カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

心はいたるところで発現している、かも   ダンゴムシに心はあるのか

2012-05-31 | 読書

ダンゴムシに心はあるのか/森山徹著(PHPサイエンスワールド新書)

 副題は「新しい心の科学」。題名の通りの問いにいかに答えているのかというのは、大方の予想のごとく「ある」である。ではその心のありようというのはどのようにして分かることなのか。それを著者は「未知の状況」における「予想外の行動の発現」に「心の動きの現前」があると考えるのである。
 なにやら言い方か難しいようだが、朝誰かに「お早う」と挨拶すると普通は向こうからも「お早う」と返ってくるだろう。それだけにも心を感じない訳ではないが、しかし例えば親しい人にもかかわらず返事が無かったとしたら、機嫌が悪いとか具合が悪いとか、自分が何かをしたのではないかとか(それとも単に寝ているとか死んでいるいうこともあるかもしれないが)、さまざまな相手の心の動きを感じ取ることが出来るのではないか。たぶんそのような予期せぬ相手の行動に、むしろ心の動きを読み取ることが出来るということのようである。
 ダンゴムシならば言葉を発しないので、いろいろな状況の中でダンゴムシがどのような行動をするのかというような観察を通して、ダンゴムシの心を読もうという試みである。そういうことを真面目にやっていて、なんだか少し大丈夫かな、という気がしないではないが、それがどうしてなかなか愉快であるばかりでなく、確かに心というのはそういうことかもしれないと、改めて驚くことになるのである。少なくともダンゴムシは、確かに未知の状況において驚くべき行動を発現し、物事を考えているらしいことを我々に見せてくれるのである。
 これはやり方の勝利というしか無く、なかなかあっぱれである。個人個人では、自分自身の意識の中に心という存在は確実に知っているにもかかわらず、現実には相手に自分の自明である心そのものの存在を証明することは難しい。心はあるものだけれど、簡単に証明できないものなのである。そういうことは普段はあんまり意識しなくても生活出来ているものだけれど、研究しようとするとなかなか厄介だというのは容易に理解できることだろう。それをおおよそ人間のように心を持っているのかどうかさえ良く分からないダンゴムシを使って証明していくのだから、面白くないはずはない。その上で、やはり心というのは難しい問題でもあるということを、改めて思い知らされるのである。
 僕は犬を飼っているので、彼女が何を考えているのかは何となく分かる。心の動きも頻繁に移り変わるのも、よく分かることである。当たり前に喜怒哀楽はあるし、騙そうとしたり誤魔化そうとしたり、いろいろ策略を持っていることも見て取れるようである。人間で無くとも動物には心があることは、そういう訳で以前から、それなりに意識してきたかもしれない。犬が特別に高等な生き物だからということではなく(これも人間の勝手さだが)、例えば豚や牛であっても、同じように感情はあるだろうと容易に想像できる。昆虫はどうだろうな、という感覚はあったから、今回は少し反省いたしました。もっともダンゴムシは昆虫では無く、エビやカニと同じ甲殻類ということも改めて知った訳だが。
 世の中にはこのような面白い研究をしている人がたくさんいるらしいことも、何となく分かった。そのようなアイディアをいろいろと試すことで、心の問題はだんだんと分かって行くことになるのだろう。厄介でむつかしいことも、(根気はひつようそうだが)楽しく理解できるように道筋だてて考えてくれる人がいるということなのである。理解する能力のある人が増えると、さらに研究もしやすくなることだろう。そういう意味でも、啓蒙書として大切な書物である可能性も高いのである。
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ちょっと不貞腐れていたが…

2012-05-30 | 感涙記

 今頃になって金環日食のドキュメンタリーなどを数本観る。改めてうらやましい限り。もともと部分日食しか見られないことは分かっていたが、その夢さえもついえた曇りと雨空に叩きのめされた天然現象体験だったために、時代に見捨てられた人間としてひねくれていたのである。25年ぶりとか900年ぶりの機会にこの体験ができなかった人間は、夢と希望を失って当然である。生きている資格すら無いかのような衝撃であった。
 ところでやはりそのうらやましい現象を体験できた映像は素晴らしくて、テレビの映像でもかなり感動的だった。今回は地球と太陽との距離が遠いということで見事な金環ぶりになったということらしい。ちなみに近いと皆既日食になったということで、実はこれの体験をしたいという思いの方が強いのだが(いわゆる暗くなるので動物が騒いだりして楽しいような気がする)、さて生きているうちにどこで起こるものなのだろうか。
 昭和33年の小笠原での日食観察の映像なども紹介してあった。当時はガラスに蝋燭の煤などをつけてグラスを自作したものらしく、皆片目をつぶってその黒い部分を使って観察している様子が映されていた。今回の観察映像などを見ると、恐らく学校などで同じグラスを配られていたというのも多かったように見えた。それはそれでいいが、このような準備をするものとは明らかに期待度は違うのではあるまいか。うっかり煤を触ってしまうなどということもやらかした子供もいただろうことも想像出来て、時代とはいえやはり観察の気分は微妙に違うのではあるまいか。
 部分日食なら今までにも数度見たことがあるような記憶がある。それぞれに日食グラスを自分で持っていたような記憶があるが、空を見上げて観察しているのはほとんど僕一人という感じが多かった。僕がグラスを覗いている様子を見て近づいてくる人がいるという感じで、あんがい日食というのはみんなあんまり関心が無いのかもしれないと思っていた。今回のような感じというのは、やはりかなり特殊な部類ではあったのだろう。
 今回の観測で、太陽の大きさがかなり正確に分かるようになったというのもトピックとして大きく報じられた。比較的近い星であっても、誤差が数千キロもあるというのがそれなりの驚きであった。今回は数キロまでの精度に高められたということらしい。
月の凹凸でも日食の見られる境界の予測にかなりの差があったことも分かった。NASAなどの予測より、近年の衛星データを用いた日本の研究者の予測の方がより正確だったことも証明されたようだ。太陽の大きさは変化しているという説もあり、今後も観測が続けられることにより、そのあたりの謎も将来的は解明されることにもつながりそうだ。
 多くの人が空を見上げたことによって、宇宙観測の技術が将来的に大きく飛躍する可能性も高まったのではないかとも考えられる。奇しくも日本では天体ブームというか宇宙への関心が高まっていると考えられる。イトカワ観測から映画(というか漫画も)の宇宙兄弟ブームもある。関心を持つ人が増えると、それだけ関心を持つベクトルも高まり、将来的にさまざまな謎にチャレンジしていく人間も出てくるというものだ。そのような謎というか、好奇心の尽きない舞台へ進んでいく人が増えることで、長生きする甲斐のある未来が保障されていくという訳である。今回の無念さは、そのような期待で帳消しするより無いではないか。
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最悪を描ききる傑作   チェイサー

