カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

次年度のことではない

2008-02-27 | 雑記
 終日雨天。冷たい雨。ものすごい二日酔にもつらい雨。出張前の、それも月末なので事務仕事に精を出す。手書きの伝票をたくさん書いて、指がつってしまった。受験生みたいだ。
 面接試験に筆記試験の監督。こっそりヒントも出してやってほぼ満点。まあ、分かってるんだからそれでいいのだ。現場で少し実習もしたらしく、割りに器用だという報告も受ける。線は細いがいいんじゃないですか。
 今年度中に済ませておきたい事業の整理をして、次年度の計画の確認をして、三月の理事会前の審議事項を大筋固めてしまった。
再来年の国の予算請求がどうなるかというのは、実は現時点で既に検討に入っている。国会で予算が審議される時点では来年は既に固まっているわけで、実は再来年をどのようにという頭なしには話が進んでいかない。各分野から予算が上がってくる前段階が重要なのである。つまり今の段階で案がないものは、再来年も実現しない。今は次年度のことを決めているようで、再来年を考えているのが普通なのだ。それぐらいの準備期間を経たものでないと計画に乗っていかないシステムなので、現実問題を現場対応するのは事実上無理である。その時期にあわせて世論を動かすように情報をリークするのが官僚のやり方で、今の問題が再来年にちょうど話題になるようにあわせているだけである。だから現実問題とは必ずズレが出てくる。仕方のないこともあるけれど、現場はだから結局現実をまげて制度に適応させているだけなのである。このスピード感のなさが、日本の遅れという形で現れ風化させているのだろうと思うのである。まあ、先端を走り続けるのもリスクがあるし、もともと得意でない上に勇気がないのだから無理なのかもしれないが。しかし適応する能力だけは早いので、何とか世間は動いている。日本以外には出来ない高等な芸だといえないことはないのかもしれない(あきらめ)。
結局遅くまで仕事してやっと一段落した。週末は今月二度目の大阪出張である。前回空港で赤福を探したが見つからなかった。再販されているというのは限定的なものなのだろうか。
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投資に向かない

2008-02-26 | 時事
 三浦和義とか鈴木宗男とか、忘れたころにどうしたんだろう。まあ、単なる偶然に時期が重なってるんだろうけど。そうしたら息子が、ホリエモンはどうしてるんだろうとつぶやいていた。
 ところでホリエモンはどうして悪いの?ときかれたので株の仕組みとかインサイダー取引などを調子に乗って説明した。説明し終わって感想を聞くと、益々分からん、とのことでした。
 まあ、情報を知っていたから罪になるっていうのは、解釈次第では危険ではあるよな、とは僕も思う。将来の計画など当事者は知っていることは当然なんだし、事故だって早く知ったら売りぬけしたくなるのはやはり当然のように思える。その当然の心理が悪いっていうのは、単に信用物件に対する裏切りだということでもあるんだろう。しかし先行き感が現在の値段である以上、投資を呼びかける方も投資した方も、そういう期待のもてる情報を先に入手しようとするのはむしろ自然すぎる行為なのではないだろうか。
 株ではないけれど年金問題なんかでも、先のことで強制的に集めて不安を拡大化させているわけで、比較に適当ではないかもしれないが、ホリエモンより断然悪質である。何で誰も逮捕されないのか、子供の僕にはまったく不思議な話に思える。少なくとも機能しない(ように思える)状態で徴収を続けている現実こそ、何とかしなくてはならないのではないか。
 中東の政府系ファンドが話題になっているけど、日本の年金ファンドなんかがあったら、けっこううまく運用できたかもしれないな、とも思う。いや、もっと簡単に破綻しただろうか。
 昨日というか今朝の3時過ぎまで飲んでいて、凄まじい二日酔に苦しんでいる。この忙しいのに何やってるんだろうと思う。計画性という点では、まったく経験による学習もされていない僕のほうがはるかに破綻していることは確かである。
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ドリアン臭

2008-02-25 | 
 タイのドリアンを通販で買っていた。
 中国にいた頃に何度か食べたことがあって、そのにおいと味の面白さに子供もきっと喜ぶのではないかと思った次第。
 通販だったのでまだ食べごろというには良く分からない熟れ具合である。しばらくまだだろうと放置していたけれど、日々だんだん臭いが強くなっていくようである。まだ本来のドリアン臭ではないようだが、住居に非常に微妙な臭気が漂うようになっていった。
 というわけで日曜に食べようという決断にいたる。
 さて、割ってみると流石に更なる臭気が一面に漂う。これは僕も期待していたところである。この臭いと味のギャップこそドリアンたる醍醐味だ。
 だが…。
 残念ながら完全に熟れてないようで、肝心の味のほうもあの甘み満載ではない。たくさん食べると独自の風味も感じられるのだが、その一口を実行できない様子である。
 ああ、敗退。この一線を踏み出せる勇気を踏みにじる臭気だけが残ったのだった。
 そういうわけで我が家はかなり臭いので、客人及び宅急便関係者はドアを開けないようにしてください。
 今後は素直に「メロン買ってよ」とは次男の談。メロンはいただくもので、自分で買うものではないと偏見をもっているので抵抗がある。しかしあまりの惨敗感にうっかり「そうする」と答えてしまう。いや、うっかりなので本当に買う日が来るのかはまだ分からない。
 ほとんど食べられなかったドリアンはビニール袋に厳重に包まれて冷蔵庫へはいっている。それでも臭いがしみ出しているようだとつれあいは言う。
 ところでドリアンを食いすぎると危険だという噂もあるが本当だろうか。酒と一緒に食べてもいけないらしい。僕一人で何とかできる問題でもなさそうで、興味のある方はご一報ください。
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ナイーブな

