カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ぶっかけとは違ったと思います

2015-09-30 | 

 前回は一応モーニングで驚いた話だったが、その時名古屋に来た折には、食べ物には好印象だったのだ。それというのもきしめんで、着いてすぐに食べたのがきしめんだった。これはへんてこだというのはそうなのだが、ちゃんと旨い。わざわざ平べったくする必要性はよく分からないまでも、ダシも効いているし、具だくさんだったようにも思う。一応麺だからずるずると食べられるし、基本的には味はうどんである。平べったいからぜんぜん違う食い物であるということでは無く、そういううどんだって有りだよな、という程度には受け入れが容易なのではないか。結局そんなに今までも機会が多くは無いが、行く度にはきしめんは食っているように思う。最近は名古屋に限らずきしめん屋を目にするようになったけれど、よその土地では特に頼みはしないものの、名古屋にいくときしめんはすする。平べったい分スープとなじみが良いんだろうか。煮込み時間が短くて済むんだろうか。理由はよく知らないが、讃岐うどんのようにコシを重視するのでなければ、十分に美味しいレベルで楽しめるのではないか。
 ところで名古屋には味噌煮込みうどんというのも名物である。味噌煮込みは名古屋以外にもあるが、しかし名古屋の味噌煮込みは、確かに味噌で煮込んであるというそのまんま感が少し強い。味噌のドロドロ感が強いというか。それでもあんがい強烈に濃いということでは無く、ちゃんとスープも飲めるという不思議さはある。濃いと言えば濃いが、見た目ほどではなく濃いということか。そうして猛烈にぐつぐつ熱くて、旨いが難儀である。これが不思議なことに、味噌煮込みうどんといえばうどん麺だったりする。味噌煮込みきしめんというのがちゃんとあって、それはそれで別の食べ物である。当たり前の人には当たり前かもしれないが、名古屋にいくとちょっと不思議な感じがしてしまう。これなんかは味噌煮込みきしめんでもいいのではないか。僕はうどんの方がいいけれど。
 しかしながら味噌煮込みうどんはやはり夏にはつらい。あえて食らうという変人もいるだろうが、食えば暑いに決まっている。真夏に酔狂だが、自分でなければかまわないだけのことだ。そうするとこの名物は夏には少し遠慮することにはなるが、きしめんには普通に冷やしメニューが存在するのだ。20年以上前にそうだったから恐らく最近目にするようになったぶっかけうどんとは違うんだと思う。それというのもしょうゆだれをぶっかけるというよりも、普通にダシまで冷たいきしめんという感じなのだ。温かいダシと同じなのかどうかまでは知らないが、少なくとも近いのではあるまいか。あったかいダシのきしめんもあり冷たいダシのきしめんもある。昔話で語っているので感覚としてあまりそのことに感慨が伝わらない気もしないではないが、ともかく九州にはそのようなうどんは存在してなくて、これは暑い夏には合理的で良いな、と思ったことだった。ずいぶんして讃岐うどんブームがあって、ぶっかけうどんというのを普通に見ると、やはり名古屋の冷やしきしめんとは違うものという思いを強くした。冷たくてもひらひら旨いというのは、あんがいきしめん文化として正当なものなのかもしれない。(たぶん続く)
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ダークだったクリーン・ディーゼル

2015-09-29 | 時事

 米国での独VW社の排ガス不正ソフト問題。
 既に様々報道があって、概略は省略するが、まったくひどい不正であるという前提はあるにせよ、しかしこれは、知っている人は普通に知っていた話だったのだという。だからVW社は、不正に対してそれほどの罪悪感がそもそもは無かったと考えられている。
 どういうことかというと、そもそもディーゼル車の排ガスというのは、そんなに簡単に無害化出来っこない、ということかもしれない。
 でも有害だとやはり売れない。経済的な合理性を考えて、ガソリン価格より軽油が安いことが明確なのだから、それを有効利用することの方が、そもそもの賢い選択だ。大型のトラックなどを除くと、ふだんの移動は小さい車で十分で、その各々の車体から出る排ガスが多少の基準値をクリアしさえすれば、個人、特にヨーロッパ人のニーズにはガソリンよりはるかに強い嗜好で、軽油車に優位性があったのである。
 だから同じく中国でも、VW社は圧倒的にシェアを伸ばした。中国の工場の排ガスも凄いらしいが、都市部のスモッグの多くは、やはり車の排ガスの影響が大きいと言われている。同じくヨーロッパの都市でも、スモッグ問題は度々取り上げられている。
 皆本当は知っていたはずなのだが、米国や日本に比べてこれらの都市のスモッグの状態が悪いのは、恐らくドイツなどをはじめとする、ディーゼル・エンジン車の数の違いであることは、明確だったはずなのだ。言葉の上では、クリーン・ディーゼルの技術の進んだ国の現象であると謳うジャーナリズムの宣伝はあったのだが、事実ヨーロッパの都市部の大気の状態は芳しくない。日本や米国の経済優先(に見える)政策は散々批判の対象にしていたくせに、自らの不正には寛大な土壌が、彼らの常識に刷り込まれていた可能性は高いと考えられる。
 僕はこれまでにも度々そういうことを言ってきたのだが、かえってくる答えというのはたいてい、それは金持ちの論理、ということにすり替えられることが多かった。要するに米国や日本というのは、お金持ちだからガソリンを潤沢に使うことが出来るという理屈だ。
 実は国などの税金の在り方もあるんだろうけれど、ヨーロッパなどではガソリン小売がリッター200円を超えるところも珍しくない。消費者を守るという観点からすると、ドイツの戦略は誤っていないということらしい。
 でもそれは、つまるところエコへの欺瞞に過ぎないと思うが、まあ、だからクリーン・ディーゼルの技術力の違いだとかいう話にまた飛んでしまう。一人が静かに乗る分にはそれほどの影響はないが、しかし坂道とか高速とか家族が乗る場合は無視した数値を使ってエコだとする方便を使ってまでも、言い通すべき理屈なんだろうか。日本のガソリン効率を上げる技術や、ハイブリットなどと対抗できないことを隠し通してきたツケが、回ってきたということに過ぎないのではないか。
 実はこれらのエネルギーの問題は、発電やいま議論がかまびすしい国家の安全保障問題とも絡んでいるが、話が飛びすぎるので割愛する。少なくともこの問題が、VW社のみで終わることとは、僕には到底思えないだけのことである。
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モーニングは知っていた方がいいと思う

