カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

テレビのスペシャルドラマ版らしい   東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

2018-11-30 | ドラマ

東京タワー オカンとボクと、時々、オトン/西谷宏監督

 リリー・フランキーの半自伝的原作があるもののテレビ版。主演が大泉洋でオカンが田中裕子である。たぶん後に観ることになろう劇場版の「東京タワー」を借りたはずだったが、明らかに貸し出すDMM側が間違って送付してきた。仕方ないのでもう一度借り直しの処置はとった。この会社は謝罪もなんも無しの酷い体制だけど、めんどくさいのでそのまま関係がズルズル続いているような感じである。他の会社がもう少しましになったら乗り換えるだけのことである。
 ということなんだが、マイ・ペースの曲「東京」が何度も何度もかかる演出であった。以前喫茶店に入ったらこの曲ばかりかかる店で閉口したことがある。この曲は中毒にでもなるものなのだろうか。
 とまあ、内容とそんなに関係ないことばかり書いているが、原作は私小説的なところがあるようで、そういうエピソードをどれだけ拾って作品化したのか、というのがあるようだ。母が死ぬまでのお話なので悲しい訳だが、その悲しさは母との関係があるからである。自分という存在を無条件に受け入れてくれる人というのはそんなにはいない訳で、要するに多くの人にとっての母はこのようにスペシャルなのである。父親もものすごく凄い人だが、まあ、時々なのでいいのだろう。
 東京で働く人という中でも、このように芸能の社会というか、タレント性の高い仕事をしている人というのは、やっぱり特殊である。その特殊性があるからこそタレントとして成り立つのだろうけれど、だから実はあまり一般的な話では無いのだろうとは思う。結果的に東京で母と暮らすというのは、あまり普通では無いのだろう。母はやはり田舎で亡くなるものなのではないか。
 情緒的な話なので、この長く続く悲しい感じに浸れるかどうかというのが観る人にはあるのだろうと思う。僕は情緒的な人間では無いので、リリーには興味があっても、ちょっと不思議な距離感で観ていた。終わってホッとするというか、助かったと思ったりした。特に意識した訳では無いが、こういう感じが大衆的なツボなのかもしれないな、とも思う。やはり僕には距離があるものなのかもしれない。
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正しく選んで不満が残る

2018-11-29 | Science & nature

 コンピュータ(AI)に猫と犬の写真を見せて、どちらが犬か猫か当てさせる。実はこれはそんなに簡単では無い。人間にはなんでもないことでも、そもそも犬の特徴とは何か、猫の猫らしさは何かという情報は、実に複雑だ。さらに最近は人間にだってこれがよく分かりにくい場合がある。うちの愛犬は時には「ニャー」と哭く。まあ、見た目はイヌだけれど。
 当然コンピュータは、写真を見せられた程度では最初は簡単に間違う。犬も猫も四足だし、しっぽだってある。そういう特徴的なものの数は同じであるから、その形や毛並など、もう少し踏み込んだ情報が必要である。従来はプログラムを組んで、それらの細かい特徴で選択させていたようだ。しかしながらそれでは犬という全体を割り出すときになかなか難しいらしく、まったく同じ個体のポチであれば探し出せるというようなことになってしまっていた。
 ところが今はちょっと違うらしい。コンピュータそのものに学習させていくのである。それこそ膨大な数の犬や猫の写真を見せて、そうして答え合わせをしていく。最初は間違いだらけでも、次第にその正解の精度が上がっていく。そこが今のAIの凄いところで、エラーを重ねた経験が、生かされていくようになる。それはある意味で人間と同じことかもしれない。しかしながら決定的に違うのは、その情報量に対する許容だろう。いわゆるビッグなデータを瞬時に飲みこんでいって、成長するスピードも驚異的になるのである。最終的にはイヌやネコの違いは、かなりの程度正確に割り出せるようになる。
 そのような学習方法によって、結果的に正確な答えを人間より先に知ることになる。何しろ相手は電気信号で情報を扱う。人間の処理スピードよりはるかに速い。電卓が計算において驚異的に人間よりスピードが速いように、それらの答えにたどり着く速度は、人間には太刀打ちできない。
 それでもやはり、間違うこともあるではないか。そう人間は考える。
 人間は間違えて良くても、AIは間違えてはいけないのか。そういう疑問は無いのか。さらに間違うと言っても、その理由や結果は人間に分かり得るのか。ビッグデータを扱う上で設問に対する答えについて、多くの場合人間にはそのプロセスが理解できない。しかし答えは目の前に出され、困惑する場合があるのだろう。さらに多くの場合答えは合っていて、もの凄く稀な場合、間違っているのかもしれない。AIに対する不安は、その小さい確率の間違いについてではないか。
 現在心臓移植のを受ける患者を選ぶ際に、AIを使って成功を収めている病院があるという。せっかくドナーから提供を受けても、受ける側との相性が悪い場合が多いのだという。しかしながらAIなら、過去の膨大なデータから類推して、その時に一番適当である人間を選び出せるのである。
 しかしながらこれは、順番で待っている人間の側にとっては、死の選択を受けているにも等しいかもしれない。その後の命の長さを、AIが握っているのかもしれない。そう考えてしまう人は、恐らく少なくないだろう。特に実際に選ばれない人にとって見れば。
 最適解ではあるが、それは誰かにとっては不幸かもしれない。しかし最適なのだから、その犠牲において全体には幸福がもたらされるという事か。これを割り切れるのは他人事で、当事者になってみると、これは確かに難しい問題のように思える。
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評判悪くても観るべし   エイリアン:コヴェナント

