カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

近寄らない方が身のためだゾ

2007-05-31 | 雑記

 午前中歯の歯石取り。出血多量。あちこちしみてつらい。
 僕の奥歯にある親知らずは、近年暴れに暴れて他の何本かの歯を犠牲にした。特に下の奥歯の両側二本はこやつらの所為で抜かれて無い。奥歯でモノも噛めないので非常に不便なのだけれど、ブリッジをかけたりしてもモノが詰まりやすい構造になってしまってよくないという歯医者の診断で放置されている。ところが今回この両側の親知らずが虫歯になっているという。機能していないしこの際に抜いた方がいい、という話を聞いているだけでクラクラとめまいがしてくる。そういう表情を察してか、次回(三ヵ月後)まで様子を見て決めましょう、と言ってもらえて、一気に生命を取り戻した。これを機会に今後は歯磨きもがんばろう、と思うだけは思った。だが、たぶん実行はむつかしいだろう。僕に習慣というような行動は似合わない。いや、似合わないという問題ではないけれど、毎日決まって何かをするなんて考えただけでも嫌気がする。そのくせ毎日酒は飲んでいるのだから自分でもそういう矛盾が謎である。

暑くて散歩は断念。読みさしの本を飛ばし読み。薄い本を一冊と読みかけだったけど見切って読了するもの二冊。
 いったんは感心しながら読んだ記憶があるのに、今は色あせた話題もある。ひとつは経済的なことも書いてある本で、やっぱり少し信用できないことが分かった。データのミスを発見したためである。ひとつこういうことがあると、内容すべて駄目な感じがする。この著者の本もいくつか読んだ記憶があるが、なんとなく残念だ。
 一方で、少し右よりかなと思って敬遠していた渡部昇一の本(「中国を永久に黙らせる100問100答」/WAC)はそれなりに面白かった。僕は南京の虐殺資料館(というのかな)にも行ったことがあるが、その施設で見た当時の毎日新聞の「百人斬り」の記事には本当に怒りを通り越してあきれ果てて悲しかったものである。しかしあれはヤラセだったといわれており、改めてその頃の自分はなんだったのかという気分だ。歴史の修正主義には困ったものだ。踊らされる個人の僕が可哀相である。しかしながら中国という国は、何万人という人が死んだか死ななかったかということさえ分からない変な国である。天安門事件ですら実際にあのように有ったのか無かったのかわらないという話も聞く。僕はその所為で途中で帰らされたり、ものすごく不安にさせられたりしたのだから、いまさら何なんだという怒りも強い。
 子供の頃に流行った森村誠一の「悪魔の飽食」の七三一部隊の話もウソらしい。一方でいや本当だ、という声もあるのだろうけれど、近代史というのは本当に厄介である。僕は違うところで生きていきたいものだと思う。20分ぐらいで読める軽い本なので、日頃報道に頭にきている人にはいい本だろうと思う。少なくとも僕の精神衛生上はよかった。そういう意味では右翼は気分がいいのだろう、というのもよく分かった。だからといって派手に暴れるのは止して欲しいが…。

 夜は夏越の部会。先輩にとっての夏越という視点は、ノスタルジーだけじゃなく実働として活かせるという意見は、ちょっとだけ心動かされそうになったが、本当に言うことを聞いて役割を任せると、結局「だから現役よがんばれ」という話に戻ることは必至であろう。ここは聞き流すより仕方がない。
 しかし、お守り籤の話はいい感じだと思う。ものすごく反対する分からず屋は必ずいることと思う(例えば、やっぱりTシャツがいいとか言い出すんだよね、必ず)が、やる価値はある。つかまらないように神に祈ろう。
 流れて最初にスナック。そして二次会は焼き肉。キムチは旨かったのだが、朝からつれあいには嫌われて困った。近づかれては困るときにまた食いに行こう。
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セセリが煩わしい

2007-05-30 | 雑記
 暑いんだけど昼ごろ少し曇っている感じがしたので外に出る。コースを短くして歩く。虫が多くていろんな虫が僕の体にぶつかってくる。あごが痒いのでなんだろうと思ったら青くてきれいな模様のカミキリムシだった。子供の頃にはよくひっくり返していじめて遊んだものである。その頃の僕になりかわってお詫びします。ごめんなさい。
 カミキリムシならいいんだけれど日陰を通るとセセリが飛んでくるので困る。朝とか夕方とかも多くなった。せっかく過ごしやすい時間なのにブンブンうるさいやつである。さらにかまれると痒くてかなわない。今の時期に刺されるとまだ慣れていないのでひどく腫れる。慣れるためには少しぐらいはかまれてやらないといけないわけだが、そういう配分どおりにやられないのでさらに困惑させられる。それでも以前に比べると腫れなくなっている。インフルエンザではないが、免疫ができているのであろう。人間の体は勝手に面白いことをやっているのであろう。