2015-09-28 | 

 名古屋といえばタモリの顔を思い出すので、あまりいい印象とは言えない。タモリは福岡の人間だが、東京が長いということで、東京人的に名古屋が面白いのだと思う。多少の悪意はあるが、愛嬌として良いだろうという感覚はあったかもしれない。まあ、今の人はあんまり知らないかもしれないから、時効だと思っているのではないか。
 ところで、九州は長崎人から見ても、やはり名古屋はなんとなく変である。言葉が変でもそれはどうでもいいことだし、楽しいからいいけど、文化的に少し取っ付きにくさというか、不思議な感じがある。名古屋に行けば楽しみではあるけれど、しかし、ちょっと恐々というか、実は本当にいいのかというのが疑問として残っている。それでも名古屋の人はあんがい無頓着にそういう文化を誇っている感じが少しする。あんたら知らんかもしれんけど、ええじゃろ(そんな言葉づかいじゃないけど)、という見下し方がある。だってええ文化じゃけんね(そんな言葉づかいじゃないけど。以下略)、という勝手に鼻高々なところがある。そういうところは田舎の九州の目からは、ほほう、と少し思わないところが無いではないが、東京地方のようなところから見ると、ちょっと傷つけられるところがあるんだろう。もともと見下していたのになんという態度だ、という驕りの所為だろうけど。そういう両方の気持ちを揶揄してタモリは面白がっているのだと思うが、まあ、バカにされたのは名古屋の方だから、面白くは無いかもしれない。
 以前何かの雑誌に東京から名古屋に嫁いできたというご婦人のコメントがあって、どうしても名古屋の田舎臭さが好きになれないということだった。そういう感覚こそ田舎臭いというのが分からない都会人という気もするんだが、名古屋人が東京に出て、名古屋も都会だからと思っていたが、少し名古屋より都会で驚いたということだった。そういうのは分かるが、しかし当然慣れるだろう。他力本願で良い悪いに振り回されるような人間にしあわせなど訪れまい。
 さて、それでも名古屋で朝飯である。実ははるか以前のことで、本当にそういう習慣を知らなくて、ビジネスホテルで朝定食を食おうと思っていたら、店員さんがどうしても定食ですかという。モーニングがちゃんとありますよ、ということなのだ。僕は「?」という顔をしていたに違いないが、じゃあ、そういうことで、という感じで引っ込んでしまった。そうしてコーヒーかなんかが先に出てきて待っていると、焼いたトーストに小倉あんのべったり載ったものがサラダと茹で卵と一緒に出てきた。これを驚愕といわずなんというだろう。トーストはかなり厚く、二枚で、そうしてその二枚ともあんが塗られている。最初から何の断りも無く。確かもう一人誰か居たはずだが、お互いに名古屋人ではなく、ほとんど声を失って呆然とした。なんだろう、これは。そうして初めて周りの人間がこれを皆食べていることに気付いたのだった。この感覚は何と言ったらいいだろう。本当に別の惑星に降り立ってしまったというか、そういう疎外感である。今更誰に何と説明を求めていいのかさえ分からない。僕らは二人でこれは(小倉を)剥がして食うべきかなどと相談しながら、しかし若かったので格闘しながらも食べてしまって、まあ、拷問というほど苦労したわけではないが、コーヒーのおかげで流し込むことは出来たのだった。(たぶん、つづく)。
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甲子園独自の神聖な匂いとは

2015-09-27 | 雑記

 甲子園球場というのは、ずいぶん神格化された場所のようにも思える。日本では高校野球が格別な人気があることもあるし、野球はなんだか普通のスポーツとは別のものと考えている人が多いような気さえする。地区ごとの代理戦争というのもあるが、何か神事めいた気分さえ漂う。それはあたかも相撲のことを国技と思っているような感覚に近いものがあるかもしれない。そういうところだから、球児でなくとも甲子園球場に行くことだけで、何か異様な興奮めいた気分になるのではあるまいか。
 高校球児であるなら、甲子園に行くというのは、地区大会を勝ち抜いて、全国大会に行くことである。もちろんそれでもたいしたことには違いないが、野球だから特に難しいことであるというのは、恐らく幻想である。もっともあまりにマイナースポーツ過ぎて、その地区にたいした予選のない場合もあるかもしれないが、力の入れようであるとか、お金の問題であるとか、はたまた選出の質や監督などの要素がそれなりに絡むと、勝ち抜けるということにほかのスポーツとの差は無い。差があるのは、その熱狂的な気分ということだ。確かに日本にこれほどの野球人気が無ければ、他のスポーツももっと発展したはずであるという話は聞いたことがあるけれど(それほど多くの才能が野球のためにつぶれているということらしい)、やはり良く考えると分かることだが、だからといって他のスポーツが国際的に劣ることとは直接的には関係が無い。日本人がいくら野球が好きでも、日本人のプレイヤーが、特に国際的にぬきんでて優秀な選手が多いわけでもない。人口比で考えると、これほど多くの人間が野球をやりながら、世界的トップは比較的少ないという結果にさえなってしまいそうだ。身体能力の差もあるが、むしろ野球はあまり日本人の体に合っていないスポーツかもしれない。
 話がそれてきたが、そのようにして神聖な甲子園球場に行くことの高揚感は、高校球児にとってはまさにスペシャルな感慨のあることだろう。
 元PLで元巨人軍の投手だった桑田真澄が、やはり甲子園の思い出を語っていて、その興奮ぶりを思い起こしていた。彼は高校時代に甲子園で20勝もあげた偉大な投手だ。甲子園のマウンドに立つと、いろいろな匂いがするのだという。もちろん土の匂いや、その他ということなんだが、そういう中でも独自なのは、ソースの匂いなんだそうだ。
 神聖な場所とソースの匂い。やはり甲子園は関西にあるんだな、と思ったことだった。
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幽霊は夜空に輝く

