カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

夜のお迎え

2008-07-31 | 散歩

 冬の寒い朝は早起きして散歩してもそんな苦にならなかったのだが、夏の涼しいはずの朝には、何故だか外に出る気になれない。というか、とにかく朝からけだるい気分なのだ。日中はうだるような暑さだからとても外に出られるものではないし、何とか朝のうちに散歩でもしておこうとは思うのだけれど、このけだるさから抜けられない感じだ。せっかく涼しいうちだから、かえってのんびりしてしまうというのもあるし、目覚めた後に動きたくないということが大きいようなのである。単純に夜が寝ぐるしいために、そのけだるさを引きずったまま目覚めてしまうためだろう。いくら寝苦しくてもクーラーをかけたまま寝ることはとてもできそうにないし、とりあえずは眠くなって寝てしまうのだから、途中で何度か目覚めてしまうこともあるにせよ、それなりの睡眠時間は確保できているはずである。寝ているということが信じられるうちは、そんなに体調が悪いということにもならないような気分はある。ちょっとばかしけだるいぐらいは案外そんなに長くは続かなくて、飯を食って出勤する頃には、それなりに万全感があるので、まあいいかということにしている。
 しかし朝散歩しそこなうと、この挽回を日中に取り戻すことはとてもできない。仕事ということもあるが、休みの日であっても、日中が暑いのは変わりがない。飼い犬たちだって家の中では元気そうだが、いざ外に出るとすぐにバテテしまってかわいそうだ。下手をすると死んでしまうかもしれない。夜になってと言っても7時頃までは斜めといえども強さの残る日差しはさしていて、まだまだ犬にとっては(人間にとっても)過酷であることは変わりがない。九州の犬は寿命が短いと言われるが、たぶんこの暑さが犬にとって過酷すぎるためではないか。夜行性の動物がいるというのは、その全部がそうではないだろうにせよ、日中の暑さに付き合っていられなくなって夜活動しだした奴がいるのではないか。
 そういうことならいっそのこと夜型にシフトしてしまえばいいということも考えなければならないが、自分一人だけ夜型に移行するというのはやはり不可能である。それにもともと僕は夜型人間ではない。夜は酒を飲まなければならないし、飲むとますますけだるくなるので外に出るのが億劫だ。しかしながら酒を飲むと車の運転ができなくなるので、用事が出来ると歩かなければならなくなる。一通り飯を食って落ち着くと、早めに食卓から離れることで食い過ぎも防げるかもしれない。
 いつの頃からか長男が塾に通うようになって、夜に迎えに行かなければならなくなった。いや僕は夜には酒を飲んでいるので車で迎えに行くわけにはいかない。それでは歩いて迎えに行って悪いわけでは無かろうと思うようになった。少なくともそういう名目だとなんとなく外に出るのが億劫でない。ついでに小琳ちゃんや杏月ちゃんもつれて、迎えに行くつもりで散歩に行くことにした。本当の車の迎えはつれあいが行くので、僕はそのつれあいの迎えのところまで、ついでに散歩しながら迎えに行くようになった。それは厳密に言ってちっとも迎えに行っているわけではないことは薄々分かっているのだけど、僕の意識としては基本的に長男の迎えのための一石二鳥の散歩なのである。外の出るとやはり楽しくて、迎えに行くっていいことだなあと自己満足しながら夜の散歩を満喫しているのであった。
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頭から分からない大人になるな