 まだまだ本は届いてくる。段々かさばってきて大変に気分がいい。置き場所は困るけれど、増えることは苦痛ではない。時々並べ替えたりして隠れていた本を発見したりするのも楽しい。何で読んでなかったのだろうと思う本や、何で読んでしまったのだと後悔する本など並べ替えて整理する。いらないものは箱に詰めて封印する。どうしてもくだらないものは雑誌などと共にひもにくくって捨てる。本というのは捨てにくいものだけれど、捨てていい本というものがあるのは逆に助かる気もする。そこまで僕に嫌われるぐらいだから、嫌な奴だが天晴れであるのかもしれない。
 本は届くが一月半も前に注文して支払いは済ませているCDはまだ来ない。取り扱っている媒体は同じなのだけれど、業界によってはこのような対応になる。もちろんこれは海外の商品を扱っている所為なのだろうけれど、通知の方ものんびりしていて、本当はいつ来るものなのか分かりづらい。あきらめて忘れた頃にひょっこりものが届いて、俺ってこんなものに興味があったのかと驚いたりしてしまう。

 夜は野球の練習。夏越の季節なので今後は参加しにくくなっている。せめて限られた時間を楽しもう。野球の練習は正直言って好きではないが、草野球をやるという雰囲気は好きである。いい大人がちっこいボールを取ったの取らなかったのというどうでもよさが面白い。さらにボールが遠くに飛ぶと気分がいい。
 T坊の外角ストレートに空振り三振してしまい、悔しい気分になる自分になんだか驚いた。今度は打ち返してやるからな、という闘志がわくのがこころよいのである。
 守備の方は、まったく自信がない。グラブが硬くなっている所為でとりにくいのだろうと思う。そういうわけで相変わらずボールはグラブにうまくはいってくれないが、さらに照明がまぶしい所為だと僕自身は思っているようである。
 お隣のグラウンドではサッカーの練習をしていて、外野で守っている僕の周りに人がダーッと押し寄せてくる。もちろんボールを追っかけてこちらに来るわけだけれど、魚の大群がいろんな模様を見せるように、人の流れもいろんな形になるんだなあ、と思った。
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自殺は殺人である

2007-05-29 | 時事
 日差しが強くて本当に暑い。風もあんまり吹かない。気化熱が奪われないので、暑さが滞る感じだ。気温も25度以上はあるのであろう。湿気もあってちょっと動けば汗が出るので不快である。散歩もできないので休憩時間は読書に切り替えて、夕方から少し歩くことにする。しかし陽が傾いてからも暑かった。目標時間やコースなども検討しなおす必要がありそうである。

 注文していた本が続々と届く。本の梱包は厳重なものが多く、包みを開ける作業が煩わしい。ひどく折れ曲がったりしているのは確かに不愉快だけれど、もう少し適当でもいい感じはする。新品の破れなどは以前なら気になっていたかもしれないが、今となっては個人的にどうでもいい。新品であるとか中古であるとかが関係ないのが本である。どうせ書き込んだり折り目をつけたりするわけで、少し古い方が使いやすかったりする。CDなんかもそうで、ビニールがべたべたついているものより中古品のほうが扱いやすい。開けてしまわないと使えないものなので、パッケージが美しい必要などまったくない。
 
 農相の自殺のニュースがあって、なんでだろう、と思う。いろいろ騒ぎがあったらしいが、そうだったのかといまさらながらに思ったりする。そういえば、この人が高熱水費の人だったのか。一時期新聞の川柳欄で何とか還元水の話題が多かったので不思議に思っていたので、やっと謎が解けた。というか、最近はまじめに新聞を読んでいなかった。僕は新聞マニアの時期があって、必ず朝から最低4紙に目を通さなければ気がすまなかったのだけれど、今はいつの間にか興味を失っていた。あんがい新聞は必要無いものだけれど、面白いことには違いがない。また新聞を読むのも楽しいかもしれない、などと思う。
 自殺自体は大変に痛ましいことであるし、まわりもそこまで追い詰めてしまったということに対して嫌な感じもする。悪さをする人を一方的に糾弾する姿勢は幼稚である。まあ、凶悪犯罪にはもっとやって欲しい気もするが、政治的なものは、どうも気分が悪い。
 さて自殺に関していうと、そのように個人を追い詰めてしまった状況も確かに構造的な問題はあるにせよ、一種のテロであるし、殺人だと思う。人には死ぬ自由があるという考え方も状況によっては考える余地があるのかもしれないが、少なくとも政治的状況で自殺をするのは、行為としてはテロであろう。人が死ぬことは、他にも影響がある。自分の命であるから自分のものだという考えは幼稚な人のものであろう。人は関係性の中で生きている社会的な動物なのであるから、自ら命を絶つという行為は自分を殺すということであって、殺人行為と同意なのである。他者がいないので法的に罰することができないだけのことであろう。
 何も死ぬほど深刻なことなどは何もない。深刻にしている社会状況のほうがどうかしている。さっさとやめてしまえたらよかったのに、それすらできないという考えに閉じこもってしまった不幸が、自分を殺すという殺人行為まで犯させてしまったのであろう。償いもできないので非常に性質の悪い殺人である。
 なにより家族が可哀相である。この人を愛している人だっていただろうに、と思うと、やりきれなくなる。
 じゃあ犯した罪はどうなるんだ、という声も聞こえそうだが、だから本当は個人の問題じゃなくて、組織の問題なんじゃなかったのかと僕は疑っているのである。本当は個人として認めたい自分がいたのだろうけれど、それが許されない組織の問題があったのだろう。
 子供にごめんなさいといわせるのが、むつかしい世の中になったと思うのである。謝ったって何にもならない。本当に困っていた人が怒るのは無理ないが、怒っていた人たちのどれくらいの人が本当に困っていたのかなあ、などと考えてしまった。
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おお、これはヒット

