カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

タイムマシンは夢の機械か   プライマー

2014-06-30 | 映画

プライマー/シェーン・カルース監督

 ガレージで何かの装置(超伝導を使っているらしい)を開発しようとしていて、偶然タイムマシンを作ってしまう。もともと凄い発明らしい手ごたえはあったが、自分たちでも信じられない成功だ。当初はノーベル賞も夢ではないという思いもあって発表しようとも考えるのだが、装置自体を人間も入られるくらい大きな箱、要するに自分たちでタイムトラベルをやりたい欲求に負けてしまう。目的は、単純だが金儲け。未来が分かるのだから、株で大儲けできることは確実である。プランを練ってふたりだけの計画と秘密は進行していくのだが…。
 タイムマシンにはさまざまなパラドクスが含まれていて、実際に存在するとさまざまな問題がどうなるか、または大きな矛盾がいくつも起こりうることが分かっている。この映画はそのようなパラドクスがいくつも起こる仕掛けになっていて、そこのあたりが最大の見所ということになっている。もっとも低予算の学生が作ったようなアイディア映画なので、そことのあたりの説明はほとんど映像ではなく台詞回しから想像するより無いのだが、携帯電話もろともタイムマシンに乗ると、電話は分身(ダブルとこの映画では言っている)になるのか自分になるのか、それとも両方か、もしくはどちらが先か、そもそも電話に出ていいのか、などと次々と考えさせられる場面が出てくる。一応ダブルには出会わないように心がけているが、しかし同じようなところをぐるぐるめぐっているわけで、ニアミスは度々起こってしまう。それどころか共同で開発した相棒がどの時間からスタートした人間か(つまり本物かダブルの方か)わからなくなってしまう。さらに部外者まで二人いるように感じられるし、そうなるとどちらかが秘密をバラしたことになり、信用問題もぐらぐらしてくる。ついには自分自身もダブルに翻弄されているかもしれないという状況にまで陥っていく。実際に起こった事件も遡って修正されることが出てきたり、今の自分の立ち位置さえ明確でないようにさえ思われていくのだった。
 実のところ、見ているほうも混乱して、なんだかよく分からない状況に陥ってしまうわけだが、思い切ってパラドクスを利用してどんどん混沌とした世界を作ったことが、この映画を興味深いものにしている。一応分からないなりに成功しているとさえ思える。分身が存在しているとはいえ、行き来している自分自身はそもそも自分ひとりのはずなのである。そんな中、相手にしろ自分にしろどちらかが事故にあったら、連続して存在している自分の存在はどうなってしまうのか。書いていても訳が分からないが、とにかくそういうことに果敢にチャレンジして、一定の状況が作り出されはする。もちろんこれがパラドクスの答えなのかは誰にも分からない。何故なら実際にタイムマシンを用いて確かめる術がないからだ。しかし映画ではそのままお話は進んでしまう。そういう意味では乱暴だが、思考実験ではそれでいいのだろう。娯楽としても、低予算でありながら、それなりに採算を合わせることに成功したのではなかろうか。なんだかもやもやした思いが晴れることはないのだが、妙な映画を観てしまったという変な感動はある。さらに本当にタイムマシンが出来てしまうと、これは夢の道具以前に遥かに悪魔的な状況になることが改めて理解できるだろう。ドラえもんの世界は、とんでもなくダークなものなのかもしれないのだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現役MD人生

2014-06-29 | 音楽

 最近は、というかちょっと前からあったことだけど、居酒屋なんかの装飾で、昭和のレトロな感じのものが張ってあったり置いてあったりする店がけっこうある。金鳥の蚊取り線香だとか、そういうの。三丁目の夕日という漫画や映画があったが、ああいう感じのノスタルジーと、そうして若い人にとっても、近い過去のデザインの面白さなども感じられるものなのかもしれない。
 さて、ある店で飲んでいると、やはり以前のポスターが張ってある。それがMDの広告だったわけだ。つれで飲んでいた人(僕より先輩)も、「そういえば、ほんとに一時MDみたいなものがあった時代があったよね~」みたいな話を振ってきた。実にそれで僕は困惑してしまわざるを得なくなったという訳である。
 それというのも、僕はいまだに音楽はMD現役だからである。
 僕にとってはカセットテープこそノスタルジーにあふれた録音媒体であって、MDはまったく古びていない。音楽編集が安易で、文字通りコンパクトで使いやすい。録音時間も長いし、比較的音の劣化も少ない(と今のところ思う)。時々調子の悪い古いのも無いわけではないが、カセットテープとは雲泥の差で、音がよがんで悔しい思いをしたことはほとんどない。間違って消去してしまった経験はあるにせよ、概ね扱いは簡単だし、古くからあるものであっても、そんなに古びていない現役感があるのである。
 もちろん数が多くなってかさばるというのがあるし、既にどこに何の曲が入っているのか分からなくなっているものも多い。ちゃんと記録をつけていればよかったのだが、以前はケースの方にだけ曲名を書いていて、中身が入れ替わって分からなくなってしまったものも結構あるようだ。聞くときはほとんど車を運転している移動中だから、もう曲名などは関係は無いというのはある。しかしこういう聞き方をしていると、聞いたことはあるが誰のものだったのかというのも適当になってしまっていて、検索機能としてのアーカイブの役割は果たしていない。そういうところが難点なのだが、しかしそれでもやはり記録媒体としてのストックがそれなりにあって、安易に離れられなくなっているというのはある。ipodのような音楽プレイヤーへの移行を考えなかったわけではないが、やはりこのストックの数の問題と、録音機材と車の再生機の問題もあって、要するにちょっとめんどくさいのでかえってこのMDに固執してしまう結果になってしまったようだ。さらにいまだにやはり販売されていることを考えても、僕のようにそれなりに不自由なく使用しているユーザーも相応に残っているらしいということは見て取れる。今の時代にあって、それなりに優れた過去の遺品ということになるのではなかろうか。
 要するに、僕はMDに対して、いまだに何のノスタルジー的な感情を持っていない。いつまでも現役でいられるものなのかは不明だが、デジタルでありながらこのアーカイブ性のアナログ的な確かさというのもなかなか良いのではないか。さすがにレコードからCDに移行してしまったものの、やはり同じくCDは生き残っている。これは聞いている人が古いまま生きているせいだという話はあるが、モノとしての消費財として、やはりアナログ的な質感と所持する楽しさがあるためだとも言われている。MDは曲としてはバラをまとめたものがほとんどだろうけど、多少の編集は可能とはいえ、やはり塊として物語を持っている。これがやはり愛着の源泉にもなっていて、この並びの曲の感じが、その時代の個人の記憶とリンクしており、別の価値を生み出しているのではあるまいか。
 今になって気付いたが、そういう意味では、ノスタルジーがある訳だ。そうしてそのような時代を固まりにしているからこそ、シャッフル機能が無いからこそ、MDらしい魅力があるということらしい。現役が長くなると、やはりドラマが付随する。音というのは時間の消費だ。時間というのは、やっぱり不思議な概念ということになるようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今の一瞬こそがしあわせだ

