カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

嫌だけど好きなところ

2013-07-31 | 雑記

 苦しいが好きだという矛盾した存在がサウナである。サウナの中では苦しくて仕方が無い。早く出たいが我慢している。でもまあ頃合いがあって、そろそろだという決断がついたら外に出て水風呂に入る。
 軽く洗面器で体に水をかけて汗を洗い流し、そうして水風呂の中に勢いよくざぶんと入る。実は冷たいのが怖いのだが、そろりと入るのはもっと怖い。仕方なくざぶんと入るしかないのである。
 心臓がドキドキして死にそうになる。実際にこれで死ぬ人もいるのだと聞いたことがある。しかしこの苦しい冷たさが、何故か爽快だったりもする。
 この矛盾した苦しみと爽快さを求めて、さらにこの行動を二度繰り返す。苦行をしている気分になるが、一度でやめるのはなんだか気が引ける。後を引くということかもしれない。しかし4度目くらいになるといい加減にしなくては、という気分になる。3回くらいでちょうどいいのである。
 サウナからあがるとビールなのだが、もちろんこれが旨いのだが、しかしやはり何かくらくらするような効き目がある。一杯飲んだくらいでろれつが回らなくなったりする。大変危険だが、そのうち焼酎に移行するようになると、少し酔いは衰えて元に戻る。
 戻るが急激に眠気に襲われることがたまにある。寝ないようにするのは大変につらい。いっそのこと目をつぶってしまえば楽になるのだが、そのまま寝ると深い眠りになりそうで怖いのである。実際に寝てしまうと、本当にぐっすり寝た気分になる。短くても深い眠り。サウナというのは、たぶん大変に体力を使うのであろう。
 疲れがたまって何もしたく無くなると、サウナに行くといいと思う。特に夏バテに良い気がする。もっとどうしようもなく疲れてしまって、深い眠りに落ちて、そうして回復する。違うかもしれないが、そんな感じがする。そうして本当には体に良くない気がする。
 体に良くない後ろめたさが、さらに気分を良くする。ひょっとすると長生きできないかもしれない。それでも年をとってもサウナに行きたくなるのではないか。もちろんその時にまた考えればいいのかもしれない。
 短くても元気になるのなら良いような気がしないではない。まあ、そういう気分に、サウナはなるということである。
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当たり役の複雑な顔   死を呼ぶジグソー・刑事コロンボ

2013-07-30 | コロンボ

死を呼ぶジグソー・刑事コロンボ/ビンセント・マクエビーティ監督

 これも違和感コロンボ作品。最初から死人が出るが、相討ちで死んでいるという状況。検察が「よくある」という違和感にも殺人大国ならではと納得しなければならないのだろうか。
 しかしながら、コロンボで無ければ、という前提に立てば、それなりに面白い話だったかもしれない。ばらばらのピースを集めれば金の在り処が分かる。冒険ものでもいいし、ミステリーでもいい。いろいろ人物が出てきて面倒なところもあるが、持っている人が複数なんだから仕方ないかもしれない。だんだんピースが集まってくると全部で無くても良さそうな感じもしないではなかったが、まあ、それでは残った人が残念なので仕方ないだろう。最後は少しごちゃごちゃしてしまったけど、何となくハッピーエンド。警察がそれでいいのかは分からないが、まあ、よかったね、ということかもしれない。
 こういう作品を見ていると、ピーター・フォークとコロンボという役に対しての苦悩が感じさせられることも確かだ。いわゆる当たり役でピーター・フォークと言えばコロンボ。コロンボと言えばピーター・フォークになってしまった。もともとピーターさんは芸達者な人で、さらに前衛的な作品を作るジョン・カサベテス監督(コロンボ・シリーズにも犯人役で出演している)との親交も深い。実際にコロンボで当たる前にも、さまざまな作品で個性的な役をこなす実力派であったことは確かである。絵も画家としての評価があるほどの腕前だったらしく、いわゆる芸達者の器用な人なんだろうと思う。そういう人が一生コロンボとして生きていかざるを得ない(というか、皆から期待されているのはズバリそれだけだ)というのは、それなりにつらいことだったのではあるまいか。
 この作品が異色なのは、コロンボがよれよれのレインコート姿でいる時間が少なく感じさせられるところかもしれない。アンダーカバー捜査のためにさまざまな人物になり済まして、人々を騙そうとする。またはコロンボとしての尋問では無く、秘密を聞き出そうとする訳だ。芸達者だからそれなりにいろんな役がそのまま様になっている様子がよく分かる。共演している奥さんからは簡単に見破られるという洒落はあるものの、基本的にはピーターさんはこのような演技を楽しんでいるように見える。
 そうではあるが、結果的にはコロンボがやはりいちばん様になっている。観ている方はそういう安心感があって、そのような七変化を楽しんでいるということだ。結果的にピーターさんもそのことは十分わかっており、そうして幾分悲しげにコロンボに戻って画面を閉じたという印象を持った。当たり役というのは役者にとって、そのようなしあわせと悲しみという両側面を持った恐ろしいものなのでは無いのだろうか。
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ばかされるほど偉くなりたい   きつねの電話ボックス

