだが、まるで真反対だ。
 よく日本の「おいでおいで」と手の甲を上に向けて振ると、「シッシッ」というあっちに行けのサインと間違われるという話はある。あちらの多くは手のひらを受けに向けて下から持ち上げるようにやらなければならないようだ。これなどは理屈として分かりやすいが、逆と言えば逆だ。
 客を迎えるときなど、あえて服装をラフにして打ち解けるというのもあるようだ。訪問する方はあちらでもそれなりに身なりを整えるが、迎える側はそうでなくてもいいのかもしれない。そうすることで、早く真実の話まで話せるということ、心を割って話をする、というサインになるのかもしれない。
 日本人はこれが下手だという話もあるが、それは必ずしもそうとは言えない。何故なら、政治家の多くは、外国のメディアに対しては、おおむね真実を話すらしいし、あちらのメディア経由の発言なら、それなりにフランクだったりする。以前あちらのメディア発の小沢一郎のインタビューを読んだことがあって、実に様々なことを自由に語っていて驚いたことがある。日本だと失言騒ぎになりそうなことも、実に自然に話していたようだ。作家の村上春樹だって、日本のメディアでまともに話をするのは稀だけれど、向こうに行くと、自然に英語でも日本語でもそれなりに自由に話をしている様だ。世界的に人気があるとはいえ、幾分気分が楽なんだろう。また、皇太子なんかは、あちらではジョークもいうという。さらに結構面白い人だという事も言われていて、日本語だとやはり自由に話も出来ないんだろうな、という事が察せられる。なんでしょうね、これは。
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単なるロリコン・ポルノではない   さんかく

2015-03-25 | 映画

さんかく/吉田恵輔監督

 最初は妙にエロい感じで、ポルノでも間違って借りたんだろうかと思った。まあ、それが全体の伏線になっていて、この不協和音の始まりが、どんどんそれなりに完成された小さい社会を崩壊させていく。僕にはヤンキー文化というのはほとんど理解できないが、東京とはいえ、いわゆる狭い地域社会の中で、それなりに幸福に暮らしている若者たちの中の狂気のようなものを見ていて、実際には人とのつながりがベースになっていて、その関係に歪みが出来ると、かなり危うく崩壊するものなんだと、改めて考えさせられたのだった。
 同棲生活は必ずしも夫婦ではないというのは分かるが、この場合は限りなく結婚に近い形の同棲なのではなかろうかと考えられる。だからおそらく、妹が遊びに来たといっても、実家の方もある程度了解をしているし、さらに考えてみると、それなりに安心して送り出しているという感じかもしれない。しかし半分子供、半分大人めいた(設定では15歳)年頃の女は、姉の同棲相手を簡単に魅了してしまう。おそらくは自分の恋が上手くいかなかった苛立ちのようなものの捌け口として、自分の自信を取り戻す方法として、いや、もしくは単なる気まぐれとして、なんとなく男の視線を感じることに自然に自分を合わせて魔性の女を演じてしまったのだろうと思われる。だからこれっぽっちも罪の意識は無いし、むしろある程度それが成功して楽しめることもあるし、その後の面倒も、自分なりの自信につながっていったのではあるまいか。そこで精神的には歯車が外れてしまった男は、もともとなんとなく彼女の嫌だった面が大きく感じられるようになり、さらにそのことも自分に都合のいいように思われてきて、それを理由に清算しようという行動に出てしまう。彼女の方は本当に理由など思いもよらず、喧嘩した勢いで、自分のある意味で過ちを責めて、行き過ぎた行動をとってしまう。というか、追い詰められているので、少しおかしいけれど、しかしそれなりに仕方なくストーカーめいたことをしてしまうということだ。これにもいろいろ理由は隠されているのだが、この痛い感じが一気にホラー映画めいたことになるところは大変に面白かった。いや、恐ろしいのだが。
 これは観てない人には分からない話だが、映画の終わりの後は基本的に観るものにゆだねられているわけなんだが、ネットでパラパラとネタバレ感想などを見ていると、ハッピーエンドとして捉えている人が多いのにそれなりに驚いた。いや、僕としては精神的にはハッピーエンドには違いないと思うけれど、皆がそれぞれに狂気から目覚めてみて、皆がそれぞれに間違っていたという悟りのようなことを自覚して、そうしてみると、なんだかもうこれはすっきりと終っていいんじゃないかという事なんではなかろうかと思うのである。だから姉はゴミ袋を妹にも持たせて一緒に捨てに行くわけで、もうやり直しなんてものには執着しないのではないかと、僕なんかは思ってしまう。そうしてそうだからこそ、ハッピーな終わりじゃないかと思うんだが…。
 映画というのは観たものの勝ちであって、監督がそうではないというから間違っているというものでは無い。要するにだからそうやって終わったのではないだろうか。人間の愚かで痛い部分を、結構見事に描いた作品なんではなかったろうか。
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個性なんて伸ばされなくたっていい