2014-06-28 | HORROR

 何事も永遠のものは無い。始まりがあるのだから終わりがある。そういうことのほうが物の道理なのであって、悲しいが受け入れるより仕方が無い。
 そういうわけで永遠に輝いているように思われる太陽だって、いつかは死んでしまう。というか今のようにはいつまでも燃え続けられないということらしい。ただし燃え尽きるまで後50億年くらいあるらしいけど(一説には70億という話もある)。実際には太陽が燃え尽きる前に巨大化し、廻りの星、つまり地球はその前に燃えてなくなってしまうらしい。地球が燃えてなくなってしまうということは、だから地球も死んでしまうわけで、われら人類どころか、生きているものはすべてその前に死んでしまうわけだ。考えただけでも恐ろしく寂しいことだが、繰り返すがそれは数十億年後の話だ。もっともそれは決定的な人類滅亡のように思われるが、恐らくその前に人類は消滅している可能性のほうが高い。隕石が地球に衝突するかもしれないし、月が離れていって自転が狂っているかもしれない。今では考えられない災害で滅亡する可能性のほうが高いらしいし、さらに何か人為的に自滅することだってありうる。SFチックだが、宇宙人が征服しに来る可能性も無いではない。わざわざ地球まで来るという目的を持っている宇宙人が、友好的な存在である可能性は限りなく低いらしい。
 そういう長いスパンで考えると、今地球上で人間が生きている時間というのは、宇宙的には短い間のことで、さらにこのように比較的平和な時期を生きられるというのは、奇跡的な一瞬のことなのかもしれない(局所的なことであったとしても)。たまたまその時間に生きられている幸運ということであるらしく、実にラッキーなのであった。宝くじなんて当たらなくても十分ではないか。
 先日日本の将来、とりわけ年金医療問題について討論している番組を見た。どちらも将来的には持続不可能なことは自明であるのだが、当然ながら今から打てる対策というものは、ほんのわずかな可能性であるにしても、無いではない。もちろん、今の状態を維持することは既に不可能だし、どうしようもないからやらなくてはならない現実であるに過ぎない。しかし、やらないよりは少しくらいはやった方が、現実的に倫理的にも当然必要なことなのだ。
 しかしながら、これがやはり実際に医療費の削減策を伴うわけで、今から高齢になる人ほど反発する意見が多いようだった。今のようにが絶対にダメという前提なのに、どうしてくれるのだ、という不安はぬぐえないためだ。さらに年金問題なんかだと、今まで働いてきた報いは当然だという意見が必ず出たりする。いや、今まで働いた以上のものを手にする制度に過ぎないのだから、将来の人に頼りすぎてしまう方が身勝手に過ぎないのに、そのことはどうしても理解したくないらしい。しまいにはこのようなことになることが分かっていながら(実際30年くらい前からそういわれ続けているのだが)、なぜ対策を打たなかったのか? などという意見も出ていた。だからそのようなことを言う人が、30年以上も改革の道を阻んできたのだし、それに迎合する政治家や官僚が、問題を先送りする選択をせざるを得なかったのが現在なのだ。
 将来的には人類は滅亡するが、その前に今の日本も持続は不可能なのだという話である。そうしてこれは絶対に逃げられない。瞬間的にしあわせな時間が、後どれくらい残されているのだろう。僕らには、それすらも知ることが出来ない。唯一のしあわせは、その前に死んでしまうことくらいなのであろう。または、みんな焼け野原に放り出される。不幸なのは自分だけではないということが、救いといえばそうなるのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑魚ほどおすすめ

