カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

カンニング竹山

2006-12-31 | 雑記
 父の若い頃の写真を見ると、なんとなく(お笑い)カンニングの竹山という人に似ているような気がする。怒ると怖いというのは誰でも同じことではあるが、怒っていない竹山さんに似ているようだ(いや、父が怒っているときは怖くて顔を見ていなかったような気もする。覚えているわけがない。しかし、僕は父にろくに叱られたことはなかった。叱られていいとは思わないが、なんとなく寂しい)。にやけた感じはなんとなく親近感を持ってしまう。父とは違う人とはわかっているが、危なっかしい芸風も売りのようで、こちらもなんとなく気が気でない。いつまでも突っ走るわけにもいかないだろうけれど、自重してほしいというのが正直なところである。最近は友人も病気で亡くなられたという噂は聞いている。お気の毒だが、頑張ってほしいものである。
 何のことはない。年末だから散髪をして、家に帰った後にふと鏡を覗く機会があった。(一般の人にはわかりにくいことかもしれないが、僕は鏡を見る習慣がない)「あ、竹山。(少し親父)」と思ったわけだ。再会するのは別に悪くないけれど、やはりもう少しダイエットすべきであるような気がしないでもない。一年の計は大晦日にもある。来年は最初から引き締めていこう。
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もみじ

2006-12-30 | 散歩

 なんだか今頃もみじがきれいに色づいている。やっと寒くなったということなのだろうか。
 みなさん、よいお年をお迎えください。
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IH・クッキング・ヒーター

2006-12-29 | 雑記
 ウチのキッチンはIHなんだけれど、この方式の最大の不便さは器具を選ぶことだった。以前から使っていたもので使えなくなった鍋などはけっこうあるようだ。また、このために買い換えたものもあると聞く。実際家で料理をしたことがないので、あくまで、大変なのだな、フムフム、という認識しかないけれど、冬になってストーブを出すと、つれあいが「あー、便利だ」とつぶやいているのを聞く。土鍋なんかを使った料理ができるようになるということであるらしい。そういえばカセットコンロも時々テーブルの上にのっている。僕はカセットコンロというものは、宴会とかキャンプにしか使わないものだと思っていたので、IHになって、比較的身近に家庭で見るようになって愛着がわいている。つまり、結局いろいろと鍋は使い分けられているということのようである。
 もちろんIH自体は火力が弱いわけじゃないし、つけっぱなしで忘れていても一定時間放置すると勝手に消えてくれるので安全であるし、なにより見た目がすっきりして、夏場でも鍋以外が熱くならないので暑苦しくないこと、などが大変にいいような気がする。僕は自分が使わないなりに、そういうわけで気に入っている。一時期アパートの西日に照らされ、汗だくで格闘しながら料理をしていたつれあいの姿(本当に気の毒だった。苦労かけたね)をよく覚えているので、料理する姿が暑苦しくないというのが、みている僕にも精神衛生上たいへんによろしい。今は冬だが、さかのぼってそう思う。
 さてちっとも本題にいかないのだが、そうであったIHクッキング・ヒーターにオールメタル対応が出たらしい。僕は正直に驚いた。弟と飲んでいてそういうのがあると聞かされたときは、すぐに信用できなかった。そんな些細なことで僕を担いで何になる、などと思考をめぐらしてしまったぐらいである。弟よ、疑ってすまなかった。
 僕は科学的合理性の無い話を信用するのがなにより嫌いだ。だからダイオキシンの害にも否定的だし、タバコの癌への影響についても疑いを持っているわけだ。これらはもっとも重要であるはずの科学的根拠に欠けているにもかかわらず、多くの人を騙し続けている。まあしかし今はそういう話なのではない。残念だが話を戻そう。
 実は家でどんな鍋に変わったのか知らないが、フライパンをはじめいろんなものが新しくなったような気がする。僕だって一緒に買物にいったりした(何を買ったかまでは見てなかったが)ので、それぐらいは分かる。IH対応の器具のみに今後の買物の選択がしぼられたという認識は、完全にインプットされたわけである。
 オールメタル対応ということであるから、メタルであればいいという選択になったようだ。電気なのにアルミが使えるってイメージがまず僕には全然ない。つくづくなんだかすごいという気がする。しかしこの説明にある3倍共振インバーターという考え方だったことも実はよく理解していなかった。何か科学的根拠が大切だよ。僕だって何にも知らないじゃん。
 まあしかしすごいことではあるが、冷静になって考えてみると今使っているものが致命的に壊れない限りおいそれと買い換えることはありえない。中華なべのような底の丸いやつは相変わらず駄目だろうし、つれあいは圧力鍋は嫌いらしい。アルミホイルの包み焼はその響きからいっても旨そうだが、アルミ鍋を使うのはアルツハイマーなどのことを考えると長い目でみて敬遠した方がいいような気がする。ものすごく先の未来には恩恵を受ける可能性が広がったということに過ぎないようである。一気に興奮は冷めてしまった。
 開発秘話を見る限り、何年も研究をしているということがよく分かる。製品化することを信じて技術革新をはかるという努力は尊敬に値する。考えてみると便利で簡単になることによって、電化製品は逆にその内容的な技術がまったく分からない代物になっている。いろんなことが当たり前になっていることに反比例して、その内容が誰も分からないという皮肉な世界だ。なんて厭世的なことをいおうと思っているわけでは全然なくて、僕はまったくそれでいい。
 人間は新しい環境でも対応できる能力というか柔軟性があるのだと思う。便利に慣らされているというんじゃなくて、便利に対応しているんじゃなかろうか。どんどん新しいことに慣れるというのは、不便なことにも慣れる能力がちゃんと備わっている証明ではないか。僕は素直にびっくりするような技術革新が次々に現れないものかと思っている昭和世代の子供なのである。お互いにお互いをびっくりさせたいという欲望が、ちょっと先の未来を切り開くような、漠然としたイメージがあるのだろうと思う。今回はびっくりさせられてよかったのであった。
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尊敬できる人

