カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

相手を思いやることは、自分が正直に生きることだ   かけがえのない人

2016-07-31 | 映画

かけがえのない人/マイケル・ホフマン監督

 事故から奇跡の生還を果たした男は、ある老人の死によりその弁護士より呼び出される。そうして同じく呼び出されていた過去に付き合っていた女性と再会する。この二人は、以前に深く愛しあった仲だったことが示唆されるが、よくある身分違いもあるようで、現在は離れて暮らしていることからも、何か問題があったはずである。現在と過去の二人の物語は同時進行して、別れた謎と二人の今後がどうなるのかという展開になっていく。
 20年という時代の違いがあるために、回想シーンと現代の二人はまったく別の役者さんたちが演じ分けている。若いころの初々しさと中年の落ち着きは確かに違うはずだが、特に男性の方はかなり背丈や骨格が違う感じで違和感が大きかった。もっとも女性もそれなりにタイプが違うようにも思うし、西洋人にとっての現在過去の感じ方は、東洋人のそれとは違うということなんだろうか。そもそもそんなに似せる必要は無いという考えもあろうけど、あまりに別人だと思い入れの感情に影響があるようにも思う。アニメか何かにするとよかったのではなかろうか。
 また虐待のことも描かれているが、恐らく遺伝もあるので、何らかの悪の要素というか、それから脱皮するための葛藤もあった方が良かったように思う。突然変異で悪に染まらない善人が生まれるのはかなり不自然だ。いや、葛藤はあったとは分かるが、しかしもう少しその恐怖が顕著に表れるようなものがあった方が、やはり人物造形には必要ではないかという感じかもしれない。正義の方も最初から防衛が過剰で、(立場上仕方がないが)これは暴力が連鎖するのを食い止められないというむなしさを覚える。まあ、それでなければ物語が成り立たないかもしれないが。
 さらに老人と青年の家族の成り立ちのエピソードももっと必要だとも感じる。これでは居ついた青年が勝手に彼女を連れ込んでいいことをしているような妙な罪悪感を見ているものに与えるような気がする。少なくとも僕はそう感じる。若いんだから当たり前だとは思うものの、もう少し隠れた罪悪感があった方がいい。また、彼女の反対する父親の姿も、やや唐突だ。こういうものは、もっと以前から伝わっていたからこそ、いざというときにきっぱり行動に出るのではなかろうか。
 甘くいい話だが、残酷でもある。若いころに思ったことは、例え間違った暴走でも、とことんやった方がいい。そうして別れてしまった方が、もっとあと腐れなくていい。そうして現在も気持ちがあるのなら、また暴走を始めた方がいい。そういう愚かな人間だからこそ、恋愛というのは原初的に生きている証なのだと、僕は思う。
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隣人が襲ってくる

2016-07-30 | HORROR

 ボスニア・ヘルツェゴビナのオマルスカ強制収容所のドキュメンタリーを見た。銃撃戦などをやっている建物の痕跡がいたるところに残っており、まさに戦火の傷痕はそんなに昔のことでは無いという感じ。畑の向こうから武装した連中がやって来て、あっという間に村の人々が拉致されてしまったことを証言していた。そうして収容所にやってくると放送で名前が呼ばれて、順に連れて行かれる。連れて行かれた先(部屋では)、仲間たちが次々に拷問を受けたのだった。
 多くは生き残った捕虜にインタビューする形式なのだが、ある元捕虜は、実際に収容綬現場に足を向けてレポートしていた。その場所に来ただけで息苦しそうになっていく。つらい体験の記憶がよみがえってつらくなるのであろう。また、当時拷問を行う側にいた知人とも会って話をする。相手はかたくなに知らんぷりしようとする。そうして質問を受ける前に、個人ではどうしようもなかった旨の弁明を繰り返すのだった。
 結局以前は同じ村に住む隣人や友人たちであった人々(学校の同級生もたくさんいる)が、民族紛争によって分断され、一方は迫害する側、一方は迫害される側に、突然明確に立場が分かれてしまう。中には高校時代の尊敬していた先生なども居たそうで、そういう人が自分たちに危害を加え、そうして特に悪びれた態度ではない。そういうことが起こった過去が、どうしようもなくつらいのだということだった。
 民族の違う人達の共存社会というものの実態は、われわれ日本人にはいまひとつよく分からない面はあるかもしれないが、ある日を境にして隣人が襲ってくるという憎悪を上手く処理できなかったという話は、確かに恐ろしいものを感じた。日本人はあまり意識していないけれど、やはり日本社会の構成員には、民族などの違いのある人々はちゃんと存在している。過去の関東大震災などの災害時には、残念ながら虐殺事件も起きている。理由はどうあれ、現在もヘイトスピーチなど憎悪をあらわにしている日本人の集団もいる。それぞれの状況は確かに国や地域によって違いはあるだろうけれど、人間としての習性のようなものに、このような違いを許容できない感情というのはあるものなのかもしれない。
 ボスニアは酷いところだと思うのはそうかもしれない。中東も怖いと思うのもそうかもしれない。しかしそれは、実はきわめて今日的に同じような人間の持つ普通の感情が表に出ている地域のことかもしれない。危害を加えられるのはもちろん嫌だが、加える側にだってなりたくない。同質性のある集団で安住していると、そのことを忘れてしまうだけのことなのではないだろうか。
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風景は美しいが、科白はクサい   春を背負って