2015-09-26 | Science

 天文学者ハーシェルは、父ウイリアム、息子のジョンと、それぞれに歴史に名を残すほどの功績があった。
 ジョンが幼いころ父ウイリアムに、幽霊はいるのか訊ねた。
「確かに幽霊はいるかもしれないが、それは人の形をしているとは限らないよ」
 それでは幽霊とは妖怪や化け物のように、様々な姿をしているのだろうか?
 さらに父ウイリアムは星空を指さして、
「この星々はそれぞれ太陽のように大きな星だが、遠くにあってあのように小さく見える。さらにあまりに遠いので、何万年、何百万年、またはそれ以上の時間をかけてその光が地球にやってくる。そうすると、今輝いている星は、すでに寿命を終えて星としては存在していないかもしれない。要するに多くの星は、幽霊みたいなものなんだよ」
 いかにもそれでは息子は天文学者にならねばならない。という気がする。これも教育だが、幽霊がちゃんと形を持って見える世界が科学ということになる。幽霊は科学では証明できないというのは、だからまったくの誤解か嘘である。現に誰しも幽霊は目にしており、そうして希望すれば、かなりのその幽霊の正体まで知ることが出来る。
 オカルト好きはだから、普通に科学になじんでいけば、同じように歴史に名を残せるかもしれない。
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変態はわりに理屈っぽい   H・K変態仮面

2015-09-25 | 映画

H・K変態仮面/福田雄一監督

 正義感の強い刑事だった父と、SM女王さまの母との間に生まれた青年が、その血筋と正義感ゆえに、女性のパンティを顔面に被ることで快感に目覚め、その変態の力で超人化する。そうして街の正義のために戦う、というか、クラスメイトの女の子の気を引こうと奮闘するというか。
 設定や展開は、まあそうかな、という感じでそれなりに納得はいく。面白いと言えば面白いが、それは主人公を演じる鈴木亮平の誠実ながらマッチョな肉体という功績が大きい。要するにギャップの楽しさなのだが、そういう彼だからこその苦悩というのが全編にわたる見どころで、まあ、超人になれるんだからいいとして、しかし変態であることがばれるのも嫌だし、変態自体への自分の傾倒ぶりや戸惑いも楽しいところだ。
 最終的にはさらなる真正の変態があらわれ、危機に陥る。僕なんかはだからといって相手が強いならしょうがないじゃないかと思っていたのだが、その変態度の強さが、超人としての強さとは何の関係も無い、と気づいたら、強さを取り戻すというバカっぷりにはそれなりに感心した。変態が理屈で成り立っているところは、恐らく僕らに対するサービスのためだが、そうした変態への共感への呼び込みだとしたら、あまり納得させられてもいけないのかもしれない。もっともだから変態というのは実は紙一重の差に過ぎない現象だというのはよく分かるところで、ギャグだが啓蒙性もあるのかもしれない。もっともやはり表に出せないから苦悩が深く、さらにひょっとすると快感も深いとしたら、啓蒙があったところで相対的な数は増えないのかもしれない。それはそれでどうでもいいことではあるが…。
 しかしながらちょっと納得がいかないという部分も無いではない。変態どうしの戦いにおいては、変態技で攻められた方が快感が強まって、実は相手のサービスになってしまうのではなかろうか。お互いにサービスしあって昇天するというのであれば、それは大変にハッピーなはずである。しかし勝敗がついて、一方の変態が滅んでしまうのは、ちょっと展開としてどうなのだろう。敵対はしていたかもしれないが、得難い仲間でもあるはずだ。また実のところ共感しあっている部分だってあるはずだ。それは立ちはだかる恋があるということなのかもしれないが、常人には理解されない苦悩があるからこそ、変態は変態であり続けられるのではなかろうか。
 変態が蔓延して、もっと周りの人間が困ってしまったり、また、やはり変態が嫌悪に包まれて、正義なのに誰にも理解されないという展開がもう少しあっても良かったのではないか。そうであるから変態は苦悩しながらも快感が止まらないということの方が、僕としては楽しめたような気もする。変態でないヒーローだって、そのような超人である苦悩はたいして変わりが無い。だからこそヒーローはすべて変態の擬態のようなものである。そういうことがちゃんとわかるというのは、ギャグ映画にありながら貴重なことである。個人的に特におかしく盛り上がる作品ではないけれど、普通の感覚としてわりに良くできている作品なのではないだろうか。
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だんだんと一人焼肉