2008-07-30 | 雑記

 寝る前にNHKを見ていたら「ルパン三世」の特集をやっていた。特に当初演出をしていた「おおすみ正秋」のインタビューがよくて、思わず引き込まれてしまった。大人になった今となってはちゃんと謝ることができるようになったけれど、しかしその無念は晴れていないことも理解できて、時代を先取りすることがいかに困難なことなのかということを考えさせられずにおられない気分だった。その風貌はイカれたおじちゃんだが、この人は偉い人だと思った。ルパンというのはもともと大人向けのアニメを作ろうということで始まったものであるのに、そのコンセプトそのものを会社の都合で削らざるを得なくなっていく運命を背負っていた。結果的に後には大ヒットしていくわけだが、その後のことがよかったからそうなったのか、というより、むしろその削られたコンセプトの残り香が、ルパンというものを革新的に成長させることになったことは間違いがないようにも思われた。今は全然面白くも糞もなくなったルパンだが、当初の映像を見ても最初はやっぱり面白かったんだということがよく分かった。しかしその面白さというものより、視聴率ということに振り回されて、結局今のような面白くないものへと変わらざるを得なかった事情もよく分かって、なかなか凄い歴史の証言だと思った。そしてそういう革新的なことをしていく若者たちが、実に生き生きと楽しみながら作品を作っていたこともよく分かった。やろうとしていることが(今考えると何でもないことのようだが)革新的すぎて次々に難題が持ち上がるのだけれど、それすらも楽しいという感じであった。しかし、結局面白いということで評価を受けながらも、視聴率という現実というか一方的に作品に対してどうでもいいような基準が邪魔をして、つぶされてしまうのである。しかし最初は誰も理解できなかっただけのことで、再放送を重ねるごとに評価が上がっていくのである。タイムリーで見ていた僕らでさえよく事情は知らなかったけれど、ルパンの革新的なかっこよさは年を追うごとに薄れて行って、結局見放したという覚えは確かにある。宮崎駿になったルパンというものは、別のルパンとして評価することはあったにせよ、本当のルパンではないとはっきり感じていた。まさかこのような事情でそんなことになっていたなんて、大人なんていつの時代にも実に愚かなものであると思うのだった。
 しかし結局はそんなことは誰もわからなくて、分かりやすいどうでもよさの方が重要視されてしまうのだ。そんな仕事をしても誰も面白くないので、ますます面白くない人が出世していく。一度大きな革新的なことが起こって、もっとひっかきまわす必要があるかもしれないなあとも思う。いや、実はもっと簡単なことで、ちゃんといいものは育てるという自信のようなものをもつことが大切なんじゃなかろうか。誰もわからずとも俺はわかる、というような本当の大人のいない社会だからこそ、今のような右往左往で世の中はなんとなく決定していくだけじゃないか。見た目のチャラチャラしたおおすみというオッサンはアウトローになるしかなかったのかもしれないが、ちゃんと時代を作ったという自負は持っていることだろう。少なくとも僕らは最初のルパンは忘れていなくて、今でも胸がときめくのだ。それはノスタルジーなんかじゃなくて、今からを作っていく原動力になるはずなんだとも思うのである。
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グーグーだって猫である

2008-07-29 | 読書
グーグーだって猫である/大島弓子著(角川書店)