2016-07-29 | 映画

春を背負って/木村大作監督

 父の死を受けて、金融トレーダーをしている息子が跡を継いで山小屋の主人として自立するまでを描く話。もともと従業員として献身的に働いてくれる若い女性がいるほか、何やら以前から父の知り合いだったらしいゴロさんという人もいる。設定としては都会でサラリーの高い生活をしている人間が、過酷な山小屋という環境で、たいして金にならないにもかかわらずそんなことが出来るのかというテーゼのようなものがあって、しかし山にはその価値があるのであるということを言いたい映画なのだろう。理屈でなく、それが人間関係で、そしてそれが山の素晴らしさということだろう。
 結論を書いたのでいうことは無いが、もともとそういう視点なので、なんとなくドラマとしての分かりにくさがあるようなぎこちなさである。はっきり言って科白はかなりクサくて、発音している俳優たちが結構苦労している感じだ。生活の中で馴染まない科白回しだから、もの凄く不自然なのだ。自然の中で人間が発する言葉が不自然になるというのは面白いが。
 オープニングにあるように、子供の頃から父の山小屋生活には付き合って嫌になった過去があるように思う。だからこそ息子は(都市的な職業の)トレーダーになったのではなかったか。しかしその葛藤はよく分からないまま、反抗していたはずの父の仕事をやることになる。徒歩以外に交通手段のない山小屋だから、何もかも里から物品を背負って運ばなければならない。さらに客商売で、食事を中心にさまざまなものが必要だ。山に魅せられる人々がいることは分かるのだが、レスキューなどの公的な機関の仕事とは別に、商売としての山小屋の切り盛りをやる本当の理由は、やはり最後までよく分からない(共感という意味では)感じはした。儲からないから人のためになって素晴らしいという思想が、僕には分からないためだろう。
 余談だが、僕自身は山が嫌いなわけではないが、やはりちょっと不安である。それはお腹の調子が日常的に悪い為で、要するにそういう方面のことが、山小屋においては一番気になるところだ。しかしながら映画だから、そういう方面のことは最後までよく分からなかった。女の人も多くなっているということは描かれているけれど、結局そういう方面のことが不明のままだと、山には入れないな、と思う。まあ、自然のことなので、自然に考えたらいいだけのことなんでしょうね。
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投票率を上げる方法は、簡単すぎてやってないだけ

2016-07-28 | 時事

 若者が投票に行かないのは、若者が馬鹿だからという結論は成り立っている訳だが、だとしたら解決方法は無い。馬鹿につける薬は無い。しかし実は若者を馬鹿の地位に固定させているのは、単なる選挙の制度の所為かもしれない。機会費用の高い現行の選挙のやり方を続けていても、そもそも投票率は下がり続けていくしかないようだ。抜本的に制度を変えるのが簡単でない理由は、政治家に変える意識が希薄だというのがある。何故なら現行の制度で勝ち上がった議員は、現行の制度に適した人々である可能性が高いからだ。さらに他のやり方があるなんてことを夢想したことも無いのかもしれない。
 だが、投票率を上げるのに、かなり有効だと思われる方法はある。それもものすごく簡単に。たぶん簡単だからこそ、その破壊力は大きく、変えられないだけなのかもしれない。
 それというのも、単にネット選挙に移行するだけでいいからだ。システム上の困難があるという反論はあるが、現金決済が出来るご時世に、システムとして不可能では無いと考えられている。もちろん不正防止やシステム構築や、個人情報の管理などについて、行政が把握することの不安もあるかもしれない(前科があまりにも多すぎるから)。しかし現状でもそれらのことは普通にやらなくてはならないだけのことなので、縦割り行政のシステムを柔軟にさせる利点もあるかもしれない。そもそもの話だが、コンピュータの発展は、選挙の集計と関連性が高い技術である。選挙の集計を効率よく正確に不正なく行うために開発がすすめられたのが、コンピュータの起源といっていい。原点に戻るなら、最初からこれを利用するに越したことは無いのである。
 実は日本というのはかなり特殊で、国中に教育が行き届いており、文盲率が極めて低い。だから記名式の投票が当たり前だと思っているようだが、実際には記名式で投票を行っている国は周りを見渡しても、日本くらいのものらしい。しかしそのための膨大な経費が掛かっており、開票作業一つとっても、例えば悪筆解読や判定に多くの労力が払われる上に、結果的には毎回のように判定結果が裁判で争われることが続いている。結局結論は出る筈がないので、単に不毛なだけである。ネットでもクリック間違い、なんてことは起こるかもしれないが、結論はいずれにせよはっきり出る。集計も明確で、時間も迅速だ。恐ろしく経費の削減になるだろう。その上に投票率はドンと跳ね上がるのである。
 それでも投票しないという意見もあるだろう。まったくその通り。それなら保険を掛けて、投票しなかった人には、何らかのペナルティを課せばいいと思う。罰金が現実的だが、その他のなんらかの権利の剥奪というのでもいいだろう。投票が国民の義務か権理かの議論は先にあるにせよ、実際に義務化して罰金を科している国がある以上、議論くらいすべきである。
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カミさんとの性生活は謎のまま   幻の娼婦・刑事コロンボ

