カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ローラーガールズ・ダイアリー

2011-07-29 | 映画
Whip It - Official Theatrical Trailer



ローラーガールズ・ダイアリー/ドリュー・バリモア監督

 結構爽快になる映画。強い女ってなんだろうな、という感じか。まあ、強いことと自立の関連の話なのかもしれない。女らしく強さに憧れると言えば、そうなのかもしれないが、実際のところ、女だからというのはやっぱりあるようにも見える。日本とは違うな、と見るか、あんがいアメリカも保守的なんだなとも見えるか。日本で流行るとも思えないし、そういう意味ではアメリカらしく特殊だが、しかしやはりこのような生き方に対しての妨害も描かれていて、それは日本とそんなに変わりはしないような気もする。自分の才能と好きなものを伸ばしてサクセスする正直さで、気持ちのいい話になっている。
 美人コンテストに懸ける母親は対照的な存在として描かれているが、僕にはローラースケートで格闘する強い女というものも同根の文化であるように思う。結局は強くならなくてはならないし、勝たなくてはならないのだ。実際にその為に努力して勝ちとっていくという考え方でなければ生きにくい社会ということなのだろうけど、そういう思い込みこそが近代的合理主義の帰結であることに違いは無い。別に批判しているわけでは無くて、大変だな、と同情的なだけである。映画としてはそれでいいけど、そういう信念に染まって生きていくことを選択することになってしまうのは、あんがい危険なことなのではなかろうか。じゃあ、負け犬の道を歩むのか?という疑問を持つ人もいるかもしれないが、そういう疑問を持つということがすでにその考えから抜けられていない証明であろう。
 しかしながら男を選択するという立場になってみると、断然能動的な方が気持ちはいい。どんな男が好きだろうとかまわないわけだが、敵の本性を知るには自分がなんであるかを知らなければならない。そういう意味では非常に共感できるものが無いではない。勘違いであっても、選ばれる人間の選択をするのはさらにつらいような気がする。そうして、実際に努力できるのは、自分の望んだ道だからこそ後悔が怖くないのだ。
 妙にマッチョにオヤジっぽい女たちが多いのもなんだかな、とは思うものの、まあ、そんなような女が増えても別に楽しいのかもしれない。少なくともその分かりやすさは、男としては助かる側面ではなかろうか。日本では普通に女が強くなっている中で男も頑張れという言説が跋扈しているわけだが、翻弄されて困る男が増える方がちょうどバランス良い社会ではないかと心の底では感じているのである。
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じゃがたら

2011-07-28 | 音楽
じゃがたら-jagatara-岬で待つわ



じゃがたら / Tango

 
 映像で見たのは初めてだ。中学生くらいの時に流行っていた記憶があるが、いや、流行っていなかったかも。「暗黒大陸じゃがたら」だったはずで、その後断続的に活動していたのを時々聞いていた。ものすごくいい、という人と、当たり前だが受け付けないという人が極端なバンドだったような気がする。パンクとして聞いている人もいたようだけど、僕自身は、なんかフニャフニャしたとらえどころのないけれど硬派であると思って聞いていた。後に中心メンバーであった江戸の死後解散したのだという。
 今聞くと流石に時代を感じるが、当時はなんか斬新だということだった。何が新しかったのかは、今となっては忘れてしまった。しかしまあ、かっこいいです。
 昨夜昔話をして、いろいろ思い出した所為かな。ほんと忘れてしまったと思っていたことって、たくさんあるものであります。その上忘れてしまいたいことは覚えているなよな。仕方ないことだけど…。
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夏を越せるのだろうか

