カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

難しいもんだね

2007-10-31 | 雑記
 稲刈りが済んだ。しかしながら今年は仕事が重なって、一度も現場に出なかった。近年はあんまり出なくなってはいたが、一度も出なかったのは初めてのことだ。それはそれで、なんとなく寂しい。世間は農繁期にイベントや大会を開催したがるが、天候次第の農業はそういう都合に合わせられない。特に行政との折り合いが悪いような気がする。時期だから仕方がないのかもしれないけれど、今後も永遠にこの時期がイベント時期であることが続くのだろうか。
 ところで今年は天候に恵まれ、大とまでいかないまでも、豊作であった。いや、反当りの収穫は新記録であるから、やはりここは大豊作といっておこう。そういうところは素直に嬉しい。
 しかしながらである。農作物も商業の商品であるから、たくさん取れると価格が下がる。政府はいち早く備蓄米を増やすといっていたが、これだけの豊作であれば(他もかなりよさそうだし)、恐らく米は余るのだろう。僕はマクロ経済を客観的に考えると保護政策は限度があると思っているので、農業政策の行き過ぎ関与は反対の立場なのだが、自分自身のエゴを言うと、このままでは非常に苦しい。米はちっとも取れないのは確かに困るが、たくさん取れても困るということになった。難しいものだな、と思う。
 まあしかし、経済的には農業は、事実上日本ではやっていけない職業になった。かなり専門的に規模を広げるか、果樹のような付加価値の高いものか、加工で価値の上がるものを生産するより道はない。現在のように身近に戦争のない時代は、関係国との良好な状態を保ち、自由貿易を行うことは至極当然の政策であろう。それはよく理解できる。まともな考えだからである。いくら食の安全といったって、消費者は同じような味であるならば、馬鹿でない限り必ず安いものを買うのである。それが人間的な行動なのだ。それにマスコミはうるさいけれど、食い物は基本的に毒じゃないんだから、遺伝子が組み換えられていようと、農薬がかけられていようと、そう簡単に死にはしない。まったく問題はないと言えないにしろ、実際はそんなにたいした問題ではない。農業従事者には厳しいが、ほとんどの一次産業は淘汰される運命からは逃れられないのである。
 さて、それでは今年はどうなるかというと、たぶん魚沼産のコシヒカリのような特産地の米の偽装が多く出回ることになるだろう。はっきり言って、数に限りがあるものだ。ちょっとでも安いようなら、間違いなく偽装だろう。皆さん、新米なら大抵の米は旨いんだから、地場のものを買って様子を見たほうが得策だと思いますよ。
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金属疲労ということか

2007-10-30 | 雑記
 出張ったって、実は週末はPTAの大会に出ていた。僕はPTA嫌い(というか、協議会や団体や会議が嫌いなんだから仕方が無い)だから意見を差し挟むことは極力控えているが、こういう研修会に出て見ると、つくづく教育界という世界は腐っていることが良く分かる。そういう世界に子供を預けるしか選択肢のない世界だから仕方なくそうしているだけで、彼らが早く大人になるより解決は無いのだろうと思う。
 さて、そういうことでPTAの話題で特にホットな情報をお教えしよう。報道などでも取り上げられることもあるようだから知っている人も多いかもしれないが、PTAで大いに議論になるのは一部保護者のだらしなさの愚痴だ。そういう「困った人」の代表が、給食費未納問題である。
 実は僕個人は、給食は希望制にすべきであると思う。全員に強要するから問題が起こっているのだと思う。まあ、しかし、教育界はそうは考えないのであろう。食べる場面も教育の一環だということだろう。じゃあ、公費で負担すべきじゃないの。できないのに言うなよな。
 さて、未納問題をほぼ解決している学校があるという。どうやったかというと、PTAの役員が一軒一軒取り立てたのだという。へー、やっぱりね。それって先生の仕事なのにね。
 しかしながらある学校では、やはり役員が集金に回るのだが、その行動がものすごく大変で苦痛でやっぱり止めた、といっていた。やめた途端、ドーッとまた未納者が増えた。「どうにもならんです」との由。そこで行政で集金システムをつくるべきではないか、というまっとうな意見も出た。しかしながら校長先生は無視である。無理ということらしい。
 ある校長先生は、給食費を前納制にしたという。「おお、やるじゃん」と思っていたら、それでも払わない人にも給食を食わせているのだそうだ。この校長は馬鹿だ。理由はいじめなどが起こるといけないからだって。何たる無責任な人だろう。食わせると判断した人が、給食費を持つべきだ。それが責任ある立場の人のすることで、問題を先送りにして人任せにするような人が責任ある立場になってはいけないのである。
 はっきりしているのは、給食費を払わないで食っている人は、たとえ親が悪いにしろ、子供で可哀相にしろ、食い逃げである。食い逃げは詐欺か窃盗の罪に問われる(払うつもりがあると騙しているか。最初から払う気など無く食うかの違い)。また、そのために集金などでさらに経費が計上されるので、民事でも損害賠償の対象になる可能性がある。学校以外の社会では、これを犯罪という。まあ、学校内でも本当は犯罪であることは明確なんだけど、先生が犯罪を幇助隠蔽するので立証されていないだけである。先の校長先生は犯罪行為をしている可能性があるわけである。本当に悪いのは確かに払わない人だし、立場としてはお気の毒だけれど、職務上犯してしまった犯罪者だ。なにより外にまともに払った人に断り無く、食材費を減らしたり量を減らしたりしている給食の現場があるのだから、犯罪性は明確である。越権行為であるばかりでなく、明確な裏切り行為で、詐欺と損害賠償が必要だろう。僕ら親達が人がいいので誰も訴えないだけなのに。子供を人質にとられているしね。
 まあ、こういう主張は人気が無いのはわかっている。まっとうすぎるからね。でも、教育界ではまっとうな意見が極端に聞こえるほど特殊なんだということは自覚した方がいいと思う。
 給食という制度がある限り、未納問題は食わせないか集金するか。解決方法は二つしかないんだよね。結局教育界は、その二つのことを怠っていても平気だということなのだ。基本的に無責任なのである。だから全国的に絶対解決しない。いじめ問題も先の理屈で解決が不能なのだ。