2018-11-28 | 映画

エイリアン:コヴェナント/リドリー・スコット監督

 宇宙船のコヴェナント号は、人類の新たな入植予定地の星を目指して航行中であった。しかし事故が起こり、乗組員は起こされてしまう。船長はこの事故で死ぬ。その時に近くの惑星から通信を傍受し、どうも目的の星よりさらに地球型の惑星として条件がよさそうだという事が分かる。そこで探査に降りてみることにするが、エイリアンという映画なので、そこでエイリアンと当然遭遇することになるのだった。
 このシリーズの前段階、「プロメテウス」の続きであるという事らしい。プロメテウスは観たが、内容はほとんど忘れたので、続きであることは分からなかった。まあそれでも、独立してみたところで、そんなに影響はないのではないか。多少わかりにくく、何かをほのめかしたような演出はあるが、基本的には単純な構成になっている。後で知ったが、前評判は大変に悪いのだが、まあ、それも仕方ないな、という出来栄え。好きな監督さんだけど、何か整合性をもって物語を構築するのはあまり上手くないのかもしれない。
 おそらくなのだが、評判の悪かったのは、出てくる乗組員の人たちが、あまり賢い行動をとらない所為だろうと思われる。これではエイリアンの思うつぼである。さらにアンドロイドたちに。さらに会社の偉い人に対しても。
 まあそういうものだけど、なかなかグロくて面白い面も当然ある。エイリアン・シリーズは、基本的にグロいホラー映画とアクションが融合したものである。スケールもだいぶ大きくなっているし、特撮もそんなに悪くない。最初のエイリアンのショックと出来栄えが良すぎるために、比較されて酷評されているものと思われるのだが(それだけどうしても期待が高まる為だろう)、普通の娯楽映画として見るのであれば、まあ、それなりのところといった感じだろう。スコット監督作としてはレベルが低くても、SFホラーとしては気持ち悪くて及第点である。なんとなくフムフムという感じのどんでん返しも、いいのではないか。後味が悪いのも、英国人気質の皮肉っぽくていいのである。
 ただしやはり頭の悪い人ばかりだと、アメリカ人の沽券に係わる問題であるという気はする。その分エイリアンもあまり頭がよくない訳だが、せめて探査にはドローンを飛ばすとか、そういう慎重さが欲しいところだった。それでもエイリアンにしてやられるという展開で無いと、本当の恐怖心が盛り上がらないのではなかろうか。
 まだ監督さんは関連作の構想を持っているらしい。長生きしたぶん、頑張ってほしいものである。
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弱くなった日本人について

