カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

欲望の二次元世界   楽園追放Expelled from Paradise

2015-12-31 | 映画

楽園追放Expelled from Paradise/水島精二監督

 未来世界では地球が廃墟になっており、多くの人間はネット社会のような電子の世界でデータとして生存する世界に住んでいるらしい。そういう世界を管理するコンピュータにハッキングしてきた者を追って地球に派遣された女性捜査官と地球現地の捜査官と共にハッキングしてきた者を追うことになる。もともとデータとなって電子社会の楽園で暮らしている女性(これも良く考えると女性である必要もそんなに感じないが)が、地上で操作するために借りの肉体を持って活躍するというところも、それなりに見どころのようだし、さらにその肉体を使ってメカを操るというのが、アニメ的に面白いという感じかもしれない。メカニックはガンダムが洗練されてスマートになってとにかく早く動きすぎるということもあるが、なるほど、という感じ。そうしてその欲望のまま、ほとんど女ばかり出てきて、裸にペインティングしただけといっていいコスチュームでアクションを繰り広げるエロ世界である。顔は童顔でかわいくて、しかし肉体はグラマラスでいろいろ揺れるという男の欲求に徹している。性行為が無いポルノと同質だろう。それくらいストレートにオタク世界を表現しており、設定がどうだということ(今やこれはありふれているSF世界だし)よりも、オタクの男が視覚で、2次元だから楽しめるということに徹して作品を作っていることが、開き直って素晴らしいということになるんであろう。ほとんどアニメに興味が無く、しかし映画として面白いと聞いて借りてみた僕のような別の方面のオタクめいた人間としては、この臆面もないストレートさに、かなり戸惑って観ることになった。ちょっとやりすぎだけど、例えば女装専門のバーに背広姿でお邪魔したような、ちょっと居心地が悪いながらチラチラしてしまうような感じなのかもしれない。
 とにかく典型で水戸黄門的な展開なんだけれど、これがどういう訳かそれなりに慣れてくると、確かにまあ、いいのかもしれないとは思う。それは男の悲しさもあるのかもしれないけれど、子供の頃にかっこいいなと思えたものがちゃんと存在し、そうしてそれなりに展開にも破綻なく進んでいくように思えるからかもしれない。強すぎる女は弱いところがあるし、最後は仁義という名の友情めいた感情で、理屈を超えて頑張ってしまう。要するにふだんはなんとなくさえてない日常を送りながらも、いざとなったらぜんぜんおいら違うんだからね、というような少年の精神性がカタルシスのように洗われる感じなのかもしれない。まあ、僕の場合は悪いけどちょっと違ったんだけどね。
 ということで、つれあいはまったく関心を示さず一人で観てました。なんとなく馬鹿にされている感じもあったので、男のみなさんは一人で観るようにしましょう。
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みんな誰かが悪いのだ   ホットロード

2015-12-30 | 映画

ホットロード/三木孝浩監督

 原作は紡木たくの漫画。僕は80年代は別冊マーガレットの読者だったから、恐らくだが読んだはずだが、ほとんど記憶にない。独自の詩のような作風なので、意味が分からなかったのかもしれない。
 暴走族に憧れる少女(14歳らしい)が、暴走族につながりがあるらしい仲間と共に関係を持つようになり、母親とも上手くいって無い内面も描きながら、恋心を深めていく。
 まず最初に当然のように抱くであろう疑問は、なんで今この話で、さらに主人公のキャストが能年玲奈なのだろう、ということに尽きるだろう。意外性ということならばそれでいいかもしれないが、意外性はその意外さで新鮮に驚かされて成功するという感じだろうけど、その違和感はぬぐえないまま時間が経過する感じなのだった。また僕がヤンキーじゃない所為もあるだろうし、またたぶんだけど、ヤンキーの人が観たとしても、それなりに違和感が残るのではあるまいか。描ききれてないというよりも、それでもちょっと違う価値観と世界観ということかもしれない。ほとんどSF世界で、しかしそれを言うとSF世界にも失礼かもしれないというようなことも思ってしまう。
 若い頃の感受性を忘れているというのはあるかもしれない。しかしこれではあいまいというか一応セックスは無いということを言いたいのかもしれないが、必然的にセックスがあって当然という流れだし、そうでなければ普通は成り立たない話のようにも思える。そういうことが痛々しくて切ない気分というのは分かるけれど、そうして本当に分かってくれるのはこのような心に痛みのある人間同士でなければならないというのも、何十歩も譲って考えると分かったと思ってもいいけれど、親のあいまいな精神の壊れようも含めて、単なる病的な集団の妄想のような話になってしまっている。それから逃れられないのは、単に周りにいる人間がそろいもそろってみんな馬鹿だからという結論めいたことにもなってしまう。そういうところが、かなり残念な感じなのかもしれない。
 しかしながら紡木たくの世界観が映像化されるというのは、一定の需要はあるかもしれないとは思う。僕らの十代でどうしてあのように絶大な支持を受けたのだろうか。僕は最初から合わなかったというのはあるが、道から外れたようなことになった弟は、この作品群が好きだったようだ。要するに彼らには紡木が分かったのだろう。分かりえないながらもそういうことは、現実として観ておきたいとも思う。もちろんそれがそのまま世論に反映されることが、なんとなく不幸そうに思えるにしても。
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気取ったヤクザは、ただのヤクザではない   ハード・オン

2015-12-29 | 読書

ハード・オン/矢作俊彦作・平野仁画(双葉社)