2008-02-24 | 雑記
 長崎で飲み会と研修。
 日本の官僚と話をしていると、確かにずば抜けて頭がいいことはよく分かるし、自分自身にエリートとしての自覚のあることも分かる。地方の役人とは格が違うという迫力もある。そして、あんがい人が悪いわけでもない。しかし、立場として答弁すると豹変する。僕はエリートを否定しているわけではない。エリートとして実際に国を動かしていることは確かだし、そういうエリートだからこそ、難しいことが出来るのだとも思う。しかしながら、やはり制度として個人の能力が上手く発揮できない欠陥があるのではないかとも思わずにいられない。そういう能力をつぶしてしまうのはなんだろうと考えるが、無難な答弁に終始しようとする姿勢を見るにつけ、やはり社会的な不自由に何かありそうな気がしないではない。表面に出てくるものは暴走できないが、ここで表面化されずに隠されていくものに深い問題が潜んでいるのではないか。
 ま、僕らの業界の未来は明るくないことだけは確かで、衰退した業態を如何に改善させるかということなんだけれど…。税金を上げるしか道がないシステムは、僕らを含めて構造的に問題がありすぎる。脱皮して強くなるしかないのかも。ナイーブな僕に可能だろうか、なんて気が重たいです。
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多数で意外

2008-02-22 | 雑記
 猫の名前ランキングというのがあるらしく、定番はモモ、とかレオらしい。米国も猫にタイガーとつける人も多いというから、レオはライオンキングなのかな、と思うが、モモはなんだろう。思い浮かぶのはエンデだが、さて、どうだか。絵的には大島弓子のイメージだけれど、彼女の猫はグーグーだったはずで、何故僕のイメージと連動しているのかは不明である。サザエさんのタマは18位で下位だという意味で紹介されているけれど、少なくともタマという名前の猫は身近にも何匹かいたような気がする。身近には古い人が多いということだろうか。
 人間の名前のランキングもよく見るけれど、まあ、しかしなんとなく関係ないな、という気がする。昔読んだ漫画の人物名が多いから、漫画世代の親が多くなったのだろうと思うぐらいだ。それも圧倒的に少女漫画の人物が多いので、子供の名前は母親がつけているケースが多いのではないか。漢字でかいてあるけれど読めないものも多くて、そういう意味でも漫画文化かなと思う。吹き出しで説明すればいいのだろうし、狭い社会で通用すればいいということなのだろう。
 さてしかし、こういうランキングが頻繁に発表されるのは何故だろうとも思う。トピックとして需要があるのだろうけれど、やはりこれを参考にするという人がいるということだろうか。
 僕自身も統計好きなところがあって、何かをまとめたりランキングするのは日常的にする。しかし気になるのは意外性で、こんなものが上位に来るという意思表示のようなものである。
 音楽はいわゆる洋楽というものを小学生のころから聴いているわけであるが、ラジオでは土曜の午後などに必ずトップいくつとやっている。正直言って、小学生のころはこれを聞いていた覚えはある。いや、中学生で聞いていたかもしれない。勝った負けたではないが、好きな音楽家が上位にいると嬉しいというのがあったのかもしれない。しかしだんだん興味を失ったのは、日本のランキング上位の音楽に魅力を感じなくなったこともはっきりと大きい。僕とは違う人たちのランキングだな、と思うので、聞く必要がなくなった。
 新聞や雑誌などでベストセラーなどもランキングが出る。文芸やビジネス書など分けてあったりする。これも僕にはまったく関係がない。芥川賞や直木賞も聞こえてくるので知らないわけではないが、関係ない世界である。正直に言うと、本を買うための参考にはまったくならない。興味以前に使えない。さらに批判めいたことをいうと、そんな本が売れているという事実が僕にはシュールでさえある。ま、たまにはおッと思うが、あくまでたまにである。
 本などは実際に本屋に並んでいる本を見て選ぶ場合も多いが、今は圧倒的にネットになった。アマゾンのカートに40冊、保存に120冊のリストがある。時々掃除して削除するが、クーリングオフのための処置にはこれだけのリストが常時必要なのかもしれない。
 田舎の本屋では平積みされている新刊本は、全国平均のベストセラーの3ヶ月から半年前の状態であるのが普通で、これはこれで面白い現象かもしれない。
 映画のDVDの参考リストは常時80前後。しかし週に平均2本程度しか見ないかもしれない。これには見つからないリストは入っていないので、2年とか3年というスパンでふと出会う映画も時々ある。発見した時は感動するが、実際に見てみると必ずしも感動しないので、消える映画というのは仕方がないのかもしれない。またリストは完全に僕の口コミ情報から選択するので、ヒットしたものかどうかはかなり分からない。
 欲望というものは他人のものであるという。自分の欲しいものは他人の欲しいもののことなのだ。だから流行というものがあるのだろう。よく日本人は評判を気にして購入するといい、欧米人は自分の欲しいものを買うという。言っている人のいいたいことは分かるが、やはりそれは偏見だろう。他人の影響無しに自分の興味が生まれないということは厳密にはいえない。
 しかしながら、多数というランキングになると別かな、と思う。多数が支持するようなものは、既に魅力がない。いや、魅力を失っていく。ある一定以上の評価が積み重なると、非常に陳腐化するのかもしれないと思う。ある一定の評価でとまるようなものが、実は信用という点では良質なのかもしれない。ただ、時々爆発するものはあって、爆発以前には良かったけれど、勘違いで増殖するという傾向もあるとは思う。そのある種の勘違いは内容とは関係ないにもかかわらず威力を持つ。そういうものがファシズムかもしれないなあと、ふと思った。
 いや、猫のモモやレオは、上位でありながら、僕には意外だったのかもしれない。
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面談する方だって気が重い