2007-05-28 | 雑記
 いい天気。少し黄砂が舞っている感じもするが、まずまず気持ちがいい。気温もぐんぐん上がる。これでは散歩は難しい。

 借りていたけど少しだけ観ていた「ブラック・ダリア」の続きを観る。筋を追うのに大変な映画。体調がいい時に観る必要がありそうだ。デ・パルマ映画としては平凡な気もしたけれど、つまらないわけではない。相変わらず気持ちの悪い表現が上手いものである。観ていて身もだえしてしまって困る。
 僕としては長年思い続けてきた女のもとを簡単に離れられない気がしたところだけ矛盾を感じた。外国人(例えば米国人)にはスワンクは魅力的な女性なのかもしれないけれど、アジア人の僕にはよくそこのところが飲み込めないのかもしれないと思った。しかし、綺麗だからといってふらふら性関係を結ぶという感覚はやはりよく分からない。村上春樹の小説なども簡単に男女が性的関係を結ぶが、こういうハリウッド映画の影響があるのではないか。映画的文法としてはアリかもしれないけれど、僕にはどうしてもリアルな感じがしない。少しだけでも恋焦がれた時間の描写がなければ、戻るという必然に至らないのではないか。筋の問題でそこのあたりは端折ったのだろうか。

 長男の卓球の試合を見にシーハットへゆく。本人は試合に出るわけではないが、どういう雰囲気なのか見てみたかった。ちょうど知り合いの子供が試合に負けていた。ちょっとだけ残念というか、あっさりとした悔しさが見て取れて気の毒だった。
 それにしても会場はムワーっとする蒸し暑さと、なにやら異様な臭いに包まれていて気分が悪かった。あんまり長居したくない空間である。手前の台は試合すら見ることができない角度で、配慮が足りないと思う。応援することができない設定とは考慮が必要ではないか。試合そのものに関係がないと考えているのであれば、それは認識不足である。環境は試合の展開に大いに関連がある。
 卓球の玉は風の影響があるということで会場には冷房がつけられないということであった。これも認識不足だと思う。直接風を送らない方法はいくらでもあるだろう。こういう不都合を放置したまま伝統的に続けられているという現状がスポーツ業界の病理であろう。もともと冷房設備のない会場であればそれはそれでいいのである。あるのに使えない使わせないという認識が病気だと思うだけである。
 Nぼっちゃんも娘さんのバレーの応援に来ていた。娘さんの学校は見事優勝したとのこと。帰りがけに千羽鶴を抱えている姿を拝見。お父さんによく似ているのに可愛らしくて不思議だった(失礼)。ともあれ、おめでとうございました。

 アンチョビーを探し求めてジャスコのスーパーをうろうろするが見つけられない。結局近くのマルキョウにすんなりあった。探している時間がものすごく楽しかった。もっとなんか見つからないものを探したいものである。
 この見つけたアンチョビーを使ってバーニャカウダが作られた。で、さっそく出来上がったソースで野菜のスティックを食べた。こりゃうまい。食べ終わっても気になってしまう後引き感が体を支配する。野菜に限らずいろんなものに合いそうである。唐揚とかトンカツなんかでも大丈夫なんではないだろうか。そういうものはしばらく食べられそうにないけれど、そう思うぐらいはいいだろう。そういうわけで我が家のブームになりそうな予感がするのであった。

 寝る前に岸田秀の講演をDVDで見ていると、ふたりともいつの間にか爆睡していた。話が面白くないわけではないが、聞きにくい話し方だと思った。まあ、眠たくもあったわけで、非難しているわけではない。眠れない夜の睡眠導入にいいと思った。
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6と8の違い