2016-07-27 | コロンボ

幻の娼婦・刑事コロンボ/ジェームズ・フローリー監督

 心理学者でセックスセラピーで著名な女性が主人公。マネージャーの男性を恋人としていたが、彼が浮気をしていることを知り復讐として射殺する。その時に娼婦の服装に変装して犯行を行ったために謎の女が生まれた訳だが、このトリックを最初からコロンボは疑っていて、仕方なく再度変装してコロンボに罠を仕掛けるべく行動するのだが…。
 女性の側からセックスの話題を赤裸々に語る事で、女性の精神的な開放を訴える先鋭的な女性であるという設定である。今でもそんな人はいるが、当時のアメリカであっても、やはり先鋭的な進んだ理想の女性像であるという感じだろう。しかし恋人はそのような自分をある意味で利用して、若い別のマネージャーと情交していたということだ。性的自由を謳っていた立場としては立つ瀬がないし、やはり本当に愛していたということと嫉妬も大きく許すことが出来なかったということだろう。
 性的な話題になるとコロンボがタジタジとしてしまうというあしらいも上手く、殺しのための仕掛けもそれなりによく考えた末であったが、あんがいあっさりコロンボが仕掛けに疑いを持つために困惑して追い込まれていく。シリーズとしては当然の流れだが、このシリーズは普通自分の地位を保つために犯人が苦労するわけで、この女性は殺しの犯人とはいえ、復讐の理由としてはある意味でまともだから、なんとなく気の毒である。そういう意味で、感情的に歯切れが悪く感じられるようなところがあったのか、シリーズではあまり人気が無かったらしい。殺しを隠すという心情のみが良くないという一点で、コロンボの正義の推理が成り立つということである。浪花節的にはダメでも、トリックを暴く展開としては、そんなに悪くは無いのではないか。
 また、実はコロンボがチューバの名手であり、いきなり演奏しながらパレードしたりするサービスショットがあったりする。本当に演奏しているのかは知らないが、ちょっと意外過ぎたのか、その後コロンボが楽器を演奏したとは聞いていない。まあ、詩も書くし絵も堪能でさまざまな才能がある人だから、その多芸ぶりを踏襲して作られたエピソードなのだろう。
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計算ができないだけでなく防衛している?

2016-07-26 | 時事

 シルバー民主主義という言葉がある。日本の場合既に高齢社会だが、これは直接そのことを指している訳でなく、選挙の結果を指している。高齢社会になると、有権者の多数も高齢化する。さらに若者の投票率は相対的に低いため、政治家は高齢者優遇の政策を重視し、結果的に若者のための福祉(例えば教育費など)は削られ、高齢者向けの社会保障費は増大し、将来世代への負担の先送りが常態化する。まさに今の現実の日本の姿だが、そのために将来的には国の財政は行き詰るしかないようだ。
 結論は既に出ているかもしれないが、選挙になると、この世代間格差の解消のために、若者に投票行動をとってもらおうというキャンペーンが、いちおうそれなりになされる。その効果がまったくないとは言えないが、実際にはあまりないというべきか。現行制度で微調整的に力が入れられ、例えば不在者投票などはのびているが、結果的に若年層の投票率が伸びている訳ではない。このような現実にあって、どうしても行動に移せない大人しい若者を指して、単にバカにするのは簡単である。事実馬鹿である可能性は非常に高いが、基本的には、それでも選挙に対するハードルがそれなりに高いということも考えるべきだろう。
 若者は選挙に対する費用効果が高いというのが、先ずある。どういうことかというと、わざわざ選挙に行きたくなかったり、そもそも興味が持てないのは、そのために時間を割く費用が高齢者より何倍も高いという考え方だ。選挙に行く時間を作るために、自分の喜びの時間を割かなければならない。デートかもしれないし、遊びかもしれない。しかし個人的には若者にとって一番重要であるそれらの時間を割くためには、相当な費用が必要だということだ。実際にはそれ以上に高い費用が生じていることは間違いないのだが、比較できる材料を知らないので、そのことに気づかないものと思われる。既に数千万円は高齢者より多くの負担を約束させられているけれど、支払うのはこれからの長い人生で分割してある。最終的には自分の生活費に割り込んでの支出になるが、自分が受けとる次の世代へ引き渡す前には破綻しているだろうから、気づくのはその後しかありえないだろう。
 考えてみるとひどい話で、将来の給与から既に天引きを約束させられている状態を自ら選択した覚えもないのだから、仕方がないのである。さらにいくら若者の投票率が上がっても、そもそも絶対数としては、高齢世代との割合を制するまでには至らない。そもそも現行のメニューには、自分が選択すべき(例えば増税して将来の自分の負担を少しでも減らすなど)ものが用意さえされていない。事実を知れば知るほど不愉快になるだけのことだから、もう目と耳を閉じてやり過ごす他に無い。若者の無関心は、だから防衛本能ということかもしれない。
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必見戦争劇   高地戦