2008-02-21 | 雑記
 寒いなりに暖かさを感じる。僕の仕事をしている部屋のエアコンの暖房は、Y田君に修理をしてもらったにもかかわらずほとんど効かない。一応つけてはいるが、手がかじかんでキーボードやマウスを扱う手が動かなくなってゆく。時々洗面台まで行ってお湯で手を温めたりする。冬の事務仕事は大変なのである。しかし今日はそんなこともなく手が動く。ありがたいものだとつくづく思う。

 出張にいっているあいだいろいろと伝言がたまっている。お礼のいるものから返事をしていく。
 ところが「先日はどうも」というところの先日がお互いに違うことが話の途中で分かった。僕の言う先日は二日前で、相手の思っている先日は五日前のことだった。そういえば五日前にお会いしており行動はともにしていた。しかし僕のお礼は、僕の不在でのことを言っていたわけである。途中で僕のほうは気付いたが、相手は最後まで気付いていないふうだった。そこで改めて二日前の話題を提示して、お礼を言い直した。

 年度末になり、スタッフの退職に伴う新規採用の面談などの予定が増える。いっぺんにやりたいのだが、いろいろと事情もあって、まったく時期が違ってしまう。一人には長く待ってもらわなければならない状況になるかもしれない。
 実は夏に面談に来た人があって、そのときは都合が合わずいったんお断りの上保留にしていた人がいた。真っ先に連絡したが、既に就職が決まったあとだった。お互いに残念だと思うが、そういうことも含めて出会いというのは難しいものだと思う。
 ウチで現在中堅で活躍しているスタッフには、面談の上お断りしてしまった後、採用が内定した人が急に事情があって断ったためにやはり採用になったという人がいる。実は結果的に非常に良く働く人だったのであるが、僕としてはこのことが大きな教訓となっているように思う。実は誰とはいえないが、今までで一番面接で感動的にすばらしかった人が、今までで一番働かない人だった。ひとことで言うと、明らかに能力がないのである。しかし面接の態度や口頭でのハキハキした印象はまったく素晴らしく、僕とともに面談した数人とも「今すぐにでも」と心の中で思ったという。人はまったく見た目で判断できないのである。まあ、あまりに極端なことばかりではないとも思いはするが、面談で判断できるほど人事は簡単なものではないのであろう。だからといっていい加減にも出来ない問題で、やはり印象のいい人が優先的になるものなのであるが、心の中ではやはり僕に分かるわけないよなあ、とも考えているのである。だからせめて気楽にしてほしいと思っているわけで、ウチの面談は少し変な雰囲気かもしれない。それこそ何でも聞くけれど、ちっとも厳格なる雰囲気ではない。まてよ、だから相手から断られたりしたのかな。ま、そういうわけで面談は得意ではないのである。
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最近の時事問題

2008-02-20 | 時事
 新千歳空港のニアミスの問題だが、共通語(と言われている)の英語を使うという発想がそもそも危険なのではないか。僕には英語は分からないが、そういう者が多いから問題だとすりかえる人が多すぎる。そもそも管制塔がつかっている英語がかなり特殊でおかしなものらしい。そうならざるをえない状況があるのが、そもそもの問題なのではないか。
 どこの国のどこの空港でも英語を使うという厳格なルールが本当にあるのだろうか(あるとどこでも言っているけど)。ロシヤの地方の国際空港だとかアフリカのどこかの国だとか、その国のパイロットに向けて英語で指示しているのが普通なんだろうか。日本の上空とはいえ国外の飛行機がたくさん飛んでいるというイメージが、かなり不思議な気がする。少なくとも日本に来るような航空機を運転するパイロットは日本語を覚えるべきではないか。日本人同士が危なっかしい英語で確認しなければならない現状が航空機の運転という技術と関係ないところで必要だというのはまったく不合理すぎることである。

