カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

気持ち悪いし、かなりの苦痛を味わう名作   RAW 少女のめざめ

2020-05-31 | 映画

RAW 少女のめざめ/ジュリア・デュクルノー監督

 フランス映画。菜食主義者だった娘は、姉も両親も通う獣医学校に通うことになり、そこで新入生への通過儀礼として生肉を食べなければならなくなり、やむなく口にした。その後激しいアレルギーのような拒絶反応が出るが、猛烈に肉を欲する体に変貌していくのだった。
 まず、新入生を歓迎する様々な儀式があることに驚く。やることが過激で、非常に危なっかしい。日本をはじめとするアジアのそれとは、根本的に違った先輩後輩の序列があり、逆らうことが許されない。さらにこのようないじめのような乱暴を受けても、おそらくそれは伝統として容認されている様子だ。獣医学校の授業自体はまじめなのかもしれないが、こんな学校で学び通せる日本人なんて、ほとんどいないのではないか。寮生活には多かれ少なかれこんなことがあるのかもしれないが、日本人に生まれて本当によかった、と思う人もいるのではないか。
 しかし、物語は、異常な学校以上に異常性を見せる姉妹の姿を描いていくことになる。これがまた気持ち悪いことこの上なく、観る側もかなり苦痛を味わうことになると思う。僕なんかは、こんなホラー映画だとはつゆ知らず見てしまい、たいへんに困惑した。気持ち悪いが、先が気になってみてしまう。尺もそれなりにまとまっているので、そこのあたりは観やすいが、しかしいろんな嫌悪感がわいてきて、困った。僕はただでさえ血に弱いが、こんなのは、とても耐えられない。いじめと異常性が行き着く危なさは、それは当然破滅だろうが、ちゃんと次のステージが用意されていて、いちいち驚かされた。まあ、そういう意味では、確かによくできた映画なのである。数々の映画賞をとり、さらにヒットもした。おそらく熱狂的に支持されたということだろう。なんというおぞましさだろう。
 特に感動作というのではないだろうが、ただのエログロサスペンスと片付けられない迫力がある。そういう意味では歴史的に残るかもしれない作品なのかもしれない。こんなのをお勧めするのもどうかしているとは理解しているものの、やはり一定の人は観るべき作品である。後悔もするだろうが、きっと理解もしてくれることだろう。
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誘拐には、金儲けだけでない理由がある   99%の誘拐

2020-05-30 | 読書

99%の誘拐/岡嶋二人著(講談社文庫)

 題名の通り、誘拐事件ミステリ作品である。それも、何と二件も誘拐事件が起こるのである。時をまたいで起こる誘拐事件なのだが、ちゃんとこの事件には関連がある。それぞれの誘拐のトリックも素晴らしいが、後半のアクションも素晴らしい。確かにこれは実現がものすごく難しいトリックだと言え、それなりにリアルだし、当時の技術であるとはいえ、まさにすさまじく素晴らしいアイディアである。ひょっとすると彼らだからできるという批判もあるかもしれないと想像するが、そうであるから素晴らしいのではないか。自分のできることにすべてをかけて綿密に練り上げられた物語が展開する。ディテールも素晴らしく、物語を支える検証も同時に解説がなされてもいる。コンピュータの知識なくとも、その理屈は容易に理解されるのではないか。それに何より、読んでいるだけでものすごく面白い。こんな作品があったんだな、と本当に舌を巻いてしまった。
 「チョコレートゲーム」、「おかしな二人」、と読んで、やっぱりこれも読まねばならないだろうと手に取ったわけだが、実を言うと「チョコレート」の方は、そこまで感心した訳ではなかった。ちょっと物語が悲しすぎるということがあって、それは僕の方の問題である。しかし、物語を引っ張る文章に魅力を感じたのも確かで、その秘密を知りたくて「おかしな二人」というエッセイを読んだわけだ。そして本当に驚いてしまった。この作者たちの物語がすでに、ものすごく面白いのである。創作秘話というか、創作そのものが赤裸々に描かれてあって、当然この「99%」についても書かれていた。そうであっても面白く読めるのだろうか、という思いがあったのだが、そんな心配は失笑ものだったことを知ることになる。つまり、そういうことをちゃんと知っていても、手に汗握って面白いのだ。そういえば、この作品を生み出す時に彼らはものすごく苦しんでいたはずなのに、やはりものすごく綿密に話し合っていたんだろうな、ということがよく分かるのである。たくさんのアイディアを破綻なくつないだり、そうして検証していただろうことが、かえってこの作品を楽しませる要因にすらなっている。そうして、人間の感情にも素直に納得のいく文章のリアルさがある。エンタティメントであることに徹していながら、文学的な面白さも同時に持っているのではなかろうか。そうして人間の運命めいたものも考えずにいられないのである。
 犯人を暴くだけがミステリ作品ではない。痛快でありながら、悲しくも恐ろしい人間模様を描いた傑作であろう。
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ジャングルを鉈で切り開く(イメージ)