2013-07-29 | 読書

きつねの電話ボックス/戸田和代著(金の星社)

 先日笠井アナウンサーの話を書いた際に彼の履歴を覗いたら、そこでお勧めされていた絵本。いつの間にかクリックしていたらしい。
 何となく悲しい話だが、気持ちは分からないではない。きつねのお母さんが可哀そうです。

 きつねが化けるというのは本当だ、という話を聞いたことはある。まさか電話ボックスでは無いのだろうけど、昔は本当にばかされる人が居たんだとか。だんだんそういう人間と動物との距離が出てきて、今ではきつねがそんなことをしなくなっただけの話なんだとか。
 本当か嘘か、という厳密な話になると、たぶん嘘なんだろうけど、僕にはそういうことはホントだったんじゃないかとは考えるところがある。人間がきつねにばかされるのは、人間に自然の一部だという自覚があるからこそだという気がする。今はそんな覚悟を持ち合せていないから、きつねの気持ちのようなものも、当然まったく分からなくなってしまった。きつねには人間のような感情があるのかどうかさえ、もう僕らには分からない。昔はきっと、そういうことが分かるような人だって居たんだろうと思う。そうしてきつねにばかされる人がいて、それを笑ったり怖がったりする人々が自然に居たんだろう。たぶん、そんなことだったんじゃなかろうか。
 それでいいとも言えるし、やはり同時に寂しいとも言える。
 だいぶ現代風のお話だけど、それでも子供だったら、このきつねの気持ちが素直に分かるということも言えるかもしれない。昔の人と子供とはつながっている。
 要は大人の態度の問題なのかもしれない。ばかされるようなえらい人間には、努力してなれるものなのだろうか。
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勧められて観たと思う オリエント急行殺人事件

2013-07-28 | 映画

オリエント急行殺人事件/シドニー・ルメット監督

 だいぶ前に観たような観なかったような…。そうして観てみたがまったく記憶にない。それにしても今回もなんでこれを借りたのかさえよく分からない。誰かが勧めていたような記憶も有るような無いような…。
 キャストは豪華なんだが、お話は今となっては何となく地味な感じもしないではない。派手なアクションがある訳でもないし、トリックや結末は驚くべきものだが、いわゆる犯人が分かることのカタルシスという点では、たいしてそんなではない感じ。さらにバーグマンが地味だなあと思ったのだが、この作品でアカデミー助演女優賞をとったんだとか。派手な往年女優さんが地味に見えたというのが驚かれたのだろうか?
 なんとも変な話で変な人が多いという印象を受けたが、クリスティの原作モノである。変である方がまともということなのだろう。小説なら読むものを驚かせるので偉大な作家だが、映像化するとそういう世界観がどうなってしまうのかという問題がある。これだけ有名な話だと、解説などは読まない方がいい。かなりネタばれが出回っており、新鮮な感動を削ぐことになってしまうだろう。そうなんだけれど、言いたいという衝動が勝るというのはよく分かる。最終的にどんな話だったのかというのは、ネタばれしないと言えない面もあるのである。ああ、そういう話だったね、ということで知っている者同士なら楽しめるのだろうが、未見の人にはこれは暴力かもしれない。
 いわゆるよく出来た話である。ただ現実離れしているが、そんなことはどうでもいいだろう。悪いやつは殺されてしかるべきという倫理観も、まあいいだろう。現代だったらやはり描きづらい題材で、勿論このような味付けは不可能だったかもしれない。そういうもろもろを含めて楽しむべき作品の様だ。
 それにしても勧めてくれた人は誰だったのだろうか?
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目の前の事実を見ている人は、どれくらい居るのだろう   マネーボール