2018-11-27 | 境界線

 僕は相撲好きであると思う。仕事が忙しい時は相撲中継を見ることが出来ないので、まったく考えないようにすることが苦痛である。できれば生で観たいが、そんなことはかなわないので、新聞記事だけでもコツコツと見る。テレビニュースは扱いに偏りがあるので、これはこれで嫌になる。ダイジェストの時間まで起きているのは、年のせいかしんどくなった。だから見た目には、実に静かに関心を持っているという感じかもしれない。
 そうであるのだが、一般的な日本人との相撲の話題になると、なんだかなかなかかみ合わない思いをすることが多い。純粋に相撲が好きだという人の多くとはちゃんとかみ合うことが、何故か一般的な相撲ファンとは、かなりの意見の相違を感じるのである。
 それというのもモンゴル問題であろう。また稀勢の里の活躍は嬉しい限りだけれど、日本人横綱だから嬉しいというのが、なんとなくどうもあんまり納得できない。稀勢の里のパーソナリティで応援している訳であって、確かに日本人であることは属性としてぬぐえないまでも、やっぱり横綱として頑張ってほしいというのが一番である。
 僕の子供のころには、高見山が大人気だった。この影響が大きいのかもしれないと思う。僕も当然大好きで、土俵だけでなくテレビで高見山が出ると熱中した。外国人というのはどうしてこうもユーモラスなんだろうと不思議に思ったものだ。相撲の方は強いには強いが、負け方に足腰のもろさがあって、もっとしっかり立てるよう稽古した方がいいのではないかと、子供ながらに思っていた。
 確かに高見山は幕内優勝まではしたが、名関脇として地位が、その他の大人たちにとっても都合が良かったのかもしれない。プロレスのヒール的は見方も一部にはあったかもしれないが、おおむね良好な心象関係にあったのだろうと思われる。
 それからは時代が下ってハワイからの巨大力士時代を経て、モンゴル勢が台頭していく。外国人力士と言えば、確かに多様化しているとはいえども、基本的にはモンゴル人のことを主として指している場合もあると思われる。
 モンゴル人が強いのは諸説あるが、やはり精神力の強さが際立っているのではないか。体格が劣っていてもたゆまず努力を重ね、ここぞというときには集中力が高まる。他のスポーツでも同じようなことではあろうが、大相撲のように一日に一番という勝負を重ねる競技では、モンゴル人気質のようなものが、大変に力を発揮するのではないかと考えられる。相撲を極める人間にとって、まさに理想的な型を会得している人たちなのではないか(まあ、そうでない人もいるが)。
 モンゴルの力士たちは、力強いだけでなく、粘り強く取り口も早い。本当に見ていてほれぼれするような素晴らしい相撲だ。相手のこともよく研究していて、いかに論理的に攻めるのかも考えている。さらにそのような形にならなければ、すぐに別の動きで対応しようとする。王者白鵬は特にそういう能力に長けた人で、恐らく最盛期を過ぎていると思われるにもかかわらず、今も一番強いというのは異論のないところだろう。朝青龍や日馬富士が早く引退しなければもう少し苦しめられただろうが、そう簡単に現在の地位から落ちることは考えにくいのではないか。
 またモンゴルの力士たちは日本語を使って物事を考えている。日本の相撲を日本の言語で理解しているというのは、その心もまた同様に理解できていると考えられる。例えばそれは、野球の助っ人たちとは、完全に違う。相撲の世界は、他のスポーツとは別の次元で外国人が溶け込んでいる世界なのだ。日本人が有利なようにさまざまな規制がある中で、それでも台頭出来る能力があるのだから、それが認められない精神というのが、いかに狭量なものであるのか考えてみる必要があるのではないか。
 テニスの世界では全米オープンで優勝した大坂なおみがブーイングを受けた。米国人のセレーナ・ウィリアムズが優勝できなかったことに対して、米国人ファンが不寛容だったからである(もちろんプレー中の審判に対する不満などもあった訳だが)。見た目が黒人で英語を主として使っている大坂でさえ、そのような立場に立たされてしまうのである。
 日本人の多くが、そのような不寛容な国民だとは考えたくない。しかし相撲の世界を見るまなざしでは、そのような日本人が増えているように感じられる。残念を通り越して情けないと思う。相撲で勝てない日本人を見ると、何か劣る日本人という姿を観てしまうのだろうか。日本人の素晴らしさが毀損されるようなことがあるのだろうか。既に何か落ちぶれてしまったアイディンティティでもあるのだろうか。日本人だけを誇ろうとする精神には、そのような日本人の弱さを感じさせられるのである。


追伸: これを書いたのは11月1日だったようで、あんまりタイムリーではなくなってしまったかもしれません。結果的に横綱不在の場所になってしまったけれど、高安、貴景勝の活躍は素晴らしいものがありました。伸び悩んでいる人もいるでしょうが、着実に世代交代の波も押し寄せている感じでしょうか。
 相撲は基本的には格闘技なので、怪我などに苦しめられて本領を発揮できない力士が一定以上いるものと考えられます。しかしそうした中でも安定した強さを発揮できる上位陣というのが、いかに首一つ抜きんでた存在であるかと、いつも敬意を抱くものであります。勝負の時の運をつかみながら勝っていく姿を見て、僕らは感動してしまうのでありましょう。
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良い選択をするためにやり直せるか   アバウト・タイム~愛おしい時間について~