 僕は犬を飼っていて、単純にネコかわいがりをする自己中心的な性格の飼い主である。犬の気持ちが分かっていると口では言うが、おそらく全然分かっていないのだろうという自覚さえない。もちろんそれで反省すらしない。誰が何と言おうと、たとえ飼っている犬が不幸だろうと、僕は犬がかわいくて仕方がないのだ。それがエゴの本質だろう。
 犬にも人格(犬格?)があるというような話を聞くことがあるが、それはたぶんないのだろうと思う。犬というものは人間の都合で一方的に飼われていて、たとえそれで飼い主の思うようにいかないにせよ、人格というものは無視される運命である。いや、考慮している人もいるという議論はあるにせよ、飼われているのは犬の選択の結果ではない。「なつく」というのは人間の方が利用している動物の習性なのであって、彼らの選択であると考えるのは都合のよいエゴであろう。まあそういうことで、そういうことを了解しているので、犬を飼うことができるのであると勝手に思っているだけである。
 そういう飼い主の思い込みで動物を飼うということがどういうことなのかという物語なのではないかと思う。この場合猫なのだが、漫画家だから平気で擬人化して人間の姿になったりする。まあ、それはそれで楽しいのでいいのだが、僕はほとんど理解できないことではあった。そのままの姿だからかわいいのに。
 しかしこれは母性というものの物語なのだろうか。餌をご飯と言わなければ罪悪を感じたりしている。これは全く共感できないが、理解はできないではない。僕は人間の飯が餌であってもいいと思うが、それは馬鹿にしているからではない。どっちだっていいし、そもそも餌だからご飯より下だという問題なのではぜんぜん違うと思うだけだ。
 しかし、動物を飼うことは人間の代わりに共同生活をしているということを疑似体験しているということなのだろうか。だから擬人化し、与える食べ物はご飯であろうとする。
 大島弓子にとって猫を飼うということは、男と暮らしていることと限りなく似ているような感じもしないではない。日々の生活に同化し過ぎて、計画性や一貫性が感じられない。いや、そうあるべきだと言っているわけではなく、相対的なまなざしとして、やはり受身なのであると感じる。僕は自分の都合でかわいがるわけで、まあ、逆に振り回されている面はあるとは認めるにせよ、このように一方的に振り回されないような気がする。まあ、その方が楽しいのかもしれないが…。よく病院に行き、しかし猫だから散歩には行かない。家と病院で完結する関係というのは、やはり犬の飼い主にはないまなざしなのかもしれない。
 犬がいいとか猫がいいとかいう問題は、しかしたいした重要なものはない。猫好きと犬好きの人種が違うわけではない。猫好きは放任主義で犬好きは封建主義だとかいうことは、見た目の感覚からもあまりにも遠い根拠のなさと無知からくる誤解にすぎない。そう思うのは勝手だが、意味は無い時間の浪費だ。しかしそれでも猫は、と言いたい人もいることはわかる。意味がないとは分かっているが、不毛だとも思うが、僕は犬飼だから猫の物語が分からないのかもしれない。しかし、この漫画を読む楽しさというのは、そういう問題なのではないのである。
 動物を飼う楽しさの視点と、日々の人間の精神状態の記録である。物事の感受性がどのようなものであるということを作品化すると、このようになる。だから単なる個人の日記なのではない。大島弓子の作家としての本音が、にじみ出るようにこの作品から読み取れる。独自の世界観を展開する筆力を生む才能は、このような日常から生み出される。共感もたくさん得られるが、女というものは何か、猫とは何か、生きていくことは何かというようなことまで自然と考えさせられる作品群になっていると思う。そして動物を飼わざるを得ない人間というものが何なのか、改めて考えてしまうのである。
 まあ、考えてしまうにせよ、考えさせないでも楽しめるので、まずは大島ワールドへ、ようこそである。僕は大島弓子は子供のころから馴染んでいるので抵抗がないだけかもしれないし、ひょっとすると男の中には理解できない人もあるかもしれないが、理解できないでもいいのではないかと思う。いや、むしろ、その方がこの世界はかえって楽しめるかもしれない。男がたぶん観ることのできない世界がそこにあって、実は僕らはそういう世界の住人でもあるなんて、やはり不思議で面白いじゃないですか。
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崖の上のポニョ