2015-03-24 | culture

 河合隼雄が書いていたが、日本の教育界では、個人を大切にしようとか個性を伸ばそうとか、よく大書してあったりする。さらに校長先生が「個性を大切にしよう」と言ったら、なんかワーッとなって、「みんなで一緒になって個性を伸ばそう」という事になって、知らない間にみんなが一体になってしまう。それほど日本では個性ってことがわかってない、と嘆いていた。
 思わず笑ってしまうのだが、これを「ふふふ」と思って笑わない人が、やはりそれなりに居る。じゃあどうするんだ、個性はいったいどうしたらいいんだ、という事らしい。
 まあ、それはそうなんだが、そもそも個性を伸ばそうって言われたら、ああそうですか、なんて思わないで、そんなことよりもっとこんなことを伸ばそう、とか、おいらは知らねえよ、という人がいたって、そりゃ全然かまいませんよ、というのが、本当に個性を伸ばす環境なんだよね、というと、それじゃあ目標にならないじゃないか、と言われたりする。やっぱり日本じゃ個性なんて伸ばせないよな、とつくづく思う訳だ。さらにそんなんで本当に世間が成り立つのか? と聞かれたりする訳で、おいおい、そもそも世間なんてものが個性に敵対するものなんじゃないかな、とも思う。さて、諸外国に世間のようなものがあるのかないのかはよく分からないが、しかしたぶん日本の世間のようなものではなかろうな。第一、そういうものがあるにしても、個人の立場でそれが大切だと本気で思ってはいないだろう。
 個人や個性が大切なら、できるだけそういうものをみんなで大切になんかしない方がいい。それが本当にみんなでいいことだと思う発想自体が、すでに没個性的なのだ。いや、いいことだとそれぞれ個人的に思っていることは別にかまわない。なんだかめんどくさいけど、そういうことに無頓着に賛成なんかしないことだ。
 だけどそんなバラバラなんて嫌だよな。それが日本人の感覚じゃなかろうか。それで個性が無いのなら、それはそれで仕合せでいいんじゃないでしょうか。おいらは知らんがな。
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凄い虫たちに素直に驚く   昆虫はすごい

2015-03-23 | 読書

昆虫はすごい/丸山宗利著(光文社新書)