2006-12-28 | 雑記
 訳あって、忘年会等お誘いがあったものには参加できず。失敬しております。
 例年なら一週間ぐらいボチボチと準備する年賀状もまだ。年末のご挨拶も失礼しているところもあるようだ。もう物理的に無理かな、というし忘れ仕事も残っている。無理なものは仕方がないが、ただ、申し訳ありません。
だけどこんなときは、逆にルーチンな仕事をするのがなんとなく気持ちがいい。かえって吹っ切れて軽快な気分なのかもしれない。どこまでやってもどうせ年内には終わらない。だって物理的に無理なんだもん、ルンルン(なんだか、壊れている感じもするが、大丈夫です)という感じなのである。

 電球が切れたので買いに行く。パルックボールと書いてあるのでそういうものがおいてある場所に行ったのだが、これがどれを買っていいのか分からない。一応型番というか記号をメモしていたけれど、店に入るとどこにやったか分からない。店員に聞くと「だいたいどれでも合うとは思います」とのことだが、そういうのがさらに混乱させられる。やっとメモを見つけて確認すると、同じように書いてある商品がひとつもない。ためしにひとつ手にとって箱に書いてある説明文を読むと、僕の記号のものも代用できますと小さく書いてある。まあ、店員の言うことはそういう意味か。メーカーが違うものもあるので、いろいろ型番号にも変化があるものらしい。さらに明るさの種類があるが、これも三種類あるようだ。選択肢が多すぎるというのは本当に煩わしい。神様の啓示があってこれを選べと命令してくれないかと思う。稲光がしてその商品を指し示してくれると、ドキドキして楽しいかもしれない。
 電化製品の部品であるとか建材などのようなものは、業者からカタログを見せられても困惑することが多い。あまりに種類が多すぎる。やっと気に入ったものがあっても、製品に合わなかったりする。まず見る場所から詳しく説明を受けなければならない。カタログにたくさんの付箋紙を貼って、他の人にも相談する。しかしこれもたいてい失敗する因子を増やすだけの場合が多い。もっとたくさんの付箋紙が張られて戻ってくるからだ。しばらくみんなでわいわいやっているが、結局スキッと決まることはめったにない。最後には僕にきめろと迫られたりする。僕は昼飯にどこのうどん屋に入るのかもろくにきめられない性格なので、こういう脅迫がなにより困る。押しの強い人がいて「これにしよう」「これがいい」なんて何でもきめてくれると楽なのになあ、と思う。何でも僕にやれといわれると逃げ出すだろうけれど、こと選択に関しては、そういう人が身の回りに居て欲しい。
 家に帰って買ってきた電球を取り付けると、明らかに以前とは違う明るさと色であった。訳あってつれあいは数日外泊しているのだが、帰ってきたら買物ひとつできないのかと怒るのではないか。ちょっとぐらい暗い程度は、我慢したほうがよかったのかもしれない。どうせあんまり家に居ないんだから、余計なことをしないほうがいいのかもしれない。そういう風な積み重ねが、さらに僕の買物を下手にしていくのだろう。
 僕は本とかCD以外の買物をしないでいい世界に住みたいと思う。ほとんど今はそういう世界に近くはなってきたが、つれあいが居なくなるとこの世界自体が崩壊する。風呂に入るのはいいが、服を着替えるのが煩わしい。ほとんどの人はちゃんとその都度適切に選択しながら生活ができているのだろうか。本当にそうなら、ものすごいことなんじゃなかろうか。
 僕以外の多くの人たちは、だから僕は尊敬しているのであります。
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ノロウイルス

