カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

古いのが新鮮な場合もある   雲の上団五郎一座

2013-02-28 | 映画
雲の上団五郎一座/青柳信雄監督

 フランキー堺が怪しすぎるので、きっと詐欺師だとばかり思っていて、いつか裏切りの大どんでん返しが来るに違いないと踏んでいたのだが、物語はどんどん違う方向に進んで行って、ある意味で意外性のある感じがしたかもしれない。
 昔のコメディアンが芸達者だというのはある程度の認識のあることだが、今と何が一番違うのかというのは、恐らく舞台の経験の差ではなかろうか。いや、今も形を変えた舞台の場はあるのだろうけれど、いわゆる演劇の中で、お話しに沿った上で、しかし時にはアドリブを交えて自由に演技をするということの違いなのではないか。脚本通りすることがあっても、客の状態を見て、やることを変えるような事もしていたのではないか。このような映画であっても、撮り直しがあるはずであるにもかかわらず、いわゆるアドリブめいたことをするのが、喜劇役者というものではないか。実はホントかウソかは知らないで書いているのだが、時々そのような事を言っている監督さんがいて、時にはそれがやはり面白くて、そのまま使ってしまうということがあったらしい。この映画はそのような雰囲気を伝えている場面が多くて、やはり勢いのある人々が、ある程度自由に演じていたということでは無いのだろうか。さすがにエノケンだけはあんまり体調が良くないように見えて、妙に地味なのが気になったが…。
 子供の頃には、この映画に出ているような人がまだ生きていて、時々見ることがあったようである。既にかなりお年を召した後のことだろうから、最盛期とはまた違うことだったかもしれないが、何人かの役者さんの顔を見ているだけで、なんだかとても懐かしい気分になった。その当時現役だった人には、たまらない感慨があるに違いない。今の笑いと比べると、妙にドタバタが多くて、そうしてなんとも下らない訳だが、しかしやりたいことは、結果的には予測がつきにくいところがあって、いわゆるリアルとふざけた部分の境が明確でない。それをいわゆる絶妙という感覚で見るべきなのかどうか、そこのあたりがやはりちょっと戸惑うところで、今のペースと違うせいか、映画を見ながら馴らしていかなければならない感じもするのだった。
 録画した映画だったので既に消去してしまったのだけど、取っておいてもよかったかな、という気分にはさせられたのだった。
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主人公はいつの間にかヒット・ガールに変わるけど   キックアス

2013-02-27 | 映画

キックアス/マシュー・ボーン監督

 観るにあたっては多少の注意は必要かもしれない。コスチュームに身をまとったヒーローアクションであることには間違いがないものの、やはり作りとしてはかなり風変りには思える。基本的なストーリー展開は、決してそのような王道アメコミ路線と違う訳ではないのだけれど、しかし細部にわたって展開される映像世界は、極めてアダルト向けだという感じかもしれない。エロという意味では無く(ちょっとあるけど)、刺激的ということに尽きる。R指定だから映画館は何とかなるかもしれないが、DVDだと見落として借りてしまうかもしれない。子供と一緒に楽しみながら観ようとすると、かなり悲惨な思いをする場面に出くわしてしまうだろう。そういう精神衛生上よろしくない状況で無い環境づくりをした上で、楽しむべき娯楽作ということになる。そうして心を開いて観ることが出来ると、これはまた、素晴らしい傑作であることがよく理解できるに違いない。
 いろいろ前提というか注意事項が必要な感じもしないではないが、しかしながら極めて楽しい作品である。まったく評判通り。ひょっとすると映画史に残るくらい傑作ということになりかねない娯楽作品である。久しぶりに映画を観てよかったなあという感動に包まれて、しばらくは満足感に浸っていられた。これだから映画を観るのが止められなくなるのである。
 僕自身はヒーローものに憧れていなかった訳ではない。たぶんそんな時期もあったなあとは思う。石森章太郎のサイボーグものや超能力というものが備わるとそういうことも可能かもとは考えていたようだ。生身の人間がヒーローになるには、ブルース・リーになるしかないではないか。つまりいつの間にか諦めていた訳で、しかし諸悪に対する正義感というものが、同時に失われた訳ではないのだと思う。自分の力だけでは、いかんともしがたい現実の前に、ヒーローとして活躍する場を、最初から失ってしまっていたのかもしれない。それはある意味で不幸なことで、自分の正義感がみたされることが無いままに、不毛に時間を浪費した青春だったのかもしれないのだ。
 そういう心の中のまっとうな正義の気持ちを守るためにも、このようなヒーローものというのは必要なのだと思われる。妙な正義感で社会悪を叩いているように感じている屈折したメディアの姿より、よっぽど健全な精神なのではなかろうか。もちろんそのままでは、単なるオタクの夢物語なのだが、実際にはその域を出ていないものかもしれないのだが、しかし自分の中のカタルシスは、健全な形で昇華することが出来ているように感じる。夢も現実も割合分かりながら荒唐無稽な物語を上手くまとめている手腕は、さすがというしかないではないか。
 結果的には魅力的なヒロインに喝采を送ることになってしまうだろうけれど、それはそれで健全なる精神である。何をもって健全と考えているのか、そういう倫理観を揺るがされる人もいるかもしれないけれど、そういう危うい要素が混ざっているからこそ、映画的にも価値の高いものになっているのだと思う。痛快に楽しみながら、いろんな偏見からも解放されるかもしれない、見事なアクション映画の傑作なのであった。
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まずは決まりを守ることから始めよう

