カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

失格しなければならなかった訳   監督失格

2013-05-31 | 映画

監督失格/平野勝之監督

 林由美香を知ったのは、同じくドキュメンタリー映画の「あんにょん由美香」であった。韓国と日本の関係性を考える上でも面白い映画だし、何しろ良く分からんが由美香というキャラクターが素晴らしいということがあった。あんにょんの土台になっているドキュメンタリーが先にあって、派生した面白い映画ということができるだろう。その土台となる恋愛物語の一応の完成形のようなものが本作ともいえて、小説でいえば私小説の在り方の見本のような作りである。人を選ぶということはあるだろうけど、この映画が話題になって、そうして妙に心を打つものであるということは言えるだろうと思う。小説のような作りもので無い恋愛の姿ということでも、さすがに迫真という感じがした。かなりの恥ずかしさも含めて。多くの映画はつまるところ表面だけで、感情をなぞっているということなんだろう。それでも足りないところがあって、つまり「監督失格」だった訳だ。
 映像を回すという覚悟については、プロではないので本当には分からない。回さなければ残らない訳だが、それは第三者にとっての話である。それは作家としての心構えのようなものだろうし、しかしそういう精神がある人が偉いのかと言えば、実はそんなことはぜんぜんあるまい。ジャーナリズム的な精神性はどうだか知らないが、写したものが第三者にとってお金が出せるくらい価値のあるものなのか。興行として成り立たなければプロでは無いので、そういうことだと分かりつつ映像を回さなければならない訳だ。監督として映像を撮る人間にとっては大切なことだろう。そして撮られる人間としての正真正銘のプロである女優の林由美香には、そのことが本能的に理解できている。そしておそらく本心から「監督失格」という烙印を押されたということでもあろう。しかし監督としては失格だが、本当に心の底からの愛というものを捉えることに成功している。そのことがこの映画の最大の価値、ということが言えるのではないだろうか。
 いわゆる決定的な場面の映像もある訳だが、そういう興味があって観たことも確かなんだが、その部分ひとつとっても、この映画の題名どおりかもしれないとは感じた。いや、それでも十分だったのではないかという考えもあるだろうけど、少なくとも僕にはいろいろ疑問がわいた。結局カンパニー松尾の撮っただろう映像の方が説得力があって、いわゆる作家性を感じさせられた。それはセンスの問題かもしれないし、距離感の問題かもしれない。しかし、それはどうしようもない人間の持っている感情であることも間違いは無い。
 こういう生き方をしなければならない理由は、僕には分からない。こういうものが面白いだろうということを知っているからこのような映像が生まれた訳だが、そして結果的にやはり面白いものではある訳だ。人間というのは本当に業が深いものなんだな、という確認のためにも、観ておいて損は無いだろう。
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コロンボが理解される社会は…   完全犯罪の誤算・刑事コロンボ

2013-05-30 | コロンボ

完全犯罪の誤算・刑事コロンボ/パトリック・マクグーハン監督

 教訓としては、完全犯罪は緊張感を持ってやり遂げるべし、といったところか。そういう機会がある時に思い出せるかどうかが問題だけど…。まあ、犯人のおちゃめさが命取りだったということであって、洒落としては面白いオチだけれどね。もともと緊張感のある展開が良いだけあって、完全に計画した犯罪を成し遂げたとしても、コロンボがその謎を解いていくということを期待してしまう自分がいるのだろう。そうでなかったからと言って、この作品が悪いとは言い切れるものではない。むしろ評価の高いということも、確かに良く分かる作品ではある。特に新シリーズにおいては何かとコロンボらしからぬことが起きているので、これでも比較的コロンボ的な物語だということは言えるだろう。
 この殺しの動機も、過去の過ちを消すというか、逆に脅されている状況から逃げるためである訳だが、殺さなかったとしたら、さらに将来にわたって殺さなければならなくなるような負い目を背負わされたことになるということなんだろうか。そういうものを断ち切る手段として殺人を選択するということがまずは不幸な状況という気がするが、そもそも身から出た錆ということでもあるのだろう。いつまでもそんなことを続けていけるはずもないので、悪事はいつかは破綻するという教訓も得られるものかもしれない。
 殺す方も悪人には違いないのだが、殺された人間も善人とは言えない。二人の悪人がこの事件の解決によってこの世からいなくなる(少なくとも一時期は退場する)わけだ。その二人分だけ世の中は平和になるはずなんだが、実際にところはどうなのかは不安が残る。この手の悪人は、数人減ってもまた生まれてきそうである。いつまでも増殖を続けると社会が破綻してしまうだろうけれど、少なくともそのようなやりくりをして生きているような人間というのは、それなりにいるという予感がある。実例として僕が知っているということではないけれど、成り立ちとしてはそういうものだということだ。
 ドラマに対してそんなことを言っても仕方がないけれど、そうであるならば、あんがい世の中というのは実際には殺人ということまで発展するケースは意外と少ないのではないか、とも思う訳だ。人を殺すというハードルがそれだけ高いということはいいことだと思うが、人間の殺意というのは容易に生まれる土壌がありそうだ。それこそが人間社会だというのであれば、このようなサスペンスが娯楽になる大きな理由でもあるだろう。コロンボが長く愛される理由は、同時にこのような社会を理解できる人間がいるということでもありそうで、なんだか複雑な心境にならざるを得ないのである。
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どこで折り合いをつけて生きていくか   好人好日