2020-05-29 | つぶやき

 まだ断りを書くべきなのかというのはあるが、個人的にはすでに何の抵抗も感じていないものを書くというのは欺瞞がある。僕は88の母と同居しているし、仕事柄多くの人とも接しなければならない立場でもある。だからこそ軽率ととらえる人もいるのかもしれないが、正直言ってその感情は鬱陶しいうえに迷惑である。
 しかしながら、この状況をインスタにあげるとまでは躊躇してしまうのも事実だ。後ろめたくないのにそうなってしまうのは、やはり社会の圧力のせいである。負けている自分に情けなさを思うが、これは自分を守っているというより、やはり周りの何かに配慮してしまうせいだろう。まだ社会は変わっているようには見えない。だいぶ活気は出ているのだが……。
 僕に社会を変える義理も無いし、その力さえないのだが、そういうものをうまく変化させられる方法はないものかとは思う。多くのチキン・ハートを蔑んでみたり、揶揄してやりたい気持ちがあるが、彼らをそうさせている大衆やマスコミの圧力のせいなのだから、同情があってやれない。素直に正しい行動を正当化させたいが、それを理解させるためには言葉が多くなる。そうすると辛抱して立ち止まって理解したり、自分に置き換える時間を持てない人に対してのタイムラグに対応できない。実にまどろっこしい。
 しかしこういう僕に対して、一緒に誘って欲しいという声は頻繁に聞くようになっている。自分では行動に移せないが、僕に頼ることはできるということだろうか。僕自身の言っていることは理解できているが、その言葉を他の人に伝達することは、まだ困難だということなのだろうか。おそらく、そうなのだろう。
 しかし、実は急を要するのである。ここまで長期化すると、そのダメージを回復させる力さえ失ってしまうからである。失ってしまう、損なってしまうものは、それをパテで埋めるようなことで、間に合わせることができないかもしれない。機械なら部品を取り換えれば、また動くかもしれないが、生き物の一部をもいでしまうと、そこに何かが生え変わるということは無い。人間の営みというのは、そういうものを含んでいるという自覚が必要だ。それも今可能になっているのにやれていないだけで、無理を強いていることではないのである。
 さて、しかしやはり僕個人ではむつかしい。荒れた森林を一人で開拓するようなものなのか。それが楽しいことに思えるのなら鉈をもって分け入るのだが、その前で途方に暮れているようなら、ちょっと力がわかない。まあ、枝の一つくらいは、さばいていけるのだが……。
 自分の感情に幼稚なものがあるのは分かる。しかし根本には、仲間を助けたいだけなのだ。もっと広く言うと、犠牲になる人を減らしたいだけなのだ。僕自身は蚊帳の外でも生きていけるかもしれない。そういう恵まれた恩恵にあずかりながら、何もできない自分に苛立たしさを覚えているのだ。そういうものが嫌で仕方ないのだ。出来ることをやって、それを素直に伝える方法があれば、そうしてそれを受け取れる人々が増えるのならば、城だって動かせるかもしれない。
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図書館がまちにやってきた(遅ればせながら)