2013-02-26 | culture

 イングランドにはプレミア・リーグというサッカーのリーグがある。イタリアのセリエAとかドイツのブンデス・リーガとかスペインの何とかというようなものと同じで、サッカーファンの人気も高いようだ。
 ところが発足前までは、英国には悪名高いフーリガンの暴徒化や、立ち見スタジアムの人々の将棋倒しによる多数の死者を出す事故などを起して、いわば社会問題化していた。そういうことに伴って、人気の方も低迷していたらしい。
 競技場を整備するにも金のかかる問題だし、多くのチームを抱える英国フットボール協会は放映権の分配などを公平に分けるために、人気のあるチームとそうでないチームとに逆に不公平が出ていたものらしい。以前には日本にも巨人戦への放映権問題なんかもあったようだし、そういう現実的な人気の差におんぶにだっこのもたれ合いが、改革を拒んでいたということのようだ。
 そこで伝統と人気のあるビッグ5を中心にして分離独立リーグを立ち上げて、テレビの放送権料を引き上げてリーグの再建をしたということらしい。まあ、商売をやりやすくして価値をあげて金をもうけたということなんだろう。
 そういう流れはよく分かったのだが、面白いと思ったのは、分離独立する際の所属しているフットボール協会との契約の解釈の仕方だった。ルールを破って独立するのであれば、大きなペナルティを背負いかねない。独立そのものを否定されるような訴訟問題に発展するかもしれない。
 ところが、協会に所属するチームとの契約の前に、選手との契約においての縛りの期間とに違いがあったのだ。あとから出来たルールである選手間との契約期間の短さに対して、協会に対するチームの契約の方が長いということであって、それをもって後からのルールが成立するというのであれば、前のルールは無効になるという理屈で強引に分離独立を勝ち取るということをやってのけるのである。
 何故これが面白いのかというと、日本の役所とはまったく考えが逆だからだ。日本は後から成立したルールであっても、前の別のルールの縛りを適用して無力化することばかりをやるのである。新しいルールが過去に抵触しないことは少なくて、スパゲティ上に絡んだ条約のそれぞれのルールを改正するのは至難の業である。それぞれの利権が権利を離さない構造はそこにあって、新しいルールというのは有名無実化してしまうという訳だ。結局法よりも根回しの利権の配分で、無視をする土壌を作って実行するということになって、そういう調整の上手さをもって政治的な駆け引きをするということになっている。よく政治家は嘘をつくというような事がいわれるが、彼等は嘘をついているのではなく、両方に約束をして調整しているだけなのである。というか一方だけの約束を守ることは、事実上不可能なのだ。
 そういう訳で、日本では解決不能なことと思われている事の多くは、このように新しいルールの方が強いというルールを適用するだけで、多くの場合解決しそうなことが分かる。もっともルール違反であるというのを新ルールで遡って適用することはできないので、やはりある程度の調整は必要になるだろうけれど、日本のスパゲティ状の法の解釈を変える突破口にはなるかもしれない。
 そうなんだけど、しかし日本では既に新ルールを過去に適用して告発するような事も現実に行われているようだから、つくづく法を守らない国ということも、同時に考えられる訳だ。法の原点であるはずの憲法自体も厳密には守られていないような国だから、結局解釈を変えて法をないがしろにしてきたツケがたまっているということなのかもしれない。
 決まり事を作るのも守るのも駄目だということを、まずは返上する事の方が先なのかもしれないのだった。
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動けないアクション映画   127時間

2013-02-25 | 映画

127時間/ダニー・ボイル監督

 実話の原作をもとにした作品。ということに尽きるかもしれない。ストーリーはたったそれだけ? という話なのだが、いやいや、しかしそれでも十分、ということになっている。答えはある程度知っていたし、そうするしか無いかも、とは思うものの、そう思えば思うほど、そうなって欲しくない気持ちも高まっていく。ネタばれになるからもう何も書けない。しかし、観ている方が絶叫することになってしまってホントに苦しかった。映画館では、とても観ることは不可能だったろう。
 実話遭難もの映画というのはそれなりにたくさんあるようだが、大抵は雪山遭難、怪我遭難という感じものが多いと思う。大変苦しい思いをすることには違いないが、生死を分けるドラマがあって、究極の選択をしなければならない。実話ということでは、実際にそれが出来たということになる訳だが、いくら考えても、出来ない人には出来なかっただろうことがそこに含まれている訳だ。特にこの映画の場合はそれが顕著で、どんなに頑張っても、普通はとても実行できることではない。何度も繰り返すが、実話という後ろ盾がなければ、オイオイ、そんなこと出来るかよ、と突っ込みを入れておしまいかもしれない。
 実話であることは原作者らしい人が最後に出てくるので分かる訳だが、まったく呆れた野郎には違いない。だから安心感を持って観ることが保障されているようなもののはずだけれど、本当に心が落ち着かなくなる。他に選択は無いはずだけれど、しかしどこか他に選択が見つかりそうにも思える。時間はあるようでやはり無く、しかし時間が無くなればそこに待っているのは死あるのみである。その死であっても、とても楽な道とは言えないのである。
 壮絶に悲惨な話ながら、ある種の楽観の賛美でもある。こういう体験は誰しもするはずがないのだけれど、得られた教訓は万人に与えられる。代償は大きいものだが、しかしその楽観によって得られる喜びも大きい。大自然の中に、人間の存在は残酷なほどちっぽけだけれど、しかしその生の喜びは、まぎれもない全人生のすべてである。観るのが苦しい分解放感も素晴らしい。短い映画だが、終わってくれて本当によかったという感想をもつに違いない映画なのである。
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孫の手のようなものかもしれない   私家版・ユダヤ文化論