2016-07-25 | 映画

高地戦/チャン・フン監督

 朝鮮戦争のまさに境界にある高地の局地戦を描いたもの。何十回となく取ったり取られたりする場所なので、その塹壕の中に戦地では貴重な嗜好品などを隠しているうちに、南北の便りなどを託した通信の手段となっていく仕組みができる。お互い殺し合う中だが、この塹壕の中の箱を通じて、お互いの友情とまではいかないまでも、なんとなく通じ合うものがあるようなのだ。しかしながら、南北の内通者を探る任務もある主人公は、この手段を通して内通が行われているのかどうかを確かめなければならない。その疑いのある以前からの親友が、この部隊では重要な役割であるらしいことも掴んでいる。また、激戦区の部隊でありながら、精鋭の死者は異常に少ない。では実際にどのような謎がそこには隠されているのだろうか。
 北には「二秒」とあだ名され恐れられる凄腕のスナイパーがいて、その存在もこの物語に絡みながら(というか、そもそも戦場のエピソードが群像劇のように盛り込まれているのが、この映画の最大の見どころである)複雑な心境の友情が描かれている。最終的には停戦が決まった後の12時間の死闘という史実に基づいた地獄絵(同じ民族で同じ発想だからこそ起こってしまった悲劇だ)を知るだけでも、この戦争映画を観る価値が大いにあると思われる。
 エピソードも演出も素晴らしいと思うが、戦闘そのものの映像がまたすごいことになっている。基本的には「プライベート・ライアン」のような乾いたリアルな残酷映像でありながら、やはりアジア的なウェット感がジワリとあって、痛みが伝わってくるような悲痛な戦闘劇が続く。様々な拷問や地獄というのが人間社会にはあるわけだが、まさに戦争こそ現代的な人間が繰り広げるもっとも大規模な地獄世界だというのがよく分かる。撃たれた人間は血や肉が飛び散り、苦痛に顔をゆがめながら死んでゆく。それは正義や建前などは関係が無く、南北のどちら側の人間にも同等に悲惨な現実だ。結局その場の人間としては、相手を殺さなければ自分が殺されるだけの単純な理屈のみでしか自分が存在できないということなのだ。戦況によっては絶望的な状況に陥るわけで、その時は味方であっても、敵と同じことになる場合もある。生き延びるためには、戦況に応じて実際にどのような行動をとるべきかという一瞬の判断が明暗を分けることになる。戦死した人間は状況を語ることは出来ないが、生き残った人間こそ、その時のことを語ることが出来ない場合もある。事件の真相も映像では明らかにされるけれど、表に言葉として出てこない原因も、その地獄だからこそ語りえられないということになるのだろう。
 骨太で息苦しい悲惨な映像だが、だからこそ必見という映画らしい映画である。
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伊勢うどんを食す

2016-07-24 | 

 そういえば少し前に初めてお伊勢参りをした。三重県というのは新幹線などで通ったことがあるだけの県で、立ち寄ったことすらなかった。そういう縁としか言いようが無くて、しかし特段どうしても行ってみたいとも思ってもいなくて(別に他の地区でも同じようなものだが)、結局会議があるついでに、時間の都合で前泊しなければならないスケジュールだった関係で、足を延ばしてみた訳だ。
 つれの人があって、彼には別の用事があって時間の制約がある。外宮・内宮とお参りするのがスジらしいとは聞いたが、昼時という時間帯も勘案して、おかげ横丁で飯を食ってから内宮を参拝しようという算段になった。
 近鉄にのって五十鈴川駅で下車。タクシーでおかげ横丁の饂飩を食える店で下してくれと頼む。運転手さんは少しアクセントある語りで、うどんならどこでも食えるので内宮の手前のおかげ横丁で適当に探すがよいという。何処がお勧めなんて好みの問題のことは答えようがない。さらに伊勢うどんというのは観光地ではやたらに上に高級食材を乗っけたようなものを出すところがあるが、基本的にいわゆるかけうどんにネギが乗った程度がスタンダードで、せいぜい生卵程度にしておくのが一番おいしいのではないか、というか自分らはそうする、というような説明をしてくれた。あい、分かりました。
 下車したらうだるような暑さ。おかげ横丁はそれなりに賑わいがあって、ごった返すというほどではないが、次々にお客が集まってくるような雰囲気である。物珍しさに二三枚写真を撮ったが、とにかく日陰でないと歩くに歩けない感じだ。
 すぐ目に留まったうどん屋で運転手さんの教えをなんとなく思いだし、月見うどんを注文。先に料金を払ってお札のようなものをもらって縁側のようなところでちょっと待てば、おばちゃんが札の番号を呼びながらうどんを持ってきた。適当に卵とまぶしてズルズルといただく。なんとなく噂には聞いていたが、まったくコシというものが感じられない薬のような味のするしろものだった。実際に饂飩は病人が薬として食べたという話も聞いたことがあるし、伊勢では旅の疲れに体を案じて、長くやわらく茹でるという話もあるようだ。一時間も茹でるという話もあるが本当だろうか。いや、とにかく柔らかい。まずいわけではないがうどんを食っている張り合いというものは皆無で、まあ、名物だから面白ければいいかという感じでズルズル食べた。汁は少なく麺に絡まる程度。麺を食べたら汁をすするという感じには残らない。色は濃いがからいダシでは無く、汁を飲んでも差し支えないとは思う。卵も絡めていたから、いわゆる掛けよりマイルドな味になっていたかもしれない。
 それにしても外が暑いから、麺の温かさも内面から伝わってきて、汗が噴き出してきて閉口した。その後お伊勢参りには行ったが、これも暑くて参ってしまった。それなのに一人になってさらにバスに乗って外宮にも足を延ばしてしまった。順番は逆だったかしれないが、ヘトヘトで修行のようだった。
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手に取るべき絶望の書  消費税増税は、なぜ経済学的に正しいのか