 書名が内容を示している。どのように凄いのかは読んでもらうのが早い。何しろ凄いわけで、目からうろこが何度も落ちる。世の中には知らないことがたくさんあるわけだが、こと昆虫に関しては、いろいろわかっていても、さらに不思議なことがたくさんある。昆虫が何かを考えてこのような不思議な世界を形成したという事では無くて、広く地球という環境にあって、そうして途方もない長い年月の中で、生命というのは実に不思議な世界を作り出したという事になる。僕は無信心だけれど、昆虫にまなざしを向けると、何かとてつもなく神秘的な何かを感じないではない。それは神の意志であるというより、単なる偶然だけでなされたものでは無いように思うからだろう。進化の歴史というものは、だから人々を魅了し、そうして混乱されながらも、様々なことを考えさせてくれるのだろうと思う。
 昆虫を嫌いだという人はそれなりに居ることだろう。これを読んで好きになるという事ではなかろうが、むやみに嫌っても、いたるところに虫はいる。虫は人間の都合で存在しているわけではない。しかしながら、人間の環境下では生きられないものも少なくない。我々の身近に存在している虫は、実はあんがい少数派の虫の一部なのかもしれない。人間の生きている作られた環境は、虫の居心地の良さを壊す。この事に人間は大変に無頓着だ。「虫けら」という言葉があるが、たくさんいるだろう虫のことを、どこかバカにしているに違いない。虫自体は自分が偉いとも卑下することも無い訳だが、多くの種が絶滅させられているにもかかわらず、けなげに様々な環境下で多様に生きながらえている。自然があるから生きながらえて、そうして生命のバトンタッチをする。他の生命も同じようにその繰り返しのサイクルの中にいるが、最も多様にその生命をつなげているのは、ほかならぬ昆虫という事になるだろう。確かに人間と相性の悪い虫も多いが、そういうものも含めて、昆虫たちを知ることは、おそらく人間の生き方にも参考になるかもしれない。まさに人間ドラマのように、その生態そのものが、何かドラマめいている。さらにやはり人間には関係なく、人間に気づかれていないドラマがたくさん眠っていることだろう。実は人間に発見されていない虫というのはまだまだゴマンといるらしい。そう簡単にわかりえるものでは無いようだ。そうしてその不思議さは、今後も分かりえないまま埋もれているのかもしれない。
 また、虫のことを考えると、日本人というものもちょっと考えてしまう。日本という国にも多様な虫がいる。結構虫を嫌っている人もいるんだろうけれど、しかし比較的虫に対して寛容な国でもあるらしい。虫は様々な環境や、局所で独自の進化を遂げている。何もかも虫のことを擬人化して考えることは危険だけれど、しかし日本という島国で、虫を追っている子供がいる原風景がふつうである国家というのは、やはり少し特殊なのかもしれない。そうして虫の声を楽しむという文化もある。もちろん虫と同様多様な人がいるので、そういうものをひっくるめて日本人論をぶつことは的外れなんだろうけれど、日本人というものが虫同様に多様性の一つとしたらどうなのだろう。我々の事は、虫たちが生きていくことと何が違うのだろうか。人間は必ずしも自然の意志で行動しているわけではないのだけれど、やはり共存しなければ豊かに生きることは出来ないのではないか。そんなことを虫を見ながら考えてみる。それはたぶん有意義な時間に違いないのではなかろうか。
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かなり型外れで、しかも王道   アナと雪の女王

2015-03-22 | 映画

アナと雪の女王/クリス・パック ジェニファー・リー監督

 話題作なんで内容についてはいいだろう。というか、みんなほんとに観た?
 観る前から内容を知っていたわけでは無かったけれど、それぞれの主要な歌の場面なんかはネットで既に流れていて、知らず知らず知っていた。そうして映画の流れの中でその場面に出くわして、実はそれなりに意外に思った。それというのも断片で知っている印象とかなり違う展開の中で重要な歌が出てくるからだ。ミュージカル作品だから唐突に皆が歌を歌う訳だが、ネットで話題になっていたり意図的に流出している場面というのは、歌が印象的でピックアップしやすいという事もあるのかもしれない。たとえばアナといきなりのプロポーズのハッピーな場面は、ちょっとやはり唐突過ぎてこんなんでほんとにいいのだろうかと不安になった。もちろんそれは伏線になっていたわけだが、これだけだとハッピーすぎて、やはりちょっとおかしい。まあ、軽くハッピーではあるんだけれど。
 さらにもっと違和感があったのは、まさに「ありのままに」の女王が孤立する場面であった。この歌だけ聞くと自立した女の姿を力強く描いているものだとばかり思っていたのだが、実際には逃げてひねてしかし開き直って閉じこもりになる場面である。ちっともいいことなんてないよという邪悪さに満ちている。なんてことだろうと不安になる極限場面が、この曲の意味だったのだ。
 しかしながらこのストーリーはどうでもよさそうに見えて、それなりに感慨深いものがあるのも確かだ。おとぎ話でありながら、もちろんラブストーリーが中心でありながら、しかしそれは実は本当に中心なのかというのははっきりしない。むしろ最後まで男に頼ってはいないし、定番の王子様にめとられてハッピーなんでは無い。王子様は邪悪で、しかし真実の愛の男はあんまり冴えていない。いい奴だが、しかしこれは本当に永遠の愛なのかさえ疑問だ。重要な場面では本当に役にさえ立っていないようにも見える。要するにある程度は重要だったけれど、本当に重要な立ち回りのための盛り上げ役に過ぎない。本当に愛してくれる男かもしれないが、自分が積極的に情熱的に好きなのかもよく分からないのだ。こんなラブストーリーって今までディズニーにあったのだろうか。
 もちろんディズニーらしいご都合主義もあるし、動物偏見なんかも見られるわけだが、そこまで鼻につくような感じでもない。僕のような人間は少数派であろうけれど、そうしてやはりそれでも全部は気に入ったものでは無いにせよ、この映画の力強さは本物だと思った。やはりこれは観てしまうだろう。結果がついているのはそういうことなのだという実力の高い作品と、改めて認識したのであった。
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都道府県の代表が本当にいいのか