2013-07-27 | 読書

マネーボール/マイケル・ルイス著(RHブックス・プラス)

 映画も観たが、ちょっと気になってこれも読んでみた。文章がこなれていて一気に読める。やはり面白い本としてもかなりの水準という感じ。内容を知っている人は多いだろうけど、知っていても読んで楽しめないということは微塵も無いだろう。
 ビリー・ビーンという人物が面白いというのはある。友人にするには最悪だろうが、傍目には面白いだろう。その陰の苦悩も共感できる。実はものすごくえらい人だと感心もする。こういう生き方は憧れないが、素晴らしい人だ。そうして世の中を変えるというのは、こうでなければなかなか難しいということも良く分かる。
 日本のような社会ではどうか、などとも考えてみる。やはりあまり面白くなりそうにないから、最初から生まれえない人かもしれない。こういう分かりきった事が日本で分かっても、この人になりきる人が出てはこないだろう。誰かがやって成功しても、続く人がいなければ途絶える。そんな感じも少しする。つまりビリー・ビーンは二人必要だ。今のアメリカにはたぶん既に数人は居るだろう。そういうスピードの差があるように思われる。
 僕は日本の野球はほとんど見なくなった。特に高校野球は見てても途中で興味が薄れていく。理由はいろいろあるが、たぶん監督の采配が大きいと思うからだろう。チームは監督の持ち物、という感じが透けて見える。コマとして選手は戦う。そうしてその中にも教育的意味のようなものがさらにありそうだ。勝負の世界なのにめんどくさい。つまり面白く無くなるのだろう。
 さらに昔からバントが嫌い。ノーアウト一塁は決まってバント。そうして失敗したりする。バントは簡単なようでむつかしいというのもそうだろう。簡単にバントをさせる場合もあるし、いろいろさせない事をするチームもある。この駆け引きが面白くない。これも勝負と言えばそうかもしれないが、何となくせこいというか。
 バントをしなければ得点力があがることは、事実として誰でも知っていることである。今となっては別に意外なことでも何でもない。必ずそうなる訳ではないけれど、小学生チームからプロ野球に至るまで、強いチームはあんまりバントはしない。しかし本当にぜんぜんやらないと、それなりに話題になる。一時は注目を集めるが、やはりいつかは負ける。そうするとすぐに方向転換をしてしまう。野球好きはバントが好きなのだ。やっている本人たちがバントが好きというのがあるようだ。結局不合理でも今だに変わらない野球の姿勢の代表である。
 しかしながらアメリカだってそれは同じようなことだったようだ。この本が売れても、著者は激しく批判を浴びたようだ。事実が目の前にあっても、間違っていると言われる。多くの人は、本当に頑固なのだ。もちろん誰もがビリー・ビーンにはなれない。しかしそういう人が必ず混ざっていたり、消えていかないことが大切なのだ。おおよそ野球らしくない事でも、さまざまな方法で強くなれるということが大切なのだ。そうでなければいつまでもヤンキース。ヤンキース・ファンならまだしも、そうでない人も野球ファンだ。いろんな強さを楽しむ方が、多様性があって楽しいじゃないか。
 もちろんあんまり面白くならなくても実はかまわない。野球の試合は長いから、観ていると時間を奪われる。僕の残りの人生を、野球に奪われたくないのかもしれない。
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少数の高齢化問題に過ぎない