2016-07-23 | 読書

消費税増税は、なぜ経済学的に正しいのか/井堀利宏著(ダイヤモンド社)

 副題に「「世代間格差拡大」の財政的研究」とある。副題が内容の考え方の方向を示している。財政問題の先送りは、世代間格差を拡大するものに他ならない。何故なら所得税で税金を納めていない上に社会保障の受益者である立場の人の負担を、公債などの借金で賄うことは、将来的に(今もだが)負担を若者世代に先送りしていることと同義だからである。受益者であっても広く負担を求める消費税で社会保障費を負担することは、ごく合理的であるばかりでなく、受益者のタダ乗りに一定のブレーキをかける効果もあり、財政の健全化の道のりには欠かせない方策である。しかしその分かり切った正しい道を選択すべき政治は、簡単にはその方針の決定が出来ない。本書は、あまりに正しいことが書かれている為に、読者に絶望感を味あわせる内容になっている。絶望的な認識からスタートすべきことは、これもまた事実であるが、だからこそ諦める道ということもある。それは本書の本意ではないが、読んだ人の多くは、やはりその絶望感に唖然とし、結果的にはあきらめの感情を抱くのではあるまいか。しかし、それが事実なのだからことは厄介だ。事実から物事を考えないことには、有効な方策などたてられるわけが無いのだ。本当にダメな日本の真の姿を、多くの人は知るべきであろう。
 内容は三部構成で、第一部では世の中で恐らく一般的な認識となっている財政再建を妨げる誤解が何故生まれるのか、ということを事細かく解いている。これは、過去から現政権に至るまで一貫して語られてきた、いわば嘘のためだが、その結果が膨大な借金であることくらいは誰でも知っていることだろう。だから今後もその嘘のままを信じているだけで、まだまだ借金は膨らむだけの話である。
 第二部は世代間不公平を解消する処方箋として、現在の賦課方式の社会保障を緩やかに積み立て方式に移行すべきことが書かれている。まともだが、まとも過ぎてこれに取り組む政治家がいるようには見えないが…。
 第三部は、このような選択をさせ続けているシルバー民主主義という今の(そして恐らく将来も)状態を解消する方策としての選挙制度改革の提案である。別段極端なことは書いてあるわけではないが、民主主義の実現のための選挙としては、日本の制度は根本的に不公平であることも理解できるはずだ。形だけは民主的にみえはするが、ゆがんだ結果しか生み出せない制度になっていることに多くの人は気付いてもいない。しかし政治家にも既得権があるので(何しろ現行の制度で当選した人々だから、制度を変えると自分に不利になる可能性が高い)、この改革はやはり容易ではない。
 何をとっても絶望度は高いが、これを理解できる人が増えることは悪いことでは無い。そうしてその理解者でなければ、日本の明るい将来は絶対に開くことは出来ない。仲間になるか敵になるか。それは自由だが、仲間が増えなければ、要するに破滅するだけのことだろう。残された時間はあまりにも少ない。そうして、たぶんこの本は、やはりあまりいい評判にはならないだろう。手遅れにならなければ分からない人々には、最悪の結果でしか分かりえない感情があるのだろう。人間と日本人の愚かさを知るのは、この国に暮らす最小限のリテラシーだと思うのだけれど…。
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イケてない調理パン

