カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

文化とパニックの相性   EXITイグジット

2021-09-30 | 映画

EXITイグジット/イ・サングン監督

 最初は何かグダグダしたホームドラマのような感じで始まるが、母親の古希かなんかのお祝いで親族が集まってホテルでパーティをしていると、街の中心部でテロなのか自殺なのか訳の分からない男が、大型トラックに積んだ毒ガスをまき散らすのである。都市部は毒ガスの白い霧に包まれて死の街へと変貌していく。ビルに取り残された人々は、ガスの届かないできるだけ上の階へ逃げ惑うことになる、というパニック映画。
 設定が荒唐無稽でガスなのに白くて迫ってくるのがわかりやすい設定である。いくら大型の設備を備えた兵器だとはいえ、都市部の街を覆いつくすほどのガスで充満させる上に、高層ビルの頂上に至るまで、ガスの霧に包んでしまうというはいかがなものか。少しでも触れるようにガスに包まれると死んでしまうらしいのだが、それだと数十万、いや、百万人単位の死者のオーダーになる大惨事ではなかろうか。ヘリコプターで数十人救助するのに、人を選んでいる場合じゃないのではなかろうか。
 まあ、突っ込みどころ満載だけど、それなりにスリルのある設定が続いて、見飽きない展開ではある。最初に壁のぼり(クライミングっていうんだっけ?)の技術に長けた・しかしダメ男が主人公であることがわかっているので、そういう男が日頃の汚名返上で活躍するというのが、痛快であることが見て取れる。
 また、この物語がものすごく韓国社会を如実に表現している点も見どころかもしれない。見た感じ東アジアの似た顔の親戚国家である韓国が、中国や日本といかに違った文化を持った国であるのか、実によく分かるのである。家族間の階級があったり、上のものは下のものに平気で暴力をふるったりする。言葉遣いも家族間の階級で使い分ける。そうして感情が爆発してすぐにパニックを起こす。うわあ、これってホントにかなり違うなあ、と感心してしまった。もちろんデフォルメはあるんだろうけど、実に大変である。こういうパニック映画は、基本的に韓国文化と相性がいいのではなかろうか。
 という訳で実際はあんまりおもしろくないが、そういう風に比較文化的に面白がってみる映画ではないだろうか。
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予約の意味が分かってなかった件

2021-09-29 | つぶやき

 地元の図書館を利用するようになって、これはこれで大変にありがたいし、楽しい毎日になってよかったな、と思うのだが、図書館の仕組みをよく知らなくて、一人で困惑した日々を送っていたのも確かである。それって普通の常識だったのだろうか?
 まず、ネットで図書館とつながることができて、これが見た目ではたいへんに便利な気がしていた。自分のカードとも連動しているから、ログインすると自分が借りた図書が何であるかとか貸出期日も分かる。22日間も借りられるし、最大50冊(最新号でなければ雑誌も含まれる)も借りることができるので、これが無いと分からなくなるだろう。今のところ遠慮して2冊にしてみたが、ふつうに借りていたらこんなことにはならない。無くしたら申し訳ないし、どのみちそんなことをしても読了がかえって遅くなるだけのことなので、おそらく最大50冊借りるなんてしないだろうとは考えられるものの、僕が年金暮らしになったりとか、別の事情で失業するなどした場合には、そういうケースも出てくるかもしれない。
 そういう訳でログインすると右上の方に「マイ本棚」「貸出中」「予約中」「カート」というのがある。マイ本棚は備忘のメモのような感じとだいたいわかる。貸出中には2とカウントされている。クリックすると前述のように内容と期日がわかる。問題は予約とカートだ。
 そういえば予約ができるという最初に説明があったようで、予約できた本は、別の窓口でお取り置きができるようなことを言っていたな。なんという親切なサービスがあるんだろう、と少なからず感動を覚えた。今は図書館に来ているので、本は探して読まなければならないが、それを代行してやってくれるのか……。
 普通、そんな風に理解するんじゃなかろうか。いや、僕がそんな風に勘違いするのはおかしいことのなのか? 
 これは後でパソコンをいじっていて、図書館に探している本があるのか検索して、カートに入れられるとわかった。そうして、カートにたまった本の予約のクリックをして、はて、かなり困惑することになった。それというのも「受取館に在庫の資料があるため、予約できません」という表示が出たのだ。いや、僕は在庫があるから予約したのに、どういう意味なんだ? 図書館の案内文を最初から読み直し、考えをまとめようとしたが、その意味は結局分からなかった。ネットでよそのまちの図書館の案内などを読み、徐々にその言わんとすることがわかるまで、数時間を要したと思う。
 要するに予約というのは、すでに借りられてすぐに読むことができない本を予約しておいて、返却されたら取り置きしてくれるシステムらしい。または、この図書館にはなくて、別の連携(提携しているというか関連する図書館。長崎県立だから、長崎市などにも別の関連する県立図書館があるんだろう。何しろそれが移転してきたんだから:これは長崎県民しか知らないことですね。すいません)図書館にあるとか、またはひょっとして購入する予定に入れてくれるなども多少は期待できるシステムなのかもしれない。
 それはそれで便利かもしれないが、ではカートというのは何か誤解を生むものではないか。そういうのは購入する前段階だと簡単だが、しかし具体的にすでに仮にキープできているような錯覚を起こしてしまう。それを予約に移すんだから、てっきり取り置きだとばかり思っていた。
 それにしても実際のところは、在庫があるはずだけど、なぜか探せなかった本が中心になっていて、それは何故だろう、とも思っていた。詳細を見ると、閉架(プラス人の名前が続く場合もあるようだ)というのもある。表の書架に出すのも限りがあるために、別の場所に保管してあるという意味だというのも、ネットで他の図書館の案内で読んで理解できた。なるほど、それで見つけられなかったのだ。
 僕が借りたい本の多くは、結局は係の人に尋ねて手に取る仕組みであるらしい。よっぽど人気がないか、古いか、またはその両方を兼ね備えた本なのかもしれない。だから買えなかったのかもしれないともいえる。
 さらにホームページには人気の予約の本のリストがあって、これを見て僕は少なからずショックを受けた。そこらあたりの本屋でも買える本ばかりじゃないか。さらにおそらくベストセラーとも連動していて、そうではあるが、なんとなく流行りとは少し古い。これは作家や出版社への営業妨害ではないか? まあ、よく考えると行政のやることだから、そういうことに無頓着で仕方ないが、図書館の根本的な役割として、何か大きな問題がありそうな気がする。
 また出たばかりの新刊書だから、高くて買えないんだ、という理由がありそうなことは分かる。売れる本なんだから、ちょっと待てば廉価版(文庫など)が出るだろうにな、とは思うがごもっともだ。でも少し前のベストセラーなんかがいまだに予約で出ていて、そんなのネットで買えば1円のものもあるだろう(送料が300円くらいするかもしれないが)。まあ、それもいいか……。
 でもまあ僕に関して言えば、図書館はやっぱり販促機関にはなっているはずだ。それというのも検索しながら結局本を買ってしまうことになったし、図書館で確認して買うことになったというのもあった。そうして借りて読んでみて、やっぱり書き込みできないし、読んでしまったとしても、面白かったらやっぱり買い直すだろう。買い直すけど、その前にやっぱり事前に読んでしまう。図書館というのは、つまるところそういうものなんじゃなかろうか。
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状況はどんどん悪くなる   ザ・ファイブ・ブラッズ

2021-09-28 | 映画

ザ・ファイブ・ブラッズ/スパイク・リー監督

 ベトナム戦争で共に戦った退役軍人の仲間たちが、半世紀の時を経て、再びベトナムに舞い戻る。目的は戦地で亡くなった上官とともに、その場に埋めた金塊を持ち出すことだった。
 ベトナム戦争で傷ついた当時の兵士たちだったが、そのような命がけの戦場に金塊を埋めていた過去があるために、再び舞い戻ってくる。ベトナムに愛人がいたものもいるし、息子が勝手についてきた者もいる。ジャングルの中の金塊は貴重だが、引き取り手も見つけなければならないし、ジャングルには未だに現地のベトコンの残党のような連中もいる。そうして当時の地雷だって、埋められたまま処理されていないところがあるのだ。騒動があって、再び当時のような戦闘を、繰り広げなければならない状況に陥ってしまうことになる。
 多少尺が長くなって、中だるみ気味になるけれど、まるでアメリカが当時はまり込んだ、泥沼化してしまったベトナム戦争が、結局は同じように再現されてしまうことになるようだ。元兵士たちは打開するために必死に闘うが(それに戦闘の覚えがあるわけだし)、陥ってしまった窮地はなかなかにむつかしい。人間関係もドロドロになってきて、重くのしかかってくる。望みといえば金塊のみだが、せっかく一度は生きて帰ったはずなのに、ふたたび命の危険は増すばかりなのである。
 また、元兵士たちは黒人ばかりだ。もちろん米兵は様々な人種が混ざり合って戦っていたはずだが、黒人だから苦しい立場で戦っていた現状もあったのではないか。だからと言ってベトナム人からすると、許される存在ではないのかもしれない。また、米国の国内の機運も戦争に対する風当たりは強かった。いったいあれは何のために戦ったのだろうか。そういう疑問が、おかれている窮地と対峙して、何か本当に割り切れないものに感じられる。そういう演出もなかなかに凝っていて、何やらどんどん嫌な感じになっていくのである。
 もちろん映画としてそれは正解なのである。現地ベトナム人の悲惨な状況も含めて、重層的な反戦物語になっている。そういう意味ではうまい映画、ということができるかもしれない。決していい気分になる映画ではないけれど……。
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我が町に図書館があったんだった

2021-09-27 | 感涙記

 本は買って読む派を主張してきた身だが、転向することにした。
 それというのもミライONである。これまでも数度立ち寄り、楽しませてもらってきたが、本を手に取り少し中身を覗かせてもらって、そうして面白そうだったら、アマゾンで注文する役割として利用していた。それでもずいぶん役に立ったし、実際に本を手に取れるというだけでも、素晴らしい体験と言えた。わが町にも本屋が無い訳ではないが、その内容は驚くほど、がっかりする内容である。残念だがこれくらいの人口のまちだと仕方のないことかもしれない。現実をどうこう言ったところで始まらない。図書館があるんだから。
 でもですね、せっかくだからカードくらい作ったっていいじゃないか、とふと思った。どうせ使わないんだから作ったってしょうがない、と思ってたけど、自宅などのネットで検索後、そのまま本を予約できることを知った。確保出来たらメールで知らせてくれるんだと(これは後日誤解だと知ったが、それはまた別の話として……)。
 図書館は素晴らしいのだが、今のところコロナ禍である。定期的にアナウンスが流れて、早く帰れと言われる。無視しているけど(これは内緒にしてください)、ちょっと心苦しくもある。勉強して座っている人などは、平気で長時間座っている(何しろ僕より前に来て僕が帰るまで居るんだから間違いない)。僕も負けてはいられない(何の勝負だ?)。
 でも家で予約出来て、本を取りに行くだけなら文句は言われないのではないか。それに本を買うか買わないかの確認のために手に取るといっても、そのまま読んだところで何の問題もない。普段は本に書き込む習慣があるが(だから買って読んでいるわけだが)、ノートをとりながら読めばそれも問題ないんじゃないか。学生の頃はそんな風にして読んでいた頃がある(当時は本に書き込む勇気が無かった)。やればできるんじゃないか(たぶん)。
 でもカードは図書館に行かないと作れないということで、ネットで少し下準備して免許証見せたらすぐにカードが完成して、いろいろ口頭の説明を受けて、準備完了。すぐに50冊まで借りていいんだそうだ(太っ腹だ)。
 すぐに館内のあちこちにある検索機でどこの棚に何の本があるというのを確認してメモに取る。とりあえず10冊くらい検索してみる。無いのが1冊。貸し出して無いのが一冊。そそくさと探しに出てみると、どういう訳か無いのが3冊。でも5,6冊は手に取って中身を確認できた。なるほど、
 後で確認してみると、見つからないのは閉架の棚にあるもののようだ。係の人に言って探してもらう仕組みなんだろうと思われる。確かにちょっと頻繁に貸し出されるような本ではないのかもしれない。
 検索した本を探すだけでも楽しいが、やはり書架にある別の本の背表紙だってついでに見てしまう。おっと、こんな本もあるじゃないか。あれれ、そういえばこういうのも聞いたことがあるな。なんてことが起こる。以前はリアル本屋通いも当然していたから、なんだか懐かしい感覚だ。そういえば、こうやって以前は本と出合っていたわけだ。今は読んでいる本やネット経由でしか本とは出合わなくなってしまった。それでも毎日それなりに忙しい訳だが、こういうリアル感というのは、やっぱりいいもんだ。もうここにいつまでも居たい感じがする。しあわせだ。
 しかしながら時間には限りがある。手に取った本をもってテーブルに着いて目次や内容をパラパラ確認する。なるほどこれは歯が立たないな、買って読むよりない。というのをいくつか確認したり、またはこれは見送ってもよさそうだ、というのもだいたい分かった。そのまま名残惜しい感じのした二冊を手に取って、貸出機にかざしてカードで確認してレシートみたいなのが出てきて貸出完了。うーん、素晴らしいではないか。ちょうど目の前に係員の女性がいたので、ほんとにこのまま(借りて)帰ってもいいですか、と聞いてみて、もちろんいいですよって言われて、うれしかった。もう子供である。
 まあ、持っている本を読み進むのもあるんで、自制はしなくてはならないだろうけど(というか、もう物理的には過剰過ぎてもいるわけで)、これはこれで生活の一部になりそうだ。もっともコロナ禍なんでできることかもしれないし、行けるところまで行ってみよう。
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本を愛する人を愚弄してはいけません   ビブリア古書堂の事件手帖

2021-09-26 | 映画

ビブリア古書堂の事件手帖/三島有紀子監督

 子供のころ祖母の蔵書を触ったために激しい折檻を受け、そのショックの後遺症で活字だけの本を読むことが出来なくなった青年がいる。祖母が死に、その蔵書を改めて手にすると、それは夏目漱石の全集本の一冊で「それから」であった。そうして奥付には漱石の贈呈のサインがある。興味がわいて、古書を専門とする店に寄って確認してもらうと、そのサインは偽物だといわれてしまうのだった。さらにこれは個人情報なので、詳しいことは教えられないと……。
 古書が好きでたまらない人々が、その古い本にまつわる背景で、さまざまな人間模様を推理することができる、ということかもしれない。しかしながら同時に古書蒐集というのは狂気じみていて、希少な本は暴騰してとんでもない値段になってしまう。しかし何としてでも手にしたいという思いの強い人間が現れると、盗みや脅しまで発展してしまうのである。そういう狂騒に巻き込まれた本をめぐって、さらに大きな事件性の高い騒動に巻き込まれていくのだった。
 前半はそれなりにいい感じなのである。しかしながら、恋の話も混ざりながら、結局古本の価値などどうでもいいように思えるような行動を、登場人物たちは繰り広げてしまう。早々に事件を表面化させることで、被害も少なく済んだだろうことを、自分たちの命まで危険にさらして、問題を持ち越してしまう。犯人も悪いは悪いが、これだけの推理力を持った人々なので、容易に誰が怪しいか特定もできていたはずだ。犯罪を助長させたのは誰なのか、ということになると、主人公たちの罪も重いのではあるまいか。
 現代の活劇はそうだけれど、実際は古書をめぐっての過去の恋の物語も重要である。しかしながらこれも、なんだかちょっと残念な話のような気もする。それはやっぱり現代へのつなぎ方の問題もある。むしろつなげすぎているあまり、おかしくなっているというか……。
 そういう訳で、なんだかとてもイライラさせられる。この人たちは頭がおかしいのではないか。いや、率直に言って馬鹿なのではないか。映画を流しているモニターの画面に向かって、「バカ」っと叫んでやりたくなる。もう本当になんとかしてくださいよ、頼みますから。そういう愚作なんであるから、お勧めできません。
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母と行商の魚売りのおばさん

2021-09-25 | 母と暮らせば

 母は元気に暮らしているが、やはりいろんなことが衰えていて、自分自身で単独でできることも随分限られてきている。まあ、それでもなんとか同居生活であれば送れている訳で、それはそれでよいこととはいえる。そういう中にあって、もう完全に母が料理をすることは無くなった。多少薄情に聞こえるかもしれないが、僕には「おふくろの味」を特に懐かしむような感情は少ない。少ないが、まったくないとは言えない。もう絶対に食べることが許されなくなったということを思うと、まあ、それなりに残念とはいえるものもある。
 これは宴会に限られたことだが、人が集まるとやはりいろいろとご馳走を作ってくれた。今考えるときょうだい自体も多かったし、それに何人かやってくるだけで、それなりの量を作らなければならなかったわけで、やはり大変だったろう。そういうときの定番が「皿うどん」だった。まず庭に七輪を出して太麺を焼く。そうして心なしか固麺にしておいて、あとは魚介類や豚肉と大量のキャベツ玉ねぎなどの野菜、かまぼこなどを中華鍋からあふれるくらい炒めた後にとろみをつけ、そうして焦げ目のついた太麺にどちゃッと載せる。まあ、長崎県ではふつうの光景であるが、僕のうちは長崎市内ではないので、めったに細麺ということは無かったと思う。まったくないとは言えないが、細麺で揚げた麺はスーパーなどで買ってこなければならなかったはずで、重さはそうでもないかもしれないが、かさばって大変である。母は車の免許を持っていなかったので、大量に買う代わりに店から配達してもらうか、手押し車などを押して買い物をしていたのではないか。昼間のことは僕は子供だったのでよく分からないが、年頃になると父は帰ってこなくなったので、買い物にも困ったことだろう。ああいう大量の食材を買っていただけでも、感謝しなくてはならない。
 そういう豚肉を使った野菜を炒めたような料理は他にもあったが、母は昭和一桁生まれなので、肉を使った料理はあんまり得意じゃなかったのではないか。姉は洋風を好んだようだし、僕らも学校で何を食べたとか、友達が何を食っているらしいという話はしたはずで、さらにテレビも見ていたはずだから、ハンバーグなどの肉料理もしてもらったけど、普段の食事は圧倒的に魚が多かったと思う。焼いたものや煮つけであったが、さて、あれは何だったっけ。アジやイワシというのが主で、どういう訳かサンマというのはあまりなかった。当時のことなので、マグロということも無かっただろう。だからあれはブリに似た何かであったはずだが、そうではなかったかもしれない。その何かでかい魚のあらなどを、長い間ほじくりながら食べたという記憶がある(とにかくあれは、子供には食べにくい代物だ)。それが特に旨くて懐かしいという思いは不思議と無い。子供は薄情である(それは僕だが)。しかしながら、魚のフライは僕はいまだに好物で、たぶんあれはアジフライであった。焼いた魚を食べていると、よく骨がのどに刺さって苦しんだ。アジフライではそういうことは無い。学校に行って授業中でものどが痛かった記憶があるので、朝飯で魚の骨が刺さったまま学校でも苦しんだ経験があるのだろう。アジフライはおいしいうえに、そのような記憶とは皆無だった。しかしながらあれは今考えると、行商のおばさんが山の上の僕のうちに売り切れずに余ったアジやみりん漬けにした干物などを売りに来ていたものを、出していたのだろうと思われる。時々信じられないくらい硬くて身のほぐれない魚なども食べていたので、やはりあれは売れ残りだったろう。そうであっても別に悔しい思い出ではないが、行商のおばさんも大変だったろうし、それを買った母というのも、友達がいなかったのだろうな、とも考えてしまう(母は性格が悪いのと、車の免許がないので、友達が極端に少ないのだ)。そういうものは特に美味しく食べたわけではないが、母や魚売りのおばさんが、お互いになんとなくかわいそうに思えて、しみじみした思いにとらわれてしまうのであった。
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よく考えると、日本の民話的かも   陽だまりの彼女

2021-09-24 | 映画

陽だまりの彼女/三木孝浩監督

 仕事の相手先の担当者が、中学生時代の思い出の転校生だった。当時から恋心のようなものはあったが、二人の距離は急速に近づき、付き合うようになっていく。しかし彼女には、重大な秘密を抱えていたのだった。
 一応普通の恋愛劇っぽいのだが、しかし内容はファンタジーというかSFというか。僕は知らずに見たので、ええっそれってあり、とつぶやいてしまった。そんな話のような仕掛けがあるんならこの展開は別だけどな、と思ったらそのまんまだったので、却ってあり得ないことのように考えてしまったのかもしれない。そういう意味ではありえないほどベタな物語の仕組みといえる。そもそも上野樹里って女優さんが天然系の人で、ちょっと人間離れしているところはある。しかしそれでいいのだと言われると、ちょっと考えてしまうところがあるのだが……。
 そういうわけで、あんまりまじめに考えてもいけないのかもしれない。そういう仕掛けなんだから、と自分に言い聞かせる必要もあるかもしれない。また、主人公の男性が松本潤で、この役が引っ込み思案のいけてないはずの男性役で、これもがまた、今度は全然合ってない感じなのである。いや、演技としてはそういう感じになっているんだが、はっきり言って、そういうキャラじゃないでしょ、って突っ込みたくなる感じだろうか。ある意味では貴重なのかもしれないですけど。
 なんとなく恋の邪魔者も存在するが、それほどでもない。相手の方が有利な立場にありながら、それも活かせている感じではないし、滑ってもいる。だいたいこっちが有利なんだから、余裕ありってところだろう。怖いお父さんだって、そういう雰囲気はあっても、障害になってない。むしろ心配して応援してくれそうだし。
 もっともそういうスリルを味わう作品ではないようで、本当は悲しみをかみしめる物語なのだろう。だからこそ、本当はそういう駆け引きや困難さが際立つはずであったが、しかし相手が相手なんで、これでよかったのでしょうね。はい。
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食レポか、食ドラマか

2021-09-23 | ドラマ

 netflix観てると、やたらと食べ歩き物のドラマをお勧めしてくる。何か僕の履歴に問題があるのか?
 元々だいぶ以前に深夜食堂は観ていた。おかまに惚れられるやくざの物語のおかげで、また赤いウインナを食べるようにもなったし……。
 それでこの深夜食堂のシリーズがそれなりにあるようだ。これは料理を食べにくる人々の群像劇になっていて、深夜の食堂に来る客というのは水商売系が多くて、さらに何か人間関係に問題のある人々が多い。そういう人が、食べるものと関係のない内容のエピソードが繰り広げられる。多少大人向け男女の機微を扱ったものが多いようだが、時間の関係もあるのか、かなり断片で終わることも多い。でもまあ、そういうもんかもね、という楽しみ方をすべし。
 朝ドラを見ている人たちの間でちょっと話題になったらしいのが「きのう何食べた?」らしい。同じ出演者が違う立場で出会うのが面白いということだろう。主人公の二人はゲイのカップルで、そういう境遇とはどういうものなのか? ということを交えていろいろ食べることになる。基本的には食事を作るのは、弁護士のシロさんの方だ。こだわりが強く、主婦的な感覚を持っていて、そういうのに向く立場ということだろう。確かに料理の腕はあるようで、作られたものは結構おいしそうです。
 この二つは、食べ物を食べるが、物語の力で観る作品ではある。夜の街の事情のある人々と、ゲイの人たちの悩みとはなんだ? ということか。どちらともなるほどね、ということなんだろう。
 さて、あと二つ。
 三つめは「孤独のグルメ」である。これも長寿番組で、結構前に深夜のものを録画して観ていた。でもまあ面倒になって観るのやめたのだっけか? しかし僕は漫画の方も持っていて、漫画にはひどく感心した。ドラマも悪くないのだが、あんがい別物である。
 しかしこの別物ドラマというか食レポの井之頭五郎(松重豊)が、なんとも素晴らしいのである。みんな知ってるだろうからいまさらだが、こんなにいろいろ食って味のある人物はそんなにいない。自分の心の声アナウンス実況も良くて、どうかしているよ、まったくこの人は。
 で、まあこれの亜流であろうけど、だいぶ若くなったのが「絶メシ」である。正確には「絶メシRoad」であるらしい。車中泊してその少し遠くの街で、ひょっとするともう店の引継ぎ手などがいなくなり絶滅してしまうかもしれないごはんであることと、絶品メシをかけてそう呼んでいるらしい。基本的には食レポで、心の声も孤独のグルメと同じようなものである。確かに紹介されている店は、一風変わってはいるのだけれど……。
 というのをグルグル見続けていると、なんだか自分が馬鹿ではないかと思えてくる。面白いようでいて、ちょっとむなしくなるのかもしれない。外に出て、何か食った方がいいのではないか。まあ、それがあんまりできないから、こんなことしてるんだろうけれど……。
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人の運命が見えるようになると   フォルトナの瞳

2021-09-22 | 映画

フォルトナの瞳/三木孝浩監督

 飛行機事故から奇跡的に生き延びることのできた少年は、その後車の塗装工をしている。ある日人の姿(手など)が透き通って見えることがあることに気づく。そうしてある透けて見える人の後をつけていくと、その人は車にはねられて死んでしまう。どうも人が死にそうにある運命だけは、分かる能力があるらしい。どうして死ぬのかは分からないが、その後何かが起こって死ぬことがあるらしいことから、その人の未来の行動をかえることで、死を回避することが可能らしい。しかしそうやって運命を変えて人を助けると、自分の寿命が減るということも分かるのだった。
 そうして一人の女性と付き合うことになりしあわせになるが、ある日多くの人々の姿が一様に薄くなる現象に遭遇する。付き合っている彼女もまた薄くなっており、同じ時刻に電車に乗る人々が一様に薄くなっていることから、大きな事故が起こることが予見される。男はどうしたら、その事故を防ぐことができるのだろうか?
 原作は百田尚樹の小説らしい。ネタバレっぽいが、そういう訳でこの作家のある傾向がみられる作風と言えるかもしれない。しかしながら映画であり、映画的なエンターティメント作品っぽく作られているのかもしれない。残念ながらそういうところが非常に馬鹿っぽいイライラ感を観るものに与えていて、不快感の方が強い。彼らがどうしてこういう行動をとる前に、一応の説明を果たそうとしないのか、まったく釈然としないためである。特にそういう荒唐無稽な話であろうとも、彼女はそれを理解していることは明らかなのだ。そういう場合は彼女を救う方法はもっと単純で明確にできるはずだ。自分の立場を危うくする方法ばかりとるので、ますます選択肢は狭まって窮地に勝手に落ちていくように感じられる。これではただの馬鹿が馬鹿な行動をとっているだけではないか。それが美しいというのであれば、勝手にどうぞ、である。
 他にもそういう間延びした表現が多いのだが、そういうのが一般の映画を観る客に対する分かりやすい演出のためだとしたら、それはそれで何かが間違っている気がする。そのためにこのお話の良さが損なわれているように感じるからである。
 例えば、運命が見えるために、一つだけその未来を知りながら何もしないエピソードがある。それはその人が嫌な奴だからである。そういう場面で、最初はそれなりに喜んで、しかし自己嫌悪に陥るような、そういう葛藤があるようなことになれば、もっと深みが増したかもしれない。などと考えながら観ていた。そういう人間くささこそ、この能力に秘められた面白さのように思うのであった。
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やっぱり今回の展開次第で、次世代はそれなりに変わるかも

2021-09-21 | 時事

 自民党の総裁選が活気づいている。内容的に本当は問題の隠れているものや、まだはっきり政策の違いが見えにくいものがあるものの、でもまあいろいろと今のうちに議論を戦わせることは、日本の将来を考える上では悪いことではない。また、この四人の候補の語りの誠実な感じは、今までの日本の政治家とは違う、時代の変貌をすでに予感させられる。
 現在の状況だから自民党の総裁が日本の首相になることは間違いない訳で、共和制の国でいう大統領選と同じことである。でもまあ国民の総てが投票できるわけではないので、ちょっとモヤモヤする人もいるかもしれないが、では日本で大統領選のようなことをすると、本当の政治家でない人の方が勝ってしまう気もするし、もうちょっと議論は必要かもしれない。国民主権ということにはなっているので、ルールを考えることは可能である気もするけど、今の政治家にはそういうことをやる気になる人はたぶんいないだろう(要するに不可能です)。
 そのあとに衆議院選があるので、あと二か月程度はずっと様々な選挙ドラマが展開されることになる。もともと自民党としても、その選挙対策のために人気のなくなった菅さんを下すことをしたので、このような展開になった。岸田さんとしては、菅さんとなんとか戦わなくては、と思っていたのに、違う敵と違う展開の戦い方を強いられることになった。決戦投票になると分があるとされるが、想像以上に高市さんの伸びもあるために、ちょっと苦しい戦いである。永霞会の後押しでなんとかして首相になってほしい岸田さんとしては、もともと引けなかったのだから、国会議員票を積み増して死守するしかない。おそらくトップは河野さんだろうから、そのあとの決戦投票で逆転して勝てば、民意とは違うと批判を受けることは必至である。そういう輿論やマスコミ批判などを見越して、実際の決選投票では衆議院選で苦しい戦いをしている議員が離反するかもしれない。
 ということになると、野田さんは一応残念だけれど今回は勝敗としては関係ないので(政策等魅力のある人だと思うけど)、河野さんと高市さんがどうなるにかかってくる。河野さんはとりあえず全体としてはかなり有利だが、過半数に届くほど人気があるのかは、どうなのか。石破さんの人気も取り込んでいるとはいえ(また小泉さんまで応援に回っている)、過去の言動から衆議院選で比較的楽に上がる古い議員からは不安視されているわけで、いわゆる人望がない。勝った後が大変で、足を引っ張られる要素が多い。政策的には現実的に路線を豹変させるだろうことは間違いなかろうが、本意ではないだろう。自分自身がそのことに耐えられるのだろうか(激しい性格のようだし)。
 となると、やはり誰が勝つのかのカギは高市さんということになる。安倍さんが推しているし、靖国参拝や夫婦別姓反対など、古い体質の自民党からは人気がある保守色が強い印象を持たれているけれど、そういう差別化という意味ではいいのかもしれないが、現実には必ずしも保守一色ではなさそうだ。日本初の女性首相に! という機運が本当に高まると、化ける可能性もあると思うが、そういう特色が本当に国民的な議論になるのか、という感じもする。結局は岸田さんと河野さんの運命を握る存在として、最後まで目が離せないということかもしれない。しかし岸田さんをひっくり返して二番目に入ることができると、決戦投票でも勝てる目はあるのだから、やはり可能性としては面白い存在である。
 しかしながら無理をして出たなら、とりあえず勝てた可能性の高い菅さんがここまで考えて総裁選を引いたとしたならば、その功績は大きい。もともと失言が少ないのと説明が最小限だからいいとされたのに、説明が足りずに理解がされなかったとか、誰がやっても日本ではワクチンも開発できなかった現状からおんなじことになっただろうコロナ対策を失策のように言われて(担当大臣は河野さんだし)、もともと嫌々ながらだったけど説得されて首相になったのに、さぞや面白くなかったことだろう。休まず働いて成果を積み上げながらそれは無視され逆に叩かれて、何も報われない日々だった。しかしながら自民党の台所事情として現在は議員さんが多くなりすぎていて、やはり誰がやっても勝てそうになかった選挙を前にして(これ以上自民党の衆議院議員を増やすのがそもそも至難の業で、今がピークなら減るよりない状態だったと言える)、事実上勝てる展開を作り出したことになるわけで、結果論だけど、凄い人だったかもしれない。なんだか日本人の感情からすると、ちょっとかわいそうになって人気も戻っているんじゃなかろうか。それでもやはりやめることには変わりなく、今後も何か強い影響力があるとは考えにくい。そういえば外遊どうするんでしたっけ?
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お話はいいが、映画の出来はどうかな   アイネクライネナハトムジーク

2021-09-20 | 映画

アイネクライネナハトムジーク/今泉力哉監督

 電話で話をしているだけの相手とだんだんと恋に発展していくことになるが、その男は仕事が忙しくなるのでしばらく電話できなくなるという。男の姉の話によると、話題になっているボクシングのヘビー級の試合で日本人選手の男が勝てば、会おうと思っているらしいということだった。女はそんな他力本願なことでいいのか、と腹を立てるのだったが……。
 訳あって街頭アンケートをしているのだが、誰も答えてくれる人がいない。そういう中一人の通りがかりの可愛い女性が、アンケートに応じてくれる。その手にはボールペンの文字で「シャンプー」と書いてあるのだった。
 いわゆる群像劇で、その他にもこの登場人物に絡む人々の、それぞれの事情による物語がある。原作は伊坂幸太郎で、元は短編集なのだという。それぞれのエピソードには、しっかりと伏線の張ってある小さなトリックが隠されている。時間軸もあるが、そういう小技にあっと驚きながらそれぞれのエピソードなり物語の展開を楽しめるようになっている。演出は、なんとなくだらだらした感じだけれど、そういうのが脱力系の面白さになっている可能性はある。
 物語の軸になっているのは、三浦春馬と多部未華子との関係ではあるが、二度目の出会いの割に、その後はどうなんだろうか。むしろ三浦の友人の娘が高校生になってからのエピソードの方が、人生の機微を感じさせられる。まあ、色々楽しめるんで、それでいいのだけれど……。
 舞台が仙台になっていて、ああ、そういえば駅前はこんな感じだったな、と懐かしい。ボクシングのヘビー級で日本人がチャンピオンになるなんていう設定が、かなりミラクルで、さらに10年越しに試合をまたやるなんてことも、多重にミラクルだ。そういう魔法のかかる街が、仙台なんだろうか(単に作者が仙台出身だからのようだけど)。
 この群像劇で一つだけ最後まで納得できなかったのは、学生時代のマドンナと結婚して自由にしている主人公のわがままな友人のエピソードだったかもしれない。そもそも子供ができる関係になったのがどうしてなのか納得できなかったのに、それが理由ってないんじゃないでしょうか。まあ、そこらあたりは確認してみてください。その娘と彼氏のエピソードはいい話です。やっぱり恋愛は若いからいいってのはあるようで……。
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にんげんだもの、仕方ないですかね

2021-09-19 | ことば

 池澤夏樹の随筆で藤沢周平の「うしろ姿」という短編と山本周五郎の「ちゃん」がいいとほめていたので、どちらも短編なので読んでみた。
 読んだ順は逆だが、まず「ちゃん」の方から。飲んだくれの火鉢職人の男がいて、これが時代遅れの火鉢の製法にこだわり、新製品などに押され、売れなくなっている。収入は増えないし子供は多いし、そういうことでふてくされて毎日飲みつぶれているらしい。以前の友人が、力を貸すから別の仕事をやった方がいいというアドバイスをくれたりする。職人として力があるんだから、何か他のことでも十分才覚が生かせるだろう、という感じかもしれない。そういう友人たちの気持ちはありがたいと思いながらも、自分には火鉢職人として、ちゃんとした仕事をするということを生きがいにしているところがある。しかし子供には迷惑をかけているし、本当に心が苦しい。それを妻も飲み屋のおかみも子供たちも、みんな理解してくれている。そういう自分にも合点がいかないから、やはり今日も飲んだくれてしまう……、というお話である。なるほど、人間模様がよく描かれていて、お話としてなかなかの人情噺ということになるだろう。
 もう一つの「うしろ姿」である。飲んだら酔っぱらって友人でも知らない人でも連れて帰ってくる男がいる。以前よりは稼ぐようになってはいるものの、狭い長屋の家に子供も寝ている。夫婦生活だって困るようなところに何で知らない人まで泊めなければならないのだろう。しまいには泊めた男から泥棒までされてしまう始末である。いい加減にしてほしいところ、今度は乞食同然の婆さんを連れて帰ってくる。ひどい悪臭もするしいくら何でも困るのだが、しかしなんとなく亡くなった舅に似てなくもない(うしろ姿が)。なんとか何日かなら、ということでふろに入れて小ぎれいにしてやると、今度ははぐらかして何日も動こうとしない。子供たちとは仲良くなっているし、近所からは偉いと褒められたりして、簡単に追い出すことが困難になっていくのだった。
 どちらも確かになかなかに面白い。いい人たちだが、しかし困ったことには心の葛藤が激しくある。どうにかしないことには苦しさから解放されることは無い。ある程度正解らしいことは分かっちゃいるんだが、とてもそれができそうにない訳である。
 なるほど、名作というのはこういうものかもしれないな、と堪能して読むことができた。
 ただし「うしろ姿」の中の言葉の使い方で、一つ気になることがあった。お婆さんを追い出したとして、近所などから何か言われたってかまわないところだが、しかしそれは「にんげんとして出来ないことだ。とおはまは思った」という一文があるのだ。藤沢周平の作品は架空の藩の中の物語が主だが、やはり江戸時代のいつかであろう。だからあえてひらがなで「にんげん」としたのだろうと思うのだが、この頃に人間としてどうだという考え方は、おそらくなかったのではなかろうか。しかしながら現代人の読者である僕たちからすると、こういう人道的な感情は、人間としてどうだという表現の方がしっくりする。なかなか難しい問題なのである。
 そもそも道で婆さんを拾ってきたとして、今の行政の福祉事務所などに相談するのが筋だし、そのまま引き取ってどうだという物語は書けない。昔の話だから成り立つ設定だろう。しかしその感情を複雑ながら損得なしで描こうとすると、何か適当な言葉がないのだ。いや、あったかもしれないが、現代人の僕らにはわかりにくいのではないか。
  小説っていうのは、やっぱりそれなりにむつかしい文芸だな、と改めて思います。まあ、そんなことに茶々入れる読者が、そんなにいるもんでもないでしょうけどね。
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強い思いは抗いがたい   寝ても覚めても

2021-09-18 | 映画

寝ても覚めても/濱口竜介監督

 最初の舞台は大阪で、写真展に行くと気になる男がいて、なんとなく後をついていくと、そのまま声を掛けられ接吻される。衝撃的に出会って運命的に激しく惹かれあいながら付き合っていたのだが、不思議な男(麦)バクは、ある日失踪してしまう。時は流れ東京の会社のオフィスにコーヒーなどを納めている喫茶店で働く朝子は、バクと瓜二つの男亮平と知り合う。あまりにバクと似ているために(東出の二役だから当たり前だけど)最初は避けているが、亮平の方はそういう朝子に猛然とアタックする。そうして二人は付き合うことになり、やがて結婚しようとするのだったが……。
 とにかく知り合ってから接吻ばかりしている、盛りのついた二人の姿が何度も描かれる。もともと激しく愛しすぎているあまり、その感情を持て余している。しかし男は消え、代わりに瓜二つの上に、より堅実ないい男が現れる。そうしてやはり激しい感情はよみがえるのだが、それは、もともとのバクへの感情なのか、それとも新しい亮平へのものなのか、ということなんだろうか。そうして衝撃的な展開へと流れていく。
 後で聞いて分かったが、この映画をきっかけに主演の二人である東出と唐田は不倫関係になって、しばらく(今もなんだろうか?)激しいバッシングを受け、どん底生活に陥っているらしい。そうなのか、という思いで振り返ってみると、映画の演技とはいえ、本当に二人は激しく惹かれあって、求めあっている姿が真実めいて見える。唐田の演技は未熟さもあって、おぼつかない感じもあるが、そこがかえって一途な激しい思いを秘めている若い女という雰囲気を醸し出している。この二人の愛は、抗いがたく本物ではないのか(映画だから偽物なんだけど)。
 実際には女の行動にも、そうして不思議な男バクの行動にも、僕はまったく共感が持てないが、やってしまったものは仕方がない。そういう理屈ではない男女の激しい感情が、いや、正確には女の心の動きが見事に描かれている。なんだか凄いなあ、という思いで最後まで少し圧倒されながら観ていた。こんなことが頻繁にあるようでは世の中困ったことにはなるかもしれないけれど、あれば面白いかもしれませんね。
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エリックとは何者だ   エリック

2021-09-17 | 読書

エリック/ショーン・タン著(河出書房新社)

 絵本。ショーン・タンの絵本なのにずいぶん安いな、と思ったら、文庫本より小さい絵本だった。訳は岸本佐和子。
 以前に交換留学生のエリックを受け入れることになったいきさつを、物語にしている。エリックは本人が愛称のように言っていた名前で、本当のところはどのように発音していいか分からない長い難解な名前らしい。何しろ外国人だし。しかしエリックは台所の戸棚の中で勉強して眠るのだった。母は、それをお国柄だという。絵本だからエリックの姿も描かれているが、それはなんだかよく分からない小さな黒い小動物のようなものである。そうして控えめなエリックは、知らないことばかり質問してきたり、好奇心は旺盛だが、地面に落ちているような小さなものに特に興味を持っている様子だ。そうしてある日、手をふって、ごきげんようと言って出ていったきり、二度と帰ってこなくなるのだった。
 まあほとんどそれだけの話なんだが、妙な余韻を残して、そうしてやっぱりその不思議さが面白いところである。絵本が子供のためだけに描かれるものだとは決まっていないが、子供がこれを読んだとして、どういう意味なのかと僕に質問されたとすると、たぶんものすごく困ることになると思う。何しろ僕にもこれはどういう意味なのかさっぱり分からないからだ。まあ、絵も変だし、これでいいじゃないの、というしかないじゃないか。
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自分だけを想う父親   家族を想うとき

2021-09-16 | 映画

家族を想うとき/ケン・ローチ監督

 男は何か事情があって職を転々とする中、妻の車を売って荷物を積めるワゴン車を買い、個人事業者としての宅配業を始める。フランチャイズ宅配業者は、やればやるだけ稼げるはずだが、制約も多く、仕事が増えると休みもなく、失敗をすると多額のペナルティを課される過酷な労働条件だった。妻はもともと訪問介護の仕事をしており、車が無くなったせいで訪問する家庭への移動にバスを使わざるを得ず、時にはタクシーで移動するなど、個人負担の交通費がかさばりながら、これも長時間労働になっていく。両親とともにハードな労働条件になっていくと、もともと学校での成績の良かった長男が、社会への反抗的な活動に身を入れるようになり、要するに学校に行かなくなる。妹だけは、なんとか正気を保っているが、いつもさみしい思いをしていることに変わりがない。男はつらい思いをしながらもさらに仕事の量を増やし、家族を顧みなくなっていくと、長男は次々に問題を起こし、仕事に支障のあることばかりするのだった。
 英国版の労働環境生き地獄を描いた作品である。実際にこのような労働条件に対する契約のおかしさを摘発された事件なども、あったのだろうと思われる。
 しかしながら名匠ケン・ローチである。数々の映画賞の常連で、生きている社会派監督の最高峰といっていいかもしれない。まあだからだと言っておくが、要するに焼きが回った作品だと素直に感じた。
 人間地獄図を描いていることについては、映画としていいとは思うが、このような背景は、いくら何でも今の英国ではありえないだろう。もちろん日本でもありえない。そのような環境にいると言われる人の話はごまんとあるが、ちゃんと救済処置がとられる方が当たり前だからだ。実際にこの映画のような雇用主がいたとすると、裁判をやればふつうに勝ってしまう。事業は続けられないし、誰かに簡単に取って代わられてしまうだろう。過酷なのは今や事業主の方であって、このようなフランチャイズの人々ではない。もっとも、違法を承知で、やくざ的に何かの売人やいかがわしいことをやっているのなら別だが、それはだからこのような業者とは別の問題である。これならすぐに摘発されて、生き残る道はなくなっているだろうだろうから(その前の話、という前提なのかもしれないが)。
 社会派の人がついついやってしまうのは、窮状を訴えたいがために、現実を歪曲しがちなことである。せっかくの正義が間違った題材をもとに語られてしまうので、なかなかに厄介になってしまう。もちろんその中には真実も含まれているうえでの捏造なので、改善しようと汗を流す人間に対しても、容赦なく火の粉が飛んで行ってしまう。破壊されたものは修復が困難になって、お互いが荒れ地に放り出されて終了してしまう。おそらくこの映画の鑑賞後の感覚と同じく、果てしない徒労と絶望感が残るだけのことである。
 ただし、素直に言えることは、この背景の社会は虚構だが、この男については、はっきりと愚かであることだ。直截的に馬鹿だといってもいい。そういう人間は家族を不幸にするだけでなく、その周りの社会についても危険である。このような考えを持たないように、人間教育が必要なのだろうと思う。
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