2012-05-29 | 映画

チェイサー/ナ・ホンジン監督

 気持ちが悪いというか、結構恐ろしい。これはうっかり観るのは危険かもしれない。
 猟奇殺人というのは、犯人と被害者との関連がほとんど無い。従来の犯行の動機から怪しい人物を割り出すことが出来ない。単に彼等は人間を狩猟するわけだから、どのタイミングで獲物になってしまうかというだけの関係だ。殺すことが目的だから、いつかは捕まるということもあまり考えていない。大胆に行動していても、なかなか捕まるものではないのかもしれない。そうするうちに被害者の数は増えていき、悲劇の数も増えてしまう訳だ。
 もちろん警察の捜査もまずい。いろんな要素が犯人にとって都合の良い材料として積み上がって行く。いったい法律は誰のためにあるのか。権力から個人を守ることは大切なことだが、そのために運の悪い命が犠牲として積まれていく。本当のことを知るために様々な憶測と嘘と勘違いが混ざり、事態はどちらに転ぶかまったくわからなくなってしまう。映画を観ている方は真実を知っているが、演じている彼らにはそのことが分からない。偶然が犯人の意思とは別に、見ているものが望まない方向へどんどん展開していく不快さが、さらに目を離さなくさせていくのである。ほとんど最悪の気分なのに、観客を捉えることに成功しているという、ある意味でホラーの王道サスペンスかもしれない。
 悪人とは何か、善人とは何か。時折そんなような事を考えさせられる。犯人を追う主人公は、ほとんどむちゃくちゃな悪人のチンピラだが、しかしこの映画の純粋な善なのである。彼に頼らなければ、物語の救いは無い。次々に悪行を重ねているが、それは単に被害者を救いたい一心なのだが、しかし警察をはじめ様々な人が彼を妨害していく。その妨害を乗り越えるために、さらに彼は無茶な悪行を重ねていくより無いのである。このような不条理を描いた世界としては、本当に良く出来ていると言わざるを得ない。
 それにしても、最悪の運というのはあるのだろう。どう転んでも自分の運を恨むしかない。努力もするがことごとく報われない。必死になっているのに誰も助けてはくれないのだ。もちろん必死に助けようとする力もある。そのわずかな望みにすがってあるだけの力を振り絞って、そうして目の前の神は自分になんという返事をくれるというのだろう。
 最悪というものを物語にすると、このような映画になる。そうしてそれを娯楽として観る人間が居る。実は面白い映画だとお勧めするのだが、本当に気分は最悪なのである。面白いという意味は誤解を生むが、しかしこれはやはり、かなりの傑作に部類する娯楽作であることに間違いが無い。最悪の気分をどうぞ楽しんでください。
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現代的だが気持ちが悪い   ゴジラ対VSビオランテ