2013-05-29 | 映画

好人好日/渋谷実監督

 一言でかたづけると変な映画である。変人が出てきてあれこれ奇行らしきことをして皆何となく困惑して、めでたいことがあってしかし一転してまた困り、しかし結果的にはいい話になって終わる。ちゃんとあらすじを書かないのがいけないのだけど、ちゃんと見たらそんな感じというのは分かるだろう。暇があったら観た方がいいと思う。観ている時は変だなあ、と思う訳だが、観終わると妙なおかしみが残る。爆笑するような事は無いけれど、皆変な人ばかりだと、思いだして可笑しみのようなものが段々と分かってくるのかもしれない。
 風変わりな人は、今でならKYということであろう。しかしこのKYの人は、孤立して差別されるような弱さを含んでいるようにも思うが、主人公の風変わりさはそれとはやはり少し違う。自分が風変わりだということを、あえて選択して生きているという風である。そこに自分の価値があり、世俗のことにかかわりたくないという頑固さがある。それでまわりの人は困惑はするのだけれど、しかしそういう人だから仕方がないとも思っている。世界的に有名な数学者という肩書はあるにせよ、いや、無かったらもっと孤立するのかもしれないが…。
 そういう訳で一番本人たちが困るのは貧乏そうなことかもしれない。当時の人たちは貧乏そうな人はそれなりにいる訳で、いわばお互いさまだけど、しかし権威のある先生だって風変わりで人付き合いが下手で、結果的に貧乏なのかもしれない。勲章なんてどうだっていいと考えているけど、恩給があるのならばと受けることにする。そういう世俗さは、やはりいくらかは世の中と付き合わざるを得ないという事情を表している。本当にKYなら、そもそもそういう話がこないのではあるまいか。
 結果的にそういう生き方をまわりの人間が認めている。そうして認められるくらいいい人間であるということも薄々分かっている。思想的に気に入らないことがあると勘違いされてしまうが、しかし結果的にはそれも受け入れられるようである。思想で無く生活態度であると、そういうことなんだろう。
 自由に生きるのは人間社会では本来的に難しい話になる。どこで折り合いをつけて自分の自由を獲得するのか。もちろん自分の自由さの分野というような事もあって、生きづらさは個人の感情であることを思うと、折り合いのつけられる個所というのはそれなりに見つけられることではあるまいか。もちろん僕もそれなりに探さないとつらい人間だけど、そういうことは内緒である。おりあいのつけ方なんて人には教えられない。コーヒーを飲んで考えるにはいい話かもしれない。
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奥さんが幽霊で出てきたらどうするか   ブンミおじさんの森

2013-05-28 | 映画

ブンミおじさんの森/アビチャートボン・ウィーラセータクン監督

 幽霊は出てくるし森の精霊も出てくる。ナマズが人の言葉を話すし、ドッペルゲンガーのような現象も起こる。しかしながらそれでいてホラー映画では無い。リアリティは無いかもしれないが、単なるおとぎ話というものでもなさそうだ。意味が分からないが、非常に自然豊かな人間世界を見ることができる。多少時間がゆっくりしているので観ながら退屈してしまうが、まあ、それも仕方がないな、という気分にもなる。おそらく批評家も訳が分からなかったのだろう、パルムドール賞を受賞したらしい。
 基本的にはよく分からなかったのだが、分かればいいというような問題の映画でも無いようだ。人間と自然や、超常現象のようなものとの境界の無い世界の話なのかもしれない。アジアの人間としては、昔の日本だってたぶんそんな国だったはずなんだが、今となっては少し事情が違うということなんだろうと思う。だから何となく懐かしいし、なるほどとも理解しやすい土壌があるのではなかろうか。本来がどうあるべきなのかは僕には分からないが、そのような感覚を持って現実に生きていくような事が、人間にはもともと出来るということなんだろうと思う。いつの間にか忘れてしまうように出来てもいるから忘れてしまうだけのことで、ちゃんと意識して暮らしていると、忘れないで生きていくことが可能かもしれない。もっとも、そういうことが自分一人でできても、かえって孤立してしまうかもしれないが…。
 僕は特に幽霊に会いたいという気持ちは無いが、それが肉親であるなら、それはそれでいいのかもしれないとは思う。信用しているというか、まあ出てきても話はしやすいかもしれない。どうしてるんだということも聞けるし、今の自分の事情も理解してもらいやすいかもしれない。もちろん幽霊になったらそのあたりの事情を詳しく教えてくれるのかどうは分からない。見えてなかっただけでずっとそばに居られるというのも厄介だ。例えばトイレなどは出来れば孤独の方がいい。そういう遠慮なんかは幽霊の方にもあるものだろうか?
 変な映画ではあるが、まあそういう訳で不思議な魅力はある。たぶんこんなふうに幽霊や精霊はさまよっているのかもしれないというリアリティはそれなりに感じるわけだ。だからどうだという人は観る必要は無いかもしれないが、信じる信じ無いを問題にする映画でも無い。そういうもんなんだという寛大さが芽生える可能性もあるので、物好きな人は観るといいだろう。
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世相に翻弄されること   だまされたコロンボ・刑事コロンボ