2013-02-24 | 読書

私家版・ユダヤ文化論/内田樹著(文春新書)

 ユダヤ人についての謎は、わりあい誰でも持っていることではないだろうか。ナチス・ドイツの例を出すまでもなく、実は相当昔から、連綿と嫌悪され続けているという気がする。裏切り者がユダだというのは子供の頃から聞かされてきたし、近年ではニューヨークが、比較的ユダヤの街だから狙われたというような事も聞いている。ホントかウソかは実はよく知らないのだけれど、たぶんそうかもしれないな、というくらいは、何となく情勢を受け入れているという感じかもしれない。
 青年期にフランクルを読んで、かなり複雑な気分になった。このような人が苦しい思いを強いられる。しかし彼はほとんど奇蹟的に生き残る。それも今となっては選ばれたように。ユダヤ人といっても、残される人はいるらしい。そういう人が混ざっていながら尚、しかしユダヤ全体は嫌悪されている。本当はユダヤという人種が悪い訳では無かろうが、しかし総体としては嫌われざるを得ない。ユダヤの背負ったものが、宿命的に嫌悪の的になってしまっているようなのだ。
 話は飛ぶが、現代の東アジアにおいて、日本という国は特別に嫌われているように感じる。一定の国が悪いというのは簡単だけれど、理由としても原因としては簡単に分かりえるのに、しかしそれはたぶん簡単には払拭できない問題のように思える。日本人とユダヤ人問題はまったく別の話だが、何をしても許されないという意味では、少しだけ似ているところがあるのではなかろうか。僕は何となくそういう感じを抱いていた。
 先の戦争の反省をすれば済む話だと、相手の国は簡単に言う。しかし反省をする世代というのは、実はとうに反省し尽くしている。いや、厳密にいうと全員が同じように反省するなんてことは不可能で、歴史の上では既に話はついたことになっているということになったはずだったが、しかしこれは繰り返しいろいろ要求が増えて、しかもその中には預かり知らないことが混ざっていく。謝ろうにも分ける作業が必要になってしまっていて、そうして分けていると、不真面目だということになってしまった。どのような方法ももっても反省の道は断たれてしまった。なんだか勝手にユダヤ的だなあ、と思わざるを得ない。しかもユダヤ的に反抗さえしていない。イスラエルの壁を見よ。あれが日本の姿になるかというと、たぶんそうはなりそうにない。ユダヤはさすがに歴史が違うのかもしれない。
 この本でそのあたりのユダヤ的な嫌悪というものが、何となく理解できるという仕組みにはなっている。だが正直言ってその答えを簡単にここで省略して書くことは不可能であろう。実はそのようなややこしさを順を追って説明してあるのだが、だからこそそれは読んでもらうしかない。簡単で無いということが分かるだけでも、このユダヤ問題を考えるいい教訓になるだろう。分かりはするようになるが結局、実はよく分からなくもなる。特段煙に巻くつもりはないけれど、実態のよく分からない現実のものをここまでからませてしまった人間の癖のようなものというしかないではないか。
 東アジアというのは国が分かれてはいるものの、実は結局は親戚のようなものである。乱暴だけれど、西洋人には見た目で区別すらつかないような差しかない。お互いぜんぜん違うと言い張っているようだけれど、むしろ似たところだらけで、似てない部分がそれでコントラストになりやすいという感じもする。鏡を見て自分のしわを嫌悪しているようなものかもしれない。自分の中にある醜さだから、余計に情けなく、そして憎らしい。それは分かっているが、しかし目障りでも現実にはそれは無くなりはしない。外科的にやっつけてしまうということもあるかもしれないが、その部分だけ除去しても、別に嫌なところはでてきてしまうかもしれないではないか。
 読みながら考えていたのはそんなことである。誤読かもしれないとは思う。しかしユダヤ的なものは間違いなく自分の中にもあるらしいということは理解する必要があるのではないか。ちょっと迂回しながら、しかしかゆいところは時々手が届くようになると思う。そういうたぐいの本であって、自分の思考の癖を読み解くためにもいい道具なのではないだろうか。
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時代に求められた映画なのかも   二等兵物語・女と兵隊・蚤と兵隊