2015-03-21 | 境界線

 高校野球の季節になって楽しみにしている人も多いことだろう。ところが選抜というのは、必ずしも自分の出身地から代表が出ていない。僕の場合は長崎だから、関心が薄くなってしまったり、比較的仲間である九州地区の代表が勝つといいな、という切り替えをする人がいるものと思う。スポーツというのは代理戦争という面もあって、例えばサッカーのワールドカップなら、自国が強いというのは、つまりそういう意味で愛国心が燃えたりする訳だ。
 しかしながら近年は事はそんなに単純ではない。多くの人が知っている通り、野球留学というのが純然と存在する。高校野球のチームは地域の代表ではあるが、高校というのは様々なものが含まれており、いわゆる純粋にアマチュアというよりプロのためのマイナーリーグ化している現実がある。実際に甲子園に出られるようなレベルの学校の選手の中には、将来的にプロを目指す人が相当数いて当然である。金の卵という意味でも、大学や社会人であれば即戦力が求められていると思われるが、高校球児というのは、プロとしての素質が純粋に問われていると考えられる。地域の学校の広報を兼ねてスポーツを支援するという事を考えると、そのような舞台に立てる逸材を見つけてきた方が、はるかに効率がいい。さらに大阪などの激戦区を勝ち抜くリスクや、さらにレギュラー争いなどのことを考えてみても、比較的予選で計算が立って、さらに起用される機会のある学校へ、いわゆる「留学」する動機は十分に理解できる。現実にプロで活躍している多くの選手は、野球留学で地域の強豪校出身者がそれなりの割合でいる様だ。要するに、そのような選択を経て機会を掴んでプロの目に留まったからこそ、成功の道を登ったと考えていいだろう。
 結局何が言いたいかというと、既に高校野球は都道府県の代表を応援する場としては、多少の正確さに欠けるということだ。それが悪いという事はいえないが、もうそのような思い入れで応援するという意識は、現状を知ると裏切られるという事だと思う。特に人口の少ない県の甲子園常連校というのは、地元の選手の方が稀な存在と言えるだろう。
 もちろんそれでも応援する人はしてもいいのである。その上部に居るプロ野球だって、例えば広島カープだって、広島や中国地区の選手ばかりでは無かろう。ヤクルトだから東京の出身でもないし、ホークスだから九州ということでもない。しつこいが日本ハムだって千葉ロッテだって違うだろう。ドラフトやトレードがあるんだから当たり前だというが、海外だって、野球と違うサッカーだって、いろんな出身が混ざっているのに、地域に根差したという事を言っている。だからこれは自然なことで何も問題は無いという事なんだろう。まあ、僕のように引っかかっている人もたまにいるんだろうけど…。
 でもまあ、僕は団体スポーツではないけど、格闘技の相撲に関しては、外国人はまったく気にならない。日本人横綱待望論なんてあるけど、少ないチャンスでちゃんと強いモンゴル人が横綱であるというのは、実にまっとうに正常なことである。でもまあ、おそらくこれは団体ではないという事と、彼らもちゃんと日本語を話すという事が背景にあるんだろうけれど。その話になると脱線しすぎなのでもとに戻そう。
 いっそのこと高校野球も、外国人がたくさん入るといいな、と思う。実際には過去から韓国や台湾などの人が一定数入っていることは間違いなくて、それは日本人らしい名前にしていたりして分かりにくかっただけの事だろう。でもまあ、それこそが実に自然なことだとは思う訳だ。それで都道府県の代表としてどうだという議論なんてすっとんでしまったらいいと思う。まあ、ある種の人間の感情には、少なからず抵触してしまうという事なんだろうけど。
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特殊と不変の行ったり来たり   アデル、ブルーは熱い色