2013-07-26 | 音楽

 ラジオを聞いてたら、あるロックファンの悩みのような事を言っている。要約するとグリーンデイを家で聞いてたら父親から「40前にもなってまだそんなの聞いてんのか」と言われたという。そろそろクラシックとか他のを聞かなきゃならんのか?という反発心を覚えるということなんだろうか。
 しかしながら若いからロックというのは単なる偏見だから、それに捉われる事なんて最初から無かろう。父親なんだから、とにかく息子に何か言いたかっただけだろう。
 職場では僕より若い人がずいぶん増えて来た。何を聞いているのかは実はよく知らなかったのだが、当たり前だがロックを聴いているような人は今でも少数派のようである。何故なら僕の若い頃からだって圧倒的に少数派だったからだ。ロックはメジャーだといったい誰が考えているのか不思議なくらいだ。
 以前森博嗣が「小説読んでいるのなんてマイナだ」と言っていたが、小説もロックも、実は少数者の楽しみに過ぎないと思う。あの清志郎だって、(自分たちがヒットチャート・ナンバーワンになるのは)共産党が政権取るようなものだ、と言っていた。ロックが若者の聞く大衆的な音楽だというのは、単なる間違った偏見に過ぎないのだ。
 さらに特にロックという分野の最近の傾向でいくと、かなり高齢化が進んでいるという気もする。若い人は最初からロックなんて聞かないのではないかという疑いさえある。
 CD屋で買いものをしている時に店員と話をする機会があったのだが、彼の話だと、今やあなたのような中年男性しかCDは買ってくれないんですよ、といかにも寂しそうに言われたものである。まあ事情はいろいろあるが(そもそもダウンロードが中心だろうし)、ロックとは既に回顧主義的な趣味になりつつあるんじゃなかろうか。
 少なくとも昔若かった頃からの趣味が、長く続くというだけの話である。いわば習慣であって、習慣であるなら宗教のようなものかもしれない。それならやめられないのは当たり前で、年をとるからクラシックというような認識の方が、かなり不自然なことだろう。
 そんなことを考えながらラジオを消してパールジャムを聞いてるのだから、まったく頑固なものだな、と思ったことだった。
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天才宮崎を理解できる圧巻作品 風立ちぬ

2013-07-25 | 映画

風立ちぬ/宮崎駿監督

 まず最初に前提の問題。実は賛否両論という話は聞いており、少しかまえていた。宮崎駿については、そのような思想めいたものがあるのは作品からもうかがいしれている。それにあの世代は、そういう理想論を持った人間は多い。自由の国なんだからそれはそれでいいじゃないか、という思いはある。しかし、彼らの仲間である人々に対しても、宮崎本人はあえて無頓着を決め込むというか…。例えば煙草にしたって、エコロジーや健康志向の強い人々を基盤にしてコアなファンを形成しているにかかわらず、自分は作家として堂々とそういうものを無視している。それはそれで潔いし、王国としてあるべき姿だと思うけど、図らずもそれは特権としての封建主義だ。そういうちぐはぐな内面を持っている人間ほど面白いということは当り前だけれど、これが理解できない人が多いのが現代だ。それでもヒットメイカーとしての地位も持っている。そういうカリスマが作品をつくるにおいて、どのような評価が出るか、ということがあって、つまるところ作品そのものを観た感想としては、これはそのような無理解な人々には引っかかる題材そのものだな、と思った次第。特に戦争も背景にあるし、家庭問題もありそうだし、偏見のある人には、これは素直に見ること自体が難しい作品かもしれない。
 それでも、とあえて言いたいのは、この映画はかなりの水準にあることは間違いないことだ。夢を使ったストーリーの紡ぎ方そのものを観ても、映画としてかなり考えて作られていることは間違いない。難しい題材を、それこそ映画的に上手に処理している。思想だとかそういう煩わしいものは、一応はこれで余分に考えないでいいしくみであるとさえ思う。それでも引っかかる人は、過去に洗脳されている疑いがあるかもしれないな、というレヴェルではあるまいか。
 あとはやはり宮崎ワールドの映像世界。緑が美しいのはいつものことだが、本当に色遣いが素晴らしい。古めかしい手書きアニメの映像でありながら、だからこそ生きる色のマジックがこれでもか、というぐらいに堪能できる。下手な美術館に泊まり込みで観るより、濃厚な映像世界を楽しめるといっても過言ではなかろう。こればっかりは圧倒的な素晴らしさという感じだ。目的の合う人にはおつりがくるくらいのものだろう。
 もう一つ思うことは、監督の宮崎自身の天才性もさることながら、一般的な天才とは何かというものについても一定の理解が得られそうなことだ。主人公は純粋そのものだけれど、まぎれもなくとんでもない天才である。その天才が、心の葛藤もありながら、恋をしながら天才を発揮し、しかし世の中の流れの中で、結果的に敗れるということなのである。いや、それは敗北とかそういうことではなかったかもしれないが、天才という個人の中では、必ずしもかなえられない何か大きな壁というか、翻弄される時代というか。結果的に代償も大きい代わりに大きなこともやろうとしていたわけだ。
 正直に言おう。本当に泣ける話というだけの映画ではないから誤解を招きかねないが、でも僕は泣いてしまった。天才でない僕が素直に泣ける映画として、さらに普段の僕は偏見の塊のような人間であるにもかかわらず、そのような抵抗をそれほど感じずに楽しめることができた。賛否があるのはカリスマの不可触領域のためでは決して無い。素直に映画としてよくできた宮崎ワールドであるとあえて断言していいと思うのである。
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つながっているから幸せになれない