2007-05-27 | 雑記
 忙しい五月のひとつの区切りとなる法人の理事会の開催。手帳を見るとまだまだ会議は続くようだけれど、個人的には最重要な山場といえるものだ。準備のほうはかなりスタッフのほうが慣れてきた関係もあってだいぶ楽にはなった。先に監査を受ける前に読み合わせなどは済ませてあったけれど、自主的に再再度とチェックをかけている。十年ほど前はこの日を迎える前は寝つきが悪かったものだけれど、今はそういうこともないようだ。あるスタッフが、「これで大丈夫だと思うのが駄目だ」とハッパをかけている。そういうことでもう一度見直しである。なんとなくそういう気分になるのだろう。確かに慣れというものが恐ろしい場合もある。程よい緊張ということが大切なのかもしれない。
 読みあわせではうまくいったのだけれど、本番ではやはり決算の読み上げがぎこちなかった。出納係のスタッフが老眼になった所為である。今まで100円の眼鏡だったのを1000円のものに買い替えたそうだ。心がけはよかったかもしれないが、いい加減眼科に行くべきであろう。もしくは普通の眼鏡屋でもいいのではないか。特に6と8との区別が難しいらしく、間違うたびに聞いている理事から訂正の声が上がって面白かった。
 今回は役員が少し入れ替わって新しい人が4人ほど加わったので懇親の場も設けた。特にアルコールを飲む人は少ないのだけれど、僕は少しだけビールをいただく。冷たくてついぐいぐい飲んでしまう。いまさらながらにビールは泡がうまいなあ、と思った。
 新しく入れ替わった人の中には生前の父と折り合いが悪かった人も居る。なんとなく僕も承知はしているのだけれど、基本的にはそういうことは関係ないと思う。いやむしろそういうことが有ったらしいということが、その人にとっても特別の感慨があるらしくて、いつもより饒舌になっているようだった。歴史を越えた和解のようなものだろうか。僕としてはそういう思いも含めて大切にしなくてはならないのであろう。
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地元に緊張が走っている

2007-05-26 | 雑記
 そういえば最近ジーパンが穿けるようになっているようだ。僕は自分の着る服は自分で選ばないので、普段何を着ているかというのはあんまり意識にない。つれあいが判断しているということであるから、彼女の見方でそろそろ前のジーパンが穿けるようになったのだと考えてくれたものだろう。じわりと嬉しいものである。

 朝からものすごい雨。雨音で人の話が聞き取りにくい。ときおり嵐のような風も吹き荒れている。午後からイベントの設営があるらしい。連絡があって、予定通りだそうだ。「大丈夫、午後は晴れます」といわれた、と担当が嘆いていた。しかし、この予言は当たって、午後は見事に雨が上がった。偉いのは天気予報だろうか。

 自宅の近所でも猪が目撃されたらしい。そういえばパトカーが巡回していた。平穏な住宅地のささやかな緊張という感じだろうか。
 僕自身も今年はたくさんの猪を目撃した。今までにもいろんなところをほっつき歩いてきたけれど、野生の猪を目撃したのは初めてのことだった。それもこんなに目にするなんてよっぽど数が増えている証拠であろう。ゴキブリ一匹目撃すると100匹は家の中に潜んでいるのだという話もあるが、猪一匹だとご近所にどれぐらいの猪が潜んでいるのだろうか。怖いというより、なんとなくユーモラスだ。目撃した警官がどんなリアクションを取るのかというのも興味のあるところだが、ついてまわるわけにはいかない。残念である。

 夜は市のPTA総会。僕は懇親会より参加。けっこう盛り上がっていてびっくりした。いろいろな懐かしいお顔とも再開できた。お元気ですか。
 こういう広い連携というか連帯感というのは、一部の人が寄り集まってきていると思っていた僕にとっては不思議な感覚のするものである。あくまで想像なんだけれど、その地域というか学校で選ばれてしまってなんだかなあと思っていたけど、そういう連中が一箇所に集まるとそれなりの数になって安心するというか。まあ、そんな感じである。地元では盛り上がってないけど、よそに行くと張り切るというか、過剰なPRなんかしてしまったりしてはじけてしまう。もちろんあくまで僕の想像である。ごめんなさい。盛り上がることはそんなに悪くないし、シラケの好きな僕が特殊なのは分かっている。二次会、三次会と段々静かになって、やっと落ち着いたのだった。
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体重計が心の支え

2007-05-25 | 雑記
 対馬に転勤になったという人から大量に魚が届いた。鯵とかアマダイとかその外よく分からん魚もある。なぜだかウニの瓶詰めもたくさんある。これは買ったものだろうな。直接僕にいただいたものではないが、おすそ分けいただく。お礼の電話をして、冗談で「本当は買ったんじゃないですか」というと、電話の向こうで少しムッとする空気があった。基本的にまじめな人であった。すいませんでした。しかしながら釣りに行くと釣れすぎて忙しいのだという。楽しそうでなによりである。息子を連れて行ければ喜ぶだろうと思った。