2013-05-27 | コロンボ

だまされたコロンボ・刑事コロンボ/ダリル・デューク監督

 通常のコロンボのお話の展開とはかなり違う。そういう訳で、実を言うと途中でトリックのタネがすべて分かってしまった。観てる方がどうしても疑いの目を向けてしまうのだ。さらにこの邦題が良くない。残念ながらそういう予想はすべて当たってしまって、さらに(後の殺人の)死体の隠し場所まで途中で分かってしまった。僕個人としては完全勝利だけど、もともとトリックが分かっていてどうやって犯人を追いつめるのかが面白いドラマなので、通常の推理展開だとやはり駄目なのかもしれない。
 とはいえ、犯人役の青年は嫌な感じでなかなか良くはあった。対するコロンボの行動は不自然だったけれど、最後の〆は上手くいっている。二つの大きなトリックを贅沢に使った話と考えると、お得感のある人もあるかもしれない。

 考えてみると新シリーズは、僕はほとんど見ていなかったようだ。まったく覚えがないのは僕の学生時代と重なるせいかもしれない。日本での放映がいつ頃だったのかは更によく知らないのだが、ドラマに出てくるファッションとか音楽、そしてこの回の様に水着の女性が矢鱈に出てくるような時代背景は、まさに僕の若い頃の時代背景と重なる。今も何となくその名残はあるものの、例えばこの時代の小説なんかでも、やたらにお話と関係の無い性描写なんかがあったりして、いわゆる制作側の過剰なサービス精神のようなものを見てとれる。僕がもう少し若かったらそれはそれで少し得した気分になれたかもしれないけれど、本当にお話の本筋からすると余分なものである。そうでなければ売れないとか人気が出ないという考えが透けて見えていて、「コロンボ・シリーズよ、お前もか」ということかもしれない。もっとも製作費があがってそういう金のかけ方の可能になったことを考えると、コロンボ自体の人気が米国においても相当であるという証明にはなるのだろう。
 ドラマにも世相は反映される。そういう風俗を取り入れることで現代性が現れることに、逆に古さを感じさせられるというのは皮肉なことだ。コロンボの姿だけがよれよれのレインコートであるというだけのことで、逆に変わらないものなんてやはり無いのだということを考えさせられたのだった。
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宝くじが当たったら…   大当たりの死・刑事コロンボ

2013-05-26 | コロンボ

大当たりの死・刑事コロンボ/ヴィンセント・マケヴィティ監督

 宝くじが当たったらどうするか。そりゃあ舞い上がるにきまってるとは思うのだが、基本的にお金の使い方を考えることにはなるだろう。日本の宝くじだと5億程度で(サッカーくじだと6億があるが)、まあ億だから億万長者と言っていいかもしれないが、超金持ちという感じでもないのだけれど、このコロンボの話だと今の為替とは違うことを考えても30億くらいというからやはり凄い。そんなに焦らなくても一度当たったらおそらく一生億万長者だろう。そうであるならやはりかえって余裕が出るような気がしないではないが、それはやはり当たったことが無いから分からない。周りへの影響や金に関するトラブルの事を考えると、いかに秘密にしながら金を確保するかということにはなるのだろう。そういうことがシビアな問題で、当選金の6割以上は本人以外の人が使うといわれる現実の世界を考えると、大変に不幸な事態を想定することが、まずは肝要だと思われる。
 被害者の青年もそういうことを考えて信頼できる筋に相談することにした。それが犯人の叔父さんであったということが不幸だった訳だが…。離婚手続きの最中だったから、まだ籍のある奥さんに配当金を渡したくない。そこで事業で成功しているように見える叔父さんの言うとおりに策を練ったわけである。ところがこの叔父さんはちょうど事業が行き詰っているところだったというさらに偶然が重なってしまったのだった。これはもう自分にも幸運が降ってわいたものと同じであるのだから、この甥を殺さなければならない。自分のアリバイを確保しながらさらに事故死に見せかけるトリックも思いついてしまったようだ。
 コロンボに追い詰められていくさまが、なかなか上手な俳優さんという感じもした。大変な悪人であるのだけれど、まさにじわじわコロンボに苦しめられていく。むしろ最後に悪事が全部ばれてしまって、かえってすっきりしたことではなかろうか。
 もし自分が当選金の相談を受けたらどうするであろうか。大変にうらやましいのは確かだが、殺して取り分を増やそうと思うものだろうか。その金があったら自分の傾いた事業が何とかなるとしたら…。さて、あんまり偽善ぶるのもなんだが、相談されること自体も何となく幸福そうじゃないね。僕は人殺しは御免だから、当たったとしても僕のところには来ないでもらいたいものである。
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音の出る感動は忘れたが…   マダムと女房