2012-05-28 | 映画

ゴジラ対VSビオランテ/大森一樹監督

 性懲りもなく何故借りることになったか記憶が無い。聞くところによるとゴジラ映画の中ではまともではあるが、興行成績があまり良くなかったらしい。そういう背景は実際に僕好みである条件はある程度満たしている感じもして期待大だった訳だが、特にマニアでもない人間にとっては、やはりそこまで見ごたえのあるものでは無かったような気もした。いや、確かにあんがいよく出来ている感じもするし、面白くないとは言えない。しかしながらゴジラがジャンジャン街を壊す訳ではないし、いわゆる派手さというのに欠けるのかもしれない。
 原子力に対する人民の不信感もあることだし、遺伝子を操作することへの不信とテロとの絡みなどもあったりして、テーマや内容は極めて現代的である。というか後のハリウッドではこのような展開は様々な形で映画化されてきたようにも思えて、ゴジラが出ていないだけのテーマの先見性というものも見て取れる。まさかこの映画を参考にしたとは考えにくいが、そのような話の取りまとめはなかなか上手くいっていたのではなかろうか。
 特撮には時代を感じさせられるものがあるにせよ、かえって新鮮なところもあってなかなか良く出来ているとも感じる。いや、むしろ良く作ったり細工したりしてるなあというような努力が見てとれて、CGだと凄過ぎてかえって感心しないところまで感心して見てしまったりする。派手さが控えめであっけないところも無いではないが、その分安心して細部を楽しむ余裕があるというか。
 考えてみると僕は子供時代にもあんまりゴジラを見ていた訳ではない。たぶんそれは世代的にはざまに居たせいだと思う。最初の頃は生まれていなかったし、新しいシリーズのときは既に興味を失っていたのかもしれない。子供の頃には大魔神やガメラというのは覚えているが、ゴジラの方は再放送(たぶん)だったのではなかろうか。それにゴジラというのは正直言って少しオドロオドロシイところがあって、子供心に怖がっていたのかもしれない。実際にこの映画を観ても思うことだが、ゴジラはともかく、対戦相手のビオランテというのはかなり気持ちが悪い。植物だから相手から近づいては来ないのだろうが、特に見学に行きたくなるような相手では無い。ゴジラさんが相手をしてくれなければ、いったい誰がそばによるものだろうか。
 という訳で最後まで何故この映画を観ているのか思いだせなかったが、割合まともな映画を楽しんだという感じだ。それにしても人気が無かったということだから、何か人気のあるゴジラ像とは違うところがあったのかもしれないが、その検証はたぶん他の人がすることだろう。
 子供の頃に僕を引き付けなかったゴジラは、あんがいいい奴のような印象があって、今回もそのような感覚は付きまとった。そこらあたりが制作側のゴジラ愛というものが観る者に伝わってくるということなのかもしれないとは、感じたことだった。
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過去の馬鹿な自分の払拭のために   恋のから騒ぎ

2012-05-27 | 映画
heath ledger singing "cant take my eyes off you"



恋のから騒ぎ/ジル・ジェンガー監督

 今となっては亡くなったヒース・レジャーの初主演映画として紹介されることの多い映画だけれど、当時の米国では大ヒットしたにもかかわらず日本では劇場公開が見送られたからに他ならない。要するにまだ無名だったから売れないと決めつけられたということなんだろう。もちろん大変にヒットしたのは当然で、かなりロマンチックなラブコメの名作と言っていいだろう。この映画が好きだというのは何となく気恥ずかしいが、まあいいじゃん、と開き直ってしまおう。何しろ僕は少女漫画ばかり読んでいる少年時代を過ごしたので、これくらい甘いお話で無いと恋愛が盛り上がらないのである。
 いろいろと変なところはあるにはあるんだけど、学園生活というのはだいたい多少は変なところがあるものである。そういう中で夢を持って生きていこうとすると、このような漫画世界になってしまうのかもしれない。こんなことがあったらいいな、ということを現実化していくと映画らしくなるということだろうか。
 しかしながら、若いころの自意識過剰というのは、デフォルメがあるとはいえ、多くの共感があってのことではなかろうか。素直になれないのはたくさんの理由がある。それはお互いさまで、時にはそれが大変に大きなすれ違いを生む。そうするとさらに心を閉じることにもなりかねなくて、あんがい臆病なまま青春の終わってしまった人も多いのではあるまいか。その頃は本当に深刻だったのだけれど、あとから考えてみると、馬鹿らしいほどに大したことの無いことに意固地になってしまっていた。残念ながらもう取り返しは付かない訳で、返す返すも馬鹿だった自分を呪うしかない。せめて映画の世界で、その恨みを晴らすべき時もあるのではなかろうか。そういう過去の払拭には、まさにうってつけのラブコメ名作映画なのである。
 それにしてもやはり日本の高校生では、この世界観はやっぱりぜんぜん無理という気はする。第一車で学校に通うような環境の人間なんてほとんど無いだろうし、プロムという習慣もほとんど定着していない。パーティの風景もおそらくぜんぜん違うものだろう。少なくとも僕の時代にはまったく考えにくい世界で、映画の中でしか知らない世界なのである。そうではあるけれど、逆に映画やテレビドラマではそれなりになじみがあって、僕らはこの世界にあこがれていたようにも思う。多少前の映画だから現在のアメリカとはまた違うことも多いとは思うが、このようにして育った人間と日本人が違うのは、当たり前すぎるほど当たり前だという気がする。僕の子供の世代になるとひょっとしてこうなるかもしれないとは考えたことはあるが、現在においてもまったく世界が違うことには変わりはないようだ。自由ではあるが廃頽的な偉大なるアメリカ。日本人はいつまでもこの幻想を追いかけるより無いのかもしれない。
 勉強をしている息子たちの前で、この映画を一人で盛り上がりながら観た訳だが、結局彼等は食いついてくることは無かった。まあ、時代なのかもしれないですけどね。というか、単に邪魔だっただけなのだろうけど。
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「しがらみ」恐るるべからず   「しがらみ」を科学する

2012-05-26 | 読書

「しがらみ」を科学する/山岸俊男著(ちくまプリマー新書)