2020-05-28 | 散歩

 別段なめていたわけではないが、ちょっと反省したというか。
 実はできてから初めて、大村の「ミライON」に行ったのである。名前が気に食わないというのはあるが、だからと言ってそれは理由ではない。ふつうに僕の周りでは、図書館という人が多いので、問題はない。もうそんなに混んでないということは聞いていたので、行こうかな、とは思っていた。そうして今こそちょうどいい時期だな、と思ったら、コロナ禍ということなのか、しばらく閉まっているということだった。何の意味があるのか分からなかったが、行政のやる事なら仕方ない。もう行くもんか、とまではいかなくて、もう開いてるらしいと聞いたから、寄ってみたのだ。
 駐車場はそんなに多くは無かったのだが、それなりに人はいた。学生もいるが、高齢の人も多い。居眠りしている人もいる。働いている人も多そうで、それなりに忙しいのか。で、まあぶらりと本棚を覘くが、なるほど、確かに本は多いな。書店よりは多いな。しかし並べ方が今一つ気に食わないな。分類しているのは分かるが、やっぱりそういう分類の仕方しかしょうがないのだろうか。それというのも書店のそれと違うから、かなり見当がつかない。まあこのような分野別というのは、何か法則があるのだろうが、いや、実はその法則らしいことは分からないではないが、無理な分類がありそうなことはすぐに見て取れる。結局分類する人の悩みの種になるのではないか。そうしてぐるぐるやっていると、30分以上滞在を避けろ、などとアナウンスも聞こえる。いやまてよ、座って読んでいる人とか、勉強している人もいる。彼らが30分なんてことは無かろう。それに今ちょっと見ているだけで全体の8分の1くらいしか回ってないのではないか。
 結局もう少し集中して見なければ。とりあえず手に取る本が数冊ある。もう借りるべきか、とは思ったが、もう少し周りを見なければいけない気がする。本当にだいたいの感じすらつかめていないのが実感だ。建物が新しいのはあるが、やはり人も多いしあまり落ち着いたところではない。しかしいわゆる密集を避けているらしく椅子が少ない。こういうのはかえって緊迫を強いている。本をゆっくり見る気分にはなれない。しかし見ないことにはやはり分からないではないか。
 思ったより高価な図鑑の類はそろっていない。美術の方はあるように思うので、偏りがあるかもしれない。分野によっても、それなりに中途半端である。作家によってそろっているのにも偏りがある。なるほど一般的に人気のあるものは比較的揃っているようだが、例えば1~4巻ある本の二までしか無くてどうするんだ。まあ、借りられているということかもしれないが。人気作家のものは複数冊あるので、借りる要望によって購入冊数が違うのだろう。それは確かに要望かもしれないが、そんな本は新刊書店で買わせるべきではないのか。また、妙な一般書はあるものの、例えば新書の流れのようなものが見つけにくい。
 段々らちがあかないことに気づいて、パソコンの検索をみることにした。とりあえず絶版になっていることを知ってる本などあるのかな。二三調べたら、無かった。うーん。作家別ならどうか。やはりない本は書いてない。調べながら分かったが、詳細を見るとどこの本棚にあるか、分類先は分かる。なるほど、やっぱり分類で分かれているようだ。これが紙に印刷できることも後で分かった。その時は自分のメモ帳に記録して、いろいろ探しに行った。ついでに買おうかどうか迷っている本も検索しておいた。貸出可となっているのに、無いのが二冊あった。それ以外は、当たり前だがちゃんとあった。凄い! これはやはり慣れると便利である。それにまとまっていろいろ調べられる。夢のようだ。さすがじゃないか図書館! 
 実に楽しくて、いつの間にか足が棒のようになる。もう四時間近く経過していた。それでもまだまだほとんど見てないよ、って感じだ。だいたいのさわりは掴んだが、ほんの入り口に過ぎない。まだ借り方すらぜんぜんわかっていないのだ。
 実物を見て買うことにしたのが数冊、諦めて買わなくていい本もたくさん見つけた。買ってもたぶん読まない。ちょっと僕には難しすぎるようだ。それが分かっただけでも大収穫だ。
 さらにやはりちょっと通って読んだ方がいいような本もあるし、先々は借りるかもしれない本も物色できた。飛ばし読みでもいい本と、じっくり読むならやはり買うが、それなりに借りて読んでもいい本もあるように思えた。図書館だから借りてもいいのだ! 凄い社会だな、ほんとにここは。
 ということで結局借りることは無かったが、次の楽しみが増えた。それに帰りにわかったが、駐車場代をタダにしてくれるのだ。太っ腹だな。他の理由で駐車して、帰りに立ち寄ってタダにするやり方もできないではなかろうが、もうそういうのは一応チャラにして考えているのかもしれない。
 しかしまあ、時間に余裕がないと遊べないということも分かる。図書館というのはそういうものだろうが、こういうところがまちにあるというのは、大変な財産である。これは住んでいる人にとって、間違いなく恵まれ度感が違うはずである。棚から牡丹餅というけれど、これはまさしくそういうものなんじゃなかろうか。
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最後に愛は勝つ、かな   ファントム・スレッド

2020-05-27 | 映画

ファントム・スレッド/ポール・トーマス・アンダーソン監督

 完璧な仕事をこなすことでたいへんに人気のある仕立て屋のウィルコックは、仕事の鬼ではあるが、ものすごく変わっていて偏屈だった。そんな男が田舎のあるホテルに泊まった折、ウェイトレスと懇意になる。恋愛感情もあるんだろうが、それよりも、彼にとって彼女は、自分が作りたいと考えているドレスのモデルとして理想の体型だったのだ。彼女を得たことで、ウィルコックはますます創作意欲がかきたてられて、次々に傑作ドレスを制作していく。そういう立場になって上流階級の仲間入りを果たした元ウェイトレスだったが、彼女が欲しいのは、男性との愛のある生活だった。常人の生活をしないウィルコックに、人並みに恋人として楽しんでもらおうと、いろいろと試みるのだったが…。
 主演のダニエル・デイ=ルイスの引退作として話題になった作品。そうしてこの静かな演出も、さすがのアンダーソン監督(若いころからずっと老熟ともいわれている。)というところか。静かだが、何かこの狂気のようなものが、実際の人間社会のようなものを表しているのは見て取れるわけで、ラスト近辺の、いわゆるどんでん返しともとれる仕立て屋の行動に、ショックを受ける人も多いのではないか。まあ、そういうことでも話題にはなったわけだが…。
 しかしながらである。僕の印象としては、これだけの変人なんだから、変人のままでもよかったのにな、とは思うのだった。彼女の愛を思うとき、夫の行動としては、むしろこれは平凡なのではないか。ちょっとどうしたかを言うわけにはいかないけれど、ふつうの夫婦であるとか、夫であるのならば、こうする方が合理的な気もするのである。そもそも妻がこんなことはしないという前提はあるんだろうけど、たとえそうしたとしても、やっぱり受け入れるしかないようにも思う。まあ、生き方のようなものだから、誰もが首肯できるとは、限らないのだけれど…。試しに観た人に聞いてみなくては。
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今自分のやっていることの結果が、未来だ