 さて、もうひとつの話題は携帯電話。
 子供に持たせる持たせないは、親なり家庭で考えればよろしい。議論終わり。と僕は思っていた。ところがそうではないらしい。
 携帯電話がインターネットにつながっている以上、子供にふさわしくない情報がはいる可能性があるので、電話会社の協力を得て、フィルター機能を義務付ける必要があるのだそうである。年齢で条件付けるかどうかなど、細かい議論に花が咲いていた。親が現状を知らないので、内容を研修で補うべきなんだとか、とにかくいろいろ意見が出ていた。お決まりの援助交際の問題もでていた。また、GPS機能というのだろうか、子供の安全のための位置関係を把握する必要性の議論などもあった。まあ、携帯電話の普及と現状を見ると、みんな憂いているのは良く分かった。僕のもっている携帯電話も、そういう危険な道具なのであろう。おお、怖。
 そういうことで、やはり学校では電話で大変なことになっているんだろうなあ、と他人事のように想像(僕の子供は持っていないから)していたら、議論している会場のすべての学校では携帯電話を基本的に禁止しているということが分かった。ざっと見て1000人あまり参加していたから、ほとんど例外なしなのだろう。僕はまず、このことにかなり驚きましたね。この問題は基本的に学校は無関係なんである。ああ、そういえば校則というものがあるんだね。おいら忘れてたよ。しかし個人の持ち物を禁止して議論終わりじゃ、あんまり無責任だろう。
 ある学校では、所持していることが発覚したら、解約した書面が無いと、没収した携帯電話を返却しないんだってさ。それで解約したら約款違反になって7万かかったとかいう話があった。その後またすぐに契約しなおしたんだって。まあ、この親も確かにバカですね。バカのなすり合いである。
 まあ、ゲームにしろ携帯電話にしろ、現代人の憂うべく問題であることは認めます。確かに困ったし、不快である。それこそ根気強く問題を見据えて議論する必要はあるし、教育することが大切だろう。
 しかしながらいたいけな子供達が携帯電話を持った瞬間に、ものすごく危険な境遇に陥るというのはどうなんだろう。お金が欲しくなってすぐ援助交際を始めたり、詐欺にあって財産を失ったりするんだろうか。まあ、そうなるかもしれないけれど、そういう子って、最初からものすごく不良だとか、本当にバカなんじゃないですか。みんな知ってるくせに言わないだけでしょ。これは子供を頭から信用するという態度じゃなくて、ちゃんとした日頃からの付き合いの上で分かることだろう。
 そりゃ、子供はだいたいバカなものだから、馬鹿なことはずいぶんやるだろう。多少賢い子は、親を騙したりもするだろう。でも基本的には子供と親は別の人格なんだから、バカだったり反発したりすることは当たり前のことなんじゃないか。

 とにかく疲れたが、最後に取りまとめて助言をする教育関係者の発言があった。いろいろあるにせよ、8割方の人はまともなんであり、みんなで一致協力して2割の人を何とかしよう、と言っていた。ああ、頭が痛い。まともなのが8割程度なら、非常に健全じゃないか。実際は6割ぐらいがまともじゃないと僕はふんでいるが、まあ、それはいい。教育界のそういう完全理想主義が根本的に危険なのである。サダム・フセインが大統領に就任した選挙では、100パーセントの信任であったし、金正日であっても似たようなものだろう。理想主義の正体は、現実にはアレなんである。そういう現実をまずは正確に見て、その上で物事を考えていかないとどうにもならない。事実を間違えて捉えて対処すると、結果が思うようにならないのは当たり前である。
 もちろん言わなかったのでブログがこうなった。教育界だけで起こっている問題は、教育界の構造的な欠陥である可能性が高い。そのことを自分で解決できないから、いつまでも問題が片付かないのである。困った親の批判をしている背景は、実は問題のすり替えである場合が多い。教師と一部の親が一緒になって愚痴り合って、まあ、解決することを期待するほうがどうかしているのであろう。ある中学校では生徒数が900人の規模だそうだが、オヤジの会を発足しようと呼びかけて、集まったのがたったの9名。もっとがんばって増やしていきたいそうである。こういう感性の集団に浄化作用などありはしない。いい加減ウソをつきあうのはやめて、傷を舐めあうのは止めようではないか。なんだかもう義務教育は死んでいるのである。
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帰ってきた

2007-10-29 | 雑記
 出張を続けて二本。勉強になったけど、疲れました。
まったくNETから隔離状態になり、ちょっと調子が狂う。一種の中毒だったと自覚できた。まあ、これも収穫。新聞やテレビと同じで、なければ無いでそれはいいのである。しかしながらずっと無いは、それなりに困る。それならそういう付き合いでいいのであろう。自分に課している目標のようなものもあって、それなりにこなしていくことが大切なのでやっていたものだが、時々は見直しや軌道修正は必要である。今回はそういうことである。補充ができたので、吐き出したいものはけっこうたまっているけど、ボチボチ再開いたします。やはり先に片付けるのは仕事を優先するということで…。
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この国が忘れていた正義

2007-10-23 | 読書
この国が忘れていた正義/中嶋博之著(文春新書)