2006-12-27 | 時事
 人の集まる事業所なので、感染症には最大限気をつける。そういうことは当然だと思うけれど、なんだかやりきれない気分になることもある。最近ではなんといってもノロウイルスで、完全に行き過ぎていると感じるが、歯止めがぜんぜん効かない状態が続いている。この季節に牡蠣フライや酒蒸等のメニューが皆無になり、あさり、シジミなどの味噌汁もなくなった。それでみんなが当然という顔をしているところがなんとも嫌である。
 このあいだカキ焼小屋の前を車で通ったのだが、当然のように客は皆無であるようだった。開いていたのだろうか、それすら怪しく思えた。また、近年九十九島のカキの売り込みが来ていて、年末は勧誘が激しかったのだけれど、今年はぱったり消えてなくなった。静かになるのは歓迎だが、その分の牡蠣たちはどうなっているのだろう。養殖しているものがほとんどだろうけれど、廃棄されても問題ないものなのか。その分大型の魚が増えるとかいうことになっても、来年は反動もあるかもしれない。天然自然は人為的な力で取り返しのつかないことになりかねない。取り返せても、長い時間が必要だったりする。憶測に過ぎない話ではあるけれど、これだけ近年盛大に売り込みがあって一定の軌道に乗っているものが、ぱったり失われて影響が無い訳がないと思う。
 もちろん経済的にも大変な変化が見られることだろう。カキ小屋経営者は年を越せるのだろうか。カキが売れなくなったせいで当然別の分野に金が流れているはずで、年明けに力をつけているのだろう。人間界は気まぐれで明暗が分かれる。こういう風評で人生の変わる人がいるということが、なんとなくやりきれないのかもしれない。
 いや、僕は面白く無くても、これが面白いと思う人たちもいるのだろうな。投資家は既に目をつけていたはずで、そういう意味で未来が見えたり操作する人がいるような気がしないではない。行き過ぎると陰謀説になりそうだけれど、そういう人たちが増えるのはやっぱり面白くない。
 僕自身は牡蠣にあたって苦しい思いをしたことがあるけれど、そのとき一緒にいた人たちは平気だった。あれは運のようなもののような気もする。運なら仕方がない。それでまた食うようになったのだが、やはり旨いものは旨いと素直に思う。その上牡蠣には亜鉛も豊富に含まれているので、風邪をひかない気がする。今年の冬は、さらに風邪に注意する必要があるのではないかと思う。まあ、僕は安くなっているだろう牡蠣を探して湯豆腐と一緒にでも食うことにしよう。
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メリー・クリスマス

2006-12-26 | 時事
 クリスマス会をする。僕は歯を抜いたばかりで口の調子が悪かったのだけれど、サンタの格好をして挨拶と干杯の音頭。
 こういう会なので普通に「メリー・クリスマス」というわけであるが、実は米国などでは一般的にこういう掛け声はしないという。普通はなんというか。
答えは「ハッピィ・ホリディ」。
 ニュアンス的にはちょっと違う気がするけど、よその国の習慣にケチつけても仕方がない。キリスト教徒の習慣がクリスマスなので、他の宗教の人たちがクリスマスを祝うのは厳密にはありえない。まあ、異教徒でも最近は(日本のように)実際には祝うようになっているらしいが、それだけイベントとして汎用性のある習慣なのかもしれない。しかし米国などはちゃんとキリスト教徒のほうが多数派なので、彼ら自身が他の宗派に遠慮して一般には「ハッピィ・ホリディ」というのではないかということであった。
 ちなみにクリスマスはキリストの誕生祝ということになっているが、これもかなり怪しいということが分かっている。クリスマスのお祝いの起源はドイツの土着習慣にあるらしく、いつの間にかその中のプレゼントを贈る習慣のほうが広がった。そうではあったがキリスト教で祝うんだったら、せっかくだからキリストの誕生日にしようということになった可能性が高いらしい。こういう話は歴史に詳しい人には定説なんだとか。
 さらにいうとサンタクロースの格好も米国のコカ・コーラ社の宣伝が広がってああいう赤い服に定着した。だから最初は米国だけだったが、今ではヨーロッパでもおおむねサンタはああいう感じになってきたのだという。歴史というのは後の人がつくるケースがけっこうあるのである。まあ、それって根本的に歴史なのかという疑問がないではないが…。
 まあ、日本ではクリスマスはさらに何の起源もないので普通に「メリー・クリスマス」なんだよ、というのが文化の発展の仕方なのである。
 青年会議所なんかで、よく原点に立ち返ろうなどとしたり顔でいう人があるのだが、僕はそういう考え方は幼いと思う。正しいものをとりもどすなんてことを言うのは、何処の国でも若者が言い出すことである。現在はいまさらどうにもならない。いや、なるようにしかならない。これからのことは、これからつくるよりないのである。変な権威を振りかざしても、合わないものを持ってくると歪が生まれるだけである。総合的なバランス感覚こそ大切だと、経験がものをいう領域だと、僕はいいたいだけである。
 クリスマス期間というものがあって、年明けぐらいまではお祝いしてもいいらしい。そういうわけで、みなさん「ハッピィ・ホリディ」。
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それぞれが幸せになればいい