2013-05-25 | 映画
音の出る感動は忘れたが…
マダムと女房/五所平之助監督

 たいてい日本初の本格トーキー映画として紹介される作品。時間も一時間無く短い。
 無声映画が主流の世にあって音の出る映画で驚くというのは、今となってはその感動の共感が難しいかもしれない。理屈では分かるがすぐに慣れそうなものである。事実無声映画は廃れていき、弁士なども失業した。よく知らないで言うのもなんだが、講談などの文化というのも、そのまま映画などの娯楽にのみ込まれて廃れたのではあるまいか。そうすると落語が生き残ったというのも、もともと映画と競合しない芸能だったということになるのかもしれない。
 話のスジらしいものはたわいのないものだ。ギャグとしても、ほとんど漫画的というしかない。しかしそこに音が伴うという楽しさが当時にはあったという。フィルムからの映像でそのような人物の動きや音が再現されるという奇跡への感動というものも含めて、映画を楽しめたということなのだろう。今の人間に失われた娯楽なのだ。
 主人公の妻を演じる田中絹代の下関なまりも話題になったそうだが、映画を見る限りそこまではよく分からない。妙な言い回しは古い女性の言い回しっぽくもあるし、また、科白の内容も人を食ったものが多いので、そのことそのものが議論になったのかもしれない。そうして時代を越えてそのトピック自体が残ることが、今となっては面白い訳だが。
 話と題名が合わない感じがしたが、原題は「隣の雑音」なんだそうだ。内容そのままである。しかしながら何故題名を変えたのだろうかと考えてみると、意味深な方がいいということもあったかもしれないが、少しエロチックな興味も引きたいということでもあったかもしれない。後半にはそのような感じがちょっとだけあって、やはり娯楽というのはそういう興味から始まるものかも、とは思った。黎明期は人間の欲求に素直ということで、それは現代のネット社会でも変わらない。今の世でもトーキーの登場は頻繁に起こっている事件なのかもしれない。
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求む、ふつうの人

2013-05-24 | 雑記

 僕らのような仕事をしていると、時々他の業界の人からむやみに褒められることがある。ありがたいこともあるが、くすぐったい。「大変な仕事」をしてるから、ということらしいけど、大変じゃない仕事の方が少ない気もする。そのうえで「誰かがやらなくちゃならない仕事ですからね」とねぎらわれるわけだ。
 学生時代に他の科の先生からこんなことを言われた。
「自分は最初からアメリカにあこがれて、そうして英語を必死で勉強して、最終的には教師になったが、しかし周りには当然福祉を目指す奴なんて全くいなかった。アメリカで一旗揚げたいとか、企業でバリバリ働きたいというのは、若い精神としてよく理解できる。ところが君たちみたいに若いうちから福祉の業界に飛び込んで働きたいという感情が、今一つ理解できない。それは悪いことではないのだろうが、しかし、最初から目指すところなのだろうか?(大意)」
 僕はこの先生の言わんとすることはよく分かるのである。いわゆる健全な精神であるとさえ思う。別にだからと言って後ろめたい気持ちがあるわけではないが、僕だって最初から崇高な精神性をもってこの業界に入りたいと考えているわけでもない気がしていたからだ。
 先日ある若い人を面談していて、どうしてこの仕事を選ぼうとしたのかと訊ねた(まあ、ふつうは聞きますね)。この人は転職組で、前に他県の老人ホームで働いていた。
 実はぜんぜん最初は目指していなくて、軽い気持ちの方が強かったのだという。人のためになるだろうという期待はあって、やる気がなかったわけではないが、むしろ下のお世話のにおいや、時には利用される方から暴言や抵抗にあって戸惑うことが多かった。でも、においなどのようなことは慣れていくし、抵抗されることも、不条理なこともあるが、仕方のない面もある。普段はあんまり感謝されるような場面もあるわけではないが、時々、本当に時々、感謝をされて嬉しく思ったり、お世話をすることで充実感を味わったりすることがある。自分は本当にこの仕事が好きなのかは分からないが、これからも続けていきたいとは思っている。ということだった。
 お話としてはそういうことで、たぶん僕も多かれ少なかれこの人のような感じが、僕らの業界人の感覚なのではなかろうか、と思ったわけだ。特に人に褒められるような仕事でも、崇高なものを持った人間が取り組むべき世界でもないと思う。もちろんそういう人が目指した方がいいのかもしれないけど…。
 しかし、うまく言えないが、そういう人であるからこの仕事がしたいというようなことを言われると、ちょっと戸惑ってしまうかもしれない。ちょっとばかり遠回りしたり、途中で悩んでしまったり、時にはひやりとするような失敗をやらかしてしまった人こそ、かえって信用できるということもあると思う。つまり普通の人。そういう人こそこの業界に一番向いているんではなかろうか。まあ、具体的にはだから、ちょっとうまく言えないですけど…。
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恋は罪を助長する   恋に落ちたコロンボ・刑事コロンボ