2018-11-26 | 映画

アバウト・タイム~愛おしい時間について~/リチャード・カーティス監督

 実は前にも観たらしいのだが、ほとんど忘れていて楽しんで観た。アマゾン・プライムの所為である。つれあいにどおりでなんか観たことある、と言われたが、それなりに面白かったのでいいではないか。
 21歳になると、自分の思った過去にタイムトラベル出来る能力を遺伝的に持つ男の話である。父にそう教えられ、父もそうであるらしいのだが、後に死ぬ。そこのあたりは、過去にばかり戻っても仕方ない気分になるという事だろう。過去に戻ってやり直すことで、何か上手いことが無いか。それは恋愛においては、かなり有利だという事は分かる。そうして能力を使ってもうまく行かない経験と、上手くいく経験を積む。要するに結婚もする。子供も生まれる。
 過去に戻って未来を変えると、当然いいことばかりでは無いこともある。ある日妹が交通事故を起こすが、この原因は付き合っている男が悪い所為だとして、妹と一緒に彼氏と付き合う前にタイムトラベルする。それで妹はうまく行くが、自分の娘だった子供は、男の子になっていた。そういうことも起こってしまう。
 基本的にはコメディだが、過去に何度も戻っていい経験を積んで、人生を何度も楽しんでいるという事になる。しかし父が死ぬのは何故だろうか。それは大好きな父が死ぬ未来で無いと、三番目の子供には会えないからである。
 まあ、毎日を大切に生きよう、というありきたりの真理にたどり着くわけだが、それはなんだか東洋的な考え方のように思っていたが、英国でもそうなんだな、と思った。そうしてそういう考え方が非常に英国的であることも、観ていてよく分かる。だからなおさら面白いと思うのかもしれない。これはあんがい普遍的な物事の捉え方なのであろう。さらにやはり僕らは、タイムトラベルは出来ない訳だし。
 過去をやり直したいという事はたくさんあったが、本当に戻りたいかどうかはよく分からない問題だ。戻れないから考えても仕方ないが、その為に何かよくないことが同時に起こりそうな恐怖も感じる。それはそれで取り返しがつかない気もするし、そのバランスの選択を自分で行うことの罪も感じる。この映画の東洋と違うところは、恐らくその罪悪感であるような気もする。その為か、何かとても後味はいいものになっている。そういう意味では、さらに考えさせられるものがあるようにも思ったのだった。
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目覚めたら飯を食う

2018-11-25 | 

 目が覚めてトイレに行った後何をするか。それはもう朝飯を食う。これはありがたいことだが家にいるときは、かみさんが朝食を作ってくれるから出来ることである。すぐにパクパク食って、薬飲んでパソコンに向かったりテレビみたり新聞読んだりする。
 調子が狂うのは、だから出張中である。トイレまでは一緒だが、さて、何しようか一応考えたりしている。飯を食うには服を着なければならない。これが案外めんどくさいのだ。部屋の外に出るためには、寝癖なんかも整えたりする。いっそのことシャワー浴びるか、などとも思う。そのまま寝てしまって、シャワーは翌日でもいいか、と思っていたりした場合もあるからだ。余裕があれば(宴会後)部屋飲み前に軽くシャワー浴びている場合も多いが、そのまま寝落ちしてしまったら、やはり一番厄介はシャワーである。一度シャワー浴びると、ある程度は髪を乾かさなくてはならない。そうすると飯の時間が遅くなる。そうすると、いわゆるトイレ問題も順に遅くなる。散歩もしなくてはならないし、場合によっては何か準備するものもあったりするだろう。まあ、準備といっても特に何もしないことがほとんどだけれど、持ってきた本くらいは読む。遊びの時間が大切なのだ。
 さらにホテルなどの、主にビュッフェなのだが、これを選ぶのが面倒だ。たいてい洋食・和食がある。ほとんどごはんだから和食だが、ごくたまにパンを食べたくもなるのは人情だ。最近は朝カレーや混ぜご飯、卵かけごはんなんかもある。もちろん納豆もある。ソーメンがあったりラーメンがあったりもする。焼きそばもあったりする。パンといっても食パンだけでなく(これを焼くのが面倒だ)、クロワッサンとか、あとはなんというかしらないが、とにかくいくつも種類があったりする。選ぶのが面倒だから全部食べると、食べ過ぎである。さらにおかずだって選ばなければならない。お皿が大きいと結構いろいろ乗る。そうしてサラダ・バーがあったりする。フルーツも置いてあるし、ジュースも複数ある。その配置を眺めるだけでも大変だし、これに並んでいちいち選択しなければならない。食後にはコーヒーも飲まなければ。
 そんな風にしてホテルで朝食を摂ると、心なしかつかれる。普通散歩に出るが、部屋に帰ると既にぐったりしている。トイレを済ませなければならないと心は焦っているが、ぐったりしているので休まなければならない。観たくもないテレビを見たりしてやり過ごして、さて今日の出張本番はどうなるのか不安になる。いや、実はそんなにたいして考えてはいないが、とにかく起きてからすぐに飯を食っておくべきだったと、思ったりするのである。
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天才を操って楽しもう   日本語は天才である

2018-11-24 | 読書

日本語は天才である/柳瀬尚紀著(新潮文庫)

