カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ハロウィン・田舎ではいまだに盛り上がってないと思うが

2018-10-29 | culture

 テレビを見ていると、渋谷のハロウィン騒ぎを連日取り上げている。過剰な騒ぎ方とゴミなどの問題などが関連して報じられ、おおむね批判的な視点が多いように思う。店などの都合でいうと商売的にはいいのかもしれないが、迷惑には違いないだろう。路上で無く店の中などで何かできないのだろうか。一種のカーニバル的なもので、そぞろ歩くだけの楽しみなんだろうか。酒は飲むのだろうけど。
 さらに以前はハロウィンという発音が多かったが、今年はハロウィーンとのばして発音するアナウンスが多い。どの時点で分岐した問題だろうか。誰か注意でもしたのか。
 個人的にハロウィンを知ったのは30数年前。留学生の多い学校だったので、留学生と一緒に一部仮装する学生がいた。パーティなどがあって、僕はバンドマンだから演奏したりしたのかもしれない。もっともマイナーな感じだったので、そんなに盛り上がりはしない。それくらい前だと、ほぼ日本社会はハロウィンを軽く無視していた。
 その頃聞いたのは、収穫祭などの関連行事もあるし、主にアメリカのみで子供の行事として発展したのだろうという事だった。大人も便乗して仮装して治乱騒ぎをするとも聞いた。あちらの人は仮装して夜の刺激を求めているのだろう、という解説をする人もいた。要するにヘンタイ祭りのような扱いをメディアはしていた。日本人でそんなことをするのは、だからちょっと変な人という感じだろう。
 そうして服部君射殺事件が起こった。フリーズという言葉が広く知られるようになり、アメリカ(特に南部)なんかで気軽にハロウィンに参加するのは危険なような雰囲気になる。
 結局廃れたものと思われていたが、近年になって若者の騒ぎとして復活した。映画のスパイダーマンなど、仮装するには関連のしやすいものが流行ったためかもしれない。ゾンビやお化けの仮装というのは、なりきる人達にとっては楽しいものかもしれない。
 クリスマスやバレンタインなどと同じような文化になったとも言われている。そうなのか。要するに米国化するグローバル(もしくは国際化)な問題なのだろう。さらにいうと単純化である。老人ホームでもやっているのかもしれない。大人が居なくなる社会という感じが、何とも悲しい情景である。
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古臭くなくハイボール

2018-09-14 | culture

 僕は普通に酒飲みだから、普通にいろんなところで酒は飲む。しかしながら昔からあんまり行かない酒場というのがある。ほかならぬバーである。地元にあんまりバーが無いということもあるし、選択肢が少なかったせいもあるかもしれない。バーのような店を敬遠している訳でもないが、そもそも地元ではあんまりバーを選択しない。それになんというか、カクテルというのに苦手意識があるようにも思う。作るのを見て楽しいというのは分かるが、飲んでどうという方が重要だ。結果的に何杯か飲まなくてはならない。いちいち選択するというのは面倒くさい。結局、水割り(ウイスキーの)というのが増えて、カクテルは覚えなくなった。水割りにもバーには流儀があるらしいが、まあ、そういうので値段が違うほどには、価値がよく分からない。便利な面もある場合があるが、選択肢から消えるのはそういう理由ではなかろうか。
 でもまあ、出張で一人で無い場合には、バーが便利な時はある。だからだろう、出張中にめんどくさい時には、バーに入る。馬鹿ッ高い店もあるんだろうが、少人数でちょっと話をするために入る場所としては、バーというのは割合に便利である。
 それにであるが、今はハイボールが流行っているらしくて、なんだか敷居の低くなったバーが増えているのである。はっきりとハイボールが中心の店も多くなった。いわゆるお手軽感があって、人も多くなっている。
 僕の若いころにもハイボールはありはしたが、なんだか古臭い飲み物だった。若いくせにそんなものを飲むのか? 注文するとそういう雰囲気があった。それにどういう訳か国産のウイスキーというのは格が下のような感じがあって、後ろめたいような気分もあった。まあ、一杯くらいはハイボールで、後からちゃんとウイスキーも飲むけんね、っていうような顔をして飲む。おかわりなんかしてしまうと、本当に酒が弱いか、よっぽど喉が渇いているのではないか、という感じがしたものである。
 今はそういうことに頓着する必要はない。堂々と最初からハイボールを衒いなく飲んでもよろしい。聞くところによると、ウイスキーが売れすぎて、品薄になっているという。もともとウイスキーはぜんぜん売れなくなっていたらしくて、少し流行ったら在庫が無くなってしまったのだという。何となくバランスの悪い話だが、足りなければ外国から調達すればいいのかもしれない。今は外国産のウイスキーと言っても、親会社が日本だったりするらしい。まあ、そんなことまで気にして飲んでいる人なんて、そんなにいるものでもないだろうけど。
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問題は誰の意思を忖度したのかだ