2016-07-22 | 

 特にご飯派・パン派などと区別する必要もないが、しかしどちらかというとご飯の方かもしれないとは思う。朝食はもちろん昼に何か食べるかという選択で、パンである確率はかなり低い。食べないではないが、という程度の意識だが、かなり選択には偏りのある人生を送っているような気もする。
 しかしまあ、コンビニの棚とか、パン屋そのものに並んでいるパンを眺めるのは悪くは無い。むしろ楽しい。考えてみると子供の頃には、学校帰りに(コンビニではない)商店に寄って買い食いをした。駄菓子の場合もあるが、年齢が上がるにつれ、より身になるもの、要するにパンを買って食べることが多くなった。ゴキブリ・パンといえばチョコレートでくるんだ菓子パン。ゲロ・パンといえばピザパン。しかし圧倒的に食べる機会が多かったのは、いわゆるコッペパンに何か挟まっているような調理パンだった。ホットドックの場合もあるし、焼きそばの場合もある(ナポリタンの入ったのもあったと思う)。そうして当時は確か野菜マヨネーズと言ってたが、千切りのキャベツなどが入ったサラダの挟まったパンをよく食べた。
 そんな風に間食として食べるおやつとして、調理パンが重宝した。これを食事の時に食べるというのはあんまり無くて、食べるとしたら副食というか、例えば定食のようなものを食べた後に、デザートとしてまた食べることはあった。当時の胃袋がまことに恋しい。いや、今でも食べることは可能だろうけれど、その結果が当時とは完全に違う。要するに禁断の選択なので、そういうことはもうあり得ないということである。
 しかしながら例外があって、ハンバーガーやサンドイッチだと、軽食としてだけれど、一回の食事にカウントされることがあるような気がする。ハンバーガーは佐世保のように飲んだ〆で食べる、いわゆるラーメンの代わりの食事ということもあるように、それなりにボリュームがある。昼の食事がハンバーガーでも、何ら不思議が無い感じも、だから成立する。不思議なのはサンドイッチで、軽食には違いないが、これが昼食である場合もたまにある。ボリュームはかなり少ない感じだけれど、ダイエット食ということでなくとも、いちおう成立する。子供の頃は大量にサンドイッチを食べたものだが、大人だとコンビニで二袋程度でも一回の食事として成立しそうだ。さすがに一つだと体調が悪いような感じだけれど、それでもおかしいかと言われたら、ぜんぜんそんなことは無いだろう。調理パンなら少ないのに、サンドイッチなら大丈夫なのは何故だろうか。サンドイッチこそ、もっとも正当な調理パンなのだろうけれど、ちょっと不思議な感覚である。
 しかしまあ、最近の調理パンは結構おしゃれに美味しくなって、いかにも本格派というのが増えた。それはそれで大変にいいことだけれど、あのゲテモノくさい感じの調理パンこそおやつにはふさわしい感じもする。しかしながら僕はアンパンだけはどうも苦手で、そういう意味では新世代かもしれないが…。
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ブラックな環境のブラックな笑い   桑潟浩一准教授のスタイリッシュな生活

2016-07-21 | 読書

桑潟浩一准教授のスタイリッシュな生活/奥泉光著(文春文庫)

 表紙の絵が、なんとなくスタイリッシュでポップな感じもあって、表題の内容を表しているということなら、完全にだまされることになろう。若いクワコー先生は、短大から大学になったほぼ女子大の准教授という立場ながら、実態としてはブラック企業で貧困にあえぐ若者に過ぎないからだ。そうしてこのことは、実は広く日本の中にある問題とも、実際にはリンクしている。小説だから創作だが、そういうことを含めて、あんがい社会的な告発小説である可能性もある。そうしてそのような実態を延々とギャグを連発しながら展開させ、実はミステリ作品としても楽しめるというエンタティメント作品になっている。げらげら笑いながら読んで、けっこう結果的に感心してしまった。
 僕はもともと教師になれるような人間ではない立場ではあるが、教師に憧れたことも無い。仕事として教師をしている人はそれでいいと思うが、しかしだから教師が憧れられるような仕事であるということが今一つよく分からない。自分が習う方の人間だったことを思い出すと、こんな人間を相手にするなんて言うのは、実際に不幸なことがたくさんあろうことが透けて見えるからだ。それでも教師を目指す人の中には、実は教師が憧れであるということの以前に、生活のためにやっている人がそれなりに居るのではないかという疑問がある。それは非常にまっとうな考え方だと思うが、しかし実際にその選択をするうえで、本当にまっとうな選択であったのかというのは立ち止まって考えるべきことである。もちろんいろんな学校があるから、いろんな立場の教師はいるだろう。そのようないろんな選択肢の中で、自分の選ぶべき道がこれしかなかったのなら、要するにクワコー先生のように生きるというのは、それはやはり仕方のないことなのだろう。そういう悲惨な教員の姿でありながら、クワコー先生は蜘蛛の糸に救われた人でもある。救われた先が天国なのかどうかは一応問わないということなんだけれど…。
 しかしながら学校関係者だから大いに笑える話の筈なんだが、人によっては怒る人もいるんじゃないかとも思う訳だ。僕は学校関係者ではないが、十分面白いのだが、いわゆる他人事(ひとごと)だから面白い訳で、当事者で笑える人は、まさに偉い人ではないかと思う。僕は出来ればそういう人に勉強を教わりたいものだと思うのだが、さて、それは正しい選択か。よく分からないが、肩の力を抜いて楽しんで読んだらいいだろう。
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今のところ殺されていなくて良かった