 ヤクザものだが、組織で立ち回るいわゆる仁義というしがらみに生きるヤクザではない。個人プレイが中心で、しかも科白にある通り、気取ったヤクザの物語だ。魅力的な女も出てくるし、魅力的な女に見える男も出てくる。最初は信用ならない感じだが、しかし男の友情めいた行動をとる変なヤクザも出てくる。警察に追われるだけでなく、結局組織の仲間からも命を狙われてしまう始末。そういう展開を、気取ってやり過ごそうとするところは、アクション的なかっこよさと、ちょっとしたコメディにもなっている。科白回しがとにかく気取っていて、普通の日本人の会話とは思えない洒落っ気がある。ハードボイルドのずっこけ感も少しあるけど、やはりその気取り方はそれなりに一流という感じだ。海外ものミステリを研究しまくって、それで日本の任侠にもあてはめて再構築した世界観といったところである。漫画だからそれなりに成り立つが、日本の俳優を使ってやってしまったら、少し寒くなってしまうかもしれない。
 それでも面白いのは、テンポの良さと舞台の設定の仕方もあるだろうが、無理にでもかっこつけようとして、しかし時には本気になっていることが分かるからかもしれない。無茶をやっているから当たり前といえばそうかもしれないが、それなりに自分哲学があって、損得を越えてやらなくてはならないこともある。人を殺す非情さも持ちながら、無情な生き方もできない。ヤクザの理屈もわかるし、しかし警察から追われる生活から抜けられない。いつまでも気の抜けない生活でありながら、恋があって友情がある。僕自身はそんな生活をしたい訳ではないけれど、それなりに気を張って、スリルがあって、楽しい毎日なのかもしれない。舞台は東南アジアにならざるを得ず、そうしてその地もいつまでも安住の地とは言えない。引っ越しの多い人生が楽しいとは限らないまでも、そういう生き方を見て楽しむ分には何のリスクも無い。気取ったヤクザのアクション漫画を爽快に読むのは、そのような効用があるに違いない。
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大切なのは腸内にあり

2015-12-28 | 雑記

 牛には胃が四つあって、草などを食べる際に消化吸収を助けているという。特に第一の胃は大きく、大量のバクテリアなどの微生物が棲んでいて、食物を分解する。さらに牛は反芻して何度もすりつぶしたり唾液を混ぜたりして微生物を大量に増殖させる術がある。植物の主たる栄養素であるセルロースは、通常の消化では栄養分として摂取することが出来ない。しかし胃の中の微生物はこのセルロースを分解し、牛が栄養分として吸収できる酢酸や揮発性脂肪酸などにするという。
 しかしながらこのような植物だけの栄養では、牛はその大きな体と豊かな脂肪を蓄えるほどの栄養は取れないらしい。実はむしろこの食べた草を媒体にして大量の微生物が発生することにこそ、意味があるという。そのように膨大に発生し育ったバクテリアなどの微生物は、胃の中で死んだ後に動物性蛋白質として、さらに牛の栄養になっているというのだ。何とむしろ大量のバクテリアなどを育てるために、植物を摂取しているようなものなのかもしれない。
 しかしながらそうであれば、ちょっとだけ疑問に思うことも無いではない。それは牛のことでは無くパンダである。パンダは竹や笹しか食べない。もともと肉食獣で牛のような機能も持たないし、草食動物のような長い腸も無いので、そもそも栄養を吸収する能力が落ちる。そうであるから実際に一日中竹を食んでいるといわれるが、効率が悪いために十分に栄養を吸収できているのか疑わしく、しかしやはりあのように大きな体でいるわけで、一種のミステリーとも言われていたらしい。最近になってパンダであっても内蔵に微生物がいて、セルロースを分解できているのではないかとも言われている。まあ、ちゃんと生きているのでそのような仕組みで栄養を取っていないことには計算が合わないのだろう。
 パンダはそれでもかわいいから良いとして、やはり人間にも菜食主義者というのがいる。本当かどうか知らないが、青汁だけを食べて(飲んで)生きていると言っている人もいるらしい。当然栄養失調に陥っているはずだと思うが、さにあらず、結構お元気な人もいるんだろう。やはり人間にも腸内に様々な細菌が居て消化吸収を助けているらしいから、セルロースも分解するような細菌を宿いている人もいるのかもしれない。また人間というのはビタミンCのようなものを除いては、必須栄養素は体内で作り出すことが出来る。それを助けるために、たとえ人間にとっては栄養に乏しい植物であっても体内に取り込んで何とかしているのかもしれない。
 結局人間も、腸内細菌が良好かどうかで長寿が決まるらしいという。もともと生物は細菌のようなものを体内に宿していないことには、上手いこと生きられない仕組みにあるものらしい。
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カエルの子は蛙   きみに読む物語

2015-12-27 | 映画

きみに読む物語/ニック・カサベテス監督

 認知症の女性に物語を読み聞かせしている。実は読んでいる物語は自分たちの過去の出会いからの物語なのだ。読み聞かせられている女性は認知症のためにそのことに気づいていない。物語の展開に興味を持って聞いてくれている。男の目的はその過程において記憶を取り戻して欲しい一心であるようだ。要するに自分たちが夫婦であることさえ、この女性は忘れてしまっているのだ。
 過去の二人の出会いは戦前にさかのぼる。そうして娘は裕福な家庭の奔放なもので、男は貧しい労働者階級である。よくある身分違いである。男はほとんど一目ぼれで強烈な印象を持って果敢にアタックし、女の方も今まで見たことのない男の粗野な感じも含め、新鮮な感覚で自然に恋に落ちていく。身分違いの恋に金持ちの両親は面白く思っていないが、どのみち一時期の恋であろうとタカをくくっているのだが…。
 戦争をはさんで二人の恋に波乱が吹き荒れる展開。古典的だが、結果的にそのような波乱が、さらに二人の思いを確かめ合うことにもつながっていく。この若い二人の物語が主題である。このように激しい恋をしたからこそ、男は年老いて認知症になった妻に、何としてでもこの燃えるような恋を経て一緒になった自分たちの仲を思い出してほしいのだ。ちょっとこれは涙なくして観られない。困ったものである。
 しかしながら、現在のことでも容易に忘れてしまう認知症の女性が、読み聞かせている物語の筋を、あんがいよく覚えているものだな、という疑問はあった。また過去のことを思い出して夫婦であるということに気づくこともあるが、やはりそれはほんの一時期で、今の過去を忘れた自分に戻ると、夫が近くにいる嫌悪(要するに見ず知らずの男)でパニックに陥ったりする。ショッキングだが、現在の自分は物語を覚えているくらいの記憶力はあるのだから、それを読んでくれている友人の男くらいに対してパニックにならなくてもいいのではないか。まあ、それではお話は面白くならないが…。
 しかしながら物語は美しく、若いころのカップルの物語は素晴らしいし、年老いた役をやっている老夫婦の演技も素晴らしい。監督さんは自分のお母さんを使いながらどんなことを考えたであろうか。また、ラストはある意味でファンタジーめいているが、大変にしあわせな気分にはなる。悲しいけれど…。なかなかの佳作なのではないだろうか。
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動機は能年玲奈目当てだったが…   海月姫