2011-07-27 | 散歩

 とにかく暑いので出歩くのは危険だ。朝だと言っても10分も歩くと汗がにじんでくる。代謝が良くなっていることを信じて励むより仕方あるまい。いくら体力に自信のある杏月ちゃんとはいえ、段々嗅ぎまわる気力を失ってしまうようだ。ショートカットの道を探さなくてはならないかもしれない。
 6時過ぎでも既に日差しはある。庇のながい帽子をかぶっているご婦人も見かけるようになった。早朝といえど日焼け防止無しに歩けないということか。
 家族の話題は小琳ちゃんの体調問題かもしれない。9歳くらいだからまだまだだろうとは思っていたが、見た目でもかなり老衰が進んでいる感じだ。もともと散歩嫌いだし、血管にも持病があるかもしれないという。手術をさせるべきなのかはよく分からないが、むしろ環境の変化に耐えられないような気がして消極的選択をしたところだ。まあ、寿命なら仕方ないが、出来れば楽に死んだ方がいいだろう。時々フラフラしているようにも見えるし、平気なようにも見える。好き嫌いは激しいが食欲もある。しかし先日は階段から転げ落ちた。全く平気そうな顔をしているが、やはりどこかおかしいのだろう。
 息子たちは帰宅すると、ああ生きていた、というらしい。もし日中に死んだら、帰宅前に埋めて欲しいというらしい。たぶん埋めるのは僕の仕事になるのだろうが、どこに埋めたものだろうか。職場近くにはたくさん埋めるところはあるんだが、なんとなく寂しいし死んだ後だから関係ないこととはいえ残酷な感じもする。寂しがり屋だから可哀そうに思うのかもしれない。曲がりなりにも我が家族。そういうわけで、やはり自宅の庭に埋める方がいいだろう。まあ、それはかまわないにしろ、しかしどこがいいのかはそう簡単に決められない。木の成長を助けるかもしれないので、実のなる樹木のそばがいいのだろうか、などとも思うが、それがいい考えであるとも自信が無い。
 もちろん何事もなく夏を越せるかもしれない。ぐっすり眠っていると時々ドキリとしてしまうが、元気と言えば元気なような感じもしないではない。いまだにトイレの失敗も多いし、実に頭の悪いところも多かったが、顔が可愛いと言えばいまだに健在である。それだけでいいと言えばいいのであるから、やはり長生きして欲しいとは思う。
 こんなことを書いていると本当に死んでしまいそうな気がする。しかし迷信めいたことは気にしないし、本人(本犬?)の前でもどこに埋めようかと話しかけるが、一向に関心の無い顔をしている。言葉が通じあわないというのは実に平和なことである。
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天体衝突の脅威

2011-07-26 | HORROR
巨大隕石衝突シミュレーション


 子供のころから部活動などで夜空を見上げながら歩くということが常習化している。飲み屋街から自宅まで距離があるので、大人になっても夜にてくてく歩きながら帰ることは多い。天体観測をしているわけではないけど、そういうわけで流れ星は年中見る。新聞でも取り上げられるほどのUFO騒ぎになった奴もたまたま目撃したし、ジグザグに飛んだように見える物体も見たことがある。オカルトはまったく信じてないが、これがオカルトなのかどうかは分からない。目の錯覚であったにしろ、なかなかスリリングであった。一度は犬の散歩をしていて、ゴーっという轟音をたてるオレンジの火の玉が神社の向こうを飛んでいくのにたまげたことがある。かなり近くを隕石が通ったのだと思ったが何の報道も無く、いまだにあれはなんだったのだろうと自分でも不思議である。
 超巨大なものでは無くとも、例えば50メートル程度の隕石なら、いつ落ちてきてもおかしくないのだという。実際にソ連時代にシベリアあたりに落ちたというのがあるようだ。その時の爆発で広範囲に木々が倒れ湖が出来たらしい。2029年だったかには30数分の一の確率で数百メートルの隕石と衝突するということが分かり、騒ぎになったこともあった。その後の計算ではほんの少しずれるのだと分かったそうである。それでも東京などの都市が消滅する程度の隕石の衝突は、数百年に一度は普通に落ちてくるものなのだという。今回の津波でさえ1000年に一度というから、その確率よりは高いわけだ。
 このような映像を見ると、人間のような生物が生きて生活しているというのは、つかの間の時間を謳歌しているだけのことなのかもしれない。本当にやってくるということが分かったとしても、ここまでの規模ならどうにもなるまい。出来ることなら痛みも感じない程度に一瞬で死んでしまいたいものである。
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予想を外してしまった