2014-06-27 | なんでもランキング

 長崎に住んでいるということになると、なんか旨い物教えてくれ、といわれることがある。しかし僕の住んでいるのは長崎市内ではない。長崎市内の名物も知らないではないが、これが市内の人の考えている名物と僕ら周辺部住人好みというのでは、少し面白がっているところが違う。観光地の人間が観光地を知っているのか問題と言うのがあって、だいたい地元の人が紹介するところにハズレは多いものだ。物の価値というのはそういうものである。
 とはいえ、長崎に来るんだったら素直にどこで食べても魚介類は及第点なのではないか。別に寿司屋でなくていいから、オヤジやおばさんに今日のネタを聞いて食えばいい。焼き鳥屋だって刺身が出るかもしれない。まあ、それを食いさえすればいいのではないか。いろいろ考えもあろうけど、市内のものより北部、特に北松あたりのネタの方がいいようにも思うが、さらに離島もあるし、だからどこが一番なんて一概に言えない。いい店に当たることを祈るばかりだ。
 でもまあ僕が好んで食うのは雑魚の方が多い。雑魚でも旨いからである。
 ということで、地元のもので旨いのはまずはシャコかもしれない。一般的にはシャッパという。グロテスクだが、旨い。指を切りながら上手く殻をはずして食らいつく。割り箸をうまく突っ込んで身をはがす方法もあるが、説明が面倒なので店の人に聞いてください。手が汚れるのでオシボリをたくさんもらって格闘しよう。
 次にイイダコ。これは茹でたのをぶつ切りにしてもらう。そのままでも食えないことは無いが、多少食いにくいので切ってもらおう。頭の部分の方が好みだが、別にゲソでも旨い。しょうが醤油でもいいし、スヌタでもいい。ゆずごしょうでもわさびでも、もちろん構わなければいい。
 キスやインゴチも旨い。フライにしてもいいし焼いてもいい。大きめのなら刺身で食う場合もあるし、インゴチの方はホイル焼きとか煮つけでもいい。ものすごく旨いというような感動が無くても、しみじみと旨かったりして、そうして飽きないというところがいい。
 実際には大村湾で捕れる以外も入っては来るんだろうが、漁協そばに住んでいる人が行商のようにして売り歩いているもので十分旨いと思う。まあ単に食いなれているだけなのかもしれないけど。こちらに遊びに来て、目にするようなことがあったら、試してみてはいかがでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

事故を増やす公害看板

2014-06-26 | ことば

 道路わきにはただでさえ標識やら看板やらが多い。商売の案内なら仕方ないと思うが、交通標識にいたっても、反則金などを原資として立てられているという話もあって、見るだけでも腹立たしい気分になることがある。さらに案内が分かりにくかったりすると、それ以前に迷惑である。
 それでも交通標識ならある程度仕方ないにしても、交通標語の看板というのは、なんなんだろうな、と時々思うわけだ。よくもまああんなにつまらない標語を選んで掲げるものだという気もするし、あれを選ぶために会議を開いたりしたんだろうと思うと、お気の毒にも思う。看板屋さんだけは少しだけ潤うだろうから、それくらいは社会貢献かもしれないけど、みんなやる気が無いけど続いているという感じが、さらに脱力感を誘うということもあるのではないか。
 しかしながら見るともなしに見ることがあって個人的に残念なのだが、「大丈夫、その一言が事故招く」というのがあって、一瞬混乱した。「大丈夫」と気遣う心が何で事故につながるのだろう、と思ったわけだ。
 まあたぶん、大丈夫という過信の気持ちが、安全運転の気持ちに反する、という意味なんだろう。しかしながら、それならそのように、「大丈夫、その過信が事故招く」とでもすべきなんじゃなかろうか。その一言、という言葉は、明らかに他者から掛けられていると考えるべきで、むしろいたわりや、ねぎらいのようなニュアンスが強い。その一言に応えるならば、素直に安全運転への気持ちと捉える方が普通だろう。紛らわしい上に、まったく危険な言い回しというべきではなかろうか。
 ちょっと前にも「とっさのときに 避けられますか その運転で」というのがあって、一瞬ムカっときて、さらにアクセルを踏み込みそうになったことがあるのだが、このような標語がすべて取り払われるようなことになれば、ずいぶん事故は減るのではなかろうか。まあ事故が減るとこのような仕事をしている人としては困るのかもしれなくて、まったく公害というのは、善意があるからこそ無くならないということなのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生きていくことの困難   股旅

2014-06-25 | 映画

股旅/市川崑監督

 実験的な変な映画だが、後半は少しだけストーリー性のある展開になり、何とか観られるが、喜劇というか悲劇というか、よく分からんが、悲しい物語である。
 とにかくアウトローがそれなりに生きにくい時代だったということらしく、それぞれの出生がどうなのかはよく分からんが、とにかく家を出て、単身で生きていこうとすると、いきなり難しい社会の壁の中で苦労するということなのだろう。渡世人といっても単なるチンピラで、特に喧嘩が強いとか、世渡り上手なわけでもない。ただ若い人間が、仁義というものをたてに生きていこうとしているわけで、しかしそれでも現実は極めて厳しいわけだ。ちょっとした一宿一飯の恩義に命を張り、駆け引きで、少しでもよい境遇にありつこうとしている。自分らよりも弱いものから金を巻き上げて何とか食いつなぐが、ほとんど野宿を繰り返す野良猫と変わらない人間の生活である。大変だけれど、何らかの事情があるらしいし、ちょっとばかりに意地もあろうから、この境遇から抜け出すことは考えていないようだ。行き当たりばったりに生きていくより他に無く、そうしてそれぞれ将来は明るくないように思える。
 前半は、なにやらそういう若者のしきたりや仁義というものの説明という感じで、後半になって、親子問題とやくざの仁義問題、閉鎖社会からの逃亡や、自然の恐怖、思想と仲間割れなどが描かれる。たぶんこれは喜劇なのだが、人は殺すし人身売買は行われるし、まったく貧乏残酷物語である。人間というのは結局は畜生と変わらない生き物であるということは分かるわけで、社会性が未発達の過去においては、単身に近い生き方は、とても難しかったのだろうということがよく分かる。それでも何とかそれなりに旅を続けられるのは、ひとえに体が強く若いからで、しかしそれでも死んでしまうものもおり、事故でつまらない死に方をするものもいる。そういう意味では最後までああ無情である。
 結局は父親殺しにしても、そういう社会への反感が根底にあったということでもありそうだ。外れた人間には外れた理由があり、そうしてその根源は簡単に許されるものではない。しかしたとえそれに復讐したとしても、連鎖的には自分自身も同じ穴の狢である。自分なりに仁義を通す生き方をしようと思っているのだろうが、あえなく憤死するのがオチである。人間の命なんて、道から外れてしまえば、何の意味も無いただの無である。そうではあるが、しかし何とか生きなければならないということなのかもしれない。いや、あえてそんなに崇高に意味を求めてもいけないのかもしれない。惨めだからこそ意味のある死というものがあるなら、それは単なる考え違いなのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日傘男子の定着を望む

