カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

無宗教は困惑されるだろうか

2018-06-04 | culture

 外国人から宗教は何かと聞かれて、返答に窮したという話は聞いたことがある。又は無宗教だと答えて、怪訝な顔をされたという事も。実は僕は、何度かそのような質問を複数の国の外国人から問われたことはある。しかしながら特に信仰は無いと答えたところで、怪訝な顔をされたことは無いし、まあ、そうか、という感じですんなり済んだ。正確に相手が何を考えていたのかまでは分かりえないけれど、困ったことにはなっていない。だから先にある困惑というものを、あまり考えてもいなかった。
 外国人といっても、やはり恐らくこれは西洋人のことを指していて、そうして恐らくキリスト教のことを言っているのだろう。キリスト教である前提が先ずあって、宗教とは宗派を指しているのだ、という話もある。カトリックやプロテスタントというだけでなく、さまざまな宗派があるのだという。まあ、そういうこともあるかもしれないが、要するに信仰してない人というのが、彼らの前提には無いかのような気分があるのだろうと思う。
 しかしながらである。外国人の大多数をやはり知らないまでも、僕は外国人が無宗教であると答えている場面を何度も見ているのである。ある人は西海岸の人だったと思うが、特に信仰してないとはっきり言っていた。子供のころには親と一緒に教会には行っていたが、その後は特に熱心では無いという事かもしれないが、その時に、アメリカにおいてもそんなに信仰に厚い人ばかりでは無いという話をしていた。日本人の僕にあわせてそういう話をしたのかもしれないけれど、まあ、そんな感じである。
 僕の知っている外国人は、圧倒的に中国の人が多いけれど、彼らにしたって、信仰というのは世代的に親以上の習慣だという話は普通にされていた。祖先を大切に思う気持ちはあるにせよ、何かそれが一神教的な信仰であるというような感覚では無いという事のように思う。韓国ではキリスト教が盛んらしいが、アジア的にはそこまで宗教があるかどうかにこだわっていない気もする。もっともやはりタイに行ったときは、仏教だとはっきり言っていたけれど。
 無宗教である日本人は、世界の中で特殊であるという言説は、だからだろうか、少し感覚的に僕には怪しいもののように思える。一神教的な信仰が、紛争の種になっていることは分かっているが、やはり最終的には個人に帰するものだという感覚は、ある程度の国際的な許容としてはあるのではないか。確かに身近にイスラム系の人々に対しての知識が少ないとは思うものの、イスラムにしたって、一般的には自分らと違う宗教の人に(または無宗教に)そこまで関心を抱いてはいないのではないか。
 もちろん原理主義になりすぎると、ちょっと厄介だな、とは感じる。遠くにいるから関係が無いだけのことで、隣人問題としては、共存の問題としては、もう少し踏み込んだ理解は必要だろうけれど。
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自動車学校は生き残れるか

2018-05-05 | culture

 東京や大阪の出張の時は、まずレンタカーなどを借りることは無い。公共の交通機関が発達しているので、手段としてそのまま駅に行けばいい。車はたくさんあるようだが、そういう意味では車社会では無いと考えている人もいるかもしれない。時間も正確だし、渋滞などの煩わしさも無い。また給油や駐車場確保など、そういうことを気にする必要も無い。もっとも駅のそばで無い目的地などになると、多少困るかもしれないが。
 東京の近郊に住んでいる人で、車の免許を持たないという人もいるらしい。免許を持つ必要が無いというのを、いわば自慢げに聞くこともある。自分の特権では無いとは思うが、そういう必要が無い生活はうらやむべきことであるという意識があるのかもしれない。都市生活を満喫しているというのは、すでに人間として上位の生活であるという事なのだろうか。感覚としてよく分からないものだが、ある種の自由さのようなものを感じておられるのかもしれない。車に縛られない、又は煩わされないというのは、人間的な自由さなのだろうか。
 ピンと来ないのは仕方がないはずで、羨ましくは無いのである。田舎暮らしが素晴らしいとばかりは言えないが、電車で無くて車であるというのは、なかなか楽しいことだからである。電車は大量輸送には適していることかもしれないが、やはり田舎の人間には少なからず煩わしい。待たずに頻繁に来ると言っても、まったく待たない訳では無いし、さらに人がたくさん乗っていたりする。座れないかもしれないし、窮屈である。いろいろマナーのようなことがあったり、時には妙な人がいたりして、緊張する。そうして乗り継いで行っても、けっこう歩かされる。それはそれで体にいいもしれないが、果たして自由で便利なのか。そういうことに縛られているような感覚があって、たいへんに疲れる。出張などの一時のことだから、なんとか我慢できるという事なのではないか。
 ドライブするというのは、そのまま娯楽である感覚がある。車は危険な乗り物であるとはいえるが、しかし運転すること自体は、それなりに楽しかったりする。渋滞すると面白い訳では無いが、車の中では音楽が聴けるし、誰か乗っていれば会話もできる。カーナビの設定によっては電話も自由だ。煙草を吸う人は、自分の車なら気兼ねしない空間かもしれない。直接吸うだけでなく受動喫煙も、煙が蔓延しているのでばっちりだろう。
 田舎は車が無ければ暮らしが成り立たないが、その車自体が娯楽なのである。鉄道はダイヤが少なくなり、ますます経営は難しくなっているようだ。路線は削られ本数は減り、ますます不便になる。それはさらに車への依存を高めることになるだろう。また、将来的には自動運転という流れも出ている。確定してはいないが、恐らくそうなれば、高齢者の免許返納などの問題も無くなるかもしれない。ドライバーの必要ない車も登場するかもしれない。免許なんていらないというのは、どこに住んでも当たり前の世の中になるかもしれない。免許のいらない優越感というのは、その程度のことである。
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丁寧でいい人かもしれないが仕事には向かない