2018-09-06 | culture

 医大の受験で、女子の点数が低くなるように操作されていたという事件があった。最初は言っている意味がよく分からなかったのだが、将来的に医者になっても、結婚などで離職することなどを問題視して、そのようなことが行われたという事だった。さらにこの医大だけでなく、そのような受験の差別があるのではないかとされる大学は、他にもあるらしいという。ちょっと信じがたい話だが、既に相当数この影響で医大に落ちた女性はいることだろう。あらためてそれが誰でどのような方法で連絡がなされるのかというのは、特に報道では聞かない。受験の操作がなされていた過程でそのような事実が明らかにされたのであれば、そのような後の処置も、当然可能であるはずである。どこに住んでいるかなど、追跡がむつかしいという事は考えられるかもしれないが、当然やるべきことのように思える。その上でどのような訴訟に発展するか、賠償をどうするかなど、続報がまたれるところである。被害者は、今さらなどと泣き寝入りすることなく集団訴訟すべきだろう。そのような行動が、このような馬鹿げた事例を将来的なくすことにもつながっていくだろう。
 それにしても、医者になるのに男女にハンデを設けるべきという発想は、やはりどうにもしっくりとは理解しにくい。医大などの先生に、そのように感じられる何かがあるのだろうか。スポーツなどは男女の別があった方がいいとは考えられるが、特に受験のような一発勝負のような場所で、そのようなバイアスが必要なのは何故なのだろう。僕自身が選ぶ立場になったことが無いので分からないのかもしれないが、本当に不思議な感じである。呆れるというより、不思議なのである。実際に医者に向かない人がいるかもしれないのだけれど、それと男女差という理由が、どうしてもつながらないからかもしれない。
 また医者が途中で医者をやめたからといって、一体何が問題なのだろう。事故や病気でやめる人もいるだろうし、別段結婚の理由だけが問題なのでは無かろう。また、医師免許を持っていても、他の仕事をやるような人間は、普通に存在することだろう(多くは無いかもしれないが)。
 しかしながら実際の医者の男女差というのは、現実にある所為ではなかろうか。医者を志す人に男女差もあるだろうし、圧倒的に男性の多い社会であるがゆえに、そのように感じるという人達が居そうである。男ばかりのコミュニティに、異性を入れたくないという思いがあるのではないか。もちろんそれが信じられないのだが。
 もっともこれは、現在の医師の中に、特に開業医に、自分の事業を継がせたいという要求が強い為ではないかという事も予想される。これが女性であっても問題は無いはずなのだが、息子に継がせたいと望んでいる男性の医者(またはその家族)が多いのではないか。医学部卒で無いと受験資格が無い今の制度では、そのような歪んだ欲求に大学が答えたいと考えたとしてもおかしくは無い。定員もあるので、裏口入学だけでは対応ができない。そうして男女の割合の操作がなされてしまったという事だろう。そうするとこれは、医師免許制度のひずみ問題とも捉えられるかもしれない。これを変えることはほとんど不可能そうで、だとすると、医大などの監視は、さらに強化されるべきという事になるかもしれない。これは、結構粘り強く取り組まなければならないことなのではあるまいか。
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ラブホが減ったらどうなるの

2018-09-04 | culture

 通勤途中にいくつかラブ・ホテルがあった。田舎道だから多少寂しいところでありながら、車なら問題が無いような場所に、大抵はラブ・ホテルというのはある。ドライブがてら行くところという感じなのかもしれない。そうだったのだが、そのいくつかが、どうもラブホテルの看板を下げているようだ。ペット入居可の賃貸になっていたり、やはり長期で貸し出すような部屋になっていたり、そのまま廃業したりと様々だ。
 聞くところによると、全国的にラブ・ホテルの数は減っているという。利用客が少なくなったという事だろうが、いわゆるそのような用事のある人が減ったのだろうか。少子化の問題ともいうし、普通のホテルに変換できない形態のホテルであると潰しがきかないとも聞く。大型バスなどが停まれるようなスペースがあれば、外国人観光客向けのホテルなどで成功するようなところもあるらしい。しかしながら田舎にあるラブ・ホテルの多くは、車で一軒一軒乗り付けられる、いわゆるコテージ風の宿が多い。団体で泊まれない訳では無かろうが、少しばかり勝手が悪いのかもしれない。
 さらにラブ・ホテルだった場所で、簡単に売り出せるようなところも少ないのかもしれない。少し前の話だが、跡地を買わないかと言われたこともある。その頃は事業所の移転の話もあって、そんな相談が来たのだろう。一応見学に行ったけれど、まだ客を取っていて、子細に見せてはくれなかった。結局別の場所を物色して忘れてしまった。
 もちろん生き残っているラブ・ホテルもある。実は自宅の近所にもその手のホテルがあるのだが、それなりに利用客があるように見える。そこのホテルは、高速道路のインターチェンジの近くでもあって、利用客がそのまま高速に乗るのを何度か見たことがある。少し遠出をして、寄るのに便利ということか。まあ、そういう事情にあっているという事だろうか。さらに乗っている車だとか実際の客の様子からして、少し中年の人たちが多いように思う。あくまで推測にすぎないが、夫婦で無いと仮定することもできそうに思える(夫婦なら家があるわけだし)。そうして若くないというのが、何やら少子化の影響も感じさせられる。もっとも若い人であれば、もっと遅い時間帯を利用しているのかもしれないが。
 しかしながら、やはり必要としている人たちも居ない訳でも無かろう。選択肢が減ったことも気の毒だし、いつも使っていた人にも残念なことだろう。もっともライフスタイルが変わったという人も多いかもしれない。これからの人たちのことはよく分からないが、まあ、なんとかしているんでしょうね。頑張ってください。
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同じ大きさに意味がある