2014-06-24 | 散歩

 梅雨とはいえ、暑くなった。雨の中傘さして歩くのもちょっと億劫というのはあるけど、晴れても暑いから、雨のうちのほうがましかな、と思えることも多い。でもしとしとならいいけど、本降りにはやはり歩きにくい。なんとなく馬鹿に見えるというか、別にそう思われてもいいのかもしれないが、ちょっと心配されるのもどうかという遠慮もあるかもしれない。
 早朝や夜に歩くという手もあるが、なんとなく踏ん切りがつかない。もっと真夏ならそれもいいけど、そういうことには少し早いというのがあるのだろうか。暗いうちに雨というのも嫌だし、新聞やテレビをダラダラ見だすと、やはりケツが重くなるというのがあるかもしれない。
 いっそのこと汗を想定して着替えを準備する。これが一番いいという感じもあるが、職場のそばだったりすると、やはり着替えがめんどくさい。シャツくらいは替えていいけど、パンツはどうするか。ロッカールームがあるからズボンを脱いでもいいスペースはあるが、パンツまで換えるのはタイミングがいる。誰も何も言わないはずだが、そういうことを考えすぎるのがまた面倒だ。
 女性の人は日傘を差して歩いている人は多い。これは特権的な感じがする。日傘を差して歩いたことがあるのだが、これはものすごく感じが違ってびっくりした。確かに直射日光が当たらないだけでも、かなりつらさが違う。男でも日傘を差して歩けるように運動を起こしたい気分になった。けれど、こういう習慣というのは、あんがい厄介だ。自分だけ信念を持って貫き通すいちぞんが無ければ、なかなか行動を決定できない。日傘にはしかしそういう信念を曲げてしまいかねない抵抗がある。女装してまで日傘を差すのもちょっと違うし、スーツの場合なんかは、もっと難しい感じがする。もちろん、カジュアルにジーパンでもなかなか難しい。誰も絶対に通らないような田んぼのあぜ道でも、考えようによっては難しい。結局自分との戦いが何より難しいということであるわけで、自分の偏見を呪うよりないのかもしれない。
 日傘男子が定着する方法を考えながら、今日も散歩に出ることにしますかね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

厳格なしつけは危険がある?

2014-06-23 | 雑記

 厳格な子育てをすると、その子供が麻薬に手を出しやすくなるという研究成果があるらしい。ただし外国。そりゃそうだろうな。
 建前上日本には麻薬は出回ってないから、統計上に有意な情報とは考えにくい。でも厳格な教育を受けている人には、何か逃げ場が必要になるということを含んでのことらしい。逃げられなければ、精神的にきつくなるんだろう。
 それなら酒なんかは影響があるんだろうか。僕の親は厳格とは程遠かったから、あんまり統計的に有意なデータと実感がないな。でもまあ、酒は日本では、割合寛容な文化という面があるから、むしろ苦手な人にはつらいものがありそうだ。慣れすぎても問題が多いし、酒というのはしつけとは関係なさそうだ。
 タバコなんかはどうだろうか。しかしこれは社交的な人のほうが手を出すのだという話もある。友達がいない人が勧められて吸う機会なんて無いだろうということなのか。よく分からんが一度も吸った事のない無い様な人というのは、かえって問題があるということだろうか。まあ、慣れないとうまいものではないから、こんなものを吸い続けられるなんて不思議だ、と思っている人がやられるらしい。中毒というのはそういうものだろう。やめるのは大変だから、賢く吸わないという姿勢は大切かもしれない。肩身が狭いからね。でも嫌煙が進むと自殺者が増えるというデータもあるんで、棲み分けが上手くいかないと、社会問題として厄介である。
 ギャンブルはどうだろう。これは有意さがありそうな気がするが、さきの研究の麻薬のように上手く当てはまるものなのかは分からない。僕なんかはギャンブルが好きなはずなんだけど、だからかえって怖くて手を出さない。そういう好きなことをして暮らしたくない。さらにやはり厳格じゃなかったしな。
 まあ、分かりそうにないことを考えても仕方ないな。麻薬くらい解禁した方がいいという議論もあるし、でも本当にそれでいいのかハードルはそれなりに高そうだ。大麻みたいな軽いものでも、ゲートドラッグでより強いものを欲する入り口、つまりきっかけになるという話もある。やはり強いものはそれなりによくないことに間違いが無いということだろう。末期癌ならともかく、健康な人には悪い影響の方が大きいということだろう。捕まえて楽しんでいる状況も不健全だが、そういう社会にあって、麻薬に頼らず逃げ場のある考え方が進んだ方が良さそうだ。まあ、だから難しいということは言えそうだけど…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤジはやはり華ではない