2015-12-26 | 映画

海月姫/川村泰祐監督

 原作は東村アキコの漫画。僕は未読(いちおう持ってる)。
 主人公はクラゲに異常な執着を見せる女で、彼女が住んでいるアパートは同じようなオタク趣味のある女だけが住んでいる砦のような場所になっている。しかしこのアパートは都市の再開発がされるところでもあり、いわゆる地上げ屋が買収に乗り出している。大家も丸め込まれ絶体絶命である。そういう中で都市開発を進めている政治家の息子に恋に落ち、さらにその息子の弟に好かれているという三角関係に陥る。弟の方は女装趣味があり、オタク女集団にとけこみ、アパート買収を阻止すべく秘策として斬新なファッションショーを行うことを発案するのだが…。
 この起死回生のファッションショーを行うにあたって、実はこのオタク集団が力を合わせるというのがミソ。人間関係を構築するのは不得手だが、センスのある服をデザインしたり縫製したり、またモデルとして才能のある人もいたりする。女装趣味の男は政治家一家の金持ちでもあり、さらに死んだ母親のファッションセンスも受け継いでいるという設定だ。短髪で茶髪の時は女にモテ、かつらをかぶって女装すると気は強そうだが美女に変身する。この役を管田将暉が演じていて、クラゲを愛するオタクを演じる能年玲奈が主役だが、それ以上に重要な役であるし、実際にきれいで見どころである。あと池脇千鶴も出ていたらしいが、分からなかった(あれかな、とは思うが)。
 映画としては少しドタバタしてまとまりは良くないけれど、そういうものだとして観る分には楽しめるかもしれない。男のオタクならとことんキモイ感じに描いても、物好きな女があらわれて恋愛に行きつくのはそこまで無理はないが(女の多趣向性は偉いと感心します。もしくは柔軟性か)、女のキモさというのは、詳細に描くと単に病的に破綻しているように見えるし、また、これを物好きに好む男性を描きにくいという感じもある。そういうところはおそらく漫画なら克服できるのかもしれないが、実写映画だと少し中途半端になるような感じはあった。まあ、仕方ない課題かもしれない。
 いちおう持っている漫画も見てみなくてはと、改めて思った次第。なお原作者の東村アキコはカメオ出演していたし、科白もあった。僕はテレビで見たことがあったので気づいたが、演技の役より実物の方がきれいな人という気もした。日本を代表する漫画家として、今後も活躍を期待したいです。
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一人が体験できるもしもの恋愛劇   ミスター・ノーバディ

2015-12-25 | 映画

ミスター・ノーバディ/ジャコ・ヴァン・ドルマル監督

 簡単に言ってしまうとSF映画なんだが、しかしちょっと簡単な映画ではない。主人公の一人を中心とした物語だが、いくつもの話が複雑に断片的に語られ、しかも同時代である時と過去と未来が錯綜し、宇宙にも出てしまう。その説明もちゃんとされるわけではないし、事実かどうかもはっきりしない。夢に出てくるだけの話かもしれないし、徐々に明かされるように主人公のニモが書いたお話かもしれないし、願望なのかもしれない。基本的にある出来事を中心に何の選択をしたかということで人生が分かれるわけだが、その別れた人生が同時進行した場合には、このようなことになったということなんだろうと思う。そうして時間というのは我々の人生では一方方向でしか進まないが、ひょっとすると逆行する時間の存在もあるのかもしれない。それは物理的な理論だけの話ではなく、ありうることなのではないのか。
 そういう考えを映像化したらこうなったということかもしれない。ピカソの絵だって、平面に内面の顔を同時にあらわしたりするような無理をしたりしてちょっと変だけど、人物の顔であるくらいは分かる。さらにそれがちゃんと絵画として面白いということも、恐らく多くの人には理解されているのだろう。だから映画であってもこれくらい変だって、ちゃんと理解してくれる人もいるのかもしれない。
 しかしながらそれぞれのエピソードは基本的に恋愛劇で、親のものがあるにせよ、主人公が体験する愛の物語だ。ハッピーなものもあるし、しかしながら悲恋も多い。破局と死の恐怖と病がある。舞い上がり地に落ちる。一つ一つは夢から覚めるように突然断片として切れてしまうが、後からあとから、恐らくその後のエピソードも明らかになっていく。時には先に語られている断片もあって、過去が種明かしになる。最初から何もかもわかるわけではないし、後からの謎も生まれないではないが、混乱を楽しんでいるうちに、それなりにお話を会得していく感じである。それは映画をそれなりに楽しめていることでもあり、実際に、これはなかなか面白いじゃないかとも思う訳だ。特に僕らは日本人だから、漫画世界などでこれくらいのパラレルには耐性がある。無茶に難解すぎるわけでもないけれど、全部の謎がきれいになるわけではないにせよ、それはそれでまあいいかという作品である。いくつかのエピソードが気に入れば、それに勝手に肩入れすればいいだけの話で、嫌な部分はスパイスだと割り切ればいいとも思う。死の暗示にはちょっとしつこすぎる感じもするけれど、そういう恐怖感というのは、生きている間には避けられないものかもしれない。
 ともかく、これがそれなりに映画として成立するくらいにはよくできた作品である。後は多少の好みの問題もあろう。前衛的すぎるわけではなく、ちゃんと娯楽作としても成立しているところこそ、この映画の凄さかもしれない。そうしてSFだけれど基本的に恋愛映画というところも、かなりヨーロッパ的である。いや、少女マンガ的なのかもしれない。あんまり深く考える必要もないので、楽しんで混乱していただきたいものである。
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歌の上手い基準