2011-07-25 | 時事

 地デジ完全移行が済んだらしい。あまり関係の無い環境にあって実感は無い。先日立ち寄った焼き鳥屋のカウンタのテレビがアナログだったな、ということを思い出したが、たぶん今後は点けないだけのことになるんだろう。
 数年前に地デジ移行は失敗するか延期になるのではないかと予想していたのだが、今のところ特に騒がしいことにはなっていないようだ。大量のゴミが生まれたはずだが、そのこともあまり問題にもなっていないようだ。またNHKの加入者が減るだろうことは予想されるが、もともと4割は支払っていないらしいから、まあ、そう問題にもならないのかもしれない。今になって様々な予想はなされていることだろうけど、日本は豊かだし大人しいから、もう少し時間がたたなければ深刻に取り上げられることも無いのかもしれない。
 ネットとテレビの融合や競合の話もあるが、僕にはよく分からない。すでにそのような社会になっているような気がするし、だからと言ってそうたいした問題でも無いような気がしないではない。この機会にテレビをやめる宣言をしている人がいたような気がするが、別にそれが社会問題化することも無いだろう。テレビを見ているのは圧倒的に高齢者か子供であって、僕らの世代とはあまり関係が無いせいだろう。もちろんぜんぜん見ないわけではないし、むしろ僕はハードユーザーだけれど、録画した番組しか興味が無いので、実感はぜんぜん無い。そういう意味で、問題という取り上げがむつかしい題材なのかもしれない。
 もちろんご高齢の人たちにとっての打撃は、実際には大きかっただろうとは思う。テレビは相対的に安くなってはいるが、だからと言って壊れてもいないものを買い替えるには勇気がいることだったろう。事実上壊れてしまったようなものだから、今からは本格的に買い替えるということが起こるかもしれない。その元気があれば、という前提が必要だけど。
 考えてみると、自宅には数台のモニターがただ置いてある。近い将来これをどうするか。めんどくさいので先送りである。
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蚊帳が売れているそうで…

2011-07-25 | 雑記

 節電のためなのか、蚊帳の売れ行きがいいという話だった。エアコン点けたまま寝ている人が多かったのだろうか。網戸でなく蚊帳である必要性もよく分からないが…。
 最初に寮の部屋の割り当てが決まって引っ越した夜に、蚊に刺されてほとんど眠られなかった。もちろん翌日学校の帰りに市場に寄って蚊帳を買い求めた。旅行でも蚊帳の無い部屋に泊まることはできない。まず部屋を見せてくれ、というのは常識だった。盲腸や赤痢で入院した病院のベッドでも蚊帳が張ってあって、もちろん点滴も蚊帳の中であった。というわけで、蚊帳というのは留学中の思い出である。
 僕は体が弱いのかエアコンが苦手で、都市部のホテルに夏に泊まるのが怖い。高いビルだと窓を開けても大して虫は入ってこないようだが、最初から窓が開かない部屋などもあるようだ。どうしてもエアコンで寝なければならないようなら、浴室に少し水を張ってドアを開けておくようにしている。何でも無い場合もあるが、少し体が重たい感じにはなるようだ。
 日本での蚊帳の思い出はあんまり無い。子供のころ親戚の家に泊まった時に蚊帳を張って寝たような気がしないではないが、どうなのだろう。
 寝相が悪くていつの間にか蚊帳に顔を近づけてしまっており、目覚めると口元近くの網の向こうに蚊が数十匹たかっていたことがあって、えらく驚いたことがある。蚊は人間の呼吸を目印にしているのだろうか。
 そういえば網戸の修理をしなくちゃならないのだった。小琳ちゃんたちが壊すので防護策も考えなくては。蚊帳を買うことは考えてなかった。
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日本語が生まれている

2011-07-22 | ことば

 高島俊男先生のエッセイでまた眼から鱗。ついでにメモ的に。
 瓦礫の山という報道に対しては、確かに言われてみるまではそんなに違和感がなかった。瓦礫を焼却するなどとも言っており、明らかにおかしな表現ではあるが、それだけ混乱して定着してしまったということなのだろう。また他にあの物体を何と言っていいのか、その混在ぶりに適当な言葉が無かったのだろう。結果的に「がれき」という新しい日本語が生まれたらしいことは、この震災の異常さとともに、歴史的なことなのかもしれない。
 募金するとも普通に使って来ており、お金を出すことにまで募金という間違った言葉を使うことは既に定着しているように思える。知ってしまった以上これからは使いにくいが、醵金という言葉がこれからも復活することは難しいだろう。
 義援金は個人的に使わないが、義捐金と書くことも、そういう立場になることもそうそうは無い。いちいち修正したいとも思わないし、支援金のような新しい言葉が代りに定着してくれることを期待するより無いのだろう。
 日本語というのは随分壊れてはいるものだが、現代で通用するところは使い続けて行くより無いというだけのことなのであろう。
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サッカーに限ったことではないのだろうが