 昼に散歩するけれど暑くてかなわない。これからは早起きして散歩するよりないのかもしれない。
 急な坂道で大きなトラックが僕をゆっくり追い越していった。黒煙があたりにいっぱいになって逃げようがなかった。
 昼にはそういうわけで早めに散歩を切り上げたので、夕方再度少し歩く。前の方にかなりよぼよぼした爺さんが歩いていて、なんとなく心配になるがちっとも追いつけない。人は見かけによらないものなのである。実は僕より体力があったりするのかもしれないと思った。

 今週の会議が終わると少しホッとするかな、と思っていたが、手帳を見ると来週もだいたい埋まってしまった。6月は出張も多いし、7月は予定どころではないだろう。少し時間ができるのは盆過ぎになってしまうのかもしれない。そう思うと悲しいが、そう思わないでも悲しい。
 体重は順調に減って、今月は目標を100グラムクリアできた。今後は少し視点を長期化させて、盆過ぎまでに目標値を設定することにする。最終的には10月ぐらいまでがんばろうかな、とも思っている。今は減っているので大変に楽しい。体重計が心の平安を支えているのかもしれない。
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すぐに分かる方が問題だ

2007-05-24 | 雑記

 ミーティングを終えてすぐに移動。早めに到着。水辺の森公園付近の散歩。十分前には全員集合で早めに会議を開始。年配者が多くてすばらしいと思うのはこういうときだ。議題も滞りなく終了。引き続きの会はパスさせてもらう。連絡事項や報告の類はもう一人の役員さんにお願いする。こちらに残っても長い一日には変わりないが、厳しいほうの選択をするよりないのである。
 また移動して諫早へ。昼食はコンビニでおにぎり一個。本当はお金を下ろそうと思っていたのだけれど、ATMがなくて買ってしまった。まあ、これぐらいを食うほうがかえっていいのかもしれない。予定では時間的に厳しいと思っていたので遅刻の連絡をしていたけれど、ちゃんと間に合う。まあ、良かった。
 ブロックの会員会議所会議と同時進行で行われるブロック連絡会議のために、既に早めにMもっちにM浦君にK井君が先に来ていた。肝心の委員長が来られないということなのではあるけれど、どの道進行には関われない。そういう条件なのでかえっていいのかもしれない、と少し思っていたが、これが後にとんでもなかった。
 会員会議所終了後にいろいろ話を聞いて、呆れるやら悲しくなるやら腹が立つやら。しかしせっかく来てくれた委員会メンバーには、本当に申し訳ない思いである。僕は既にあきらめのつく年齢になったけれど、将来のある人には本当に申し訳ない。これで何かを失ったという喪失感で寂しい思いである。
 僕が会議を本当に信用していないのはこういうことが起こる所為かもしれない。ほとんどは連絡の行き違いかもしれないけれど、実行しているのは現実なのである。作為はあったけれど既にそこでの議論にならざるを得ない。それが詰まるところのスジであろう。まあ、いいたいことは既に言ったのであろうから、当事者に理解してもらうよりあるまい。もともとは彼らのためにあるものだ。ひいては会のために活かせなくてどうするつもりだろう。意味がなければやめればいい。使えない道具は持ち腐れである。

 さて、夜にもセミナー。仮入会さんのためのセミナーだけれど、ほとんど委員長のためになりましたね。それはそれでいいことである。そんなに簡単に分かられても仕方あるまい。石の上にも三年。本当の話はそれからであろう。
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一所懸命にならない

2007-05-22 | 雑記
 珍しく特に何も無い日。といっても、いろいろな準備があって来客も多い。約束することは多くて月曜はそれなりに忙しい。「月曜なら職場に居ます」と言っているので月曜を狙ってくる人は多いのである。ところが前日にどうしても時間が欲しいといってきた人はすっぽかしてきた。この人は自己中心だとは思っていたが、やっぱりそうだったか、という感じ。まあいい。商売人のクセに信用をなくしているだけであろう。それが分かっただけ、僕にとっては得である。
 ついでに先物の電話もありうんざり。なんとなく外野が騒がしかったので、値が上がっているのだろう。会社の方針とはいえ、かわいそうな連中だと思う。いや、引っかかった人のほうがかわいそうだ。こういう合法的詐欺は、本当にタチが悪いと思う。
 散歩するとシャツが汗ばむ。水分補給にしいたけ茶を飲む。体に栄養がいきわたる感じがして心地よい。しかも美味い。もう少しでなくなるのが惜しい感じだ。でも正直いって昆布茶の方が好きなので、無くなるのも楽しみだ。
 メモに書いた仕事は終了。少し読書するが眠たくなる。前日の飲み会の影響らしい。体をねじると二日酔いにはいいという話を聞いたことがある。内臓の働きがよくなって、早く二日酔いが治るというのだ。できれば飲みすぎた夜のうちにねじっておくともっといいらしい。しかし、時間は元には戻らない。今からでもねじっておこう。
 