2020-05-26 | 時事

 夏の甲子園大会の中止のニュースは、少しばかり潮目の変わり方を感じさせられるものだったかもしれない。中止になる予告があったので、僕自身は何の驚きも覚えなかったのだけど、世間的な空気として、これは少し違ったものであったのだろう。
 夏の甲子園というのは、それくらい日本人にとって影響力のあるものだと、日本人から遠い僕が改めて理解させられた。この反応の仕方と足並みの悪さのようなものに、日本人の足腰の強さや、したたかさのようなものの芽生えを感じられずにいられない。
 夏の大会の中止ありきの判断に多くの批判が出たことは、要するに彼らが、世論の期待を完全に裏切ったからだということは言える。こうなることは、ある程度仕方がないという思惑があったのだろうが、そもそもそのような根拠に対して、あれこれと言い訳がましい理由ばかりに思われた。その一種の冷たい内容に、多くの人が残念に思ったのだろうと思う。さらにいいようもない怒りが、先に立って渦巻いたのだろう。たとえば地方大会の開催自体が困難だとする根拠に対して、独自開催を行う自治体が多数生まれた。ささやかなる抵抗でもあるし、世論の後押しを実感できたあかしでもあろう。そもそも、何故その他の地区などに相談などして、地道に考えなかったのかという批判であろう。
 いまだに慎重説の方が根強いことは分かる。国民をこれだけ洗脳したのだから、そう考える人が多いのが当然でもあろう。しかし現実の方は動いており、一時的であろうとも、事実上収束してしまっている。今は感染のリスクを考えるより、感染したくてもできないような状態にあるだけのことであろう。そこで普通の人が何を考え行動するのか。監視体制がありながら、自分の出来ることを模索する人が、生まれてくるのも当然だろう。そうして、少しでも常態を積み上げていくこと以外に、我々の人間的な生活は戻りはしない。
 未来がどうなるかなんてことを、本当に知っている人などいない。しかし少なからぬ人々の営みは、未来を予見して判断をしているのである。そうして、少なくとも近い将来の希望というものは、現在生きている人そのものの感情を左右させる。
 そうして確実に言えることというのがあって、未来というのは、現在自分たちがしていることの結果だということだ。誰かがそうだからとか、そうすべきであるとか、いつまでも受け身で行動していたのでは、結局は他人の責任に乗っかっているだけのことである。よっぽどお気楽な人ならともかく、本気でそういう立場のままズルズルといるつもりでいるのだろうか。そうであるからこそ、今自分が何をすべきかということに真摯に向き合うことが、本当に問われていることなのである。そうやって行動を起こしている人に対して何かを言おうなんてことは、単なる大きなお世話なのである。
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聖地はこのようにして復活する   サッドヒルを掘り返せ

2020-05-25 | ドキュメンタリ

サッドヒルを掘り返せ/ギレルモ・オリベイラ監督

 ドキュメンタリー映画。マカロニ・ウェスタンの名作といわれる「続・夕陽のガンマン」のロケ地において、撮影当時の埋もれていた墓所を再現するために、ファンが集まって遺跡発掘みたいに掘り起こしていく物語。観光地でもなんでもないくぼんだ荒れ地になっているが、この映画ファンにとっては、いわゆる巡礼場所として重要なところになっていたらしい。この場所を発掘しようと思い立った数人の呼びかけに、様々な人々が共感して協力してくれる。夕陽の監督さんはすでに故人になってしまっているが、撮影当時の逸話も含め、撮影を知る人々のインタビューなどを交えて、映画の魅力もたっぷりと語られる。単なるヒット作を超えた伝説の映画であるだけでなく、いかに革新的に人々の心をとらえていったのかが理解されていくことだろう。そうしてそのようにして共に汗を流してくれるだけでなく、支援してくれる著名人の輪も広がっていくようだった。好きな人にはたまらない魅力だけではなく、この聖地自体が、人々に大きな連携をもたらしてくれる素晴らしい土地に変貌していくようだった。
 そうして掘り起こされて撮影された当時の様子も再現された土地で、そのラストシーンが仲間たちによって演じられ、記念撮影し、そうして巨大スクリーンを設置して、また夕陽の映画を見るのだ。この地に来ることが叶わなかった関係者のインタビューも添えられており、これに集まったファンも、思わず感動してしまうサプライズまで用意されている。ドキュメンタリー作品にもかかわらず、この構成自体に、大きく心を動かされる人も多いのではなかろうか。そうして、映画というのは一体何かということまで、考えさせられることになるのであろう。少なくとも僕は、映画というのは、映画を撮るという制作側の人間の情熱を超えて、生き続けられる作品であることに驚いてしまった。娯楽作品の持つ面白さというだけでは、すべてを語りつくすことのできない魅力が、この映画を取り巻く人たちを、いわば魔法に包んでいくようだった。
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老いとは何かも分かるし、受け入れもできるかもしれない   すごいトシヨリBOOK

2020-05-24 | 読書

すごいトシヨリBOOK/池内 紀著(毎日新聞出版)