2008-07-28 | 映画
崖の上のポニョ/宮崎駿監督

 なんだか一度聞いたら耳から離れにくい「ポーニョポーニョポニョさかなの子」というメロディをしつこく口ずさんでは家族で観に行こうと目論んでいたわけだが、みんなそれなりに忙しいらしいし、やはり正直言ってそんなに乗り気じゃなかったようで、かなり躊躇してはっきり言っていきたくない空気があったのをかまわず「ポーニョポーニョポニョ」歌いながら説得して家族が僕の付き添いで映画を観に行くことができた。映画館の前で小さい子供が多いのを見て、息子たちはさらに後悔(子供なりに子供っぽい感覚が恥ずかしいのである。よくわかるよ息子たちよ)していたようだが後悔先に立たずである。諦めて時間つぶしに僕に付き合わされたようである。ごめん。
 まあしかし、やってくれましたねえ、宮崎駿さん。これだけ子供っぽい雰囲気を装いながらまったく子供には理解不能な世界を展開してくれるとは思いませんでしたよ。子供向けの映画でこれだけ子供にウケ無い反応を味わったのは初めてであった。いや、大人だってほとんどの場合理解不能で突っ込みどころ満載の展開だったにもかかわらず何を言っていいか分からなくなるような困惑の世界観で、分からないなりにすごいものを観てしまったという変な感慨を抱かされる天才映画なのだったのである。これは彼の息子は苦労するしかないなあと、さらに余計な心配までしてしまう始末で、ただの才能では父駿の前に飲み込まれてつぶされるより仕方ないだろう。何しろ父駿は常人では到達不可能な困った天才の領域に一人旅立ってしまわれたのだから…。それでも凡人ながら映画一本撮ることができたんだから、あきらめて違う道を歩んだ方が利口なのかもしれないとは思うような映画だったけどね、ゲド戦記は。
 なんでこうなってしまったのか、いまだによく理解できないでいることは確かだが、僕は楽しめましたよ。本当に観ることができて良かった。子供にはちっとも良くない映画だろうけれど(町山さんが言うように、はっきりと教育上問題も多い。米国なら訴訟に発展しかねないほど非道徳な行為が多すぎる)、僕のような人間にとっては宝物のような変な映画で、いくらでも深読み出来て本当に楽しかった。いや、絵も素晴らしいし、躍動感は印象に残っているけれど、設定やディティールや展開として本当に納得できるものなどほとんど無くて、なんでこうなっちゃうの?という疑問符がニガ笑いとともに出てくるようなものすごい暴走ぶりなのである。危うく振りきられるような焦燥感をもちながら必死に食らいついても、どんどんおいて行かれるのである。もうどうにもならない敗北感。勝手にやってくれよ、と投げやりになると、なんだか天から何やら降ってくる感じの気まぐれさもある。いや、これは神の領域ですよ。そうしてすごいものを観てしまったというやばいような傑作の予感と余韻を残すんだから…。どうせまたDVDを買ってしまうのは明らかで、そうして何度観ても、また楽しめてしまうのだろうと思うのである。他の宮崎作品のように。それは絵画や音楽のような映画であるということであって、変に生真面目なテーマがあることはすぐにわかったけれど、そんなことはどうでもいいぐらい中沢新一的な深遠さといかがわしさもあって、物事を考える楽しさを味わうことができるのであった。繰り返すが決していい映画とは言えないが、ダークで邪悪ながら無邪気で純粋な心情の混在した一方的に天才映画であることは間違いがなくて、脳みその一部を溶かしかねない麻薬映画なのではないかと思ったのであった。少なくとも歌のイメージなんて全く関係のない衝撃を味わえること請け合いなのである。
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暑いし、ポニョを観たい

2008-07-27 | 雑記

 夏だから仕方がないが、朝っぱらからいきなり炎天下という毎日だ。暑いと何をしてもやってらんないよという気分になるのだが、腹はそれなりに減る。汗だけはかくからそれだけカロリーを消費しているのだろうと錯覚してグビグビビールを飲んで物を食うと大抵それなりに太ることになる。夏バテで体調が思わしくないのに体重は増えるというのは気分を重たくする。その上に僕は冷房が嫌いで、実際に冷房に当たらなければやってられない暑さなので冷房に当たると体調を崩す。ひどい夏風邪をこじらせて鼻水が流れ放題になって、具合も悪くなって死にそうになって何とか焼酎を飲んで寝たら幸いなことに一日でよくなった。いや、行事があってどうしても何とかしなくてはならなかったので、良くなったと錯覚したのかもしれない。それで炎天下で頑張ってかき氷などをして御礼に回って安心した。そして夕方から散歩をした。そうすると激しい睡魔がまた襲ってきて、結果的に睡眠がたくさん取れて本当に体調がよくなった気がする。ああ、水木さんの言う睡眠を重要視する思想はこれかもしれないと思うのだった。人間はせっかく生まれてきたのだからぐっすり寝なくてはならない。何かの目的のために働くなどというくだらないことをするのではなく、食って寝るという本質ほど大切なものはないのかもしれない。という悟りを開いたような気分になって、竹熊さんが既に二回も観てしまったというポニョを観たいなあと思っているのだった。そういえば夏休みに子供が何をしたいのか聞いたら、海釣りをしたいそうだった。それも外海で。ああ、暑いのに嫌なので別のことに注意がいかないものか思案しているが、だいたいどうやって釣りをして何を狙いたいのかも分からないし、代わりといっても遠くに行きたいと言われた方が困るような気もするし、しかし特にポニョを観たいと言い出さない。ポニョの子供っぽいプロモーションで子供心に子供っぽいものは敬遠したいというような心理が働いているものかもしれないが、実はポニョは大人の映画であるような気がする(観てないけど)し、だいたい鬼太郎は喜んで観るのだからちょっと矛盾しているのではないかと思うが、親の心子知らずである。
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物価高の世の中だが