2014-06-22 | 時事

 話題の都議会ヤジ問題。これだけの話題になること自体が問題という感じだが、何かやはり社会的にこのような問題についての鬱憤があるためであるのだろう。
 映像で見ると、確かに複数の声が聞こえる。失笑も漏れ聞こえ、さらにヤジを受けた女性議員も、言葉につまるというか、ちょっと笑っているようにもみえる。思わず苦笑い、場の空気として、ウケるヤジだったということだろう。だから連鎖して関連するヤジが複数飛ぶということになったと思われる。
 問題化したのは、だから後でこの議員がツイートしたのが拡大したためである。ちょっとひどい話だよな、という共感が、いや、単にそんなもんでいいのか、という怒りの連鎖を生んだのだろう。これを取り上げるマスコミも、これは面白いと飛びついたわけだ。
 いやいや、面白い問題じゃないよ、と思う人が多いのかもしれないが、基本的にそういう問題だろう。ヤジを飛ばした人間を特定し糾弾すべきという論調が主である。ヤジの内容は率直に差別発言だし、まったく酷いことだ。普通の会話などでも普通に謝罪すべき内容だろう。そのような発言をしてしまうような議員は辞職させるべきだという意見もあって、ヤジを受けた人間より周りの方が盛り上がっている。しかしながらそういう空気があるなら、ますます発言した議員は名乗り出にくくなるだろうし、特定する憶測だけで、空転しかねないだろう。もちろん、見つかるかもしれないが…。
 このヤジ問題のマスコミにまず残念さがあるのは、ヤジの内容がセクハラ発言と書いていることだろう。これは本当にセクハラ発言なのだろうか。まず、(女だから)早く結婚しろ、(まず自分が)子供を産め、というのは、性差別だし、人間を虐待する言葉による暴力だろう。セクハラというのには、あまりに認識が甘すぎるのではないか。
 さらにこのヤジが飛んだ本当に背景は、ヤジは議会の華という認識を改めない日本の政治風土にあるのは明らかだ。人の発言の内容などお構いなしに、ヤジで発言を妨害することを見過ごし続けている現実が、より効果的に発言を遮る内容をあおっているのである。今回は女性差別発言という面白さがあるからみんな怒っていいというスイッチが入って盛り上がっているが、本当に問題はそれ以前にあるわけだ。結局そういう背景を改めない限り再発するだろう。
 ヤジはどこの国にもあるという意見もあるが、確かにアジアの国ではそういうところもあるようだが、基本的に誰かが発言している最中に、これだけ内容に関係ない妨害ヤジを放置している国の方が少数だろう。これはもう、かなり長い間言われ続けているこの国の政治の恥部なのである。でも、やはりまったくぜんぜん改めない。政治家は会議の時に内容より敵をヤジることを仕事にしているからである。で、これに動じない人が、偉い政治家だと思っているのである。まったく馬鹿を生産する機関というべきだろう。
 ヤジがなくなれば日本の政治が良くなるのか、というのは、原因として関係ないように思うかもしれないが、このような政治風土を変えることは、内容をより精査して議論する土壌を育むことは間違いなかろうと思われる。人の話はちゃんと聞いたうえで、論理的に論破することに専念すべきなのだ。どうせ多数決だから議論しても一緒だというのなら、議会そのものを否定しているに過ぎないだろう。何のために当選したのか、真面目に考えて欲しいものだ。
そうしてマスコミも、そのようなちゃんとした議論の内容こそを伝える努力をすべきだという、実に当り前のことが、やはりできていないがための問題の噴出と見るべきなのではなかろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

考え方をお互いに曲げないで一緒にやるということ

2014-06-21 | culture

 宇宙ステーションへの補給機「こうのとり」のドキュメンタリーを見た。
 JAXAの開発苦労話だったのだが、いろいろと考えさせられた。
 まずNASAとの考え方の違いで何度も軋轢というか、開発段階でのダメだしを食らうことだ。基本的に日本は新しいアイディアを、一定の制限の元に緻密に行うことに長けているわけだが、NASAは恐らくそういうことは認めつつも、根本的に日本のやり方に同意することは無い。自分たちの考える安全基準を満たすことが第一だし、あんがい保守的という感じだ。さらに新しい技術にしても、アイディアの段階だとまずは信用していない。出来もしないことを提案することに、馬鹿にしたり不信感をあらわにしたりする。多少の演出はあろうが、まあ、そんなもんだろうな、とは思う。
 試行錯誤してかなりいい線まで開発は進むが、最終的に試験をする段階になると、安全に対する考え方に大きな違いが現れる。日本側は重量の制限がある中、予備のシステムはひとつしか準備しないのだが、米国側は予備を二つ準備することでなければ承認しないのだ。いわゆる想定外の事故の対する擁護策に対して厳しいわけだ。何が起こるのかと日本側が問いただしても、想定外は何が起こるかわからないからこそ想定外で、機械が二度壊れることでも対応するというマニュアルに固執する。これはこれでその通りとは思うものの、日本側は、そもそも故障しないように開発することに力を入れているわけで、そこまで想定外が続くことの方に疑問を抱いていたようだ。なんとなく思い当たることがあるわけで、これが確かに日本の弱点という気もしないではなかった。
 さて結果的には予備を二つ準備することではなく、計画を途中で止められるシステムを予備につけて何とか了承を得(つまり二度の想定外に対応できるわけだ)、さらに本番では想定以上の結果を残すという大成功を収めるわけだ。なんだかんだで足掛け10年。執念というか根性というか、とにかく日本らしいということはよく分かった。
 しかしながらその後、直接には成功後に震災が起きて日本側のオフェスは機能しなくなり、長期にわたって支障をきたす、まさに想定外の事故に見舞われることになる。何とか復旧し、難を逃れたということのようだが、人命のかかるミッションにおいての備えという点では、根本的に考えが違うことはよく分かった。アメリカが何でも巨大化してパワーをつけて対応しようとする考え方の根本には、このような思考の出発点の違いにあることは間違いなさそうだ。どちらが正しいということはいえないが、壊れることを前提にプランを積み重ねて巨大化することと、日本のように最初から制限を設けて、その中で最善を尽くすということには大きな隔たりがあるようだ。結果的にはお互いが得意分野でよい結果を出すということに尽きるわけだが、言葉だけでないお互いの理解の道の遠いことは、プロジェクトにおいては大変な障害であることはよく分かったのだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