2015-09-24 | 

 結構若い夫婦などが、小さい子供を連れて焼肉屋さんなどに入っている。それ自体は別に悪いことでは無かろうが、なんとなく以前は無かったな、という風景に思えるのかもしれない。子供が小さいころに焼肉屋に連れて行けなかったこともあるんだろうけれど、そもそもあんまり連れて行くような環境に感じていなかったというのもあるかもしれない。焼肉屋というのが今のようにあんまりきれいでなかったり(今でもきれいでないところはあるが)、何というかちょっと閉鎖的な場所だったという感じだろうか。また最初から焼肉屋に行かないこともないが、飲んだ〆で焼肉に行くというのもある。そういうことの合う店というものと、若い家族というのが、あまり見かけない風景なのだろう。
 若いころにはよく焼肉屋に行ったように思うが、しかしそんなに金を持っていたわけではない。誰かが焼肉に行こうといわない限り、自分からはとても言い出せない、という気分はあった。焼肉屋に一度行くと、その月は少し苦しい。そういうことを覚悟の上で気合いを入れていく。あんまり気合を入れ過ぎてもどうかと思うが、散財するのは分かっているので、もうやけくそである。お金を持っているときもあるし、誰かをあてにしていることもある。おごってもらうのは普通は嬉しいかもしれないが、僕はひねているので、おごってもらうのは楽しいわけではない。気を使うので(ようには見えてなかっただろうけど)、落ち着いて食えない。まあ、妙な先輩がいて落ち着きすぎるのもどうかという意見もあろうから、それはそれでいいけれど、特にくだけた焼肉の席でありながら、しかしそれなりに高価であるというのは、そんなに面白いわけではない。体育会系の飲み会というのはこういう場所が多くて、まあ、やり過ごす場所なので、早く終わんないかな、とも思っていたようだ。
 さて、肝心の味の方なんだが、上ロースとかカルビなんかは確かに最初は旨くて、精神的に盛り上がるのだが、やはり一定以上食ってしまうと、どっかりとこたえてくる。食いしん坊のくせにこれがちょっとつらい。ビールや焼酎の水割りで流し込むが、かなりムカムカしてくる。焦げた野菜に気が付くように箸を伸ばし、何とかやり過ごすが、ふだんはあんまり食わないセンマイなどをしみじみ食ったりする。最近のホルモンは非常に油が多くなったが、ちょっとしけたホルモン程度なら、このムカムカを治す程度には食べ続けることが出来たようだ。
 ところで一人で出張なんかに行って、ごくたまにだが、一人で焼肉屋に入ることがある。カウンターには僕のような一人焼肉男というのが結構いるんである。近年はこじゃれてこぎれいな焼肉屋というのはあるんだが、カウンターに小上りがあって、ほとんど地元民というところも無いではないが、しかし、労働者風やサラリーマン風の野郎が並んで、一人でホルモンなどをつついている。焼肉屋は一人でも割高なんだけれど、これをボチボチつつくというのが、それなりに満足度が高かったりする。団体さんが大声で話をして盛り上がっているのをしり目に、一人で黙々ボチボチと肉を焼き、焼酎などを飲む。そんなに長居をするわけではないが、肉を食うペースというのが自由であると、ちょっと食い過ぎてももたれないような気がする。まあ、残ったらもったいないと無理して食うようなこともないではないが、特に誰かを気にすることは無いので、気持ちを切り替えることも可能である。問題は、そういう焼肉屋というのは、アウェイでは案外見つけにくかったりするということかもしれない。
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自然と生きる人が自然をも維持している

2015-09-23 | 境界線

 僕の職場でも農業の端くれのようなことはしていて、僕はあんまりかかわっていないとはいえ、しかし日常的に自然と接する機会は無いではない。里山の環境にあって、しかし近年本当に危機的に思えることはいくつもあって、その中の一つに野生動物との共存問題というのがある。僕ら側の視点からいうと、農作物の被害が年々ひどくなっていくのが感じられるということだ。普通に散歩をしていてもイノシシの姿を目にすることもあるし、実際に何度となく怖い思いをすることがある。イノシシというのはなかなか崇高な存在ではあるが、何しろ力が強いので、破壊するのも凄まじい。以前なら仕事帰りの車のヘッドライトに、タヌキやウサギが時折飛び込んでくることがある程度の微笑ましさがあったのだが、そのイノシシの被害たるや笑い事ではないレベルで、まったく悲しいやら腹が立つやらする人間を、本当に日常的に目の当たりにする。しかしながら彼らも生きているのは確かで、人間が何と言おうと責任があるわけではない。恐らく人間の側の都合が変化し、そういう中での環境の変化が、彼らの行動にも影響を与えているということなのだろう。
 もともと日本においての野生動物と人間の境界は近い。境界線はあいまいで、むしろ共存関係にあったという見方もできるのかもしれない。しかし人間が手入れをする里山においては、やはりそれなりの境界が存在できていた時代があり、今はそれを維持することが出来なくなった人間の都合があるということだ。
 温泉に入るサルがいるのは微笑ましいニュースになるが、そうして集まったサルたちが畑から作物をとって食べると問題になる。いっそのこと観光をとって食べさせるという手段もあるかもしれないが、その場合の人間の側の経済的配分は難しかろう。
 しかしながら野生は野生である。人間が手を加えて作物を与えられるような環境になると、その個体数は安易に増えていくだろう。そうするとさらにテルトリーは広がることになり、多くなった個体を維持するために、また里山に侵入せざるを得ない動物も増えるとも考えられる。
 実際に自然の厳しさは大変なもので、多くの野生動物は、微妙な生態系のバランスの中で、自然では個体数を減らしていくものが多い。北海道は冬の厳しい環境の土地がたくさん残っているが、そういう中での貴重な絶滅危惧の生物たちは、逆に人間の営みとのバランスの中で、その個体数を辛うじて確保したり増やしていったりできているものがある。タンチョウがそうだし、オオワシがそうである。北海道で暮らす人々と、遠からず共存しているために、辛うじて絶滅の危機を脱しているとも考えられるのである。
 日本のこのような環境というのは、そういう意味でも確かに貴重なものである。人間も煎じ詰めると野生の生き物だったはずで、しかし安易に他の生物の環境を破壊しながら拡大繁殖をしている存在だ。そうではありながら、少なからぬ境界にあって、その境界の人々の暮らしが、奇しくも貴重な生物との共存の見本を示している。恐らく他の国の境界でも同じような境遇というのはあるのだろうけれど、それらを含めて、自然と暮らす人間が一定の役割を果たせることに、多くの人の関心が集まるべきなのではないだろうか。
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食いたくなるお話いくつか