2006-12-25 | 雑記
 火葬場のテレビで駅伝観戦。世羅は凄かった。流れに乗るというか、どんどん前に行く爽快さがあった。実際には後半につめられているのだが、ほんの僅かづつであるというのが、追いかける方に別のプレッシャーを掛け続けたのではないだろうか。
 32年ぶりの優勝ということで、監督さんは「次も32年後でいいかな」といったそうだ。なるほど、そういう人だから高校生を動かすことができるのかもしれないと思うのだった。

 夜は変則家族クリスマス会。歯の激痛で具合が悪い。それでも食うのだから変な意味で根性があるものだ。
 肉親の話というものは、昔話でもちょっと辛辣になりすぎる感じがする。欠点などを指摘されると、非常に恥ずかしかったりする。母の話を聞いていると、普通なら聞き流すようなことでも、妙に腹が立ったりしてしまう。自分が子供であるのは変わらない。そういうことなのかもしれないと思う。
 子供達がばたばたしている感じも、今では珍しい風景になった。うるさいが、はしゃぎたい気持ちも分からないではない。小琳ちゃんも異常に走り回っている。
 姪っ子も中学生で、奥で恋の話なんだとか。なんというか、女というのはやはり怖い気がする。いや、僕だってその時分恋の話はしてたんだろうが、最大の関心事だったのかどうか。少なくとも親戚の前でそんな話をしていたかどうか。
 自分自身に女に興味があることが煩わしい。避けられないからこそ嫌なのかもしれない。女にはそういう悩みが感じられない。気づいていないだけなのだろうか。まあ、みなさんそれぞれに通過することで、僕がとやかく言うことではない。少なくともこの日は特に、いろんな場所でいろんなドラマが生まれているのかもしれない。それぞれお幸せになってください。おじさんはそう思うのである。
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三人マージャン

2006-12-24 | 雑記
 歯が痛い歯が痛いと思いながら時間を過ごしていると、ふと昨夜見た夢をリアルに思い出した。たくさんの人たちが一心に卓を囲んでいる。よくみると三人マージャンである。サンマーの特徴として非常に高い役を作ろうとしている人が多い。「ツモ、スーアンコー」などという声が聞こえる。僕がたまたま見ていた卓で若い人が訳の分からない役であがった。いろんな漢数字が並んでいて、アメリカの独立宣言と支那の文化大革命に関係のある役なのだと説明を受けた。「ふーん、そんなのがあるんだ」と感心しているが、よく考えると僕はサンマーを打った経験がない。果たして彼らは本当にマージャンをしていたのだろうか。僕にはよく分からなくなってくるのである。夢というのはたいてい不条理なものであるが、僕の親知らずも十分に不条理な気がする。夢というのは不条理ながら感慨深いものであると思うのである。
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幸福の脅迫

2006-12-24 | 映画
 親知らずが痛み出してつらい。放っておいてもなんにもならないらしいが、痛み止めで何とかやり過ごしている。鳥の軟骨を食っていると隣の炎症を起こしている奥歯に当たったらしく激しい痛みにもだえながら食事をする。寝ていても痛みでなんども目覚める。夢の中で痛み止めを飲んだりした。もちろん夢の中で飲んだので、効き目などはないようだ。目覚めると痛みが和らいでいないか期待しているが、炎症がすすんでいるだけのようだ。今日は葬式だし、明日はクリスマス会である。僕にとって歯医者は遠い。