2018-08-07 | culture

 外国人が日本にたくさん来るようになって、いわゆる日本的なモノというのが、それなりに売れているらしい。おみやげとしても日本的なモノを買いたいという事もあるんだろう。伝統工芸品のようなものが改めて見直されて、その価値通り売れていくのは、その筋の人には大変に助かる事だろう。イメージとしても、日本の職人芸のようなものが生き残る、ひとつのモデルかもしれない。
 そういうことで、日本の箸が売れるようになったという。日本の箸のほとんどは、特に日本人が使うものは、今やよその国で作られている可能性が高いが、人気があるのは当然そういう事では無く、いわゆる工芸品である。箸ならば複数買っても荷物にもならないだろうし、やはり日本的な感じとして好まれるところなのだろう。
 ところがこれに多少の問題があって、日本には夫婦茶碗とか夫婦でセットになっているお箸とかいうものが結構ある。これに対して、特に西洋系の外国人だと思うが、それなりに抵抗感のある人が多いのだという。厳密にいうと、色合いが柄が違うのはいいのだが、大きさが違うのがダメなようだ。
 もちろん男女の違いがあっていいのである。男用や女用があっていいのだ。好みがありバリエーションがあるのは、まったくかまわない。それぞれ好き好きで選べばいい。問題はセットになっているのに大きさが違って、多くの場合女用の方が小さいというのがいけないらしい。
 それで、最近は大きさが異ならないセットというのが、結構つくられるようになっているようなのだ。今ネットで観てみても、以前と比べると、格段に同じサイズで柄違いのセットが作られているのが分かる。
 まあ確かに、そういうのがイカン訳ですね。気を使うのも文化と言えばそうなんで、今後はサイズが一緒のペアの開発が望ましいようです。職人さんよろしくお願いします。
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無宗教は困惑されるだろうか

2018-06-04 | culture

 外国人から宗教は何かと聞かれて、返答に窮したという話は聞いたことがある。又は無宗教だと答えて、怪訝な顔をされたという事も。実は僕は、何度かそのような質問を複数の国の外国人から問われたことはある。しかしながら特に信仰は無いと答えたところで、怪訝な顔をされたことは無いし、まあ、そうか、という感じですんなり済んだ。正確に相手が何を考えていたのかまでは分かりえないけれど、困ったことにはなっていない。だから先にある困惑というものを、あまり考えてもいなかった。
 外国人といっても、やはり恐らくこれは西洋人のことを指していて、そうして恐らくキリスト教のことを言っているのだろう。キリスト教である前提が先ずあって、宗教とは宗派を指しているのだ、という話もある。カトリックやプロテスタントというだけでなく、さまざまな宗派があるのだという。まあ、そういうこともあるかもしれないが、要するに信仰してない人というのが、彼らの前提には無いかのような気分があるのだろうと思う。
 しかしながらである。外国人の大多数をやはり知らないまでも、僕は外国人が無宗教であると答えている場面を何度も見ているのである。ある人は西海岸の人だったと思うが、特に信仰してないとはっきり言っていた。子供のころには親と一緒に教会には行っていたが、その後は特に熱心では無いという事かもしれないが、その時に、アメリカにおいてもそんなに信仰に厚い人ばかりでは無いという話をしていた。日本人の僕にあわせてそういう話をしたのかもしれないけれど、まあ、そんな感じである。
 僕の知っている外国人は、圧倒的に中国の人が多いけれど、彼らにしたって、信仰というのは世代的に親以上の習慣だという話は普通にされていた。祖先を大切に思う気持ちはあるにせよ、何かそれが一神教的な信仰であるというような感覚では無いという事のように思う。韓国ではキリスト教が盛んらしいが、アジア的にはそこまで宗教があるかどうかにこだわっていない気もする。もっともやはりタイに行ったときは、仏教だとはっきり言っていたけれど。
 無宗教である日本人は、世界の中で特殊であるという言説は、だからだろうか、少し感覚的に僕には怪しいもののように思える。一神教的な信仰が、紛争の種になっていることは分かっているが、やはり最終的には個人に帰するものだという感覚は、ある程度の国際的な許容としてはあるのではないか。確かに身近にイスラム系の人々に対しての知識が少ないとは思うものの、イスラムにしたって、一般的には自分らと違う宗教の人に(または無宗教に)そこまで関心を抱いてはいないのではないか。
 もちろん原理主義になりすぎると、ちょっと厄介だな、とは感じる。遠くにいるから関係が無いだけのことで、隣人問題としては、共存の問題としては、もう少し踏み込んだ理解は必要だろうけれど。
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自動車学校は生き残れるか