筆頭、日本にいて欲しい人

2014-06-20 | 感涙記

 スーダンからの盲目の留学生でアブディンさんという人がいる。詳しくはググッて欲しいのだが、日本語も完璧で非常に聡明な方のようなのだが、何よりその境遇もあってか、面白い人なのだった。ところが、そんな風に見ていると、「面白い障害者」という風に見られていることに、なんとなく不満のようなものを持っているらしいことも分かって、少しドッキリした。要するに、面白い障害者という視点が無いと、僕らは興味を抱かないということなのかもしれない。反省すべきとも思うが、まあ、ジャーナリズム的に表に出ると、そうならざるを得ないわけだ。そうした点は考えさせられるわけだが、しかしそれでも繰り返すが、面白い人なのだ。
 既に日本に16年くらいいるらしい。スーダンで法学を学ぶ学生だったようだが、奨学金などをつてに来日し、現在は東京外語大で研究者として学んでいるらしい。ドキュメンタリーでは高学歴でも就職が決まらずにピンチに陥っていた。これだけの人ならどこかの学校が採用すべき人材だと思うのだが、壁は高いということなのだろう。
 目が見えないので音でいろんなことを捉えているわけだが、まちの様子だとか人の感情だとか、実にたくみに物事を見ているものだという感じがする。日本人がどんな人たちなのかということも、批評性に満ちていて面白い。冗談も頻繁に言うし、基本的に楽観主義者のようだが、しかし、現実に不満が無いわけではなかろう。なんと日本でスーダンから女性を呼び寄せて結婚し、ふたりの娘がいる。助成を受けながらの生活で、いろいろあるとは思うが、このままでは卒業後スーダンに帰らなければならないかもしれないらしい。日本で就職が無ければどうにもならない崖っぷちだが、スーダンに帰っても職があるものなんだろうか。いや、ともかく大変に努力している風でもあり、何とか日本に留まって生活できる道が開けることを祈るばかりだ。
 本も出版しているようだし、ツイッターでも人気である。ざっと見る限り文才もなかなかで、この分野でも幾分の活路があるのではないか。
 録画していた放送を見て気になって仕方ないのだけど、その後どうなっているのかは不明だ。ツイートでは最近は広島カープの話題だった。確かにタイムリーだが、将来は分からない。
 いろいろ苦労しているだろうことと、やはり障害があるということで僕に同情の気持ちがあることは間違いあるまい。しかしながらその努力もさることながら、スーダンからの盲目の博士でダジャレも上手いとなると、それはそれで十分キャラが立っているという印象もある。それでも就職したり、タレントとして生きていけるかは、本当に微妙な問題になってしまう。
 しかしながら、それでもアブディンさんが本当に偉いなと思うところは、やはり自分の勉強した専門分野で勝負したいという思いが強いことかもしれない。葛藤があることも分かるし、現状の苦しさに負けそうな気分というのも伝わっては来る。本当に厳しいということは恐らく本人が一番分かっていることなのだろう。そうではあっても、自分の専門を生かしていきたいという姿勢を崩さない姿こそが、本当に感動の人という気がする。もちろん、適当に肩の力も抜いているように見えるが、たぶんそういう人なのだろうと思うのだ。僕にとって、今もっとも日本にいて欲しい人材なのであるが、本当に将来が心配なことなのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しんで見た後も、引き続き見てほしいこと   最強のふたり