2015-09-22 | なんでもランキング

 壇流クッキングで思い出したのだが、小説などを読んでいて、むやみに腹が減るということはある。作中に食事の場面が出てきて、それが効果的に食欲をそそるということである。日本の作家だと池波正太郎が有名だが、確かにその通りでなかなか旨そうだが、ちょっと通というか、大人という感じがする。じゃあ子供っぽいのがいいのかというとそういうことでもないのだが…。思い起こそうと思えばたくさんありそうで、小説じゃないけど東海林さだおなんかを読むとフラフラと大衆食堂などに入りたくなるし、椎名誠なんかだとバーベキューなんかを集団でハグハグ食いたくなる。

「都市生活」(「君のためのバラ」(新潮文庫)収録)池澤夏樹著
池澤夏樹の小説にも、食べ物というのはわりに効果的に出てきているように思う。結構海外にいるような場合が多いようで、料理も日本的なものが少ない感じだ。「都市生活」では牡蠣とケイジャン・チキンである。牡蠣の方はかなり美味しそうに食べることが出来たが、チキンの方はちょっとしたアクシデントというか、食事中にある出来事があってしばしお預けを食ってしまう…。しかしこれはそんなに後味まで悪いわけではない。最悪だった気分が、なんだかフッと心が軽くなるような名短編である。

ロバート・B・パーカーの一連の著作(ハヤカワミステリ文庫)
 おなじみスペンサー・シリーズでは、旨そうな料理がたくさん出てくる。スペンサーは料理が得意らしく、手慣れた感じでさっさと料理を作る。作りながらビールを飲む。彼女のスーザンは素晴らしい女性だが、料理があんまり得意でないようだ。そのこともスペンサーには好材料であって、嬉々として自分の手料理をふるまうのである。
 村上春樹の小説も、時折主人公がビールを飲みながらサンドイッチやパスタなどの料理を作る。ハードボイルドとは違う描写かもしれないが、なんとなくスペンサー的な感じもする。でもまあ、そういうことは他の誰かが指摘しているはずだよな。

「料理小説集」村上龍著(集英社)
 これはずいぶん前に読んだのでうろ覚えだし、本棚でもちょっと見当たらない。でもまあ僕はまだ子供だったはずで、しかしこの小説の大人っぽい感覚の料理には憧れのようなものがあった。村上龍は、妙にエロティックなものが多いのだが、そういう部分は子供の僕にはそそられないのだが、大人になったら食ってみようかな、という感じだ。うまく言えないけど、龍の小説に出てくる料理というのは、驕ってもらうのではなくて、自分で金を払って食いたいな、と思う。もちろん村上龍はセックスとの関係を意識しているはずで、別にフロイト的に何でもセックスということでは無いにせよ、快楽において共通があるせいなんだろう。

「鮨 そのほか」阿川弘之著(新潮社)
 これは特に旨そうということでは無い。ちょっと妙な話なんであるが、寿司が残るとたいそうもったいない気がする。しかしながら捨てるのもどうか。実は僕はいまだに無理をすれば相当数の鮨ぐらいは腹におさめることは可能である。できるけどそうしたくない。そういう気分というものと、年を取ってもう食べられないというのも、関連は無いが分かるような気がする。そうして残った鮨はしかるべき人に食べてもらいたい。この小説では、絶好の相手を見つけることが出来た訳だ。そういえば最近阿川弘之は亡くなったというニュースがあった。特に影響を受けた覚えはないが、ご冥福をお祈りいたします。
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買い物で歩く

2015-09-21 | 散歩

 雨が降ったり、日中暑すぎたりするのに無理に歩いているのは気が引ける。誰に気を使う訳ではないが、自意識が強すぎるせいでもないと思うが、そうやって歩数をだけを稼いでいるみたいな気分になって、そこまでするのか? という疑問が自分自身に浮かぶせいではないか。以前なら商店街アーケードを行ったり来たりしても良かったかもしれないが、変に知り合いがいるかもしれないというのは落ち着かない。ショッピング・モールを歩くという手もあるが、これもなんだか飽きるものである。買い物の行き場所にいくつも寄って、ドラッグストアとかスーパーなんかをハシゴして、そうして結構ぶらぶらしたな、と感じても、結局普通の散歩ではないから、たいした歩数には達していない。苦労の割には実を結ばないという感じで、やっぱり外を歩いたほうがいいように思う。合羽とか日傘でも買うかな。
 僕はほとんど買い物もしないし、ましてや料理もしない。一人暮らしだったこともあるので、まったく料理ができない訳ではない。夜の食事だと結局飲んでしまうので、片付けが適当になる。衛生上あんまり好ましくないので、出来るだけ捨てられるようなものしか買わなくなってしまったように思う。また連続して料理するようなこともあんまりなかった。要するにたいした腕でもないし、時間をかけるのも面倒だったので、いろいろと断念してしまっていたように思う。
 今では料理番組はよくテレビで眺めている。そもそもだが、一人暮らしの時に壇一雄の「壇流クッキング」を読んだのが大きくて、これは大変に参考になった。文章が面白いというのが一番なのだが、その料理の手順やら調味料の配分なんかが適当で、非常に簡単そうに思える。実際にやってみると、やっぱりいろんなところがよく分からないのだが、まあしかしなんとなくそのようなものは出来てしまう。濃い味のものはそんなに感心しなかったけれど、まあ、たいていの料理は口に合った。というより、自分で作るものは誰にも文句が言えないので、それなりに食うことが出来ただけかもしれない。
 そういうことなんだが、料理はともかく、買い物をする必要がなくなった現在でも、買い物で何を買うのか考えるのは実は結構楽しいのである。出張中など、買ってもどうしようも無いのに、時折スーパーに寄っていろいろ眺めている。地域で売っているものが微妙に違うし、場所によっては結構なお値段のものを売っていたりして目を見張る。そういうところは主婦の恰好が少しハイソであったりして、一人で納得してしまう。しばらくそういう何も買わない散歩をして、会議に参加する。お互い遠くからやって来ている仲でありながら、僕の方がちょっとだけ地元民に近いような感覚があって、あんまり緊張しない。不思議なものだな、と思うのである。
 ということで何も買わない買い物客だけど、見かけても知らんふりお願いいたします。
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日本のゴルゴ13を知っているのではないか?   反撃