2018-05-05 | culture

 東京や大阪の出張の時は、まずレンタカーなどを借りることは無い。公共の交通機関が発達しているので、手段としてそのまま駅に行けばいい。車はたくさんあるようだが、そういう意味では車社会では無いと考えている人もいるかもしれない。時間も正確だし、渋滞などの煩わしさも無い。また給油や駐車場確保など、そういうことを気にする必要も無い。もっとも駅のそばで無い目的地などになると、多少困るかもしれないが。
 東京の近郊に住んでいる人で、車の免許を持たないという人もいるらしい。免許を持つ必要が無いというのを、いわば自慢げに聞くこともある。自分の特権では無いとは思うが、そういう必要が無い生活はうらやむべきことであるという意識があるのかもしれない。都市生活を満喫しているというのは、すでに人間として上位の生活であるという事なのだろうか。感覚としてよく分からないものだが、ある種の自由さのようなものを感じておられるのかもしれない。車に縛られない、又は煩わされないというのは、人間的な自由さなのだろうか。
 ピンと来ないのは仕方がないはずで、羨ましくは無いのである。田舎暮らしが素晴らしいとばかりは言えないが、電車で無くて車であるというのは、なかなか楽しいことだからである。電車は大量輸送には適していることかもしれないが、やはり田舎の人間には少なからず煩わしい。待たずに頻繁に来ると言っても、まったく待たない訳では無いし、さらに人がたくさん乗っていたりする。座れないかもしれないし、窮屈である。いろいろマナーのようなことがあったり、時には妙な人がいたりして、緊張する。そうして乗り継いで行っても、けっこう歩かされる。それはそれで体にいいもしれないが、果たして自由で便利なのか。そういうことに縛られているような感覚があって、たいへんに疲れる。出張などの一時のことだから、なんとか我慢できるという事なのではないか。
 ドライブするというのは、そのまま娯楽である感覚がある。車は危険な乗り物であるとはいえるが、しかし運転すること自体は、それなりに楽しかったりする。渋滞すると面白い訳では無いが、車の中では音楽が聴けるし、誰か乗っていれば会話もできる。カーナビの設定によっては電話も自由だ。煙草を吸う人は、自分の車なら気兼ねしない空間かもしれない。直接吸うだけでなく受動喫煙も、煙が蔓延しているのでばっちりだろう。
 田舎は車が無ければ暮らしが成り立たないが、その車自体が娯楽なのである。鉄道はダイヤが少なくなり、ますます経営は難しくなっているようだ。路線は削られ本数は減り、ますます不便になる。それはさらに車への依存を高めることになるだろう。また、将来的には自動運転という流れも出ている。確定してはいないが、恐らくそうなれば、高齢者の免許返納などの問題も無くなるかもしれない。ドライバーの必要ない車も登場するかもしれない。免許なんていらないというのは、どこに住んでも当たり前の世の中になるかもしれない。免許のいらない優越感というのは、その程度のことである。
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丁寧でいい人かもしれないが仕事には向かない

2018-04-21 | culture

 最近はメールのやり取りが仕事の一部になっている。当然と言えばそうで、朝からメールチェックが仕事の始まりという人も多いことだろう。メールなんで休みの日も関係なく、個人で仕事のやり取りをする人も多いのではなかろうか。
 そういう迷惑なメールなんであるが、少し気になるのは、このメールの文章の長い人がいることかもしれない。時候の挨拶があるのはいいにしても(定型は型があるのかもしれないし)、何か文章として説明が長い。不必要に丁寧過ぎる修飾が多いようにも思う。結果的に文章の内容のわりに、何かスペースを埋める文字数が多いように感じられる。
 これは多少プレッシャーを感じないではない。返答する内容はイエスかノーかの二択なのに、その理由まで丁寧に書かざるを得ないような圧力を感じる。そうなると推敲するに億劫だし、単純に返答するのが何か軽々しく感じられるような、そんな心象があらわれるようにも思われる。返答は簡単なはずなのに、すぐに返事が出来ない。なにかベースそのものがざわざわと乱されるのである。
 と、いいながら、僕は基本的に短く返答するようには気を付けている。早く返答するにこしたことは無いと感じているからだ。複雑なものが含まれる場合は、メールの案件であってもしつこく電話で相手に連絡をする。ニュアンス的に誤解をまねくより、その方が安全と考えるためかもしれない。メールの文章は長いから理解できるというものではなく、かえって不安をあおるようなものを含んでいるような気配がある。そういうものは直接聞いて確認するより無いように思われる。
 ということで、僕のメールの返答はそっけない場合の方が多いと思う。確認は「了解」(近年はこれを「承知」と書くべきなどの馬鹿なビジネスマナーがはびこって閉口するが)で済ませるし、できるだけ意見を書かないように心掛ける。相手が余分に考えを巡らせないように、逆に配慮しての結果である。まあ、正直言って面倒なだけだけど。
 でもですね。メールの基本は簡素のすべきと思いますよ。たとえ相手が偉い相手でも、メールであるならばそうすべきだ。もっともそもそも依頼など、最初にメールですべきことであるか考える必要はあるだろうけど、メールである以上は、本来的にそうすべきなのである。メールで一日の仕事に支障があるのであれば、メールなんてのは止めるべきなのである。
 ということで基本はメールのやり取りで済む案件はそれでいいのだから、簡単にやりましょう。長いやつは警戒心が生まれるだけで、むしろその丁寧さで、仕事の気力を阻害する。そういう人と仕事が本当にしたいと思うか、よく考えた方がいいのではないだろうか。
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においトラブル