2008-07-25 | 音楽

 CDが売れなくなって久しいらしいが、その原因は通信の方に若者がお金を使うようになったためだと言われていた。携帯電話を維持するお金が優先であり、そのために音楽への投資が減ったのだという。確かにそれは経済学でよく言われているような理屈で、今までリンゴを買っていた人がみかんを買うとリンゴが売れなくなってしまうというような事を言いたいのだろう。お小遣いは限られているのだし、胃袋も余分には受け付けないというわけだ。
 しかしながらマクロで考えると、音楽産業の全体の売上は年々伸びているという。特に近年爆発的に伸びていて、それは外ならぬ通信業界の発達のためなんだそうだ。当たり前だが、パッケージとしてCDで音楽を取り込むというような(僕のようなオジサン世代)形態が衰退しているだけのことで、ダウンロードしたりレンタルしたりして音楽を取り込む方がはるかに主流化したわけだ。特に最近は無料でダウンロードできる曲も増え続け、あくまで情報として聞く音楽というのは、限りなく宣伝のための手法になっていく傾向にある。パーソナルで音楽を楽しむというのは、パッケージで所有する喜びではなくなりつつあるわけだ。相対的に音楽家のライブ活動は活況を呈していて、程度の差はあるにせよ、音楽家の収入も以前より増えているようだ。CDが売れなくなって音楽家が食えなくなったのだという報道もあるが、まったくそれは真反対の認識にすぎなくて、比較的容易に音楽家として食える時代がそこまで来ているということがいえるようだ。今までうわっぱねはねていた音楽業界の大手の将来性がなくなっているだけのことで、むしろ好ましい傾向ではないかと言っている人もいる。もちろん僕もそう思う。これは音楽家に限らず、他の業界(例えば出版界やテレビなども)も今後は個人の方が商売しやすい環境になっていくチャンスであると思う。ホリエモンがテレビ局を欲しがったのは、過去の古い考え方になりつつあるわけだ。
 それでは大手は打つ手がないのかというとそんなことはなくて、思いきってCDはレンタル並みの値段設定にすると相当売上は伸びるのではないかと思われる。CDは値段が高いのでレンタルが成立するわけで、レンタルが成立しなくなるような安値になると、パッケージが圧倒的に強くなる。むしろ今まで考えている以上の市場を切り開く可能性がある。単体として利益がどうだということを言いたいのはわかるが、大手の強さはそういう裾野の広がりでカバーしていくよりないだろう。つまりこの業界は淘汰されていくわけで、やはり将来性が明るいわけではないようだけど、今のままで胡坐をかいているだけではもっと将来性がないことだけは確かである。通信より手軽に所有できる魅力があれば、むしろ大いに生き残れるとも言えるだろう。この業界全体は伸びているのだから。
 正直に言うと、そういう舵取りを早くやってもらいたいものだと思う。やはり僕には所有欲のようなものがあるらしくて、パッケージに愛着があるのだろうと思う。もっと安くなったらもっと買うことは間違いがない。子供の頃にどのLPを買うのかというのは大問題だった。一枚買うことはその他の数枚買うことを断念することを意味した。熱心にラジオ番組に耳を傾けてエアチェックをした。如何にコストを減らすかということに労力のコストをかけていたわけだ。そういう時代が終わりを告げて、さらに豊かな時代がくると思うと、胸がわくわくするような興奮を覚える。音楽パケージが安くなることは、それだけ豊かな時代を手にすることになるという象徴的なことなのではないだろうか。
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マッチポイント