 著者は昨年78歳で没。ドイツ文学者として著名で、エッセイも人気があった(よく雑誌で目にしていた)。ラジオなどでも取り上げられて人気のあった本らしい。この本は語り起こしのようで、編集者が上手くまとめたのだろう。著者の本は昨年末に一種のブームのようなことになり、さらに死の直前に書かれていたものが、売れたのだが、記述に誤りがあると議論があり(おそらくだが、ヒトラーのことを記述してあるので、神経質になる研究者が多いのだと思う。また一般的な大衆も。さらに著名なドイツ文学者だから、やり玉に挙がった可能性も高い)絶版状態となり、価格は高騰したが今でも売れている。その訂正に追われ死期が早まったのではないかという話も聞くが、正誤までは僕は知らない。
 ということで、たぶん買ったのだろうと思う。本棚にあったので改めてパラパラ読みだして止まらなくなった。面白いからである。医療の考え方や、お金に関する考え方(一般庶民的ではないが。しかしそれも高齢者特有とも取れなくはない)など、ちょっとは考え方に同意しかねるところもあるが、それでも思わず失笑したり、フムフムと感心したりする。年寄りの生態は僕なりに知らない訳ではなかったが、思わず膝を打つことしきりであった。また、僕自体の老いに対する認識も新たにした。男性である自分自身のことを考えても、下の話などは身に染みるものがある。笑わされながら、ものすごく参考になる生き方かもしれない(考え方)。
 普通の年金暮らしの人と比べて、どれくらいの比較が必要なのかは分からないのだが、やはりものすごくお金のかかる生活をしているということではないということだろう。それでも、何か決定的に豊かさが違う雰囲気がある。それはマイペースに日々を過ごしていることに加えて、多少は編集者やかつての教え子などの、若い人とのつながりが見て取れることと、やはりドイツ文学者としての、知的な生活の一面が見て取れるということだろう。しかし年寄りとしての自慢話のような雰囲気が一切なく、さらに何か若い気追ったところも無いのである。そうしたバランスは、語り下ろし的な編集者のフィルターがあるのかもしれないが、読む者にとっても,たいへんに受け止めやすい内容なのではなかろうか。正直言ってこの本のネタで、ずいぶんいろんな話の広がりが持てそうな予感がした。そういう意味でセンスある生き方であり、静かな共感の持てる内容だと思う。そうしてたぶん、多くの人の老後の理想でもありそうである。
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引き離される運命の愛    英国総督 最後の家

2020-05-23 | 映画

英国総督 最後の家/グリンダ・チャーダ監督

 インドを統治していたイギリス人の最後の総統の着任の物語とともに、インド独立にかかるパキスタンとの分離のいきさつを描いている。宗教もあるが、当然このために引き裂かれる運命の人々もいる、様々な思惑の中でそうならざるを得なかった人々の苦悩と、翻弄される人々の姿が描かれている。そしてこれを作った監督も、この物語で翻弄されるある家族の孫娘であるという。ドキュメンタリー作品ではないけれど、おそらくそのような逸話の中には、事実も含まれているのだろう。
 インド自体が階級社会であると言われている(実際そのようだ)。そういう階級の社会を武力で統治しているのが英国である。インドは独立の機運が沸き起こっているし、英国も、実際は遠いアジアの大国を持て余している、という事情もあったようだ。インド人との賃金格差に大きな開きがあるので、まだまだ多くの使用人を使って巨大な建物の中で君臨して行ける役人たちがたくさんいる様子である。
 インドの独立運動は、人種や宗教も複雑に絡んでいる。インド全体で独立することが重要だとする派閥と、この機に分離独立を果たしたいパキスタン側の思惑もある。これらは水と油で激しく対立しあっており、普段は一緒に料理をしている料理人たちであっても、そういうイデオロギーの話になると、たちまち喧嘩しだして収拾がつかなくなってしまう。住んでいる地域は混在しているし、もともと同じコミュニティにある。だからそこで暮らす中で、宗教が違っても好きあって一緒になるものはいる。そういうことだから、分断されては困る人もたくさんいるわけで、なかには怒り諦め泣き暴れる人たちが出てくる。先の分からない不安に、疑心暗鬼になってしまっている。
 最終的には、統治している英国が決めるということになるわけだが、この統治者がこの状況を理解し得るわけが無いのである(ひとごとなのだから)。そうしてくだされた決断のために、さらに多くの混乱と血が流れることになっていくのだった。
 もうこれはどうにもならんな、というのは観ながら見て取れる。何もガンジーが頑張って、インドが独立したわけではなかったんだな、と分かる。もちろんこれは映画だが、監督さんはこの混乱の中、まだ少女で物語に関わってはいるようである。彼女からすると、そのような事実の物語なのだろう。可哀そうな人がたくさんいて、やっぱり恋の問題が一番つらいですね。時代に左右されない恋愛というのは、それだけで大変しあわせなことのようです。
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作家には誰でもなれるというが…   おかしな二人

2020-05-22 | 読書

おかしな二人/井上夢人著(講談社文庫)