2011-07-21 | 時事

 女子サッカー日本代表に、スポンサーのキリンから21人にそれぞれ100万のボーナスが出ることになったらしい。聞くところによると、彼女らの平均月収は10万そこそこなんだとか。昼間はレジ打ちのバイトなどをしながらサッカーの練習をしている人も多いのだそうだ。好きなことの将来のために苦しくても頑張るというのは理解できるし、そのようなハングリー精神が逆に勝負事では威力を発揮する場合もあるんだろうが、しかしやはりその境遇は想像以上に苦しいものなのかもしれない。今となっては100万以上のものを得ることは出来たのかもしれないけれど、世界一でもその程度であるとも言えるのではないだろうか。もちろんどのような支援をするのかという仕組みは大変に重要だし、日本より厳しい中で埋もれている選手というのも世界中にはゴマンと存在するに違いない。もともと収入では計れないもののために頑張っているというのが、ほとんどのスポーツなのかもしれない。ある程度豊かで平和だからこそこのような偉業が達成できるわけで、マイナーである苦しみの中にも、結果が出せる者だけが得られる栄誉ということであったのかもしれない。管さん以外の人は、まだまだ諦めてはいけないようであります。
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車に求める楽しみ方

2011-07-21 | 感涙記
Toyota Window to the world - multimedia system


 素直に凄いです。
 いろんな意味で、以前まではなんとなく当たり前だと思っていた未来が楽しいというイメージが、どんどん失われているような印象がある。しかしながら、そういう気分を払拭するのはやはりテクノロジーなのかもしれない。
 もちろん、僕が若くなくなって、そういうものに気付かなかっただけなのかもしれない。遅れてきた期待のようなもの、なのだろうか。
 少なくとも自動車という乗り物に求められているものは、だいぶ違うものになっているということなんだろう。
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つまらないと助かります

2011-07-20 | 境界線

 見たい番組を片っ端から録画していくと、どんどんたまってとても見る気がしなくなる。というかコツコツ見続けても、とても物理的に処理できないということに気づかされる。休み中に頑張って一日十時間以上見ていたが、この番組はダビングして残しておきたいとか別の欲が湧いてきて、さらにせっかくだからアート系だとか落語だとか、動物や自然ものとかドキュメンタリーだとか色々分類すべきではないかという考えももたげてきて、とても処理できなくてさらに途方に暮れてしまう。読みたい本だとか、借りてきている映画なんかもあるのだから、さらに悩みは深くなる。寝ないで頑張る体力も無いし、よく考えてみるとそこまでして見る意味などがあるのかという哲学的な疑問も感じられ、どんどん切羽詰まっていく。結局は出来るだけのことをするだけだという当たり前の結論になり、ただただコツコツ見るだけのことである。今となっては見終わってつまらなかったと思えるような番組であれば、素直に消去できることだけが何となくうれしい。それでは本末転倒のような気がしないではないが、実際に嬉しいのだからそれでいいのである。
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これからも期待しないわけ