2008-07-24 | 映画
マッチポイント/ウッディ・アレン監督

 運とは何だろうと考えてしまう。まさに人生は運なのかもしれないけれど、運こそすべてというような意識で生活をしているわけではない。ある種の分かれ目となる起点は後で考えるとあったように思うが、今がその時であるという場面に運に左右されるということは、確かにありそうだ。
 主人公はテニス・プレイヤーということで、そういう勝負所を粘り強く辛抱しながらつかむ素質があったということは暗に示されている。上流社会への強いあこがれも感じられ、まさに順調に歩みを重ねていく。そういう中で、魅力的な愛欲をそそる女性と出会ってしまう。お互い惹かれあうものに意識として躊躇のあるものの、抗うことができない。これは愛情というより愛欲というものらしく、男女の出会いながら、運命というより非合理ながら当然の道理のように思えるから変なものである。運でいえば、この場合かえって不運なのかもしれない。そういう火種であることは重々承知しながら、むしろそれでもいいと一度は態度を決めながら、やはりどうにも自分の意志とは違うものへと変貌していく。
 さて、そこまで人間を狂わせるのは、やはり生活の中の豊かさというものだ。それも圧倒的な豊かさである。上流階級の生活がそれほど魅力的なものなのかというのは、正直に言って僕はそれほど理解できないのだが(蝋燭の明かりの食事や、オペラに通う毎日が楽しいとは思えない)、しかし豊かさの中にある保守的な居心地の良さと安定感は、簡単に崩してしまえるほど脆弱なものではないようだ。豊かさの中に個人がどっぷりとつかるようなことになると、その歯車の中にあって抜け出せない自分という存在に改めて気付かされることになってゆく。特にこの家庭は、母親は少しばかり偏見のありそうなところはあるにせよ、金持ちの傲慢さというものより、純粋な家族愛のようなつながりの強固な善意に満ちている。特に父親は深く娘を愛しており、さらにその娘が深く愛してやまないこの青年にも大きな期待を寄せ信頼している。そしてそのことを理解しながら要領よく期待にこたえる能力が自分にあることも、重々自分自身でわかっているのである。この家庭の中での自分の存在は、益々重要な歯車になっているのである。
 ここからはサスペンスになって、結構ドキドキしながら話を楽しむことができる。そして結末がどうなるかまで身を任せていればいいと思う。納得がいかない方が後を引いて楽しめると思うが、それは考え方次第だろう。
 ただしかし、人間のエゴとして、自分の都合を優先した理屈をこねる主人公の科白の一つ一つが、後で考えてみると、どのようにでも取れる将来のしあわせの影であることもわかる。そのために自分自身を失っていくのは、本当に自分の望んだことなのだろうか。運命はそういう個人を弄ぶようにころんでいく。すでに自分の望みが何であるのかさえも呑み込むように。ただ、時間は二度と元には戻らない。取り返しのつかないはかなさを思うと、人の一生などというものは、やはり他人のためにはないのではないかと、日本人の僕は思うのだった。
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もう少し楽しい将来を描こう

2008-07-23 | 時事

 新聞を読んでいると、増税への布石を固めているものが多くなった。このままでは財政は立ち行かないということは、記事から読み取るに明確であると判断するよりない。もちろんそれは記事を読んでそう読むしかないということである。また別の書物などを読むと、これは嘘であるということが書いてある場合も多い。官僚に騙されるなということらしい。まあ、確かにいろいろと騙されてきたことは覚えがあるから、そういう意見を信じたいという気持も強い。しかし、それってやっぱり何とも納得がゆかない話なのである。
 そもそも今の財政状況がまともであるとは最初から思えない。しかし、日本の資産ということを考える上では、借金の額が少ないと言い張る向きもある。いや、しかし収入と支出だけを見ると、やはり異常だ。資産が売れるという保証もよく分からない。足りなくなったから増税だというのは、やりくりがどうかしている家庭のようで、将来性は感じられない。増税は確かに嫌なことだし、そういうツケを安易に他人になすりつけるような政治形態は虫が好かない。実感は伴わないにしろ、近年の日本の景気はずっと上向いて良かったらしかった。それ自体が信じられない人が多いだろうにしろ、それでも財政は健全化されなかった。よい時期に手を打たなかった上に、これから悪くなるだろう最悪のタイミングで増税が行われることは、おそらく歴史的な取り返しのつかない過ちになることは、猫が考えても予想できるシナリオである。しかし危機感をあおって合意へ持ち込もうという目論見がある側は、そういう方向へ暴走せざるを得ないようである。つまり、これはやはりどこかに政治があることは間違いない。
 しかしながら、変に民主的を装う議論に消費税の不公平性をいうことが多いように思うが、今の税制において一番公平な税制は間違いなく消費税である。金持ちを優遇してけしからんというが、今の税制の方が明らかに低所得と中間層に不利だ。もちろんある程度の累進性は必要で、事実現在はそのような所得税制になっている。もともとちっとも金持ち優遇ではない。その上に大企業ほど税制に有利な海外へ流出している事実からも、日本は大企業優遇の国などではない。日本企業は日本という苦しい土壌においても努力を重ねて国に貢献していると考えるほうが、実は素直なことではないかと思う。ヤクザや脱税をしている連中にとって、逃げも隠れもできない税制は、ほぼ消費税しかない。なぜ彼らをかくまうために僕らは苦労して天引きの税金を守らなくてはならないのか。クルマに乗る人間がガソリン税から逃れられないように、消費税はずるいやつからも公平に税金をむしり取るシステムなのである。
 もちろん今のまま消費税だけを増税するのは単純に不公平だ。ちゃんと所得税の大幅なカットとともに段階的に消費税を上げるべきだろう。段階的に消費税が上がることが分かっていれば、駆け込み需要などのメリハリが出て、加えての景気刺激策となるだろう。日本経済の巨大さを思うと、やはりある程度の内需拡大で自国を潤すことが可能である。浪費が奨励されると簡単にバブルになる危険はあるが、もう少し持っているものを持っている人から放出されるような気分を作ることが、政治的な駆け引きなのではないか。今の絶望感から増税を引き出す作戦は、目的達成のためには、まったくの的外れなのである。
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2008-07-22 | 映画
卍/井口昇監督