 イージス艦の衝突事故ではよけられたかどうかということがしきりに議論されている。あんなに大きな船が簡単に小さな漁船をよけることが出来るのだろうか。出会い頭の事故は、恐らくお互いに見ていなかった可能性が高いのではないか。
 さてしかし、衝突してから何故イージス艦自体が漁船の乗組員を徹底して探さなかったのだろうか。いや、捜索したとの報道も一部聞こえたが、それならばどうして途中で断念したのだろうか。現場にいたものがあとから来たものよりはるかに有利に見つけられると思うが、それができなかったのは何故だろう。
 早い段階での報道では漁船の乗組員の安否についてまったく何も情報がなかったが、行方知れずなのか、イージス艦が保護したのかどうかさえ分からないという隠蔽主義に問題があるのではないか。
 首相に情報が伝わるのが遅いという議論もあるが、首相がどうにか出来た問題であるというのも、なんだか疑わしい。それって実はかえって効率を悪くしないだろうか。
 もちろん国を守る任務も大変に重要だと思うけれど、事故に対する対応がおろそかで有事に対応できるというのは最大の矛盾なのではないだろうか。得意のマニュアルは本当になかったのだろうか。
 また、この事故で正当に過失を裁くことが出来るか、それが本来の普通の国であるかの判断になると思う。

 米兵が問題を起こさなければ(不特定の日本人が実際に被害を受けなければ)基地問題が議論されないというのもかなりおかしいと思う。今までもたくさんの米兵が日本人を傷つけてきたが、誰がどのように処分されたのだろうか。顔写真さえ報道に載らないという状態がいつまで続くのだろうか。沖縄の飲食店などが不況になることを防ぐのが地方の求める経済政策なのだろうか。しかし実際に岩国市長は米軍受入の人が選挙であがる。
 東国原知事が道路財源に口を出しているが、だからといって国の道路で宮崎が優先的に配慮されることと直接関係があるとは思えない。道路議員の力関係で宮崎が弱いだけのことで、実はガソリン税とは別の次元の話である。
 しかし政党も二大政党を目指すより大連立の方を考えていたりする。呆れて本当はものをいいたくないが、この国に改革などまったく無理であることは残念ながら確かなことのようである。
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疑問が消えない

2008-02-20 | 雑記

 大阪に行っていた。
 目的地の付近らしい駅で降りて、さて、目的の場所への方角が分からない。なんとなくうろうろしていたら宿泊予定のホテルを発見した。チェックインには時間が早すぎる。まあ、適当に歩いてみるかという気分になって適当に歩いていると、ばったり目的地についてしまった。時計を見ると十分前。いや、もう少し焦るべきだったと反省した。

 その前に空港のトイレで大の方をしたのだが、無事に済ませて流してドアの外に出たら、さっきまで隣で唸っていたオヤジがいきなり出てきて僕の済ませた便所へ入った。あまりのことにしばし驚いて呆然としてしまった。後で考えると、紙がなかったのだろうか、とも思うのだが、確認したわけではない。なかったとして、たぶん途中であったはずで、途中の状態をどうしたのだろうか、などと疑問は膨らむばかりである。
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卒業の御祝いをしていただく

2008-02-17 | 雑記
 僕の都合で延期させてもらっていた卒業の祝いを開いていただく。まだランタンフェスティバルが開催されている長崎市内だったので、ものすごい混雑である。いや、本場支那の国でも春節は盛大なものだが、福建華僑のこの長崎でも、なかなかどうしてかなりのものである。とにかく身動きが取れなくて、駐車場を探すのに閉口してしまった。
 当時の青少年委員会のメンバーが中心であるこの会なのだが、僕だけが年少というだけで、皆さん錚々たる先輩方である。なんて、実は気心は知れていて、久しぶりなのであることは確かだが、すぐに馴染んだ空気になって笑いのたえない楽しい会となった。それぞれ妙に落ち着いているようであり、変わらぬ青年という感じでもある。馬鹿なことも話題に上がって、楽しいひと時だった。僕をネタにお祝いだったからということで、すべてロハというおまけ付である。これはかなり後が怖いものになってしまった。
 特に面白いと思ったのは、皆なんとなく遠慮や配慮に気が利いているあいだでありながら、それなりに自分の話になると暴走する傾向にあるということであった。僕自身は、正直に言うとそんなに自覚はないが、いつのまにか暴走することは知っているけれど、回りの仲間のその暴走振りを見るということは、最近は少なくなっていた。「ひとの振り見て…」というヤツで、ははあ、俺もこのようなものかも、と思った次第。反省も含めて、楽しいのではありました。許せる仲間であれば、厳密には別に暴走ではない。僕自身が久しぶりに反省する必要があるのみである。
 近況という意味では、不思議なほど自分自身の話は少なかった。聞いてもいいが、なんとなく控える。だんだん分かればいいのかもしれない。久しぶりに参加するというか、こういう場にも久しぶりの人もいる。少しばかり太ったようで、顔つやもいいように思う。それで万事いいのである。いや、わかりはしないが、そう思った。
 次回の期日は知らない。しかし、また自然に集まるのではないか、という程度で散会する。思ったより千鳥足で、フフフ、と、愉快な気分になった。十年ちょっと前の時代であるけれど、青春というような恥かしいような、そんな気分が少しだけよみがえったような気がしたのだった。
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冬仕事の算段