2015-09-20 | 読書

反撃/リー・チャイルド著(講談社文庫)

 今回はリーチャーがシカゴの通りを歩いていると、足を怪我しているらしい若い女がクリーニング店前で服をもったまま転びそうになり、それを助けようとしたら、そのまま二人とも誘拐されてしまうという展開。武装した3人組に捕えられたとはいえ、殺人鬼リーチャー1人だったら何の問題もなく逃げ出すか三人とも殺してしまっただろうけれど、足をけがした女に被害が及ぶのを恐れて一緒に捕えられたということなんだろう。しかしながらその判断で、状況はどんどん悪化して武装軍団の組織の中に捕えられるということになってしまった。そうしてことは国家的な危機にまで発展していく。
 前作のキリング・フロアー(さらに映画のアウト・ローも観てるし)も読んでいるので、いかにジャックー・リーチャーがスーパー・マン的に圧倒的に強いかは知っている。そういう訳でちょっともどかしい展開だけれど、いろいろ勘違いも続いて判断を何度も誤ってしまうところが愛嬌で、しかしちゃんとゴルゴ13になって活躍して溜飲を下げるという展開である。パターンは呑み込めているので、ちゃんと恋愛とセックスがセットになっていることも確認。欲張りな娯楽だとは分かっているが、さすがなんである。将軍や大統領も出てくるし、悪人はとことん残忍で血がたくさん流れる。ちょっと残念だったのは、この悪党の大将が、比較的楽に最後を遂げたことくらいだろうか。あとはほぼ水戸黄門的に派手に展開して、後半は息もつかせないアクションの連続となる。ピンチに強がってもほぼお咎めなしなリーチャーは、さすがだなあと素直に感服できる。人によっては話術で簡単にだましてしまうし、追っ手の犬だって瞬時に手なずけてしまう。普通の人間なら200回くらいは死んでしまっていたと考えられるが、こうして恐らく続編まで元気でおられることだろう。
 まあとにかく娯楽作としてかっこよく、楽しい作品である。恐らくだけれど、前作よりもスケールをでかくしようと少し無理をしてしまった嫌いはあるのだが、絶望的な設定からどうやってそれらのピンチを打開するのかというのが大切で、そういう意味では、結構危ない橋を渡って、運のいいところは運よく乗り切れるところが、やはり面白いのではあった。今回もたくさんの人を殺すが、全部仕方のないことで、彼が本気なのだからしょうがないのであった。
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ゲイへの偏見がアメリカの正義をつくった(のかも)   J・エドガー

2015-09-19 | 映画

J・エドガー/クイント・イーストウッド監督

 米国のFBIという警察組織をつくった長官である人物の伝記映画。いろいろと憶測や逸話のある人物で、日本人には馴染みは無いが、米国では良く知られた人らしい。そういう人物の憶測を省いた事実として明確にされている部分だけを抜き出して描かれていることに、不満の声もあり、しかしそれでも十分に怪しい人間像が描かれている。
 まず第一に言えることは、このエドガー・フーバーという人物が、かなりの偏向した思想(反共主義)を持っているばかりでなく、強欲であり、コンプレックスの塊であり、さらに盗聴を仕掛けて、多くの権力者の弱みを握って、その上で自分の権力を誇示しているようなとんでもない人間なのである。どうしてそのような人物なのかということの根本には、恐らく子供の頃からの性的な偏向(現在の視点からいうと普通のことだけれど、やはり以前の米国内での空気であると、あえて断っておく必要はあるが)のためと、そのことに激しく母から叱責をされる心の痛みや、ゲイである仲間の自殺などによって、自らがゲイであることにはしっかりと自覚しておきながら、そうして一生のパートナーと人生を共にしながら、性生活においては禁欲的に過ごしていたということがあるように見えた。要するに無理をしている訳で、社会的な偏見の中にいて致し方ない側面はあろうけれど、米国犯罪を取り締まる立場にあって、自分の偏向思想と権力に執着する一生をまっとうするのである。
 これをまた、ディカプリオという二枚目でありながら芸達者な若者が、醜い内面と表面的な姿まで見事に演じているところが複雑な心境にさせられるわけで、見事であるがゆえに実に嫌な感じなのである。僕は異性としてのディカプリオ・ファンでは無いから、特にどうということは感じないはずだが、しかし、コアなディカプリオ・ファンにしてみると、少し気の毒な感じもするような見事さと言っていいのではないか。何しろ愛すべきところが見つけにくく、最後まで悲しいまでに醜い。
 そのように誰もがあまり喜ばないような映画を作ってしまうところが、イーストウッドの凄さなのかもな、とは思った。地味なうえに、不愉快で、そうして後味もあんまり良くなく、多くの人が知っていた衝撃の事実などはほとんど扱わず、しかし悲しいのである。いくら演技が良くても、メイクでごたごたと老人になり切っている若者であるのは誰でも知っている。そういう過剰さも行き過ぎており、本当に少数の人の同情しか勝ち得ないのではなかろうか。だから目的はたぶんそういうことでは無くて、やはり、悲しい人物が、実はアメリカの根底を支えるような組織を作り上げてしまった事実の不可思議さを、考えてもらおうということなのかもしれない。何も崇高な正義感が、社会のありようを形成している訳ではない。このような邪悪な悲しさがあるからこそ、人間社会は歪みながらも成り立っているのではないか。少なくとも巨大なアメリカ社会というのは、このような積み重ねなしには成り立っていない。考えすぎかもしれないが、結局そういうことまで考えさせられる、変な映画なのであった。
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病的でなく既に病気の自覚をしよう   座らない!