2011-07-19 | 時事

 決勝の延長やPK戦の時は犬の散歩をしていた。帰ってみると、家人が「勝ったね」と言った。勝って欲しいとは思っていたが、大差での敗北もあり得ると思っていたので驚きだった。が、正直忘れていた。シャワーを浴びて出てきたらやはりニュースが流れている。PKで勝った場面のようだ。深夜というか、かなりの早朝に試合が行われていたということもあって、大会を通じて快進撃のプレーのほとんどを見る機会は無かった。
 実をいうと大会前からかなり期待していたことは確かで、しかし予選は二位通過という時点で厳しい見かたをしていた。しかし結果は違っていた。ドイツでは国民が悲観的になっているのではないかと心配した。フェアプレーのチームに負けてしまって嘆きの鬱憤を晴らしにくいという心情のつらさも紹介されていた。日本がもっと汚いプレースタイルなら良かったのに…、というスウェーデンのことも気になった。欧州のアウェーでの戦いの圧力も、さらに過酷になるのではあるまいか。米国とブラジル戦が事実上の決勝戦だということも聞いていた。日本が勝ちあがることで、米国の事実上の優勝が確実視されているのだろうと思っていた。もちろん誰もが描くシナリオなのだろうが。
 女子サッカーで日本はなかなかやるのではないかという話は、知らなかったわけではない。しかしながら、日本のサッカーというものを熱心に見たことは無い。だいぶ前だったと思うが、アジアではまだ中国が強かったという印象が強い。ワールドカップでも先に活躍していたのではなかったか。日本は後塵を拝していたが、しかし力が無いわけではないという話は聞いていた。肉体的な力負けをしてしまうが、プレースタイルは高度だという。他の競技でもよく聞かれることである。
 今回の快進撃は、やはり奇跡的とも思われる。日本は徐々に女子サッカーも盛んになっているとは言われているようだが、実際にサッカーをする女子というのは、島原のママさんサッカーしか知らない。後は恐らく静岡あたりも盛んなのだろうけど。そうした底辺からの厚みのあるサッカー育成は、まだ道半ばなのではあるまいか。日本女性だからスポーツには向かないということは物理的にあり得ない話だが、女性がスポーツの世界に進出するという見方はいまだにあるような気がする。だからまた、驚きをもって捉えられるということもあるのだろう。ましてや肉体的に接触プレーの多いサッカーのような競技において日本女性が活躍するということにも、後進的な偏見がありそうな気がする。
 これからしばらくはこの騒ぎは続くことだろうし、いろいろな分析もなされていくことだろう。競技人口が多くてもなかなか開花しない競技もあることだし、お家芸と言われるスポーツが、いつまでも栄華を保てるというわけでもない。しかし、伝統的に強さが求められる他国に混ざって、日本が勝ちえたこの栄誉がどのような歴史の転換点となるのかは興味深いところである。それもひとえに、これからも勝ち続けられるのかということでもあるし、本当に競技人口が増えるのかということでもあろう。
 報道で見る限り、日本チームは実に伸び伸びと朗らかであった。絶対的でない期待の中、何も失うものが無いという日の丸の背負い方が、却ってよかったような気がしないではない。むしろ勝つことが至上命題で無いままでいられることの方が、これからも良い結果が生まれやすいのではあるまいか。すでにそれは叶わない期待に過ぎないのだろうけど。
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狂気と家族

2011-07-18 | 読書

狂気と家族/R・D・レイン、A・エスターソン著(みすず書房)