2016-07-20 | 掲示板

 厳密な意味で会社勤めをしたことが無いので分からないのだが、単に向かないということはさておいて、会社に勤めていたらどうなっていたかな、という話である。まあ、いらん人間を抱える会社の不幸という側面はあるが、僕はどうなってしまっただろうか、ということになる。まあ、最初の会社は数年で辞めただろうから(いや、あんがい僕の意思では辞めないとは思うのだが、辞めさせられた可能性はあると思う)、その次である。ある程度は気持ちを入れ替えたにせよ、それなりにふてくされた人生ではあったろう。
 まったく同僚と上手くいかないということは無いと思うが、上手くいかない人とはそのまま上手くいくわけが無いから、まさか殺人事件にまで発展するとは思えないが、まあ、ちょっとはありうる話である。僕は小心者だから殺せないので、たぶん殺される方である。そこまで追い詰めてしまうというのも罪ではあるが、僕としてはそんな意識は微塵も無くて、むしろ被害者意識のみであろう。被害者だけどそれは譲れないからこじれるわけで、いや、自分としては最大限譲歩しているはずだが、相手がそんな風に受け止めていない場合があるということで、逆恨みを買うに違いないのである。喧嘩は売ってしまうというより、たぶん最初は相手の方が売っているはずで、それに僕が地雷を踏むという形になるに違いない。で、僕には悪気が無いので、(気づいた場合のみだが)形上謝っても態度でそれは分かりえるものだから、こじれていくという感じだろう。まあそれは会社問題でなくとも同じなので、予想というより、そのまんま今と同じである。ただ会社問題としては、それは現在は回避されているのは、僕が会社勤めじゃないからである。要するに勤めてないから、相手も僕も逃げられる方法があり、平和なのだ。偏見もあるかもしれないが、会社内部だとお互いにつらいだろうな、と思うわけなのだ。
 そんな人生が何十年と続く。年が離れていたら相手が去るまでということで多少は平和だが、近い人だと地獄は続く。転勤があればいいが、そういう人間関係の人が一人だけとは限らない。新しくそのように気まずい人は増えるだけだから、複雑に嫌な感じがクロスしたまま月日が続く。人間諦めが肝心だが、相手が諦めてくれるとは限らない。そういう人だから僕と関係が悪くなるわけで、僕の方はあまり改善が期待できないのだから、困るのである。そういうことだから僕が自殺するか、殺されなければならないという結論が一番身近なものになるということか。まあ、普通その前に辞めるか辞めさせられるということなんだけど。
 多かれ少なかれ、僕以外の人は、だから悟るということか。そういう意味では世の中どういうわけか巡り会わせが不思議な具合に転んで行って、現在に至るということだろう。もっとも死の危険が去っているのかは、僕には分かりようがないのだけれど。
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個人主義でも人のことは考えている   サラの鍵

2016-07-19 | 映画

サラの鍵/ジル・パケ=ブランネール監督

 第二次大戦下のフランスのユダヤ人少女の運命を、現代のジャーナリストが興味を抱き過去の記録を追って探り出す。どうも強制収容所から抜け出して生き延びているはずなのだが…。
 親子ともどもナチスに捕えられ強制収容所に送られることになるが、捕えられるときに機転をきかせて、弟を家の隠し部屋のようなところに鍵をかけて閉じ込め、かくれんぼだと言っておとなしくしているように言い聞かせる。強制収容所に長い期間囚われの身になるとは夢にも考えていないから、後から帰って鍵を開けたらいいと考えていたのだ。家に残した弟のことが気になって仕方がない少女は、気の合う友人とつれだって収容所からの脱走に成功するのだが…。
 フランスがナチスドイツに占領された時代に、フランスにおいてもユダヤ人の多くは捕えられた。最初は競技場に集められるのだが、便所は閉鎖され客席に押し込まれただけの酷い待遇である。この時に大人の多くは、先の絶望を覚悟することになるのだが、子供にとっては何の事だか意味がよく分からない(薄々は分かっているが)。それよりも家に閉じ込めている弟のことが気がかりで、必死に助け出すことばかり考えている。そのけなげな姿が戦争の残酷さを浮きだたせている。現代のジャーナリストが、現代に生き延びた人の証言からその後の少女の行動を追うのだが、生き延びたはずの少女は、生き延びた足跡をあまりはっきりとは残していないようだ。肉親であっても、その少女の行動を聞かされているようではない。
 ミステリー調で始まるが、実はミステリーが主たるストーリーではない。途中で割合簡単に謎は明かされる。しかし現代に生きる人間にも問題は抱えている訳で、謎の少女を追ううちに、なんだか望まぬ人々の思惑が歯車をじわじわと合わなくしていくようだ。時代に翻弄された少女の生き方と、現代で自分らしい生き方をしようとする中年女性の葛藤が合わさった濃厚なドラマとなっている。日本の女性に見られる強さとは、また一味違ったフランス女性の強さというものが分かると思う。そんなに幸福な映画ではないが、不思議と後味は悪くは無い。単純な反戦映画でもないし、人間が強く生きるという意味を考える上でもなかなか良くできた佳作ではなかろうか。
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これも若者を苦しめる娯楽