2013-05-23 | コロンボ

恋に落ちたコロンボ・刑事コロンボ/ヴィンセント・マケヴィティ監督

 脚本はピーター・フォーク自身らしい。演じる自分が望んだ役ということになるのかは分からない。確かにキスもするし、役得である。ついでに何かたくらみがあったのかは分からない。役者の気持ちは知らないが、むしろそういうものは人に見られないところの方がいいのではあるまいか。
 異色と言えばそういう感じもする。犯人の方がコロンボを避けるのならいざ知らず、むしろ懐に入ろうという魂胆かもしれない。それはある意味で上手く行き、そうしてある意味で空振りに終わる。コロンボにもファンがいるから、犯人を取り逃がす訳にはいかない。どうお話がまとまるのか、いささか不安な気分にはなるのだった。
 解決としてのお話のまとめはいささか気に食わない。それはたぶん僕が基本的にまじめなせいだろう。殺人がいけないのなら見つからなければいいのか、という疑問が付きまとう。逃げおおせられるというのはそういうことではないか。正当防衛ならいざ知らず、やはり計画的に殺さざるを得ないのであれば、そういうことを含めてやるべきなのではないか。特に倫理問題じゃないからそういうことを考えない方がいいけれど、コロンボにしては、やはり恣意的な結末じゃないかとも思えるわけだ。恋に落ちたんなら仕方がないのだろうか。
 復讐をしたいという気持ちは、人間には根源的にあるものかもしれない。ドラマなどでも悪人が悪いほど、残酷な結末でも気分がすっきりする。復讐劇は快楽なのだ。むしろそのことが法律によって制限されて、現代社会は不幸になっているのではないか。そういう疑いが少しだけある。もちろん全体的には悪くは無い。しかしどうしても許せない人間には、鉄槌が下されるべきなのではないか。
 同情の余地はある。それでも殺す前に付き合わない事を徹底して考える必要があるような気がする。そうこうしているうちに、誰か別の人が殺してくれるかもしれない。無責任だが、人間の道を踏み外さずには済みそうだ。最終的に良い弁護士につけば罪が軽くなったりするなら、やはり殺人の選択は魅惑的になってしまいそうである。
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旗色が悪過ぎる人を擁護しても仕方ないが

2013-05-22 | 時事

 橋下市長発言の議論は、居酒屋ではいいかもしらんが、もう国内世論では何が何だかわからん。選挙前の残念さというだけの話なのかもしれない。
 でもまあちょっとだけさらに残念なのは、国内世論だけじゃなくなったことだろう。アメリカさんを敵にしたらどうにもならんね、という敗戦国の悲しさという図式が明らかになったようだ。しかしながら負けた国なんだから史実を曲げても従うべきだということではなく、単なるあちら側の勘違いなのだから始末が悪い。彼らは自分らが間違っていることを認めたくないというだけのことではなく、本当に何も知らないで分からないでいるということらしい。
 従軍慰安婦問題は日本において(特別に)行われた人身売買の事実と人権侵害の問題だということが、歴史的事実として議会で承認されたということになっているということらしい。そんなことは何となく知らないではなかったが、だから反論してもどうにもならんということでもあるようだし、ましてやピントはずれな沖縄駐留軍の性の処理の話まで持ちあがってしまった。これを公の場で認めることは政治上不可能なので、沖縄の民間人の性暴力の被害の事実までも歪んでしまっているように見える。
 ここまで来ると橋下市長の完全なる負けであるのは明白そうだが、しかし橋下市長は反論を日本のメディアでしか行っていないようだ。これも混乱の原因で、日本の世論でさえアメリカが反発しているとか世論がどうだという、またしても歴史とは関係の無い議論で終始している。そうしたことから英語での発信力の問題にすり替わって問題提起するという知識人も増えている。英語でなければ国際世論では無いということらしいけれど、そういうことを発信する役目はやはり、国際発信に優れている米国駐留の人間が行わなければどうにもならんだろう(つまりその時点で韓国に敗れたということだ)。しかしそういう理屈は、アメリカが世界の歴史を確定する機関であるというようなチンプンカンプンさも含んでいるように見える。
 日本が認めようと認めなかろうと従軍慰安婦問題や南京大虐殺事件は事実として米国では定着しているということである。彼等が歴史を詳しく調べて確定したというより、スキャンダルとして衝撃的で認知されやすいということであって、結局はジャーナリズムであるとか政治であるという事実なのだ。それはそれで変で困ったことだけれど、結局はそういう変な国がアメリカという社会そのものだということだ。もちろん熱心に反論を繰り返すしかないのだが、それも米国世論の中で行うより仕方なかろう。歴史的事実といくらかけ離れていようとも、政治的事実というのは結局はそういうことだ。北方領土にはロシヤ人が住んでおり竹島には韓国人が住んでいるということなんだろう。
 もっともこういう問題はだから終わりというより、日本人の多くが心のどこかに引っかかっているアンフェアな思いを整理し直して、分離して議論するような場を再度構築していくより無いだろう。そうであるなら竹島問題は米国で議論した方がいいし、韓国の歴史そのものも第三者を交えてやった方がいいだろう。
 歴史問題や人権問題なども、そもそもそんなに極端に間違った認識を持った極右の人間である橋下市長の資質なんかである訳がない。確かにちょっと右っぽいところはあるが、恐らくそれでも中道に位置する人間がこれほど極右に見られることが、著しくバランス感に欠けている。そもそも彼が極右なら日本国民の半分以上は社会主義思想者(彼等は歴史でも書き換え可能だと思っているのだから)だろう。もちろんそのことに僕自身がいまだに気づいて無い可能性はあるんだけれど…。
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禁煙成功ほぼ100%の方法

