カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

事前準備が必要らしい

2012-06-30 | ことば

 震災による東北支援は現在も続いている。まだまだ人的な支援が必要なことに変わりはないらしい。いくつか報告を聞くが、長期の支援については、これからだというケースも本当に多いのだという。九州は距離があるから既に人的支援については一段落したような感もちらほら見られるのだけれど、これは再度支援の声を高める必要もありそうである。
 さて、そうなのだけれど、実は九州からの人材がなかなかてこずっているという話も聞いた。来てもらうのはありがたいが、なかなか即戦力になれないらしい。その最大の壁が「方言」なんだそうだ。被災地で介護などの支援を必要とする人の多くは、当たり前だが高齢者で、方言の強い人が多いのだという。九州の人は特に東北のなまりに苦戦する人が多いらしく、コミュニケーションが難しいのだそうだ。支援の設備の問題よりも何よりも、ある程度言葉に慣れるような事前の研修などが必要かもしれないということだった。
 東北の人にとっても九州の方言は分からないものだろうし、これはお互いさまだということではあるのだけど、戦後の戦犯裁判で比較的量刑に差が出たのは、圧倒的に東北出身者が多かったのだという(もちろん重くなった)。通訳の者が東北弁をまったく理解できなかったのが原因だと見られている。命がかかっているので必死に弁明をするのだが、ほとんど聞き入れられることは無かったようだ。
 こういう話を聞くと、改めて日本は広いということのようだ。ヨーロッパの人たちは数ヶ国語をすぐに覚えるという話はよく聞くが、実際にはフランス語やドイツ語などは九州弁と東北弁程度の違いであるという話も聞く。それぐらいの違いがあるということでもあるし、やはりそれなりに近いということでもあろう。
 実を言うと僕は、本当に地元の言葉や職場の地域の言葉を正確に理解できていない。ご年配の人の話を聞いていると、所々は勘で言葉を埋め合わせていくより仕方が無い。世代によっては標準化が進んでいる現状もあるだろうが、それはそれでさびしいことだ。
 廃れるものもあるが残るものは残る。難しい問題ではあるが、気持ちで言葉の壁を越えるより方法が無いのではなかろうか。少なくとも支援によく使われる単語については、ある程度取りまとめて事前勉強する方向で進めていく事が必要なのだろう。
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場合によってはお勧めでは無い   40歳の童貞男

2012-06-29 | 映画
40歳の童貞男/ジャド・アバトー監督

 米国には男同士でワイワイやりながら馬鹿話をしたり映画を観たりする習慣のようなものがあるという。日本でもあるという話も聞くが、少なくとも男同士で連れだって映画を観に行く習慣というのはあんまり無い気がする。当然そのようなジャンルの映画も少ない。ところがレンタル・ショップで大抵は劇場未公開のコメディの棚を覗くと、その類の映画というはあんがい多い。大抵おバカ映画だけれど、その下品さがなんとも面白いのである。家族一緒には楽しみにくいし、デートで観るには最悪だ。しかしやっぱりビールでも飲みながら時々吹き出しながら楽しむということでは、これほど愉快なひとときは無いのかもしれない。
 この映画は邦題の通りの主人公が、ひょんなことから童貞である事がバレてしまい、しかしその甲斐あってどういう訳かモテたり、出世したり、もしかすると初体験どころか恋愛が成就したりしそうになる物語である。下品だし露骨だしちょっとだけエロだったりする訳で、思春期の息子たちのいる前で観るには最悪の選択をしてしまった訳なのだが、コツコツ空いた時間に観て楽しんだ。そうして面白いだけでなく、妙な感動を味わえる作品だったと感心した。なんでも食わず嫌いは良くないのである。
これは単なる予感だが、たぶん女の人が観ても面白いのではなかろうか。いや、男ってほんとに馬鹿だなあ、ということはよく理解できるはずで、まあ、最初からそんなことは分かっている、という人は特にどうということもないのかもしれないが…。
 日本には風俗店というものが堂々とある訳で、例え恋愛が不得手の男であっても、ある程度の年齢で童貞のままであるというケースは、かなり少ないとは考えられる。女の人がどうなのかは、僕はよく知らない。しかし例えそうであっても、やはり童貞のままだという人は確実にいることではあるだろう。晩婚化という問題があるが、婚期を逃すとそのような体験自体が遠のいてしまうことはありうる話だ。女であってもそれは何となく悲しいが、しかし男であるとそれはそれだけで滑稽な感じはする。この映画でもその点を偏見たっぷりに表現しているのだけれど、単に馬鹿にしているようでいて、実はその点にも少しだけ愛情が感じられる。実は男の多くは、この恐怖感にそれなりに共感があるものではなかろうか。男の生理と女のそれとはどの程度の違いがあるのかやはりよく分からないが、性的にあぶれた男というのは、人生においてかなり敗北感のあるもののように思える。しかし遠のいた時間が長いと、能力ということを別にして、かえって意固地に諦めてしまうということがあるのかもしれない。そのぎりぎりのラインというか、ほぼ取り返しがつかなくなるかもしれない年齢が、40くらいということなのであろう。20代くらいまでだと、実際は普通にいそうだから悲惨なりに同士で団結できそうだけど、40代の孤立感は相当なものであるだろう。現実にそういう人に接すると困惑するのかもしれないが、この映画のように馬鹿にしながらも何とか世話を焼きたいという人の方が、実際にも多いのではないだろうか。
 あまり深刻になる必要はないのだけれど、男の恋愛観というものもそれなりに納得できる。というかそれなりに素晴らしい女性とつきあいながら、既に持っている自分自身をさらけ出すことで自信を取り戻していく。変なサクセス・ストーリーには違いないが、妙に元気なれる秀作なのではなかろうか。繰り返すが、家族で楽しんだりデートで選択する映画では無いので、状況を見て楽しんではどうだろう。
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前だけを向く生き方の人