 渋谷陽一のラジオ番組を聴いていると、クリスマスの幸せを強要している雰囲気を批判している。この時期に実際に幸せなのは全体の4割ぐらいではないか、などと分析している。クリスマスは一人であっても幸せでなくともいいのではないか。何も怒ることはないが、正論だと思う。もちろん幸せであることには越したことがない。しかしながら僕はそういう捻くれたような正論をいう人が好きである。強迫観念で幸せであるという状態にもがくのは不幸だろう。
 まあそうではあるが、やっぱりクリスマスなんだから幸せな気分になりたいのも人情だ。そうであるなら手っ取り早い方法がある。未見ならキャプラの「素晴らしき哉、人生」を見ることだ。奇跡のような素晴らしい話に幸せになれないのであれば、あなたにはもともと幸せなど訪れないことなのである。まあ少なくとも、クリスマスの奇跡を楽しめばもうけものだ。
 しかしながらキャプラ自身はこの映画の興行の失敗で、二度と映画を撮ることはなかったらしい。かわりに後世の僕らが幸せになっているのだから、クリスマスというのはあんがい皮肉なものなのかもしれない。
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ムダ自慢

2006-12-23 | 雑記
 ブログを読んだといわれるのは嬉しいことである。しかしながら感想を聞くと意外に多いのは、長くて読む気になれないということらしい。「きっこのブログ」みたいだといわれたりして、ビックル一気飲みしちゃいそうである。リトル内容をよく読んでもらいたいものだと思う今日この頃、皆さん、いかがお過ごしでしょうか?
 僕は別に文章だけが長いだけじゃなくて、話だって十分長い。時々自分自身でもあきれることがある。話しすぎてぐったり疲れてしまう一日がどれくらいあることだろう。
 こういう文章もそうだけれど、書きながら何か考えたり、話しながら何か考えている所為だとおもう。話し始めたり書き始めてしばらくして、自分が何を考えていたのか分かることが多い。疑問に思うことは黙って考えているより声に出すなり書いたりしたほうが整理できるようである。
 そういえば養老さんも原稿を書く前に人の前で一度考えを話してまとめたりしていたと書いていたような気がする。弟子の布施英利が書いていたと思うが、ちょっと相談があるとかいわれて喫茶店などに入って、一人でダーッと話しているのを何度か聞いたことがあるらしい。僕なんかにしてみるとそういう場面に是非立ち会ってみたいものだが物理的に叶わないので、金を払って講演会を聞きにいくしかないようである。
 今は何にも考えないでブログを書き始めたのだが、別にいいたいことなんて何にもないということに気づいた。反省会で寝不足になり、いささか疲れた。
 職場に行くと利用者がトイレで倒れていると連絡を受ける。救急車で運ばれたが、そのまま亡くなった。病院で半日過ごし、戻って家族会発足の話し合いをして通夜の準備をして、一息ついたところである。いろいろあったが、なんだか本当に疲れた。二日前から暴れている親知らずの痛みで分からなかったが、脈も速いようである。なのでこれぐらいで止めておこう。
 これぐらいの少ない分量だと読みやすいのではないかと思うが、どうなのだろうか。ネタをバラすと、まず二十分ぐらいとにかく書いてみて、見直して削ったり付け足したりする。今だと途中で電話が入ったので15分ぐらいだろうか。書く時間を短くすると文章は短くなる。しかしながらそれでストレス解消になるのかは疑問である。読んでもらうという前提でものを書くことは大切で、だからブログが流行るのだろうと思う。しかしながら僕はそういう意味でも中途半端なのかもしれない。 まあ、読んでもらっているといっても本当に反響は少ないわけで、単なる無駄自慢ということなのだろう。悲しくなってきたので本当に止めよう。ではまた明日。
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いじめ解決法