2013-07-24 | net & 社会

 学校のいじめ問題はゆゆしきものだとは思っている。そうして学校の関係者なんかと話をしていると、必ずといっていいほど、ネット上の書き込み問題という話題に発展する。若い人間というのは傷つきやすいというのもあるだろうが、ネット・リテラシーというものも分かっておらず、必ずといっていいほど、このネット上の書き込み問題といじめ問題が密接に絡み合っているのだということらしい。
 現場の肌感覚としてそう捉えているということであれば、それはそうなのだろう。対象をネット上に上げて批判する、そういう行為というのは、ある程度常態化している事実認識があるのかもしれない。
 先に若者は傷つきやすいと書いたが、やはり自分のことが書かれているという驚きや、内容に影響を受けやすいということもあるのだろう。気にすんな、といっても気になるというのは分からないでは無い。結果自殺する、と連結は分からない訳だが…。
 そういう傾向が分かっているのなら、やはり「気にすんな」教育というのは一定の効果があるような気がする。
 以前「不幸の手紙」(今もたぶんありそうだな)というのがあったが、あんなものはどうでもよさそうなものなのに、右往左往して喜んで騒いでいる奴が必ずいた。驚く事に信じてもいない癖に、やっぱり気持ち悪いから10通他の人に送ったと告白する馬鹿な同級生の女子が居た。そこまで知能が低いとは思って無かったので幻滅したが、同情する人がいたりしてさらに驚かされたものである。つまり、僕らの若い頃でも馬鹿は馬鹿だったわけだ。
 例えば「うざいから死ね」と書かれていたとすると、ショックを受けたり怒りを覚えたりということは分かるのだが、だからといってどうするのかというのは、しばらくすると分かりそうなものである。どうしても相手を許せないという逆恨みの気持ちも分かるし、逆上しても、まあ、いいかもしれない。そういう経験は不幸ではあるが、根絶など不可能だ。また、別段ネットで無くても起こりうることだから、要はやはりどのように付き合うか次第だろう。
 ネットの世界のこのような暗部については、世の中の成り立ちと基本的には変わりが無い。残念だが特殊では無い。しかし大人の一部にはやはり、これを特殊なことだと考えている人もいるように思える。そうして必要以上に恐れているということもあるのではなかろうか。さらにこれを若者特有の問題だと思いたがっているのではなかろうか。
 飲み会の参加率の高いRさんという知人がいるが、彼の出席率が高い理由は何だと聞いたことがある。そうしたらその答えが「私がいなければ(自分のことが)酒の肴になるだろうから」というものだった。もちろん多少の冗談はあるのだろうけれど、大人社会も恐ろしいものだな、と改めて思ったことだった。
 父は生前に、部下との飲み会の二次会にはいくら誘われても行かない、と言っていた。理由は自分の悪口を言う場所が無いと、彼等もつらいだろう、というものだった。
 見えたり聞こえてきたりするものについては、自分の対処に苦労する。いっそのことそういうものが遮断されている方がしあわせかもしれない。そういうものといつもつながっているということのリスクは、平安という意味では、大変に危険極まりない事なのかもしれない。
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主体がどっちかで不平が生まれる   構想の死角・刑事コロンボ