2012-06-28 | 音楽
The Jam - Eaton Rifles - 1979


 英国では国民的なスターであるポール・ウェラー。僕らが子供の頃にはパンク・ロックということで紹介されていて、絶大な人気があった。とんがっててとっつきにくそうなところが良かった訳だが、特に行き詰っている感じもないのに、何の惜しみもなく(という感じがした)解散して、急におしゃれな感じのポップな曲の多いスタイル・カウンシルというバンドを結成した。なるほどこれがやりたかったのか、などと勘繰っていると、それもあっさり解散してしまった。
 昨今、昔の名前で出ています、という感じの再結成が盛んになっているが、ポール・ウェラーの場合、当然この二つともぜひとも再結成して欲しいというファンの要望が根強いものであろう。
 ところがあるインタビューで、どちらかのバンドで再結成しなければ殺すと言われたらどちらのバンドにしますか?と問われて、
「それなら死を選ぶ」
 と言ったそうだ。
 如何にもという感じである。つまり生き方がパンクなんだろうね、このおっさん。
 まあしかし、殺されるとしなくても、またやってみたくなんないものなのだろうか。そんなに嫌な体験だったんだろうかね。
 分からんが、過去を振り返らずに生きていくということで解釈するより無いのだろう。もちろんそれはそれで爽快な生き方なのかもしれません。
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甘さは修行中の身である

2012-06-27 | 

 甘いものは苦手だと公言しているんだけど、実は甘いものを食べても割合平気なようにも成長してきた。というかだんだん年を取ると甘いものを食べると元気になるというは実感として分かるようになるというか。積極的に好きだとは言えないにしろ、口にすると美味しいとは認めざるを得ない。たくさん食うと胸やけしたり具合が悪くなったりする危険はあるが、もう少し手をつけたいという気分は分かるような気がする。そのような甘いものの誘惑というのは、確かに魔力的なものがあるものなのだろう。
 酒まんじゅうをおみやげに持ってくる人があって、僕はめったに手を出さなかったのだけれど、これを牛乳で戴くと旨いという話を聞いた。同意する人が数名あり、それってメジャーな食い方だったのかと驚いた。しかしながらカステラを牛乳で戴くと旨いというのは子供心に感じていた時期があるようにも思う。お菓子と牛乳は相性がいいということなのだろうか。パンと牛乳という組み合わせもあるし、僕は苦手だがアンパンと牛乳が定番だという人も多いらしい。チョコレートも牛乳という話も出て、かなり万能感がある。もちろん子供時代は給食では牛乳でなんでも食べていたのだから、どのような組み合わせにも耐性ができているということは考えられる。僕は牛乳は好きだけれど、飲むと体調に不安があるので怖くてあまり口にはできない。その上に甘いものだなんて、さらに恐怖感が増してしまう。旨いということは分かったけれど、目にするだけでやはり遠慮したくなるという感じはする。
 甘い物の話ではないが、梅干しに砂糖をかけて食べるという人がいて驚愕していたが、食ってみろと勧められて食わざるを得なくなって口にしたことがあるが、その人の手前食えないことはないと言ってみたのだけれど、やはり口には合わなかった。甘くして旨いのは、例えばグレープフルーツやイチゴなどにはそのような感じもしないではないが、梅というのは果物の一種と捉えると、有りということは言えるということなのだろうか。しかしやはりいつの間にかグレープフルーツの身震いするような渋みやら、イチゴなどの品種改良で十分甘くなった現代においては、あんがいそのままの方が贅沢な食い方のような気がしないではない。何かを足す贅沢さより、そのままの方がいいというのは問題が違うと感じる人もあるかも分からないけれど、あえてそういう感覚は、言っておいて確認しておきたい。
 とはいえやはり甘いものには、渋いお茶やコーヒーなどが必需だとは思う。そのような味の対比があって、若しくは口の中の甘さを切るような事をしなければ、僕としては甘さを本当には楽しめないという感じがある。いつまでも口の中が甘いのが耐えられないということなのかもしれない。かと言って一瞬の甘さは心地よくて、また一口という気分にはなるということだろう。
 家人には時々甘いものをみやげに買う事があるが、特に自分が食べたいとはやはり積極的には思わない。甘いものは第三者が食べて喜んでいる図式こそ心地よいもので、自分自身が楽しむものではないのかもしれない。戸棚の菓子をつまみ食いして仕合わせだったという記憶は、なんだか遥かなようなものになってしまったようである。
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幸福な人生を手に入れる方法

2012-06-26 | 境界線

 幸福か幸福で無いかは個人的な主観で左右される問題だ。大金持ちがイコール幸福であるとは限らないというのは、想像してみれば誰にでもわかることだ。しかしながらある程度は、とはついつい考えてしまうことで、条件を整えると、幸福度は増すという信仰を持っている人も多いことだろう。確かに貧困は残酷だから話にならないということは言えそうだけれど、幸福度を上げる方法は別にありそうな気がしないではない。
 実は幸福感を味わいにくい性格というものが、ある。それはいったいどのような性格、いや、傾向にある人だろうか。一時先を読まずに考えてみてほしい。あんがい答えは簡単。
 ひとつは「完全主義者」といわれるような、生真面目でチャレンジ意欲の旺盛な人である。何故なら簡単に納得することができないうえに、必ずと言っていいほど結果にも満足が出来ない。いつも反省ばかりして気に悩み、たとえある程度の成功を収めているにもかかわらず、自分だけは幸福に浸れないということらしい。
 もうひとつはある程度平均以上に能力が高く、常に選択肢の多い人らしい。これはちょっと意外な気がしないではないが、例えば非常に頭のいい人だったら、有名大学はどこにでも入学可能だったとする。しかし一つの学校に入るより仕方がないから、難関であることに変わりの無いどこかに入ることになる。普通ならそれだけでも十分なはずだが、彼ら(彼女ら)は常にその選択が正しかったのか疑問がぬぐえないものなのだという。どの学校にであっても、ぎりぎりなんとか入学したような人は、その満足度は高く幸福だが、楽々入学できたような人は失望しているかもしれないのだ。これは就職などにも言えるそうで、あんがい能力の高い人ほど、早い段階でやめてしまったりするらしい。根性が無いとかいうことではなく、そのようにして結果的に社会的に躓いてしまうような人がいるらしいのである。
 実際はこのような人たちは、多くの人のためには役に立っている人も相当いそうである。完全主義者が諦めなかったから、多くのすばらしい技術は磨かれてきたのだし、ある程度の能力のある人が簡単に諦めてくれたせいで、次のポストに就ける人もいるのかもしれない。
 適当にいつもそこそこで満足できるような人が、結局は人生は徳であるような気がしないではない。それでいいのかどうかは別にすると、あんがいそれなりに幸福な人生は手に入るのではなかろうか。
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出発はネガティブ思考