 夜は野球の練習。汗をかいて気持ちよかった。ボールを追っていると楽しいと素直に思う。しかしやっぱり自分自身はおじさんになっているので肩が痛かった。一所懸命になり過ぎないって、難しいことだと思うのであった。
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あれはギャンブルだったのだろうか

2007-05-21 | 雑記
 朝からトイレの不安を抱えながら急いでわんぱく相撲へ駆けつける。小学校の便器は小さいので的をはずさないように気を使う。そういう不安は一種の恐怖である。しかしだからといって無理に出るものではない。波が来るのを待つしかないが、最近は追い込みで食べる量が少なくなっている。いつものように定時の波が来ないようだ。こなけりゃそれでいいさ、とあきらめた。
 既に多くのメンバーがいて準備を整えている。みんな当然のように偉いなあと思う。ほとんどやることがないので、O方君に付き合って御飯をほっか弁に取りに行く。けっこう量が多くてO方君の車では無理であったことが判明。僕でも役に立ってよかった。
 備品の買物が必要なようで、買出しに行く。近くはエレナだといわれていたが、まだ営業時間前だった。結局マックスバリュに回って行って効率悪し。ハンドソープも一緒に買ってくれといわれたので探すが、こんなに種類があるなんて知らなかった。買うのに困るので減らして欲しい。そういえばハンドソープを買ったのは生まれて初めてである。おめでとう、という気分になった。
 さて、事業が始まってみると、それぞれの働きが大変に効率よい。いわゆる洗練されていると思った。わんぱく相撲はJCが行っている事業の中で間違いなく最大で最高に成功している事業である。これをやるだけでLOMとしての意味があるとさえ思う。K又専務はこの事業が終わったことで、JC事業への思いの99パーセントが終わったという。確かに僕自身の中の何かも終わったのかもしれないなあ、と思う。僕は継続事業に批判的だが、これと夏越は意味が違う。人間は有限なので永遠に続くことを望んでいないだけである。僕は終了する。具体的になって大変に良かったと思う。僕らは誰かに石を渡している。嫌々渡しきると逃げ切ったという罪悪感が残るが、この事業にはすがすがしさが残っている。もう何も言うことはない。子供達の取り組みを見て、二回泣いた。もう僕は傍観者である。
 夕方から打ち上げ。制限しながら食っていたつもりが、段々と箍が緩んでゆく。ああ、やはり意識とは抑制もあるのだなあ、などと考えて思考力も落ちていった。何故か腕相撲大会になって、あっさりK又専務の前に散った。それにしてもオレって腕相撲弱いよなあ、とも思ったが、僕の掛け金もどこかに消えていた。他の連中は100円単位を賭けていたのに、何でオレは千円を賭けていたのだろう。分からないがどうしても思い出せない。
 それにしてもサッカーくじで5億6300万か。当たった人はびっくりしただろうなあ。別に6億じゃなくてもぜんぜんいい問題なんじゃなかろうか。
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空が急に暗くなった

2007-05-19 | 雑記
 朝から雨。空が怒っている感じ。なんだか精神的に恐ろしい気分だ。自然の中では確かに人間はちっぽけだ。できれば僕に関心を払わず怒って欲しいものである。
 しかし程なく雨はやんですぐに蒸し暑くなる。根性ないんじゃないですか。
 ざる蕎麦食って長崎へ。会議続けて2本。しゃべりたくないけれど役があって報告する。まあ、型どおりなので鉄仮面で面白くなさそうにする。なんだかそうしている自分がおかしい。色々と議題はあったわけだが、事務局がすらすらと内容を説明し、ただ聞いているという感じである。上手な人がプレゼンテーションすると何も引っかからない。もちろんそれで不満もないけれど…。
 新しく出席している人もいたので終了後名刺交換会。髪が黒くて年齢不詳の人である。髪の豊かさは若さの象徴なんだろうな、と改めて感じる。僕よりはだいぶ上の人には違いないだろうけど、見た感じはだいぶ若々しい。しかし仕事は厳しそうな風格がある。これからもよろしくお願いします。
 雲行き怪しくなって急にあたりが暗くなる。急いで走って駐車場まで、何とか間に合った。雷がごろごろしてダーッと落ちてくる。やっぱり怒ってたのかもしれないなあ、と思った。
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人工呼吸はいらないかも