 副題に「高校生からの社会心理学」とついている。若い人向けに、特に空気が読めないかもしれないと心配して実社会に出ることが不安な人に対して語りかけるように書いてある。要は卒業しても学校の友人関係と何ら変わらないということと、世間のしがらみの構造や仕組みを解説して、だから何の心配もすることは無いのだよ、ということを説いている。まあ、確かにその通りで、心配することで妙にその考えに取り込まれない心構えということなのかもしれない。社会学の考え方を使うと、意外なことに世間一般に伝播されている社会というものでは無い日本社会というものを考えることになるようだ。
 卒業後の社会というのは、考えてみると確かにそれなりに狭いものではあるとは思う。学校の方が日常的に人と接する機会が多い場所かもしれない。もちろん学校という閉鎖空間だから、ある程度の限定ということは言えるが。しかしながらそうであるから、学校で生きづらかった人は、引き続きそれなりにつらいことは待っているとは言える訳だ。
 僕は高校くらいまではなんとなく学校はつらかったが、実社会は学校よりは幾分つらくは無いようにも思う。子供社会では特に問題を感じていなかったが、たぶん先生との折り合いが、最後までしっくりこなかった。大人になると、若造なりに鍛えられはするけれど、少なくとも生徒としてでは無い。むしろ学校より厳しくても、それは本当につらいことでは無かったようだ。まあしかし、学校なんて監獄のようなものだから、それも仕方が無かったとは今では思うけれど。お勤め機関も決まっているので、ひたすら我慢すればいつかは終わる。
 世間というしがらみは、誰だってつらいと思っているらしい。しかし世間が無いような社会は存在しない。それはいわゆる日本の世間で言われているような、日本特有のものなのでも無い。どこの国に行こうと、人間が住んでいる場所には世間がある。そうして、そういう世間の土台の上に社会というものが座っているという構造らしいのだ。
 進化論の話などはちょっと違うかもしれないとは思うものの、言いたいことは確かに分かりやすい。最終的に日本がどの様な社会になるのかというのは保留して、ある程度は多くの人々か望むように変貌するものなのだろう。僕は社会は必ずしもインセンティブを重視して動いていない(もっと複雑という意味で)とは思うけれど、著者の言うように、「心でっかち」なものの考え方で政治は動いているとは感じている。そうならないためには却って空気の読めない人が多い方が、望ましい社会構築が可能かもしれないとさえ考えている。空気を読むのはあんがい当たり前のことで、むしろ読めない人が少数だから外れる訳で、そのような人が一定以上増えることは、社会をより良くするには大切なことだと思う。
 僕はあんまり重要で無いと思うことは空気を読んで適当にやり過ごすが、少し大切だと思うことは、極力空気を読まないことを意識して行動するように努めている。努力のおかげで、だいぶ空気の読めない大人になることが出来てきたが、世間の風当たりは強くなるので、当然つらい人生だ。しかしながらそれは、家族や社会的な立場としての自分の責任のようなものなのである。最後は嫌われて野垂れ死にするようなら立派なものだが、正直言ってそれは怖いのでまっとうできないかもしれないが…。
 社会で生きていくので一番楽なのは、実は嫌なしがらみと親密に付き合うことなのだと思う。いや、それはつらいにはつらいのだけど、安心を得る代償なのだ。要は安心を放棄することが出来ると、そのしがらみから逃れることが可能になるということで、これは個人の能力ではかなり難しい領域のように思われる。人々がそのような選択が可能になる社会づくりが出来るのかどうかというのは、やはりそのシステムを根本的にいじるより無いように感じる。それを著者は信頼社会と考えているのだろう。
 もちろんそのことによって多くの代償を支払うことにはなるとは予想されるけれど、僕個人はおおむねその考えには賛成である。そして、おそらく現在はその過渡期にある可能性すらあると思う。今は政治的にその抵抗として激しく揺り動かしがなされているようだけれど、そういう時期を経て本当にウンザリしてしまいきると、ひょっとすると少しはその方向へ動かざるを得なくなるのではあるまいか。そういう意味で本当に、空気の読めない若者がたくさん増えるといいのにな、と心から願っているところである。
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匿名の僕と匿名で無い僕

2012-05-25 | net & 社会

 僕自身はものすごくありふれた名前を持っているので、僕が僕自身であるという確固たるものに、なんだか疑問を持っていた。いや、自分自身ではそれは明確に分かってはいるけど、それはその他大勢の中の一人にすぎないというか。いわば他人からの承認というものに、多少のハンデがあるような。
 自分の名前は、実際に匿名のようなもので、同姓同名の人というのは特に珍しい存在ではない。有名な人もあるし、もちろん無名な人もいる。試しにグーグルで自分の名前を検索すると90,300件ヒットした。
 たまにニュースなどで僕の名前の人が犯罪を起こしたりしている。知った人が気付いて驚くことがあるらしい。もちろん僕もそれなりにドキっとしてしまうが…。中国人の名前は二文字が多いから、同姓同名というのがものすごくたくさんいるらしい。時々間違えて死刑になったりするという、本当か冗談か分からないことも起こるらしい。まあ、それよりはましかな、などと自分を慰めている。時々同姓同名の知らない人の名前や本人に接することがあるけれど、何となくお互いに避けるというか話は弾まないものだ。そうして結局同姓同名の友人は、今のところ存在していない。
 しかしながら、ネット上ではやはり、僕のようなありふれた名前で無くとも、実際は本当に本人かどうかなんて分かりえるものではない。個人情報としてないがしろにしていいということでは決してないけれど、僕になり済まそうとしたり、僕が別の僕の名前で何かをしたとしても、ぜんぜん不思議ではない世界だ。当人であるよりも前に当人であるという前提を疑わないでいることの方が肝心で、本当は当人で無くともぜんぜんかまわないということでもあると思う。もちろんそれが不満である人が居たとしても。
 もちろんそんな煩わしいことを実行している人なんて少数(しかし確実にいるだろう)だろうから問題になりにくいだけの話で、リアル社会より少しだけ相手を信用してかかっているということもあるのかもしれない。だから面と向かって話しているより少し過激になりがちだし、遠慮というものがかえって無いのではあるまいか。勿論存在の質感の無さの問題でもあろうけど。
 そういう訳でこの世界においては、匿名性であるありふれた名前が、実際にはリアルになったりする逆転現象が生まれてしまう訳だ。普段の生活では匿名性と同居している僕が、ネットの中ではその匿名性に関係なく、僕として存在を信じられていると感じる。結局僕がブログでは名前がはっきりしていないのも、実際はそういう違和感なのかもしれない。FBではさらしているし連携もしているので、実際にはもうどうでもいい問題なのではあるけれど、何となくそのまま放置したままにしているのは、つまるところそういうことなのかもしれないです。
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本を読む力と方法   ミシェル・フーコー~近代を裏から読む