2012-06-25 | culture

 ポジティブに物事を捉えること自体は、特に異議を感じている訳ではない。またそのような考え方の気持ち良さもよく分かるし、実際に生きていく上で有意義なものであることも認めている。しかしながら厄介なのは、僕自身は極めてネガティブな思考を元にして気持ちを平静化している事実のあることだ。何のことか分からない人が多いだろうけれど、基本的にボジティブすぎることで派生したさまざまな苦い思い出の方が、しこりの様に僕に影響を与えているためではないかと思われる。
 もともと軽率でそそっかしいということもある。その上短気でじっくり考えることが苦手だ。無精者でナイーブですぐにひねくれるということもあるだろう。自分の短所のすべてに自覚的でないから、その他にもたくさんの性格的な難点を持っている可能性も高い。しかしめんどうなので指摘してなくて結構だけど…。というか、ナイーブだから知りたくないです。
 そういう訳だから始終失敗ばかりやらかしている。軽率だから慎重にすべきだという意識もあるし、そう指摘もされることがあるけれど、そうなると強情であまのじゃくな側面が顔を出してきて、ますます物事はいい加減になって行く。それでいて言い訳は得意ときている。見捨てられると清々するという性格の悪さだ。人付き合いもそういうことで衝突ばかりやらかしている。ところが懲りてないかというとそういうことはぜんぜんなくて、それなりにこたえていて、正直言ってつらいことばかりだ。しかしながらそれでも他人の言うことを聞くほどお人よしになれないのは、自分で苦労して考えたりつかんだりしたことしか信用していないということがあるようだ。非常に幸運なことに、ギリギリの経験もそれなりに多かったこともあって、決定的な陥穽に落ちる事をまぬがれている。今のところというだけの話かもしれないが。
 そういう訳で何事も、まず最初に最悪の事態を思い浮かべる事をスタートしにしている。最悪とは、事故につながるとか金銭的な穴をあけるだとか著しく他人に迷惑をかけるとかいうような事である。内容によっては人が死ぬような事態になるような事も扱わないではないが、基本的にはもう少し軽いものの判断の場合ということにしておこう。それでも失敗をやらかすと、それなりに多くの人に影響のあるものは日常的だろう。そういうことを先に想定しておいて、だからやらないという選択をする場合もないではないが、もともとやるべきかもしれないから持ち上がった問題なのだから、最悪でもそうなるという覚悟を決めるというような儀式のようなものである。少しというか、たぶんそれなりに誤解を受ける言い方だが、例えば最悪でも15人が怒るというような事であれば、一日でも謝りに行けるな、という具合に考える。賠償額などもあろうが、それは後で積み上げるしかない。これは僕が絶対に謝りにいかなければならないというイメージが決まると、かえってかなり気分が楽になって新しいアイディアが浮かぶことになることが多い。最悪を見極めたら、その時はそういうアクションをすればいいのであって(それで足りるのかは疑問視されるかもしれないが)、もうあとは具体的に何をやるかというだけの問題に変わるのである。
 僕にとってのネガティブ思考はかのように機能しているために、非常に大切なプロセスだと思っている。先にポジティブに頑張ろうとすると、やはり不安から逃れられず、うまい考えも浮かばない。自分が最悪時にどのような行動をすべきなのかが決まると、他人の出方もある程度はどうでもよくなる。そうして時には他人に仕事を任せても、任せきれるようになるという算段である。それで期待通りにならなかったり、裏切られたとしても仕方が無い。最悪のシナリオ通り、さくさくと行動するのみである。
 これはスピーチなどの嫌な場面などもそうで、最悪5分なり10分なり他人に笑われれば済む事である。上手く行くようなイメージを持つと失敗したときに慌ててしまう。笑われてナンボの商売をしている訳ではないが、恥ずかしいのなら終わってから逃げればいいだけだ。さらに、これは誰か別の人がするべきじゃないかなどと逃げの考えが片隅にあると(そういう場合はえてしてあるものだけど)、なかなか踏ん切りがつかない。最悪があるからこそ成功が嬉しいのである。
 もちろん世の中には、評判の悪い言葉通り、想定外の事もたくさん起こる。想定外は起こり得ないとか考えが足りないから起こることではない。もともと想定外のことというのは、起こりうる事が前提でなければ想定外にさえなりえない。もともとネガティブだとそういうことも受け入れられるということも言えると思う。ポジティブだとなかなかそのことに割り切れないのではなかろうか。それは自分自身が主体であるということとも関係があると思う。何かをやらなければならない主体性のある立場であるからこそ、人はネガティブを担保にすべき場合も多いということなんじゃなかろうか。
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正直者は残酷者である   ウソから始まる恋と仕事の成功術