2013-02-23 | 映画

二等兵物語・女と兵隊・蚤と兵隊/福田晴一監督

 コメディとしては時代もあって、よく笑えない。それでも昔の人はこんなことで笑ってたんだなあ、というおおらかさは分かる。よく呑み込めて無いだけで、面白さは分からないではないわけだ。コツがつかめずタイミングを逃してしまうのかもしれない。
 軍隊では、とにかく徴集した民間の兵隊をよく殴ったということは聞いている。職業軍人の教育が悪かったというより、徴集した人間関係の問題もあったのかもしれない。戦国時代だとかにも、農家から徴用した兵隊はよく逃げたという話は聞いたことがある。考えてみると当たり前で、お国のためという精神は無いではないが、逃げるほうが当たり前である。いくら島国だからって、親戚一同に面目が立たないことを無視すれば、逃げようと考えるほうがまともそうである。それを統制しようとしてさらに暴力的になる。そういう連鎖も考えられる。
 しかしながら、やはり鬱積したものは相当あったろうとは考えられる。軍隊生活は、まるでナチの収容所のような閉塞感である。戦いに行くのにこんな感じでは、やる気になんてならないだろう。だから負けたわけではないだろうが、戦後に上官を罰してやりたい気分の人は多かったのではないか。もっとも、多くの人はその前に亡くなってしまったのかもしれないが。さらにそのような軍隊への恨みもあって、国民に戦争責任の希薄さが生まれたという話もある。自分らの国が興した戦争で、間接的直接的に自分らの責任があったわけだが、しかし軍隊の暴走だから仕方がなかったという被害意識もあるわけだ。追い打ちをかけるように戦後の最悪の貧困状態。泣きっ面に蜂で、何で気分を晴らしていいものか、逃げ場のなかった大衆がいたということなのかもしれない。
 最後には一転して伴淳の大演説。一気にカタルシスになるのだが、こういうのは、映画的というよりきわめて舞台的な演芸手法という感じもする。アチャコの面白みもおそらくそこにあったはずで、それを知らずに映画だけを観てしまう、僕のような人間こそ想定外ということになるのだろう。
 日本の軍隊は悲惨だったが、しかし諸外国の軍隊も、やはり残酷だったという話も多い。戦争は殺し合いをやるわけで、死ぬか生きるかということをやる集団に、いいところである必要が無いと考える人も多いのかもしれない。しかしそこで青春を過ごす人もいたわけで、悪いけれど懐かしいという複雑な心境の人も多かったのではあるまいか。今となってはそんな人はほとんど死んでしまっただけのことで、この映画の心情を本当に分かり合える対象が消えてしまうような、そういう時代になったということなのだろう。それはいいことでもあるが、しかし同時に忘れたころにやってくるものもある可能性が無いとは言えない。知らなければ怖いということもあるわけで、戦争のことは時々思い出す必要があるのである。喜劇でありながら、後の時代にも求められる可能性のある映画なのかもしれないのだった。
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人間、驕れば終わりである

2013-02-22 | 雑記

 落語を聞いていると、ときどき甚五郎という名人が出てくる。大工だったり彫師だったりするようだが、その腕前はとても人間業では無い。実在のモデルは居たようだし、しかしそれが特定の個人だったとは限らず、しかし同時に架空でもあるようだ。なんだかめんどくさいようだが、話が大きくなっていることは間違いあるまい。
 そういう職人さんを崇める気持ちというのはあってもいいと思うが、そのような技をもちながら当然あまり安易に腕はふるわない。誰でも知っている有名人であるが、しかし江戸時代なので写真などが出回る訳があろうはずもなく、いわば水戸黄門の様に正体がわかると、皆ふれふしてありがたがるということになる。
 そういう話なんだから、いわば意外な人物として出てくるということが多いようだ。身分を隠して実は凄い人という寸法である。このコントラストが気持ちの良さを生むということなんであろう。多くの人というのは最初から偉そうな人より、実はあんまり偉そうじゃ無いのに偉かったということに感動してしまうのだろう。
 そういうことはよく分かることなんだけれど、実際の話として考えると、やはり多少迷惑な人という感じもしないでは無いのである。只者では無いことは、落語を聞く者には容易に分かるのだが、落語の中の人たちはなかなか気付きはしない。そうこうしているうちにいろいろやらかすのだが、例えば「三井の大黒」では、板を二枚カンナがけして、その二枚を合わせるとぴったり合わさってびくとも剥がれなくなってしまう。まあ、そりゃあ凄いには凄いのだけど、居候の身で大工仕事もろくに手伝わずそのような腕を見せびらかすばかりか、そうして結局役に立っていないように見える。
 結局最後には皆ありがたがるが、しかし考えてみると我慢比べして大目に見て赦してやっている棟梁だとかそういう人が一番偉かったのではなかったと思うのである。後で金になったりご恩返しをしたりするというのは分かるのだけど、その前に信用で奉仕した人々というのは、心が広いばかりでなく、実にたいしたものである。
 人間は見た目では無いと僕は心底から思っているが、見た目で迷惑をかけているのであれば、それはそれで罪である。TPOはわきまえるというのは、実はめんどくさくないまっとうな生き方であると思う。もっとも、僕がいうべきでないという声があるだろうことは分かっている。甚五郎という人物とは比較してはならないが、しかしそのような人間になってはならないという戒めは必要なのであろう。
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昔は今とは違うようだが