2015-12-24 | 音楽

 生まれて初めて買った(買ってもらった)レコードは何だったか。本当に記憶しているかは怪しい話だし、すでにその痕跡が無いのではあるが、たぶん「およげ!たいやきくん」だったのではないかと思われる。自宅にあるターンテーブルの使い方は、このレコードを繰り返しかけることで覚えたと思う。B面の「いっぽんでもニンジン」ももちろん大好きで、なぎら健一が後に出てきてこの歌を歌っていたということを知ったときは、全然気づかずにいたことに衝撃を受けた覚えがある。この歌は大人が熱心に聞いたから大ヒットしたのだ、と言われたが、やはりしかし子供であった僕らは当然繰り返し何度も飽きずに聞いた覚えがある。その後子門真人は繰り返し変なパンタロンを穿いてテレビに登場し、ついでにガッチャマンなどの歌も歌った。
 この頃は歌謡曲もボチボチ聞き出すという年頃であったろうが、やはり子供向けの歌、みんなの歌やら、このたいやきくんのようにポンキッキなどの子供番組で歌われる歌に親しんでいたように思う。幼稚園とか学校で習う歌も素直に歌うし、テレビの歌も結構歌っていたような記憶がある。「飛べ飛べとんび」とか、何故か歌っていた。
 「パタパタママ」とか「黒猫のタンゴ」とかも道を歩きながら歌った覚えがある。最初は堺雅章が歌っていた「北風小僧の寒太郎」なんかも登下校に歌っていたのではなかったか。そうして「たいやきくん」ほどではなかったにせよ、「山口さんちのツトム君」がまた大ヒットした。これは子供心に少し大人の歌という感じはした。なんとなくいやらしいというか。その後「おなかの大きな王子さま」くらいまでは聞いていたように思うが、やはりだんだんと聞かなくなった。
 ところでこのような子供向けの歌を歌う人たちというのは当然のように歌の上手い人たちが多くて、子供心に歌が上手いという基準が、このようなタイプの歌い方という感じがしていたように思う。少年児童合唱団の歌はうまいとは思うが、子供心にはあんまり感心しない。やはり尾藤イサオとかなどが歌うと迫力もあるしさすがだな、という感じなのだった。
 歌謡曲の方は今聞いてみると当時のアイドルめいた歌手においてもそれなりに歌が上手いと思うのだが、それでもやはりひどく下手もいた。というか、段々と下手な人たちが多くなっていくような印象がある。可愛いから多少下手でも愛嬌じゃないか、という気分は子供には分からない。でもアグネス・チャンくらいになると、やはり楽しいとは思ったけど…。森昌子が上手いというのもわかりやすかった。しかしこれはやはり大人にウケる感じなのかも、というのはあった。
 子供でも上手いなあ、と最初に思ったのは、尾崎紀世彦だったようにも思う。凄い声量で素晴らしかった。子供だから真似をするが、こんな声を出せる友人はいなかった。布施明も上手いのだが、子供向けではなかった。
 テレビ主題歌などで知っていて、好きだったのは鈴木ヒロミツで、ドジな感じの役者さんなのに歌が上手いギャップに惹かれたのかもしれない。後になってモップスという伝説のバンドのボーカルと知った。
 しかしながらテレビの歌で何とも凄いと思ったのは、松崎しげるである。当時もドラマなどに出て面白い人というのはあったが、歌になると豹変するような迫力があった。奥さんを次々に変える(実際は3回らしい)ことから、やはり女は歌の上手い男に弱いのかな、と思った。
 ところで歌が上手いということについては他に思い出がある。何故か父の思い出である。山本リンダの歌を歌うと大人にウケるので、ふざけてよく歌っていた。それで、父からなんで山本リンダの歌を好んで歌うのか? と聞かれた訳だ。正直なところウケるから歌っていたと思うのだが、何故か僕は「リンダは歌が上手いから」と答えた。父は怪訝な顔をして、「あれが上手いというのか?」とさらにいう。僕は「だって、あんな歌い方ができる人は他に居ないから」といった。この答えに父はしきりに感心し、確かにそうかもしれない。山本リンダは歌が上手いかもしれない、としばらくつぶやいて僕の頭を撫でた。これは褒められたのかは微妙なのだが、なんだかとても嬉しかったのである。
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鉄の胃袋と幸運の足運び  孤独のグルメ2

2015-12-23 | 読書

孤独のグルメ2/久住昌之原作・谷口ジロー作画(扶桑社)