2012-06-23 | 映画

ウソから始まる恋と仕事の成功術/リッキー・ジャーヴェイス監督

 誰もウソがつけない世界があるとする。つまり僕らの世界には当然のようにウソが存在する世界だから、そのような架空の世界がどの様なものかという思考実験が興味あるものになるということだ。ところがそのような世界は、考えていることが丸見えの世界で、人から蔑すまされたり、疎まれたり、嫌われたりする人にとっては、ものすごく残酷な世界になってしまう。見た目が醜い人は、たとえ心が綺麗であっても報われることはない。せっかく彼女の心をつかむいいところまで行っても、彼女は将来自分の子供が醜くなることを恐れて、付き合いに踏みきれないということに悩んだりする。ちょっとこれはやり過ぎだと思えるくらい露骨なのだが、ちゃんとコメディになっているので見続けることはできる仕組みではあるけれど、よく考えてみると、これはかなりブラックな世界の見方というか、批評になっているという気がする。監督がそのまま主演をしている訳だが、恐らくこの人自身が体験してきた残酷な世界を、ある程度視覚化しているということではないだろうか。つまりウソのある世界であっても、このように露骨じゃないだけで、人間というのは内面的にこのような考えを持ちながら生きているはずだからである。黙っていれば偏見は分からない。しかしそれは単に見えにくいというだけのことに過ぎないのである。
 そういう世界にありながら、一人の男がひょんなことでウソをつけるようになる。誰もウソをつけない世界だから、ウソをついたらそのことはつまり本当でしかありえない訳で、つまり誰もが信じるということは、ウソが本当に扱われるということになる。本当はウソなのにそのウソが世の中を動かす力になって行く。最初は本当に人助けのために良心から不幸な人を助けるために、心の平安のためにささやかなウソを使う訳だが、死を前に苦しむ母親に対して、死んだあとには平穏な世界があるというウソに、周りの人が猛烈に興味を示すようになり、一種の教祖のような存在に祭り上げられていく。まさに宗教の誕生である。つまり宗教はウソだと言っている訳だが、これはキリスト教の国においては、かなり冒険的な世の中の見方ではなかろうか。もちろん、だから人間には宗教が必要だということなのかもしれないが…。
 面白く観たのだけれど、そういう訳で妙に考えさせられる映画である。日本人にとっては実は当たり前すぎる主題だということは言えるけれど、正直にありたいということは、実は罪深いということが良く分かる。そのようなものが本当にウソとして分類すべきなのかは疑問があることではあるけれど、ウソのない世界は普通の地獄なのである。つまり日本人社会(本当は日本人社会でなくてもそうなのだけど、とりあえずその議論は割愛する)の本音と建前は、人間がしあわせに生きていく知恵だということなのだろう。もちろん僕は建前上はそんな社会は嫌いだけれど、本音としてはだいぶ助かっている方の人間かもしれない。残酷だが、それを知らないで生きていくよりはましなのである。
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あんがい本当に犯人が正確に分かったかも

2012-06-22 | culture
 録画していたタイムスクープハンターの「鉄火つかみ裁判」というものを見た。
 ちなみに、最初は子供が喜んで見るかもしれないと思って録画しているうちに、僕のほうが一人で見るようになってしまった番組である。疑似ドキュメンタリーのために形式はわざとらしいのだけれど、これが毎回妙に面白い。過去の事実をなかなか予測できない展開で脚本を練ってあるところが偉いと思う。すでにシーズン4がもうすぐ終わるのだそうだ。
 さて、この鉄火裁判は江戸時代の初め、集落などの争いごとの正否を決めるのに、法ではなくて裁きを天に仰ぐという考えのもと、熱した鉄の棒を持って神棚に納めるということをさせて、それができるかできないかということと、出来たとしたらどの程度やけどするのかということで、神の裁きを仰ぐというものだった。現代人の目から見たらとてもじゃないけどむちゃくちゃだけれど、その当時の人にとっても恐怖の裁き(儀式)ということなのであろう。
 お話はその展開にさまざまなドラマをからませてあり、なかなかの名采配の光る展開であったけれど、実際上このような祭礼で大怪我をしたり、亡くなったりしたものも歴史の上では居たことだろう。時代とはいえ不幸なことであったと想像される。
 しかし、この疑似ドキュメンタリーを見て思い出したのだが、まだまだ神々の居た神話において人の裁きを行っていた時代にも、実は人間的な裁量が生かされていたという話は、学問の上ではたくさんの資料が残されているということなのである。
 今ではナンセンスだからまともに考えようとはしないし、実行が不可能なのだけれど、例えば同じように、殺人などの罪においても、鉄火をつかんで火傷をしなければ無罪、火傷をすると火炙りに処せられる、というような裁きが行われる場合があるとしよう。繰り返すが、現代人の目から見ると、そういうことはあり得ないことなので、実行されること自体が死罪と同じであるように感じられるのだが、実際の裁きは微妙に違ったのではないかということなのである。
 当時の人々には、神々が裁きを行うことにはそれなりの合理性が感じられるからこそ、ある程度納得の上そのような取り決めが行われていた可能性のほうが高いらしい。それは単に現代のような法体系でなく原始的だからという理由ではない。実際の神がそのような取り決めをする以上、本当に身に覚えのない潔白の人物ならば、たとえ真っ赤に焼けた鉄火を握ったとしても、火傷をしないという前提があるのである。神を信じ、身の潔白を自ら知っているものなら、(熱い鉄火に対して、迷いや恐怖があろうとも)堂々とその鉄火を手にするという行動をとるのではないか。また本当に罪人なら、手を焼かれる恐怖に耐えられず、手を差し出すことすらできないのではないか。実際にそのような行動において、犯罪を犯したか犯さなかったか判断の材料にしていたとしたらどうだろう。現在のような科学的捜査は事実を推察する材料にはなろうとも、嘘の証言自体を翻意させることは大変に難しい。しかし神の信じられている時代においては、神の前で嘘を通すことは不可能なのである。実際にはそのような合理的な道筋において、結果的に無謀に見える儀式を執り行っていたということらしいのである。
 もちろんそうであっても無実の罪に死んだ者もいたことだろう。しかし本当に正直なものは、その裁きにおいて無罪を勝ち取り、放免されたということもあったはずなのである。この合理的な考えのほうが、今より冤罪が少なかったのかどうかは比較しようがないだけのことで、ひょっとするとそれなりの成果を出しえたのではないかという話も聞いたことがある。無茶なように見えるのは現代人の無知にすぎなくて、当時においては、やはりかなり合理的に考え抜かれた裁判法なのかもしれない。
 もちろん、現代のヒューマニズムの観点から人の身分のあった時代の考察は大変に難しい。その上想像すらつかないことが多すぎる。限られた残された資料において、どこまで実情を理解できるのかは分からない。しかし、人間の叡智というのは、古代だから劣っていたと短絡に考えるのは、かなり無謀な偏見かもしれないのだ。
 もっともだから当時の世界に住みたいとも思わないわけで、現代に生まれたしあわせを楽しんで生きていこうとは思うわけだが…。
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過去にとらわれるものに未来など無いが