 子供がつれあいの実家に遊びに行ったので、こういう機会にしか見られないだろうと思って選択する。いわゆるVシネマというやつらしくて、まあ、エロが売りの作品なのだろう。僕にエロ心が潜んでいるという告白をしたいということではなく、Vシネなどと馬鹿にしてはならない作品などと持ち上げる記事をどこかで読んだ覚えがあったのを思い出したわけだ。
 結論からいうと、今の僕にはとても合わない作品としか言いようがなかった。くらくらするようなわけのわからなさと演技のつたなさに、あーあ、という感想をもった。エロが凄いのかというと、別にそんなこともないような気がするし、なんでそんなことをするのだろうと気持ちの悪くなることをするのも、なんとなく学芸会風のおどろおどろしさのような感じがして、妙に冷めてしまうのだった(まあ、血が出るのは気持ち悪くてのけぞってしまったが)。
 そういう訳で映画としてどうだというのは僕にはよく分からないというか、合わなくて残念ということであった。変なスケベ心のような下心もどこかにあったはずで、今回のわざわざ感に対して、そういうものが満たされなかったということが、あるいは評価に値しないというような感情の土台になっているのかもしれないとも思う。
 さて直接というか、この作品自体には関係のない話かもしれないが、谷崎潤一郎の小説を読むというのは、何だか学生時代には勇気がいった覚えがある。やはりそれは、谷崎作品に、文芸と言いながらある種のエロのようなものを期待していたせいもあるのだろうと思う。しかし「痴人の愛」だとか「瘋癲老人日記」などの作品は、巷間で言われるようなエロの世界というものでは決してなくて、確かに文学作品として面白く感心したりした。変態と言われればそんな気がしないでもないところもあるようではあるけれど、いわゆる自分自身とはまったく趣味の違うものであるにせよ、説得力というか、人間の業のようなものの奥深さを感じさせられるものがあり、流石だなあと思うのだった。
 ある時僕の持っていた谷崎作品を読んでみたいというものがあり貸してみると、そいつは授業中に読んでいるらしく、時々笑い声をあげて先生に怒られたりしていた。いやあこんなに笑える小説は久しぶりだった、と言って彼女は谷崎に夢中になったようだった。しかしその作品が何であったのか今となっては思い出せない。僕としては、そんなに笑える話だったかなと疑問に思ったような記憶があるが、まあ、今回この映画を見ていてなんとなく笑える気がしたので、谷崎作品にはそのような側面があるのではないかといまさらながらに思ったのだった。
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自衛団なら簡単に鎮圧できるのだが