 第二弾が18年ぶりに登場ということらしい。前作とまったく違う訳ではないが、基本的に腹が減ったからメシ屋に入って注文して食べるというレポートに徹している。いや、そうなんだが、グルメレポートということとは少し違って、腹を満たす主人公の五郎が、飯を食ってしあわせになる姿を眺めて楽しむという漫画である。僕は東京に住んでいる訳ではないし、紹介されている店が東京のみということでもないが、この漫画の店を食べ歩くような興味で読むわけではない。東京にしかないような店もあるんだろうが、どんな地方都市であっても、恐らく似たような店はあるのかもしれない。そういうあんまり行列もできるような店ではないにせよ、一人飯を食うのに、あたりの店というのがあるようなのだ。もちろん五郎の感覚ということになろうが、そのような店を見て、共感を覚えるし、羨望の感情も湧く。教えられることもあるし、単に呆れて笑ってしまうこともある。五郎は下戸らしいが、それなりに偏見も強く、さらにちょっと食べ過ぎるようである。彼なりに気に入ったものを食うのはいいが、時にはやはり少し無理のある食い合わせをやっているようにも見える。それでいいという漫画ではあるが、既にそこからファンタジーであるという気もしないではない。
 個人的には一人飯はあんまり得意ではない。僕は下戸ではないから、居酒屋に入るのはそんなに抵抗は無い。最初は多少居心地は悪くても、ちょっと酒が入るとそういうものは気にならなくなる。だから五郎のように、酒を飲んでいる人がいると面倒な感じになって嫌になるということは無く、逆に少し安心したりする。もっともあんまりうるさいのもなんだが、静かすぎるというのも居心地は悪い。マスターが頻繁に話しかけてきたり、地元過ぎて仲間内が妙に緊張感を漂わせているようなところは困るにせよ、誰も酒を飲まないような店に、最初から入るわけが無い。しかしながら孤独のグルメの舞台はほとんど昼飯で、酒が無くてもいいわけなんだが、その守備範囲がそれなりに広くて、不思議な店に入り込みすぎる感じもする。昼飯の、本当にランチという感じで入っているにせよ、恐らくだが、ほとんど千円の範囲で飯を食っているように見えない。せっかく千円で足りそうな時ですら、変にジュースのようなものを飲んでみたりして、結構散財している。サイドメニューを注文するのもいいけれど、店の人に詳しく聞くという態度でもない。出てきてから失敗したかなとか、おおこれはいいとか、心の中の言葉で楽しんでいる。鉄の胃袋があるから楽しめる冒険で、そういうところは少し羨ましいところもあるかもしれない。
 しかしながら、実のところ出張や一人旅のような場合において、五郎のようにチェーン店でなく、個人営業のあたりの店に入るような幸運はそうそうないようにも思う。あるところにはあるはずでありながら、しかしながらそれでもやはりかなりの幸運のようにも見える。それだけでもかなりの運の持ち主で、さらにちゃんとそんなに気取ったグルメでもなくて確かな舌を持っている人間というのはそれなりに希少だろう。だからこそこのシリーズは愛され、聞くところによると海外でもファンのいるような人気作品になりえている。多少の不思議はあるものの、妙な魅力は健在であることが確認された新刊であった。
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チャリンコに乗って…

2015-12-22 | ことば

 子供の頃は、方言の一種なのかな、と思っていた言葉にチャリンコがある。方言というだけでなく、まあ、隠語めいたものであると薄々気づきはしていたかもしれないが、大人になるにつれて、なんだか一般化していったような印象がある。昔の大人はあんまりチャリンコとは言ってなかったような気もする。いや、むしろこれは全国的にそのような広がりがあって、皆が安心して使うようになった言葉ではないかという疑いを持っている。
 しかしながらチャリンコには、子供の掏摸の意味もあるそうだが、一般的には自転車のことだ。転じてお母さんが乗るような自転車は、ママチャリ。原動機付き自転車は、原チャリと言ったりする。もとは朝鮮語のチャヂョンコ(ゴ)(もちろん自転車のこと)から転じている言葉であるらしい。外来語由来はたくさんあるが、朝鮮語由来の言葉というのは案外少ないらしく、全国的に定着しているものとしては珍しい部類かもしれない。
 もっとも朝鮮語由来の言葉というのは他にも探せばあんがいあるものだ。代表的なのは独身者などを指すチョンガーであろう。働き出してしばらくは言われることになるが、こづかいをくれるとか、おごってくれるとかいうときに、チョンガーだから気にすんな、という感じで使われる。まだまだ半人前というか、愛嬌を持って馬鹿にしている感じかもしれない。または、早く嫁もらえ、とか、もうちょっと頑張って責任ある仕事しろ、なんて時にも使われるかもしれない。
 また、親友のことをチングともいう。昔からのチングだから、なんて肩を組んで酔っ払った時などに言う。親友という言葉は悪くは無いが、ちょっと照れくさい感じがあるかもしれない。竹馬の友なんて言い方をするほど古くも無い。若いが付き合いは長い。そういうときの照れ隠しと友情の確認に、チングはなんとなくしっくりくる。
 中学生くらいの時には、怖い先輩からタンベ持ってないか、と言われたことがある。煙草のことだが、持っているからといってむやみに差し上げるわけにもいかない。しかし意味合いとしては、要するにタンベ代としてこづかいを出せという意味らしい。これもむやみに差し上げるわけにもいかないが、彼らはちょっと借りるだけだというニュアンスで、たかりやすく、なおかつ迫力のある言葉遣いとして使っていたのだろう。
 ぜんぜん朝鮮由来に気づかなかったのにノッポがある。これは断然ノッポさんの影響かもしれない。ノッポな先生とか居て、学校の先生自体がそういう風に使っていた。これは響きが滑稽で親しみやすい感じである。不思議と横幅のある巨体はノッポとは言わなくて、ひょろりと高いような人がふさわしい印象がある。やはりそれはノッポさんの影響なんだろう。
 ちょっと踏み込んで偏見めいたことを言うと、このような隠語めいた語源の陰には、被差別とか、在日の庶民生活のとけこみ具合があるような気もする。不良の仲間にそのような親和性があるのは、そういう地区であるとか、実際に在日の人が混ざっている集団などから漏れ伝わってきたような感じもあるからだ。特段当時は意識していなかったけれど、喧嘩の強い人には在日の人は多かった。また連携も強くて、下手に絡まれると長期化するので厄介だった。それで初めて在日を意識するわけだが、ああ、なるほど、それなら仕方ないな、と子供集団ながら納得したりしていた。
 特に対立していた気分は無くて、むしろ結構融和的に混在していたということかもしれない。今はなんとなく、そのような形がむしろボケて分かりにくくなっている気もする。時々気配がすると、ぎょっとしたりするからだ。
 そういう意味ではチャリンコのような言葉は、もっとも自然に融和した言葉かもしれない。ちょっと安っぽかったり、やはり小馬鹿にするようなニュアンスは無いではないが、もうほとんどの人は、その由来などを気になどしていないだろう。さらに今後も恐らく使われていく予感もある。もうあんまり乗らないだろうな、という自分の体力だけが、今となっては悲しい現実であるのだけれど…。
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ちょっと無理だが、その無理を強引に楽しむ   人生はマラソンだ!