2018-02-14 | culture

 においトラブルというのがあるらしい。体臭を気にすることも指すし、柔軟剤や芳香剤などの科学的な匂いに拒絶反応を示すような人も多いという(それで日常生活に支障をきたすような人も)。接客で体臭の指導をする企業もあるらしい。
 都市部は人が多いので、密集しやすいとか、一定の場所とも関係があるのかもしれない。電車やエレベータなど、人が近づきすぎなければならない場面も多いだろう。体臭だけとは限らないが、化粧などいろいろな匂いが混ざって、むせるような体験をした人も多いことだろう。これが逆に他人への配慮を必要とするのではないか、という不安にもつながるのかもしれない。
 日本には、特に匂いなどを取る商品なども多数売られている。宣伝だからマナーめいた脅迫のような表現も見られるように感じる。注意喚起されて、改めて気になる人もいるのではないか。それというのも、諸外国では、ここまで気にしているとは考えにくいからだ。
 でもまあ柔道の抑え込みなんかを見ていると、気の毒になる場合も無いではない。まあ、とりあえず頑張っているし仕方ないけど。
 僕もまあ発生源の方だとは思うが、そこまでは気にしてない。ひとと会う約束があってもニンニク料理を食べることに躊躇は無い。迷惑かも知れないが、距離というのはあるし、それになんといっても、ひとよりニンニクとの付き合いの方が、歴史もあるし今後のつきあいも長くなるだろう。まったく、ごめんなさい。
 また、クサいと言われたところで、とりあえずはその場はどうしようもない。ああ、そうなのかすいません、以外に何ができるというのか。一種の開き直りだが、家に帰ってシャワーを浴び直すわけにもいかないだろう。あまりにも強烈過ぎるのは確かに事前に考えるべきなのかもしれないが、取り返しがつかないものを考えても仕方ないようにも思う。気にする人は、だからその前に気にしているという事なんだろうけど。
 嫌われるかもしれないという恐怖感は、ムラ社会と関係があるかもしれない。今後も関係を続けなければならない相手と、出来る限りトラブルを避けるという考えもあるんだろう。それは分かるが、クサいときもあってそうでない時もあるというは、その人のあってもいいことのようにも思う。まあ、毎回注意されたら考えるかもしれないが。
 しかしもう元には戻らない感覚が、世間では、すでに定着しているのかもしれない。それを知らないは僕のみという事に、ひょっとしたらなっているのだろうか。
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サンタが来ない家