 副題は「岡嶋二人盛衰記」。岡嶋二人というのは推理作家のペンネーム。そしてその名前の通り二人が合作して推理小説を書いていたコンビの名前だ。僕はちょっと前に彼らの作品である「チョコレートゲーム」を読んでおり、そうして忘れてしまったけど、誰かがこのエッセイをほめているのを読んで、ああ、ちょうど読んだばかりの作者だな、と思ったから買ったのだと思う。チョコレートの方は、今となってはトリックに使われているものがいささか古くなっているけど、内容はなかなか読ませるものがあって、印象に残っている。
 岡嶋二人が出会ってからコンビを解消するまでのいきさつが描かれている訳だが、何と言ってもこの作品が面白く素晴らしいのは、推理小説をどうやって書いたのか、ということが惜しみなく披露されていることではないか。嘘ではない保証なんてないのかもしれないが、読んだ印象からは、これはもうかなり信頼していい本当の話ではないかと思わされる説得力がある。もともと執筆担当だった著者が、ほとんど素直に、そのテクニックのすべてをさらけ出している感が凄いのである。
 小説といっても様々なジャンルがあるし、作家の書き方というか個性のようなものがあるから、このような書かれ方をする作品というものが多数派であるかどうかは分からない。分からないが多くの作家が、その書き方を素直に正直に紹介しているなんてことは、ほとんど信頼してはならないことだと思う。実を言うと、そういうものをそれなりにいくつも読んだとは思うのだけど、いやそれはもう嘘じゃないかな、という感じのものが多いのである。ちょっとくらいは本当の話かもしれないが、作家だって人間であって自尊心があるし、それにもともとウソを書くのが商売の人たちである。全部が嘘ではないかもしれないが、一般的な作家の書いたものは、かなり嘘でくるんで自分の書き方を紹介している風にしか受け取れないエピソードばかりなのだ。いくらやり方を教えたところで、そのように誰もが書けるはずが無いという思いがあったとしても、同業ライバルだってたくさんいるわけだし、よしんばそういうことを意識してないとしても、いちいちしちめんどくさいことを言語化して紹介できるような力量のある作家なんて、ほとんど存在しないのではないか。さらに言うと、自分が一体どうやって書いているのか、自分でもよく分からない人だってたくさん居そうである。そうであっても作品は生まれてきたわけで、恐らくそんなことをしてもそんなに面白みを感じない作家たちが圧倒的に多数であって、これまでこのように紹介できる人がいなかったのではないか。そもそもそんなことをするより前に、小説を一つでも作品化したい欲求の方が上であろう。岡嶋二人については、その二人のいきさつをできるだけ正直に作品化しようという目的もあることで、著者はそれなりに正直に書かざるを得なかった事情が見て取れるのである。これはもう、奇跡に近い作品が、このように出来上がったのだというしかないように思う。実際の内容はなかなかにつらいものがあるんだけど(人間の葛藤としてという意味で)、創作記としての躍動と衰退が、実に見事に描かれた名作エッセイといえるのではなかろうか。
 ということですごく面白いが、しかしこれで作家をあきらめる人もたくさんいるんじゃないかな、と思った。とにかく作品を生み出すことも作り続けることも並大抵のことでないことが、ものすごくよくわかる。まさにそれを証明しているのが二人の作家のもう一人であるはずで、これだけ制作の一部である当事者であっても、一人の作家としては、その後作品を書いていないらしい。それはもう、このような体験をしたからということや、性格があるからということ以上に、作家という存在と、そうして作品を書き上げる能力というもののすさまじくハードルの高いことを、証明しているのだということだろう。
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重層的仕掛け満載娯楽作   マスカレード・ホテル

2020-05-21 | 映画

マスカレード・ホテル/鈴木雅之監

 連続殺人が起こっている。殺人現場には謎の数字が残されており、解析すると座標表になっていて、緯度と経度の交わる場所が示されていると考えられた。そう考えられると、次の犯行予告の場所とも読み取れることが分かり、それが舞台となるホテルだということだ。そこで警察は、事前にホテルの従業員に紛れて監視体制をひくことにした。ところが警察官とホテルマンとは接客に対する職業倫理がいちじるしく異なることから、それなりに衝突する。そういうあたりがコメディとしても人間模様としても楽しめる仕組みになっている。そうしてホテルにやってくる様々な事情のある客たちとも絡んで、重層的なドラマが展開されていくのだった。
 原作小説があるが未読。舞台となるホテル名はホテルコルシア東京となっており、何故マスカレードなのだろうと疑問に思っていたが、それは作中ホテルフロントの女性の科白がカギになっているらしい。さらにロケ地になっている実際のホテルは日本橋にあるロイヤルパークホテル東京というらしい。作者の東野圭吾も利用するとされる。劇中のフロント場面はセットであるようで、実際のホテルとは違うらしい。同じようにホテルを舞台にした映画である「ミンボーの女(伊丹十三監督)」では、ハウステンボスのホテルをそのまま使っていたが、東京のホテルではそんなわけにはいかなかったのだろう。
 テレビの俳優がたくさん出るので、やはりこの手の日本映画としてはオーバーアクト気味なのだが、何と言っても主役がキムタクなので、こうなってもかえって不自然ではない。さすがに年を取ったな、という感じだけど、役柄でとことんいじめられたりいじられたりするわけで、そういう部分は面白い。
 映画は長尺なんだけど、それなりに飽きさせない作りになっていて、お話の展開が面白いだけでなく明石家さんまの友情出演なんかもあって、映画館以外でも楽しめる(巻き戻してみるDVD向きの作品でもある)という仕掛けがあったりする。いったいいつになったら終わるんだろう?という気はしないではなかったが、だからと言って退屈はしないのであった。
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気に入られるためにやらなければならないこと   女王陛下のお気に入り