2018-04-21 | culture

 最近はメールのやり取りが仕事の一部になっている。当然と言えばそうで、朝からメールチェックが仕事の始まりという人も多いことだろう。メールなんで休みの日も関係なく、個人で仕事のやり取りをする人も多いのではなかろうか。
 そういう迷惑なメールなんであるが、少し気になるのは、このメールの文章の長い人がいることかもしれない。時候の挨拶があるのはいいにしても(定型は型があるのかもしれないし)、何か文章として説明が長い。不必要に丁寧過ぎる修飾が多いようにも思う。結果的に文章の内容のわりに、何かスペースを埋める文字数が多いように感じられる。
 これは多少プレッシャーを感じないではない。返答する内容はイエスかノーかの二択なのに、その理由まで丁寧に書かざるを得ないような圧力を感じる。そうなると推敲するに億劫だし、単純に返答するのが何か軽々しく感じられるような、そんな心象があらわれるようにも思われる。返答は簡単なはずなのに、すぐに返事が出来ない。なにかベースそのものがざわざわと乱されるのである。
 と、いいながら、僕は基本的に短く返答するようには気を付けている。早く返答するにこしたことは無いと感じているからだ。複雑なものが含まれる場合は、メールの案件であってもしつこく電話で相手に連絡をする。ニュアンス的に誤解をまねくより、その方が安全と考えるためかもしれない。メールの文章は長いから理解できるというものではなく、かえって不安をあおるようなものを含んでいるような気配がある。そういうものは直接聞いて確認するより無いように思われる。
 ということで、僕のメールの返答はそっけない場合の方が多いと思う。確認は「了解」(近年はこれを「承知」と書くべきなどの馬鹿なビジネスマナーがはびこって閉口するが)で済ませるし、できるだけ意見を書かないように心掛ける。相手が余分に考えを巡らせないように、逆に配慮しての結果である。まあ、正直言って面倒なだけだけど。
 でもですね。メールの基本は簡素のすべきと思いますよ。たとえ相手が偉い相手でも、メールであるならばそうすべきだ。もっともそもそも依頼など、最初にメールですべきことであるか考える必要はあるだろうけど、メールである以上は、本来的にそうすべきなのである。メールで一日の仕事に支障があるのであれば、メールなんてのは止めるべきなのである。
 ということで基本はメールのやり取りで済む案件はそれでいいのだから、簡単にやりましょう。長いやつは警戒心が生まれるだけで、むしろその丁寧さで、仕事の気力を阻害する。そういう人と仕事が本当にしたいと思うか、よく考えた方がいいのではないだろうか。
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においトラブル

2018-02-14 | culture

 においトラブルというのがあるらしい。体臭を気にすることも指すし、柔軟剤や芳香剤などの科学的な匂いに拒絶反応を示すような人も多いという(それで日常生活に支障をきたすような人も)。接客で体臭の指導をする企業もあるらしい。
 都市部は人が多いので、密集しやすいとか、一定の場所とも関係があるのかもしれない。電車やエレベータなど、人が近づきすぎなければならない場面も多いだろう。体臭だけとは限らないが、化粧などいろいろな匂いが混ざって、むせるような体験をした人も多いことだろう。これが逆に他人への配慮を必要とするのではないか、という不安にもつながるのかもしれない。
 日本には、特に匂いなどを取る商品なども多数売られている。宣伝だからマナーめいた脅迫のような表現も見られるように感じる。注意喚起されて、改めて気になる人もいるのではないか。それというのも、諸外国では、ここまで気にしているとは考えにくいからだ。
 でもまあ柔道の抑え込みなんかを見ていると、気の毒になる場合も無いではない。まあ、とりあえず頑張っているし仕方ないけど。
 僕もまあ発生源の方だとは思うが、そこまでは気にしてない。ひとと会う約束があってもニンニク料理を食べることに躊躇は無い。迷惑かも知れないが、距離というのはあるし、それになんといっても、ひとよりニンニクとの付き合いの方が、歴史もあるし今後のつきあいも長くなるだろう。まったく、ごめんなさい。
 また、クサいと言われたところで、とりあえずはその場はどうしようもない。ああ、そうなのかすいません、以外に何ができるというのか。一種の開き直りだが、家に帰ってシャワーを浴び直すわけにもいかないだろう。あまりにも強烈過ぎるのは確かに事前に考えるべきなのかもしれないが、取り返しがつかないものを考えても仕方ないようにも思う。気にする人は、だからその前に気にしているという事なんだろうけど。
 嫌われるかもしれないという恐怖感は、ムラ社会と関係があるかもしれない。今後も関係を続けなければならない相手と、出来る限りトラブルを避けるという考えもあるんだろう。それは分かるが、クサいときもあってそうでない時もあるというは、その人のあってもいいことのようにも思う。まあ、毎回注意されたら考えるかもしれないが。
 しかしもう元には戻らない感覚が、世間では、すでに定着しているのかもしれない。それを知らないは僕のみという事に、ひょっとしたらなっているのだろうか。
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サンタが来ない家