2006-12-22 | 時事
 高校生がサッカーのゴールポストを使って縊死したらしい。比較的近所でおこったことなので、朝から職場の話題になっている。原因はよく分からない。話が発展して、「死ぬ気になるぐらいなら、何でもできるだろうに…」という発言が出た。けっこうこういう発言は聞かれるものだが、これでなんとなく周りの人が同意している姿がある。趣旨は僕にも分かる。しかし、僕はこれが死と直結している考え方ではないかと疑っている。たぶん死んだ人にしてみれば、こういうアドバイスをされた時点で死ぬしか道はないと判断するのではないか。「お前は救われない」といわれているようなものだからだ。
 自殺問題は、実際にはたとえいじめが原因だとしても、いったん分けた方がいいような気がする。思春期の人間は自殺したがるものだ。あなたの知り合いにも、この時代に死んだ人がいるはずだ。悲しいことではあるけれど、死ぬ人がいることは現実にあるという認識は必要じゃないかとまずは思う。さらにいじめが原因だということで直結して考えたい心情は分かるが、自殺に目を奪われて、もう少し手前を見失っても困る。
 さてそういうわけで、どうやっていじめを無くすかということを少し考えてみる。
 僕は基本的に冷たい人間なので、根本的にいじめを根絶するところまでは、残念ながら難しいと予感している。長年学校にも通っていた時代を思いおこしても、いじめというのはいつも身近に見られる現象だったようにも思える。当時の感覚からすると別に異常な出来事ですらなかった。特に小学生の頃を思うと、僕らの時代は先生が率先して一部の子供をやり玉にあげていじめていた。いじめない先生は圧倒的に少数だったと思う。そういう子は、授業が終わった後にも当然他の子供にいじめられる。一種の決まった役割のようなものだった。今になって思うと当然だと思うが、子供の時から、基本的に大人というのは自分の親とは違って不公平な存在であると学習するわけである。これは社会にでても基本的には同じようである。見えていない人もいるだろうが、人間関係がある限り、これに近い状態は簡単に生まれる。
 さて、解決法だった。山形浩生が書いていたが、いじめられない方法なら確かにある。自分がいじめる側にまわることだ。極端に世界が変わる特効薬である。もちろん根本解決ではないが、山形本人も自分自身がそうやって乗り切ったと告白している。考えてみると、僕もそういう場面は見たことがあるようである。いじめられている奴ほど、卑怯な手を使って楽しんでいた。あれは反動だったのかもしれない。必死だったのかもしれない。あくまで僕は非難しているのではない。いじめ問題はいじめられている人が切実なのであって、どうしても抜け出せないのであれば、この選択をすることは断罪できない。
 しかしながらすっきりしない。イタリア映画の「自転車泥棒」みたいだ。
 何で読んだか忘れたのだが、外国の話だったと思う。いじめられている子供を調査し、どのような特徴があるか調べたものがあった。面白いと思ったのは、いじめられている子の特徴なり傾向なり分類していることだった。伏し目がちであるとか、はっきりものをいわないなど、ある一定の傾向が見られたとのこと。そこで実際にそうであるなら、そこから改善しようということだった。普段の姿勢を訓練して少しすっきりさせ、椅子にもまっすぐ座るようにさせた。きびきび動いて顔を前に向ける。話をするときはまっすぐ対峙して目を見て話させる。イエス、ノウを言うように心がける。特に嫌なことは嫌だといっていいんだとはっきり教えたそうだ。いじめている人はおびえた表情に快感を覚えるらしいということで、恐怖を感じると思う前に、席を立ってその場からいなくなるようにも指導したらしい。ちょっとでも不穏な感じがする、というだけで、落ち着いてきびきびその場を立ち去る。そういうことができるように、なんども先生などが立ち会って訓練する。この場合その先生そのものが、この子にとって信頼できる大人であるということでもあるらしい。信頼できないから相談もできないわけで、学校にそういう自分の居場所のある確かな環境もつくるわけである。
 結果的にいうと、かなり効果があるらしい。
 もちろんそういうことができない子であるからそうなったのかもしれないけれど、外国らしい合理的方法ではないかと思う。集団無視などの問題もあるが、地道にそういう行動をとれるようにすると、本人自身が変われるものであるという。
 最近の精神医療の現場などでも、行動自体を改善させることを重視する方向に変わっている。以前であれば原因をつぶさなければ根本的に治療にならないとされていたのだが、問題行動を無くすには、基本的生活を取り戻すことが先決なのかもしれない。結果的に問題とされる行動自体が減る。何で治ったかは不明だが、それでいいということだ。何でいじめている人がいなくなるのかは不明だが、実際に減るといっているのだろう。
 日本の現状は、なんというか、精神論が多すぎる気がする。確かに単純に物事が解決してしまうような世界ではないかもしれないが、具体的に対応するということがなにより大切じゃないかと思う。上手くいかなきゃ、やり方を変えてまたやってみる。僕のような屁理屈男にいわれても誰も聞いてくれないだろうけれど、結局はそういう地道さが道を切り開く早道なのではないだろうか。せめて、安易な精神論は、その子の逃げ道をふさいでいるだけだと気づいて欲しいものである。
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老害からの脱出

2006-12-21 | 雑記
 所属している団体の機関紙の原稿依頼。
 校正等は滋賀県の担当施設でやってもらっているので、依頼するのが僕の仕事である。早いところは10月中にお願いはしていて、遅くなったところでも11月の頭までには文章などで依頼を済ませていた。つまり今が締め切りの時期なので、催促・督促をかけるのである。
 しかしながらでていないところは、案の定忘れていたとかいうような場合も多い。締め切りは余裕をもってはいるが、二度目の督促にもなると、こちらとしても気が引ける。ずいぶんご年配の方もあり、本人は既に済ませたと思っていることもあったりする。忙しいので勘違いしているのかもしれないが、やはり困惑してしまう。老害などという失礼な言葉もあるけれど、確かにそういう感じもしないではない。いや、止めておこう。気づかないのなら仕方がない。周りも進言できない環境であるから老害が生まれるのであろうから、構造的にどうにもならない問題だ。別の道を探ろう。