 これを読めば、表題の意味が分かる。普通に日本語を使っている日本語話者であっても、日頃はこの日本語の天才ぶりは意識さえしていないだろう。しかし翻訳家の柳瀬尚紀は、その日本語の天才ぶりにいつも舌を巻いている。そうしてそう感じている柳瀬氏の扱う日本語を読んで、読者も必ず舌を巻いてしまうはずである。こんなに天才的な言語にふれて生活していることに驚きを覚えるだろう。英語も中国語も天才的な要素はそりゃああるだろうけど、僕ら日本語話者にしかとても理解できない日本語の世界というものがある。ちょっとしたシャレや音や漢字や組み合わせを駆使して、時にはまったく意味不明なアクロバットまでこなして、日本語とは表現可能な言語なのである。時には乱れて苦痛になることもあるけれど、ここまで天才であるのなら、解決できないことは無いのかもしれない。本当に凄いのである。
 翻訳というのは、相手の言語から日本語の意味にしたらいいという問題だけでは無いようなのだ。ちょっとしたダジャレやことわざなんかは、そのまま訳したとしても、その面白さの分かりえないものがあるのだ。しかしだからといって諦めてしまうと、やはり翻訳できていないことになる。まったく同じ意味では無いかもしれないが、いや、むしろその日本語の使いまわしによっては本来の意味よりも、その伝わらんとする意味合いが伝わる手段があるのかもしれない。そういう無謀で大変な作業の舞台裏が、惜しげも無く紹介されている。言語にこんなことが可能であったとは、本当に驚愕するより無いのである。
 何かのテレビの影響なのか知らないが、少なからぬご年配の人の中に、日本語は難しいと自慢げに語る人がいる。子供でも話せる日本語が特に諸外国語と比較してむつかしい訳があるはずがないので、僕自身はその言わんとすることに同意するものでは無い。よく言葉の分からない人ほど、何故か日本語の難しさを自慢したがるようなところがあるように感じていた。ところがである。柳瀬さんの本を読んでいると、そういう比較的な自慢とは別次元の問題として、日本語の偉大さに呆れてしまうものがある。なんちゅう言語があったものか。この柔軟で奥深く手ごわい言語を使って、僕らは物事を考えている。僕らは何にもすごくは無いのだけれど、日本語さまは凄いのである。まったく恐れ入りました。
 という事で、いろいろ自慢したくなる日本語読本であります。
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イヌは体がかゆい

2018-11-23 | 散歩

 休みの日などはイヌが期待しているのが分かるので散歩にでる。雌犬ではあるがテリトリーのような意識があるのか、散歩道を一所懸命かぎまわって確認し、時にはマーキングもする。ある程度の距離を歩くまではそういうことに忙しくて、リードを引っ張る力も強い。しかしながら30分も歩いていると、少し様子が変わるような気がする。今は季節がいいのでそこまでははっきりしたものでは無いが、今年の夏のように暑い場合は、その変化が顕著である。それというのも座って後ろ足で体を掻きだすのである。疲れているというゼスチャーと、休もうという意味ではないかと思われる。これを何度もやると、もう歩きたくないのであろう。
 犬はいろいろなことをするが、この体を掻くというのにもいろいろあるような気がする。このように休憩したいサインの場合もあるが、楽しい時も時に後ろ足で耳の後ろを掻いたりする。本当に痒い場合もあろうが、喜びついでに掻いてしまう事があるように思う。喜びついでにいろいろ体を動かしたくて、そのバリエーションの一つに体を掻くというのがあるのではないか。だいたい犬は四本足だから、いわゆる僕ら猿の仲間のように手先で何かをすることはできない。痒いところがいろいろあっても、強引に届く体の部分を使って掻くより仕方ないのだろう。ひっくり返ってゴロゴロしている時もあるし、狭い通路やテーブルなどを使って背中をこすりつけたりもする。前足も時には使うが、首回りなどは後ろ足で強引にガシガシやっている。ほとんど自分を蹴っている場合もあって、自傷行為的でもある。それくらい掻きたい衝動が犬にはあるんだろう。
 うちは飼い犬だからダニ・シラミ・ノミなどは薬を与えて駆除している訳だが、野生の動物にはいろいろな寄生虫がたかっている。はっきり言って共存している仕組みがある訳で、もうこれは大変だろうなと思う。野生動物はかゆみとの闘いで一生を過ごしているのではなかろうか。
 人間は住んでいる環境を野生から隔離することで、このかゆみの世界から、かなり解放されるようになった。一緒に住んでいる犬たちも、そのようにしてかゆみの世界から距離を置くようになった。しかしながら長い年月そうでは無い世界と適応していたので、慣習的に掻いてしまう癖が抜けないということは無いだろうか。そうして掻いている意味というものを、別のことに使うようになることもあるのではないか。発音する言語としての言葉は少ないが、ゼスチャーとしての掻く意味というのは、何か解明されていないものがあるように思われるのだが。
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運命の歯車が大きく動く   闇の歯車

2018-11-22 | 読書

闇の歯車/藤沢周平著(講談社文庫)