2017-12-24 | culture

 職場でクリスマス会があるので、恒例でサンタの格好をさせられる。近年は予算の範囲ではあるが、事前にだいたいの希望を聞いてプレゼントを買っているらしい(担当の職員が)。プレゼントの袋に付箋紙で名前が書いてある。それを僕が配る訳である。お礼を言われて毎回申し訳ないような気分になる役割である。
 それはいいのだが、そういう訳で当たり前だが、誰もサンタさんがプレゼントを持ってきたとは本当は思っていないと思う。自分の子供が小さい頃はサンタさんは居たはずだが、いつの間にかまったく気配が感じられなくなったものである。
 僕の母親はクリスチャンだから、子供のころにはサンタが来た記憶がある。僕には下のきょうだいも居たので、しばらくはサンタが来た。24日には七面鳥で無くチキンを食べて、翌朝になるとプレゼントがあったような記憶がある。何故か、7つ上の姉が一番はしゃいで盛り上げていたような気もする。今考えると、親とグルになっていたものと考えられる。姉もサンタさんだったに違いない。おもちゃなどのほかに、靴下にキャンディなんかも入っていた。確かにしあわせな記憶だが、いつまで続いたのかよく分からない。何故か父がいたかどうかもあんまり記憶にない。
 子供のころの記憶でいうと、サンタがいるかもしれないというのは、小学一年生くらいまでだったと思う。何故ならサンタが親だと教えてくれた友達とケンカした覚えがあるからだ。でもなんとなくは分かっていたような気もする。分かってしまうのがつらかったのだ、たぶん。
 ある本を読んでいてびっくりしたのだが、最近は高校生になってもサンタからプレゼントをもらう人が5割に達するらしい。いや、厳密には親がそうしているという事だろうけれど、中には親からのプレゼントとは別にサンタからももらうのだという。これを夢のある話だと考えている親が多いらしいが、かなりクレイジーなんではないか。日本は大丈夫だろうか。
 自分の子供がいつまでサンタを信じていたんだろうか。上の子は、しばらく信じていたいと思っていたフシがある。ともあれ彼らが小さい頃は、24日の夜はなかなか寝ないので、こちらもサスペンスな夜更かしをした。そういう時期があったことは良かったが、それが長く続くのは、やはり御免だという気がする。子供が大人になって本当に良かった。
 大人になってサンタがいなくなって、クリスマスがつまらなくなるかというと、そんなことは無い。そういう習慣はあっても良いし無くてもいい。誰もがするのなら参加しないし、自分がやりたければ、勝手にやるだけことである。そういう感じが一番いいのではないだろうか。
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ラリったり酔っぱらったり

2017-11-22 | culture

 外国の映画を観ていると、時々普通に麻薬をやっている場面が出てくる。日本人の一部は、何か煙草でも吸ってんだろうと勘違いしている人もいるかもしれないが、キメている感じはある程度は伝わっているはずで、そういうものはアメリカの生活の一部を表している場面と考えていいだろう。彼らの庶民の日常の中に麻薬(ドラッグ)がある訳だ。
 害がどうだという話は置いておくが、そうなってくると、人が話をしたり付き合ったりする社交の中で、ドラッグ問題が出てくる。まあ、勝手にやってる分にはいいが、俺は遠慮するよ、って人もいていいが、それは面白い人間では無いかもしれない。実はちょっと上物もってるよ、というのは、気の利いたヤツという意味の株を上げるかもしれない。
 そういう背景が分からないために物語そのものについていけない、ということまでは無かろうが、だいぶ分かりにくいという程度は生まれるだろうと思う。実際にドラッグのためにつくられたと言われる映画はあって、例えばイージーライダーなんて、多少ラリってないと面白くないところもあるんじゃなかろうか。当然使われている音楽も似たようなもので、ラリっている気分を助ける音楽というのはある。映像と重なって、こりゃあいいなあ、という感じだろうか。もっともいくら米国の映画館であっても、マリファナ吸ったまま観ていい訳では無かろう。クスリ系をやるか、家でDVD鑑賞の時に楽しむのかもしれない。
 文化として違うのでどうにもならないが、日本でも酒に酔って観るような作品というのは無いではない。もともと観劇なんてものは、升席桟敷席なんてところは、弁当食ったり酒を飲んだりしたものだろう。酔うと掛け声をかけやすくなったりするかもしれない。今の時代は高級な遊びになっているので、べろんべろんで鑑賞するような人は少なかろうけれど。江戸時代までさかのぼると、けっこう観衆もへべれけで面白がっていたのではなかろうか。
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大人しい人たちの下品で自由な文化

2017-11-08 | culture

 テレビで日本のビールの話題をやっていた。外国人から見た日本のビールには、不思議なところがあるらしい。
 まず日本のビールは大変に冷たい。ジョッキまでギンギンに冷やしたりしている。冷やさないビールの方がどうかしていると思うが、やはりびっくりすることなのか。実はヨーロッパなどは酵母の関係なのか、常温で飲むという話は聞いたことがある。それでうまいというのならかまわないが、日本人にはたいして旨いものでは無いという話も聞いている。冷えてないのはそれくらい致命的だが、彼らだって日本に来て冷えたビール飲んで、考えが変わらないものなのだろうか。確かに香りは楽しみにくくなるのかもしれないが、ぬるいのを喜んで飲むのは、僕らの感覚からすると、からきしごめんである。
 また、生ビールなどをサーバーで注ぐときに、泡を足すのも不思議なんだという。ビールの量をごまかしているように感じる外国人も多いらしい。ビールの味は、泡が風味を閉じ込めている為に保たれていることは、いわば僕らには常識的だ。ビール工場に行ったら必ずレクチャーされる重要な部分だ。酒屋だってちゃんと教えてくれるはずだ。だからこそきめ細やかな泡を足せるような注ぎ方を、僕らは尊んでいる。要するに感覚よりも実際をちゃんと知っているかどうかという問題で、外国人は無知に過ぎないということだろう。
 一気に飲んでプハーというのも気になるらしい。これは外国人が人目を気にし過ぎるからだろう。食事で音を立てたりげっぷをしたりなどが失礼に当たる事とも関連がありそうだ(マナーとして)。しかしビールはぐびぐび飲むのでプハーな訳で、上品に飲んで楽しい飲み物では無い。蕎麦は音を立てて食べるから風味が増して美味しくなる。そのような食文化の真髄を知っている文明国では、ビールで音を立てて飲むのを躊躇しないのである。
 スポーツ観戦でビールを飲むのを禁止している国も多いという。要するに治安維持の為だろうが、日本でスポーツ観戦してビールを飲めるしあわせを、もっと享受した方がいいと思う。治安回復のために、他の国はもっと何か根本的な努力をすべきであろう。
 また、ビールを飲みながら豊富な食事を楽しむのも不思議なようだ。不思議に思っているそのこと自体に大変な偏見を感じるだけだが、外国というのは本当に窮屈なものらしい。
 しかしながらビールというのは、完全にもともとはよその国の文化だ。そういう意味では日本の独自性は、何かを間違った所為だという事は言えるかもしれない。そうは言えるが、間違ったおかげで旨く楽しいビール生活を送れている訳だ。税金の所為で妙な多様性が生まれていることも、ある意味で楽しみを増やしている。正当なビールからはかけ離れたビール文化というのは、今やそれなりに貴重なものになっているのではなかろうか。
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ぎりぎりセーフが次を活かす