 夜はJCのOB総会懇親会。若い頃に迷惑させられた筆頭先輩のN沢さんのお隣である。「相変わらず横着だなあ」といわれるが、あなたに対してだけである。できるものならば僕の若かりし頃の青春の時間を返して欲しいものだと思っているくらいだ。N沢先輩から電話があると、バッテリーが切れるまで議論になったりしたものだ。本人もおっしゃっていたが、車で家を出るときに僕に電話をし始めて、熊本の取引先の玄関でまだ話が終わらなかったことがあったという。横からO塚専務が、「お互い長いからなあ」と言っていたが、僕だって好きで話しているのではない。特にN沢先輩とは。
 二次会でもまたしてもお近くの席になってしまい因縁を感じるが、相変わらず訳の分からん話をしだしたので、慌ててトイレに退散した。無駄は初期の行動で防がねばならない。
 逃げたつもりだったが、H勝先輩の話につかまってしまう。これも話をさしはさみにくい展開で、その場にいた一同、それなりに困った様子であった。最初に僕が調子に乗ってお話を展開させてしまったような気がしないでもない。ああ、これも老害というやつかな、などと思う。いえ、失礼しました。
 しかしながら、みんな寂しいのかもしれないなあ、とも思う。迷惑には違いないが、こうしてわいわいでてくるまじめさは、尊いものでもある。うるさくても言うべきことは言う、などと使命感を振りかざしてもらうのも困るが、まあ、体力のあるうちは聞いておかねばなるまい。自分の都合だけで地球が回っているわけではないのである。

 帰りのタクシーで5円まけてもらう。持っているすべての小銭を総動員して5円不足が出たのである。大きいやつもあるにはあったが、運転手さんが十分です、と言ってくれた。いい人である。ポケットから小銭がなくなったのは久しぶりのことだ。金がなくなるのは寂しいことだが、なんだかすっきりして、すがすがしさまで感じられたのであった。
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つらいことは思い出したくない

2006-12-20 | 雑記
 ブロック新旧会議にセミナー、懇親会。改めて一年間がんばったなあという感じ。そして来年、またがんばんなきゃなあ、という気持ち。
最後の講評は、あえて更なる飛躍をという願いを込めて話をした。がんばった人へのはなむけである。トップはあえて慰労しない。それは日本の美徳だからだ。しかしながら、偉い人こそ大変だという気持ちはある。素直に尊厳の気持ちをささげるのみだ。
 みなさんに後押ししてもらって、僕自身も一年間がんばることができたと本当に素直にそう思う。最後は出張と重なり気味だったが、よく時間調整したものだ。やっぱりそういうことが一番大変なわけで、いろんなしがらみのあいだを縫って、何とか潜り抜けてきたようにも思える。それなりに見えてきたものもあり、まだ道半ばのものもあるわけだ。
 しかし来年はもっと大変そうだ。この連続性が長年続いてきたわけで、再度気合の入れなおしといったところ。
 そういえばセミナーで人を説得する立場をちょっと演じて、自分のことを思い出したりした。僕も父を亡くし、最初にやったのは資金繰り。そしてベテランスタッフに辞められたり、身売り話も勧められたりという経験がある。環境が激変し、悩んだし、それなりにつらかった。事業所つぶして新聞に載る夢を見たりした。人に恨まれる夢も見た。セミナーはあくまでゲームなんだけど、なんとなく身につまされるというか、気分的にのれなかった。そんな中、初めての委員長もやったわけで、我ながらどうやったんだと思う。俺ってあんがい偉いやつなのではないだろうか。
 しかしながら、ああいう体験はできるだけしたくないものだ。気持ちを入れなおすということも大切だろうけれど、そういう荒波だけが人生だとはつらすぎる。僕は甘い楽天主義者になったのだ。水木しげるのように、基本的「愉快」路線を歩みたい。妨害するヤツからは逃げるのみである。僕は戦わない。仕方なく向き合いはするけれど、なるようにしかならないじゃないか。愉快でなければ真剣さを捨てる。心の中で皮肉を笑ってやるのだ。
 それにしても、具体的な夢を持っている人もいるんだね。僕は人に恨まれようと、いづれは退場するのみ。楽天的だけれど無常観も真理だと心得たりしている。人間の思うようにならないという達観の方が、実は安らかだという感じなのである。ここのところは、ちょっと分かりにくい話かもしれないけれど、疑問は忘れず、夢は持たずである。結果はついてくるものじゃなくて、景気がいいのか悪いのかというだけである。成功神話は成功した後にしか生まれない。人にそういうことを説教したりできないが、心の中でこっちが本当だよ、と思っているのである。ごめんなさい。
 それにしてもなんだか飲みすぎた。またしてもK又専務には送ってもらってかたじけない。途中A水委員長と話していたのは覚えてたけど、いつの間にか寝てたんだよね。今日もロードは続くけど、早く帰りたいものである。
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緊迫感と本気の片付け