2012-05-24 | 読書

ミシェル・フーコー~近代を裏から読む/重田園江著(ちくま新書)

 読んだこと無いくせに何となく嫌っていたのがフーコーかもしれない。フーコーを語る人はなんだかカッコつけているというか、鼻につくところがあって敬遠してたということもあるかもしれない。そういう空気は確かにあるようで、フーコーは日本では人気があるけど、特に重要じゃないという話も聞いたことがある。妬まれるくらいカッコいいかと言えば、正直難解で歯が立たないだけかもしれない。試しに手に取ろうとしても、それなりに高価だし何となく敷居が高すぎる。しかしながら入門書なら何とかなるかもしれないというよこしまな考えもあったのだろう。本棚にあったものを何気なく手にとって、そのままフムフムと楽しく読めてしまった。正直言って大変面白い本だった。目から鱗もたくさん落ちる。基本的には愛の告白書というか恋愛解説といった感じで、フーコーの著書である「監獄の誕生」という一冊の魅力をひも解いたものだ。これで読まなくて良くなったのかは分からないが、なんだか読まずに満足してしまった。
 実は期せずしてかなりタイムリーな本だとも言える。僕は戦後生まれなので先の戦争の空気のようなものは知る由もないのだが、なんと、ひょっとするとこんな感じかもしれないと想像することも可能になる。大震災と原発事故から一年過ぎたということと、僕が九州に住んでいるという距離感もあるのかもしれない。そうしてやはり、何となく落ち着いていない日本という場所に住んでいる居心地の悪さの訳も、ひも解くことが可能なように思える。
 少なくとも僕はこの本を読んだことで、だいぶ精神的に救われるところが多かった。先に平時に生還した自分という個人と、いまだに右往左往する国家という権力が見えてくるように思えて、振り回されながら黙るしかなかったもどかしさ自体が、かなり緩和されたようにも感じた。別段僕を救済するために書かれた本では無かろうが、僕のように救われる人間も多いのではないかと思われる。少なくとも平時で物事を考えてもよいという当たり前のことが保障されたようで、意を強くしたということなのだろう。そうやって身の回りを見ると、それなりに当たり前の人も見えてくるので、知識というのは自分を助けるものなんだということが改めて有難いと思った。
 世の中には様々な恫喝がある。それはたぶん、多くの人が権力にすがりたいからなのだろう。権力の下僕になることで自分自身を救済したいのだろう。しかしながら個人がその生のままで生きていけるほど、世の中はやさしいものではない。多かれ少なかれその狭間の中で、人々は暮らしていくより仕方が無い。そうではあるけれど、じゃあ自分自身はその間のどこらあたりに位置しているのか。それが分かるだけでもずいぶんと生きやすくなるのではあるまいか。どのように生きるのかは自分自身で決めるより仕方が無いけれど、そういう解釈の仕方が可能になることで、見えてくる世界はまったく違ったものになるのではあるまいか。
 そのような見方を教えてくれたフーコーという人間がいて、そうしてその言葉をさらにひも解いてくれた著者のような人がいる。読書案内というものを読んで、これほど力づけられることなんてそうそうないだろう。他の本を読む案内にもなるので、ぜひ手に取るべき本の一つだろう。
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切り替えイベントの必要性   安城家の舞踏会