2012-06-21 | 音楽

 僕は未だに車の中では、主にMDプレイヤーを使って音楽を聴いている。時々同乗する人が驚いたりしているので、確かに古臭い人間には違いないと思う。これは以前にも書いたことではあるけれど、すべてストックの所為である。今までに録音した音源に膨大なストックがあって、移行するのがめんどくさいのだ。もちろんMP3用の再生プレイヤーは中東のメーカーのをひとつ持っているし(なにしろ安いからいくつか衝動買いした)、併用しているという側面はあるにせよ、中心になっているのはやはり未だにMDであることに変わりがない。時々不便じゃないかと問われることはあるけれど、実はやはり便利だからそうなっているという現実があるのだ。
 もちろん、不便というのはあるにはある。今や圧倒的に少数派だから、再生プレーヤーはもちろん、ラジオの受信機なんかでも玉数が少ない。さらに少ないゆえに現在売れ残っている(のだろうと思う)ものは幾分割高という感じもする。いま持っているミニコンポの調子が悪い時があるのだが(しかしいつもいつの間にか復活する。偉い!)買い替えるのにも不安がある。いずれは駆逐されて消えてしまう運命であることも薄々気づいているからだ。さらに車のカーステレオも、わざわざMD用のものに付け替えている。これも友人に探してもらって格安だったけど、次もそのように手に入るものかは微妙だ。生き残れないのを悟っていながら使い続けなければならないというのはつらい。
 それでもMDを使っているという最大の理由は、やはり編集が容易だということに尽きる。僕は未だにCDは買うのだけれど、それはそれとして聞くというスタイルが変わらない。アルバムというのはその構成にも意味があって、一連の流れで聞くほうが落ち着くというのが捨てがたいのである。もちろん時にはピックアップするけれど、だんだんそういう作業をしなくなってしまったということもある。それに実はそこまで手が回らないわけがあって、それは基本的に昔ながらにラジオ番組を予約録音して、気に入った曲を取り出してMDに落とし込んで聞くということをしているせいである。そのような編集が他の媒体では実に面倒なので、結局手軽にやりなれたMDに頼っているというのが真相で、しかし手軽と言いながら、一時間番組から曲だけ取り出す作業には、15分から20分程度時間を割かれる。時々さぼって数カ月放置すると、丸々半日とか一日、ラジカセの前でガチャガチャと操作を繰り返している。家人もそんな姿には呆れている様子で、実はずぼらな性格だからそういう作業が好きなわけでもないから、ひたすら出来上がったMDを聞くという楽しみのためだけに、その作業を繰り返しているにすぎない。そうして苦労して編集してたまっていくMDの束に対して、奇妙な愛着が生まれてしまうという図式に縛られていくというわけなのである。この悪循環からはなかなか抜け出せそうにないし、抜け出せるとしたら、その他の編集作業をさらに効率よくマスターするという技能と意欲の問題になるのだろうと思われる。今のところ僕の知らないだけのことで、おそらく方法はあるだろうということは予想ができる程度で、さらに大きな脅迫であるとか必要性に迫られない限り、この世界から足を洗えないということなのである。
 しかしながら物理的に今まで貯め込んだものを全部再生しようと思ったら、すでに数ヶ月か数年の時間は潰せてしまうだろう。要するにストックが溜まりすぎると結局検索に労力を使い、なおかつ不必要なところまで増殖して手がつけられなくなっていく。そうしてやはり新しいものを積み立てて楽しんでいくというようなことになっていく。
 考えてみるとたくさんのレコードやカセットテープは段ボールに詰められて、実は職場の倉庫に積まれている。もうたぶん取り出して聞くこともないはずなのだけれど、それはそうしてスペースを占拠するだけの物体になってしまっているのである。MDはその名の通り形が小さく場所を取らないとはいえ、結局はそのような運命を待っているだけの存在なのかもしれない。その悲しい立場というのが、さらに郷愁を誘い、僕に意固地にさせているのかもわからない。
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退屈からの逃避

2012-06-20 | HORROR

 時々あわててトイレに入って本を忘れていることに気づいてショックを受ける事がある。すぐに済んでしまえばそうそう問題はなさそうだけれど、第2第3の波が来る場合はさらに絶望的な気分になる。今は携帯があるから幾分救われることもあるが、それさえ忘れていれば叫びだしたくなることだろう。
 病院などにも普通に文庫本を持っていく。最近は待ち時間の分かるシステムになっているところもあって、大変に助かる。雑誌や入院患者などが置いて行った本がある場合もあるが、できるだけ持ち込んでいた方が安全である。人気のある病院だと、朝早く行っても昼過ぎになるし、つまり半日は覚悟することになる訳で、時間の浪費が趣味なら別だが、何も持たずに行くことは、無謀にもほどがある。
 出張や公共交通機関での移動は、読書がはかどる。しかしこれは考えようによっては、移動中には自由が制限されてやることが無いので、読書に身が入るということである。他にやることが無い仕方のない状態が、読書への逃避という最適な状況を作っている可能性が高い。
 以前は釣りにも行っていたが、釣れなければそれなりに退屈する。鯉釣りなど鈴をつけてやるものなら、読書しながらということも可能そうだけれど、海釣りはあんまり読書に向かない気がする。磯でもそうなのに船釣りだともっと深刻で、文字を追うと具合が悪くなる。酔う前に酒に酔うという方法もあるが、トイレ問題もあるので女性には向かない。さらにどちらの酔いか分からず具合が悪くなっても、誰も責任は取ってくれない。それでも自然の眺めだとか、波の動きが予測不能で面白かったりもするので、そういうものを楽しむということも可能かもしれないが、大物狙いでさらに坊主だと、落胆の上に時間の浪費の後悔が重なり、取り返しのつかない罪を犯してしまったような気分になる。それも含めて釣りだという豪傑もいるけれど、やはり釣れない釣りには行きたいとは思わない。
 何が言いたいかというと、僕は退屈を恐れているのではないかと思う。もちろん本を読んでも退屈することはある。しかしながら少なくとも何かをしているという安心感はある。問題は何も持たずに何もすることが無いという状況である。そしてその状況から逃れる術が無いという状況である。好きに移動ができるのであれば、散歩するなど対処法はある。他に人がいるのであれば、酒を飲みかわすということもできる。問題はそのような事がはばかられる状況で、なおかつ暇であるというのが困る。
 本当はその他にも葬式というのがあるのだけれど、これは不謹慎そうなので発言を控えてしまった。せめてお経は中国語読みにしてくれると、ひょっとすると少しは意味が分かりそうなものだが(もちろん古典なので歯が立たない場合が多いけど)、日本語の音で読むというのは、単なる呪文に過ぎないと思う。お経は本来説教であるべきだと思うのだが、もうこれはどうしようもないのだろうなあ。僕の知人はできるだけ死なないで欲しいものだと願っております。
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早く出会えば早く幸福になれる    私の外国語学習法