2013-02-21 | 雑記

 いまだに体罰の話題が続いているようだが、僕らの世代はもちろんだが、僕より上の世代の人たちが口々に言うのは、昔は体罰も当たり前だったというような感想である。しかしなんだか少し僕には引っかかるものがある。本当にそうだったのだろうか。
 死んだ父が以前言っていたことなので確認しようがないが、僕や弟たちが毎日のように先生に殴られて帰ってくるのを見て「昔の先生は叩かなかったがなあ」と言っていたことだ。特に旧制中学時代に先生に叩かれるということは皆無だったらしく、怖い先輩は居たらしいが、教師が生徒を叩くなんてことはまず考えられなかったようだ。戦争中に学徒動員に工場に連れてこられると、兵隊だか何だかは叩いたようだが、やはり先生は叩かない存在だったようだ。ところが戦後になっても、軍隊式の叩く教育は、何故か普及していったということらしい。
 これも聞くところによるが、大正時代も先生は叩かなかったらしい。やはり戦争というものを区切りに、戦後叩く教育が広がってしまったのではなかろうか。なんでも戦争が悪いというのは悪い癖だけれど、それを受けての戦後教育というのは、どこか特殊なところがあるのではあるまいか。
 今となっては体罰なんて化石のように思っていたものだけれど、お母さん方の話を聞くと、ちゃんとどこの学校の誰という先生は叩くらしいということを知っているようだ。既にネタは割れていて、そういう事実というのは誰でも知っていることらしい。
 単に無知だから驚いてしまう訳だが、しかしだからこそ根が深いということでもあるように思う。以前からの問題ではなくあとから生まれて一時期続いている事であるのならば、やはり改善可能という気がするのであるけれど…。
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レスリングの怒りは思うつぼのシナリオの中にありそう

2013-02-20 | 時事

 レスリングのオリンピック除外(候補)のニュースは、確かに日本にとっては衝撃的なタイミングだったとは言える。特に吉田沙保里は、今や国民的なスターといっていいだろう。そういう中、結果的にさまざまな憶測を呼ぶことになった訳だが、今までの国際オリンピック委員会のことを考えると、おいおいまたか、という印象を持つのだけれど。
 オリンピックは国際大会のような顔をしているけど、非常にローカル色の強い大会という感じもする。彼らの大会に参加させてもらっている国がわりを食うというのは、普通に繰り返されてきたことだからだ。
 僕は民放はあんまり見ないので、見るともなしに見たニュースの論調に驚いてしまったのだが、いかにもIOCがレスリングの強い日本いじめをしているかのような解説をしていた。そう思うのも心情的には無理は無いが、やはりちょっと違う感じもしないではない。
 事の発端はIOCがグレコローマン・スタイルを競技から外すよう勧告したにもかかわらず、レスリング協会がそれを拒否した、ということがあったらしい。後にルールを変えることにしたようだが、たぶんこの駆け引きが怪しいという話は聞いた。韓国のテコンドーなどは、要請には素直に従うから外されないのだとも聞く。つまり言うことを聞かないのなら外すしかないという論理らしい。傲慢なのは彼等こそがルールだということのようだ。
 しかしながら、レスリングというのはオリンピックの歴史が古い。結果的に今の様にロシアのお家芸のようなことになってきたが、トルコなどの中東、アジアや米国と広い範囲で人気が高い。徐々に勢力図が変化したということで、人気の無いマイナースポーツとは言えないようである。
 それに実際のところ今回の一番の目的と思われるのは、人気のある地域のロビー活動に期待しているらしいということがあるようだ。特に日本やアメリカなどの資本がオリンピックを支えている現実がある訳で、人気スポーツを除外対象に入れることで、さらにロビー活動を活発化させ、スポンサー料などをかさ上げさせる思惑があるらしい。
 まさに今のメディア世論は、その流れに乗っかって一緒になって日本のロビー活動強化の圧力をかけているように見える。そういう意味ではIOCは、やはりしたたかだということになるようにも思われる。
 さて、そうではあるが、日本が経済大国であるがゆえにこのようになるのであれば、日本はこれからも叩かれる対象であり続けられるのだろうか。
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もう少しつまんない努力を

2013-02-19 | 雑記

 出来れば人前で話なんかはこれっぽっちもやりたくないが、浮世にあって逃げてばかりもいられない。仕方がないがせっかく話す段になると、やはり話し手の欲というものが出る。話を聞いてもらいたいという欲もあるが、さらにウケたいということもある訳だ。職業じゃないから必ずしもウケる必要もないとも言えるが、一度ならずとも聴衆が笑うと、話甲斐があるというか、聴衆以上に話し手は気分がいいものである。芸人に憧れる気持ちというのは、そういうことの憧れもあるのではないか。
 ところがやはりウケる話というのはあんがいむつかしいもので、狙ったとおりというのはなかなか出来るものではない。最初から笑ってやろうと思って聞いている訳でもない人を、思わず笑わせてしまうのというのは、それなりのハードルがあるものである。
 面白いと思って仕込んで行っても、ぜんぜん駄目というのはそれなりに凹む。あんまり続くと闘志が萎えて、チャレンジすらしなくなってしまうものだ。そうなるとひたすらお互いに面白くない。諦めることを早まってはならないかもしれない。
 そうではあるが、思ってもみなかったウケが取れるというのもあるようだ。言い間違えでもウケる場合があるし(これはあんまり歓迎できないが)、ウケを期待しないで思わず出てしまった言葉が生きる場合もある。素人はこれでも結果オーライということがあって、終わってみるとそれなりの満足感で終えられるということもあるようだ。ウケるのは、あくまで自分の精神衛生上よろしいのである。
 先日あるコントを観ていたら、楽屋裏での反省会というのがあって、小倉久寛という人が出て来ただけでウケたのが誤算だった、という話をしていた。団長風の三宅祐司が小倉に向かって「もっとつまんなく出てこいよ」と叱っていた。
 その話自体は面白かったのだが、面白いコントを演じているにもかかわらず、ウケたら駄目だというのがさらに面白い訳だ。なるほどそれは素人とは違うということか。
 ウケる容姿だとか、雰囲気だとか、そういうものを持っているというのは芸人さんにとっては武器であるとは思う。しかし同時にそれがあだになることもある訳だ。
 普段はウケようと思って話しているといったが、考えてみると普通にウケないというのは才能かもしれない。ウケたく無くてもウケてしまう人の事を思うと、楽してウケ無いのだから儲けものなのかもしれない。
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ちょっとご都合が残念だが   キングダム 見えざる敵