2015-03-20 | 映画

アデル、ブルーは熱い色/アブデラティフ・ケシシュ監督

 年上の女性に惹かれてそのまま同性愛に目覚めていく過程で、人間的にも成長していく女性を描いた作品。厳密にいって少女より上で大人半という時期の多感なものと、ミステリアスな魅力のある同性への抗いがたい感情との葛藤劇である。禁断の愛と言ってしまうとそうかもしれないが、フランス社会という事もあって、多少の偏見はあろうとも、それなりに間口が広いというか、入りやすい環境にあることも見て取れる。しかし、やはり他の学校生活での友人や、ましてや家族の前であると、恋人関係というより友人や、もしくは隠れての関係を保つという行動をとらざるを得ない。店の中で大胆にキスをするようなことも、あえてそのような抑制の日々がある所為だとも考えられる。もちろん、そうであっても、日本とはまったく違う付き合いのあり方であろうけれど…。
 恋愛感情が同性になることで、いわゆるヘテロである僕としては少しわかりにくいことは多いのだが、ぜんぜん理解できないという事は無い。これに嫌悪のある人には難しい映画かもしれないが、そうであっても既にかなり認知は進んでいるものとも思われる訳で、そういう変な刺激を気にするような映画では無かろう。ただし、ちゃんとセックス・シーンもそれなりに濃厚に描かれているし、それがどういうことなのかというのは、実は僕は見ていてもよく分からない感じではあったのだが、まあ、そうこう捉われず裸で戯れていて快感があるらしいことくらいは理解できる。そういう意味では大人の映画で、ポルノとしての機能もあるのかもしれない。
 本当によく分からないというか、ちょっと難しいなと正直言って思うのは、ヘテロ化した関係に置き換えて、ついつい見てしまうという定型化したものの見方にあるようだ。要するに女同士であっても、役割として男役と女役があるように感じてしまう訳だ。確かにあこがれの女性は短髪で青い髪に染めて少しボーイッシュな感じなんだけれど、これが後半になると、少し女性化が増す。意味としてはおそらく付き合っているパートナーとの関係でそういう風に変化する訳だ。最初は男役を主にやっていて、しかし本当に好きな相手とは女性のように恋をしているという事なのではないか。うーん、これはそれぞれに確認して観てください。
 結局なんだかやっぱり難しいものだな、とも思うし、いくら一般的になっていると言っても、男女間よりパートナーは格段に探しにくい世界ではないかとも思われる。勘違いなんかもちゃんと描かれていて、傷つき方も複雑な感じだ。そもそも恋愛には様々な社会的な立場や個人的な自尊心などもあるから厄介なんだが、これが表面的に説明が難しくなることで、さらに誤解の輪のような問題が膨らんでしまう危険があって、もうこれは大変だな、と思ってしまう訳だ。ストレートに人を好きになることが、既に困難の始まりでもある。それは性とは実は関係なくあることでもあろうけれど、やはり性を超えないところに実はもっと複雑性があるのだという事のようだ。
 でもまあそういうことがあって、人間というのはちゃんと磨かれていく。そういうことが、人間の成長そのものなんだよ、という普遍性というは、共通して分かるところである。
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家に帰ってご飯になった