2012-06-19 | 読書

私の外国語学習法/ロンブ・カトー著(ちくま学芸文庫)

 著者はハンガリー人。しかしハンガリー人だから他の言葉を学ぶのに有利だったのだろうか。彼女は学生時代にドイツ語を勉強していたことはあるが、あまりに向かない事を悟って、進学は理系の学部へ進んだのだという。結局就職先が無くて、仕方なく外国語で生計を立てるという賭けに出ざるを得なくなる。つまりもともとバイリンガルのような環境にいた人でなく、それもそれなりの年齢になって初めて一念発起し、最終的には16ヶ国語をマスターするという人生を歩むことになる。そういう人の話が面白くないはずはなくて、言葉と格闘した逸話が満載の楽しい読み物になっている。厳密に言うと言葉をマスターするための実践的なハウツーものでは無いのだけれど、言葉を学ぶ上で最も大切な熱意と言うものを駆り立てる最上の本ということはできるだろう。もちろん言葉だけでなく、何かをやりたいという若い精神の持ち主には、この本を取ることで、将来の道がさらに広がることだろう。彼女自身90を過ぎても新しい言語に挑戦していたらしいから、そういう精神性の醸成に間違いなく効く本なのは当然だろう。
 正直に告白すると、僕自身はことばの習得には苦い思いの方が多い。それなりに格闘した中国語だって、現在はかなり残念な状況に置かれている。情けないといえばそうなのだが、それがぜんぜん無駄だったのかというと、そうとも言い切れないものがあるのも確かだと断言できる。それは何故かということになるとお話は長くなってしまうが、曲がりなりにも母語(母国語)以外の言葉と格闘したおかげで、間違いなく自分の考え方や生き方に影響が大きかったと思うからだ。日本語を扱う理解においても、ものすごく勉強にもなる。当たり前だが人というのは言葉を使って物事を考える。数学だって考えようによっては言語のようなものだ。そうやって言葉を使って考えるという元になっていることに、その道具を磨くことが役立たない訳が無いのである。ひいては考え方そのものの幅が格段に広がるような気がする。
 残念ながら使わないものはどんどん忘れてはいくものだけれど、時々取り出して多少磨いてみると、あんがいまた輝いてみたりすることがある。そういうものを一度見てしまったものにとって、この輝きの魅力は本当に素晴らしいものなのだ。そういうことを繰り返しながら生きていくことは、困難であるが、やはり楽しいものなのだろう。
 言葉で苦労した人の話で酒を飲むのも本当に楽しい。誰だってカッコよく流暢に話をしてみたいとは思うものではあるだろう。しかしながら当たり前だが、その道は結構険しい。そうして険しいからこそ何度も何度も挫折を味わう。つまりその挫折の道そのもののネタは尽きないのである。考えてみると母語で議論しても相手はなかなか理解しなかったりする。言葉を変えて物事を伝えたり考えたりすることは、そういう物事をさらに難しくして当たり前なのだ。
 しかしながら時には他の言語の表現を聞きながら、母語には無い合理性だとか、美しさに感激することがある。そのような表現ができることが羨ましい。こんなように言うことができれば、自国の付き合いもまた変わるのではないか。そういう思いが分かるというのは、別の言語を知らない土台の人には理解できないことだろう。そういう経験の決定的な機会の差が、言葉とつきあうか付き合わないかで変わってしまう。それは人間に生まれてきた者として、ちょっと損していることになるのではあるまいか。
 まあ、いろいろ考えずとも、ぱらぱらめくって楽しく読んで何の差支えも無いだろう。まずは日本語を楽しむ。その楽しみの理解にもなることだろう。そうしてなんだかやる気になったら、また悩まずチャレンジしてしまえばいいのである。そのような世界が目の前に広がっていることに、あんがい人は無頓着だ。そのような気づきのための最初の段階で、この本に出会える人は幸福であろう。
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殺人は人間の本能を刺激する   殺人ゲームへの招待