2017-12-24 | culture

 職場でクリスマス会があるので、恒例でサンタの格好をさせられる。近年は予算の範囲ではあるが、事前にだいたいの希望を聞いてプレゼントを買っているらしい(担当の職員が)。プレゼントの袋に付箋紙で名前が書いてある。それを僕が配る訳である。お礼を言われて毎回申し訳ないような気分になる役割である。
 それはいいのだが、そういう訳で当たり前だが、誰もサンタさんがプレゼントを持ってきたとは本当は思っていないと思う。自分の子供が小さい頃はサンタさんは居たはずだが、いつの間にかまったく気配が感じられなくなったものである。
 僕の母親はクリスチャンだから、子供のころにはサンタが来た記憶がある。僕には下のきょうだいも居たので、しばらくはサンタが来た。24日には七面鳥で無くチキンを食べて、翌朝になるとプレゼントがあったような記憶がある。何故か、7つ上の姉が一番はしゃいで盛り上げていたような気もする。今考えると、親とグルになっていたものと考えられる。姉もサンタさんだったに違いない。おもちゃなどのほかに、靴下にキャンディなんかも入っていた。確かにしあわせな記憶だが、いつまで続いたのかよく分からない。何故か父がいたかどうかもあんまり記憶にない。
 子供のころの記憶でいうと、サンタがいるかもしれないというのは、小学一年生くらいまでだったと思う。何故ならサンタが親だと教えてくれた友達とケンカした覚えがあるからだ。でもなんとなくは分かっていたような気もする。分かってしまうのがつらかったのだ、たぶん。
 ある本を読んでいてびっくりしたのだが、最近は高校生になってもサンタからプレゼントをもらう人が5割に達するらしい。いや、厳密には親がそうしているという事だろうけれど、中には親からのプレゼントとは別にサンタからももらうのだという。これを夢のある話だと考えている親が多いらしいが、かなりクレイジーなんではないか。日本は大丈夫だろうか。
 自分の子供がいつまでサンタを信じていたんだろうか。上の子は、しばらく信じていたいと思っていたフシがある。ともあれ彼らが小さい頃は、24日の夜はなかなか寝ないので、こちらもサスペンスな夜更かしをした。そういう時期があったことは良かったが、それが長く続くのは、やはり御免だという気がする。子供が大人になって本当に良かった。
 大人になってサンタがいなくなって、クリスマスがつまらなくなるかというと、そんなことは無い。そういう習慣はあっても良いし無くてもいい。誰もがするのなら参加しないし、自分がやりたければ、勝手にやるだけことである。そういう感じが一番いいのではないだろうか。
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ラリったり酔っぱらったり

2017-11-22 | culture

 外国の映画を観ていると、時々普通に麻薬をやっている場面が出てくる。日本人の一部は、何か煙草でも吸ってんだろうと勘違いしている人もいるかもしれないが、キメている感じはある程度は伝わっているはずで、そういうものはアメリカの生活の一部を表している場面と考えていいだろう。彼らの庶民の日常の中に麻薬(ドラッグ)がある訳だ。
 害がどうだという話は置いておくが、そうなってくると、人が話をしたり付き合ったりする社交の中で、ドラッグ問題が出てくる。まあ、勝手にやってる分にはいいが、俺は遠慮するよ、って人もいていいが、それは面白い人間では無いかもしれない。実はちょっと上物もってるよ、というのは、気の利いたヤツという意味の株を上げるかもしれない。
 そういう背景が分からないために物語そのものについていけない、ということまでは無かろうが、だいぶ分かりにくいという程度は生まれるだろうと思う。実際にドラッグのためにつくられたと言われる映画はあって、例えばイージーライダーなんて、多少ラリってないと面白くないところもあるんじゃなかろうか。当然使われている音楽も似たようなもので、ラリっている気分を助ける音楽というのはある。映像と重なって、こりゃあいいなあ、という感じだろうか。もっともいくら米国の映画館であっても、マリファナ吸ったまま観ていい訳では無かろう。クスリ系をやるか、家でDVD鑑賞の時に楽しむのかもしれない。
 文化として違うのでどうにもならないが、日本でも酒に酔って観るような作品というのは無いではない。もともと観劇なんてものは、升席桟敷席なんてところは、弁当食ったり酒を飲んだりしたものだろう。酔うと掛け声をかけやすくなったりするかもしれない。今の時代は高級な遊びになっているので、べろんべろんで鑑賞するような人は少なかろうけれど。江戸時代までさかのぼると、けっこう観衆もへべれけで面白がっていたのではなかろうか。
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大人しい人たちの下品で自由な文化