2008-02-17 | 雑記
 冬のあいだにやっておくべき仕事というのがあって、夏の農繁期で出来ない時間のかかるものをこつこつ手がけることになる。段々畑の石垣の修復をしたり、イノシシが荒らした畦をならしたりとか、そんなことだ。
 木というものも、年々伸びてゆく。水路の脇にタラの木が伸びているのは以前から知っていたが、その周りにいつのまにか竹やぶが侵食していって、すっかり隠れてしまっているように感じていた。もともとそれなりに大きな木に成長していたが、竹の勢力に押されたためか、さらに枝を大きく伸ばして、その分自分の影も伸ばしていったようなのである。水路の谷の下に広がる茶畑に影が届くようになったと聞いたのは、つい最近の事だ。水路の向こう側とこちら側で、どうも責任の度合いが違うらしく。確かにその大きくなったタラの木は、こちら側の責任領域に根をおろしているのだった。
 影がかかるのなら仕方のないことだ。何とかしなければならないのだろう。
 竹やぶの中を下っていって木の根のそばまで来ると、やあ、実に改めて立派なものだ。うねるように巨体が曲がり、枝は縦横に伸びて広がっている。冬の今は葉がないが、春から枝先から芽がさらに伸びてどんどん葉っぱがついていくのであろう。その枝先が陽をさえぎる先に茶畑が広がっているのである。
 しかしながらこれだけの木を倒すのは大抵のことではない。ただでかいだけでなく、急な斜面の途中である。水路が通っているとはいえ、大水の時の排水路である。下ってくる途中は孟宗竹が生い茂って行く手をさえぎっている。重機のアームにロープでもかけて固定して切ろうと思っていたが、とてもそのような処置で支えきれるものではなさそうだ。先に竹を切り、道を確保して、木に登って順に枝を落とし、ワイヤーで固定しなおして本体を切るという工程を組みなおす必要がありそうだ。切った上にさらに細分化し、引き上げてしまわねばならないだろう。木自体は立派なものだから、鎌屋などが使うには最上ではないかとも言われている。だが、それも切った後のことである。
 普通一本ぐらい木を切るぐらいなら半日もあればなんでもないが、一人では難しい上に、相当段取りが必要であることは間違いない。区長さんなどにも相談して、ウチのスタッフ数名を確保して、何日か取っ組み合いをすることになるだろう。
 寒空の中、そんなことをして、残りの冬計画を練る。出張の後は、体を動かす仕事が待っているということである。それはそれで楽しいのであるが、本当に僕らに出来るのかなあ、とも思う。しかし金はないから体を動かすよりない。出来るようになるより仕方ないようである。
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予定に空白をつくる

2008-02-16 | 雑記
 研修で北九州に行っていた。市内から見上げると足立山の山頂に雪が連なって残っていた。風が冷たくてどんどん人の体温を奪っていくような寒さだ。なにやら説明を受けているのだけれど、ぜんぜん内容は分からない。寒さに耐えて時間をやり過ごしているだけである。
 研修自体にはいろいろと勉強になることも多く、大変に良かったと思っている。僕自身が考える将来像にも大きな影響があることだろう。現実をどのように捉えて、実際にどのように行動しているのかというものにも、考える以上のバリエーションがある。枠は決まっているようだが、枠に入るものはやはり違うものなのである。そして、その枠自体も、実は同じものではありえない。当然のことが自分の目で確かめられて本当に助かった。結局はわが道を行くしかないのであろう。どこまで自分らしさを出すかなんていう問題は、実は後付で結構だ。自分らしさは付随している姿だから、つくる必要などない。自然に出来上がっていくものなのだ。
 しかしながら、体調は悪いままでやり過ごして、それなりにつらかった。そしてまだまだロードは続く。半分やけくそだが、何でも見てやろうという気分だけで進むよりあるまい。
 JC卒業したらだいぶ暇でしょう、とよく言われるけれど、確かに今まではこの忙しさを断ってきただけのことだから、ちゃんと仕事ができる分、別の忙しさが当たり前のように目の前に現れてきただけである。現実を目の当たりにしている分、精神的には却ってつらかったりもするわけで、時間も必要だなあとも感じます。暇というのはつくらないかぎりできるものではないと思いますよ。忙しい人は予定の空白にオフを書き込むとも聞いたことがある。空いているという感覚は、既に考え違いなのではないだろうか。
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珍しく呑めない日