2012-05-23 | 映画
切り替えイベントの必要性
安城家の舞踏会/吉村公三郎監督

 撮影は敗戦の翌年から行われていたらしい。猛烈な食糧難だったことを鏡みると、おそらく腹ペコで撮影されたものだろう。失われてしまう豪華絢爛の世界を、精いっぱい無理して撮った労作ということになろうか。
 日本にも貴族が居たらしいことは歴史で知らない訳ではないが、恐らく実感のある人はそういないのではないか。皇族やお殿様や豪族のような人たちの一部が貴族となったのかもしれないけれど、西洋のそれとは、やはりなんだか違うような気がする。もちろん、階級等の身分の違いというのは、厳格にあった時代の方が現代よりもはるかに長いのだから、分からなくなった今の我々の方が、物忘れが激しいのかもしれない。しかしながら忘れてしまったものは仕方が無い。ましてや西洋風の貴族文化というものが、本当に日本に馴染んだものなのだろうか。現代にもセレブと言われるような人たちは存在するのだろうけれど、やはり貴族のような感じの人たちという感じはしないような気がする。実際そうした人達はどこで何をしているものだろうか。
 お話は面白くはあるのだけど、やはり原節子の言葉遣いというのはそれなりに不快で、彼女は安城家の中にあって比較的まともな人物らしく描かれているものの、言葉遣いのお上品さが、なんだかどうにも落ち着かない感じだ。人を気遣っているのだろうが、まったく煩わしく、もう邪魔しなくてもいいじゃないかというような、不愉快な立ち回りに見えてしまう。実際勝手にあれこれ画策し、ある意味でこの家庭を大いに揺るがしている。いや、結果的に守ろうとする正しい行動ながら、時にはかなり疎ましく思えてしまうのだった。
 しかしながらこのような嫌悪されるような社会にあっても、失われていくものは物悲しくも美しいという姿を、見事に表しているのも確かだ。皆身勝手で恐ろしく世間知らずで、甘ったれている。右往左往したり失望したり傍若無人になったりもする。しかしながら残された時間はもはやほとんど無い。自分の力ではどうにもならないところに来て尚、何かふんぎりをつけきれずにいる。それでも舞踏会をまだ開けるだけ余裕があるというのが不思議ではあるものの、とにかくそういうことになって、周りの思惑も複雑にからんで、複雑な一夜のドラマが展開される。
 世界中にはまだ、生まれて死ぬまで一度も働く必要の無かった、または実際にそうしなかった人たちというのはそれなりに居るものだとは思われる。平和な時代が長くなると、当然そのような人々は相対的に増えるだろう。しかしながら一定以上の割合までしか存在はしえないのかもしれない。一見うらやましい存在であるようにも思われるものの、はたしてそれはそうなのだろうか。このような舞踏会を開いて楽しい人々というのは、本当にそれが楽しいのならばいらぬお世話だけれど、やはりそれだけで悲しいようにも思えてくる。そういう世界から離れられないという思いに捉われてしまうことは、そうした特権を手にした人々の、最大の不幸になりえるものではないだろうか。もちろん逃げ切って一生をまっとう出来たものはまだいいが、ひょっとすると没落するのではないかという現実の可能性を少しでも思う時、彼らの心は平穏では居られないだろう。
 もちろん貴族で無くとも、人間社会に住む我々すべては、現在が未来を必ずしも保証しえない。それが庶民にとってはある意味で楽観的な未来でもある訳だが、富というものを持っている者にとっては、むしろ不安材料にもなりうるものだという気がする。もちろんそれは皮肉な構図を想像してのものではあるが。現実離れした夢のような世界であっても、儚いという時間の中での振る舞いであるというのが、持たないものである僕でも理解できる所以なのであろう。この映画の舞踏会のように、人間は切り替えることが出来なければ、未来を生きることはできないということなのであろう。
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名前という身近で未知なもの   名前のアルケオロジー

2012-05-22 | 読書

名前のアルケオロジー/出口顯著(紀伊国屋書店)

 名前は本当に自分だけの固有のものなのだろうか。そんなことは自明であり何の疑いも持たないという前提が、僕らの文化社会にはあるような気がする。
 日本の社会では、自分の固有の名前という考えを普通のことと思っているきらいがあるように思われる。ちょっと古いがゴダイゴの歌ったビューティフル・ネームは、一人ずつひとつと、固有の名前を賛美した。しかしながら名前には、実際はそのような固有というモノだけではない意味があることを説いているのがこの書物である。学術的な手法で描かれているので、多少難解なところやしつこいところも多いのだが、ある意味では丁寧に、詳しくその根拠を説いていく。目から鱗が落ちたり、あらためて膝を打つことになるだろう。そして、読み解きながら考えさせられることになり、なかなか面白いのであった。
 名前を付けるというのは暴力的なことであるという自覚は、たぶんほとんど無いだろう。僕は名前をつけたりあだ名をつけたりするのが好きだが、それはホンのささやかな遊びというかセンスを試すようなものと捉えていた。しかしながら考えてみると、名前を付けられた方のことを考えると、一方的に抗えないということも言えて、確かにそうだと改めて気づかされる。僕は小学校の4年くらいから眼鏡をかけていたので、当たり前に眼鏡君と言われたりした。言った奴はほとんど同時に殴りつけたりしていたので暴力メガネザルとも言われた。さらに殴って歯を折ってやったりしたので、生え換わりを助けてしまったものだ。まあ、子供心にだんだん慣れてしまったが、やはりあまり気持ちの良いものではない。メガネをかけているのは事実なのに腹の立つ自分が嫌だった。つまり名前をつけられる暴力に抗っていたのだろう。
 名前についてはカメハメハの歌が面白い。大王も女王も子供すべてカメハメハだ。それじゃあ困るだろうということでユーモラスなのだが、たぶんそれで困らないのだ。おそらく資産を継承するとか一族の仲間であるとか、いろいろ意味のあることなのだろう。その理由は省略するが、人間社会には本来的には個別識別のため以外にも名前の意味のあることの方が自然なのかもしれないのだ。
 この本で教えられるそのようなことの意味は、我々の常識的感覚がいかに他の文化に対して差別的な視線を生み出しやすいものであるのかということである。そしてそのことに気づきもしないで、安易に文化そのものを下げずんでしまったりする。非常に危険なだけでなく、愚かである。そうした考え方をエスノセントリズムというらしいが、確かにネット右翼などは(左翼もだが)安易に他国(や自国までも)のことを民意が低いなどと非難したりしている。まああれは意図的な暴力だからそうなのだが、そのように見えるという自分自身が無知なだけである。もっと平たく言うと、自分に対する馬鹿であるという告白である。
 なんでも世の中のことを知識として知ってしまうことは、その知識の膨大さを考えるとほとんど不可能にも思えてくる。しかしながらそのような姿勢は本当に知識を取り込むうえでは大切な考え方だと言えるだろう。最初から誤った偏見で物事を理解したと思いこんでしまうと、その先にある本当の理解の喜びに到達することは無いのである。
 知識というのは恐ろしいが、同時に大変に楽しい体験でもある。そのような世の中のある意味でひっくり返るような展開を、ぜひとも多くの人に体験して欲しいものである。
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屈辱の日は近いかも