2017-11-08 | culture

 テレビで日本のビールの話題をやっていた。外国人から見た日本のビールには、不思議なところがあるらしい。
 まず日本のビールは大変に冷たい。ジョッキまでギンギンに冷やしたりしている。冷やさないビールの方がどうかしていると思うが、やはりびっくりすることなのか。実はヨーロッパなどは酵母の関係なのか、常温で飲むという話は聞いたことがある。それでうまいというのならかまわないが、日本人にはたいして旨いものでは無いという話も聞いている。冷えてないのはそれくらい致命的だが、彼らだって日本に来て冷えたビール飲んで、考えが変わらないものなのだろうか。確かに香りは楽しみにくくなるのかもしれないが、ぬるいのを喜んで飲むのは、僕らの感覚からすると、からきしごめんである。
 また、生ビールなどをサーバーで注ぐときに、泡を足すのも不思議なんだという。ビールの量をごまかしているように感じる外国人も多いらしい。ビールの味は、泡が風味を閉じ込めている為に保たれていることは、いわば僕らには常識的だ。ビール工場に行ったら必ずレクチャーされる重要な部分だ。酒屋だってちゃんと教えてくれるはずだ。だからこそきめ細やかな泡を足せるような注ぎ方を、僕らは尊んでいる。要するに感覚よりも実際をちゃんと知っているかどうかという問題で、外国人は無知に過ぎないということだろう。
 一気に飲んでプハーというのも気になるらしい。これは外国人が人目を気にし過ぎるからだろう。食事で音を立てたりげっぷをしたりなどが失礼に当たる事とも関連がありそうだ(マナーとして)。しかしビールはぐびぐび飲むのでプハーな訳で、上品に飲んで楽しい飲み物では無い。蕎麦は音を立てて食べるから風味が増して美味しくなる。そのような食文化の真髄を知っている文明国では、ビールで音を立てて飲むのを躊躇しないのである。
 スポーツ観戦でビールを飲むのを禁止している国も多いという。要するに治安維持の為だろうが、日本でスポーツ観戦してビールを飲めるしあわせを、もっと享受した方がいいと思う。治安回復のために、他の国はもっと何か根本的な努力をすべきであろう。
 また、ビールを飲みながら豊富な食事を楽しむのも不思議なようだ。不思議に思っているそのこと自体に大変な偏見を感じるだけだが、外国というのは本当に窮屈なものらしい。
 しかしながらビールというのは、完全にもともとはよその国の文化だ。そういう意味では日本の独自性は、何かを間違った所為だという事は言えるかもしれない。そうは言えるが、間違ったおかげで旨く楽しいビール生活を送れている訳だ。税金の所為で妙な多様性が生まれていることも、ある意味で楽しみを増やしている。正当なビールからはかけ離れたビール文化というのは、今やそれなりに貴重なものになっているのではなかろうか。
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ぎりぎりセーフが次を活かす

2017-08-20 | culture

 子供にゴルフのレッスンをつける番組をやっていた。技術的なことはよく分からないが、基本的には自分のゴルフのプレーに自信をつけてもらうために、良い記憶を残すことを心がけて指導していた。特に面白いと思ったのは、ボールを打った後の自己評価を6段階に分けることだった。うろ覚えだが、とにかく5番目が悪い。6番目は最悪。上から1最高。2良い。3まあまあ。4ぎりぎりセーフ。なんか少し違うところもあるかもしれないが、基本的に上位4つが良くて、後の二つがどうしても良いと言えないもの。よっぽど悪くない限り、結果OKという姿勢なのだ。
 見ているとゴルフの上級者の子でも、自己判断が厳しい。見た感じしっかり打てていても、すぐに「ダメだ」とつぶやく。確かにもっと良いショットを打てる自信はあるのかもしれないが、悪くないものを切り捨てていつまでも自己嫌悪に陥っている。なんだかプレーも神経質な感じだ。ミスが許されないプレッシャーに自らを晒している感じかもしれない。
 一方で多少悪くても、4のぎりぎりセーフがあることで、次の挽回に目を向けることができる子が出てくる。失敗を引きずらず次にいいイメージのままプレーに集中できる。そうしていい流れを自ら引き寄せることが出来ていくのかもしれない。
 日本の指導の一番の欠点は、ミスを指摘してそれを意識させ、二度とそのようなことをしないように改善させていくやり方が主流だからかもしれない。結果的に練習ではできることが、本番では萎縮してのびのびとプレーできなくなる。肝心な場面や、勝負どころで流れを引き寄せられない。そういうこととも、この指導のポイントは関係あるのではないか。
 多少悪くても、本当に悪い訳では無いのなら、ぎりぎりセーフでよい。そんなんだからお前はダメだ、という指導者がいるのは分かる。だけど自分ではセーフにしておく。そんな人が将来は伸びていく。もしくは今から自分を伸ばすことが可能になる。
 自己評価は6段くらいにするというのは、自ら本番に強く生きて行くための工夫かもしれない。
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暑い夏に何をやってる高校野球