2012-06-18 | 映画

殺人ゲームへの招待/ジョナサン・リン監督

 この映画は結末がひとつではない。訳が分からないだろうけど、上映された時は、上映館によって結末が本当に違ったらしい。DVDで観たのでその三つを連続して楽しめるお得版でもある訳だが、謎解きという点では、それぞれに破綻が無い。殺人には普通動機や手段がつながらなくては納得がいかない。そういうものがこのようにつながる妙技というものを楽しむ、コメディ映画なのである。
 ストーリーの元になっているのは「クルー」というボードゲームなのだという。原題もだからCIUEである。どういうゲームなのか分からないのだが、双六やモノポリーみたいなものなんだろうか。そうやって物語が展開していって、本当に結末につながりが明確になるものなのだろうか。
 基本的には元になっている設定次第で、脚本をいくらでも練ることができるという証明でもあるのだと思う。映画の結末が違うというのはあんがい聞く話で、監督と会社の確執だとか、いろいろ理由が話題になったりする。時期を越えて違う結末の同じ映画が配給されるという事件(?)も時には起こるようである。この映画のように、どの結末でもそれなりに気が効いているものができてしまうと、全部捨てがたく実行してみよう、ということになってしまったのかもしれない。
 しかしながら物語はひとつの邸宅(というかほとんど城)の中で起こるわけで、俳優たちの演技合戦という趣の展開になっている。映画を観ているというより、ほとんど舞台劇を観ているという感じが近い。たぶん舞台でも上演可能で、ひょっとするとそういう土台もある可能性はある。役者さんの演技も、コメディという側面もあるにせよ、舞台上のドタバタを特撮なしでやっている感じだ。殺人は頻発するがおどろおどろしさは微塵もなく、さまざまな仕掛けのギャグが地雷のように仕組まれているという感じだ。多少のまどろっこしさはあるものの、こなれてくると、このようなギャクというものを楽しむ文化というものも味わえて、二度おいしいという感じもする。日本の文化とは明らかに違う上品さと下品さがないまぜになっていて、僕らには分からないけど彼等は笑うところかも、というような場面も多かった。ブラックユーモアを楽しむというのは、禁断の頭の自由さを確かめるというところもある。そこのあたりは古い面も含めて、資料的な価値もありそうである。
 別段子供が観てもかまわないとは思うけれど、基本的には大人の事情がそれなりに分かる方が楽しめる映画である。普段はそのような複雑な世情の中で生活している大人たちにとって、殺してしまえばそれなりに解決してしまう問題というのは存在するものだ。もちろん実行する人はそんなにいないからいつまでも人々は苦しまなければならない訳だが、せめて空想の世界では何人殺そうが自由である。そして折角殺すのであれば、それなりに楽しい展開で死んでもらうことに越したことはない。要はそのようなブラックさというのは、あんがい人間の娯楽として非常にまっとうな感覚なのかもしれないのである。
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システムが変わると日本人気質も変化するのだろうか   安心社会から信頼社会へ

2012-06-16 | 読書

安心社会から信頼社会へ/山岸俊男著(中公新書)

 一般的な認識からは承認しにくい事実に、西洋人と比べると日本人は個人主義的なわがままな傾向があるということはよく知られていることである。もともとそういう気質なのかどうかは分からないが、他人のことより自分のことを大切にする利己的な精神の持ち主が多いらしい。そうではあるのだけれど、社会のシステムにおいて、そのような傾向はどこか打ち消されているように見えるというか、実際の当事者たちはまったく逆の認識を持っているということが知られている。最初にそのことを聞かされた時は、僕もそれなりに驚いて信じ難く感じたものだけれど、少ない諸外国の人間とつきあってみると、実際にそのことを体感することは多々あることだ。もちろんその逆もあるのだけれど、多くの場合、それは日本社会の中での事に過ぎなくて、個人個人の感覚としては、彼等は仲間を大切にするし、他人の事を慮る精神に高い価値を見出している事が分かる。日本人一人一人は、他人がするからそのようにふるまっているに過ぎなくて、実際には他人の事なんてどうでもいいと考えている人の方が多いようなのだ。仕方なくそのようにふるまうような態度を作っているだけのことで、本心はあんがいクールに人付き合いをしているのかもしれない。
 そのような日本人の振る舞いは、どのようにしたら明らかにされていくのだろうか。アンケートや実験を行ってどこまでその謎を解き明かすことができるのだろうか。確かに多くの実験を通して、驚きの姿が開示されていく訳だが、つまるところそれは、日本人の気質そのものというよりも、社会の成り立ちの中で、どのような人間であってもそのようにふるまうという人間本来の性質のようなものがあるということが明らかにされていく。アメリカ人はアメリカ人のように、ドイツ人はドイツ人のようにふるまっているのではない。単なる社会的な風習であるとかシステムであるとかで、人はそのようなふるまいをしているだけのことなのではあるまいか。
 何となくぴんとこない人の方が多いことは当然だろうと思う。それは実際には偏見ではあるのだけれど、偏見を持つような社会の中だから、ある程度は仕方のないことなのだ。そのようにして間違った考えを持つというのも、ある意味で人間性の表れとも言えるだろう。そうしてそのような偏見を持つことで、実際にそのような偏見を証明するような出来事が積み上がって行くものなのである。差別をされる側の人間というのは、差別を受ける理由となっている、偏見を受ける理由となっている行動を取らざるを得なくなっているとしたらどうだろうか。例えば日本においての就職においての女性差別は、社会の中に内在している事実である。しかしながら女性は差別を受けるだけの理由に添って行動をせざるを得ない状況にあるから、さらに差別的なふるまいを受けざるを得ない理由通りの行動を実際にしてしまうのだ。それは社会のシステムがそのようにふるまわざるを得ないものであるとしたらどうだろう。実は日本の終身雇用のシステムが、その元凶である可能性が高いのである。
 多くの人には受け入れ難い、不都合な真実の詰まっている話が多いのかもしれない。しかしながら、好むと好まざるにかかわらず、日本の社会システムは大きな変換期を迎えていることは確かそうである。そのことで、いわゆる日本的な美徳というものも同時に失われていくのだろうか。もしかしたらそうかもしれないし、そうでないかもしれない。しかしながら日本の社会が自然に培ってきた、安心社会というものが、実際に成り立たない状態に既になってしまっているようにも感じられることである。日本人は著者が提示しているような信頼社会へ向けて、社会を構築することができるのだろうか。問題は、そのような変化への対応力の無さのような気がしないでは無いことだ。実を言うとこの本を読んでその通りと思うのもの、ますます日本人の行方が絶望的に思えることだ。僕の思い違いであって欲しいと本当に願っているのである。
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速すぎると駄目な場合もあるらしい