2013-05-21 | 境界線

 煙草をやめて12年以上になるのではないか。もう吸っていたということさえ忘れられているようにも思う。火を貸してくれと道行く女性に声をかけられることもほとんど無くなった(なんでか知らんが若い女性から声をかけられるのは、ほぼこれだった)。喫煙者オーラというものが無くなっているのかもしれない。
 煙草をやめる方法について訊ねられることも少なくなったが、やはり病院にかかるなどした方がいいのでしょうか?と言われることもある。そういう方法が合う人はそうしたらいいと思うし、本当に止めたいという気持ちがあるのであれば、やってみるというしかないという気がする。やらないまま悩んでいる時間がもったいない。もちろん吸い続けたいなら、止めたいなどと思わない方が健康的だろう。
 本当に止めたいという人向けには、一つだけ決定的に成功の度合いが高そうな方法がある。有名な方法なので知っている人も多いとは思うが、何故か流行らないところを見ると、やはりこの方法を取らない人が多いせいではないだろうか。煙草で無くても、例えばダイエットなどでも可能な方法だが、やはりそれを知っていてもやらないだろうとは想像できる。
 その方法とは、簡単にいえば賭けてしまうことである。それも一方的に不利な状態である方がいい。例えば吸ってしまえば10万円を支払う、という程度くらいがいいかもしれない。成功報酬は無い。というか、それではのってくれる人は無いだろう。一方的に無情に失敗の時に10万円受け取れるような人がいい(またはそのような場)。奥さんとか親しい友人だと、言い訳したり割り引いてくれたりしそうなので、あまり良くない。本当に純粋に10万円損をするということが必要で、失敗したら必ず支払うということが保障されなければならない。
 大変に無謀な賭けであるが、しかしこの賭けをいざやるということができる人なら、その時点で禁煙はほぼ成功したということも言えるだろう。よっぽどの金持ちか馬鹿で無い限り、失敗して10万円損をする選択をするはずがないからである(金持ちなら金額を吊り上げればいいだけのことだが)。大変な抑止力になることも間違い無くて、吸ったことを絶対にばれないように工作するような人でなければ(そういう行動には何の意味もないことだ)、賭けを成立させた時点で勝者ということである。
 逆にいうと、この賭けに乗れないような人なら、本当には禁煙は成功しないかもしれない。自信が無いというだけのことではなく、本当に止めるという決心がついていないということである。つまりこの賭けをやろうと決めた時点で本気かどうかがはっきりするのだ。
 今回は分かりやすく禁煙ということにしたが、これは他のことでも応用が利く。それほど深刻で無い場合はどうでもいい話だが、何かを決心したらこの賭けをやってみるというのは、あんがい自分の生活をガラリと変えられる魔法という気がしないではない。ただ、失敗すると、それなりに立ち直れそうにはない訳だが…。
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破綻へまっしぐらの若き成功者   刑事コロンボ・狂ったシナリオ