2017-08-10 | culture

 高校野球のニュースが載ってない無い新聞があったら取ってもいい、というようなことを、むかし村上春樹がエッセイで書いていた。スワローズ・ファンで野球好きの村上は、高校野球の喧騒に嫌気があったようである。しかし彼の性格からすると、恐らくそういう喧噪の日本人気質を揶揄したい外国通の自分という立ち位置がそういわせたというのが正確なところだろう。そう思っている少数派の自分は、今風にいうとクールじゃないか、という演出だったのだろう。もちろん高校野球に興味のない人というのはそれなりにいる筈なんだが、わざわざ新聞と絡めていうような人はさらに少なかろう。新聞を取りたくなかったらとらないというのは、高校野球と関係なくそうすればいいだけのことだ。
 もっとも高校野球の特殊性というのは、いささかうんざりさせられないことも無い。わざわざほかの高校の競技とは時期外れに開催されて、さらにスポンサーもありながら、NHKで全試合が放映される。理由としては戦前の戦意高揚に利用された伝統がいまだに続いているだけのことと、終戦後もお盆という時期に重なる鎮魂の意味あいが、いまだに日本人の多くの心に残っている為であるとされる。戦後が続く限り、これに疑問の残る人はあまりあらわれないのかもしれない。
 それにしても近年も、この喧騒は結構長期で続くようになっているようにも感じる。他の地方の大会においても、スター選手は報道されて目にするようになった。抜きんでた高校球児は、後に普通にプロでも活躍することだろう。大リーグまで行くと、今度は日本代表選手扱いだ。これもなんだかやはり、戦争の匂いが、もしくはきわめて国民的な意識統合と関係のありそうな感じだ。僕は個人的には保守的な人間だけれど、そういうものとのシンパシーは弱い。新聞は取っているけど、高校野球はそれなりにスルーしてしまうのはその所為かもしれない。
 80年代には減少に転じていた球児の丸刈りも、実はまた最近になって、割合として増えているという。比較的常連校が安定して勝ち上がってくるようになったこともあるように思うが(伝統校はOBが、丸刈りでなければ許さないだろう)、強制が解けたほうが、自由に丸刈りを選択する空気を作っているということもあるかもしれない。そういう空気というのは、他だったらたぶん問題視されるだろうが。
 出身地区の高校の活躍が気になるというのはなんとなく分かるが(戦いは代理戦争を意味しているのだから)、近年はあんがいそうでもない人が、一定の高校を応援するなども目立つように感じる。やはり報道にも偏りがより明確で、好かれる学校や好かれるスターがいるようだ。活躍によって注目が集まるというのは以前からあるが、このエスカレートのされ方で、逆に力を出せない人がいるように見える。まあ、相手も委縮して、力を出せないというのもありそうだが。
 しかしながら今年はことに暑い夏だ。僕などは子供たちがそれなりに成長し、部活なんかで応援するような事が無くなった。息子たちは野球部では無かったが、暑い日に応援や観戦するだけで、かなり消耗したものだ。それなのにあの甲子園の喧騒は何だろう。こんなに暑いのにナイターで無く日中に試合が組まれる上に、観客も汗だくで観戦している。甲子園という場所に意味があるのは分かるが、春はともかく夏の大会は、東北や北海道でやるべきではないのか。暑さと戦うのも夏の甲子園だ、という人がいるが、今まで死人がそんなに出ていないから悠長なことが言えるのではないか。熱中症対策だの温暖化だのゲリラ豪雨などが騒がれている中で、この時期にあの暑い場所に人が大勢集まる事のリスクは、そんなに軽いものでは無いのではないか。
 結局村上春樹のように気取りたい訳では無いが、高校野球はそんなに盛り上がらない方がいいように思う。少なくとももう少し適当な感じで、家電売り場でひとが涼みながら観ているのをみて、そういえばやってたんだな程度であれば、日本はより平和なんだと感じる訳である。
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人付き合いの下手な人から付き合い方を学ぶ

2017-07-25 | culture

 ぱらぱらと本を読んでいたら、「浪費家は金銭を与えたがり、能無しは助言を与えたがる」と書いてあった。なんとなく上手いことをいっているという雰囲気はあるが、どうなのか。要するに為にならない助言はいらないというのはよく分かる。しかし金持ちがため込んで使わないより、ちゃんと浪費してくれた方がいい。金が無いのに配るという人は、本人や肉親は困るだろうが。しかしながら周りにいる人が、それで助かる場合もあるのではないか、という気もする。いや、そんなに義理も無くたくさんもらう必要が無い、というのは分かる。しかし、何か困っているような時にそんな浪費家がいてくれたら、それは良いことでは無いか。いや、単にくれるだけなんてことを本当に信じてはならない、ということなら、理解できるが。
 この本は、他にもなかなか妙なことを書いている。例えば「信条を曲げない」という項目がある。内容は「熟慮の末にもう人に本を貸すのはやめようとか、ワインはこれだけの量しか飲まないと決めたなら、たとえ実の父親に説得されても、最初に決断するに至った動機が有効であるうちは撤回してはいけません(抜粋)」とある。そういうのはそもそも信条の問題なのか、という疑問があるのと、人間的に妙に狭量だ。
 また「決まり文句は控える」という項目では、光陰矢のごとしということわざは間違いであり、光が基準より早くなるのは不可能と説き、そのように感じられる人は、いつもより睡眠時間が長かったか、ぼんやりしていたからでしょう。という。そして、決まり文句を聞くとうんざりするし、無意味で白々しく感じる、のだそうだ。重傷で床についている人に「お元気そうで安心しました」と言い、どんな子供にも「年のわりに大きいね。それにお父さん(お母さん)にそっくりだ」などと声を掛けるような人を非難している。いったいこの作者の身に何が起こったというのだろう。
 これはアドルフ・F・クニッゲという人が書いた「人間交際術(イースト・プレス)」という本で、ヨーロッパで100年も読み継がれた処世訓のようなものだそうだ。当時の人々には役に立ったものかもしれないが、現代では驚くほど当てはまらないことが書いてある。そうであるから、このように的の外し方が暴投過ぎて笑える、というのはある。ほとんどの日本人には馬の耳に念仏のようなお題目だけど、これも日本人に翻訳されて読まれることがあるのだろう。需要としてこんなことに感心する人がいるなんて、僕にとってはとても不思議だ。世の中というのは、やっぱりシュールである。
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携帯に影響受けない訓練を