正義の戦い

 基本的に激しくお勧め本に限って紹介することが多いのだけれど、この本が多くの人に読まれることを心から望んでいる。できれば社会運動になって欲しい。この国を住みよく、好きな言葉じゃないが、「正義」を達成させるためには著者の主張は至極まっとうだからだ。
 法律は、「犯罪者を裁くのではなく、基本的に守るためにある」のは何故なのか。それは法の成立からして、仕方のないことだということがはじめて分かった。歴史の上では国家権力から個人を守るために法律がつくられた歴史があるからなのだそうだ。フランス革命は国家の拷問殺人から個人を守るために起こったという話は、まさに目から鱗だ。だから最初に監獄を襲撃したのだ。歴史を読むとはこういうことだろう。そして、特に日本の法律はこの考えが発展しすぎて、ゆがんだものになってしまった。
 また、そこから派生した人権という考え方は、あくまで国家対個人という構造において出来上がったものなのである。ということであるから、人権とは国家に対してのみ用いるべきものであって、個人間の上では本来有効ではない、と考える方がまっとうだ。僕は人権というものが大嫌いだけれど、この考え方なら腑に落ちた。人権を振りかざす邪悪な人には、この論法で撃破しよう。これだけでも僕にとっては凄まじく有用な本であった。まったく感謝だ。
 まずは個人的に感動したことを書いてしまったが、この本の主な主張はそういう部分ではない。現在の法律では犯罪者を救済する福祉型社会であるが、これがいかに問題を深刻化し、無力であるかを解き明かしている。サカキバラはそうして、現在は釈放されてしまった。また、サカキバラを代表とする多くの犯罪者が、同じようにいともたやすく世にでて深刻な再犯を繰り返しているのだ。多くの人たちが危険にさらされているにもかかわらず、法の専門家の方が積極的に無視し続けているのである。怒りを通り越して、本当に悲しくなる。残酷にもてあそばれて苦痛のうちに死んだ人々は、ただ死んだだけなのだ。あまりにもむごい事実だ。
 そうした現状をどうしていくか。本来あるべき処罰を明確にし、被害者の救済を考えることを具体的に考えていく。現行のものを少しいじるだけで、画期的に解決する方法があることを、本当に具体的に説いていく。絵に描いた空論でなく、その具体性がなによりすばらしい。後は実行あるのみではないか。
 しかしながら、これを妨害するのはやはり根強い福祉型観念だ。せっかく作り上げているものは、ことごとく骨抜きにされていく。彼らは一種の共犯者なのではないか。被害者を救済する道は、厳しくイバラの続く道のように思える。善意という無知の悪魔が、さらに被害者を鞭打っているのである。
 また、学校内のいじめを撲滅する方法も明確だ。なんと、いじめは撲滅可能なのである。学校教育がいじめを守っているために撲滅できないのだ。どうするかというのは実に簡単で、いじめを犯罪と捉えるだけでいいのだ。実際にいじめ行為は明確な犯罪であるのに、犯罪にすらしない学校教育が悪いのである。
 「誰がいじめたか分からない」などと寝ぼけたことを言う教員がいるそうだが、いじめには明確なボスが存在することが分かっているそうだ。確かに言われて見るとそのとおりで、僕らの時代にもいじめを起こす人間は決まっていた。そして、そのボスが怖いから連鎖していじめる取り巻きのいじめ人が生まれていたのだ。いじめを引き起こす首謀者を厳罰すると、いじめは消滅する。いじめを起こしても処罰されないから、何度でもいじめは引き起こされる。いじめのない状態は、首謀者がいない状態なのだ。実にシンプルだ。早急に手を打てば、残酷な犯罪を少しでも減らせるだろう。
 多感な時期の子供が、どういう思いで遺書を書いて自殺しなければならないのか。よっぽどのことが行われている結果じゃないか。弱くて簡単に勝手に死ぬことを選択する人間などいないのだ。誰も理解しないし助けてくれないから絶望して死ぬのだ。他に逃げようがないのだ。そこまで個人を追い込んでまで犯罪者をかばう社会が、まともなはずはないではないか。学校は、本当はまじめに考えていないのだ。また、いじめている子供を持つ親も。そしてその周辺の人も。もし自分の子供がいじめられているとしたら、即刻警察に届けることが肝心だ。ぜんぜん行き過ぎた行動ではない。それが自然のことなのだ。被害者が不登校になったり学校を代わったりすることはぜんぜん解決ではない。逃げてはいけないのである。
 これだけのまともなことが、実は分からなかった。知らなかっただけなのだ。考えてなかっただけなのだ。そういう衝撃の本を手に取らないことは、ある意味で犯罪を助長させている。脅迫ではないから自由だが、みなさん必ず読むように。世論が望んでいるのに妨害を繰りかえす人権弁護士との戦いは、更なる世論で撲滅する必要がある。これは、本当に「正義の戦い」といえるだろう。ブッシュみたいにヘソで茶を沸かす正義ではない。本当に正義とはなんなのか、真剣に考えるときなのである。
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らしくなく経済問題

2007-10-22 | 時事
 忙しかったりのんびりできたり、ちぐはぐな数日だった。しかし予想したとおり、今年のひとつの山場から開放された気分は本当に格別だった。開放されると何にもしたくなくなった。時間ができたにもかかわらず、珍しくブログも書かなかったし、読書もほとんどしなかった(まあ、一冊ぐらいはそれでも読んだが…)。いつもどおりは散歩ぐらいで、これも特にがんばりはしない。大きなプレッシャーから開放されると、人間はここまでしあわせになれるものらしい。まあそれでもこれからも出張が続いたりもするわけで、本当は忙しさは続くのではあるのだけれど、今回の山場に比べたら、本当になんでもないことのように思える。本当に今年の最大の山は越えてしまったのだ。

 つれあいから聞いた話。子供達と話をしていて、長男に「将来東京の大学にでもいったら」というような展開になったらしい。どういう大学ということは別に問わない。そういうこともあるかもしれないね、ということである。すると長男は困った顔をして、「朝何時におきたらいいの?」と問い返したそうだ。自宅から通う気らしい。それも飛行機で。

 ラグビーのワールドカップは、結局一度も映像で観る機会が無かった。南アフリカが優勝し、アルゼンチンが3位となった。個人的にはフランスとアルゼンチンの試合を観たかった。両国は今回二度も戦ったのだけれど、二度ともアルゼンチンが勝った。フランスは開催国だったので、さぞかし悔しい思いをしただろう。しかしながらラグビーはすっかり南半球が強くなったという印象がある。今後もこの流れが続くものだろうか。英国はラグビーではスコットランドやウェールズなどと別れて戦う伝統になっているが、統合されるとやはり一番強いのではないか。いや、やはりスタイルは違うわけで、そう単純にはいかないのであろう。それにやはり違う国なんだろう。僕はフランスも含めた五カ国ラグビー(追記:最近イタリアも加わって六カ国になったらしい)も好きなので、冬になったらこの中継を楽しみに待つことにしよう。

 インドではクリケットが最も人気のあるスポーツらしい。4億以上の人がテレビ中継に熱中するのだという。プロスポーツというものは、根本的に何か米国とは違う流れで発展している気がする。もちろんそのほうが面白いのでそれでいいが、経済に限らずグローバルなものは統一の方向なのではないのではないか。
 そういえばG8の蔵相会議でもサブプライムの問題が想像以上にでかかったことも分かった。日本も当然協調路線をとることになって、金利引き上げは見送られることになるだろう。まあ、詳しくは専門を見て欲しい。しかしながらそういうことが続くと、思ったより早く、先進といわれていた国の凋落が始まっているのかもしれない、などとも思う。もちろんあとから発展する方が世界経済を引っ張るのはいいことだとも思うのだが、日本も身のふり方をもう少し考えたほうがいいような気がする。結局は軍事再編も米国の計画通り日本は従っているだけである。必ずしも間違っていないのかもしれないが、なんだかなあ、という気がしないでもない。特に米国に凋落は目に見え出しているのではないか。
 原油の先物は相変わらず高値が続いている。米国とにらみ合っているイランに投資して、石油を増産してもらうといいんじゃないかと思うが、これも妨害の方が大きいのだろうな。残念だ。しかしながらイランの発展も思ったより早そうだ。イスラエルとドンパチやるのも困るけれど、報道で見るより有望な国なのではないか。
 バイオ何とかとか言っているが、将来のエネルギーはちっともまかなえないことは明確らしい。それよりやはり原子力の実用の方が話が早いのだが、核の拡散問題があり、発展途上国に拡散する危険を冒すより、石油を利用した方がいいという思惑があるとも聞く。いくら中国がたくさん使うとはいえ、石油はまだまだ100年先ぐらいまで利用可能という試算があるらしいじゃないか。燃料は安いから利用しがいがあるので、高くなったら代替しなければしょうがないのである。その上、ここまで石油が高くなると、産油国であるロシヤは益々強くなり、新冷戦が始まるとも言われている。そのほうが都合のよい人たちもいるのだろうが、多くの人は迷惑だろう。今の不安定さはブッシュまでの問題だという意見もあるが、悠長に待っていて解決するようなことでもない。ヒラリーが保護色の強いことは有名だし、いづれにしても距離感が近すぎて共倒れになりそうで不安である。
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正露丸

2007-10-18 | 雑記

 おなかの調子が悪くて痛みもあるので、気休めに正露丸(征露丸)を飲んでみた。するとみるみる痛みがなくなった。すばらしい。さすがロシヤを征伐した時代から続いている薬だ。
 記憶違いかもしれないが、チョモランマ登攀を試みようとしたある人が、ふもとの村でこの薬を置いていったという。それからこの薬は魔法のような万能薬として、あがめられているのだという。中には癌も治ったと主張する人がいるらしいけれど、たぶん勘違いだろう。

 さて、今日は忙しいのでこの辺で…。それでも落ち着かないで書こうとするのだから、ブログというのは一種の病気かもしれないな。
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ロードは続く

2007-10-17 | 雑記

 体調は相変わらず悪い。しかし悪いなりに平気だ。つまり悪い状態に慣れてきた。
 捻挫して痛みがあっても、しばらくするとだんだん痛みを感じなくなる。しかしそれは必ずしも完治しているわけではないという。何かの拍子にその痛めた筋が急激に痛み出すことがある。そういうことにならなければいいのだが…。
 僕は小心者なので、腸に異常があるのではないかと思うのだが、思っていても本当に悪かったら困るので、無視することを選択している。例えば癌などの異常が見つかるのは非常に都合が悪い。見つかったからといって手術をするのは嫌である。それならば見つからないように生活を続けて癌で死んだほうがましである。そうであるなら異常があるという状態は放置するより仕方がない。その上もちろん癌なんかではない可能性のほうが実は高いのではないかという期待もある。だからこそ結局は俄然我慢を続けるほうが得である。
 まあ、いつもと変わらず散歩もできて、一日に十回ぐらいトイレに行く程度のことなので、健康的なライフスタイルだ。

 仕事の〆切りに追われている。朝からあれやこれや。いまさらという感じでミスも見つかる。見つけると脱力する。ああ、こんなあんなも連動して修正かけなきゃならない。そういう複雑な関係の絡みを頭で考えるだけで疲れてしまう。疲れるが、まあ、やらなければ片付かない。しかしながら週末になるとそういう〆切が過ぎて笑っているはずである。そういう未来を考えてダッシュをかけるのみである。

 さて、夜にはJC事業。僕は当事者なのでそれなりの緊張感だった。一部講師を務めたので、少し準備をした。鏡を見て練習した方がいいとは聞いていたけど、僕は鏡を見る習慣がない。つれあいに見てもらって流れを通す。妙に照れくさいものだが、やっと実感を掴んだ。本番前に会場でもリハーサルをするが、まあ、いけるだろうという感覚を持った。そうなると本番は割合楽しんで講師をまっとうした、と思う。いや、楽しかった。こういう役割は久しぶりだが、事業というのはやはり当事者がなにより楽しいものだ。
 正直に言うと立場上かなり重圧も感じていたのである。やる分にはいいんだけれど、変な見栄というか、やはりそんなに下手を打てないのではないか、とか、たいしたことないじゃないかとか思われるのも癪だ。普段は他人からどう思われるということは極力考えない主義なのだが、今回は妙にそういうことが頭をよぎった。その上仕事の忙しさもある。体調も思わしくない。なんだか自分の追い込まれていくのが分かった。そうであるから思い切って逆に準備をすることにした。普段の僕はライブ感のほうを大切にする(そのほうが言いたいことが相手に伝わると考えるからだ)ので、準備は最小限にしかしない。もちろん本番は余裕ができてかなりアドリブに走ったが、臨場感は維持できたのではないか。
 みなさん、本当にありがとうございました。W辺委員長も意地を出して偉かったなあ、と思います。
 ともあれ終了後のビールがなにより旨い。一時のことではあるけれど、かなり充実した爽快感を味わった。さてさて次は仕事だ。この山も何とか越えてやろう。
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僕の宗教戦争

2007-10-16 | 雑記

 ここのところなんだか腹の調子が悪い。なんというかグウグウ言ってどよめいている感覚がある。平たく言うとガスがたまっているのが分かる。どうしてなんだろう、と一人で疑問に思っていたら、豆乳を飲んでいるから当たり前だ、とつれあいに言われる。なるほど、当たり前のことだったのなら気にする必要はない。ゴロゴロ言ってもけっこうである。
 トイレに行っても内容は乏しくて、そのグウグウゴロゴロの原因が放出されるだけである。内容がないのは内容が体内に吸収されたからだろうと考えられるが、その段階でガスだけがつくられていくというがなんとなく歯がゆい。もう少し実のあるものを出すことができないものだろうか。せっかくトイレに行ったのに、そういう結果に終わるのが残念なのである。
 体の抵抗というのはなかなか厄介である。固形物を口にするのは夜だけの日が多くなっているのだが、実際に体重が落ちるというのはそう簡単にいかなくなった。一所懸命効率よくなっていく自分の体の優秀な構造が、なんとも恨めしい限りである。
 とはいえ、なんとなくそういうものもだんだんと受け入れられるようになっていることも確かだ。もともと体重を落とすだけでなく脂肪分を減らすことが大切なので、せっかちにことが進められるわけではないのだろう。だんだんと徐々に燃焼されていく自分の脂肪のことを想像すると、無理をしない限り減らないことは理解できる。ただでさえ日常的に努力して増やしてきた脂肪である。そう簡単に減らされては困るとでも思っているのかもしれない。誰がって、僕の体が。僕がその方面で努力して来た人ならば、たぶん自然にそう考えるに違いない。ましてやそれは僕の体である。そう考えるのは至極当然である。憎らしいが彼の事情も理解できた。もう少しゆとりを持って無理を続けていこう。
 まあ、無理はしているにせよ、だんだんつらくなくなっていることも確かである。一日一食で暮らしている人も多いと聞く。健康のためにどうこうということは僕にはまったく興味がないが、確かに一食でも暮らしていけるということはそうなのだろう。何で三食という方が疑問も多い。人間の歴史を考えたら、ごく近代になって三食が増えたと考えるほうが自然だろう。ということは、不自然な習慣なのかもしれないではないか。
 突然だが、宗教というのは突き詰めると習慣だと思う。特定の神様を信じているのが宗教だと多くの日本人は思っている気がするが、僕はそう思っていない。説明すると長くなるので各自で考えて欲しいのだが、例えば歯を磨くことは宗教である。それが僕の結論。歯を大事にする心掛けがしあわせにつながるから人々はせっせと歯を磨く。宗教というのはそういうものではないか。
 一日三食しっかり食べなければいけないという意見は、そういうわけでそういう宗派の布教活動に過ぎないと思う。他人の健康を本当に分かりもしないで、一方的に布教しているのである。本人は信者なのでそのエゴに気付かない。
 さて、そういうわけで、僕を邪魔しないでください、ということが言いたいわけである。僕は宗教戦争を戦っているのだろうか。
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邪悪な人間

2007-10-15 | 時事
 ロンボルグという人ははじめて知ったが、唸らされた。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/051f9d261e2fd4450b681fbb5ec69abc

 ゴアがノーベル平和賞をとったのは、ひとつは欧州社会が米国を非難している結果だと思う。ブッシュにしろ、欧州にせよ、彼らの社会は極端で単純すぎる。こんな賞はやったりやらなかったりするほうが、はるかに平和的だ。「目には目を」ではないが、自分が正しいといいたいだけの人たちは信用できない。だからこそロンボルグのような視点が大切だ。
 目を反らせたいのは、自分の身の回りの人を非難したい欲望があるせいではないか、とも考えている最中だ。アフリカの貧困より、近所の目障りな人を非難したい。地球のための悪だといいたい。エコロジーはそういう暴力性も内包していると僕は確信している。

 また町山さんのような意見もある。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20071013
 これはこれで、笑えるが笑えない現実だ。

 ゴアは本当に罪深い人なのではなかろうか。既に「不都合な真実」はかなり胡散臭いと断定されている。ちっとも科学的でないのだそうだ。それでも彼らは善意でこんなことをやってしまう。事実を捻じ曲げてでも、実行させようとする。ゴアのような人間が、一番邪悪な存在なのではないだろうか。
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いつまでもデブと思うなよ

2007-10-13 | 読書
いつまでもデブと思うなよ/岡田斗司夫著(新潮新書)

 新書は割合手に取るほうなので、中にはビジネス書といわれるものもつい読んでしまうことがある。好きずきなのでビジネス書自体がどうだというのは特に感想は無いが、時々読みはするくせに、これが役に立つ分野なのかというと、多くの場合は疑問がある。
 それにははっきりした原因がある。僕は娯楽で読んでいるのでそれでいいけれど、これが勉強のためであるなら、ちょっと目的が違うためではないだろうか。
 自己啓蒙書という分野もあって、それはそれでいい。好きな人は読めばいいと思う。
 今は、多くのビジネス書がおそらく内容として書いてあると暗示しているお金の儲け方についてのビジネス書について思うことだ。これはぜったいに役に立たないとは確かにいえないのだけれど、ほとんど役に立たない。お金を儲けたいという欲望があることは自然なので別にいいけれど、じゃあその方法がある、という話はやっぱり駄目なんじゃないかということだ。
 お金儲けには確かに方法はあるだろう。しかしそれはシンプルに働くことで結果が出るかどうかということである。そういう意味ではどうしたら、ということなど本来関係ないことがわかる。やり方はほぼ無限だからだ。
 もう少し、自分のどうして儲けたいかを考えるべきではないか、と思う。あえて違うと言い切る人もいるかもしれないが、多くの場合、お金を得たいのは幸福の手段としてではないか。お金があるだけでしあわせという人ももちろんいるだろうが、現代社会において、しあわせが何かということはあんがいイメージとして難しくなっている。好きにお金がふんだんに使えるというイメージのみが、本当に幸福だと思っている人は、おそらく考えが甘い。お金を持っているだけの状態は、実はまだ幸福なのではない。自分にとっての幸福が何であって、そのどの分部にお金が要るのか、もう少し深く考えて見るべきだろう。
 ものすごく単純に言うと、実はそれがわかると自分のビジネススタイルは出来上がるといってよい。大切なのはお金を得る目的が、自分にとって何なのかということが最重要だと気付くことだ。方法は後から考えるべきことだ。ビジネス書には、その目的を探すことはほとんど書いてない(当たり前だが)。書いてあるのは方法である。つまり何のビジネス書を読むにせよ、自分の目的意識が無ければ、結局は役立たない。その上、変に方法をたくさん知ることは、自分の目的自体を探しにくく妨害する場合も多い。その点にもっと注意をはらったほうがいい。
 最近の本では、断然「いつまでもデブと思うなよ/岡田斗司夫著(新潮新書)」がお勧めである。ダイエット本の体裁をとっているが、これはビジネス書として読まれたほうが効果的だ。
 ネタばれであるが、内容としては、食べたものを記録するだけのレコーディング・ダイエットの実施方法と実践記録だ。まさに感動的な内容で、僕も実践して着実に効果を実感している。
 告白すると、もっと早くに紹介しようとは思っていたが、やはりダイエット本として読んだために、自分自身の結果が出てから書評を書こうと思ったのだった。まあ、ある程度は確かに自分自身も痩せてきたのだけれど、この何故痩せるか、という前段階が、何より重要だったことが今になってみるとしみじみわかる。そして実践しながら、この本の本当の内容がわかってきたのである。そして考えが変わった。いや、確かにこれはビジネス書であると著者自身も書いてはいる。しかし、まあ、応用が利く程度にしか考えていなかった。ところが食べたものを細かく記録するとだんだんと真髄が見えてきて、確かに自分をマネージメントすることと、ビジネスということはまったく同じだということがよくわかるのである。
 答えをいうと、それは単純に、「現実を見る」こと。これに尽きる。
 多くの人は現実が見えていない。その見えていないことを知らないのである。その発見のためにこの本はある。だから、この本は何度も最初は「記録するだけ」と強調している。まだ痩せていない、その状態の方が重要だったと何度も何度も書いている。この本の意味は、そこにあるのだ。人間が現実を見ないということを、ここまで現実に理解させたということで、この本の価値は非常に高いと思われる。多くのビジネス書が到達できなかったお金儲けの真理が、ここには書かれている。
 著者はただのオタクではない。リアリストにして、偉大な経営者だ。この本が勘違いにしても読まれることで、次のお金儲けの道が無限に開かれていくのではないか。もちろん、ちゃんと現実が見えた人だけの特権であることはいうまでも無いが…。
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やかましい音

2007-10-12 | 散歩

 眠くておきられない。7時起床で散歩なし。二日酔で水が旨い。もちろん豆乳も野菜ジュースも旨い。いっときは、ああ、なんか食いたいな、と思っていたが、しばらくするとそう思っていたがことを忘れてしまった。そのまま昼食も抜いてしまった。
 稲刈りがすすむ田んぼの方でしきりにギーギー鳴いている鳥がいる。数匹交互に鳴いている。何の相談をしているのだろう。それにしても喧しい。文句を言いたいが、姿は見えない。
 そういえば僕が閲覧するブログの人でカナダ在住の方が、朝からグースの声でうるさい、と書いていた。近所に大群がいるらしく、大変な騒ぎだそうだ。確かにそういうことはあるようで、田舎というのはあんがいうるさい環境なのだ。
 まあしかし動物がうるさいのはちょっとびっくりしていればいづれ収まるが、人のせいでうるさいのはなんだか心に残って煩わしい。僕の近所では朝の7時に大音響で音楽がなる。ものすごく不快だ。同じく田舎では夕方に子供に帰れという放送のあるところも多い。ものすごく恥ずかしいしなによりうるさい。最近の子供はおとなしいので、少しぐらい門限を破るぐらいの骨のあるヤツを育てるべきだ。
 昊天宮神社の前の消防のところのサイレンもうるさい。つんざくほどの騒音をなぜならす。その無神経さがなにより腹立たしい。僕は昼時にあの道を通りたくない。Y田電気も近所にあるが、苦情をいわないのだろうか。
 しかしながら不思議とうるさいと感じない音もある。お寺の鐘だ。朝の六時と夜の六時にゴーンとなる。近くで聞くとけっこうな音量である。まあ、そういう距離感もあるが、お坊さんがんばってください、という気分になる。僕は坊さんに甘いのかもしれない。
 あるとき散歩をしていると、近所にある忠霊塔の入り口のところで掃除をしていたオヤジが、高校生ぐらいのカップルを叱っていた。「お前らのデートのためにある場所じゃない、帰れ(大意)」といっていた。若いカップルは可哀相だが、僕はこのオヤジも好きかもしれない。夏越では以前にここからテントを借りていたけど、このオヤジがうるさくて困ったものだ。しかしながらまじめすぎる人なので、叱るだけでなく、自分もしっかり汗を流して作業をする。だからこのオヤジがうるさいのは、まあ、いいのである。しかし、あまりにもわずらわしいので、のちにテントは借りなくなった。やっぱり平和も尊いのである。
 駅前の某ビルの管理人のおばちゃんもうるさかったなあ。いわゆるどうしようもない確信犯的クレーマーなのだが、徹底的にヒステリックに喧しい。長時間ひたすら聞いていて、最後にがんばれという。あの苦行も夏越も卒業でおさらばだ。ああ、嬉しいなあ。
 散歩していると、テレビの音量が異様に大きいお宅がある。見るともなしに見て見ると、どうもお年寄りのお宅らしい。耳が遠くなっているのだろう。こういう喧しさは仕方がない。しかしご近所だと、やはり困るだろう。
 僕のうちには犬がいるので、キャンキャンなくことがある。ご近所迷惑なこともあるだろう。下のほうで飼っているU島さんのところのインコはやかましいので有名だ。その上長生きで何年も鳴いている。
 まあ、音というのは孤独でない証拠なのかもしれない。我慢できなければ、上等の耳栓を買うことにしよう。
 しかしながら耳栓をすると、自分の耳鳴りがうるさく感じられたりする。気になるのは体調と精神衛生のせいかもしれない。やはり睡眠不足なのであろう。
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楽しんでやろう

2007-10-11 | 雑記

 朝夕は半袖で少し涼しい感じになってきた。帰りの車ではエアコンのメモリを、少し赤いところまでずらしてみた。生暖かい風でもかまわないぐらいに感じて、やはり寒いのだと確認した。
 先日録音してもらっていたMDは、タイマーの不調で渋谷さんの番組終了後の放送も録音してあった。ラジオ深夜便である。雑誌のコーナーで、そういうものがあるのを目にしたことがあるが、実際に聞いたのは初めてのことだ。こんな夜中にこの放送を聞いている人がいるのである。それも主なリスナーは受験生ではないようで、かなり高齢の人を意識している構成であるように思えた。仕事をしながら聞いている人もいるのだろう。僕にとってはなんだかシュールであった。
 音楽はジャズのライブ。曲紹介で何分とまで教えてくれる。昼に訪問した博物館のレポート。録音状態にムラがあり、聞きにくいところもあるが、説明が懇切丁寧で、テレビより臨場感がある。美術品の説明では背景、絵の書かれ方なども説明してくれる。見えていないが、そういう言葉で美術品を説明されるというのは不思議な想像力が働いて面白かった。なにより紹介してくれる人の、美術品に対する情熱のようなものが伝わって、人の執着というものは楽しいものなのだなと思った。
 夜は例会。
 人の態度で引き締まるものが心地よかった。最後に話をさせてもらうのだが、こういう空気は自分自身も適度に引き締まり、話しやすいのである。聞いて下すってありがとう、という気持ちだ。しかし時間的には長くなったのだろうか。そこのところは僕の永遠の課題なのだ。
 あえてふれなかったのだが、次年度組織も決まって本当に良かった。こんなに蚊帳の外にいたのは入会の年以来のことで、なんだか不思議な気分の期間を味わってきたけれど、発表されてもなんとなく不思議な感じは残ったのだった。つまりまったく関わっていないわけで、実感が伴わないのだ。いよいよなんでよかったなあ、とは素直に思うが、やはりこれからかかわることがないというものが、僕の皮膚感覚から抜け落ちてしまっていることがやっと分かった。今まで長いあいだそういう負担感というのが嫌だったけれど、こうして蚊帳の外にいると、確かにこれは寂しいという感情なのだろうと自分を分析した。そうしてこうやって寂しがっている自分がとても不思議な生物のようにも思えた。
 K谷っちの全国大会びっちりレポートも面白くてフムフム読んだ。冷めているが文才の感じられる文章だ。この文章に限らず、最近の報告などの文章も、楽しんで書いている人が多くなったように思える。以前は依頼された負担の感じられるものも多かったのだが、少しずつ吹っ切れている人が増えているのではないか。そうなると、読み物としても断然面白くなる。急に脱線して批判するが、知事とか市長の文章を代読する人がいるけれど、任されたのならば、挨拶まで買って出るべきではないかといつも思う。どうせ部下に書かせて、それを読んでいるのであろう。みんな嫌々やった仕事で、多くの人を不快にさせている。まあ、あれはああいうもんだといえばそうなのだけれど、嫌々をいかに自分のペースに持ってきて、つまり覚悟を決めて取り組めば、人にも伝わるものがあるのではないだろうか。いつまでも態度が中途半端で、また、それでいいという感覚が、不愉快の連鎖になっている気がしてならない。上手い下手はどうでもいい。方法論ばかりに目を向けすぎず、まずは取り組む姿勢がいいものを生み出す原動力なのだと思う。
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最近読んだおすすめ漫画

2007-10-10 | 読書
 帯広で漫画喫茶にはじめて入ったせいなのか分からないが、なんとなく漫画づいてきて、少しだけ漫画本を買ってみた。現在話題の本というとピントはずれているけれど、これは確かに読んでも面白いというお勧めができたので紹介しよう。
 
アポロの歌/手塚治虫著(集英社文庫)
 これは最近米国で翻訳されて話題になっているらしい。こういう書き方をするとなんだか喜んでいるようだけれど、こういう暗い設定の漫画というものが米国にはないらしくて、驚きをもって迎えられているということだ。中には漫画なのに内容が深いなどといまさら猫が聞いても驚くようなトンマな感想を持つ人もいるらしい。
 まあ、しかしどんなに暗いものだろうと興味がわいて読んでみると、手塚作品の重っくるしい濃厚な味は確かに味わえるが、比較的軽く読める。普通の人は味わったことがあるだろう恋愛について考えさせられ、切なくもなる。いや、このタイミングで再評価もいいと思う。比較的地味な扱いを受けている作品ではないかと思うので、改めて多くの人が読んでもいいのではないかと思わされた。設定は複雑だし人がいっぱい死ぬので、イラチの人には向かないかもしれない。しかし、やはり傑作である。

幻想世界への旅/水木しげる著(ちくま文庫)
 これは「テレビくん」を見たくて買った。水木ファンなら有名だが、貸本から漫画雑誌に替わるきっかけとなった作品だ。妙な味はさすがにあって、なるほどと感心してしまう。本当に読むことができてよかったと思った。
 短編集であるが、夢オチであるとか、同じ話の焼き増しであるとかもあるのだが、水木しげるの持ち味である不思議なとぼけた味が健在で、ものすごく面白い。理屈や道理はなんとなく通っていないところもあるのだが、水木さんならいいのである。つまらない空想ごとが、水木さんにかかるとどうしてコウも面白い話になってしまうのだろう。本当に不思議な人もいたものだと思う。
 また、すこぶる面白いというのでは、
悪魔くん千年王国/水木しげる著(ちくま文庫)
をあげる。平和を成し遂げるにはどうしたらいいのか、ということを変な方法で成し遂げようとする悪魔くん。最初からどんどん怪しいが、いつの間にか誰がいいのか悪いのかさえ分からなくなる。凄すぎる名作だと思った。

ぼくとフリオと校庭で/諸星大二郎著(双葉文庫)
 これは僕はファンなので読まなければならない。相変わらず変な話が多くて、変な気分になる。妙に絵も重いのが諸星の特徴で、この短編集の話たちにはよくあっている。なんとなく嫌な後味があるのだけれど、この味をしめたら中毒になりかねない。いや、既に僕は中毒で、ファンなのだ。諸星こそ恐らく諸外国に紹介されるべき偉大な作家だと思うが、翻訳があるものだろうか。読ませてみたい気がするが、漫画が子供のものだと思っている人には、少なからずショックが大きいかもしれない。

PINK/岡崎京子著(マガジンハウス)
これは名作らしいという噂の高いものだ。率直に言って、確かにかなりの名作であった。僕はなんとなく村上龍を思い出したが、岡崎も読んでいるのではないかと思った。
 女が性のことをどのように考えているのかは、どういうわけだか男にはよく分からない問題なのだが、このように考えているらしいことは、それなりに驚きである。まあ、個人の考えることはどこまでも自由なので、女が考えるということではたぶん違うのかもしれないが、勝手に大変勉強になりました。しょっちゅうエッチをしているけれど、不思議なくらいまったくいやらしくない。女という生物は不思議なものだと思わせる力を岡崎は持っているということである。

カリスマ育児/榎本俊二著(秋田書店)
 冷めたギャグ満載で、声を出して笑えたわけではないけれど、けっこう笑えた。しかし子育てという大変さが良く分かる上に勉強になる。いろいろヒューマンに語れないホンネが見えて、すばらしい作品ではないかと思われた。どうこう理屈をたれようと子供は現実で、今そこにある事実だ。説教がましく言うと、子育ては親も育てていくことが良く分かる。大人は子供がいなければ、やはりそれなりに子供なのである。

雪の峠・剣の舞/岩明均著(アフタヌーンKC)
骨の音/岩明均著(講談社)
へウレーカ/岩明均著(白泉社)
 なんとなくとぼけていたい気分がこの作者にはあるらしい。恋愛を描くのも比較的下手である。しかしながら重い恋愛も描いていて、納得もさせられる。重たいテーマもショッキングに描きながら、どこか乾いた印象も残る。僕はこの人の作品は長いものしか知らなかったので、短編が読めてよかったと思った。もともとセンスがいい人なんだということが、一つ一つの作品から見て取れる。それでいてまだ未完成という感じも残しているので、僕は期待をしているのである。
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仕方なかったんだ