 どうして精神分裂症(統合失調症)にかかってしまうのかは現在でもはっきり分かっていない。それほどこの病気にかかるということには個人差があるということと、精神病というものが、結果としてある状態であるのは分かるが、結局はその状態でなければいいというだけの社会的な問題ともつながっており、まだまだ未知のものであるということでもあろうと思う。脳内物質との関係も取りざたされているが、つまるところ結果的なものである。しかし、罹る人と罹らない人がいるらしいことが、ある種の偏見を生んでしまう。
 そのような個人的な病気であって、しかしその病人の家族も含めて観察して見ると、いろいろと特徴的なものが見えてくる場合があるようだ。そういう症例を集めて羅列紹介されているだけの内容の本である。それだけなのだが、実に奇妙に考えさせられることがたくさん出てくる。明らかに異常な家庭環境と、そして人間関係。欺瞞に満ちていながら、しかし、あたかもそのことが何の異常とも気付いていないらしいということも含めて、それなりの驚きも覚える。患者の方が異常性をかなり以前から訴えていたにもかかわらず、家族の方はその訴えている本人の方を異常だと考えてしまう。ついには…。というような展開が予想できて、なんとも痛ましい思いがする。ひょっとしたら、この病気は防ぐことができたのではなかったのか。しかし、子供は家族を自ら選ぶことは出来なかったのだ。
 もちろんこのような環境下にあっても、発病しない人の方が多いのかもしれない。ある意味でそういう才能があるからこそ病気になってしまうとは考えられる。兄妹であっても発症しない人もいる。異常性のもとが本人である場合もあったことだろう。むしろ親は本心から子供を心配し守ろうとして、より欺瞞的な態度を恒常化させてしまったのかもしれない。そうして見たくないものを見ない習慣が、本当に目の前のことを見えにくくして行ったのではないだろうか。
 家族の中の異常性が浮き彫りにされると紹介したが、しかし、このような親の言動は、あんがい日常的にありふれたものなのかもしれない。ごく一般の家庭においても、例えば少し派手な服装をする娘をたしなめて過剰に注意することもあるだろう。その注意にまた過剰に反発するのは子供の常だ。そうした軋轢の末、実際に恋愛の障害になったり、あるいはさらに別の事件に巻き込まれるということもあり得ることだろう。親としては、言うことを聞かなかったからだと思うだろうし、子供としては妨害されたからだと思うのかもしれない。そういう出来事が必ず精神的な病気につながるとは限らないが、しかし、実際に病気になってしまった人には、そのような関係が大きかったことが伺える。家族という一番身近で基本的な関係だからこそ、個人に与える影響が大きすぎるのであろう。
 アニメの「サザエさん」を見ていて、僕がいつも疑問に思うことがある。それは家庭内の日常に、様々な容易にばれてしまう嘘の多いことである。たまたま昨夜見ていた話を例にとろう。カツオは夏休みに補習を受けることになり(成績のせいであろう。また、その前にテスト用紙を隠そうともしていたし、点数を誤魔化そうともしている)、それで(夏休みにかかわらず)毎朝登校しなければならないということを、学級で飼っている兎の餌やりの係になったと言ってしまう。いろいろ頑張るが、もちろん後でばれてしまう。ノリスケが自宅で酒を飲みながら寛いでいると、間違い電話でうなぎ10人前の注文を受ける。ノリスケはふざけて、そのままウナギ屋を装い注文を受ける。一度催促があるが、間もなく配達するとさらに嘘を重ねる。もちろん話は大きくなり、結果的には誰が悪かったのか分からないまま終わる。漫画だから嘘がバレる過程を面白く見せているということだろう。また波平は、養毛剤を試していることを隠すために、(そのことに注意が集中しすぎて)フネの変化に気付かないというエピソードもあった。これもまあ、嘘のような例に挙げられるかもしれない。たった30分の中に様々なバリエーションの嘘の羅列がある。なんという欺瞞に満ちた家族なのであろう。
 例え家族であっても隠し事があって当然とは思うものの、しかし彼らは実に意識的に多くの嘘を吐いている。そういうものだということかもしれないが、これだけ欺瞞に満ちた家庭も珍しかろうといつも僕は思うらしい。あるいは、嘘に気付かない鈍感な男だということもできるかもしれないが、しかしそんなに必要性が高いとも思えない嘘ばかりをつこうとする心情は、やはり良く分からない。嘘は分からなければ嘘ではないという言葉があるが、しかし共同生活をしている家族間において、本当にそんなに嘘が必要なのだろうか。
 脱線はさておき、やはり家庭内においては、あんがいそれなりの欺瞞は隠されているものだと考えることは出来そうである。それが人間関係であるということは言えるものの、その欺瞞が日常化し、時には見えなくなるほどに定着して本当のことになってしまうと、傍から見ていて異常なものになってしまっても、本人たちは気付きもしないということに発展していくものなのかもしれない。不思議な本だが、この本を読むことで、改めて家族とは何かと考えてみることは必要なのではないだろうか。
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蚊は汚れた靴下が好き

2011-07-15 | 雑記
蚊は汚れた靴下の匂いが好き?マラリア対策で新戦法 タンザニア

 なんか他にもあるんじゃないか、という気がしないではない。人間の汗と関係がありそうだから、先行研究も探せるんじゃなかろうか。でもまあ、6000万も助成金を得ているということで、やっぱり有望なのだろう。
 靴下はまめに洗いましょう。
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パンが無ければ、ケーキを食べたらいい日