2017-06-27 | culture

 会議や研修の時に電話が鳴る。最初に注意喚起される場合も多いし、今はさすがに減ったとも思われるが、それでもいまだにこれは起こる。当事者はほぼ高齢者。中には壇上で発言しているとかいう場合でも鳴らしている。これは呆れるというより、恐ろしいとも思う。
 最近はマナーモードなら良いという認識もある。遠くの人なら気にならないかもしれないが、これはやはり鳴れば(振動すれば)結構周りも分かるものだ。出られないから無視をする人が増えて何よりだが、しかしなんとなく一定時間皆が緊張する。自分の携帯かもしれないと確認する人もいる。自分じゃないとホッとしている。それから誰だろうときょろきょろする。謎のままという場合も多々あるようである。
 鳴っている人が自分の携帯を取り出して画面を見ている。誰からか確認をするとおもむろにまた携帯を戻す。何を考えているか知らないが、今は無視していいという確認にも見える。又はそのような相手を軽く見ているような印象も受ける。やはりいっそのこと見ない方がいいようにも思う。
 そのまま会議の場から立ち去る人もいる。まったく忙しいものである。立ち去りながら電話に出て、大声で「ハイハイ」と言いながらドアを勢いよく開けて出ていく。結構うるさいと思う。あろうことか、席上そのまま電話に出る人もいる。今は会議中なので出られない、と返事をする人もいる。「だけど、何の用?」などと会話を始める人もいる。だから出てはダメなのだ。電話の強制力とは本当に恐ろしい。
 アクセルとブレーキを踏み間違う事故が増えているという。ちょっと考えられないな、と思っていたら、電話が鳴って驚いて踏み間違うケースが結構あるんだそうだ。テレビで実験しているのを見たことがある。多くの人が電話の音で、運転に影響を受けていた。また、踏み間違うことが無くても、少しブレーキを踏むタイミングも遅れるらしい。運転中たまたま危ないときに電話が鳴ると、そのまま事故を起こしてしまいかねない。こうなると、電話は命の問題だ。
 電話を無視する訓練が必要じゃないかと思う。電話が鳴ってもふだんから無視できるようになると、影響を受けにくいのではないか。そもそも携帯を持たないという猛者もいるが、やはり現代生活の上では現実的でない。マナーの問題という以上に、踏み込んで訓練を受けるべき問題になっているのではなかろうか。
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「ハミルトン」が愚かしさの代名詞になりませんように

2017-06-03 | culture

 ブロードウェイで社会現象的な大ヒットなっている「ハミルトン」というミュージカルを取り巻く話題というのを見た。内容は、現代アメリカの対立。アメリカの建国の父であるメンバーの一人で10ドル紙幣の顔にもなっているハミルトンという人の伝記ものを、ラップなどを用いて斬新な演出をしていることがウケたということと、これを演じている人たちのほとんどが非白人ということ。さらに反トランプということのようだ。エンタティメント系が反政府というか革新的な思想であるというのは、まあアメリカに限らずありふれていることだが、これが今の拮抗した政治バランスの中での新たな政治問題として脚光を浴びているということらしい。ちなみにあまりにも売れているので、チケットは通常ルートでは入手不可だという。
 さらに事件は起きて、トランプ政権の副大統領のペンスという人が、娘と共に観劇した(しかしながらこれは昨年の11月の話らしい。まあ、すでに古いには古い)。客はブーイング。しかし最後まで観た後、カーテンコールの時に出演者の一人がペンス氏に向けてメーセージ文を読んだ。主要な閣僚として、トランプのように差別的にならずに人種を越えて考えて欲しいということらしい。これに対して怒ったのはトランプ大統領で、ツイッターで失礼だから謝罪しろとつぶやいた。当のペンス氏は大人の反応で、観劇は楽しんだし、メーセージを受ける行為についてはノーコメントとした。やり取りを見た人が判断したらいい、ということらしい。要するに俳優側もトランプも、子供みたいなことは止めたらいいということじゃないか。
 このやり取りを受けてトランプ支持者側は、売れに売れているミュージカルを、ボイコット運動したりしている。でもやっぱり人気は落ちることなく、むしろもっと売れているのかもしれない。しかしながらやはりこれに嫌悪を覚える大衆が、反ハミルトンを形成しているということらしい。
 なんにでも意見を言えることは、アメリカの素晴らしさであるとは思う。思うがやはり単純で未熟だ。自分が正しいは相手が明確に間違っていることと同じだ。だから自分が正しい場合は相手を罵倒する。それがやはり正しさのゆるぎないところにもなるということだろう。拮抗しているので、これが最大限の激しさとなる。どちらの正しさの声も最大限デカくなっている可能性もある。日本のように負けた方が吠える(必ずしもそうとばかりではないにせよ)という図式とはちょっとばかり違う。はたから見ていて思うのは、どちらも限りなく愚かしく馬鹿だ。
 一神教がいけないのかどうかは分からない。対立によってどちらかが負けると、それでいいという手段である。もちろん負けた方は、次の勝に向かって勝負を懸けるだけのことだろう。
 自分だけが絶対に正しいというのは、宗教的には正しいということだろう。それは真実として科学的に正しい訳では無い。さらに結局最終的に正しかったとしても、それは正義でもないだろう。強いということが言えるだけのことである。このような幼い近代は、アメリカだけのことでは無い。残念ながら人間の精神性は、このような幼さへ向かって時代を歩んでいる。人間の本質がこのような愚かさであるというのは、今のところ信じたくない事実である。
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残業なしは実現できる!?