2007-10-10 | 雑記

 朝から曇り空のせいでだいぶ暗い。外に出て見るとぽつぽつと雨粒が落ちている。思うところあって、今日は杏月ちゃんと一緒だった。彼女の勢いは激しいが、その要望にこたえられそうにない。ほとんど前足が宙に浮いてしまっても、かまわず歩み続けようとする。必死で前を目指して、それでも僕の歩みが遅いので、キューキュー啼きながら進もうとしている。そういう声を聞きながら歩いていると、なんだかたまらなく切なくなるのだった。
 しかしながら雨脚が怪しくなってきたので、いつもの5分の1ぐらいの距離で散歩を断念した。帰ってきても玄関を眺めてキューキュー啼く。ああ、切ない。しばらくするとつれあいが、なんだか降ってきたよ、という。「ホラ、仕方なかったんだよ」と思ったが、杏月ちゃんに伝わったものだろうか。

 終日雨でパソコンをパタパタ。
 先日Y本君に調子の悪かったプリンターを見てもらったら、修理するより買ったほうがいいだろうといわれた。買うなら量販店の方がいいだろう、と率直な意見を言うので、そこはかとなく感動してしまった。商売というより、プロだなあ、と思うのだ。
 そういうわけでアドバイスどおり量販店で新しいプリンターを買ったわけだが、これがなかなか優れものだ。2万ちょっとでこんなものが買えるというのは、やはり世の中は厳しい世界なのだろう。ひょっとして不景気なのか。ほとんど写真屋と変わらない画質になって、パソコンも通さなくて独立して動かすことも出来る。スピードも驚くほど速くなった。これだけのものを作っても、利益はどれぐらいなのだろうか。消費者として恩恵を受ける分には単純にありがたいけれど、これではこの分野で勝負できる会社の限定度も計り知れるということだ。日本という巨大経済圏で勝つということと、国際社会での競争ということと、難しいことは頭が痛くて本当はよく分からないけれど、その難しさに将来の不安を覚える。日本は国際社会で競争するより外に方法がなかったので、製造部門が強くなった。しかし結局生き残りが少なくなることで、全体的な利益は減っていくのではないか。どこまでも生産性があがらないと生きていけないということは理屈では分かるが、トップで走り続けるというのはそれなりに大変である。ローマであっても滅亡するのは、やはり仕方のなかったことなのであろう。
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修行が足りない

2007-10-09 | 雑記

 別に休んでもいい日だったけれど、仕事の進み具合が悪いので出勤する。なんだか3日も休むと申し訳ないような気もする。仕事とは別の関係で、休日を使ってしまったような感じもするのだろう。厳密にいうと自分自身は休日という受け止め方をしていないが、仕事の上ではいないので休んだことにはかわりがない。どこかつじつまが合わない気もするけれど、なんとなくあわせる必要を感じたのだろう。
 しかしながら、やはり祭日なので、共同で作業をするスタッフが少ない。僕としては少し調べたいことがあったのだけれど、資料を持っている担当が休みであった。細かいところは後日に回して進めることにするが、ところどころ引っかかっているような感じがあって、すすみ具合が悪くなった。こういうときは整理整頓で、ちょっと机をいじったら、保留にしていた別の仕事を発見してしまう。締め切りはそちらの方が近い。慌てて手をつけると、結局そちらに時間をとられて、予定どおりには仕事を片付けることが出来なかった。こういうときは、なんとなく脱力を覚える。徒労という感じがするのだろう。少し片付いたんだから、その部分の功績を評価して、自分を慰めるよりない。取り組み前の準備が悪いからそうなったという反省も含めて、不十分は明日に持ち越すことにした。
 
 朝も少し歩いていたが、缶詰状態になっていたので、さらに夕方から歩く。湿気のせいでかなりむし暑い。汗の噴出のしかたが、なんとなく不快だ。目標の距離数を稼ぐには、まとまった時間歩かなければならないことは分かっているが、最初はなんだかやる気がわかなかった。まあ、歩けば何とかなるさで少し距離が出るコースを選んで見ると、だんだん調子が上がってくる。ハードルを高くしたからやる気が出る場合もあるようだ。
 戻ってくる道すがら万歩計を確認すると、思ったより距離が出ていない。しかしもう少しだからと思うと、自然と遠回りして結局目標到達することが出来た。今度は目標が低くなったために無理がきいたのである。
 何事も簡単には逆転は出来ない。あとで片付けるよりこまめにやったほうが、やはり労力はかからない。それは分かっているけれど、多くの場合後からの逆転を狙ってしまう。狙った時点で既に逃げているわけだし、リスクを負っているということだ。そういう自分自身がかなり馬鹿げている考えに捉われていることにはなかなか気づかない。人間という生き物の習性なのかもしれない。

 ちょっと新聞をパラパラめくると、ワールドカップでニュージーランドとオーストラリアがともに負けている。「おおっ、なんと!」と思わず仰け反るほど驚いたが、そんなに驚くべきことだったのか、自分でも不明だ。ワールドカップといってもラグビーのことで、日本も出場していたのに、ちっともテレビで放映されない。世界中で熱狂していないのはアメリカと日本ぐらい(本当はもうちょっとはあるだろうけれど)なのではないかと思われるが、確かに日本人の多くは関心がないのだろう。オール・ブラックスってものすごくかっこいいのに。せめてスポーツニュースぐらいで流れないかと思うが、地方大会をワールドシリーズというようなスポーツはしきりに放映するくせに、何たる差別だろう。やっぱりこういうところでも日本はアメリカの属国なのだなあとしみじみ思う。国連で日本がバカにされるのも当然だろう、と思うのだった。
 ついでに大学駅伝を見逃していたことに気づいた。ああ、なんという失態だろう。出雲は距離が短い短期決戦の駅伝になるので、思わぬ逆転があったりする。ああ残念だった。だったのだけれど、どうせ仕事なので見ることは叶わなかったのだった。知らないほうがよかったともいえるわけで、今後も新聞のテレビ欄はまじめにチェックしないことにしたほうがいいのかもしれないと思った。ついでにすべてのニュースを見ないほうがいいのかもしれない。そうではあるがついつい見てしまう。僕はまだまだ修行が足りないのである。
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