2011-07-15 | 感涙記



 年を取ったということに関しては、なるほど愕然としてしまうわけだが、しかしながら誕生日が嬉しくないかといえば、別にそんなことは無い。これからも永遠にそうなのかは知らないけど、自分の生まれた日がスペシャルであることは間違いない。
 フランスではパリ祭で盛大に花火が上がるらしい。そういうことを小学生のころに知り、フランス人でも無いくせに嬉しかった。ブラボー!フランス。なんとなく監獄を襲撃したくなるが、助け出したい人もいないのが残念だ。
 朝からはご飯で年齢をかたどったスペシャルプレートに蝋燭が灯されお祝いを言われた。実はちゃんと忘れていた(そろそろということは知っていたはずなのに!)ので少しびっくり。蝋燭の数は省略して一本であったけど。まあ、ちゃんと並べたら火事になりかねないが。
 日中もいろんな人から祝福される。何故かポップコーンを貰ったりした。facebookにもメッセージやコメントをいただいた。どうもありがとうございました。
 仕事の方ははかどらなかったけど、節目となるくらいには片付いた。しかし懸念していた事案は解決した。これで少し嬉しく開放感があった。
 つれあいからプレゼントも貰った。Tシャツと携帯ホルダー。いまどきはオジサンしかこういうものを使わないらしくて、探すのに苦労したそうである。でもやっぱり携帯するんだから必要だよね。ありがとう。
 理事会ハネて家に帰ると、休肝日なのに特別に発泡酒500mlであった。日中は暑かったし、実にクールに素晴らしい。もちろんその後日本酒飲んで、焼酎の水割りも飲んだ。焼肉と冷奴と蛸刺しとチーズも食べた。
 そういうわけで残りの寿命も楽しくありたいものであります。




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自転車泥棒

2011-07-14 | culture

 地区懇に出席。我がホームタウンの特徴的な犯罪は、自転車の盗難ということになっている。そういう話を聞いてすでに十数年になるから、構造的に問題がありながら改善できない自慢話のようなことになっている。長崎市は坂が多いから自転車には向かないといわれている。人口の多い都市部がそうだから、比較的坂の少ない我が町がワーストになっているという話もある。どこの学校と特定して言われることはあまり無いが、某高校の生徒は駅から自転車で通う率が高く、なお夜は自転車を置きっぱなしにしていることから、自転車の盗難が常習化しているという話もある。対策は取っているのだろうが、本当に減らしたいならそういう原因をある程度特定して監視するより無かろう。ちなみに今年になって71件ということで今年もワースト街道まっしぐらだそうだ。ふーむ。
 ところで自転車泥棒といえば古いイタリア映画を思い出すわけだが、あれは社会的な貧困をあぶり出した名作だった。学生の自転車の盗難は、もちろん貧困のためではない。盗られれば悔しいし残念だろうとは思うが、恐らくまた親に買ってくれとせがむのだろう。その先は言わない。
 盗難後の自転車は、ほとんど見つかりはするのだという。つまり鍵をかけ忘れた自転車は勝手に持ち逃げされ、その後放置自転車になるらしい。ただ見つかるまで時間がたってしまって、そのまま乗れる状態には無くなってはしまうらしいが。
 要するに自転車の鍵を掛け忘れなければ、乗り逃げされることもほとんど無くなるらしい。警察も学校もそのことを口を酸っぱくして繰り返している。現実的にそういう期待に終始しても効果があがらないということなのだろう。ということになれば、自転車の盗難という犯罪は、豊かさが生み出した結果なのではあるまいか。
 もちろん自転車を盗る人が一番悪いとは思う。例え無施錠の自転車であっても、勝手に乗らないということを期待できるものならそうあった方がいい社会だろう。しかし持ち主がその場に現れることがぜんぜん無かろうという状況で、モラルの低い人間が無施錠の自転車を見つけたら乗っていってしまうのも、ある意味ではありうる話だとは思う。わざわざ指紋を取るなどの捜査などもされそうにないし(したとしても特定できるものだろうか)、乗り捨てれば逃げ切れる確率の方がはるかに高い。
 このような集会で毎回このようなことを聞かされ続けて、正直なんとなくうんざりするような気分にもなっているのだけど、さらに出席者は減少まっしぐらになっていて、広報効果も薄くなっているとも感じられる。この調子だと、これから先もまだまだワーストの地位は安泰なのだろう。もちろんこの先地域経済がどん詰まりになって、貧困にあえぐ家庭が増えなければだが。まあ、そのようになれば人口そのものが減ってもいるのだろうけど。
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