2012-06-15 | 時事

 今年はロンドン・オリンピックということで、オリンピックにまつわる話題で盛り上がっているようだ。個人的にはあんまり興味はないものの、それなりにさまざまな話題にふれることが多くなるし、否応なしに情報が入ってくるという感じだ。
 そうした中、南アフリカのキャスター・セメンヤ選手のドキュメンタリーを見た。女子中距離の選手なのだが、圧倒的な速さということもあるし、見た目や声の低さから、男性であることが疑われて、いろいろと話題になった選手である。結果的にはそのような体質の人であるということのようだけれど、それで女性では無いということでもないらしい。
 何となく信じられない人が多いように思うが、医学的に男性か女性かというのは判断が難しい問題らしく、調査をしてもどこで線引きをするのかは、あくまで恣意的にならざるを得なくなるという。ドキュメンタリーでは明確に語られなかったけれど、両性具有というような人というのは、ある一定の確率で存在する。セメンヤ選手がそうであるのかははっきりしないのだが、通常の女性よりテストステロンなどの男性ホルモンの分泌が多いというのは確からしいことのようだ。もちろんだからといって競技に有利であるかどうかは、実のところ明確でもない。男子のウサイン・ボルトという選手だって、人間離れした骨格の持ち主であることは知られている。しかしそれは自然に備わったものであって、特にインチキであるということにはならない。同じくセメンヤ選手の場合だと、女性らしくない体格の持ち主だからと言って、インチキをしている訳ではないのだ。しかしながら女性らしくなく速すぎるという理由で、陸上界から追放されそうになっているということなのだ。
 さらに疑惑が持ち上がった当時は18歳という年頃のことで、彼女は渦中にありながら激しく悩まされることになってしまう。引きこもったり反抗的になったり、出場できるのかできないのかということも明確にならない未来にいら立ち、すべてが投げやりになったりもしてしまう。ほとんど残酷物語といってもよい境遇の中、わずかな望みを託して自ら棄権するように言われた大会に弁護士など交えて交渉し出場しようとする。
 結局最後まで、人々の興味は彼女が本当に女なのかどうなのか、ということであるようだ。最終的にはオリンピックの出場を果たすことになるのだが、パパラッチなどはそのような興味で付きまとって離れない。そういう意味でも、彼女はやはり必要以上に強くならざるを得ない。そうするとますます男らしく見えるということにもなってしまうようだ。また、彼女と同じ競技に出ている選手たちとしても、やはり割り切れずに審査するように働きかけるようになってしまう。時には別の検査と偽ってまでも、性別検査が繰り返し行われていくのである。
 つまるところ人類の中で一番早いというのは何なんだろうな、とも思う訳だ。確かに日ごろの鍛錬もあるのだけれど、普通のひとよりは異常に早い人々がさらに速さに磨きをかけて競うということが行われている。スポーツというのはそういうものではあるのだけれど、そういう異常な頂点を求めるあまり、人々はその選手たちの内部や背景にまで踏み込んで詮索することを平気でやってしまう訳なのだ。
 まあ、僕もその一人ではあるのだけれど、そういう訳で少しばかりオリンピックには冷めて見ている自分がいるようなのである。もちろんセメンヤ選手に関しては、このドキュメンタリーを見るまでよく知らなかった事を恥じて、まともに応援しようとは思ったことであった。せっかくつらい目にあっていることだし、ものすごい記録が出るといいですね。そうするとまたその記録を残すのかどうかという議論がわき上がることにはなるんだろうけれど…。
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割り切れる月に通う

2012-06-14 | 雑記

 散髪した。いつも、いつも通りとしか言わないが、夏になると心なしか短めに切られるような気がする。別にそれでいいんだけれど、厳密にはいつもどおりじゃない気がしないではない。しかし、それが夏だということなのだろうか。
 一年が12カ月だから、できるだけ割れる月毎に行けたらいいかな、とは考えていたように思う。長髪時代は3年くらい床屋には行かなかったけれど、のびすぎるとそれはそれでめんどうだということも分かったので、一年に何回かは行った方がいいと考え直した。しかしながら毎月行くのはそれだけでめんどうな気分になる。2ヶ月に一度も何となくせわしない。3ヶ月くらいは適当感が漂ってくるが、4か月でもまあ、かまいはしない。しかし6ヵ月だと何となく手遅れな感じがすることも分かった。繰り返すが5ヶ月は割り切れないので行きたくない。社会人はそれなりに大変なのである。という訳で、3ヶ月か4ヶ月かに一度床屋に通う。たまに2か月であってもよしということがあってかまわない。何となく行こうかな、と思うと3カ月くらいになっていることが多いだけかもしれないが…。
 先日は親父さんの方がシャンプーをしてくれて、「白髪が多くなったねえ」と言われた。実は若いころから白髪は多い。家に帰ってつれあいに本当かと聞くと、横が増えたね、と言う。そうか横なら仕方ないな、と思ったが、父は薄いうえに白かったし、母は染めなければ白い。やはり仕方が無い。ちなみに母の父、つまり祖父さんはツルツルだったらしい。それだと恐ろしいので、仕方ないよりありがたいと思わなければならないかもしれない。
 本当は、散髪は特に好きでも何でもない。でもまあ髭をそる前に熱めのタオルが顎の部分に当てられるのだけど、それだけは気持ちがいい。その度ごとに、中学生時代に初めて床屋が髭を剃るかと聞いてきた時のドキドキした感じを思い出すのだ。言われるがままにそうして、誇らしく気持ちが良かった。今の自分も、変わらず同じ気分だな、と思うのだ。あとは猛烈な睡魔に襲われてほとんど寝ている。僕がどういう状態で寝ているか知らないけれど、そういう訳で床屋さんも見事な腕なのである。
 実はこの床屋さんとの付き合いは小学生の頃からである。亡くなった爺さんから最初は刈ってもらって(これがまた下手というか妙に痛いのだった)、おじさんに交代したときは嬉しかった。そして今はその息子さんが刈ってくれる。僕の弟の同級生で後輩なのだけど、だんだんお互いおとなになったので、お互い敬語で話すようになった。というかいつも寝ているせいか、あんまり話さないのでそうなってしまった。
 ちなみに床屋さんや美容室を頻繁に替える人は、浮気をしやすいそうです。歯医者さんなんかを替える人もそういう傾向にあるらしい。思い当たる方はお気をつけ下さいませ。
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