2015-12-21 | 映画

人生はマラソンだ!/ディーデリック・コーパル

 オランダ映画。税金滞納しているのに従業員はトランプに高じたりしてやる気が無い。足が不自由なエジプト人(実はこの青年だけがまじめに働いている)を雇うことで補助金をもらっているので、安易に首にもできない。さらに主人公の男はガンにおかされており、余命いくばくか(これは皆には内緒)。酒煙草に浸り打開策が無いような状況下で、あえて全員がマラソン大会に出場し、全員が完走するという条件で、スポンサーから援助してもらうという約束を取り付けるのであった。
 ダメおやじたちが、ダメな中でもがき(最初はあまり真面目ではない。もっとも最後の方まで真面目でない気分は残っているが)、それでも何とか練習をそれなりにやって、実際にマラソン大会に出場してしまうというストーリー。単純だが、このちょっと無理感を覆す快感のようなものを、ストレートに映画にしたという感じ。僕は見たことが無いが、24時間テレビなどで、無謀な長距離を普通の芸能人が走破する疑似ドキュメンタリーのような大衆の興味にマッチしたお話なんだろうと思う。コメディと感動が上手い具合に混ざり合って、オランダというまったくなじみのない映画俳優たちが個性豊かに活躍するのを単純に楽しむことが出来る。親子関係の葛藤や、実は無理して隠している病気の伏線も生きている。どのみちありえない話なので、それなりに何でもアリという感じはするけれど、ダメな人間がいつまでもやっぱりダメな感じと、個人的な事情で葛藤したり障壁が持ち上がったりするサスペンス感もそれなりにまとまって楽しむことが出来る。本国でもそれ以外でもヒットしたというのはよく分かる。挿入されている曲も聞き覚えがあって、この映画のヒットで巷間でも話題になったのではあるまいか。社会的に影響力があったという作品で、日本人の僕らにも伝わりやすいメッセージである。
 まあ、そういう風に楽しむ映画で、オランダらしいのかどうか知らないが、個性的な俳優がそれなりにいるということが分かるのも興味深くはあった。ふだん観ているのはハリウッド作品がどうしても多くなるから、美男美女がまったく出ていない映画というのもかえって新鮮かもしれない。もっとも諸外国の人が日本映画を観てもそのように感じるのかもしれないが…。
 それでもヨーロッパ理想主義と、社会的な病理のようなものもなんとなく見て取れることもある。足の不自由なエジプト人にしても、恐らく移民問題の絡みだろうし、経営者と結託して働かない労働者というのも、労働組合などの絡みが背景にあるのかもしれない。それらは欧州の社会的な病理とはいえるが、あまり真面目に批判するとそれなりに問題があるのかもしれない。皆そういうことはなんとなく困ったものだとは感覚的に感じているはずのことだが、このように映画でコメディとしてあぶりだすことで、それなりに溜飲の下がることがあるのかもしれない。
 映画としては息抜きだが、たまには本当に違った文化の娯楽を楽しむのも悪くないのではないだろうか。
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伝説の元になったものとは

2015-12-20 | 感涙記

 アマゾン川の支流にネグロ川というのがある。支流とはいえ大変な大河で、コロンビア、ベネズエラ、ブラジルにまたがり、2,500キロの長さがある。水量は世界第二の水量を誇るコンゴ川を上回る。名前のネグロは、アメリカでは人に向かって使うと面倒だが、黒いという意味で、実際に水の色が茶褐色に濁っている。土壌が酸性で微生物が育ちにくく、魚の種類が約400種と極端に少ない。プランクトンなどの微生物が育たないために、餌としている魚が生きていけないものと考えられる。雨季になると広大な土地である中州などの森が水没してしまう。それらの森の木の葉が水に浸り、落ち葉が堆積し、そうした植物の葉などから染み出したタンニンが水を茶褐色に染めていく。天然の紅茶状態と考えていい。
 普通であれば水につかった木の葉などは、微生物が分解して腐敗する。そうして豊かな土壌を育て、また生き物の栄養としていきわたる。酸性が強いために微生物が極端に少なく、水に浸り堆積した木の葉などは腐ることなくそのままの姿である。長い年月そのように水に浸ることにより、さらにタンニンが抽出されるという循環を巡らせているのだろう。
 それでも魚が暮らせていけるのは、木から落ちてくる実を食べたり、同じく水面に落ちてくる昆虫などを餌にしている為である。もちろん魚以外の生物(ワニなど)も暮らしている。魚の種類自体は少なくとも、豊かな生態系を宿しているのである。
 魚同士での生存競争もある。小さい魚は大きな魚に狙われるのは世の常だ。そのような環境にあって、水面の光の反射に見せかけた色を身に着けたものが多くいるのではないかとも考えられている。いわゆる見事な色彩をもつ熱帯魚の宝庫なのだ。そうして、それらの熱帯魚を人間が捕って、生業を立てている。
 ネグロ川をどんどんさかのぼって、さらに山を登っていくと、山脈はいわゆる平たいテーブル・マウンテンのような形状をしている。その山の峰から水が集まって、ネグロ川の源流となる。そうしてその集まりは急峻な落差のある巨大な滝となって平野に降り注ぐのである。茶褐色だった水はその時に黄金色に輝くことになる。
 エルドラドというのは南米に伝わる黄金伝説であるが、あくまで神話のようなものである。ひょっとするとしかし、その神話の元になっている黄金とは、この滝の水の色のことかもしれない。少なくともジャングルの奥地に分け入ってみることのできた人間にとって、この滝の水は神秘以外の何物でもなかろう。
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もはやもう開き直り   地方消滅

2015-12-19 | 読書

地方消滅/増田寛也編著(中公新書)