2020-05-20 | 映画

女王陛下のお気に入り/ヨルゴス・ランティモス監督

 18世紀英国宮殿内の物語。父の破滅で没落貴族となり平民に成り下がったアビゲイルだったが、王室にいる従姉のサラを頼って宮廷での仕事にありつく。同僚からは嫌われている様子で境遇も最低だったが、傷をいやす薬草の知識があったことと、これを使う頓智を働かさせて窮地を抜け出し、待女となり個室も与えられる。働きぶりもそつがなく、徐々に信頼を集め女王アンと特別の信頼関係にあるサラからも重要な役割を担わされるまでになっていく。そういう中、たまたま女王の部屋にいるとき、女王アンとサラの特別な関係を目撃してしまう。最初は戸惑うが、これを理由に宮殿を取り巻く政治抗争などと相まって、サラとアビゲイルの壮絶な心理(だけでないが)戦が繰り広げられることになっていく。
 絶対権力の女王アンの信頼を勝ち得ることは、同時に国をも動かしえる強大な権力を握ることになる。小さな駆け引きに見えようが、その及ぼされる影響は小さくない。そうして駆け引き次第によっては、生死を掛けたものにもつながっていかざるを得ないのだった。
 一種のサクセスストーリーではあるが、しかしそう単純でもない。機知と行動力によって波乗りのように上手く立ち振る舞うかと思えば、女同士の熾烈な心理戦にピリピリしてしまう。お互いに警告も出しているし、下手な手を打つと命取りになることも承知している。一定のバランス化において、いかに自然に自分の存在を使って手を打つかということにかかっているのである。
 観ながら、僕のように気の小さい人間にとっては、とてもやっていけない社会で、危なっかしくて仕方ない。スリルはあるが、ほとんどホラー映画である。やれることはとにかくやってしまう。復讐も怖いから、二重三重で手も打っておく。そうしても、やはり反撃はありそうで、今度は監視にも目を光らせなければならない。とても生きた心地がしない。
 やくざな人が生きていくっていうのは、こういうことかもしれないな、とも感じた。時には酒を飲んで羽目を外して、さらには派手にふるまって、人を威嚇しなきゃやってられない。そうして得た地位であるから、時々自分も見つめなおさなきゃならないのである。
 歴史的背景はそれなりに合っているのだろうけど、どこまで創作かはちょっと謎だ。脚本が上手いというのもあるが、こういう歴史の掘り下げ方もあるんだな、と感心してしまった。まあ、歴史風俗だってこんな感じなのかも知らないが、戦闘場面を描かずとも、人間の戦争物語はできるのである。本当に恐ろしいものだな、と思ったのだった。
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住んでいるところの誇りとは何か   飛んで埼玉

2020-05-20 | 映画

飛んで埼玉/武内英樹監督

 原作漫画があるらしい。パタリロの作者なので、見当はつくが、未見。ギャグ映画なのでかなりハチャメチャなので、正確にスジを説明してもどうかという展開。要するに現実の関東地区の埼玉という土地柄から想起した、東京を円周的に絡めた地域差別ギャグをつないで、都市伝説を構築したもの。ときどき分からないでもない気分にさせられるところがミソで、人間の根源的ないやらしさをおもてに出した表現ともいえる。とまあ、あんまりまじめに論じても仕方ないが、感覚的に面白い人にはハマる要素がそれなりにあることもよく分かる。俳優陣も、なり切っているところとふざけているところが混在していて、それが良くも悪くもこの映画の妙な味になっている。狭いのだか広いのだか分からないし、重層的だが近視眼的でもあり、いわゆる愛も単純ながら倒錯してもいる。こういうのが原作の世界観には確かにあるんだろうな、と思わせられるし、それを実写の人々が演じられるという日本の芸能世界の懐の深さも感じられるところだ。海外の人が観たところで、このニュアンスが分かるものなのだろうか? そういう意味では内向きだけど、野望な壮大なのである。
 それにしても、観ていてキャストの本当の出身地も気になった。主演の関係者は必ずしも関東圏の人ではないような気もしたし、そのあたりまで徹底すると、やはり行き過ぎになるんだろうか。出自に関しては嘘をつかない限り動かしがたいところがあり、それを差別のもとにするというのは、何かそれなりに強い偏見や、頑なな儒教主義的なものを感じさせられる。それは人間らしくもあり、しかし単なる機械のような冷たさというか。これを拡大すると国家であるとかの偏見のもともあるわけで、ギャグとして成り立つというけれど、ギャグでないと表現できない世界観であることが分かる。そうでなければ、ただの偏見とヘイトの嵐である。
 考えさせられないわけではないことなのだが、考えても仕方のない世界でもある。ここであえてまじめに何か言おうとすると、ちょっと、それこそダサい感じもしないでもない。都会だからイケてるとか、田舎だからダサいという感覚そのものが、そもそもカッコ悪い考え方の典型なのに、それを本人が否定できないところが、何か孤高の彼らの強みなのだ(だからバカなのだが)。気づかなければ、その呪縛からは解かれない。さらにそのための精神的不幸についても、諦めなければ解決もできない。考えてみると、このような感情はなかなかに恐ろしいものである。まあ実際は、救いようの少ない憐憫の世界の話なのだが…。
 罪もなく観るから罪が生まれない世界という前提が無ければ、偏見に満ちた害悪のある映画ともとれる。ギャグだから許してくださいということと、ブラックユーモアを混ぜた警告の混ざったところが、それなりに大衆に受けた最大の要因ではなかろうか。
 しかしこれは、多かれ少なかれこれは埼玉以外にも使えるわけで、使いたいという行政サイドの人々の息吹も聞こえてくるようだ…(たぶんコピーが出ることだろう。預言)。
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英国王室を少なからず動かしたインドの青年   ビクトリア女王 最後の秘密