 お互いに知り合いではないが、居酒屋で顔を合わせる客同士が一人の男から次々に誘われて押し込みをやることになる。それぞれにはいろいろとお金の必要な事情があって、悪事であるから葛藤はあるものの、引き受けることになる。一方で何年かに一度このような押し込みが起こりながら、まったく犯人が捕まっていなかった背景にある男がかかわっているのではないか疑いを持っている同心が、この押し込みの主犯の男を独自に追っていた。果たしてこの悪事は上手くいくのかどうか。押し込み当日にちょっとしたほころびがあり、かかわった者たちがそれぞれに意外な事件に巻き込まれていくのだった。
 複雑なそれぞれの事情が、押し込み事件をきっかけに大きく展開する。その話の組み立てが実に見事で、思わずうならせられるような物語になっている。悪事を働くような男たちだったが、読者にも十分に今日考えられるように、丁寧に人物が描かれていて、その運命にアッと驚くことになるのではなかろうか。また同情する心情もあって、悪事でありながらなんとかならないものかという考えさえ湧いてくるのであった。
 作家の藤沢周平自身も若いころに娘が産まれた直後に妻を病気で失っている。この中では病気の浪人が似たような立場かもしれない。そういうこともついつい考えてしまうような、すさまじいエピソード描写がある。江戸時代の物語でありながら、なんとなく現代的な問題も扱っているようにも感じられる。それだけ普遍性のある人間ドラマであるためだろう。藤沢作品が面白いのは当然と思われるだろうが、その当然である証明がこの作品に集積されているようにも思われる。手に取れば勝手に最後まで読者を離さない、すさまじいエンタティメント作品ではないだろうか。
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貯蔵に優れた機能に苦しめられる

2018-11-21 | Science & nature

 体についている脂肪は、1キロで7000キロカロリーあるんだという。成人男子の3日分の摂取カロリーに匹敵するらしい。これはエネルギーとしては、かなり膨大なものなんだそうだ。しかしながらこれを減らしたいとして3日食べなかったとしても、1キロの脂肪がそのまま減る訳では無い。そういう都合の良い具合には減らないのは、困ったことだ(それでも食わなければそれなりに脂肪は減るだろうけど)。それに3日も食わないと、かなり精神的にもつらいだろう。他に体調を崩すかもしれない。無理に食べない期間の後急に何か食べても、今度は胃の方が受け付けないなど厄介なことが起こりそうだ。自分の体といっても、コントロールは難しい。
 要するに日常的に食事をとらなければならないのに、その量を減らすのが難しいことなのだ。飽食の時代というが、捨てても捨てても食べ物は身の回りにあふれている。要するに捨てるほど調達できてしまうシステムに取り組まれている訳で、そういう世界から抜け出すことが出来ない以上、困難は続く。肥満の人が入院したり刑務所に入ったりすると痩せるというが、普通の生活をするだけでダイエット出来るのに、それが出来ない環境にあるという事になるのだろう。それはある意味で個人の問題だけにとどまらないことなのではないのか。
 一部の渡り鳥を除いて、鳥は飛翔能力を保つためにほとんど脂肪を身につけられない。脂肪で重くなった体は、飛ぶのには向かない。だから毎日食べ続けなければならない。カロリーをため込めないので、いつも飢餓状態のようなものなのかもしれない。
 おそらく人間という動物は、そのような事態から身を守るために太りやすくなったのかもしれない。常時摂食しなくても生命を維持する機能として。しかし飢餓が訪れなくなった社会においては、その機能がアダとなっている。優れた機能を活かしきれていないのが、現代という環境なのだろう。
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まあ、ガッキーだからいいのである   ミックス。

2018-11-20 | 映画

ミックス。/石川淳一監督

 ガッキー主演。テレビドラマみたいな映画である。まあ、最近の邦画はそんな感じばかりだけど。
 子供のころから母親の影響で卓球の英才教育を受けていた主人公は、母の死後あっさり卓球は引退する。普通のOLとして働いていたが、会社が支援する卓球界のエースとの恋に落ちる。が、結局寝取られてしまう。退職し田舎に帰ると、母が経営していた卓球クラブは廃れてロクな選手がいない状態だった。再起をかけて、男女混合ダブルス(ミックス)に絞って全日本大会へ出場することになるのだが…。
 卓球というスポーツは、いわゆる特撮に向くのだろうと思われる。実際に球をコントロールするのは大変に難しいはずだが、それらしい動きに小さいボールをはめ込んでいけるものと思われる。だから素人ばかりの俳優であっても、見た目はものすごいプレーを見せることが出来る。まあ、それが楽しいという事でもあるのだけど。
 お話は、コメディなので、スポ根では無い。またそうでないと成り立たないストーリーだろう。テレビドラマの人たちが多く出演していて、そういう人達を観たい人を映画館に運ぶ効果は十分にあったと考えられる。いわゆる映画的な文法とは違う要素が多くて、観ながらなるほど、と何度も思った。僕はあまりテレビドラマは観ない方だが、こういう要素が映画に入るのは、日本映画にとってはいいことなのかもしれない。まあ、実際はそんなことどうでもいいけど。
 スポーツは勝てばいいというものでは無い。しかしながら、やはりある程度は勝たなければ面白くは無いだろう。そのレベルをどこに持って行くかで、そのドラマは大きく変わると思う。しかしその程度を無視しても世界を構築することはできる。関係者がどう思うのかはよく分からないが、そういう部分で共感が分かれる可能性はあるのではないか。まあ、繰り返すがスポ根では無い。しかしこの設定で恋愛に絡めるのは、やっぱりちょっと無理があるのではないだろうか。面白くはあったんだけどね。
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AIで個人の自由は増えていく