2007-05-18 | 時事
 人工呼吸が必要ないというデータは、あんがい画期的かもしれない。心臓マッサージだけなら確かに精神的戸惑いは少ない。これまでにも対象者の性別や年齢などで躊躇してしまっていたことは十分考えられる。これだけでいい、とまでは言い切れないかもしれないけれど、この情報が広く伝わると生存率は画期的に向上するのではないか。
 放置するのが危険だというのはその通りだろう。僕は一度だけ通りがかりで人が意識を失って倒れている場面に出くわしたことがある。心臓マッサージをしようとしたら、野次馬のオバサンから「安静にさせないと危険だ」ととがめられた。しかし流石にこれはやばいかもと考え、その「野次」を無視して一緒にいた(この人が居なかったらこういう行動は取れなかっただろう)友人と心臓マッサージを行使した。既に救急車は呼んでいたようで、程なく救命士と役割を交代したのだが、そのときもそのオバサンは、「この人たちが勝手に体を動かした」としきりに抗議していた。僕は怒りと共に、大変に不安になったことをよく覚えている。結果的には緊急処置がよかったために一命を取り留めたとずいぶん後から聞かされた。
 研修のセミナーのことではないが、緊急の時にどうするかという常識も、時代により変化する可能性がある。実際に他人同士の関係において的確に判断するのは大変に難しいことだ。しかし、その行動を左右するのは、裏付けられた知識である。無知というのは本当に危険なことなのだと思う。
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かんちがい劇場

2007-05-17 | 雑記

 年配の人の中には、パソコンを苦手とすることを飛び越えて嫌悪している人も多い。昨夜もそういう話をしていて、いつもながら根深いものだなと感じる。では、具体的に何が一番嫌かという話で、「紙なら一枚にどれだけ書いたという終わりがあるけれど、パソコン(正確にはその機能であるワープロですね)ではいつまで書いても終わりがない」という意見があった。なんとなくその場でウケていたけれど、それって疑問以前の勘違いではないか。パソコンの中に宇宙のような世界がある気がするらしい。まあ、気持ち悪いのかもしれない。しかしながら本当にいつまでも終わりがなければいいのだが、いくら容量がでかくなってもどこかでパンクしてしまう。最近はいろんな方法が出てきて問題解決に近づきつつある気がしてきたが、それでも厳密には無限ではないだろう。結局は現実であっても想像力がとどかないという問題であるだけである。
 ついでに教育の話にもなり、今の人は見えない力を信じなくなったので人のいうことを聞かなくなったのではないか、という話にもなった。今も昔もオカルトチックな見えない力などはないと思う。雷さまが怒るからいうことをきいたという類の話は、以前の人でもほんの小さいうちだろうし、今の人でも幼ければ十分通用する。理屈をいう人が多くなったと感じてらっしゃるらしいが、僕のような屁理屈な人間はむしろ少数であろう。確かに以前からの仕組み通りには物事はすすまなくなっているのかもしれないけれど、それは以前であっても変化はあったものだと思う。古い人が我慢をして若い人に辛抱が足りないと感じるのはほとんどの場合勘違いであろうと思う。僕に比べれば僕より若者はずいぶん辛抱強い。だいたい年を重ねると誰でも大抵は図太くなってその上に辛抱できなくなる。もちろん個人差も大きくて偉い人はいるのだろうけれど、総じてむしろ年配者の方の辛抱が足りない。しかしなんといっても体力差もあるのだから、それは当然のことだろう。お互いにちっとも悪くないし自然なことである。
 最近は驚く事件も多くなったというけれど、驚くべき事件は昔の方が多かったであろう。残忍な殺人事件といったって、精神病の人がユニークな行動をとっているというだけではないか。むしろ江戸時代などは比較的まともな人でも辻斬りをやっていた可能性がある。今のほうがむしろ変わった事件が起こりにくくなっている。僕の子供の頃と比較しても断然今のほうが安全であろう。大人は優しくなり、子供は聞きわけがよくなった。ある一定の悪さは残っているだろうけれど、そのこと自体を撲滅する労力はほとんど無駄な努力であろう。非常に効率よく社会が維持でき、なおかつ管理されながらそれなりに自由な社会になった。僕にとっては少し不自由になったけれど、それも永遠ではないだろう。
 そりゃあ確かに僕らの世代にもずいぶんだらしのない人たちは目に付いてはいる。しかしちゃんとデータを採ってみると、それでも僕らの親世代より平均的にしっかりしているらしい。そういう現実は無視して感覚的にもの言うと大抵大きな間違いを犯す。相対的に社会は形作られていくが、団塊世代だけが特徴的にわがままであるはずはない。だいたい世代によって特殊な特徴を持つというのは幻想である。そして結局は物質的な豊かさが、精神的な安定を実際に形作っているようなのである。
 戦後日本人はすべて貧しかったけれど心が豊かだったという人がある。知らないと思って嘘を言うのは、ご近所の国のようなものと一緒ではないか。時間がたった今では資産が蓄積されてくるので段々と個人によって開きが出てくるのは当然のことである。それは平等な社会が築き上げてきた貴重な価値なのである。格差社会などと不平等な主張をする人たちは、一種のファシストを望んでいるのだろう。もちろんこのまま平和であれば、その差はもう少し開いていくだろう。比較的平和な時間が日本より長いヨーロッパのように、階級社会が到来するかもしれない。しかしそれはもう少し先の話になるだろうし、むしろ今からは人口が減る分今の若者にもポストが回ってきやすくなるだろう。世界は連動しているので、どこかの国がこのまま破綻しなければなどの条件はあるにせよ、むしろ今からは好材料の方が多い。さしたる大きな問題が少なくなったので、多くの人が架空の不安を持つようになった。現代社会はそういう意味で大変に難しい世の中になったものだと思う。
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ホラー体験