2013-07-23 | コロンボ

構想の死角・刑事コロンボ/スティーブン・スピルバーグ監督

 若きスピルバーグ監督ということで有名な作品。確かに映像的に不思議な緊迫感があり、アングルも凝っている。このようなサスペンスの描き方は、才能の一端と言えるだろう。
 二人組の作家で、事実上一人が作品を書き、もう一人がプロモーションを担当するというのは、あんがい日本では普通にあることではなかろうか。まあ一般的には作家と編集者という関係が多いのだろうけど、そういう風に作品を作るというのはありえそうだ。また日本の漫画家などには、二人作家というのはあんがい多いみたいだ。作品を多量に生産するには、一人では重すぎる事もあるだろうし、合理的な方法かもしれない。もっともこの作品の二人の関係は、一方的に不公平がありそうな感じはしたのだが…。
 電話のトリックにしても、現代の感覚では奥さんは騙せても警察はどうなのか、という疑問は残った。やはり通話記録などもあるし、物理的な距離をどうするのかという問題は残る。マフィアの犯行に見せかけるというのはなかなか上手い考えにも見えるが、事実ではないので最終的にはどうにもならないのではないか。分からないからお蔵入りになるということなんだろうが、それまでには否定されると振り出しに戻るという気がする。
 結果的に第二の殺人まで発展せざるを得なくなる展開。それが面白みを増しているということも言えるが、どんどん苦しくなるということも言える。さらにこの強請った上に殺される夫人というのも、なんだか哀れで可哀そうだ。多少の金でありながら、たぶん納得の上タレこむ事もしなったとも考えられる。悪いやつには関わったものである。
 相手に依存している存在が、相手の依存状態から結局抜けられないということも、犯行を難しくしたのではないかとも思われた。殺してしまっては、将来はやはり無い。頭にきたということだろうが、結局は一時金である。今後も仲好くして、将来的には関係改善を計る方がはるかに建設的である。借金問題もあるだろうけれど、それなら二人という著作権の問題を活かしていった方がはるかにましな感じもするのだった。
 やはり相棒を殺すというのは、他にも憎いという長年の付き合いがあるという考えもあるかもしれない。藤子不二雄でさえずいぶん早くからコンビ解消には悩んでいたようだ(恨みかどうか知らんけど)。仲が良いから一人になりたいというのは分からないでは無い。またそういう尊重ができるかどうかに金がからむと、難しい問題になりかねない。会社なんかでも共同経営者というようなものが必ずしも上手くいかないという話は聞く。すべてがエゴのようなものでは無かろうが、主体がどちらか、というようなものがはっきりしないというのは、あんがいつらいものがあるのかもしれない。
 伴侶にはあんまり仕事の内容がよく分かっていない方が、かえって都合がいいということもいわれる。そんな変なことまで考えさせられる殺人で、やはり悲しい物語ということにもなるのであろう。人間というのはまったく難しい生き物であります。
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選択肢は減ってしまったが

2013-07-22 | 時事

 たぶんそれらしきテレビは見ないので想像だが、ねじれ解消後の解説がしばらくはかまびすしく報じられることだろう。今日は何だか普通のブログでは空々しい感じもするような気がするのでメモ的に、雑記的に。
 いろいろあるだろうが、しかしこれはちゃんとしたルールにのっとった民意の現れてあることは銘記しておく必要があるだろう。自分の選択では無くても、我々の選択だということだ。だから上からしたがえ、という意味では無く、受け入れざるを得ないということではあるが。
 僕は業界人としては陳情がしやすくなるというか、今からあちら側からかなり接触してこられることは間違いなくなった。役を持った人と会う機会もあろう。業界人としてふるまうだけのことで、実現してもらうと困ることも監視することになるだろう。上手く行くとは思えないが、普通の事は進むには違いない。
 政治的な見方としては、政治家というものを本気で目指すならば、選択肢はかなり少なくなったことは間違いなかろうと思う。公明党やら共産党は特殊だから別だが、他の政党を選択して政治の舞台に立つことは、主流としては成り立たなくなった可能性が高い。政策を吟味して連携させるという手はあるかもしれないが、成立する道は険しい。要するに中国の共産党の一党独裁と極めてよく似た政治体制に固まったという感じかもしれない。悪い事だと言っている訳ではなく、極めて東アジア的な体制に、また戻ってしまったということである。つまりやはり日本という国の人は、そういうアジア的な資質から逃れられない選択をするものだと証明されたようなものかもしれない。二大政党制がうたわれた近年の流れが、なんだか遠く懐かしい響きに聞こえる。いったいあれは何だったのだろう。
 これでしかし本当に安泰か、というのは話が別である。実際の現象がどう転ぶかにかかっている。安倍さんが独裁をするのかということはほとんどありえないが、本当に経済が転ぶことになると強権的に変貌するかもしれない。基盤は盤石だが、しかし危うい事を前提に成り立っていることに変わりは無い。
 変わりは無いが、しかし代わる人物は不在だ。リーダー不在論というのは怪しいが、しかし時代がリーダーを欲しているという状態は危うい。経済が政治の所為だというはたやすいが、実際は大半が自分の所為である。そう思っている人がどれくらいいるか。今後はそのような躍動が自由にできる世の中なのかどうかにかかっている気がする。一言で言うと、邪魔をしないでもらいたいだけのことかもしれない。
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大楠