2015-09-18 | 読書

座らない!/トム・ラス著(新潮社)

 副題は「成果を出し続ける人の健康習慣」。食べ物を選んで食べること。運動をすること。睡眠はちゃんととること。言ってることは以上の3点。それで200数十ページ語り続けるという芸といえる。それだけのことにしつこく言うことがあるのは、それだけのことが、人間には守りにくいということであることの証左であろう。いろいろ根拠もあるらしいが、それらはまっとうな科学的根拠であるらしいが、アメリカ人がいうと、ちょっと怪しくも感じないではない。まあ、それは原理主義的な愛嬌であるにせよ、特に間違っているというレンジではなかろう。特に三つを実践するにおいて、この本を読んだことで、一週間くらいは決心が揺らがないのではなかろうか。
 僕自身もこれらのことは実感として思い当たることは多い。僕は日本人で日本に住んでいるから、この本の状況とは多少の違いはあるにせよ、基本的には同じような環境にあるとは思える。食事においては、僕はあまり平均的な日本人ではないと思われるが、しかし周りにはコメを中心とした炭水化物が豊富に食事として目にすることが自然である。先日の宴会では、乾杯の後にすぐに五島うどんが出てきて、そのあとに刺身などの鉢盛。から揚げやてんぷらなど。おにぎりも出て、すり身などもあって、小鉢に酢の物。他にも何かあったが忘れた。会費は5000円程度だが、とても食べきれない。今ではありふれた当たり前の風景だが、多くの人はこの後にも居酒屋などで飲み直すようだ(普段の僕もその一人だが…)。
 飽食の時代なので、これらをいかに食わないかというのはやはり難しい。それはつきあいという名のいいわけであるにせよ、人間というのは目の前にある誘惑に、知らず知らずに負ける環境にありすぎるということだ。職場を見回しても、オフェスでありながらせんべいやクッキーなどのお菓子は常時テーブルの上に載っているし、時々カステラなどのお菓子も差し入れなどで出てくる。果物が冷えているし、アイスクリームも冷蔵庫に入っている。ヨーグルトやジュースも賞味期限が無くなるまで入っているし、スタッフの家族が家で作ったという漬物なんかもご自由に、ということで入っている。昼食時には持ち寄った食べ物のおすそ分けがある場合もあるし、パックの米も誰でも食べていいらしい。インスタント麺やカップめんなど、どこかの試食か何かでいただいたストックもある。味噌汁やスープのインスタントも戸棚に入っているし、イベントの残り物なんかもあるし、外出者がおみやげに回転焼きやドーナツや肉まんなども買ってくる。そうして給食の食事は出てくるし、弁当を食べる人も別に持ってきている。関係のない食べ物も多いけれど、食べようと思えばこれらはおそらく普通に口に入る可能性があるものばかりだ。選択も可能とはいえ、食べないことの方が罪悪が大きいかもしれない(皆さんが勧めてくれるシステムだ)。うっかり食べ忘れても近所にコンビニはあるし、車なら飲食店もそれなりにある。実際昼はそのような店を利用する人もいる。自宅に帰って食べる人もいる。改めて考えると、よくもまあこれでも腹が減るもんだということだ。
 食べるというだけでこれである。(多少はあるかもしれないが)特に特殊な環境でもなかろう。数えてないが、職場に椅子はイベント用も含めると恐らく200とは言わないだろう。僕がふだんいる部屋には七つの椅子があり。それらの椅子がすべて埋まることは年に数度のことだろう。そうして一日のうちどれくらい座って過ごすことになるんだろうか。書名にある「座るな」といのは、そのような環境を指している。通勤は車だし、駐車場から1分歩くだろうか。
 三つのうちまだもう一つの睡眠につてたどり着いてない。しかし、確かに既に長くなりつつある。要するにそういう本文だということだ。語ることは素人であってもたくさんある。しかしそれらは守られてはいない。結局本人がどうするか。シンプルにしつこく繰り返し注意を受けて、実践できるのは一握り。それが現代人の病理を表しているということであろう。
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夢破れた後の夢   インターンシップ