2017-08-20 | culture

 子供にゴルフのレッスンをつける番組をやっていた。技術的なことはよく分からないが、基本的には自分のゴルフのプレーに自信をつけてもらうために、良い記憶を残すことを心がけて指導していた。特に面白いと思ったのは、ボールを打った後の自己評価を6段階に分けることだった。うろ覚えだが、とにかく5番目が悪い。6番目は最悪。上から1最高。2良い。3まあまあ。4ぎりぎりセーフ。なんか少し違うところもあるかもしれないが、基本的に上位4つが良くて、後の二つがどうしても良いと言えないもの。よっぽど悪くない限り、結果OKという姿勢なのだ。
 見ているとゴルフの上級者の子でも、自己判断が厳しい。見た感じしっかり打てていても、すぐに「ダメだ」とつぶやく。確かにもっと良いショットを打てる自信はあるのかもしれないが、悪くないものを切り捨てていつまでも自己嫌悪に陥っている。なんだかプレーも神経質な感じだ。ミスが許されないプレッシャーに自らを晒している感じかもしれない。
 一方で多少悪くても、4のぎりぎりセーフがあることで、次の挽回に目を向けることができる子が出てくる。失敗を引きずらず次にいいイメージのままプレーに集中できる。そうしていい流れを自ら引き寄せることが出来ていくのかもしれない。
 日本の指導の一番の欠点は、ミスを指摘してそれを意識させ、二度とそのようなことをしないように改善させていくやり方が主流だからかもしれない。結果的に練習ではできることが、本番では萎縮してのびのびとプレーできなくなる。肝心な場面や、勝負どころで流れを引き寄せられない。そういうこととも、この指導のポイントは関係あるのではないか。
 多少悪くても、本当に悪い訳では無いのなら、ぎりぎりセーフでよい。そんなんだからお前はダメだ、という指導者がいるのは分かる。だけど自分ではセーフにしておく。そんな人が将来は伸びていく。もしくは今から自分を伸ばすことが可能になる。
 自己評価は6段くらいにするというのは、自ら本番に強く生きて行くための工夫かもしれない。
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暑い夏に何をやってる高校野球