 副題は「東京一極集中が招く人口急減」とある。この本を組んだグループが発表した「消滅可能性都市896のリスト(2014年5月)」は衝撃を持ってさまざまな分野で取り上げられるようになった。恐らく消滅という言葉の衝撃度もあると思われるが、これはやみくもに危機感をあおるために使われている単なる誇張と考えるわけにはいかない。人口統計をベースにした将来像というのは、将来予測としてかなり信憑性の高いものであるといわれる。他の経済指標とはかなりぶれが小さいためだ。実はそういうことは専門家でなくとも、かなり前から指摘され続けてきたことではある。事実僕が30年近く前に学生だった頃に授業でも習った覚えがちゃんとある。その当時の新聞でも、「今手を打たないことには」30年後には大変な未来が待っているという記事もあったと記憶する。そうして30年たった現在になって、その衝撃をどう考えるかということについては複雑な思いがある。要するにほとんど手は打たれることは無く、30年前と変わらぬ政治的政策は続き、国は莫大な借金を膨らませつづけただけだったのだ。消滅可能性都市という響きは、衝撃的であるという生易しいものではない。既に失った30年のことを考えると、残された戦い方は、撤退戦しかないという事実を認識することから始める必要があるのだ。悲しいかな結論としての負けは確定しているが、その負けをどれだけ少なくするのかということである。もちろんそれでも根本的に将来のために出生率を上げるなどの攻めも同時に行わなければならない。ただしこの攻めの方が成功したにせよ、例えば2030年までに出生率を2.1まで回復させた(これには相当な努力が必要だが)としても、それで人口増加に転じるまで、その後60年の歳月が必要なのである。要するにわれわれが生きている間の処方箋としては、すでに別の次元の問題解決策であるということなのだ。
 これまでもずっと続いてきたことではあるが、東京への激しい一極集中は、現在ではかなり意味の違ったことであることも認識しておかなくてはならない。以前は地方の農村から若者が上京することで、ダイレクトに国の経済発展へとつながることではあった。豊富な人材が地方に眠っており、その人材を掘り起こす循環が上手く回っているように見えていたのだ。ところが現在の集中はそうではない。以前の農村の長男以外の二男三男が東京に行っていた(要するに食い扶持を探さなければ地方も共倒れだった)図式が、現在は一人っ子であるとかきょうだい全部、または家族そのものが移動してしまう。残された人というのは高齢者ばかり。特に若い女性の人口流出が顕著にみられる現象で、東京は日本の中でも突出して子育ての難しい場所(合計特殊出生率はダントツの最低)であるのに、子供を産める女性が東京に集中してしまうことで、さらに出生率が下がってしまうのだ。また、たとえ一人の子供をもうけたとしても、その子育ての大変さに、泣く泣く二人目を断念するという首都圏の事情もある。東京は子育て支援も実際は金をかけて行っているが、それ以上にコストがかかりすぎて、結局は有効ではないというデータもある。地方都市で女性の働き場所があれば、(もちろん複合的な日本人の働き方を変えていく必要はあるにせよ)東京で政策を練るより、もっと有効的に物事を進めることも可能性があるのだ。
 東京に人やものが集まることについて、東京にいる人自体に問題意識が希薄であるといわれる。若者の活力が集中するのは必ずしも悪くないということかもしれない。生産性や効率の上で、さらなる集中が必要だという説もある。しかしながら東京の高齢化率も恐ろしいスピードで進んでいる。規模が大きすぎるというのは恐ろしいことで、介護する人材を含め、実は東京自体の機能がマヒしかねない規模なのである。効率どころかコスト高過ぎて、介護難民であぶれた人々が膨れ上がるとも言われている。地方の機能がダムのように人材流出を止めない限り、東京も地方もともに疲弊して破綻するような危機があるのだ。
 つまるところ地方でも流出が比較的に少ないところがある。6パターンほどに累計して紹介してあるが、要するにその地区特有に、問題意識と強みを認識して、とにかく頑張っている地区しか生き残れないということに尽きる。衰退産業である農業や林業であっても、場所に特化して上手くいっているところはあるのだ。働き場所である産業構造にも考えてもらう必要はあるが、金融以外の産業が東京に手中するメリットは、実はそんなに大きなものではない。事実は日本の大企業の代表のトヨタなどは、地方の中核都市に根付きながら世界企業ではないか。
 ともかく政治家がこの本の内容を理解することは必須であるが、やはり有権者である一般の人の認識も変える必要がある。漠然と問題だと嘆くよりも、何が有効かを本当に真剣に考え抜くしかない。既に国が手を差し伸べて地方を活性化させることは不可能になったのだ(特権的に一部なら可能かもしれないが、そのような不公平政策が実現するわけが無い)。問題は根深く複雑で難しいが、サバイバルとはそういうことだ。既に消滅可能性のリストに載っている町に関わりのある人間としては、現状からかなり絶望を味わっているにせよ、皆悪いのだから開き直るより他に無いではないか。
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変な男たちがたくさん出てくるお遍路さん   55歳の地図

2015-12-18 | 読書

55歳の地図/黒咲一人著(日本文芸社)