2012-05-21 | ことば

 既にすっかり定着しているし、普通に耳にするようにはなってしまって残念な言葉の中の一つに、空弁(そらべん)がある。最初にアナウンスでソラベンと発音されているのを聞いた時には、かなりギョっとした。
 それは誰もが当たり前だろうが、学生時代(厳密には生徒時代だが)は弁当を学校に持っていくので、食べた後の弁当は空弁当、略してカラベンと呼ぶのが普通だったからだろうと思う。別に古いとか古くないとか関係無くて、中学・高校と弁当だったから感覚としてしみついているという感じだろうか。空になった弁当に箸が転がってカラカラなるし、そのような響きが何となくユーモラスな感じもある。家に帰ると「空弁当出しときなさい」と母親に注意される。もちろん別物だと言われても、それほど日常にあるものを強引に違うと言われる方が乱暴である。
 確かに空港の売店やおみやげ屋などでは、かなり前から目にしていたようではある。最初は空港の弁当だからクウベンという略なのかも(また、そのように言う人もいたんじゃなかろうか)とは思わないでは無かったかもしれない。それにしてもカラベンという言葉があるんだから、漢字で書くのはセンスが無いとしか言いようがない。少なくとも略すると買いたくなくなる。空のものを買わされるのは馬鹿にされているみたいだ(もちろん空ではないのだけれど)。
 そんなような話をしていたら、いや、そのうち全部給食や食堂で飯を食うことが当たり前になって、母親から弁当作ってもらうような子供はいなくなりますよ、と言われた。なるほど、世の中はそのような流れなのらしい。そもそも弁当を作ったことも無いような人間がブツクサ言うことでは無いのだろう。すんません。
 まあしかし、飛行機は利用しなくちゃいけないし、確かにうっかりソラベンと発音してしまう日が来るのかもしれないな。そんな屈辱的な自分になる前に、改心すべき時期にあるのかもしれない。
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悲しい生き方を強いられる人々   ばかもの

2012-05-20 | 映画
ばかもの/金子修介監督

 最初はポルノまがいの恋愛物語かと思っていたら、だんだん状況が変わって行き、アル中の残酷物語になって行く。意外性があると言えばそうだけれど、何となく現実の物語のように脈略が無いとも言えそうだ。それはそれなりのリアルさを出してもいるので、必ずしもマイナスではないのだけれど、ある程度の行きつく先に、二人の落ち具合を競うようなところがあって、残酷と言えばそのような、妙な達観の世界を形成している。主役の成宮の演技はいいが、内田の方はもう少し枯れた方が良かったかもしれない。いや、意外性ということでは悪くないのかもしれないが。
 このような悲惨さの元は、見ようによっては単なる性質に過ぎないようにも思われるが、しかしやはり展開上は、心の傷の原因は最初の恋愛にありそうな気がしないではない。絶頂から一気に突き落とされたも同然と言え、さらに酒を飲んだきっかけの経験でもあったことだろう。もちろんその複数が絡んで必然的になったかもしれないし、原因が無くなれば、別のことが生じたのかもしれない。
 アルコール依存症は、飲んでいない時は特に問題が無いので、知らない相手に分かりようが無い。そういうところが何より厄介で、日本のように差しつ差されつの関係を大切にするような酒飲み文化では、なかなか本人の意思のみでは、防ぐのが難しいと思われる。また、病気なのだからいつかは治るものだという考えもあるから、しばらく飲まずに居られたなら、また飲んでも平気になるものと考える人もいるだろう。もちろん稀ではあるが、治るような人がいるという話もあるが、しかし基本的には、一度アル中になったような人であれば、二度と飲んではいけないというのは、守るより仕方が無いようだ。
 そういう人は、いわば、酒と共存できない人類というしかないのではあるまいか。一方で多くの人は共存できる訳だから、住み分けるよりなさそうだが、しかし物理的にも文化的にもそのようなことが可能な世界を構築することが、そもそも難しいことなのである。最近は酒の席でも酒を飲まない人が混在して当たり前にはなってきたのだけど、酒を飲めなかったり飲みたく無かったりを許容できるようになってきたということではあるが、酒を飲みたいが飲んではダメを許容できるのかは、また別の問題のように思える。やはり欲しているが飲めない人が共存するのは、酒の席以外にしなければならないのではあるまいか。一緒に食事をするのは楽しいひと時の共有であろうけれど、アルコールが伴うとそれがままならない人がいるというのは、文化として理解する社会でなければならないのではないだろうか。
 さてしかし、映像的に実際を見せていないにせよ、やはりポルノと悲劇が共存している世界なので、誰もが啓蒙的に観るような映画では無いかもしれない。もちろんそういう主眼で作られた作品では無かろうが、アルコールの悲劇をストレートに表現できているからこそ、そのような警鐘に最適な作品だったようにも思えた。山田洋二の「おとうと」を観るよりも、この作品で恐怖を共感した方が、社会的には有用なことがあるのかもしれないと考えてしまったのだった。
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食うだけのくせにうるさいと嫌がられるぞ