2014-06-19 | 映画

最強のふたり/エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ監督

 話題の映画なんで、とりあえず背景はすっ飛ばして話を進める。
 楽しい映画だが、実際にこれでいいのか問題というのはある。遊びに過ぎないが、スピード違反していいのか、とか、さらにまた逃げるために嘘をついていいのか。日本じゃないけど麻薬吸っていいのか(飛鳥が見たら泣くだろう)、暴力ふるっていいのか、物を盗んでいいのか、等々。でもまあ、悪いのだけど、それがいいのだ、という映画なのだ。これはいろいろと常識的なことをすっ飛ばして考えると、それくらいのルールを無視することが、人生において楽しい、ということとイコールであることが分かる。これが障害者問題をさらに難しくしているところがあって、自然と品行方正にせざるを得ない現実がある。僕なんかこれをネタに仕事をしているのだから、正直言ってそれなりに気を使う。しかし時々思うが、だからつまらない面はそう簡単に楽しくならないとも感じているわけだ。さらに突っ込んで言うと、障害者はタバコ吸ったり酒飲んだりしても、へんな目で見られたりする。だから暴れたり深夜徘徊したり、公の場で暴言はいたり、などは当然してはいけない。これは誰だってそうなんだから、確かにしてはいけないに違いないが、絶対してはいけないのハードルがちょっと高い感じがする。さらに時には、一人で歩いているだけで通報されてしまう人もいたりする。少なくとも職場に電話がかかってきたり注意を受けたりする。いろいろ説明するが、管理不行き届きという感覚があるのだろう。要するにちょっと目立ちすぎてしまって、実際には自由がないということなのだ。体が不自由だというのは、行動に制限がある。しかしさらに少数(マイノリティ)としての孤立があり、さらに社会的な圧力や制限を受けてしまうということなのだ。そういう部分をするりと乗り越える能力を持っているのが、この映画の介助人だったということが大きくて、それでこの映画の開放感と素晴らしさが爆発するのである。
 また主人公は大変なお金持ちである。だから住み込み24時間お世話をしてくれる人間を雇うことが出来る。もちろんそうでなくても公的サービスを受ける人は大勢いるだろう。でも本当に好きな人を選べたり、このような無理の利く人間と出会うチャンスがあるのだろうか。好きなオペラを見たり高額な絵を買ったり、介護の車以外に高級スポーツカーを所持できるのか。また心ときめかす異性との出会いがある。そういうチャンス以前に泣いている人の方が多数じゃないのか。重い障害を負ったことは不幸かもしれない。しかし多くの他の障害者は、この上に貧困と戦うことを余儀なくされるのである。仕事がないイコールは、素直に貧困である。そして貧困は支えている家族諸共巻きこんでいかざるを得ない。要するに、一般的な障害者問題の社会的な部分は、すべて排除された特殊な世界だということだ。
 批判をしたいわけではない。この映画は、それでも大変に素晴らしいと素直に思う。この映画を多くの人が観て、いろんなことを考えて欲しいとも思う。そうしてそういう価値のある映画だとも思う。しかし、付け加えて言いたくなるのは、その先までもさらに考えて欲しいということだけなのだ。考えるだけでなく、できればもう少し先まで実際に見て欲しいわけだ。普通の感受性のある人ならば、可哀想や、怒りだけで終わらないだろう。ではどうしたらいいのか。それは歩きながらでも考えていくより仕方ないだろう。まずは、映画を楽しんで観てくださいませ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

OBの意味するところ

2014-06-18 | ことば

 体育会系のクラブ活動をしていたので、引退した今となっては普通にOBと言われる。Old boyの略らしいから、男性の僕にはこれは当てはまるようだ。もっともOBなんて略して言うのは和製英語のようだ。古い少年。たぶんちょっと面白い響きもあって、そういう言い方をするんだろう。
 卒業のある団体にも属していたから、卒業したんで同じくOBと言われる。まあ、そういう団体に限らず、小学校でも中学校でも、さらに高校でも卒業生ならOBと言っても差支えない使い方はされるようだ。意味は分からないではないが、体育会系で無くとも言うようになったのはどうしてだろうか。普通に卒業生でもいいと思うが、そんなふうに言うように誰かが申し合わせたのだろうか。
 問題は、そうなると女性が混ざってもOBという使い方があることだ。もちろんOB,OGという使い方をされるのは聞いたことはある。でも、多少女性が混ざっていようと、かまわずOBの皆さんで通じる場合も多いように思う。特に女性サイドから苦情も出ないのかもしれない。もっとも、飲んでいる会合だとか、女性が少数派の場合が多いせいかもしれない。
 女の人の場合、確かにOGはあんまり馴染んでいない感じもする。Old girl の何の悪さも感じないが、古い少女はあんまり面白くないのかな。そこのところはよく分からない。
 関係ないが、OLは割合定着している。その前にはBG(ビジネス・ガールの略だったらしい)というのがあったが、本家の英語の方では街娼を指すということでOLになったという話がある。これも「若いOL」が居たり、「オールドミスのOL」というような使い方をするような人がいて、なんだか面倒くさい。そういうことに神経を使うのもどうかと思うが、ニュアンスとして分からないではない。
 さて、OBには0ut ob bounds の略も定着している。ゴルフ以外でも使うらしいが、これはやはり使っている現場が違うので、あんまり混同しないようだ。しかし僕はゴルフをしないくせに時々思い出すので、煩わしいといえばそうかもしれない。
 OBに一度なってしまうとずっとOBである。ほとんど接点も見いだせなくなってもOBだと処遇が良くなったりするんだろうか。これはきわめて儒教的で、あんまりよろしくないとも思う。もっとも多くの場合、持ち上げられるのは金を出せという意味らしい。必要とされている原因は、たぶんそういう限定的な意味なのであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