2015-03-19 | 掲示板

 卵ごはんを味海苔にまいて食べて、焼き魚(たぶん鯵)を食べた。
 二日ほどいつの間にか風呂に入ってないことに気づいて、シャワーを浴びた。ホントに素早く。
 なんとなくトイレに行きたいような不安があったのだけれど、そんなことを考えるのもめんどくさいというか、そうして、通勤の30分を無事乗り切った。
 書面をいくつか読んで処理し、電話の応対をして、少し予定の調整。一つ断り、一つお願いした。でも結局、ほんとに何か減ったのかな。
 見学者があって、いつものように説明している途中で、いつものような言葉で無くて、違う展開になる自分を意識する。サービス精神かもしれないし、しかし何か言いたいことがあったのかもしれない。そうして、時間いっぱい頑張って、なんだか腹が減った。
 うまかっちゃんの担々麺というのに、お湯を入れてラップして2分ほどレンジに掛ける。三分の一食べるつもりだったけど半分ほど食べた。残りを流しに落として、皿を洗った。
 会議のために高速道路に乗って、ああ、そういえば天気が回復しているな、とおもった。
 いつもの駐車場は満車。また移動して別の駐車場に。余裕の時間は無くなった。
 最初の会議は、しかし分かっている通り。そうして、どうなるかな、ということより、まあそうだろうな、と思った。皆本当は分かっているのだ。そうして僕はなんだったのかな、とも思うわけだ。それでいいんですけど…。でも早く終了して間の時間があって、次の会議のための了解事項があって、それはありがたく済ませることが出来た。協力してくれる人も含めて、ありがたいものです。
 会議ではそれなりにちゃんと出席者があって、でも静かに進行して、就任の挨拶して、無事というか、なんだか演じているような、しかし現実感のないような気分はあったように思う。でも正直言うと、途中で開き直って挨拶の言葉は考えていたかもしれない。それでもそれでよかったかはわからないのだけれど…。
 今夜は飲むかもしれない、と伝言していたらしいけど、いろいろ打ち合わせした後に結局帰って来て、家で飯であった。VTRを見て、だらだら酒を飲んで、そんなにいつもと変わんないんだけどな、と思ったりする。それは当たり前なんだけど、気分的には、やはりちがうかもしれないな。来月からさっそくそれなりに仕事が増えるらしい。それが直接的に嫌ではないのだけれど、先は長いんだろうな、とも思う。もっとつきあいを悪くして、もっと人に嫌われるような人間になりたいものだと思うわけで、まったく青い人間だな、と自分を批判するわけだ。それが自分だからしょうがないじゃないか。
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馬鹿馬鹿しくて立派だ   寝ずの番

2015-03-19 | 読書

寝ずの番/中島らも著(講談社文庫)

 艶笑話というのは一つのジャンルだが、普通はこればっかりだと、多少きつくなる場合がある。友人関係で大切なのは、エロネタ、下ネタが出来るかどうか、という話もあるが、それだけの話のやつも嫌われるところだ。そうなんであるが、やはりこのようなネタを自分語り出来るかどうかというのは、やはり一定の人格形成には必要なものかもしれなくて、楽しいんだが、それなりに苦労するところだ。うまい具合に話ができると株が上がるが、これが上手くいかないと、落ち着きが悪くなる。簡単なようでいて、そういう頃合いを見極めるのが難しい。ごちゃごちゃ言わず笑い飛ばしてしまえば済むことなんだが、そういう自分の自意識との戦いのようなこともあって、友人づきあいの上手くいかない人がきっといるに違いない。これを読んだからすぐにどうこうという事は無いだろうけれど、友人が少なくて困るような人には、あんがいこれは為になる本なのではないか。
 という事で、この作品のように、噺家がその話だけで物語を語ったらどうなるだろう。何しろプロなんで、馬鹿馬鹿しいが、延々と続いてもちゃんとおかしい訳である。本当にしょうも無いとは思うのだが、人間というのはしょうも無いんだから仕方がないではないか。要は面白いネタをどのような場面でどのように披露するのが大切か、ということでもある。笑いを取ればいいのだから、場面設定はあんがいきわどいことが多い。そうして最悪の結末を呼び込んでしまうようなことにもなるんだけど、それが却って体を張って面白くなるという事にもなる。そう考えると、おかしいのだけど、ほんのちょっぴり悲しくもある。因果な商売の人たちなんである。
 短編集なので噺家だけの話ではない。もとになるような芸能人とのつきあいのある著者ならではの芸と言えるだろう。しかしあくまでもドキュメンタリーでなく、小説である。作家の才能というのは、このような創作能力という事になろう。馬鹿ばっかりやって楽しんで、そうして他の人も楽しめるものを作ってしまう。ひょっとすると少し苦しんで作っているのかもしれないけれど、馬鹿もここまで来ると、本当に立派である。
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本人でさえ病気が分からない世界   アメリカン・スナイパー