2013-02-18 | 映画

キングダム 見えざる敵/ピーター・バーグ監督

 ドキュメンタリータッチなのは、臨場感とリアリティを出すためだろう。それがある程度は成功しているのだけれど、しかしお話はありそうで無い話という感じもする。いや、現実には起こっていることに違いなさそうで、微妙にしかしアメリカ的な理解であり過ぎるというか。
 中東のことをそんなに知っている訳ではない。西側の国からみると不可解で危険なことだらけだというのも、あながち間違いではあるまい。テロの巣窟のような事も言われるが、確かにそういうところもありそうで、しかしやはりそれは一面的に過ぎないだろう。テロは軍事施設などのハードなものはターゲットにせず、あくまで一般の無関係な人々を、つまりソフト・ターゲットに絞って実行する。軍備の弱い方がゲリラ戦で応戦するのとある意味で似たところがあって、大勝するより部分で勝とうとする訳だ。そして壊滅はしない。
 それは友好国の中にも含まれている訳で、戦場がはっきりしない戦争ということになっている。アメリカはテロとの戦争と言っているので合わせて言っているのだが、これは本当にはたして戦争と呼んでいいものなのだろうか。いつまでたってもそういう疑問が残るのである。結果的に映画の中でもテロの解決に乗り出すのはFBIである。犯罪の捜査を国をまたいで行おうとする。越権行為だが、米国民を守るという使命のためなのかもしれない。これもまた考えるといろいろある訳だが、越えてしまったものはしたかあるまい。たぶんそのような不信がこの映画の土台であるのだろう。
 リアルな映像を追及している割に、アクションはあくまでご都合主義だ。一種の西部劇的に、主人公側の犠牲者はあまり増えない。敵はどんどんやっつけられるのだから、力の差が大きいということなのだが、倒れた相手の銃を取ってドンパチを続けているという場面もあって、武器の差ではないという根拠が分からない。つまりリアリティは台無しという感じで、やはり夢物語なのであろう。これは映画としては些細な違いなのでは無く、大きな視点の違いである。リアリティを気どった娯楽作と割り切った作りと言えばそうで、だからそういう面で文句を言っても仕方がない。だからテロは無くならないのではないか、という疑問が膨らむだけのことだろう。
 テロの原因はアメリカにあるとテロリストたちは思っていることだろう。そうして死の連鎖が続く事で、憎悪の記憶は増幅されていく。終わらせるには止めるしかない訳だが、どちらが先に止めたとしても、どちらが永遠に止め続けるという保証は無い。静かな時期が長くなっても、必ずしも解決に向かっているのかは分からない訳だ。首謀者を切れば解決するのかといえば、次の主謀者が生れないという願いを託す以外になさそうにも見える。戦闘にはある程度の区切りが出来ても、関係をどのように構築するのかという問題は、やはり長い目で見る必要があるだろう。
 原因の多くは社会情勢だが、さらに非常にお金持ちが多い国の中に構造的な貧困問題がある。普通なら勝手にやってくれだけど、しかし介入無しで解決することなのだろうか。そういうところが気になりだすと、サウジ一国であってもどうにもならないように見えなくもない。そうして心ある人間から殺されていくのかもしれない。これだけ違うもの同士がどの様に付き合っていくべきか。映画とは離れた話だが、知らなければ始まらない話でもあるのだろう。
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昼酒でグダグダ

2013-02-17 | 雑記

 訳あって昼酒。お祝いの席だから堂々と飲むわけだが、ぜんぜん後ろめたくないといえば嘘になる。なぜならいくら土曜とはいえ、いろいろ忙しんだから。
 とか何とか言いながら、午前中は結局仕事は全部パス。いっそのこと休んじゃえということだ。言い訳するといろいろあるにせよ、体調が悪くて休んだということはあっても、堂々と休んでないな、ということはあるんだもんね。
 この際だから来週にしようということは整理しておいて、仕切りなおすいい機会である。2月というのはほんとに短くて、うっかりするとほんとに気づかないうちに終わりかねない。そう思っていろいろ画策しているのだけど、結局時間切れになってしまったことが、今まで何度あったことだろう。そういう意味では長生きしてきたし、しかし繰り返してきたことを思うと成長してないなあとも思うわけだ。今度こそはうまく乗り切ってやるぞ、と闘志だけはむき出しているということなのである。
 でもまあ、どのみち飲んじゃうとどうしようもないね。結局移動は自分ではあんまりできないわけだし、考えてみると土曜だから相手もよく都合がわからないし、月曜はすでに用事があるし、いろいろ考えてもめんどくさいし、家に帰っても結局飲んじゃうし、今のところこうしてパソコンの前で遊んでいるわけだ。せっかくだからだらだらしちゃおうということになって、自己嫌悪になって、さらに酒が進むということにもなりかねない。いかんけど、まあ、いいか。
 つまるところ忙しいって言ったって、その程度のものかもしれないね。いや、僕以外の人には僕が忙しいと思っていてくれた方がいいのだけれど、僕自体はいつまでも暇であってほしいわけで、要するにだらだらしたかったわけだから願いがかなったわけだ。じゃあまあそういうことで、だらだらを楽しめばいいだけのことである。
 ところがやはり貧乏性というのですかね。最近は急にFBでなぞなぞをUPするという試みをやろうという気になって、散歩したり車の中だったり、言葉をあれこれ操って、問題をひねろうとしているわけです。仕事で面談をするときも、相手がなんとなく退屈そうな人だったりすると、いつの間にか問題をどうしようかと考えたりしてしまう。曜日を決めて考えないようにしなくちゃいけないね。せっかく考えても忘れては困るから、なんだか集中したいという欲求が高まってストレスが高まります。つくづくぼーっとしてるには向かない性格なのかもしれない。かといって仕事人間というわけでもないし、いったいおいらはなんなんだろうな、ということで、よくわからんです。みなさんごきげんよう。
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過去の豊かな日本という誤謬