 著者は漫画家としてのキャリアは長いが、段々と原稿の依頼が途絶え、ついには漫画家として生活を続けていくことを断念せざるを得なくなる。借りている仕事場兼生活の場であるアパートの一室を整理し、漫画家として命より大切(なんだろうね)な自分の生原稿まで、引き取り手が無いという理由で捨ててゆく。この出だしだけでもずいぶん面白い展開なんだが、なんとこの男、死に場所を求めるような気持ちで、削りに削った身の回りの物を厳選した20キロの荷物を載せた三輪のママチャリで、四国のお遍路の旅に出立するのである。本人はいたって真面目にシリアスにこの行動に移っている訳だが、劇画タッチの絵と、恐らく本当のことであるドキュメンタリー漫画として、この変な感じが妙な可笑しみを醸し出して興味を引く。案の定無理があって、出発して間もなく、四国へ渡るフェリー乗り場にたどり着く前に自転車はパンクしてしまう。死のうという迷いのある心持の人間に言うのは酷かもしれないが、なんとなくこのような考え方の甘さのようなものが、この人の行く手の困難さを暗示している。
 結局フェリーには乗り遅れるが、何とか翌日の切符に振り替えてもらえたり、金に限りがあるような立場なのに財布をトイレに忘れたり(これも何とか取り戻せる)、実は自転車は押さなくても大丈夫だったり、厳しい条件のお遍路には向かない時期にあえてチャレンジして、やはりその寒さなどに困ってしまったり、何というか、つまるところ本人の考えの甘さのようなことが原因とも思える苦難の数々に遭遇する旅となる。途中で出会う兄のような父のような精神的な支柱ともいえるような一心というおじいさんと出会い、助けられることで、徐々に旅慣れていき、生きる希望のようなものを掴んでいくのである。
 このサバイバルを記した絵日記のような漫画なのだが、実際の体験だからそれなりにリアルであるばかりか、実に興味深く面白い。人間が死に場所を求めて旅に出ているようなものなのに、それなりに煩悩もあるし、テント生活をする様々な知恵もよく分かる。都会のルンペンとは違った社会とのつながりがお遍路にはあって、自らのいくばくかのたくわえはあるようだが、基本的にはご厚意によって食いつないでいく。時には不条理につらく当たられるようなこともあるが(普通に見ず知らずの旅人は迷惑だろう)、さまざまな幸運や好意に支えられて旅を続けていく。
 書いている本人に自覚があるのかどうかは不明だが、窮地に立たされて死を意識するまでになってしまった人間というのは、既にかなり病的になっている感じがする。やっていることがなんとなくチグハグで、そうして何だか自己中心的なところが見て取れる。社会的な孤立もあったかもしれないが、あえて自分自身がそういうところは意固地になっているとも考えられる。しかしいくら強がったところで経済から切り離されたところで生きていくのは、現代社会では大変に厳しいものがある。彼なりに必死になってはいるものの、それがこの漫画の一番の面白さであるのは間違いないが、やはり選択の仕方や合理的でない考え方には、性格的な病魔のようなものを感じざるを得ない。また同じようにお遍路での仲間たちも、同時に何か病んでいるようなものを感じるのである。社会からドロップアウトする理由は様々あろうが、その不器用さを招いてしまう中高年の主に男たちの姿(女は少ないというのもヒントにはなるだろうけど)というのは、非常に物悲しいものがあるのではないか。
 著者の現在のことは知らないが、この漫画の面白さを含め、漫画を描く生活には復活できているのかもしれない。そういう意味ではお遍路には意味があったわけだが、死に場所を見つける旅というマイナスの行動であっても、人は何かの行動をすることによって、学び成長することが出来るということも見て取れる。事実この主人公の姿というのは、着実に成長しているたくましさのような魅力が大変に大きいと感じた。
 特にお遍路をする必要を感じている訳ではないが、このような体験としてのお遍路を見てみたい気もしないではない。また、このような生き方を選択する人々というものにも、ほのかに興味を持ってしまうのも事実である。一心さんを含めた不思議な男たちのドキュメントは、まだまだネタとして十分に価値のあるものなのではないかと、ヨコシマながらに考えたことであった。
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納得している人がいることが信じられない理由

2015-12-17 | 時事

 軽減税率の話はなんとなくバカっぽいので残念感が残ったな、と思っていたんだが、意外なことに世論的にはそれなりにまとまって理解者が多いのだという話なのである。ちょっとびっくり。その大きな理由と思われるのは、やはりヨーロッパの多くの国では、実際に軽減税率を実施しているらしいということを知っている人も多く、他の国が出来ているのだから日本でもできるだろうというような感覚があるのではないかという話だった。まさに日本的だ。みんな飛び込むなら自分も飛ぶということだ。
 それにしても見聞もいい加減で、先に導入している国は、軽減税率は完全に失敗で、出来るだけやめた方がいいという悪しき体験を積んでいるという事実は、伝わっていないのだろう。それでもやろうという酔狂の国が存在するなんて、彼らは夢にも思っていなかったことだろう。
 もう決まったことだからどうにもならんけど、生鮮食品と加工食品は分けられないという現場からは、ホッとしているという気分は伝わっている。それで良かったという産業界の安堵が、議論の終りの始まりになっているようだ。
 そこで問題は、外食との線引きという点に絞られているようだ(インボイスもあるけど、これは一旦先送って考えよう)。たぶんその議論は、外側にいる人には楽しいというのもあるんだろう。
 テイクアウトなどの持ち帰りは、例えばハンバーガー屋だと、諸外国ではテイクアウトで買って、店内に持ち込む客がそれなりにいるんだそうだ(それを前提にしている店などに不公平だとする訴訟も起こっている)。牛丼屋なんかはそれは出来にくそうだが、そのまま駐車場にとどまって食べるなどの放置もありそうな気がしないではない。店内で食べる人の駐車スペースを食うことにもなりそうだ。
 もっと問題なのは、ソバ屋やラーメン、大衆食堂などの出前であろう。同じもので値段が違うのだから出前が増えるだろうけれど、夫婦二人で切り盛りしているような店がどうなるか。
 要するにこの線引きで明らかになりそうなのは、日本の飲食店は構造的にチェーン店化していく傾向を強めることになるだろうということだ。それは弱小の店ほどつぶれるということを意味する。個性的な店が育ちにくいわけで、特に起業の多い分野であると考えられる飲食業への参入障壁にもなるかもしれない。そういうことを政府が欲しているとは考えにくいが、事実上その流れは止まることはあるまい。
 根本問題として、所得税の控除を受けて税金を払っていない国民が、日本には4000万人ほどいる。多くの場合その人たちを対象と考えて軽減税率を設定すべきだとする公明党の意向に沿う形で今回の話は整った訳である。それはそのままその人たちの支持する政党であるという自負なのであろう。
 しかしながらそうであるのであれば、事実上の選挙対策の金銭のバラマキということと実質は等しいと思われる。それもその財源は税金である。国が財政危機にあって消費税率を上げなければならないということになっていたはずで、その原因となっているのはこのようなバラマキで既に多くの借金を積み上げたためなのである。また、この軽減税率によって準備しなくてはならない財源はまだ決まっていない。とる分から削るのだから減税という考えもあるが、とる分の使い道は決まっていたのだから、事実上増税と同じである。その先はもういいたくありません。
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