2020-05-19 | 映画

ビクトリア女王 最後の秘密/スティーブン・フリアーズ監督

 女王即位50周年に当たり、英国領のインドからメダルの贈呈を行うことになり、その使者として英国に行くように命じられた若者が、その率直な性格を女王から気に入られ、そのために英国王室を騒動に巻き込んでいく物語。もともと気難しく人間づきあいの好きではない女王は、すっかりインド社会に興味をもって、言語だけでなく、青年から様々なことを真摯に学ぼうとする。その中で英国王室の様々なしきたりに衝突し、関係者はインド人青年への反発を募らせていくのだった。
 女王様の乱心を描いたということもいえるし、植民地支配の英国の醜さを描いたともいえる。権力者に気に入られると毀誉褒貶が激しいのだ、という話なのかもしれない。結果的に女王にたいへんに厚遇されるインド青年だが、確かにそのために調子に乗っているようにも見える。女王以外はすべて敵のようなことになってしまい、女王に頼らなければ、まともに生きていくことさえ難しいだろう。一度こうなってしまうと、このまま乗り切るより道が無いようにも感じる。しかし女王は高齢でもある。どのようにすべきというか、インドに帰るべきタイミングも、考えておく必要があったのではなかろうか。
 史実をもとに作られたものであるようだが、その当時の英国の状況も見て取れるし、インドの青年も好青年であることは確かで、コメディとしてもそれなりに成功している。愛する人を立て続けに亡くして心を閉ざしていた女王が、インドの青年との付き合いの中で、元気になっていったというのは、それなりに信憑性がある。また皇室の閉塞空間の中で、取り巻きがうるさいというのも見て取れて、そういう不自由社会を精神的に打開する方法としても、考えさせられるものがある。皆この地位に、多かれ少なかれ依存していて、逃れることができない。結果的に悲劇的なことにはなるんだが、これはもうシステムが悪いとしか言いようがないのではないか。
 しかしまあ、そうであっても、曲りなりに英国王室は続いているわけで、現在も問題は続いているようにも見えて、のらりくらりやっているようにも見える。そういうのは、その中の人間模様に、それなりにしたたかなものがあるということなのかもしれない。
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確かに食いたくなること必至   ラーメン食いてぇ!

2020-05-19 | 映画

ラーメン食いてぇ!/熊谷祐紀監督

 遠くモンゴル秘境で事故にあい、一人の美食評論家だけが生き残り放浪している。息も絶え絶えだったが、もう一度清蘭のラーメンを食べたい一心で力を得て生き延びる気力を振り絞っている。一方その清蘭というラーメン屋の爺さんは、妻に先立たれ、ラーメン作りに懸ける情熱を失いかけて、店もほぼ閉じかけている(味が落ちたと客も離れたようす)。息子たちも継ぐ意思がないし、風前の灯火だ。そんな中、友達に恋仲のことで裏切られ、自殺未遂から立ち直ろうとしている孫娘(女子高生)が、清蘭のラーメンに生きる希望を見出し、この味を受けつごうと名乗りを上げるのだった。
 線の細い女子高生に伝統の味が引き継げるのか? ということなんだが、祖父である爺さんが、この娘に希望を託すのも、また優しくこの技の数々を伝授するのも、なかなかに合理的な展開を見せる。シンプルではあるが、しかし確実にうまいラーメンを作る技というものがなんであるのか、惜しみも無く理解できることだろう。実際には努力を惜しまなければ、誰でも作れるものなのかもしれないが、そうであるからこそ奥深く、繊細で手が抜けない。そうしてそれに掛ける情熱や才能も必要なのだ。
 途中で何かこれは覚えがあると気づいたが、原作漫画があるようだ。数年前にこの漫画が話題になって、少しだけ読んだのかもしれない。基本的には原作の通りに再現された物語のようだけれど、石橋蓮司の坦々とした演技と女子高生役の二人との掛け合いが、それなりに成功している。ものすごく凄い技能を習得している風ではないが、着実に力をつけていく様が、なかなかのサクセスストーリーではないか。
 モンゴルでの日本語の会話が、ちょっと日本語的に説明しすぎるところはあるが、この生存物語も、ラーメンの力を引き立てていていい感じである。映画的にいいというより、このストーリーに力があるということだろう。たかがラーメンかもしれないが、このような食に関する情熱というストーリーが、さらに味を昇華させていくのかもしれない。物語があってさらに旨いものがある。人々が求めている旨いという姿を、なかなかに表現できている作品なのではなかろうか。
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