2017-05-23 | culture

 SCSLという会社がある。IT企業らしい。いわゆる業界的には長時間労働が当たり前で、実際そのような会社だったのだが、残業を減らしただけでなく、有給休暇も100%取得でき、社内の福利も充実した会社で、業績も落ちてないのだという。ここまで来ると、普通の日本人の感覚なら、何かカラクリがあるのではという疑問を覚えるのではあるまいか。それは普通に考えてちょっと無理がありそうで、何か大きな嘘をついているだけではないのか。しかしながらその感覚は、やはり日本の商慣行や文化などに照らし合わせて感じるものであって、外国人ならどうなのだろう。
 面白いのは、そのような取り組みを実行したという元社長で、今は相談役の仲井戸信英さんという人のようだ。先の勤め先であった商社では、新入社員時代から有給を先に取り、必要最小限の残業しかせず(奥さんが前から早い時間に帰って来ていたと証言していた)、接待があっても二次会には出ない(お酒はあまり飲まないようだ)で帰る、というような人だったらしい。当然先輩たちからは生意気だとひどく叱られたが、そのことが何故悪いのか、と言い返すような人のようだ。さらにそのために結果はちゃんと出す(または、出せたということだろう)。
 親会社から子会社のIT企業へ天下って社長になったということだろう。そこでブラック体質の現状を知る。しかしながらそれでいいとはとても思えない。健康でなければ働けないのは間違いないことではないか。家族に手紙を書き、会社として社員の健康を考えていることを伝え、協力を求める。社員には効率を求め、会議は立ったまま、最高でも一時間。レポートは一枚にまとめる。など。そして何よりも、残業をしなかったら、していない人にはボーナスを増やす(要するに残業代の支払いをしない分を還元するということらしい)のである。健康チェックをして、毎日一万歩歩いたり、歯を二回以上磨くなどしたら、やっぱりボーナスポイントが上がる。禁煙成功出来たら報奨金が出る。勤務時間に社内のマッサージルームを使うこともできる。ちょっとおせっかいな気がしないではないけど、面白い。さらに関連会社にも、無理な発注をしないで欲しいとか、社員の休みに理解を求めている。そこまで来ると、なんなんだこれは、という感じか。
 当然利益が出ないことには、業績が良くないことにはそんなことは出来ない。さらにそういうことで他の企業との競争にも勝てるのか。しかしながらもともと日本の企業というのは、生産効率がものすごく悪いことで知られている。単に外国企業並みに効率が良くなっただけなのだろうか。
 いろいろと考えさせられるのだが、素晴らしいと思うのは、残業を減らすという掛け声だけでなくて、システムとしてインセンティブを上手く使って実効策を練っているという点かもしれない。最初は社員の方が、そんなことは無理だと思っていたらしいが、しかしいつの間にかできるようになっていったという。そうして当たり前だが、家族を含めて今がいいと思っていることだ。
 さて、それでもうちでは無理だな、と思っている人が多いのではないか。特殊な話に過ぎないと思っているのではないか。そういう人が多いのが、日本の会社じゃないか。そうであればあまりに残念だ。そして残念なだけで終わるのは悲しい。政府が政策を練るのにゆだねている会社が多いとしたら、やはり長時間労働は、根本的に無くならないのではなかろうか。
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日本人はエロに鈍感なのか?

2017-05-17 | culture

 外国人の疑問の中に、日本人は人前でも平気で助平な本(雑誌など)を読んでいる、というのがある。人前でキスしたり抱擁したりすることが出来ないくせに、どうしてポルノに寛容なのか? という。コンビニなんかには窓の外に向けて、平気で艶かしい半裸女性の写真などが表紙になっている雑誌が並んでいる。見ようによっては、誰でも見える場所に平然とエロがあふれているということらしい。
 昔の人、といってもかなり昔で明治くらいかもしれないが、その当時の人というのは、文章を読むのは音読が基本であったらしい(これは事実らしくて、要するに漢文読み下しのような訓練を積んだ教養人ほど、声に出して読む習慣が強すぎて、黙読が出来なかったという。現代人には理解しにくい話だが、そのような事実を伝える文献はたくさん残っているという)。それで爺ちゃんが雑誌などのエロい文章を大声で読むので、近所に対して恥ずかしいという笑い話がある。というか、当時はあったという。
 さらに時代を遡ると(江戸末期など)、日本人は裸に寛容であることに日本に来た多くの外国人が驚いている。通りで若い女性が胸をあらわに行水していたり、外国人が通るというだけで風呂に入っている人が裸のままやじ馬で集まるなどしたらしい。今でいう銭湯のような場所は、当然のように混浴であったというし。
 今は平成になって久しいが、昭和の途中くらいまでは、女性はスカートがめくれても特に恥ずかしいと思っていなかったということを、井上章一が文献をもとにして証明したこともある。要するにスカートがめくれて男が興奮するというのは西洋人の文化だったが、日本の西洋化に伴って日本の男も変化したために、それにあわせて日本の女性に羞恥心が目覚めた、という変遷があるようだ。しかしながら今の女性も本当に恥ずかしいと思っているのかどうか、中には怪しい人もいるようには思う。思うがそれが本当か、それは僕には分りません。
 そんな昔のことは知らん、という意見もあろうが、要するに性的な露出について、もともと日本人は寛容であったという可能性はある。可能性はあるが現代は違う。違うようになりながら、一部はまだ本当には西洋化してないのではないか。そういう可能性もある。
 子供の頃には深夜番組のエロというのは普通だったように思うが(今もあるのかもしれないけど、これも良く知らない)、今は自主規制が厳しいという話も聞いたことはある。しかし西洋諸国では、子供が寝る時間を過ぎると、普通にテレビはエロ化するという。ハロウィンだって子供が寝た後にはコスプレになって大人の時間になるというし、そもそもエロの文化というのは国によって違いがあるというだけのことかもしれない。日本に来た西洋人がびっくりするというのは楽しいことかもしれないので、特に今のままでいいじゃないでしょうか(多少個人的な希望もあるかもしれない)。
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動物園に展示されていない人間を、動物の姿に認めるべきである