2015-03-18 | 映画

アメリカン・スナイパー/クイント・イーストウッド監督

 話題の映画なので、特に注意してないのにだいたいの内容はなんとなく知っていた。見てみると、まさにその通りの映画で、まあ、それでも僕のように見てしまったという事もあるんで見当違いかもしれないが、皆ネタをばらし過ぎではなかろうか。という感じに、だいたいの話の内容を知っていながら観てみても、やはりそれなりに面白い。そうして事前に知りえた内容ではあったが、ちょっと僕の感想とは違ったな、という事を書いておこう。
 アカデミー賞にノミネートされていて、結局賞は逃したわけだが、まずノミネートされるような気運のようなものはなるほどと思った。実にアメリカ的な理解から言うと、彼らのための映画という捉え方ができるように思えたからだ。中東の人や、僕らのようなアジアの人から見ると、なんだかちょっとシラケるような内容でもある。何しろなんだか関係ないというか、勝手にこういうことを主観的に理解するアメリカ人が不思議なのである。だから、なんで僕らがこんなものを熱心に観るんだろうという違和感がちょっとあった。しかし選に漏れたのは、映画的に出来が悪いとかいうことでは無く、少しそれも中途半端な感じがあるからかもしれない。それこそはさすがにイーストウッドだな、という皮肉にもなっていて、彼が健全だから少しアメリカにも嫌われるんじゃないかという解釈も可能だろう。
 戦争の精神的な葛藤や闇も描いているが、反戦ものとして中途半端だという意見も事前に見ていた。そんなもんかね、というのが正直なところ。そもそもなんで反戦映画でなければ良くないのだろう? そういう感覚こそ偏見というべきなのに…。映画にそうものを求めているのは、現代的な病気のようなものだろう。だからむしろこのような主人公の自伝をもとにした映画であっても、エンタティメントとしてちゃんと盛り上がる娯楽作に仕上げていることに、職人としての監督の良さがあると僕なんかは思う。そうして繰り返すが、ちゃんと蜂が毒針を指すような、そういうこともしている。それは素直な反戦ものじゃないと受け止める人もいるかもしれないけれど、僕にはこんなくだらない戦争なんてやめた方がいいよな、というメッセージのようにも感じる。少なくともこの狂気の主人公は、苦しんでいるとはいえ、殺しを正当化して自ら進んで何度も人殺しに行くわけである。既に任務的に役割を果たしているにもかかわらず、正義という信念をもって、さらに自らの命も危険にさらして、復讐心に燃え、目的を果たそうとするのだ。これを多少の苦しみがあるからとはいえ、人間の本当の狂気と捉えることの方が、実はまっとうなのではないかと思える。個人だけでなくアメリカが病んでいるのは、このような病気をよく理解していないことだと僕は思う。理解できないから、この主人公は結果的にその病気の犠牲になったのかもしれないではないか。そのような重層的な病理を、ある程度素直に描いていることが、この作品の不思議な理解のされ方につながっているのではないだろうか。
 それにしても米軍が介入している中で、イラクの状況はどんどん悪くなっていくようにも見て取れた。事実制圧しているにもかかわらず、米軍の置かれている状況はさらに緊迫感が増していくように見えた。殺されないようにしながら、しかし相手の悪を殺してしまおうとする。成功しても、しかしそれがなんだというのだろう。それでももう本当に手を引けないという事も分かる。経過を知っている今となっては、手を引いた後にどうなっているのかという事もやはり考えてしまう。アメリカの英雄とは僕は本当には知らなかった訳だけど、それが無ければ実際には、いったい誰が何の目的なのかも分からなくなるのではないか。そういうことも含めて、大国というのは実に面倒なものを抱えざるを得ないことが分かる。おそらくそれは、大国の地位にある限り続く、恐ろしく単純な病理という事になるのだろう。
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