2016-07-18 | 時事

 ふるさと納税の過熱は、一般的には喜ばしいニュース、平たくいっていいニュース、また、頑張っている地方のまちを応援するようなニュアンスのあるものが多いような気がする。地域の特産品を返礼品とするところが多く、和牛やカニなど、美味しそうな食べ物が豪華に送られてくるような、そんな感じである。特産品のないところはパソコンや車などを返礼品とするところもあるようだ。
 実は僕もなんとなくどんなものかと、ふるさと納税の本を返礼品目当てに昨年末買い求め、ちょっとだけ勉強した。まったくお得で今すぐそうすべき旨が書いてあり、確かにそれは合理的行動のようにも思えた訳だが、それは納税する立場としての考え方であることがなんとなく気になったのと、正直言ってこんなことを続けていたら何か本来的な納税の仕組み自体が揺らぐような気がして、結果的には躊躇してしまった。
 それというのも「納税」という名称でありながら実際には寄付であり、「ふるさと」という名称でありながら自分の故郷とは関係が無い。だからなんと、自分の地元に自発的に「ふるさと納税」することさえ可能なのだ。普通に税金を納めると何にも返ってこないが、地元に寄付という形で納税するといろんなものが送られてくる。ある程度の収入のある人に訴えかける力は大きいと思われる。どうせ取られる(言葉としては納めるだが)のなら、断然として気分の良さは違うだろう。
 確かに税収不足に悩む地方の自治体においては、(多くの場合)よその住人から寄付が集まるので多少の返礼品を贈っても、それなりに儲かるだけだ。また地元の産業である(たとえば)農業の生産者に対しても買い取って返礼するのだから、産業振興の刺激にもなる。頑張れば感謝されるのだから、それなりに熱を入れてPRするだろう。成功したところは何億という税収増であるから、変に行政的なサービスを提供しないでの損得は、それなりに大きい。
 しかしながら当然その分、税収の減る自治体も出てくる。そもそもふるさと納税の対象にならない治自体もあるし、対象であっても不人気のところもある。ただでさえ税収不足に悩んでいるのにさらに住民からの税収が減るのなら泣きっ面に蜂である。しかし事実上の寄付だから、例えばNPO団体などへの寄付との見分けもつかないので、つなぎとめもできない。結局足りない分は公債などを発行して、事実上借金の額は増えることになるだろう。そのような公債額の増加分は将来世代への借金だから、形を変えた地方からの若者流出の後押しになるとも考えられる。足りない分の交付税も余計にもらうことになるなら、国と地方と両方で将来的に苦しむことになるだけである。
 そういう仕組みであることは、実は行政の人は知っているはずで、自助努力を促す政策として取り入れられながらも、実はやってらんないな、と思っていると僕は思う。どうせ一時期騒がれれば元に戻るだろうということが予測されるわけで(何しろ続けていても一部以外は損するところばかりだろう)いずれ終わりが来るだろう。そう考えているに違いないと思う。
 それでもいいことのように見える間は、娯楽として楽しんで浪費する。それが今の税の使われ方と集め方の両方にあるという象徴が、「ふるさと納税」の偽らざる姿であると思う。多少記憶力のいい人は、このことを忘れないで欲しいものである。
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シリーズ最終、斬新作   殺意のナイトクラブ 刑事コロンボ

2016-07-17 | コロンボ

殺意のナイトクラブ 刑事コロンボ/ジェフリー・ライナー監督

 シリーズ69話目で、最終回。WOWOW版では「虚飾のオープニング・ナイト」という題名で放映されたらしい。ピーター・フォークもさすがに老けて完全に白髪になっていて、日本なら当然定年ということになるんだろうが、年齢差別の禁止されている米国では現役でもいいということなんだろうか。オープニングのタイトル文字の現れる映像からコロンボらしからぬ斬新なものになっていて、番外編のような趣がある。むしろコロンボの新シリーズの始まりのような予感さえ覚えさせられる。しかしこれが最終話。主人公の年齢から致し方ないが、制作側の思惑としては、実はこの後の意欲もあったのではないだろうか。
 新しい店をオープンさせるために資金を借りている相手を殺してしまって、まずこの殺人を偽装させるのだが、しかしこの犯行を別の人物に見られておりゆすられる。結局第二の犯行となるわけだが、そこまでやってしまうといろいろとつじつまの合わないことをコロンボに次々に見破られるということになってしまう。もっとも早めに諦めてもらっては、コロンボのも活躍できないし、最後の大きなトリックが見破られる醍醐味も味わえない。結構映画的にテンポのいいサスペンスになっていて、娯楽作としてのコロンボの古臭さが無くなって、良くも悪くもコロンボ的でない妙な感慨の残る作品になっている。
 日本でも寅さんシリーズなんかは、やはり後半少し痛々しい感じになって、肝心の恋は甥っ子に譲って話が展開されるということになっていた。しかしながらさすがアメリカという感じがするのは、コロンボは白髪になっているにせよ、活発に動き回ってかえって若々しい印象もある。若者に混ざってディスコのような場所を闊歩するコロンボは、あんがいまだ若い女性からも人気があったりして、現役感もある。そういう社会の違いのようなものも感じられて、文化的には面白い作品だと思った。
 なお、これは観たにもかかわらず過去に何故かブログにUPしていないような気のする作品である。探したけど見つからないだけかもしれないが、再掲することにする。ネットというのは自分でもよく分からんです。コロンボ・シリーズと同じく長く続くといろいろ整合性の無さのようなことが起こるのかもしれません。
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