2006-12-19 | 雑記
 年末は「押し迫る」なんていうから緊迫感があるけれど、ただ正月に近づいているだけである。その正月も時間がたてば過ぎてしまう。そういう感じで考えると盛り上がらないだけで、やはり正月というものがイベントの一種なのだということが分かる。
 そうか、僕が外れていくのはそういうことか、などと思う。僕は普通の日常を愛好するものなのである。特別とかスペシャルというものにときめかない。なんかが安くなったりするのは歓迎していいが、スペシャルがないのであれば、定価でかまわない。まとめて買わなくていいし、必要なものもそんなにたくさんはないような気がする。高級車に乗りたいわけでもないし、豪華なレストランでも肩がこる気がする。
 少し贅沢な豆腐を買って、焼酎をすすって幸せである。安くてももちろん幸せだ。不味すぎなければ、それでいいような感じだ。まあ、たとえ不味くても、話のネタぐらいにはなるので、たまには不味いものも食っていいぐらいだ。不味い美味いは比較がものをいう感覚であるから、経験をつむことが大切だ。美味いものだけ食って舌が肥えるというのは、僕には幻想ではないかと思える。
 本だけは欲しいものが湧いて出てきて困ってしまうが、能力的に消化できそうにない。並べて眺めて飽きたらかえってもうけもののような気がする。興味の薄れる時間が大切なのかもしれない。
 しかしながら、一人でずっといるというのは、やはり寂しいものかもしれない。今は忙しいので寂しくなりたいが、孤独になりたいわけではない。正月の期待は、恐らく人の集合で、そういう感じは、別に否定しない。今はそれすら煩わしいという気分もあるようだが、海外に逃げるのも逆に億劫だ。まとめて人が集まると、効率的にことが片付くような気がしないでもない。
 押し迫られて一度いろんなものを片付けてチャラにして、まっさらに物事を始めるという区切りは、それなりに必要な生理というものなのだろう。結局慌てさせられなければ、本気で一年は片付かないものなのかもしれない。
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いじめに勝つ強さ

2006-12-18 | 時事
 実業団女子駅伝を見ていると、懐かしき藤永選手の姿がある。なかなか頑張っていて、チームの資生堂も優勝した。ものすごいレースになって、涙がとまらなかった。弘山選手の意地もすごいが、三井住友の大崎という新人さんもあそこまで粘るということが凄かったのではないか。
 長距離走では少し力のある人とオーバーペース気味で粘ることは本当につらい。ほとんど精神力でつないでいるのに、さらに振り落とされそうになると泣きたくなる。強い人は、そこでもさらに粘ったりする。僕は根性が無かったので、そういう人を見ると、本当に偉いものだと思う。そういう人が、次の世界に上っていくのかもしれない。

 寝不足だから眠たいのだが、なんとなくうだうだしている。本棚を眺めて抜き出してはパラパラしたり、ネット徘徊したりしてしまう。これはちょっとしたストレスの表れ何じゃないかと思う。
 素直に横になると、ちゃんと睡魔に襲われ、いつまでも寝ていたい。夕方床屋に行くつもりだったが、ツケがたまってボーっとして、結局行けずじまいである。年末は床屋も人が多い。待たされるのは嫌だから今日という日に済ませるつもりだったわけだが、今日という日は寒すぎたのだと思うことにした。

 夜には真央ちゃんの登場。その前から日本人選手団は調子が悪い。最初からなんとなく嫌な感じがしたが、出だしから調子が上がらず、転倒したりしている。結果的には僅差での二位だったけれど、惨敗という感じもした。
 翌朝の新聞各社の写真も、転倒シーンばっかり。若い子なので、こういうのは特に嫌なんじゃないかと同情心がわく。円谷選手が自殺しなくてはならない国の体質は、ちっとも変わってないんじゃないかと思う。まあ、僕がそう思っても、ここを乗り切るしかない世界なんだろう。トップの人だが、もう少し上があるという世界。精神的な根性も、厳しいからこそつくものかもしれない。僕らはそれを見て、さらに動機づけられるということか。下の世界だけどがんばろうっと。
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