2013-05-20 | コロンボ

刑事コロンボ・狂ったシナリオ/ジェームズ・フローリー監督

 ハリウッドの人間ドラマと演出そのものという雰囲気を楽しめる作品。コロンボらしからぬところもあるんだけれど、良く出来ているので楽しめる。犯人が性格的にも問題があって、それにかなりドジを踏んでいるところがあって、次々にコロンボの罠にはめられていくさまが痛快でもある。ささやかな抵抗を試みているようでいて、段々詰められて行きながら生活の方も破綻していくさまが、人間ドラマとしても面白いのだった。
 人生を上手く立ち回るというような事が可能な人もいるのかもしれないが、それがあたかもシナリオのごとく上手く機能しているのかどうかというのはかなり疑問だ。強烈な才能のある人が、その能力を駆使して地位を獲得するというのは分からないでは無い。しかしひとたびその地位に就いたものが、その才能以外のものを発揮しようとするならば、やはり上手くいくはずがないということかもしれない。その上に過去にキズのあるものは、忘れているようでいて、あとからそのことが持ちあがると簡単に崩壊してしまうということもあるのだろう。上り詰めるうちの誤りの度合いもあろうけれど、主人公の犯人の誤りというものが、あまりにも致命的に大きいというのが、まずは大きなポイントだろう。上り詰めているようでいて最初から破綻している。後になって考えてみると、そういう人物だったように思えてならなかった。
 これはあてずっぽうの想像なのだが、たぶんハリウッドの特殊技術などの新しい分野での若者の台頭というのがあって、この主人公の様に多かれ少なかれ自己中心的で、しかし会社の中では成功しているという人が、モデルとしてそれなりに存在したんではなかろうか。一見して変な人で、しかし何となく傲慢で自信過剰だ。新しい映像を創作する才能は飛びぬけているが、人間的には未成熟なのだ。しかしエンターティメントの世界では、観る人間の度肝を抜ける斬新さが必要だ。旧態依然の創作手法でやり続けられるほど甘くは無いということなんだろう。
 しかしながらそういう人間とコロンボの対比ということでも、感慨深いコントラストになる訳だ。エピソードの中に挿入されていたベテラン秘書のやり取りなど、年配者のしたたかな面にやり込められるということも印象的だった。日本に比べて米国というのは若い力に寛容という印象があるが、しかしながらこのような流れを見ていると、必ずしもそうではない、強力な保守的な精神性というものも垣間見ることができる。脚本は極めてお洒落だけれど、そういう背景も含めて溜飲を下げる人も多いことなのだろう。
 犯人にとっては本当に嫌な人間としてのコロンボは、調子に乗ってしまいがちな若い力への戒めでもあるようなのだった。
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他人事で生きない方がいいかも   ニーチェの馬

2013-05-19 | 映画
他人事で生きない方がいいかも
ニーチェの馬/タル・ベーラ監督

 お暇ならどうぞ、という感じ。早送りしてもまだ動きが遅いかもしれない。たぶん意味も同じくらいはそれでも理解できるだろう。まあ、そのような映画を観たという自己満足のためには糧になる可能性はある。暇なので余分なことを考えるわけだが、その余白の時間を作るための映画なのかもしれない。哲学的な雰囲気はあるけれど、それも気分の演出ということではあって、西洋的な単純な思想を反映しているということなのかもしれない。ショックが無い訳でもないし、その厳しさに心を打たれないでは無いのだろうけれど、だからといってこれが必然的なのかは分からない訳で、自らこの状態に投じているのならば、単なる人間的な娯楽である。もちろん映画も娯楽だから、退屈さを楽しむという方法を演出しているということなんだろう。
 この映画が賞を取るというのもよく分かることである。批評家たちは自分の苦痛を多くの人に分かち合いたいという気分になったのだろう。釣られて見る人が増えると、そういう気分は多少とも癒されるかもしれない。
 ただし、何故か蒸かしたジャガイモを食いたくなる映画ではある。それだけで良いかというのは無いけれど、蒸かしたてのジャガイモなら、塩だけでも十分旨いものだろう。土壌の違いもあろうし、かの国のジャガイモならば、特に旨い可能性もある。もちろんそういうことを言いたかったわけでは無かろうが、食いつなぐ食材としてのジャガイモというのは、あんがい優れモノという気はした。それでも残しているので、本当に貧困なのかもよく分からない。まあ、毎日ならば食いたくもないということなんだろう。
 神様が居ないのは他人事である。当事者にとってみると深刻だが、捉え方だから仕方がない。よい時ばかり神に感謝しても仕方なかろう。自然の中に人間は無力だが、しかしそれでも生きようということが生物としての人間だ。そこに意味が見いだせれば神が出現するのかもしれないし、見出せなくても神の死を必ずしも意味するものではなかろう。それは単なる宗教観というものの違いかもしれないが、人間の癖のようなものであることは確かだ。このような映画を観ると、改めてそういうことには気づかされる。もちろんこのこと自体が神の仕組まれたことであるというのであれば、その後に救いがあるのかもしれない。意識がそれを許すかどうか。生物としての答えは、もっと無情なものではなかろうか。
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ネガティブさは判断材料になるか