2017-08-10 | culture

 高校野球のニュースが載ってない無い新聞があったら取ってもいい、というようなことを、むかし村上春樹がエッセイで書いていた。スワローズ・ファンで野球好きの村上は、高校野球の喧騒に嫌気があったようである。しかし彼の性格からすると、恐らくそういう喧噪の日本人気質を揶揄したい外国通の自分という立ち位置がそういわせたというのが正確なところだろう。そう思っている少数派の自分は、今風にいうとクールじゃないか、という演出だったのだろう。もちろん高校野球に興味のない人というのはそれなりにいる筈なんだが、わざわざ新聞と絡めていうような人はさらに少なかろう。新聞を取りたくなかったらとらないというのは、高校野球と関係なくそうすればいいだけのことだ。
 もっとも高校野球の特殊性というのは、いささかうんざりさせられないことも無い。わざわざほかの高校の競技とは時期外れに開催されて、さらにスポンサーもありながら、NHKで全試合が放映される。理由としては戦前の戦意高揚に利用された伝統がいまだに続いているだけのことと、終戦後もお盆という時期に重なる鎮魂の意味あいが、いまだに日本人の多くの心に残っている為であるとされる。戦後が続く限り、これに疑問の残る人はあまりあらわれないのかもしれない。
 それにしても近年も、この喧騒は結構長期で続くようになっているようにも感じる。他の地方の大会においても、スター選手は報道されて目にするようになった。抜きんでた高校球児は、後に普通にプロでも活躍することだろう。大リーグまで行くと、今度は日本代表選手扱いだ。これもなんだかやはり、戦争の匂いが、もしくはきわめて国民的な意識統合と関係のありそうな感じだ。僕は個人的には保守的な人間だけれど、そういうものとのシンパシーは弱い。新聞は取っているけど、高校野球はそれなりにスルーしてしまうのはその所為かもしれない。
 80年代には減少に転じていた球児の丸刈りも、実はまた最近になって、割合として増えているという。比較的常連校が安定して勝ち上がってくるようになったこともあるように思うが(伝統校はOBが、丸刈りでなければ許さないだろう)、強制が解けたほうが、自由に丸刈りを選択する空気を作っているということもあるかもしれない。そういう空気というのは、他だったらたぶん問題視されるだろうが。
 出身地区の高校の活躍が気になるというのはなんとなく分かるが(戦いは代理戦争を意味しているのだから)、近年はあんがいそうでもない人が、一定の高校を応援するなども目立つように感じる。やはり報道にも偏りがより明確で、好かれる学校や好かれるスターがいるようだ。活躍によって注目が集まるというのは以前からあるが、このエスカレートのされ方で、逆に力を出せない人がいるように見える。まあ、相手も委縮して、力を出せないというのもありそうだが。
 しかしながら今年はことに暑い夏だ。僕などは子供たちがそれなりに成長し、部活なんかで応援するような事が無くなった。息子たちは野球部では無かったが、暑い日に応援や観戦するだけで、かなり消耗したものだ。それなのにあの甲子園の喧騒は何だろう。こんなに暑いのにナイターで無く日中に試合が組まれる上に、観客も汗だくで観戦している。甲子園という場所に意味があるのは分かるが、春はともかく夏の大会は、東北や北海道でやるべきではないのか。暑さと戦うのも夏の甲子園だ、という人がいるが、今まで死人がそんなに出ていないから悠長なことが言えるのではないか。熱中症対策だの温暖化だのゲリラ豪雨などが騒がれている中で、この時期にあの暑い場所に人が大勢集まる事のリスクは、そんなに軽いものでは無いのではないか。
 結局村上春樹のように気取りたい訳では無いが、高校野球はそんなに盛り上がらない方がいいように思う。少なくとももう少し適当な感じで、家電売り場でひとが涼みながら観ているのをみて、そういえばやってたんだな程度であれば、日本はより平和なんだと感じる訳である。
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人付き合いの下手な人から付き合い方を学ぶ

2017-07-25 | culture

 ぱらぱらと本を読んでいたら、「浪費家は金銭を与えたがり、能無しは助言を与えたがる」と書いてあった。なんとなく上手いことをいっているという雰囲気はあるが、どうなのか。要するに為にならない助言はいらないというのはよく分かる。しかし金持ちがため込んで使わないより、ちゃんと浪費してくれた方がいい。金が無いのに配るという人は、本人や肉親は困るだろうが。しかしながら周りにいる人が、それで助かる場合もあるのではないか、という気もする。いや、そんなに義理も無くたくさんもらう必要が無い、というのは分かる。しかし、何か困っているような時にそんな浪費家がいてくれたら、それは良いことでは無いか。いや、単にくれるだけなんてことを本当に信じてはならない、ということなら、理解できるが。
 この本は、他にもなかなか妙なことを書いている。例えば「信条を曲げない」という項目がある。内容は「熟慮の末にもう人に本を貸すのはやめようとか、ワインはこれだけの量しか飲まないと決めたなら、たとえ実の父親に説得されても、最初に決断するに至った動機が有効であるうちは撤回してはいけません(抜粋)」とある。そういうのはそもそも信条の問題なのか、という疑問があるのと、人間的に妙に狭量だ。
 また「決まり文句は控える」という項目では、光陰矢のごとしということわざは間違いであり、光が基準より早くなるのは不可能と説き、そのように感じられる人は、いつもより睡眠時間が長かったか、ぼんやりしていたからでしょう。という。そして、決まり文句を聞くとうんざりするし、無意味で白々しく感じる、のだそうだ。重傷で床についている人に「お元気そうで安心しました」と言い、どんな子供にも「年のわりに大きいね。それにお父さん(お母さん)にそっくりだ」などと声を掛けるような人を非難している。いったいこの作者の身に何が起こったというのだろう。
 これはアドルフ・F・クニッゲという人が書いた「人間交際術(イースト・プレス)」という本で、ヨーロッパで100年も読み継がれた処世訓のようなものだそうだ。当時の人々には役に立ったものかもしれないが、現代では驚くほど当てはまらないことが書いてある。そうであるから、このように的の外し方が暴投過ぎて笑える、というのはある。ほとんどの日本人には馬の耳に念仏のようなお題目だけど、これも日本人に翻訳されて読まれることがあるのだろう。需要としてこんなことに感心する人がいるなんて、僕にとってはとても不思議だ。世の中というのは、やっぱりシュールである。
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