2017-05-13 | culture

 動物園が大好きである。子供が大きくなったのにもかかわらず、時々動物園に行きたい。もっとも子供が小さいころに、頻繁に連れて行った訳でもないのだけれど。要するに子供に見せたいための動物園でなく、僕自身が行きたい動物園という意味である。最近は観光においても、動物園が入っていたりして、個人的にはとても楽しい。
 だからこれは矛盾する考えなのだけど、動物園に行くと、動物の為にはこれは、本当にいい施設なのだろうか? とも思う訳だ。僕は自己中心的な性格だから、僕の為には良いと言えるのは間違いが無い。しかしながら動物園に捕獲監禁されている動物たちにとっては、これはやはり災難の場所なのではないか。
 いや別にメランコリックにセンチメンタルにそんなことを思っているのではない。人間がこれまでに考えられるもっとも現実的な範囲内において一番罪深い動物であることと、支配者ぶって自己中心的であるのは知っている(さらに無自覚)。だから許されることであるという理屈では無くて、しかしそれでもやはり自分で分からずにつれてこられてそこにおられるだろう動物たちのことを考えると、どうしようもない不条理に心が痛むわけである。傷むが動物園が好きなんて矛盾している自分がここにいて、すいません、と思う訳だ。
 中には保護されている動物もいるという。ここに居なければ絶滅の危険のある動物がいるという。しかしそれは、やはり動物園が存在できる理由として正当か? いや、人間の理屈としては正当なのは分かる。何せこれは一つの文化で、一部の人間があるとき目覚めて、それがダメだと言ったとしても、現実問題としてそこにあるものを全否定するのは単なる単細胞だ。そういうことでは無くて、残酷だけどその残酷さに無自覚なまま、動物園を素晴らしいと思わなければならないような仕組みのような、そんなような現実が時々どうなのか、と思う。いつも思っていたら疲れるので、時々思う。
 で、やはり考える一つの言い訳がある。それはやはり動物の保護のことだ。動物園が保護しているという意味の保護ではなく、動物園に保護されていない動物を人間から守るという意味だ。
 要するに、野生の動物のことなんてほとんどの人間は、これっぽっちも考えちゃいない。人間が住んでいる範囲において野生として暮らしていける動物は少数派だし、近い動物はむしろ人間にとってはほとんど厄介者だ。駆除したりただ殺したりして遊んでいるだけだ。時には人間の方が襲われることもあるかもしれないが、基本的には人間の方が危害を加えている立場だろう。でも人間は時々野生まで出かけて行って、そこにいる動物を見たりする。そういう野生の動物の姿に、少なからぬ感動を覚える人もいることだろう。また、そのような動物たちと共に、地球という星に僕らが生きていることは、間違いのないことだ。しかしながらそういうことは、テレビでそういう番組を見るとか本を読んだりすることでしか、とても僕らには知りえないことだ。もちろんネットやテレビや映画などのメディアでもって、そういうことをガンガン伝えていくことも大切だろうけれど、やはり人間の教育施設として、動物園のようなところで、他の希少な生き物たちを見ることで、むやみやたらに何か虐殺めいたことを正当化する人間を、戒めることが可能なのではないか。そういう説得力が、動物園の動物たちそのものに、あるのではないか。
 まあ、そうであるならば、要するに動物園の動物たちは、生贄みたいなものかもしれない。そういう動物たちがいなければ、もっと人間は多くの動物を無差別に殺してしまう危険があろうということだ。究極的には、だから動物たちの為には、人間が滅んだ方がいいのだが、人間が同胞を殺すことは(戦争などを別にすれば)、人間の側の倫理観が赦しそうにない。確かに殺されるべき人間の中には、僕の子供や大切な人たちが含まれている。この矛盾の中に生きていて、動物たちを観て楽しめるほどの才能が、少なくとも僕にはあるようだ。そういう人間を考える場でもあるという意味での動物園は、人間自身も映している鏡のような存在なのだろう。
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