2013-07-21 | 散歩
 訳あって下関へ。
 一日目の予定を終えて、少し夕方に時間が出来て、大楠というのを見ることに。

 何やら公園の様になっているようです。



 そうして確かに立派であります。







 樹齢千年くらいなんだそうです。
 案内してくれた人の話だと、子供の頃にはよく登って遊んでいたそうです。
 今は整備されて近づけない処置が取られております。木を守るためには仕方なさそうですが、寂しくはあるようです。



 近所にも大楠はいくつかありますが、なかなかここのは圧巻でしたね。
 なんだかでかいって、えらいなあという感じがしますね。まだ大きくなるつもりがあるんでしょうか。
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投票率を上げなければならない更なる理由

2013-07-20 | 時事

 今回の小選挙区制で得票数が一番の人が当選するという方式は、実に明確に勝者が決まるように見える制度である。選挙制度としては特に多く採用されている、一番一般的なものである。
 しかしながらこの制度にももちろん問題点はある。地元の選挙で考えると4人の候補者がいるのだが、一番の人が一番得票したのだから一番人気であると多くの人が考えることだろう。しかしながらよく考えてみると、3人の候補者を推している人からは嫌われている可能性があるし、投票率が低い現実を見ると、この最大得票の人が嫌われているからこそ投票行動をおこさなかった可能性もあるのである。
 小選挙区制の批判のための議論とみられても問題だけど、このような一番の総取りという選挙というのは、一部の人から好かれる人であるとはいえても多数の人から本当に好かれているということには必ずしもならないということである。ひょっとすると、一番嫌われている可能性もあるということだ。
 そういうことも含めて投票率は高めることは大切だということなのである。
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悪いところは現象として明確だ

2013-07-20 | 時事

 投票率が低くなりそうだというのは、まあ、そうかもな、とは思う。良いとは言えないが…。
 オーストラリアは非常に高い投票率を誇る国だが、義務投票制で罰金があるらしい。他にもそういう国はあるようだ。利点としては誰もが選挙に行くので選挙のPRなどの金がかからない。普段から支持政党がある人が多くなるので独裁政治が起こりにくい。関心が高いと当然有権者の声が届きやすくなるなどがあるらしい。もちろん批判もあるが、投票しない自由の保障が無いとするなど、やや左的な思想の様な気がする。嫌なら拒否して罰金を払う自由はあるはずだ。
 日本に合うのかという問題はあるが、十分検討の余地ありとは言えるだろう。50%以下の民意ということになると、それは民主主義そのものの危機だろう。
 もちろん他にも問題があるとすると、いわゆる馬鹿も投票するようになる、という話がある。しかし馬鹿だから投票していた人もいるはずだから、その議論はちょっと違うかもしれないとは思う。
 政治との距離が縮まる事で何が起こるかは割合明確そうに思える。政治家の責任が重くなることは間違いないからだ。
 今回の選挙後にはいろいろ物事が決まりやすくなる訳で、そのような声を上げることは、将来の選挙の在り方を変えるチャンスであるとは考えられる。低いからこそ成り立った政党にその勇気があるのかという問題はあるが、議論の俎上には上げやすくなるだろう。
 この国の在り方に問題があるのは、目の前の現実的現象に現れているはずである。ルールによって変えられることは、実行すべき事をしてないだけのことなのだ。折角の汚点が現れているのであるから、目をつぶっていてはもったいない。世論の盛り上がりを期待したい。
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貧困と幸福