2013-02-16 | 境界線

 「三丁目の夕日」という映画をいいと思うのは、昭和30年代の夢と希望を持てる羨ましさのような、ノスタルジーのようなものがあるからだという話は耳にタコだ。その時代に青春時代を過ごした人ならともかく、今の時代の人がそのように感じるとしたら、まったくのミスリードだろう。人間の感情の癖で、過去がいいと思いたがる現実逃避は普通の考え方の誤謬であって、実際にその時代がいいというのは別の話である。あの映画は面白いから好きではあっても、その時代がいいから好きだという気持ちにはとてもなれない。実際に30年代に生まれたいかというのも微妙で、少なくとも現代と比べたら、圧倒的に今に生まれた方が良いに決まっているという感じである。以下、長くなるので割愛。
 そうしてまたやはり、先日テレビを見ていたら、アメリカのたぶん自動車製造工場の労働者が日本車をハンマーで叩き壊してひっくり返す映像が流れていて、そのアナウンスに「外国からもうらやまれるくらい日本が豊かな時代があったんだって…」というようなものだった。ああ、知らないからって、今の視点からそんなありもしなかった感想を流すなんてどうかしてる。彼らは今の日本の姿であって、中国などから安い製品が入ってきて、自分たちの仕事がなくなったと思っているような人々が、行き場の無い不満を日本車にぶつけていたということである。日本人は中国製品をそのように壊すアピールをしないという現実的な豊かさが今現在あるし、どういう訳かおとなしいということもあるから同じじゃないような印象を持つのかもしれないが、じゃあ今の日本人が豊かな中国人に嫉妬しているのかというと、たぶんそんなことは無い。アメリカの労働者がいかに馬鹿でも、たぶんそんなふうに感じていた訳ではないだろう。
 さらにいうと時代の閉塞感というのは、若い世代であれば誰でも持つような普通の感情なのではないかと疑っている。事実バブル絶頂の時代に若い前半を過ごした自分自身のことを鏡みても、実際に若い時分にはそんなに金があった訳でもなかったし、政治的にも自民党時代が永遠に続くものと思われ、何も変えられないという閉塞感でがんじがらめという感じだった。若い人間が何かをやるには何かを壊していかなければならないというのはあって、英国などの様に先に閉塞感にさいなまれているような鬱積したパワーが炸裂するような、いわばパンクのようなものに、気分的に憧れているようなところがあった。でもつまるところ既得権益はしっかりしており、今の様に劇的に世の中が変わりうるなんて、夢のまた夢の世界だったのである。
 今が悪いと思いたい気持ちはよく分かる。しかしそれが正しいのかどうかというのは、世の中をもう少し目を見開いてしっかり見てから見極めた方がいいと思う。テレビのような媒体で物事を制作しているような、構造的に既得権益の塊のようなリッチな人々が考えるような穿った見方では、現実というものは何も見えてはこないだろう。嘘を信じるのは勝手かもしれないが、それを土台にして物事を思考するには、結果的に間違いを上塗りするだけのことである。彼らのことを守りたいのなら別の話だが、自分たちのことはもう少し自分たちの目線を取り戻してから考えた方がいいのではないだろうか。
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今になってみると伏線だらけだったのに…   イニシエーション・ラブ

2013-02-15 | 読書

イニシエーション・ラブ/乾くるみ著(文春文庫)