2008-02-13 | 雑記
 寒いとは思っていたが、耐えられないぐらい寒く感じる。外に出るのが億劫というより怖い感じだ。喉がやたらに渇いて、二日酔かもしれないと思っていた。それにしても変な感じなので熱をはかると、なんと39度もある。納得はいったが、さて、どうしたものか。連休明けだったのでなんとなく決まりも悪いし、事実やることもないではない。ぐずぐずしているといよいよ具合が悪くなる。素直に帰って寝ることにした。
 布団に入ってもしばらくはガクガク震えるほど寒い。そのうちにおなかの方から波のような熱が発生する感じで温かくなり、汗ばむように熱くなる。そういう感じを繰り返して布団の中で時間をつぶしている。時々鼻水をかんで水を飲む。具合が悪いなりに安定してきた。
 夕食を食べに起き上がって、少し飲んでみようかという気になる。しかし、やはりなんとなくすすまない。味の濃い薄いが良く分からないようだ。温まるようにということで鍋焼きうどんがおかずだったが、これも最初は薄いのかと思って醤油をたしてもらった。汁を飲んでいると後味が残る。今度は濃すぎるのだろうか。僕にしては珍しくコップに焼酎が残った。後で飲もうというつもりがないわけではないが、その後はいつごろなのか見当がつかない感じだ。
 手元にあった本をパラパラめくるが、これが哲学の本で、ぜんぜん頭に入っていかない。目がしょぼしょぼしてきて活字を追うのが億劫になってきた。やっぱり寝るよりないのかと諦めて床に入った。
 すぐに熱の波に襲われて汗をかいた。寝てはいるが汗をかく度目が覚める。体をふいてまた寝ようとする。これだけ寝ているのにまだ眠れそうな気がする。体がきついのでおきるよりはましだ。具合が悪いなりに布団の中の安心感のようなものに包まれて少し気分がいいと感じるようになってきた。そうしたら朝になっていたようで、驚くようにいい感じがする。熱は37度ちょっと。へえ、まだ熱があるの、と自分でも不思議な感じだ。朝ごはんもおいしくて、復活だ、と一人気分良かった。
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また誤解煽り報道

2008-02-12 | 時事
 朝のNHKのニュースでは、銃による発砲事件が倍増したと報じていた。佐世保の散弾銃の事件や長崎市長の事件なども例に取っていた。
 それらの痛ましい事件が起こったのは事実だけれど、銃の所持が野放しになり市民生活が危険に脅かされているということは事実ではない。一昨年と比較して倍増したというが、そうであるならば、一昨年は非常に犯罪が少なすぎたということもいえるのではないか。何故なら銃の発砲事件ひとつとっても、2001年の215件から減少し続け、昨年は54件になっている。死者19名だが、内一般人は8名。一件でもそういう事件が起こることは容認できることではないとは同意するが、普通の生活上に危険があふれているとは、とてもじゃないがいえる統計上の数字ではない。
 実は昨年は、殺人発生数は最低だったと発表されたばかりである。この記事が書いているとおりものすごいニュースだと思うが、報道関係はほとんど無視した。いや、恐らく無視どころではなく、統計を素直に読めない人が、このニュースを作ったのだという疑いさえある。これはれっきとした人為的偏見操作であり、捏造と同質のものではないかと思う。
 何度でも書いているが、報道がとる事実というものは、このようにかなり湾曲した見方を強要していることが非常に多い。おびえて生活をしたい人はそれもいいだろうが、それで幸せになれるわけではないと思う。また、騙された認識を持ったまま意見を言ってしまう多くの人を見るにつけ、本当に悲しい気分になってしまう。テレビを見るとバカになるとまでは言わないが、テレビの被害はこのように深刻な病魔であることは間違いがない。
 防衛策は自分で考えることにつきる。しかし、すべてを自分で調べられるほど、たぶん人々は暇じゃないのだろう。それはそうだが、少しでも自分自身で疑問に思うことがあれば、忘れないでおくということも必要だろう。事実というのは多くの人が信じていることではない。そんなことで事実を動かそうとするから騙されるのである。
 それにしてもこのように人を騙してしまう行為は犯罪ではないのだろうか。警視庁はこれだけコケにされても黙るつもりか。せめて、もう少し怒ってもいいんじゃないかと思った。
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何故ソーダじゃない?