2007-05-17 | 雑記
 トイレ(男性用便器の朝顔というヤツ)で用をたしていたら、裏ッ側からゲジゲジが這い出してきた。僕は猛烈にゲジゲジが嫌いだ。卒倒しそうなほど驚いたが、し始めたばかりでどうにもならない。いや、何とかその姿勢をかろうじてキープしたことは偉かったと思う。目の前をもそもそ這っているけれどどこに行こうとしているかは予想ができない。むしろ足元へ降りていってこちら側に来ると大変に危険である。こういう時に限ってえらく溜まっていたもので、なかなか用が終わらない。生きた心地がしないとはこういう気分のことなのだろう。今年最大のホラー体験だった。
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食べられなくていい夜だった

2007-05-16 | 

 長袖を着ていると暑く感じる。とても外で活動する気になれない。汗が背中を伝ってお尻の方へ流れていく。暑くなってシャツを出してだらしなくなる。田舎なので誰も通らないけれど、後でズボンの中にシャツを入れるのが面倒だ。客が来たりするので落ち着いたらシャツを入れなければと思う。子供の頃みたいに半ズボンで過ごしたい気分だ。

 万歩計の表示が伸びない。せっかくカウントされたのに、ポケットの中でリセットされてしまったらしい。ズボンの中の圧力の問題で、リセットボタンに触れてしまったのだろう。それなりに歩数を稼いでいた場合は、非常に残念な気持ちになる。昨日そういうことになってしまって、一人ふてくされてしまった。何かもやもやした怒りがふつふつとわいてきて、誰かに当たりたい気分だ。もちろんそういうときに誰かに出会うのは危険なので、一人になりにゆく。暑いので歩けないのはさらに不満だ。結局トイレで本を読む。文化人類学の本でなるほどと感心していたらいつの間にか機嫌は治まっていた。

 事前配信の資料に目を通し、いくらか修正を要請する。思い切って色々指摘する。勝負どころなのではっきり踏み込んで意見を言う。翌日けっこう見事に返信が来て大変に嬉しかった。こういう姿勢がなにより嬉しい。本番はまだだが、少し何とかなりそうになったものだと思う。会員会議所が楽しみである。

 さて夜には三役会に代理出席。けっこう活発に意見が出ていて、なるほどと思う。現役の意見は活きがいいなあ、などと思う。ただ、印象として感じる不安な部分と、期待して延びていく部分はあんがいクロスしている問題だ。どこまで理解してやれるかということと、どこまで適切なアドバイスが可能なのだろうかということ。そういうことも育てるという意味で大切な視点だと思う。厳しく撥ねるということも時には必要だけれど、あくまでそういうことは方法論で、いつも同じようにするという考え方は間違いである。ジャッジマンにならないように。審判になってはプレーヤーではない。つまり、本当の生の視点を見失ってしまう。もちろん私見である。人によって多様にみていればいいので、そのバランスが偏らないことであろう。忌憚のない意見が出るという意味で機能的な態度は良かったと思う。
 僕のもってきた議題はなんとなく通っていない感じ。うーん。しかしこれは結局同意と感覚に隔たりはあると思う。どこも重要で、どこも大変には違いがない。これもバランス。でも、作り変えよう(ホントか?)
 終了後さらに続けて会議というか打ち合わせ。僕は初めて内容を聞いたのだが、最初は何のことなのかさっぱり分からなかった。こちらが意見を言って通ることなのだろうか。そういう疑問を最初に持ったけれど、内部からも疑問の声が上がっているという説明を受けて、それはちょっと問題以前だろう、と思う。しかし、これはメンツもあるので、たぶん引っ込まない話なのではないか。どこかで丸める動きが出なければいいがなあ、と思う。まあしかしそれは出るには違いない。予算も通っているのに引っ込めるはずがないだろう。体質というものがそう簡単に変わるものではない。どこで統合を見極めるか。結局はそういう問題になりそうな気もする。もちろんそれで何も悪くはない。それにしてももっと前段階があったろうになあ、と残念に思う。そこをすっ飛ばして始まることが、なにより問題であったのだろう。
 遅くなったのでちゃんぽんに行くという。僕には三万円のちゃんぽんになりそうだったので、パスさせてもらう。食事ならいらない。酒なら飲む。
 昨日の野球の影響で半身に痛みが取れない。ひょっとするとそのまま眠れそうだと思って何年ぶりかの飲まない夜になった。酒を飲まないので頭のおくが痛い感じは残ったが、食べられないということがなにより嬉しかった。食べなくていいというのは本当に幸福だ。食事の時間が来なければいいのにと思う。思ったより腹も減らない。なによりひどく疲れていたのだろう。
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