2012-05-19 | 

 出汁を取らないでみそ汁を溶いても、かなり残念なみそ汁にしかならない。インスタントのみそ汁の方が、恐らく味は上だろう。そのような旨味の無い食べ物については、日本人の舌はかなり敏感になっていると思われる。それは自然に経験が培われている結果であろう。
 一人暮らしの調理の調味料で、重宝するのは麺つゆらしい。考えてみると出汁の凝縮版ともいえるもので、量さえ間違わなければかなりの使い勝手の良さなのだろう。時間短縮にもなるし、バリエーションも増えるし、その上味がよく仕上がる。もちろん一人暮らしで無くとも利用しない手は無いのだが。
 昔から蕎麦屋のカツ丼は旨いというのは定番である。しかし、それは考えてみると至極当然のことであるようだ。旨い汁を作らなければ蕎麦は活きない。そしてそのような汁を応用できるのが、蕎麦屋のカツ丼という訳だろう。もちろん親子丼しかりである。
 子供の頃には、まだまだカレーうどんのようなものは、ちょっと変わった料理というような事を言われていたように思う。僕なんかは子供だから食べるのだろうと思われていたフシがある。しかしながらこれも旨いのは当然のことで、出汁とカレーの相性は、もともといいのである。カレーうどんでうどんを食べ尽くして残った出汁も、かなり絶妙に旨い。カレーを溶く水を出汁にしてもいい感じになるのではあるまいか。
 結局旨さを実感するためには、油であるとか出汁等の旨味を利用するというのが合理的だということらしい。隠し味などともいうが、そういうのは意外なものというより、合理的なものというべきなのだろう。中にはなんでもマヨネーズとか、一味だとか、はたまた醤油だとかいう話になりがちだが、やはり組み合わせにさまざまな面白さが必要な気がしないではない。
 でもまあ、結局は作る人の腕で味が違うのも確からしい実感で、素直に僕は引っ込んでいるより無いんですけどね。旨い不味いの話とは腕と関係ないお気楽なものなのであります。
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子供をめぐる語感

2012-05-18 | ことば

 子供という言葉は複数形なのに、特定のものを指す場合もそのまま子供という言葉が定着してしまったという話を聞いた。なるほど。子といっても差支えないはずなんだけど、語呂というか何となくおさまりが悪いのかもしれない。この子であるとかうちの子という具合に一人を指していう場合はかまわないが、やはり対象を広く言うと子供というしかない気がする。少子化とはいえ、子供はたくさんいるものという情景は、そんなに大きく変わっていないのかもしれない。
 大人と子供という場合にも、大人には達をつけなければ、ある程度個人を指している(または個人の自覚とか)気がするのに対して、子供はやはり世間一般の多数を指していそうな感じがする。普段は何気なく使っているんだけど、なかなか不思議な言葉である。
 ただしかし、現代においてはかなり個人的な響きをも含んでいるにもかかわらず、相変わらず使用する単語が複数形であることで、何となくいびつさを醸しているかもしれないとも考えられて、そういうところが子供問題を語る場合、ある種の悩ましいものを生み出している可能性もあるのかもしれない。もちろん言葉だけの問題ではないにしろ、その複数形のニュアンスが、上手く当てはまらなくなりつつあるのかもしれない。
 子供の問題と言いながら、自分の子供だけの視点しか持たない感覚が随所に見られるように感じられて、僕などは早く引退したいなあ、と思うのかもしれない。いや、もうだいぶ大きくなったんで、ホッとしてるんですけどね。
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既にかなりシュールな日本の昔   お早う

2012-05-17 | 映画

お早う/小津安二郎監督

 戦後の新興住宅街という設定なのかもしれないが、何となく被災地の仮設住宅群という感じもしないではない。高度成長に差し掛かり景気もよいのだろうけれど、まだまだそんなに豊かでも無いということなのだろうか。古くからある長屋の延長のような感じなのかもしれない。
 それにしても人々は勝手な憶測ばかりして、そうしてそのような思いこみが錯綜して、また勝手に先走って行動を起こしてしまう。結果的にそれでよかったのかどうかもよく分からないし、なんだか非常に煩わしい。これもよく知らないことではあるが、やはり長屋の五人組みたいなものなのだろうか。迷惑を掛けないというルールを守るために(いや、それは規範というより道徳のようなものだろうか)かえって不自由を自らに課しているようにさえ見えた。これが仕合わせな生活なのか、今となっては疑問に思えるものばかりだ。
 封建制度も残っているらしい。いや、これは残っているというか、崩壊の糸口という感じでもあったかもしれない。威厳が無いではないが、既にあまり有効でなくなっている。たぶんこの時代でも古臭くなりつつあったということだろう。最終的に子に甘いことも露呈していて、それはこの映画の微笑ましさでもあるのだが、どちらかというと威厳の喪失の悲しさということにもなっているのかもしれない。
 坦々としているがコメディであることは間違いなく、何となく微笑む映画ということなのであろう。昔のことだからかなり距離を置いて笑うという感じなるのだが、やはりどこか不思議な別の国の物語のような気もしてしまうのだった。
 日本の過去って、本当に不思議なある種のシュールさがあるものである。僕の両親の子供時代よりはかなり後で、僕を教えていた先生あたりの子供時代といったところだろうか。彼らが大人になった姿はかなり知っているが、彼らが子供の時代はやはり、かなり僕らのものとは異質なもののような気がする。それは当たり前すぎるほど当然のことだが、しかしその価値観がかなり僕らのものとは相いれなかったことも、やはり当たり前だったようにも思う。皆同じような子供時代を送ってきた訳では無くて、世代によってそれなりに影響は違う。また、それもこのような映画を観ると、仕方のないことだったのだな、と改めて思うことなのであった。
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