頑張れ日本と疎外感の僕

2014-06-17 | 時事

 ワールドカップで日本は初戦を落とし大変に苦しい立場になった。後が無いという意味で苦しいわけだが、次は勝ったコートジボワールとコロンビアが対戦するということになり、決勝トーナメント出場を早く決めたい、またはトーナメントで対戦相手を有利に選びたいという思惑しだいでは、その試合展開への違いが出そうである。仮に引き分けても両チームの出場が濃厚になるという意味でも有利である。お互いに強引に無理に勝つ必要が無いという意味でも、一番可能性が高いのは引き分けだろう。逆にお互いに負けたギリシャと日本は、次は絶対に負けられない試合になる。負けた時点で、今回は事実上終了なので、後は最終戦は一矢報いるくらいのモチベーションでやらざるを得なくなるわけで、戦い方がまったく違ったものになろう。怪我やファールのリスクがあっても、それなりに過酷な試合をやらざるを得なくなるだろう。結局第一戦がそれだけ大切だったというのはそういう理由だったわけで、まだまだ終わってないということではあるが、やはり厳しくなってしまったようだ。それでも頑張ってもらいたいというのは変わらないけれど、逆に冷静にやってもらいたいとも思うのであった。
 ところで日本頑張れ、はいいのだが、みんなで侍ブルーを着て応援しなくてはならない風景があって、応援に行きたくない自分が居る。みんなでワーワー騒いで応援するのは楽しそうだけど、ブルーのユニフォームを着て参加しなくてはならない感じがちょっとだけ億劫なのである。普通の私服でも頑張って欲しい思いにそんなに違いがあるわけではない。けれどその場ではなんとなくいたたまれなくなりそうにも思える。いつの間にか日本ではそういう風景が定着してしまって、昔からのワールドカップファンである僕のような中年は、なんだか疎外感がある。こういうところが僕の愛国心の薄さなのかもしれないけれど、あえて応援は僕以外の皆さんに頑張ってもらって、気楽に見られる他国の試合でも楽しんでいこうかな、という感じかもしれない。まあ、あえてそんなことを宣言してどうなるものでもないが、このような日本にいつからなったのかな、という違和感があって、僕には馴染めないブラジル大会という印象が、最初からついてしまったという感じかもしれない。いやいや、皆さんは応援も頑張って下さいね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会問題より以前のものが多いのは…

2014-06-16 | HORROR

 若い女性の貧困問題というのをテレビで取り上げていた。背景としてざっくり言うと、低所得であることが原因といえば原因だ。それは低賃金の仕事にしかつけない現状を打破する術がないということともつながっている。生活をすることがやっとだから、次のステップに進むことも困難だ。つまり再度教育などを受ける余裕さえないということらしい。さらにこの状態に陥る前に、親の離婚問題などの、負の連鎖によるものもあるらしい。社会的に孤立しているので、そのまま抜け出せる道が無いということのようだ。
 問題提起としては、このような人々が低賃金のサービス業を支えているという現実もあぶりだしている。また会社が派遣などの正社員を採用しないという批判もありそうだ。そこのあたりは労働サイドの見方によって不公平があるが、要は賃下げが出来ないしわ寄せが、このような労働環境を作っていることは間違いなかろう。また、自由で多様な雇用形成が目的であるはずの制度に対する批判もあろう。モデルとして想定されていないレアケースをどうするか問題と考えてもいいだろう。セーフティネットにかからないことがそもそもの問題という気もするが、とりあえずそれは無視しているようだ。もしくは、そういうものについてかかわりを持ちたくないという事情もあるのかもしれない。それでも都市部の方が賃金が高いので、上京してまでこの貧困の輪に加わる単身女性が多いのだということだった。性産業などの下支えはこのような人たちが担っているということもあるらしい。
 大変に由々しき自体だということに異論は無い。基本的には都市部の孤立化しやすい環境がこのような人々を形作っているものと思われるが、これは米国などの公園やトイレ生活者のほとんどが失業問題と絡んでいることとも似ている感じはする。女性にスポットが当たっているが、男性にだってこのような人がいるような気がするところがなんとなく気がかりだが、子供を抱えた貧困層が、そのまま連鎖している場合、女の子のほうが、低年齢でも働きやすいということがあるのかもしれない。
 そうして底辺の人が暮らしているのがネットカフェという場所だという。一泊2,400円程度で一畳ほどのスペースに泊まれるという。一月丸々利用すると、一泊1,900円でも可ということだった。
 背景はアパートなどが借りられなくなったためであるとか、上京してそのまま転がり込むということであるようだが、僕はここで少し疑問がわいたのは確かだ。一泊1,900円でも一月57,000円ではないか。中には親子三人別々に部屋というかスペースを利用している人もいるらしい。三人なら一月171,000円である。これってほんとに貧困なのか。
 今は知らないけど、大阪の釜々崎なんかだと確か一泊800円程度ではなかったろうか。二畳以上の広さがあったようにも思う。東京でも多少怪しいところなら2,000円以下というのはありそうだ。カプセル宿泊でシャワーなんかはどうしているか問題もあるし(女性が利用しにくいというのはあるかもしれない)、ネットカフェ利用というのは、ネットカフェにそのような割引システムがあることでも考えられるように、格安宿泊の意図(需要を見込んで)がもともとあるのではなかろうか。
 ということでもあったのだが、これは何かもっと別の、社会的な孤立と個人の無知問題もあるように思われる。このような生活に満足しているということではないとは思うが、甘んじて受け入れる土壌があるのではないか。取材の側も社会問題提起としてこのような現状を映像に収めるという目的があるのだろうけれど、最初から行政に相談する手助けをしても良さそうにも思う。数にもよるだろうけれど、恐らく何らかの対応は可能だろう。
 その先はもう何も言いたくないが、構図的に問題があるのは分かるのだが、姑息的手段(医学などでは悪い意味ではない)としては、現状に対応できることはそれなりに多いのではあるまいか。もちろん必ずしも制度が充実しているとは言い難いものはあるが、それが出来なければ、確かに社会の怠慢である。つながりが切れているとはいえ、田舎に本当につながりの無い人々ばかりなのだろうか。都市部の方が賃金的な魅力があるということだが、地方にも貧困問題はある。むしろそういう分散があるほうが、対応するにも手が回りやすいということもありそうだ。
 結局は情報の少なさと、コーディネートする存在が欠けているということになるかもしれない。追跡したレポートを待ちたいが、ここに働ける人材があるということであれば、障害者問題などより解決の糸口が、むしろ見つけやすいものなのではなかろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする