カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

早く過ぎるのは良いことか

2013-12-31 | 掲示板

 このブログ的には年末にはいつも一年を振り返っていた。読んだ本や観た映画、気に入った音楽のことなどを語っていた。そういう気分ももちろんあるが、もうそれは来年にしたい。想像以上に年末にいろいろ押し迫り、ちょっと気分の余裕が無かったかもしれない。しかしながら考えようによっては、そういうものもしあわせとは言える。暇すぎるのは、現役世代としてはちょっと怖い。特にワーカホリックということではないが、何でも適当がよろしい。
 ちょっと前に新聞のコラムを読んでいたら、一年を早く感じるのはしあわせな証拠かもしれないという考え方であった。時間を長く感じるのは、大人と子供では違うようだ。子供の頃は何でも新鮮で知らないことばかりが一日に起こる。全部が楽しい経験なら羨ましい限りだが、中にはいろいろと引っかかることも多いのかもしれない。大人になると経験値が上がり、いわば予定調和的に一日を過ごすことができるようになる。そういう日が増えると、日々の印象として早く過ぎ去ってしまうように感じるのではないか。つまり多くの場合は早く月日が過ぎ去るのは、それだけ無難に一年を乗り切った証拠ではないか、ということであった。
 それはそうだろうな、と思う反面、確かに一年の過ぎるは早かったという印象を持つのだが、一年のことを振り返ると、実にいろんなことがあった。今年の充実度というかいろいろ度を過去と比較して鑑みても、それはそれなりに思い入れのある年となったようにも感じる。いいこともたくさんあり、そうしてそうでないこともやっぱり多い。よくもまあそういうものが僕自身に降り注いでくれたものだと感心してしまう。
 ということなんだけど、やはりとりあえず僕はここにいて無事である。ぜんぜん問題が残っていないわけが無いが、中には深刻なことだって気がかりなことだってたくさん残ったままではあるが、生き残っているということだろうか。それをしあわせだということができるのかは、積極的に肯定しても出来ないことではない。多少歯切れが悪くても、ぜんぜん悪いこととは言い切れないだろう。
 そういう訳で人間の勝手な理屈の一年の区切りだが、気分としての〆は適当に良い。皆さんよいお年をお迎えくださいませ。
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死というのはやはり軽くない   切腹

2013-12-30 | 映画

切腹/小林正樹監督

 傑作と名高い作品。なんかリメイクされたということもあってか、また見直されているのかもしれない。率直に言って、そういう感想もごもっともな、素晴らしい作品であった。みるみる引き込まれ飽きさせないばかりか、観終わった後も余韻にしばらく浸ることになる。場面の美しさもあるが、淡々と繰り広げられる会話そのものが、いかにも時代劇とサスペンスの見事な融合を遂げている。明と暗のコントラストの鮮やかさ、そうして動と静とを際だたせ方の見事さ。どれをとっても傑作の名にふさわしいものだった。
 最初から絶対絶命の立場にありながら、ちょっとばかりの語りの中から凄まじい過去の理由が明らかにされていく。貧乏な武士の家庭の落ちぶれていく様子の悲しさと、その窮地故の残酷な運命。切腹という題名からも明らかなように、まさに自ら腹を切らざるを得ない壮絶さは、気持ちの悪いというだけでなく深いトラウマになりそうな嫌悪があった。武士という立場のやりきれなさと恐ろしさ。そうしてそのプライドから展開される理詰めの嫌らしさ。最終的にはすべてか崩壊してしまうカタルシス。まさかこんな世界を見せられようとは考えもつかなかった。
 しかしながら考えようによっては、実に運の悪い人たちの話という気もする。その根源にあるのは貧困と病気だ。ささやかでありながら確実にあったしあわせが、ズルズルとどうしようもなく崩れていく。その先にあるのは、なすすべのない死以外に無いのだ。すがる思いで芝居を打った相手も悪く、もっとも最悪の選択をしてしまったと気付いた時にはすべてがあとの祭り。そうして起こる壮絶な復讐劇も、不幸の連鎖を生んでしまう嵐の様なものだ。もとはと言えば貧困が生みだした人間の悲しさ、ということも出来るのではなかろうか。
 人間は霞を食って生きる訳にはいかない。最終的には動物に過ぎない。しかしながら生きていく社会には理屈がある。ぜんぶ人間の作った作りものの理屈なのだ。しかしその作りものに縛られて生きている。生きていかざるを得ないのである。これほどの残酷なことがあるか。そういう思いも現代人は持っているのではなかろうか。まさにその理屈の上に切腹という行為がある。昔の武士の世界の特殊な事情と思っていたら大間違いである。現代人だって切腹という極端なことをさせられはしないものの、多かれ少なかれ似たようなことを課されている。その様な不条理に嫌気がさしている者にとっても、大変に意味のある映画なのではないだろうか。
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リスクの大きい方を選ぶのは

2013-12-29 | 境界線

 会議の好きな人なんて少数派だと思うが、中には好きそうな人というのが居そうな感じはある。なんだか会議で張り切っているというか、元気が良さそうに見える。他人の趣味にとやかく言うようなつもりもないのだけれど、これが何となく迷惑な感じもすることがある。もちろん会議になると苦虫をかみつぶしたような顔をしているような人だって十分嫌だけれど、まあ、そういう会だから仕方が無いという感じもあるので、それはそれでいい。それより前向きな意見を言おうとかまえているというか、おいらやれちゃうよ、というような空気が伝播してくることに気遅れを感じるのであろう。
 僕は基本的にネガティブなところがあるから、いちおう最悪はどんな感じかな、というようなことからスタートしてまあ、だいたい行けそうだなというラインを探ることが多いようなんだけど、あんまり前向きすぎる意見を聞くと、このラインが微妙に乱されるような感覚に襲われる。というか、良い方からマイナスに戻ることを悪の様にいう人がいて、それはちょっともう少し根拠を積み上げてからにして欲しい、と思うのかもしれない。具体例があるともっと分かりやすいとは思うが、ガンガンやりましょう、ここは勝負ですよ、頑張ればやれるはずです、などとオンパレードする人があって、非常に意見をいいづらくなるのである。
 だいたいポジティブな発言というのはちょっとカッコいいところがあって、言ってる本人もそれに酔うということがあるんじゃなかろうかと思う。また、そういうことを一度聞いてしまうと、そうだ!と賛同する方が、やはりカッコいい。いや、でも、なんて言うと、非難の目を向けられかねない。臆病者としてこそこそしなければならないような圧力を感じることもある。そうしてたいていの場合、けっこう危険なことがすんなり通ったりしてみんなも驚いてしまう。会議と言うのはあんがい恐ろしい。たぶん、日本の戦争はそんな感じで突き進んだんだろうね。
 実際に、多少能力の高い集団になると、リスクの高い決定をするようになるというデータもあるらしい。まったく何にも新しいものはやらないというような会議がある半面、リスクの面では大人数の方が危険度があがる場合もある訳だ。
 危険な物事を決める時は、出来るだけ少人数で屈託なく案を練ってから臨んだ方が良いというのは、一般の感覚からすると逆かもしれない。しかし事実はそんなものなのではなかろうか。多くの人が参加していたからこそ変な決議が容易になる。一人ではどうにもならないという言い訳するより、覚えておいた方がいいと思います。
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忘年会ですよね。

2013-12-28 | 
 既に顛末は分かっている大分。

 つれあいとコーヒーを飲むのは実に久しぶり。
 というか、お互い若いころには苦手だったので初かもしれませんね。
 この店の名前がBGMだったのに、音楽無しだったのは、何となく不可解ではありました。



 まちをぶらついて、







 さらに飯を食って、









 

 その後に合唱聞いたのでした。素晴らしかったですよ!



 あとは、家での飯を。




 お隣さんからの頂き物は何故かランチョンミートのスパム。FBでの反応を見ると、みなさんもお好きなようで…。如何にもアメリカ的という感じがいいのかもしれませんね。








 利用者さんの食事介助して、








 そば正さんで、クリスマス会したんだった。日本酒の写真は忘れた。



 カモ鍋。



 揚げ蕎麦がきと牡蠣。




 揚げそば、



 そして卵焼き。



 後は飲む方に専念してたんでしょうね。写真なし。


 その後のことは、また日を改めてと致します。 ごきげんよう。
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想像以上にそこにある危機

2013-12-28 | 時事

 僕にとっては靖国参拝の良否はそんなに意味のあるものではない。それによって騒いだりすることに対して変な感じを持っているというだけのことかもしれない。このタイミングでどうであるかというのは、それなりの確信があってのことなんだろうけど、それはたぶん国内世論の一定の支持を見越してのことであることは明らかだ。ところが考えていたより反応が鈍いような気になっている可能性がある。それは保護者である米国の反応が芳しくないということの影響が大きいようで、いわゆる事実上のジャッジマンがいまだに現代社会にも健在であるという変な証明になっているような感じになっている。日本はいまだにこどもの国であることに変わりがない。国民の精神性がそうなのだから仕方がないという感じになっている。誰かに認めてもらわないと不安でしょうがないのだ。
 日本には象徴天皇がいるわけだが、宗教で天皇を崇拝しているわけではない。しかし天皇を崇拝している国民はそれなりに多いという感覚はある。それはいったいなんであるかは、案外明確になってはいない。日本人という個人の感情としては、天皇はどうでもいいという言いきれない感情があるとともに、しかし親しく自分の信じるよりどころであるとは必ずしも言えないのでは無いか。しかしだからと言って、西洋的な王ということではないけれど、日本人的な親しみはやはり持っていることであろう。それは戦争の象徴というより、日本人の漠然と持っている良心というようなものと同義である可能性が高い感じがする。戦争と切り離して考えられるのは、天皇そのものが戦争被害者の一人で、多くの民衆と同じ立場であるという感覚とか願望であるということなのではないか。
 先の戦争では日本は加害者だったのだろうか。それは戦勝国が決定しようとしている理屈の上の事だったはずだ。戦争を始める国は、侵略のためというより自国を守るために始められる。そこまで追い詰められて選択肢を失い、さらに国民世論が後押しして開戦になったことはまぎれもない事実である。そうしてあれこれあったのちに戦争に負けたという事実はあるが、だから結果的に加害者になったということだ。そう考えることは反省が無いことと同義であるということからも、理由としての加害者であるという決めつけは、負けたということに尽きるわけだ。本当にはどうだったかはかなり複雑なものがあり、事実として侵略者であり、しかし戦争の被害者でもあるという当然の両面性がある。一方的に決めつけるのは、単に乱暴なだけの話である。勝てば正義ということを主張できるが、ナチスであっても勝っているときは正義だったことも間違いなかっただけのことで、ましてや現代社会において、戦勝国がいまだに正義だと言い続けていることの方が、ほとんどナンセンスという気がしないではない。反省すべきはそういう態度の事だろう。
 参拝は賢い選択ではないし僕はまったく支持しない。しかし、米国が失望することに対しては、反発している中韓の単純さと同等の幼さを感じる。そのような後進的な国民世論を持つ国々に挟まれて、我々は何を思うか。結局は幼い人々の意見が強いという同一性のある世の中であるというだけのことで、現代病の危機が思った以上に迫っているということなのであろう。
 現代社会では国どおしの戦争は考えにくいと思われているが、特に日中間にそのような懸念が広がっているとしたら、やはり大人として何をすべきか、ということになってくるのではないか。負けても大きな犠牲を防ぐ。結局勝つことは娯楽のようなものと心得るべきことのように感じている。気分のために戦争をするのは馬鹿らしい。そういうことを考えて、したたかに生きる術を身に着けるべきなのではあるまいか。
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忘年会は続くよ~

2013-12-27 | 
 これからは、忘年会を中心に。












 で、会議後のランチ。







 けっこうボリュウムありました。ごっそさん。




 で、夜の飲み会。












 結局こうなる。











 そうして忘年会。


















 という感じでした~。
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お互いに変な国同士という露見

2013-12-27 | 時事

 ニュース的には騒いでいるポイントがどうでも良すぎてスルーしたいんだけど、韓国軍に銃弾を提供したいきさつを見ると、ちょっと興味深い。
 僕が最初に思った疑問は、なんで日本が韓国に、というものだったが、何となくはっきりしなかった。何故ならそれこそ同じ同盟国でも米軍の方が装備が充実してそうだから、銃弾だって余分に持っているはずなのではないか。
 理由としては単純で、日本と韓国は似たようなPKO活動をしていて、保有している武器が同じだということである。さらに韓国部隊が支援している地域が急速に反政府化して危険度が増した。つまり予定よりたくさん銃弾を使わざるを得なかった訳だ。
 さらに何故韓国や日本がその様な銃弾を選択しているのかというのは、比較的安全な地域での活動であるという建前であったことから、殺傷力は劣るが軽いため携行しやすく比較的大量に保有しやすいという考えであるらしい。米国をはじめ他の部隊はそれよりも充実したものを所持して赴いているということを考えると、国内世論をかわすために軽微なものを持って行ったツケである可能性が高い。その結果、より深刻に危険度の高い状況に陥ったということも言えるので、単に日本の部隊は比較的安全な所のままだったという幸運があっただけのことで、基本的に韓国と似た状況であると言えるのではないか。
 国内世論がPKO活動に支障が出るように圧力をかけたために、人命の危険が増した結果がこのような展開を招いたと言えるだろう。そうしてニュースになって問題提起をさらにしているということであるなら、これはいったい誰のせいだったのだろうか。やるべきことをちゃんとやるというのは、このような時になって改めて露見する。僕にはそのような日本や韓国の様な国こそ、不真面目に思えてならない。


追伸:さらに撤退を唱える議論があるようだが、事実上直接手を出さない殺人に等しい行為になるわけで、人道的に許されることではないだろう。本当に真面目に考える人が少ないのは、かなり痛いだけでなく、悲しいことである。
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家での法事

2013-12-26 | 
 みなさん、如何お過ごしでしょうか。

 まずは昼にカレー食って、



 


 宴会に備えます。

 いろいろあって、少し前のことですが、家での法事だったのです。




 
























 おでんもあります。



 アヅちゃんも控えております。








 という具合で、後は大宴会でありました。僕はトイレで寝てて、変な日になりました。
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想像力はリアルか ダック・コール

2013-12-26 | 読書

ダック・コール/稲見一良著(ハヤカワ文庫)

 ハードボイルド作品というのは、ある程度気持ちが入らないとその良さが分からないものだ。冷めた感情のままだと、要するにそのカッコつけたおおげささに付きあいきれなくなる。そういう冷めた感情をいかに高ぶらせていくかというのが作者の文章力でもある訳で、それなりに恐ろしいものではないかと推察する。最初からこれが好きなら何でもないことだろうけれど、そういうおつき合いの感覚が分からない人にはなかなかしんどい作品かもしれない。
 そうではあるんだけれど、作者の思い入れたっぷりの話はそれなりに面白い。僕は男としては軟弱な方なので、武器だとか狩猟とか、さらには鳥に関してもそんなに興味は無いのだが、そういう世界が素晴らしいらしいことはひしひしと伝わってくる。俗世界では味わえない野生の醍醐味と、そうしてそのことが分かる人たちの友情が詰まっている。年齢は関係無くて、大人から子供まで。一部男気のあるお婆ちゃんが出てくるけど、基本的に女子禁制。だけどエロ無し、という世界。女を締め出して、男でさえ選ぼうという野暮なんだけどカッコいいハードボイルド世界なのである。
 趣味の世界だからそれでいいとはいえ、しかしながらこういう考え方はそれなりに偏見でもある。俗世界でもハードボイルドは成り立つし、自然の中だから純粋であるとは限らない。むしろハードであるがゆえに、ずる賢く立ち回る方が有利だったりする。そういう意味ではこのカッコ良さが成り立っている背景は、完全なるメルヘンであるとも言える。嫌な奴がそれなりに出てくるけれど、最終的には力の関係性で、彼等は本当に下等な生物に過ぎない。そういうバランスだから溜飲が下がるというのはあるが、本当にハードな世の中は、得てしてそういう訳にはいかない。この世界観を保つためには、リアリティすら捨てるような覚悟も必要なのではなかろうか。
 細部の描写においては、エッジの効いた本当にリアルなものがちりばめてある半面、もっとも重要な社会観は、完全なる作りもので無くては成り立たない。そういう大自然が本当に作りものではないのか。僕の中の疑問というのはそういうことである。自然描写が素晴らしいとはいえ、やはりそれは頭の中の大自然であり、そうして鳥たちの行動なのではないか。
 もっともそういう鳥たちを料理して食うのだけど、これは確かに旨そうなのである。味覚というのは、想像でも旨いというのは面白い。リアルだと残念なことにもなりかねないが、文章なら味覚が裏切られない。なんだか人間とは厄介な生き物だな、とは思うのである。
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拷問のつらさは分かるかも   幽閉者(テロリスト)

2013-12-25 | 映画

幽閉者(テロリスト)/足立正生監督

 田口トモロヲの熱演ということが、いわゆる一言で言うところのこの映画のすべてだ。本当にお疲れ様、という気分になるが、その割に気分が晴れる訳ではない。いつまでも拷問に耐えながら精神的におかしくならざるを得ない訳だが、観ている方だってつきあってそういう気分になる。おそらく1000人くらいは感心した人がいるかもしれないのだが、あとの人にはつらい映画だろう。つらいと逆に面白さを探したくなるのだが、やはりつらいものはつらい。NHKのプロフェッショナルのナレーションみたいだな、ということくらいが、そのような楽しみだったかもしれない。または荻野目慶子がこんな映画に出てたんだなあ、という感慨か。
 テロリストになる心情というのは、あんがい分からないではないのだ。もうそういう選択はしないだろうな、とは思うものの、自分の力ではどうにもならないらしい現状を、たとえ命を散らしたとしても、どうにかなるのではないかという希望を持てるという意味では、テロ行為をしてしまうような熱意というのは、多かれ少なかれ若者にはあるものではないのか。反体制だとか社会的な正義だとか自己犠牲などというのも、若い純粋な人間には芽生えるというのはごく当然のことだろう。まさかいつまでもそんなことを考えているような大人は迷惑なだけの話で、若い頃の麻疹としての左傾思想は、多くの人が通過するトンネルの様なものだろう。しかしながら普通に賢い頭脳があれば、その欺瞞にも自ら目覚めることになる訳だが、その機会を失ったり、そのまま近視眼的な環境で育つことができるような人間になると、やはりそこから抜け出せなくなってしまう。そういう世界というのが本当に恐ろしい訳だが、しかし現実にそういう人間がいる訳だ。抜け出せないばかりでなく、さらに深みにはまっていくようなことになるかもしれない。既に取り返しのつかないことはやってしまっている。後に戻るにも、帰り道が分からなくなってしまうのだろう。
 そういう危険にふれるというのは、通過儀礼として幾ばくかは意味がある。しかしテロリストに限ってみると、通過で済まない人々だったというしかない。一方通行の道に入りこんでしまった訳で、ある意味で人生の決められた不幸な運命を感じさせられる。不幸だが、そこでも死ぬまで人間は何かを考える。その道は自ら望んで歩んできたものなのか、それともこの道を選ばされたものなのか。
 そういう意味では、何もテロリストだけの問題では無いのかもしれない。迷い込んで抜けられないように見えて、実は全部自分自身の考え方次第だった。夢から覚めたいか、まだ寝て言いたいか。決めていいのは自分自身だ。そのことに気づくまで時間のかかる人、さっさと目覚めてしまう人と、さらにどちらがしわせだろうか。人間というのは本当に厄介な生き物だということは、あえて言うしか無かろう。
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何かの第二弾(ほんとに続きだろか?)

2013-12-25 | 
 これはシリーズですからね。
  
 という感じで、昼にそばを食う。これが旨いんだな。



 熊さんも興味津々。



 立ち寄った女の人も笑っておられます。






 日をおいて、昼食。






 ちょっと失念したけど、なんかの会があったのかも。









 虹も出ていた。





 ラーメン食って、




 洋風のおじやの様なものも食った。









 家で蕎麦を食い。







 イベントに出向く。



 打ち合わせして。



 うどんを食う。








 いろいろあったあと、やっと家飯。
 これが何よりの癒しですよね。






 ということで、一時休止できてしあわせであります。


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飯の問題(1)

2013-12-24 | 
 自分が何を食ったか。そんなものを惜しげもなく公開して何になるんでしょうね。よく分からんのですが、そういうものなのです。
 ということで、昼の検食で一番あたりというのは、ほかならぬ、ちゃんぽんです。旨いっすよ~。





 ある日の打ち合わせ風景。



 食った月餅。



 家でボジョレー飲んで、



 また、検食。





 

 蕎麦食って、



 家飯。



 朝飯。







 ある日の集まりの飯。








 で、また検食して、



 家飯。



 朝。



 職場の朝介助して、



 昼も、



  

 たぶん、後日の飯、






 で、晩飯。



 朝食って、

 夜も。






 という感じですね。

 最近つれあいが飯の写真のUPを嫌うものですから、写真撮りも困難を極めております。僕の生きている証明なのに、まことに残念であります。
 
 そういうわけで、不完全な飯情報ですが、ご勘弁くださいませ。(続く、たぶん)



 ところで世間はクリスマスで、職場でもクリスマス会やっても居るんだけど、我が家も今日クリスマスなんだと今さっき聞きました。確かにクリスチャンのうちに育った人間としてそういう日があると知らない訳ではないのだけれど、ちょっとなんにも考えてなかったよ。どうやって家に帰ったらいいのだろう? 今更なんも思いつかん、であります。



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良くも悪くもアメリカ魂   リンカーン・秘密の書

2013-12-24 | 映画

リンカーン・秘密の書/ティムール・ベクマンベトフ監督

 これは明らかに何かの間違いで借りたのだろう。かなり無茶な映画で驚いてしまった。全然面白くない訳ではないのだけれど、僕だって変な映画は好きだけど、それでもこれはちょっとどうなのか、という変な映画である。歴史的なアメリカの建国の父リンカーンがバンパイヤと戦うゾンビ映画なのだから。
 まあ、だからそういう風に楽しめばいいのではある。確かにあんまり知らない俳優さん達が多いし、派手なCGの連発の割には脚本がどうにもという感じもする。いや、企画的に荒唐無稽で、さらに演出はド派手でやり放題である。これ自体はたいした冒険なのかもしれない。
 それにしても家族で楽しむには血が多すぎるし、マニアとしては中途半端なところが多いのではないか。僕としては最初の復讐劇で初めてゾンビものだと分かるまで、人権をまぶしたシリアス人生劇かもしれないと思っていた。まあ、だからそれなりに驚いて呆れてしまった訳だけど、ある程度最初から了解済みなら問題の無い娯楽作かもしれない。
 僕がこういう映画でよく思うのは、相手が強すぎる場合は正義の味方でもあまり正攻法で攻めない方がいいと思うのだ。とてもまともには太刀打ちできないからこそ頭を使う。そういうどんでん返しの技の様なものがあって初めて、カタルシスも大きくなるのではないか。悪いやつはちゃんと憎らしく悪い。そうしてどうしてそうなのかの背景はよく分からないまでも、本当に手ごわい相手なのだ。だからこそ苦悩は深く、馬鹿では対抗しようがない。そうであるのに正義の味方は、どうしてこうも正攻法で相手をのしてしまおうとするのだろうか。普通では勝てないと悟りながらそれをするのは、やはり自分は馬鹿であるということであるか、もしくは自己犠牲の表明であるはずなのではなかろうか。
 ということで、僕は馬鹿映画には敬愛するところがありながら、馬鹿になりきれていない馬鹿映画には一定の距離を置いてしまう訳だ。そこのあたりの感覚が分かる人は多いのではないか。この映画はそういう肝心な馬鹿な所に、どこか正直すぎるまじめさがある。リンカーンだからそうでなければならないというのならそれでもいいだろう。しかしそれこそ実は、欺瞞を隠していることになるのではないか。まるで現代社会のアメリカの様に。
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良くも悪くも大泉洋   探偵はBARにいる

2013-12-23 | 映画

探偵はBARにいる/橋本一監督

 ハードボイルドとコメディは、観る人の気分によって、もともと紙一重になるということはある。しかしながらこの映画は、最初からハードボイルド・コメディである。
 これはしかし考えようによってはそれなりに難しくて、コメディが強いとハードボイルドが決まらないし、ハードボイルドに浸り過ぎるとコメディが笑えない。恐らくキャラクターの所為だと思うが、そういう面白可笑しく時には決めても良い人が、大泉洋という感じかもしれない。
 だから比較していうと、何となく重要な西田敏行などはちょっと浮いてしまっている。本当はいい人ではこれは難しい。せっかくだからいい人が悪いなら意外性ということでいい。その逆も可である。しかし両方を欲張っていると、何となく疲れてしまうのかもしれない。そんな気がした。
 小雪の怪しさも同時にあんまり活きていない。だからこの映画自体はやはりむつかしい綱引きの渦中の中で葛藤しているような印象もある。しかしそれでももっとハチャメチャでいいかというと、それではやはりハードボイルド的に破壊されてしまう。どこかそういう感じが残ってないと、この不条理が上手く処理できない。北海道にあるらしい、哀愁が消えてしまうのだ。
 ミステリーとしても、最初の仕掛けは良い。しかしそのまま謎が活きるのかというと、そこのところは少し消化不良だったかもしれない。いろいろ小道具があって、いい感じにはなるけれど、例えば高島の役どころとか相棒の松田もいいのであるけれど、最後まで活きるかと期待して、しかしまあ、終わったな、という感じかもしれない。この映画はヒットして続編があるというから、そういう部分は続き向けということにはなるかもしれない。ああそうか、映画よりもドラマのシリーズの方がいいのかもしれない。
 僕の中では多少辛口になるけれど、楽しめる映画ではあるだろう。
 そういえば10年程度前になると思うけど、はじめて札幌に出張した時に、この大泉洋という人が矢鱈に看板やらテレビCMなどに出ていて驚いたことがある。聞くところによると既にその頃には全国的にも有名になっていたそうなのだが、僕は初めて彼の姿を見た訳だ。なんというか上手く言えないが、ものすごく二枚目という感じではないし、コメディアンでも無いようだ。そういう人がなんでそうなのか、はじめて見る僕にはさっぱり分からなかった訳だ。しかしながらこの映画を改めて見ると、やはり力のある人なんだというのは分かる。演技が取り立てて優れているということもないが、その引っかかり方がなんとも独特なのだろう。ローカル・ヒーローだけど、そういう枠では無い。なるほどな~、ということで、この映画は尽きるのかもしれない。
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幸運は時には降ってわいてくる

2013-12-22 | 感涙記

 僕のつれあいは時間にはうるさい方だと思う。時間に関しては事前に何度も確認して、ほとんど信じられないくらい早い時間から準備をするよう強いられる。以前の僕は遅刻の常習者だったけれど、そういうわけで散歩の時間が増えたり読書の時間が増えた。
 今回の事件もそういうことで、いわばつれあいの言う時間を信用していた。しかし間違いは起こった。
 息子の合唱の発表会の時間は16時開場、16時半開演だと聞かされていて、場所は大分だったから余裕をもって昼頃家を出た。そうして2時半には着いてしまって、会場を確認して街をぶらついて時間をつぶした。ゆっくり買い物してあんまり覚えはないが、二人で久しぶりに喫茶店でお茶を飲んだ。
 それでもやはり会場には時間前に着いて待っていて、ところが16時を過ぎても会場の敷居をあける様子が無い。中の学生らしき人は見えるので、しびれを切らして聞いてみると、開場は6時からです、とあっさり言われて、それでやっとこちらの間違いということに思い当たった。チケットを初めてみるとPM6:00と書いてある。Mの右端のところを1と見間違えたらしい。お互い最近は老眼が進んでいて苦労することは多くなった。特につれあいは非常に目が良くて、以前は2.0くらいは見えていた可能性がある。そうすると老眼の進みが激しくなるものなのかは知らないが、そういう見えていたギャップもまた大きいのだろう。
 仕方が無いのでさらに2時間時間をつぶし、やっとのことで息子の合唱を見ることが出来た。退屈なものもあったけど、正直感動して生きていてよかったと思った。少なくとも僕は学校行事のようなものにはあんまり興味がないし、息子がかかわらなかったら一生縁のない世界だったことは間違いなかったろう。実に得難い体験といわねばならない。
 実のところ18時半の開演だと最初から分かっていたら、絶対に観に行こうなどとは考えなかったとつれあいはいう。そうであればこのような体験もすることが無かったはずである。年を取って見間違えてくれたお蔭で、このような素晴らしい体験が出来たのだ。幸運というのは、そのようなことを言うのだろうと思う。
 これを機会にもう少し時間にルーズになってくれたらなあ、と思うが、まあ、遅刻をしても何か楽しいということもないので、それは諦めるしかないのであろうな。
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