2013-05-18 | 雑記

 ネットで店を検索するのは日常の事となった。大抵は場所を検索するためであったり、予約のために電話番号を調べたりということであったりするようだ。そういう意味では既に何らかの情報があって知っていたり、案内があって探す必要があったということだったのだろう。
 未知の店だと、料理の内容もそうだが、どんな評判なのかと、いわゆるクチコミなどを見ることがある。大抵は通り一辺倒の内容ということが多いけど、お勧めの料理などがわかる場合がある。だいたいのあたりはつけられるわけで、出張などの時は割合に重宝である。
 そうではあるんだが、けっこう名店といわれるようなところであるとか、少しばかり評判の良い店に限って、かなりネガティブなコメントがついていたりして違和感を覚えることも多い。いろいろあるので必ずしもそうだということではないにしろ、案外新しめの店だとか、チェーン店のようなところでも妙なネガティブさがあるような傾向があるようで不自然である。
 考えられるのは、やはり妨害意識ということもあるだろうし、本当に何らかの恨みがある場合があるのかもしれない。店員の態度などを執拗に非難するような文章もあって、不満があったのは分かるので、実際に影響がある場合もあるかもしれない。店の人間が評判を気にして見るということを期待しているのだろうか(反省を促すという意味で)。
 僕自身はそういうコメントに左右されるということはほとんど無いのだけど、そんなに悪意を抱かれる店ということでは、かえって印象には残る。ついでにのぞいてみたいという興味もわくので、実際に行ってみるという行動に移る場合も多いような気がする。怖いもの見たさということではなくて、単純に実体験をしてみたくなるのだろう。
 そういうわけで、コメントとしては評判を落とすためのものであろうとは思われるのだが、店を選ぶ基準としては、ネガティブなコメントのある店というのは、それなりに間違いない店としての一つの基準になるとも考えられる。実際に行ってみると、やはり人気店だったり、美味しい食べ物がある場合が多いようだ。外見だけのところもたまにあるけど、別段そんなにグルメでもないので、行ったという足跡が残るだけでも楽しいかもしれない。つまりネガティブなコメントの店を選別して行く方が、比較的当たり障りのないというか、かえって当たり店という場合の確率が上がるような感じがするのである。
 もちろんそういう僕のような人間を増やすために店側のほうがそういうネガティブさを書き込むというのはありそうにないので、純粋に妬まれる店ということなんだろうね。
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まったく酷い話だよ   喜劇 にっぽんのお婆ちゃん

2013-05-17 | 映画

喜劇 にっぽんのお婆ちゃん/今井正監督

 これって喜劇とわざわざ銘打っても喜劇とは思えない内容だと思った。ほとんど絶望の風景。お婆ちゃんじゃなかったら、たぶんすぐに自殺しかねないいじめ問題だ(いや、だから死のうとしている訳だが)。もちろん風刺を利かせてデフォルメされている訳だが、思わず昔の日本人はなんてひどい人達ばかりなんだ、と思ってしまいかねない。今もひどいには違いないが、まだまだ老人が少数派だった時代はさらに過酷なことだったかもしれない。また、何となく楢山節考だって理解できる世代だったろうから、その悲惨な自意識というものだってあったことだろう。逃げているが逃げ場がない。逃げ場がないならもっと嫌な奴になるしかあるまい。負の連鎖がスパイラル状になっていく感じが凄まじかった。
 老人ホームには、当たり前だがお婆ちゃんの方が比率が高い。男より長生きするからという問題もあるが、結局家で世話を受けづらい環境があるせいではなかろうか。夫は妻が世話をする場合も多そうで、そうして夫に先立たれると自分はホームに行くということかもしれない。老人ホームは必ずしも仕方なく行くところでは無いとも思うが、仕方なく行かざるを得ない人が増えるというのは、やはり問題であろう。そのことを強いられる側の人々の象徴がお婆ちゃんであるなら、日本の幸福度を測るとき、お婆ちゃんを特にしあわせにできることが重要になるのではあるまいか。
 それというのも、結構しっかりしている人達ばかりである。これだけ達者なら、邪険にされなくてもよさそうなものなのに。いや、達者だからかえって困ることになるんだろうか。とにかく受け入れる環境が良くない。受け入れられない環境からの逃避と、折り合いのつけられない自分自身からの逃避と、二つの意味がありそうだ。つまるところ克服するにはさらに自分が強くなるより無いかもしれない。年をとっても過酷であるなら、人間の成長物語かもしれない。
 それで今の世は良くなったか? 映画に比して単純には答えられないが、何となく自信がない。自分がどうだというよりも、それを期待している国に対する信頼の問題かもしれない。僕は左翼で無いので、そういう社会が悪いからどうすべきだというつもりは毛頭ないけど、個人の問題意識だけで何とかなるものではやはりなさそうだ。日本は、政治的には老人が圧倒的に強い社会である。政策もだからかなり老人よりのものになっている。そうであっても何となく頼りない。たぶんそれは、誰もが本当には連携して頼れないという意識のせいだろう。先立つものをどうするか。安倍さんだけが頑張っても仕方のないことなんだろう。
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