カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

こだわりの逸品を探す

2007-03-31 | 雑記
 大村JCの内報誌では、「こだわりの逸品」という企画ものがある。そこでなんか僕のものを出せという要望があったことを忘れていた。僕はK又君のように多趣味でないし、物持ちが良くない。僕の性格として執着心が薄く物事にこだわらないというのが特徴だと自分では思っていたのだが、まあ、それには異論のある人もいるかも分からない。
 記事を担当するというT竹君は「本以外で」とあえて条件をつけてくる。僕から本以外ということになると何にも無くなるではないかと思うのだが、趣旨として僕がもってそうだということは分かりきっているので意外性が無いということらしい。「この人がこんなものを持っている」というようなものを取材したいということなのだろう。しかしながら繰り返すが、僕はたとえ趣味だとしても、何かモノに執着するということは多分無い。どこのブランドだからいいとか言うのも分からないではないが、そうでなくともいいものはいいのであって、人間がものを選ぶより、ものにあわせて行動したほうが合理的だという気がするだけである。
 しかしながら工具などでは、道具を選ぶということは大切だとも思いはする。「弘法筆を選ばず」というが、その道の達人ほど道具を選ぶことには熱心であるはずである。仕事や作業の精度をできるだけ上げたいと思うなら、道具を選ぶほうが合理的である。ほんのわずかな使いよさなどの違いでも、達人に分かる領域はそれだけ深いものだという気はする。達人に限らずとも実際に筆を変えて書いてみると、ずいぶん違いがあることが分かるはずである。値段が高いからいいということでは必ずしも無いが、ある程度高価なほうが信用が高いということは比較のうえではいえることではあるだろう。またそうでなくては高いという価値が泣くのではないか。泣かなくとも、その無念さは物事の成長の妨げになりそうである。
 さて、そうは思うが、僕は職人芸は持たない。手先はやたらに不器用である。手が武器用なのは頭が悪いせいだと思う。手を動かすよう命令を出す機能が弱いのであろう。日曜大工もやらないし、子供の頃からプラモデルさえ完成させたことが無い。時計の針の動きを見ているだけでイライラしてくる。少女雑誌のリボンの付録でアップリケがあったので家のカーテンに貼り付けて怒られたことがあるぐらいで、何かを作ったり工夫して工作したりする事はほとんどしない。無益な人生を送っているのである。
 さてそういう僕が苦肉の策として選び出した逸品とは…。
 JC関係者の方は4月10日の例会をお楽しみにしてください。それ以外の方はメールを下されば、原稿をお送りします。もっとも、いつものように文章が長くなったので、没になる可能性はある。K谷委員長がどのような判断をされるのか、そこまでは僕に権限は無いのである。
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腑に落ちて気持ちいい

2007-03-30 | 雑記

 仕事の関係で福岡方面。連絡の都合がつかず出発が遅れ、結局昼前に到着。午後から用ができたといわれていたのでとりもなおさず行ったのだが、昼食が用意されていた。また、午後からの用事は、もういいそうである。ご配慮に申し訳なく思うが、ちょっと戸惑う。最初は午後に行く予定であったのだが、用があるといわれ、それでは早くにと準備をしていたのに連絡が取れなかった。結果がすべてだが、日を改めるべきだったかもしれない。むしろどうも話が通じないもどかしさを感じる。先方のほうが早く会いたがっていたようなので強引に日取りを決めたのだが、違う意図だったのだろうか。何とか昼時を避けたいとこちらは配慮していたつもりだったが、先方はどうしても昼時に来るように配慮したように考えられないではない。いや、考えすぎだろうか。
 話のほうは、むつかしいながらもとりあえずは済ませることができた。相手の話にかなり疑問を感じる部分は残ったが、立場が違うので差し挟んで意見をいうことは控えた。特に相手方が相談している方面の人の話がおかしいような気がする。ひょっとすると騙されているのではないか。僕らの業界から考えると、ちょっとありえない話で、再度相談されるようだが大丈夫なのかという気がする。結果的には上手くいかない気もしないではないが、こちらがそこまでしていいものか疑問も感じる。結果生じる金銭的な問題がある。僕の仕事の報酬としていただくわけにはいかない方面である。謝礼という方法がないではないだろうけれど、正直に言って欲しいわけではない。そういう浮いたような金は始末に困る。もらわない方が健全だ。しかし先方が騙される(とは厳密にいって限らないし)のを黙って見過ごすのは倫理問題ではないか。いろいろ悩むが、やはり手を出すべきではないだろうと判断した。僕が差し挟んで判断する筋ではないと思ったのである。ただ、連絡は下さるということなので、先方が判断する上で有用なアドバイスはできるかもしれない。

 帰りのサービスエリアでなんとなく見覚えがある人から声を掛けられる。親しげに話をされるので、うっかり名前を確認するタイミングを逸した。子供の行事の引率をされているようで、他にも何人もの人だかりがある。その回りから「どなた」と聞かれると僕の職場の名前を言われる。そうすると一同「ああ」といって会釈される。どうもウチの職場を知っている皆さんであるということはそれで判断できたが、回りの人は誰も知らない。困った。ウチがそんなに著名な事業所とは思えないから、社交辞令のようなものだろうか。子供達の着ているジャージに「長崎」の文字があるので、長崎方面の人なのだろうか。年齢的に同世代か少し上かという感じなのでJC関係かとも思うが、どうもピンとこない。話のタイミングを見て、逃げるようにその場を立ち去った。
 車の中でもそのことがずっと気にかかる。しかしどうしても思い出せない。知っている人であるということ以外、頭にもやが掛かったようにはっきりしない。車の中で他の話題で話をしながら、そのことが引っかかったまま気持ちが悪い。
 話題が地元の商店のことになり、どうもその客層が田舎くさく垢抜けない、という話になった。そこでピンときて思い出した。地元の料理屋の若主人であった。そこで思い出すのも失礼な話であるが、思い出したものは仕方がない。いつもは厨房にいてめったに顔を出さない上に白衣を着ている。普段着姿で見たことがないので思い出せなかったのである。彼の名誉のために言っておくが、そこの料理屋自体は品のよい京料理から地元食材を生かした垢抜けたセンスのあるものまで幅広い料理を手がけられている。味も評判がいい。ついでに言って奥さんもきれいな人である。
 それにしても思い出せて本当に良かった。名前を思い出せないのは知らないからで、そういえば相手も僕の職場名で僕のことを呼んでいたようである。理由が分かるといろんなことが連鎖して腑に落ちる。推理小説を読み終わったようなすがすがしさを感じた。
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ハードルは、ある意味で自己中

2007-03-29 | 雑記

 早めに職場に出て書類の整備。本日必要なものをスタッフに預けて指示しておく。今日も一日不在なのだ。よろしく。
 そういうわけで職場のミーティングをパスして移動。午前中から会議。早めに会場入りすると、後に議長を務めるように仰せつかる。これを得したとみるかどうか。実は前回も議長だったんだけど、と断ろうとしたが、これも世代交代なんだとか。ある意味では業界人なので進行したくないんだけど、まあいいか。結果的には眠くならなくてよかったけれど…。
 進行するといってもほとんど事務局が説明する。会長さんが補足説明するとき興が乗ってきてホワイトボードに図形を描いて説明しだした。なるほど、しかし、よくわかってよかったと思う。時間は超過気味だが、個人的には面白かった。会長さんは個人的にはいい人なんだと思う。できるだけ正確に意味を理解して欲しい。そういう気持ちがよく現れていた。逆に事務局の説明は誤解を受けやすいのではないか。少しばかり手厳しく言うと、自分の立場でものを言いすぎている。予算が足りなくなるから負担をかけるがお願いするという言い方では、素直に利用者が理解できるものだろうか。分かりにくくて申し訳ないが、説明は自己中心にならないことが肝要だと思う。
 さて、会議中にひっきりなしに電話がなる。こういう立場では中座できない。着信を見ると二つは選挙関係、二つは仕事、二つはなんだろう。留守電を入れてくれる人はひとつのみ。こういうのが困るんだよな。まあ、留守電に伝言を入れるのは気恥ずかしいが、ひとこと用件を入れてもらうと本当に助かる。返答するために作業ができる場合がある。事実ひとつの仕事の伝言のお陰で、後にその電話の作業を優先した。午後からの会議に出席する合間に、役場で書類をもらい、印鑑関係書類も手配した。恐らく翌日までには片付くだろう。後の電話のものは、再度用件を確認するのに10回(一件だけではなく、延べではあるけれど)は電話しなおし、なおかつ今月中には片付かない。効率が悪いのである。
 移動中はポップス界最大の大御所のCDを聞く。すごい人をすごいといってもあんまり意味がないが、改めてすごいなあと思う。ポップスというのは黒人文化なんだろうか。音を非常に大切に扱って、なお斬新な試みを随所にちりばめてある。楽しみながら戦っている。そして後の世界を切り開いていったのであろう。
 午後の会議は少し気が重かった。代理で説明するが、少しずるをして、言葉で概要を説明しようと力を入れたが、やっぱり見透かされている。部分審議をもらいたいと思っていたが、ここは断念するしかないだろう。撃沈したが、この代償は後の時間を考えると、意外と痛い傷口になる可能性がある。分かっているがどうにもならない。結局は積み重ねである。誰でもホームランは打てない。しかし、ホームランは日頃の素振りをやっているものから飛び出すものだ。粛々とやっていこう。
 ウチとは別の議案では、答弁は危なっかしいながらも承認が得られた。立場上推進している方なので胸をなでおろす心境だ。今やらないと意味のないことなので、比較的強引でも同意がえられる案件だと思う。同意がえられにくかったのは、別に問題があったからだ。単純に経験といってしまえばどうにもならないが、細部の詰めと認識の甘さなのである。キャラクターとしては存外認められているはずである。これも相手をどこまで慮っているのかというのが最大のポイントだろう。自分の都合より受ける側の都合を考えてというスタンスが結局は人を納得させるのである。これも午前中の事務局のごとき一種の自己中心が問題なのだと思う。しかし、安心は早い。これからの勝負が大切である。本番が、どうだ、というものに仕上がると、感動に変わるのだと思う。やっつけで終わって欲しくない。冷静にスパートをかけて欲しいと思っている。言葉は悪いが、ゴールをしてから見返してやればいいのである。
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不条理な合理性

2007-03-27 | 雑記

 少し前まで出張が多かったので、ろくに職場にいなかった。一日腰を落ち着けて事務所にいるのは久しぶりという感じである。そうして事務所にいると分かるのだが、来客が多くてろくに仕事ができない。電話もひっきりなしではないが、意外と多い。落ち着く環境じゃないなあ、と愚痴をもらすと、結局事務仕事は夜になってからするものだ、と事務長が言っていた。まあ、そうなのかもしれない。しかしそれってやっぱり効率が悪い気がする。何とかならないか。
 しかしながら僕だって仕事の用事でけっこう電話する方である。聞くところによると、僕の電話は長い。相当迷惑がられているに違いないと思う。用件は先に言う。しかしその後に別の話をしだす。そっちの方が盛り上がったりして長くなる。ときどき電話を切ってから改めて用件を思い出すことも多い。この日は電話ではなかったが、客人が帰ってから言うべき用事を思い出し、再度電話しなおして又会う日取りを決めた。
 僕なりに思うことは、少し話をしてみて、問題点を洗い出すことを考えている。僕としてもどうしたいとか、どうして欲しいとかの思惑が無い訳ではない。しかしながら、まず相手がどう考えているのかも押さえておきたいところである。その上で話をまとめた方が結局は早い場合が多い。こちらの用件でも、アドバイスをもらった方が精度が上がる場合もある。特に仕事の話というのは、お互いにその道の専門家でもある。こちらの主張だけを忠実に守るだけの人は、仕事が不完全な場合も多い。内容的に無理が生じるのではないだろうか。
役場の悪口ばかりで悪いが、行政にはこの態度が少ない気がする。お互いというより、自分の方の都合を優先しすぎる。結局こちらもおかしいと思うことをやらなければならない。おかしいがよろしく、などとなだめられたりする。それでいいのなら仕方がないけれど、フラストレーションはたまる一方である。
 しかしながら基本的にはせっかちである。早く済ませてしまいたい。そういう気持ちが強すぎると、あんがいトラブルが発生する。早い話が遅くなる。確実にやるという態度は、結局は仕事の早道であると最近やっと思うようになった。実行できているかはまだまだである。目標は地道に早くである。がんばろう。

 途中でショックな電話を受ける。杏月ちゃんのきょうだいが事故で死んだという。居なくなったと思ったら、道に倒れていたという。傷ひとつないのに動かないのだという。なんということだろう。車に跳ねられたのだろうか。丸っこい顔が頭に浮ぶが、なんとなく納得できない。ろくろくお悔やみもいうことができず電話を切ってしまった。
 杏月ちゃんもやんちゃ放題である。この間も走りだしてとまらなくなって土手を転がり落ちてしまった。ある意味では、この事故は杏月ちゃんだったのかもしれないのである。
 後に飼い主さんがお孫さんたちの身代わりにこの子は死んだのではないか、と言っていた。僕は普段そういう関連のないものは関連付ける習慣はないのだが、こういう場合にはそうなのかもしれないと思うことにした。不条理な悲しみには不条理な合理性でしか人間を納得させないのかもしれない。あの世だって信用していないが、冥福を祈りたいと思う。合掌。
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信用のなさ

2007-03-26 | 雑記

 朝食から子供行事のために弁当のおかず。おにぎりが美味しい。前日の目標体重クリアの気の緩みもあって、久しぶりに米粒を食べた気がする。唐揚も久しぶり。ハンバーグもこんなに旨いものだったのか。つまんだパセリさえ美味しい。今の時点では何も怖いものはない。今の時点ではという前提が気になるが…。
 暖かく気持ちのいい日である。上着を着る必要がない。一応長袖を着ていたが、いつの間にか袖を短く折っている。無意識に暖かさを調節している。それでも汗が噴出してくる感じ。前日の雨で湿気はあるが、ぜんぜん不快ではない。春の陽気のほうが勝っているという気がする。道行く車も楽しそうに見える。日曜なので車に乗っている人数も多いようだ。みんな行楽に出かけているのだろう。大きな口をあけて笑いながら運転している人が多い。日本は平和だなあと、しみじみ嬉しい。オートバイの人もスカーフはためかせ颯爽と走らせている。単コロころがしている人も多い。女の人も多い。みんな外に出たいという気持ちが、なにより春である。本当にいい季節なのである。

 家に戻ってなんとなくテレビをつけると地震情報である。震度からすると相当大きな地震のようだ。その後余震も続いている様子。被災されている人はずいぶん不安だろうと思う。実際に足元がぐらつくのだからたまらないだろう。メディアではひどいところを早く選択して流そうとするのでよく分からないが、そんなにひどくないところが重要な気もする。対策に追われる人に向かって邪魔にならないように報道して欲しい。緊急時になりふりかまわず動き回れることのほうが重要である。落ち着きは大切だが、(保身の)安全策から考えをめぐらすことは健全ではない。

 夕食は訳あって酒は少量(缶ビール500ミリに焼酎お湯わり2杯)しか飲んでなかったので直ぐに酔いが覚めていく。ちょうどやっていたテレビの音楽番組を見ていると、なんだか酒が欲しくなる。
 ジミヘンとカート・コバーン(コベイン)がかっこいい。結構見たことのある映像が多くて、本邦初だというやつもものすごく新鮮味があったわけではない。日本だといつも一番はホテル・カルフォルニアになってしまって(いい曲ではあるが)面白くない。懐メロの一番がいつも「青い山脈」であることと同じように、かえって違和感があるのである。まあ、ローリングストーン誌だって、かなり偏見的であるには違いない。どうしたって選択した人たちを選択した偏見が反映される。それならばいっそもっと驚くような選択をしてみたほうがよかったのではないか。そういうものかなという感想は持ったが、アメリカ人の感覚が僕ら日本のロック中年より保守的なのは如何なものなのだろう(それでいいんだけど)。トップいくらという企画はやはり上位になるにつれてつまらなくなっていく。例えば人々を不快にさせたこの一曲というのであれば、もっと面白くなるのではないか。
 終わってみて、他の番組を見る気にはなれない。ツェッペリンのDVDを久しぶりに引っ張り出してみているとさらに酒を飲みたくなる。仕方ないので本を読んでいると眠たくなってきた。雑誌に切り替えると読んだことのある記事である。興味のあるものは限られているらしい。眠たいときは体を動かすに限る。そういうわけで、本当に珍しく皿などを洗う。僕なりに丁寧に洗うが、どうせ後でつれあいが洗いなおすのであろうとは思う。僕の信用度とはその程度なのである。
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さすがの雨男

2007-03-25 | 雑記

 雨天である。基本的にこれは冬の雨ではない。湿気が立ち込める感じである。資料の紙の質感が柔らかく感じられる。
 会議の資料は整えてあるので、特に何かする必要は無いようだ。身の回りの片付けなどする。整理していると、捨てにくい資料のおおいこと。おそらくまた後で閲覧することなどほとんど無いとは思うが、まだちょっと捨てにくいというのが多いのである。また、アンケートの類も非常に多い。人にしてもらいたかったり、知りたい聞きたいということが山ほどあるのだろう。自分で勝手にやればいいのである。アンケートの方法もほとんどは我田引水である。
 午後は粛々と会議を進める。司会進行して開会の挨拶して議事も進める。補足説明もする。皆は僕の話ばかりを聞いているわけで辛抱強いものだと思う。
 「議題から離れるが…」という前置きがあると、I永さんが話し出す。この人の話芸は芸術的で、思わず周りの人が笑い出す。緊張した場を和まそうとして茶々を入れるわけである。しかしながら議事とは深く関係は無い。まじめなM永監事は僕に早く進めろと目で促す。この人は父の先輩である。怖いがI永さんの話が面白いので困るのである。
 しかしながらこのI永さんも、家ではほとんど声も立てないほど無口なのだという。人の輪を重要視してこのように話をされるのであろう。どんな人の輪に入っても、中心になって笑いの種を提供している人だが、それだけ気遣いの人だということなのであろう。
 無事に会議も終え、この機会に役員で次年度の懸念事項などざっくばらんに打ち合わせなどする。来週の僕は契約更新などの業務に追われる。押し迫ってやっと手をつけられるという状態になった。ルーティンだが、待っていた人も多いことだろう。申し訳なかった。
 夕方少し早めに失礼してK村君総決起大会の準備へ。独特の緊張感。マニフェストのときもこんな感じがしたものだ。期待と不安が錯綜した、ちょっと逃げ出したい感じの切なさが漂う。僕は正直に言って、そういう世界に入りたい心理は理解できない。しかし、それはそれで切実だという決意と選択の末なのである。そのことには素直な敬意を持っている。
 さて本番。動員については、はっきりいってお父さんの影ながらの力があったと思う。こういうところが若さの弱さだとはっきりした。はっきりしたのなら対応できる。弱いところは最小限補って、強いところを伸ばそう。仲間達と作っているちょっとした遊び心は強い。それをもう少し前面に出せないか。自分をプロデュースするならどう見てもらいたいか。それをダイレクトに伝達できるか。そういうことは鍵になりそうな気がする。
 懇親会では辛口の意見も出たが、いいにくいことが出ないほうが危機的である。そういう意味で、非常に健全な仲間である。大切にしよう。相互関係で、まあ、言うのもやめておこうという感覚が蔓延すると、その後にはたいてい大きな事故が起こると相場が決まっている。コミュニケーションは悪くない。それこそが最大の武器である。僕は戦いは下手だが、あんがい晴れ男である。当日は力加減でせめて曇らせてやろうではないか。
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外来語の疑問