2008-02-11 | 散歩
 今回は珍しく完全休業をしているわけであるが、まったく予定がない。やることがないと不思議なものでさらに何もやらない。
 しかしながら散歩だけはまじめに励行しているわけで、歩くことが仕事のような気もしてきた。出かける前はなんとなく憂鬱にも感じる。一種のスランプのようなものなのだろうか。
 天気は曇ったり晴れ間が見えたり。それなりに風は冷たいが、ひどく寒いというわけではない。歩く前にはセーターなどを脱いでからジャンバーを羽織る。外に出てすぐには寒いけれど、しばらくすると暖かくなる。ついには服を脱ぎたくなるに決まっているので、最初から脱いでおくのである。脱ぎ忘れると、途中でセーターを手に持ったまま歩きとおすことになってしまう。手は冷たくなるし、何か持って歩くだけでなんとなく不自由な気さえする。

 先日子供がジュースを飲みたいというので買ってやるついでに自分もカルピス・ウォーターを買った。どうしてソーダじゃないの? と聞かれたが、さて、どうしてだろう。実はカルピス・ソーダは飲んだことがないような気がする。ふと珍しくカルピスのある自販機が目に留まるが、やっぱりカルピス・ウォーターのボタンを押してしまった。なぞは解けないままだが、僕は一方的に水の方が好きなのだろう。
 それにしてもカルピスは増量缶のほうが120円でペットボトルが150円である。容器が違うので当たり前ということだろうか。この寒空に増量缶を飲みきる勇気がないのでペットボトルにすべきか悩んでしまう。せめて普通の量のものも並べて欲しいがそれもない。躊躇しながら結局ボトルの方を買ったのだが、ペットボトルを手に持って歩くのも煩わしいので無理にこの場で飲みきることにする。すぐに飲んで空きボトルを棄ててしまいたい。後で捨て先を探す労力を考えるだけでなんとなく億劫だ。それなら最初から増量缶の方を買うんだったなと後悔する。
 僕は甘ったるい飲物は普段は敬遠しているが、カルピスだけは別である。子供のころにカルピスの原液をたくさんだすと怒られた。緊張しながら少しずつコップに注いだものである。大人になりお歳暮だか中元だかで、どうせ誰も飲まないからということで一本僕がもらったことがある。丸々原液のカルピスが自分だけのものになったのだ。なんという贅沢なことだ。感動して思いっきり濃い目のカルピスを作って飲んだ。甘すぎてとても飲めたものではない。また水を足しなおしてだんだん薄くなるカルピスの味を確かめた。味としては薄すぎず、さして濃くもない一点のラインのあることが分かった。自販機のカルピス・ウォーターは僕の好みの一点ラインより少し甘いところである。もう少し薄味の甘い液体を、暑い夏の日差しの中で、ごくごくカランと飲んでみたいものだと思う。今は寒すぎてカルピスの白はちっとも魅力的ではないのであった。
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安価な豊かさ