2018-11-19 | net & 社会

 最近こんなんばっかりだが、NHKの番組でAIが人間の仕事を奪う脅威の話をやっていた。よせばいいのにこれに資産家の孫正義が出ていて、女性の教授から揚げ足を取られて失礼な批判をされていた。要するに仕事を奪われる事ばかり考えてないで、新しいチャンスが無いかこの機会に頑張ってみようという精神も必要だ、という事を孫は言った訳で、正論である。それを女性教授は、やれる人が出来ることと出来ない人がいることを忘れてはならない訳で、資産家の責任のある人が精神論でこのようなことを打開すべきだというのは無責任だ、と批判したのだ。もちろんこれに孫は同じ無責任という言葉を使って、そういう考えをつぶすような空気のようなものを再批判していたが、この番組の性質上、弱かった感が漂った。
 こういう社会主義的な不安をあおって片方を非難するやり方は、誠に卑怯である。たとえAIに人間が仕事を奪われたとしても、資産家に何の責任も無いことだ。AIを開発した人にも責任などは無い。奪われた人は別の仕事をしたらいいだけのことで、お金が無くなる以前に働くべきであろう。
 もっともこの設定が一番勘違いしているらしいことは、この点なのである。工場で仕事を奪われるのであれば、その分の節約された莫大な時間はどうなるのか。そこに大きなチャンスがある訳で、工場で仕事をしなくて良くなった人間が、それを埋めてしまえばいいのである。中にはその時間の使い方をレクチャーするものだって現れるだろうし、工場では作れない、手づくりものの職人だって生まれるかもしれない。そういう価値が見直されもするし、細分化されて新たなサービスがどんどん生まれていくだろう。他人任せになんかしないで、単純な事ことは資本家にやらせて、自分たちはAIを使ってプチ起業をどんどんやったらいいのである。今なら何をやるべきかをプログラムするAIも現れるだろうし、どのようなプチ起業家に投資すべきというAIもちゃんと現れるだろう。個人が自分に最適化して働くことがしやすくなる社会は、どんどん目の前に近づいているのである。
 このような流れは、少なくとも全世界的に行われていくだろうから、それを踏まえての税制度を、国を越えて整備するようなことも行う必要があるだろう。生産性があがった世の中は、その分の余剰を回す余裕も同時に産むことになる。要はその制度を効率化さえて、そうして国境を越えて連携化させる必要が出てくるだろう。社会保障は一部の資産家のみの責任では無い。ある程度の累進性は認められるだろうが、懲罰的にやれば逃げるだけのことである。そういう公平感があってはじめて、社会制度は安定的な担保を得ることが出来る。もっともこれが、やっぱり一番難しい課題であるのは間違いなさそうだけれど。
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とにかく死に方が気持ち悪い   ハーモニー

2018-11-18 | 映画

ハーモニー/なかむらたかし、マイケル・アリアス監督

 原作はSF界では有名らしい伊藤計劃。ぜんぜん知らなかったが、これを書いた後死んだという。彼の作品は3作アニメ化されたそうで、その中の一つだ。
 どうも未来の物語のようで、人々は病気で死ぬことは無くなっている。それはユートピアなのだが、そういう中にあって若い3人の女の子が自殺を図る。いわゆる反逆を起こす訳だ。結局首謀者の一人だけが死んだようだが、月日が流れて生き残った二人が会食している時に、さらに事件が起こるのであった。
 とにかくこの自殺の場面が気持ち悪くて具合が悪くなってしまった。最悪である。内容的には、まあ、そんなものかという感じだろうか。自分の好きに生きるというのは、あんがい難しいことのようですね。自殺が題材である上に、同性愛問題なんかもあって、ちょっと取っ付きにくいアニメ作品である。ストーリーもなんとなく観念的で、謎解きの面白さはあっても、それでぐいぐい引っ張るという感じでもない。未来的なデザインはいいのかもしれないが、そういう絵の魅力で見せるという作品でもなさそうだ。アニメ好きの若い人にとっては、いい作品なのかもしれないが。
 集団で自殺が連鎖することを、「若きウェルテルの悩み」から取ってウェルテル効果と言っていた。僕ら世代だと岡田有希子のような事だが、当時は僕もへえ、と思っていたくらいで、すぐに忘れてしまった。大人たちはそれなりに衝撃を受けていたようで、そういうあたりがテロの効果といったところだろうか。映画の方は、ひとの生きるという意思を自由に操れるようなテロが起こるという設定になっていて、恐ろしいのだが、その目的自体は、やっぱりよく分からないのだった。そういうあたりがもう少し説得出来たら、作品としては良かったのではなかったかな、と思いました。
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トランプさんは力を失っている?

2018-11-17 | 時事

 アメリカの中間選挙は、ごく予想通りの結果になった。下院で民主党が多数派となり、いわゆるねじれが生じたことで、共和党とトランプ大統領は今後苦しい運営になるだろうという事だ。
 アメリカは二大政党制をとっており、どちらの政党が一方的に圧倒してしまうという事はむしろまれな状況が、長い間続いている。そういうシステムなのだという話もあるし、選挙なんだからたまたまそういうバランスを取っているともいえる。日本もそのような二大政党制にすべきだという議論はずっとあったが、どうしてもそういうバランスを取ることが出来ない。自民党が強すぎるのか、それ以外が弱すぎるのはよく分からないが、やっぱりそういう国民性というか、有権者のバランスが著しく偏っているか、もしくは著しく保守的か、という事かもしれない。いや安倍さんはかなりポピュリズムでリベラルなので、そういうバランスというか総合的なところでは、日本という世論は極めてよく分からないけれど。
 ところでアメリカの話になると、どうも日本の報道バランスがかなりよくない印象を受ける。分断を煽るトランプ大統領に、鉄槌が下されたようなことをいう人たちもいる。いったいそういうのは、どういう事なんだろうと思う訳だ。
 確かに下院で共和党が敗れたのは、トランプ大統領に対しての一定の批判が含まれていることは確かだろう。しかしそれはそのすべてでは無い。アメリカの国内世論は、むしろこれで拮抗しているという事の方が、より正確な見方だろう。要するに、一定のトランプ支持は、相変わらず根強いとみるべきなのだ。もちろん当初の勢いはそがれることになるし、法案を通すにも慎重さや時間がかかるようにはなるだろう。だいたい米国の議会というのは、しょっちゅうねじれていることの方が多い訳で、二期目にレイムダック化する大統領という事の方がよく聞く話ではないか。二大政党制は、即決に有利にも働く場合もあるし、そうでない場合もあるというだけのことではないか。ある程度単純そうではあるように見えて、世論というのは慎重さを求めるものでもあるだろう。歯止めがあるというのは、結局そういう事が顕在化したという事はいえるのかもしれない。
 トランプ大統領が生まれた選挙において、日本の報道はヒラリー大統領誕生の期待一点張りだった。今のアメリカを解説している、いわゆるアメリカ通と思われる評論家のほぼすべて、100%トランプ大統領の誕生は無いと言い切っていた(少なくともそういっている人をはっきり見た)。アメリカの良識というのはそういうものであると解説していた。その100%無いと言い切っていた人々が、また今回もテレビでトランプの危機を解説している。彼らにはいったい何が分かっているというのだろうか。このような人々を、しっかりと覚えておくことが、本当にアメリカを読み解く参考になる日が来るだろうと思われる。
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愚かさが身に染みる   ノスタルジア

2018-11-16 | 映画

ノスタルジア/アンドレイ・タルコフスキー監督

 気にはなっていたがタルコフスキー作品だし、暇を見つけたら観ようとは思っていた作品。まあ、評判もいいですしね。ソラリスやサクリファイスも、訳分からないながらそれなりには楽しめたような気もするし…。という感じだったけど、見事に撃沈しました。こりゃかなわんな、という率直な感想。もの凄くゆっくり進行するお話をちゃんと見ていたのに、何の話か最後までさっぱりわからなかった。それで仕方ないのでネットであらすじを読んでも、「?」というのは残ったままである。まったく偉い作品である。
 芸術性と映像美を観るのだというのは分かるのである。作られた美しさは確かに美しいし不思議な感慨を持つだろう。退屈だけど。
 観ていてどうしても感じてしまうのは、この人達は本当はバカなんじゃないか? という疑問なのである。訳の分からないことを、訳の分からない行動で示す。で、芸術なんだから困ったものなのだ。どうだ! という気分は分かるけど、だからなんだ、という受ける側の自分がいて、困るのである。そういう反発心を呼び起こす映像を作ってしまって、一体どうしてくれるのだ、という事なのかもしれない。
 まあ、怒っても仕方がない。要するにノセられて観てしまった自分が悪いのである。話のネタに観たのだからこうして感想を書くことくらいしかできないが、時間を無駄にしたのだから、更に無駄にして愚かである。人間というのはそれほど愚かに生きているのだ、という教訓は、得られたのかもしれない。
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