2007-03-24 | ことば
 ウチにあるバケツにBucketと書いてある。ああ、バケツはバケットだったのかとはじめて気づいた。
 以前北朝鮮の友達から、外来語は共通のものが多いと教えてもらったことがある。コップなども通じるはずである。上とか下とかも(発音が)一緒だといっていた。まあ、それは話がそれるが…。
 外来語として、確かバケツも一緒じゃなかったかと記憶しているが、英語を読む癖のようなものが共通なのか、それともやはりどちらかの国の習慣が伝播したということなのではないかと思う。外来語はその国の独自の発音だと思っていたが、あんがい共通のものがあるのかもしれない。いや、やはり朝鮮語と日本語は親戚のようなものなのだろうか。
 外来語といえば、僕が最初に疑問に思ったのはアイロンだった。Ironなら鉄ではないか。ゴルフだって普通にアイアンといっているのに、どうしてアイロンになったのだろう。まあ、歴史が違うが…。確かに鉄の塊とも考えられなくは無いが、家にあるアイロンは熱くなる鉄の部分以外はプラスティック製で、子供心に疑問に感じたのであろう。
 ちなみに外国人がビニール製品(釣り糸など)をプラスティックと言っていたのにも驚いたが、これも脱線である。
 また、昔の人がどうしてtruckをトロッコといったものかも疑問に思った。トルックと読み間違える方が自然ではないか。ある年配の人にいわせると、トラックとトロッコは別物だといっていたが、勘違いだと思う。
 また、volleyballが何でバレーボールという発音で定着したのだろう。テニスやサッカーなどでは自然にボレーと使っているのに不自然ではないだろうか。「白鳥の湖」をボールを使って踊っているイメージが勝手にわいてしまう。バレー(普通はバレエと書くのだろう。ちなみにballetは仏語である)といったら「白鳥の湖」だと思ってしまうのは、なぜだか分からないが…。
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僕の忙しいの正体

2007-03-23 | 雑記

 忙しい時はかえって身の回りの整理をするのが有効だと何かの本に書いてあったので机の上の整理をしていると、書類の分類に悩んで時間を食う。これではいかんと思っていつも整理しなきゃと思っていた名刺の整理をしようとしたら、これも分類に時間を食う。これじゃいかんと思って積んである本を片付けようとしたら、面白そうな本が見つかる。拾い読みのつもりでついつい読んでしまって時間を食う。これはいかんと思って、買っておいた本棚自体を組み立てることにする。僕は工作が苦手なので説明書を読んでいるだけで時間を食う。これはいかんと思って、まず掃除をするべきではないかと思い立つ。机の回りのごみを片付けようとして掃除機をかけると、コードが机の脚に絡まって、上に載っていた湯のみ茶碗がこぼれてしまう。提出する予定の書面がビチョビチョである。雑巾を探すが見つからない。ティッシュでふくと紙の表面がこすれて薄くなってしまった。これはいかんと思って今週末の会議の資料作りにやっと手をつける。やりだして分かったことだが、これを先にやるべきなのであった。身の回りの整理をせよとは、たぶんそういう優先順位を整理せよということを読まなければならないと気づいた。つまり忙しいとは、そういうことも含んでしまうのであろう。反省。といいながらついブログを書いてしまう。仕事に戻ろう。
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春分の日

2007-03-22 | 時事
 春分の日なので、ということで墓参りに行く。そういう習慣があるのか…。いや、今までも行ってたんだろうか。まあ、時々は行ってるな。しかしながら、いつ行くものかはよく知らない。
 なんかの本で信心深いとは関係なく、仏壇をまいったり、行事の日に行事の物事をきちんとこなす家庭というところから、本当の金持ちが生まれるのだという話があった。まあ、金のためだとは言わないが、それだけちゃんとした人だから資産を積むこともできるということなのかもしれない。そうであるなら少なくとも子供のためだと思って墓参りに行くのである。僕自身は俗な人間ではあるが、死なない程度に金はあればよいと諦めているけれど、子供には持たせたほうがいいような気がするのは不思議である。
 さて、墓参りに行くとお近くのお墓に来ている人が僕の家族のことを知っているらしい。僕は残念ながらその人たちのことはまるで知らない。父も母も知っているようだし、きょうだいの名前も覚えているようだから、親しかった人なのだろうか。僕の弟のことも知っているようだ。僕だけすっ飛ばして交流のある人なのだろうか。お墓の名前をみて考えてみてもさっぱり思い出せない。しかしながら息子達を紹介し、親しげに挨拶を交わしてみると、なんとなく知っている人のように思えなくもない。お墓というところは意外な社交の場なのかもしれない。

 さて、休日は買物に行くのが楽しみだ。楽しみだが買物慣れしていないので何を買っていいのかよく分からない。つれあいが買物している間に散歩することにする。なんか欲しいものも思いつくかもしれない。
 道なりに歩いているとクラクションが鳴る。おお、Kいっちゃん。いつもと車が違うね。また鳴る。あれはウチに出入りしている業者さんだっけ。またまた鳴る。これは誰だかわからんな。俺に向かって鳴らしているわけではなかったのだろうか。そうしていると電話が鳴る。TA君である。何で歩いているの、ということで、すれ違ったらしい。この時間帯は皆さん忙しく移動しているらしいね。散歩しているのは僕ぐらいのものか…。
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血行が悪い

2007-03-21 | 雑記

 また朝から会議。一本二本三本と順にこなす。発言はしない。休憩時間に事務局に質問する。こういう態度が一番良くないな。しかし、時間がもったいないので仕方が無いのだ。時と場所をわきまえているので、違うところでは違う態度である。
 約束の期限が近づいているので極力食わない。目標達成できなかったら三万円の罰金である。自分に厳しいのかセコイのかよく分からんが、とにかく真剣である。弁当が出たが約半分残す。残せて嬉しい。そして少し散歩。
 日差しは力強いが、風は冷たい。時折突風にあおられる。ふらふらして危なっかしい。
 こういう日でも短いスカートをはいている女の人は多い。根性があるなあと思う。男はそういう根性はない気がする。しかしながら、そう簡単にスカートがめくれるわけではない。これは生地に根性があるということか。歩き方にコツがあるのだろうか。気になると本格的にスケベ心が膨らんでくるので、意識的に遮断する。よそ見をしないと決めて歩く。いつもスケベでいたいわけではない。男という生物はそれなりに大変なのである。

 会議の間にセミナーを受講する。出席者を増やすためにこういう取り組みをしているのである。そうでもしければ会議に出ない。総会の出席者を確保できない。それって根本的に考え方が違うような気もする。今の社会は大人がだらしない。若い人は頑張っているのに、年配の人が駄目なのである。早く隠居するなり、考えるべきときを逃している。自分の進退について真剣に決断できていない。確かに難しいことなのかもしれないが、組織が活性化しない最大の原因は循環の悪さである。血行が悪くなるとあちこち痛む。終いには動けなくなるのではないだろうか。
 しかしながらセミナー自体は大変に有意義で面白かった。マニュアルを無視する不良がいざとなると会社を救うものだという。あえて経営者は不良になれなければならない。まあ、不良というものはそういうものではないのだろうが、平時と危機的状況で活きてくる人間は違うのであろう。結局は偏った人材が会社を危機的にしていくのではないだろうか。もちろん絶対的な答えなど無い。バランス感覚を大切にしたいものだ。
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足を洗いたい

2007-03-20 | 雑記
 今の時期は少し忙しさが異常である。いろんな人が尋ねてくるし、片付けなければなら無いことも物理的に処理不能だ。継続してやっているということで中途半端に進めるしかない。しかし、この中途半端も時には必要である。とにかく手をつけるということが大切で、手をつけてみて初めてどのくらいの仕事量なのか俯瞰することもできるわけだ。いくつかのことは三月中に処理できないことが判明。ではまた四月に、という挨拶を交わす。お互い切り替えが大切である。
 完璧主義は仕事の障害である。そういう人は、邪魔なだけでなく、多くの場合実際に仕事ができない。自分に要求するのはいくらか理解できるが、人に要求するのは迷惑だ。もちろん一方的にこちらに落ち度があるなら対応するべきではあろう。しかしこちらが納得できなかったり、いっそのことお断りしているのにもかかわらず要求をやめない人がいる。共感する能力がないのか、ずうずうしいのか、またはその両方か。この振り回しが無ければ随分時間が取れるのに残念である。できるだけ距離を置いて進めるか、そういう人方面の仕事は足を洗ったほうがいいのかもしれない。

 卒業式には参列できなかったが、午後からの謝恩会(というのだっけ)には出席。
 わが長男は半そでに着替えて参加する。卒業式は暑くて具合が悪かったようだ。つれあいはカイロをつけて参加していたというのに、個人差というのは隔たりが大きすぎる。
 立食パーティであったが、子供にはなじみの無いスタイルではなかったかと思う。地べたに座る子がたくさんいた。もちろん映像などを見るときに後ろを配慮するという態度の人もいたようだ。人数が多いのだから仕方が無いが、こういうスタイルを覚える時期はいつごろなのだろうと考えていた。まあ、慣れるより無いのだろうが…。
 こういう場で何を考えていたかと自分を振り返りもする。しかし、まったく記憶が無い。なんとなく不安だったんじゃないかという気がしないではない。卒業を寂しいと思っていたのだろうか。しかしながら、僕らはシラケ世代である。斜に構えていたに違いない。そういう意味では最近の子供は素直であるように思われる。いい子がたくさんいる。もちろんそういうことには不満は無い。誰が悪かろうが興味は無い。
 ある先生が中学校は小学校より50倍ぐらい楽しいところだから心配ないと話していた。僕にもそのような楽観的な見方がある。子供達の未来は僕らのものよりどんどん良くなっているのではないか。実際には中学校は何にも面白いところではなかったけれど、子供達には良いところになっているのじゃないかと思う。坊主頭じゃなくなったようだし、ヤンキーも少なくなった。期待は裏切られるためにある。胸を膨らますが良いだろう。

 夜にはお通夜に参列。残された若い二人の息子さんが参列者に頭を下げている。悲痛な感情がこみ上げてきてつらかった。人にはいろんな一生があっていいのだが、死ははかなさを感じさせる。歌が下手な人だった。それでも必ず一曲歌ってくれるのだった。合掌。
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たっぷり寝る

2007-03-19 | 雑記
 活き活きで外海町まで行ってきた。教会群の視察である。
 僕の母方の家系は熱心なカトリック信者なので、母の妹であるシスター(僕の叔母さんということになる)を迎えに行った時にこのあたりはまわった記憶がある。記憶はあったのだが改めてきてみると、やはりなんとなく印象が違った。以前と比べるといろいろと整備されているようで見学しやすくなっている。迫害の歴史を思うと信者でなくとも胸を締め付けられるような気分になる。人間の信仰というのはいったい何なのだろう。
 遠藤周作博物館も少しだけ覗く。名作「沈黙」にちなんで作られたもののようだ。クリスチャンが沈黙という作品を書くことは、本当に勇気がいることではなかったかと思う。
 K又君やT永会長はデジタル一眼レフで写真を撮りまくっている。なんだか羨ましいなあ。僕には珍しく物欲がふつふつと湧いてくるのであった。

 実は風邪をこじらせたらしい。鼻水がひどくてくしゃみが出る。段々具合が悪くなっていって見学するのがつらくなってきた。
 戻って家の日向でぐずぐずしていた。ちっとも具合はよくならなくて、なんだかやばいなあという気分になった。
 夕食を済ませて、なんと8時すぎには寝てしまった。途中目覚めもしたが10時間ぐらいは寝ていたのではないか。目覚めるとなんとなく復活した。やはり寝るのが一番なんだなと思う。なにより頭がすっきりしている。すばらしい。
 忙しい時は寝るに限るといわれる。たぶんこういう意味なんだろうと思う。忙しいので片づけが早くなる。たっぷり寝たお陰であろう。
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少し疲れているのだろう(愚痴編)

2007-03-18 | 雑記

 今週は会議とか研修とかが続いた。来週も同じようにつづく。
これは明らかな病理だと思うが、中には仕方の無いことも無いわけではない。そういうことで、なかなか改善も難しい。わずらわしいことには手をつけないほうがいい場合もある。悲しいが僕にはどうにもならない問題なのである。もっとわずらわしい立場になると改善が可能になるのだが、そういうものを買って出るほどお人よしではないし、僕の求められる立場ではない。仕事というのは人の必要であって自分のしたいことではない。そういうわけで、こういう状態が年度末なのである。
 名刺には書かないが肩書きだけが多すぎる。担ぐには重たくなってきた。少なくともかなりわずらわしい。少しばかり抵抗するとしたら、役割はちゃんと果たさないことである。時々は小さなミスをする。大きなミスだと誰かに迷惑をかけかねない。自分の評価だけ下がるように、小さいミスを犯すことである。もちろんこれは勇気のいる行為である。誰だって悪く思われたくは無いものだ。しかしながらあんまり意味があるとは思えないことをしなくてはならないのだから仕方が無いのである。どうせやるならしっかりやったほうが結果的にはいいことが無いわけではない。しかし、そう思ってやりすぎると、意味の無いことは簡単に膨張してしまう。かえって人に迷惑を掛けかねない。それに正直に言うと、たいした能力は無いので大成功というのはそれなりに難しい。だからといってそこそこ頑張ると、評価は積み重なってしまう。だから狙いどころは考えなければならないのである。誰がやっても同じだが、少しばかりまどろっこしいぐらいのミスを積み重ねることである。まあ、そのためにはそれなりの経験も必要で、意外と難しい技術もいるのであるが、そういう馬鹿なことをしなければ、誰も分かってくれないのである。
 そうは言っても役割はそつなくこなしてしまった。いや、結果的にうまくいってしまった。世の中は皮肉なものだとつくづく思う。また五月ごろになったら、こういう会議が重なりだす。その前には今年ならではの行事もあるようだし、結局気合の入れなおしだな。
 つい愚痴を書いてしまってごめんなさい。できるだけ明るい話にしようと思うのだが、吐き出すものを吐き出しておくのである。

 帰りの車の中で日本人論になる。いろいろ話をしていたが、ことごとく意見が食い違うようだ。つまるところ僕の見方というのはかなり独自であるという。しかし、外れているというわけではないらしい。僕の説明を聞くたびに、驚かれながらも「ああ、そうか」と納得はしてもらえるようだ。
 結局中国に行ったことが良かったのではないかといわれる。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。日本人には日本のことがよく分からない。たぶん、そういうことではないだろうか。
 僕は生粋の日本人だけれど、そういうものを抱えて生きていくより無いと思っているし、それでいいとは思う。しかし多くの日本の人はそう思っていないように僕には見える。世界の中の日本の立場を、まどろっこしいものと捉えているように思える。それはそうだが、だからといってそれは本当に問題なのだろうか。ほとんどは勝手に勘違いして心配しているだけではないのか。
 そういえば、日本の文化を広く世界に理解してもらおうという運動があるという報道を聞くことがある。ばかげたことだと思う。日本の文化というのは狭いから独自でいられるのである。広げて理解できるほど薄めて意義があるものか。
 日本のアニメや漫画は、憧れられるほど自然に広がるのである。そうして日本語も熱心に勉強されるようになっているのだ。世界の流れはグローバル・スタンダート化などしていない。勘違いしているのは日本の一部の人たちだけであろう。
 世界に目を向けるほどそういうことは自然と目に入るようになる。結局真剣に世の中を見ていないから見えないだけである。別に外の視点から日本を眺めているだけではない。自分の都合で情報を選んでいるから、都合の悪いところはよく見えなくなっているのだろうと思う。それは何も日本人だけの特徴なのではないが、選択した情報だけで判断するのは危険である。日本の報道は確かにひどいけれど、普通に見ていると嘘も分かるようになる(時々ちゃんと騙されるけどね)。おかしなことはおかしく報道している。結局大切なことは、自分の考えであると思う。
 そもそも日本人論なんていうことに自分を当てはめることなど無いと思う。昔から日本人は多様であったし、これからもそれは変わりなかろう。唯一確かにはっきりいえるのは、勤勉なのは大きな武器である。既に有利な立場なのだから、さらに勤勉であることがこれからの立場を担保する道であろう。世の中は想像以上に常識的である。時々奇跡は起こるにしても、それは自分がおこしていることではあるまい。だとしたら自分は何をするか。答えはそこにしかないのだと残念ながら思うだけである。
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斜面の家

2007-03-17 | 散歩
 会議と会議の間に時間ができる。嬉々として散歩に出かける。浦上駅から県庁周辺までをぐるぐる回る。おじさんが入院していた病院を発見したり(そういえば、ということで急に思い出した。今は亡くなっている。合掌)斜面に並んだ住宅などを眺めながら歩く。
 長崎というところは、よくもまあ、というところに建物が建っている。人間の根性のようなものが感じられて感慨深い。無くなったおじさんの家も、信じられないぐらいの斜面にへばりついたような感じであった。建材は馬で運んだといっていた。
年取ったら不便だけど、当時は自分の家が持てるという喜びのほうが大きかったと言っていた。

 適当に歩いていたらK村君などが話していた噂のうどん屋「とも也」を発見。昼食は済ませていたので店構えだけ眺める。またふらりと歩いて鯖寿司を食べに行きたいものである。
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気持ちよいわけのわからなさ

2007-03-15 | 雑記
 尊敬するフジモトマサルさんのHPを見ているとこういうフラッシュを紹介されていた。
 僕は素直に感動しましたよ。いつまでも見続けていたいけど、そうもいかない。
旬のイラストレーター五月女ケイ子の世界に、実際の動きが生じたような感じだろうか。こういうわけの分からないストーリーに人間の本質が隠されているような気がするけれど、まあ、勘違いでしょうね。
 そういえば藤子不二男(特に安孫子みたいだが)もマグリットが好きだったようだし、絵描きにはこういう狂気のようなものを視覚化したいという欲求があるんじゃなかろうか。言葉で説明すると面白くないけれど、視覚から感情に訴える力を示したいということもいえるのかもしれない。他人の頭の中は見ることができないけれど、絵というのは直接その世界を現しているとも考えられる。絵にすると現実になるというところがなによりインパクトが強い。
 僕はせっかちなので絵を描くという時間がもったいないと思って断念したのだけれど、実は「急がば回れ」を知らなかっただけなのかもしれない。デビット・リンチはたぶん映画でもそういうことに挑戦しているのだろう。また、音楽だって、そういうことはいえるのかもしれない。こういうことが分からなくなっていくのは、言葉という性質を信用しすぎているとも考えられないか。まだ、整理できていないけれど、こういう世界を楽しむことも忘れないでおきたいものだと思う。
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