2008-02-09 | 雑記
 PTAでの話し合いの部屋に入ると、出欠の確認より前に飲物を選んでください、といわれる。テーブルには紅茶にほうじ茶のティーバッグが並んでいる。インスタントの粉コーヒーもある。なんとなくそのコーヒーの瓶を手にとってしまって
「コーヒーはあんまり得意じゃないんだけど…」とつぶやいてしまった。
「それでは」と何故だか砂糖のスティックが添えられたのだが、僕は砂糖入りのブラックコーヒー(砂糖が入っても色は黒なのだからそういうべきだと思う。ミルクを入れるなどして色が変わってはじめてブラックではなくなるはずである)は好きではない。そう言うと、「ま、我がまま」と笑って言われた。好みを主張するのは我がままではないと思ったが、あきらめてコーヒーを飲むことにした。
 暖房設備のない部屋での話し合いなので、主催者が気を使って飲物のサービスを行なっているらしい。みっつ並んでいるポットもすべて自宅から持ってきたもののようだ。確かに話し合いのための予算は、微々たるものであるにせよ、ちゃんと確保されている。それでも明らかに個人的に持ち込みのものの方が多いであろう。なんという気の利いた配慮。テーブルにはティッシュの他、スプーンの束、キャンディ、ティーバッグなど濡れたものを棄てるためのビニール袋、それ以外を棄てるビニール袋、それらを入れて運んできたであろう大き目のバスケットなどが並んでいる。僕はこれらのものを準備することを考えるだけでもめまいがしそうである。
 あるエッセイで、日本の生産性の低さを指摘したものを読んだ。
 米国でハンバーガーを食べようと某大手の店に入ると、長蛇の列がなかなか進まないという。自分の番が回ってきて理解できるが、明らかに店員がやる気がないのだそうだ。注文をとるのも投げやりで、定番のハンバーガーとコーラとポテトを注文したにもかかわらず、何分も品物が揃わない。同じ名前の日本にあるチェーン店なら、恐らく一分もかからないのではないか、という。しかしそういう対応の悪い米国の方が、数字の上では日本よりはるかに生産性の高い国なのである。一人当たりのGDPで比較すると、アメリカを100とすると、日本は70といったところ。この差はいったい何なのか。
 そうしたら、その人の友人の米国人が、それは至極当たり前だという。日本人は午前中に全力で働かないから、午後にも仕事を持ち越して余分に残業して生産性が落ちてしまうのではないか、といわれたそうだ。確かに日本の残業から考えると、残業を当然のこととして仕事をしているという感じはある。平均して三四時間の残業超過で米国の生産性に追いついているということか。
 この話には実は大きな齟齬があって、サービスの生産性と仕事の残業の生産性ということとは大体関係がない。ましてやGDPの一人頭の生産性とも、ストレートに反映されることではないと思われる。そういう訳でこれは勘違いの話に過ぎないのだが、妙に納得させられるからおかしなものである。
 サービスの生産性は、例えばコーヒー一杯を客に提供するのに、米国であろうと日本であろうと、またはインドやアフリカであろうと、恐らく動作としては(時間当たりの生産性)ほとんど差がない。しかし実際には金額ベースでは大きな差があることだろう。賃金の高いところで働くことが、生産性というマクロの生産性に反映されるということだろうか。
 生産性というと、一人頭がどれだけ金額ベースで稼いでいるのか、ということに過ぎない。為替の問題もあるし、そのほかにもいろいろの要素が絡んでいるにせよ、いろんな国の人口で割った一人頭の生産性といっているのである。例えば人口の少ない北欧の国などは、その国を代表する企業の業績が上がると、当然ながらGDPは飛躍的に伸びることにもなる。東京だけを国として分けると、恐らくものすごいGDPになるはずである。日本のように高齢社会だと、実質上労働していない、現段階でまったく生産性に関与してない人まで含んだ上に人口の大変に多い国であることを考える必要がありそうである。
 日本の生産性は、確かに以前はトップだったことを考えると、構造的に問題があることは十分に考えられる。しかし、日本の大企業が本当に国政的にふがいないわけでなく、投資先としての価値が実質反映されないシステムにあるという構造的な政治問題であるように思われてならない。例えば金融などで景気の良い英国のような国のことを思うと、単に取引をしている金額ベースだけが膨らんで、さらに物価も上昇しているのであるから、本当に豊かで羨ましい状況下というのには、大いに疑問を呈さなければならない。統計上に大きな開きが出ているにせよ、実質的な豊かさの差がそこまであるのかという問題と、直接的に実感できないのが当たり前であると思う。
 そのような話とハンバーガーと、ましてや残業の問題は、まったくリンクしないものであるにもかかわらず、日本の国力としての生産性が落ちてしまったことと関連付けられてしまうのは何故だろう。それは働く現場での閉塞感が伴ってのことなのかもしれない。頑張って働いているにもかかわらず、目に見えて成果が上がっているようにも思われない。そうして数値まで突きつけられて、精神的にかなりのショックを受けているということであろう。心の豊かさよりも、やはり先にたつのは金銭的な豊かさであるということは、皮肉ながら言えることかもしれない。
 さてしかし、サービスの質の高さということを考えると、PTAでのささやかな会議の席でも、恐らく非常に高く上質なサービスが当然のように提供されるという土台があって、日本のファーストフードなどで提供される質の高いサービス提供が可能になっているということはいえるのではないかと思う。生産性ということであれば、安いものであれば多くの人に提供できなければ上昇しないし、そうでなければ単価をあげてプレミアムをつけるという方法しか道はなさそうである。しかし、たとえ安いものであっても、上質のサービスが当たり前に提供できる環境にある日本では、当然のようにデフレが起こっているということもいえるだろう。
 日本人の個人あたりの能力としての生産性は、恐らく他国に追従を許さない高レベルであるとはいえると思う。ことサービスにおいては。しかし、この異常なレベルの高さは、日本という局地的な価値でしかないところに、金額として反映されないという答えが隠されているのであろうと思う。
 工業製品というものは、使う分には言語というものは特に重要ではない。だから今までは日本という国は世界のトップで走ることが出来た。しかしコンピュータをはじめとするプログラムに使われる技術を動かすテクノロジーは、英語という言語が席巻してしまった。日本の生産性が落ちているという裏には、そういう事情もあるとは考えられる。そうであれば、既に勝負は決していて日本は今後もこの分野では成長は難しいだろう。この話は脱線するので、また別に考える必要はあるが、そういう特殊能力だけが一部の国を引っ張るということは、垣根を越えた次世代の頃には、また別の問題になっていくような気がしないではない。また僕は預言者ではないので、差し控えておこう。
 さて、そうではあってもサービスの質と生産性は、国内においては関係がある。国際比較で劣っているように見えるサービス産業の生産性の低さだが、安くても非常にクオリティの高いサービスを提供しない限り、国内では伸びていかない。GDPを飛躍的に伸ばす可能性のある分野ではないにしろ、このような日本の特殊性は大変に貴重な価値であると思う。
 事実、僕は学校の暖房設備のない貧しい寒々とした夜の教室の中にいて、あまり好きではないにしろ、暖かいコーヒーをすすって暖を取り、心豊かに会議に参加できた。
 そう、本当に豊かな国というのは、このような暖かい気持ちを当たり前に享受できる環境にあるのである。たとえ金額的に開きがあるように見えても、日本の実質的に快適な豊かさは、そう簡単に追従を許さない水準に達しているのである。むやみに自信過剰になる必要まではないと思うが、またむやみに悲観にくれて勘違いな意見に惑わさてしまわないようにしたいものである。
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