 最後の二行を読んだら、また読み返したくなる傑作ミステリーとのこと。もちろん僕も読んだからその意味は良く分かっている。じゃあ、どうしたかって? 全部じゃないけど読み返しましたよ、ええ。そういえばと思うところを数か所チェックしましたとも。そうしてチクショーと思った訳である。
 疑いながら読んでいて、確かに妙だなという感想を持ちながら、しかしやっぱり最後の二行には目を疑わざるを得なかった。そろそろ終わりなんだけど、別にどうってことなさそうじゃん、とかなり失望しかけた最後の最後に「!!!」っとなるのだから、やはり傑作だったのである。
 読んでいる時はその恋愛の展開に付き合わされるだけで正直言ってうんざりするような事が多かったのだが、すべてはこの瞬間のカタルシスのためにあったとは。途中でつれあいにも、この描写のヌルさ加減には参ったね、と愚痴をこぼしながら読んでいたのだ。ダラダラ続く恋愛劇。正直言ってどうだっていいことも多くて、さらにこんな感じのもどかしさということそれ自体が、特に共感の持てることでも無いのもつらかった。若いというのはつらいものかもね、とは思うものの、だからと言ってこのような心情を読まされる身になってみると、なんともつまらないということかもしれない。そのくせ妙に性描写は克明だったりして、清純なだけの恋愛劇という感じでもない。中高生が読みそうで、しかし妙なアダルト感とのアンバランスも奇妙に思える。それがミステリーと何の関係があるのか。おかしいとは感じても、謎解きに結びつくとはどうしても考えづらいのだった。
 しかしながら今になってみると、それらもすべて、やはり意味のある描写だったということも分かるのである。そういうじらし方そのものが、絶妙な伏線になっているということなのである。また、読者そのものをそのようないらつきのようなものに誘い出して、けっこう煙に巻いているということにも、後になって気付くのである。
 読書体験としては二度読む人も多いだろうから、そしてその二度の読書の感覚もかなり違うものであろうから、やはりお得感の高い一冊といっていいだろう。読みやすい文体でスラスラ読めるので、謎に引っかからないようにと慎重に読んだとしても、たぶんそんなに時間は取られないだろう。
 しかしその騙されたと分かった瞬間に、満足できるかできないかは、人によって反応は違うかもしれない。本当は読んでいる自分の方が勝手に解釈していただけのことだという事なのに、もちろんそのように仕組まれていただけのことだったのに、悔しい思いをするためだけにこの本は読まれなければならない。
 ネタをばらす本の解説や、ネット上のネタばらしものを先に読んでしまうと、そのようなたくらみに嵌ることは無いのだろうけれど、しかしそれではほとんど意味の無い事には違いは無い。極上ミステリーにはぜんぜん見えない体裁にちょっとだけ時間を提供するだけのことで、この悔しさを楽しむことが出来るのである。未読の人は是非ともお仲間に加わって欲しいものだと、悔しい一人としてお勧めする次第である。
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まじめだからまっとうだとは限らない   居酒屋兆冶

2013-02-14 | 映画

居酒屋兆冶/隆旗康男監督

 この映画を観始めてすぐに感じたことは、確かに居酒屋で飲んでいて、こんなことを想像したことは一度や二度では無いということだった。原作は山口瞳の同名小説だが、恐らく山口にしても、同じような発想からこの物語を紡いだのではなかろうか。
 飲んでいるといろいろな客があり、好き勝手なことを話して憂さを晴らしている。古い居酒屋のオヤジにあって、そのような客の話を聞くともなしに聞きながら、何やら仕込みなどの作業をしている。ふとこのオヤジにしても、何かがあって居酒屋をやっているようだけれど、ぜんぜんロマンスが無かった訳でもなかろう。ひょっとすると、壮大な何かが隠されているのかもしれない。
 実際にそう思って訊ねてみたことも数回あるようだが、調子に乗って話し出すオヤジもいるし、よしてくれとはぐらかすオヤジもある。まあ、居酒屋だから特に壮大ということも、無いのかもしれない。飲んだせいで夢を観てしまうのかもしれない。
 しかしながらそうであっても、居酒屋のオヤジが高倉健であるならば、話はまた別である。それは絶対に何かある。何か無くても何かが起こる。本当に小説の方が先なのかと思えるほどに、北の地での居酒屋のオヤジとして、高倉健は不穏過ぎるのである。似合うが尋常じゃない。たとえそこで物語が始まらなくても、そのまま額縁に入れておいていいくらいである。
 そうしてその陰の女というか、過去の女が大原麗子である。これまたこれ以上のハマり役があるだろうか。彼女はほとんど不幸になるために、または不幸な女を演じるためだけに生まれて来たような女優さんである。めんどくさいそのものや、どうにもならないどうしようもなさが、それこそ見事すぎるくらいに存在として示される。こんな女は大嫌いだけど、美しいということは僕にだってわかる。人生が狂ってしまった数人の男たちは、みんなして高倉健を殴るべきなのだと思った。
 高倉健の先輩役で、実に嫌な男として、伊丹十三の演じる河原という男がいる。よせばいいのに何度となく兆冶(高倉)をいじめに来るが、それがこの物語の伏線になっているが、しかし僕は河原には理解できるところがある。実際には好きになれないまでも、他の客に対してはともかく、兆冶に対する言葉としては、非常にまっとうな事を言っているのではなかろうか。「煮え切らない男だから大嫌いだ(大意)」。それはその通りで、今更どうしようもないとは言っても、高倉の所為で実際に多くの人が不幸に陥る。
 感情のねじれた原因となった土地の案件にしても、兆冶が先輩河原に素直に話せばいくらか違った結果になったのではないのか。これほど先輩を馬鹿にしたりコケにしたりしておきながら、何の説明もしようとしないし、逆にどんどん彼を追いこんでいくように見える。映画の演出としてはそうではないが、普通であればそのように捉えられてもおかしくない状況だと僕は感じた。まあ、だから繰り返し殴ってもいいとは言えないまでも…。
 結果的に誰かがしあわせになるような話なのではない。しかしながらそれでも居酒屋兆冶には客が来るのだろう。映画としては過去の清算は大方ついたが、それは兆冶が解決したわけでは無かった。つまりトラブルメーカーは健在なのである。
ホントはそんな映画ではないが、まじめに生きている人間が無害な訳ではない。そんなことを考えずにいられない、不思議な味のある映画なのであった。
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