2015-09-17 | 映画

インターンシップ/ショーン・レヴィ監督

 一言で言ってしまうと、グーグルの広報映画。しかしながら、それはそうなんだけれど、ちゃんと面白のでそれでいいという感じ。グーグルは素晴らしいし、それを目指す人々は楽しいのだ。日本にはグーグルみたいな会社はたぶん存在しないけど、そうして恐らく多くの別の国々でも存在しえないけれど、そういう特権じみたことは、グーグルみたいにしかできないことなんでいいのである。なんで金を稼いでいるのかはほとんどわかりにくいけれど(ま、広報でしょうけど)、こういう楽しい環境だからお金が集まっているとしか言いようがない。考えてみると、実際に通帳にお金が振り込まれている場面なんてないわけで、まあ意図的であるかは別にして、そのようにして仕事ができるように、楽しいことがお金になるように工夫を重ねているから存在できる会社だということだろう。結果的に最初は何もできないような感じでありながら、実際にはかなり勉強を重ねて、そうしてかなりのスキルを持っている人しか社員にはなれない。(作中の科白にもある通り)アメリカにおけるアメリカン・ドリームはほとんど終わりだけれど、グーグルの社員になれるという夢においては、ちゃんとそのような考えは健在であるということのようだ。良かったですね。
 営業は得意だけれど、売っていた商品元の会社はいつの間にか倒産していた。家賃は払えなくなるし、彼女には逃げられる。相棒は無理に別の仕事に就くが、上司(社長)は下らない男だ。そういう中で一流企業のグーグルが、学生のインターンシップ(まあ、入社候補生の研修を兼ねた社員選別のようだ)を募集しているのを知り、ダメもとで応募する。箸にも棒にもかからないような中年男性二人だが、多様性をモットーとするグーグルの方も、ダメ元で興味を示す少数社員の意見で、試してみることにしたのだった。
 いろいろとごたごたがあるわけだが、営業で鍛えられた中年二人は、若き天才たちの中にあり、戸惑いもありながらだけれど人間関係を築くことには長けている。何しろ天才かどうかは知らないが、人間関係なんてどうでもよいというか、むしろ苦手な人ばかりが集まっている。どうにかまとまりを見せる個性的なチームを率いて、就職レースを戦っていく。
 いわゆるおとぎ話だが、恐らく実際のグーグルの社内で撮影され、そうして恐らく多くのグーグル社員がエキストラ参加している風に感じられる。学生のラウンジがそのまま会社になっているような場所で、グーグルカラーに塗られた自転車で移動し、食べ物などはすべてタダで、だべったり昼寝したりしながら、あれこれ楽しいアイディアを考えている。社内のクリーニングにシャツを出して、それを持ちながら次の会議に参加する。日常と仕事が混在している社会にあって、インターン生も入社をかけてなんとなく切磋琢磨しているらしい。
 自由すぎてほとんど遊びなのだが、これが社風であるというのは分かる。実は話題になっているので事前にそのような社風であることは知っている。面白い会社だからということで株価は勝手に上がる。利益がたいして出なくても、社員に利益を還元するとますます好感度が上がっていい社員が集まり、投資額も増える。そのようにして、自由な巨大企業が存在している。本当の内情などどうでも良くて、やはりこれがアメリカの夢なのだろう。
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プライドをどうする?

2015-09-16 | ことば

 僕は比較的プライドの低い男だが、ぜんぜん無いということでもないことが、厄介だと感じる。しかしながら一般的なプライドというのとは、ちょっと違った感覚かもしれないとは思うことがある。教育というのもあろうから、文化的な側面は当然あろう。男だから泣いてはいけない、というようなことは学校の先生からしか聞いたことが無いし、しかし男のくせにどうこうというのは、まったく聞かなかったことでもない。要するに男だからどうこうというのはあんまりなさそうだけど、男らしくないというのは少し傷つくかもしれない。まあ、比較的どうでもいいですけど。
 プライドが許さないので意見を曲げない、というのは無い。むしろどうでもいい問題であるとか、専門的分野であるとかなら、相手が間違っていることはそんなに気にならない。相手が間違っていても自分が正しいことが明確なのだから、まあ、どうだっていい。比較的専門でもなく、しかし微妙な問題であるのならば、少し頑張ってみようかな、という気分にはなる。分からない問題なら、議論を深めた方がいい。結果的に自分が間違ってたな、というようなものであっても、まあ、忘れてしまってどうでもいい。別にこれは間違いなのであって、僕の人格とは何も関係が無い。まあ、人格の方はたいしたものじゃないので、僕のような人間だから、どう思われようと仕方がない。馬鹿だと思われてもぜんぜんかまわない。相手が思うことを僕にはどうしようもない。僕だってばかだと思う人はおおぜい居るので、お互い様である。
 時々プライドを捨てるな、とか、プライドを持って堂々としろ、とかいうような言葉を聞く。実は、僕にはこの意味がよく分かっていない気がする。プライドを捨てなければそれでいいのは、どういう状態だろうか。プライドを捨てなくてみじめでも、自分にいいわけがたってしあわせなんだろうか。単に悔しいくせに、さらに悔しくはならないか。プライドも持たなくても堂々としている人はたくさんいるだろうし、プライドが高いからかっこ悪い人もたくさんいる。プライドのような変な感情に振り回されない人の方が崇高に見えるし、わざわざ自分をそんなに下に思うような立場まで下がる必要は無いのではないか。これらの言葉から感じるのは、そんな感じかもしれない。
 結局プライドの高さに重きを置くことに、価値を見いだせていないということだろう。そのような考えを捨てるような人にこそ、なんだかワクワクするような気持ちの良さを感じる。プライドはどちらかというと、ジメジメしたような、そういうマイナスの感情が見え隠れする。一人でいつまでもイジイジしているような、陰湿さを感じるのかもしれない。いっそのことそういうこだわりを捨て切れるような勇気があれば、それは大変に楽しそうだ。人間の一番の不幸は、プライドのような妙なこだわりだとさえ思っている。
 無くならないプライドのようなものをいかに減らせるか。そういうことさえ考えなくてもいいような自由さこそ、本当に欲しているものかもしれない。
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