2013-07-19 | 感涙記

 以前同級生K君が昔話をしていたのだが、彼は家庭の事情があって子供の頃は貧乏だったらしい。それで辞書を買ってもらえなかったということだった。そんなことがあったなんてまったく知らなかったので、なんだか現実感が無いままそれなりに意外に思った。最近は貧乏な人はどうなっているんだろう。
 考えてみると貧しかったことは無かったのだが、イメージとしては何となく分かるものがある。親が昭和のヒトケタなので、彼らは戦後の貧しさを嫌というほど味わった世代である。病気をしたり怪我をしても、親のことを思うと我慢して言いだせないという話を聞いたことがある。つまり痛い思いをしても、お金のかかるかもしれない病院に行くなんてとてもできなかったらしい。なるほど貧乏というのはそういう感じなんだろうなと、子供心に恐怖したものである。もちろんすぐに忘れて小遣いをせびったりするのだが…。
 手塚治虫の漫画に学生時代の自伝的なエピソードものがあって、好きな女性とデートの約束があったにもかかわらず、隣の部屋ですき焼きをやるらしいということを聞きつけて、結局デートをすっぽかしてしまうという話がある。実はガセネタだった訳で、腹も満たされず、女性との関係もおじゃんになったということなのだろう。どうして腹が減るんだろうと、若い手塚は嘆くのだが、それが貧困というものらしいというイメージが、僕の中で固定したようだ。
 つまり貧困というと飢えるということと同義のようにも感じていたが、現代的に言うとそういう状態のものは、そう多くはなさそうにも感じる。腹が減って餓死してしまうような人というのは、最終的に引きこもりであったり、羞恥心のようなわだかまりがあって、助けを求めなかった人のような特殊性を感じる。
 最近では低所得層の方がいわゆる金持ちよりも肥満度が高いのだという。ジャンクフードが安く手に入り、健康に対して鈍感になるということにつながるらしい。金持ちはヘルシーな食材を高くても買うような人たち、ということなのだろうか。
 それでもやはり、金に困っている人というのは、現代社会の中では多数に上るかもしれない。必ずしも貧困という状態を指している訳で無くとも、金に困る状況というのは生まれてしまうものである。だが、そのために空腹に耐えるという状態は、やはりかなり難しくなっているのだろう。
 実は我慢が出来る人と社会的な成功者ということには、相関関係がある。目の前の快楽を後回しにして一時でも辛抱できる性格の人と、社会的な成功を収める人の性格は関係があるらしい。子供の頃に辛抱することを覚えることができた子供は、かなりの確率で、その後の人生が開ける可能性が高まるのだそうだ。
 貧困というのは強制的に、何かを我慢させられる状態ということは考えられないだろうか。誰もが貧困だったからこそ、日本のような高度成長を遂げることが出来た可能性は無いのか。もちろんそんなに単純化させることはできないが、戦後の貧困という社会現象が、日本人のメンタリティーに影響を与えていないはずは無いとも思う。
 つらい経験がその後に生きてくるというのは本当だと思う。つら過ぎて精神が曲がってしまうのも困る訳だが、つらく無かった人がそのまましあわせなのかは大いに疑問だ。
 つらい経験の対象として満足できる幸福感があるとしたらどうだろう。貧乏だったような人には、ぜひともそうあって欲しいというような願望も無い訳ではないが…。
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庭師の無駄な死   死者のギャンブル・刑事コロンボ

2013-07-18 | コロンボ
死者のギャンブル・刑事コロンボ/ヴィンセント・マケヴィティ監督

 酔っ払って見ていたせいか、途中で騙されていることに気付いた。犯人が入れ替わったような錯覚があって驚きだった。が、結果的に無駄に死んだ庭師が可哀そうではあった。
 僕は意識的にギャンブルはしない。それはのめり込む自分の姿がメタ視点で嫌いだからで、本当にギャンブルが嫌いということではないだろう。負けた額もそれなりにあるし、勉強代が高くついたということかもしれない。今後も勉強する気分になれないということかもしれない。しかしながら、このようなギャンブル狂を見ていると、やはり単なる馬鹿にしか見えない。結果的に亡くなってしまう訳で、お気の毒ではあるけれど、しかし死んだ方が良かったようにも思える。そうしなければギャンブル狂は治らない。そんな気がするのであろう。
 結局犯人がそんなに品のよく無い感じであるのも良く無い感じがした。殺人自体はそもそも褒められたものではないのはそうなのだが、それなりに動機に納得がいけば、まあ仕方ないというか、そうすることも人間としてあるかもな、というようなかすかな共感がある。自分はしないが代わりにやってもらっているということも言えるかもしれない。自分がそんな境遇に陥ることは不幸だが、他人の不幸はおいしい話だ。何とかしてばれないようにもがいているが、コロンボがその望みを絶つので快感が生まれるという訳だ。そういうカタルシスとしての犯人像にも、それなりの品格を求めてしまう。結局は作品が気に食わないのは、そういう設定問題ということになるのである。
 お話の流れは意外性があって面白くなりそうだっただけに、そういうところが気になって残念な感じになる。まあ、シリーズを消費しているという満足感のために観たようなものであった。
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