2008-07-21 | 時事
 竹島が日本の領土であると教科書に載ったということで、韓国世論が色めきたって怒っているようで、まあ世論はいいとしても、政府としても激しく怒って日本にある領事館の領事が帰国したまま戻ってこないだとかのヒステリーぶりなんだそうである。何でここまで怒らなければならないのかという疑問に対する解説の理由としては、韓国の人はキムチを食うからだということが一番の理由のようだった。まあ、それなら仕方がないなあ、と日本人としては納得しなくてはならないらしい。
しかし少しばかり韓国の弁護をすると、これを疑問のままに異常行動として煽るように報道してしまいすぎることもなんとなく下品さを感じる。日本が別に右翼化しているわけではないが、日本の「駄目じゃん韓国」報道ぶりは、ほとんど右翼思想を代弁しているかのようだ。結果的にそういったものが世論形成されていくということもあるのだろう。以前から竹島問題でいじめられている島根あたりの漁民にはほとんど気にしてないくせに、こういうことになると神経過敏になる(まあ無理もないが)のは、著しくバランスを欠くようにも思われる。歴史的に何にもしてこなかった代償を払わされているわけで、今まで黙認していた身内の政治家を糾弾すべきこともあるだろうと思う。
 竹島は日本の領土として間違いがないにしろ、韓国が実行支配しているのは事実である。同じように北方領土だってロシアが実行支配したままだ。ロシアなんて日本の言うことを鼻から聞く耳さえ持っていない。話を持ち出すと不快感まで表明するふてぶてしさだ。はっきりと竹島よりタチの悪い支配の仕方であるにもかかわらずである。思うに領土という問題は、どんな国民だって下品にしてしまう魔法があるらしい。
 まあ、見ての通り実行支配というやつが、実質上力が強いものらしいということも見て取れる。これをどうにかしようとしたら、一触即発の危機にもなりかねない。以前北方領土は金で買うことが検討されたこともあったようだが、もともとの陣地を買うのはどうかということで結局もつれたままになってしまったこともある。せっかくのロシアの意向をむげなく蹴ってしまったのだ。今は実質上それ以上というか天文学的金額の援助がなければ話し合いのテーブルにもつかないということのようだから、日本という国はまったく外交という点で何も成果をあげられない国なのである。国土でさえ本気で取り戻すことが出来ないのは、話し合いというものが交渉だということを理解していないだけなのであろう。
 いづれにしてもそのままでは解決しないわけで、公益的な妥協点が何であるかということのほうが重要であろう。共同管理というか、共同開発というか、以前に鈴木宗男がやろうとしていたようなことが結局は近道だったかもしれないとは、なんとなく皮肉なものだと思うのであった。
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弁論大会に動員されて行く

2008-07-20 | 音楽

 動員がかかっていたので弁論大会というのを見に行った。
 最初の挨拶では、今日は大人も子供の声に耳を傾けようということだった。
 中学生と高校生の代表がそれぞれ弁論をふるったのだが、まあ、内容はどうでもいい様なくだらないものだった。というか久しぶりにこういうものを見て、なんだか気持ち悪いなあと思った。こんな感じが好ましいなら、いっそのこと演劇部か何かの部員にやらせればいいのだ。論旨としても社会認識がまるでなっていない。子供だから仕方ないというか、教育の現場は相変わらずくだらないものだと思った。
 高校生の二人ほどはそれなりにまともだったが、明らかに弁舌のさえた人は優勝を逃した。まあ、審査員もその程度かということだ。会場からは信じられないというようなため息が漏れたが、本人だって信じられない思いだったろう。人間不信にならないように今後の人生を生きていって欲しいものだ。
 しかしながら審査の時間にアトラクションがあって、地元高校生のブラスバンドが演奏した。これが思いのほかいい演奏で、最近の高校生の表現力はなかなかのものだと感心した。アンコールまでかかって、指揮を取っていた先生は困惑して退場したが、なんだかリーダー格の太った女生徒が変わりに指揮を取ってアンコールに応えた。才能と自信のバランスが世界を切り開くのかもしれない。
 弁論大会には二度と行きたくないと思ったが、ブラスバンドは応援していいと思ったのだった。
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夜間補導に行く

2008-07-20 | 散歩

 夏休みというのはある時期の子供にとっては天国だろうが、PTAの役員をやっているような親にとっては迷惑な時期だ。子供が暇になると大人が右往左往する。理屈として必要だといいたい人がいるのは分かるが、必要性をまったく感じていない人が役割として黙って活動をしなくてはならない。暑いのに体に悪いだけだろう。
 そういうわけで夜間補導というやつに借り出された。名簿が作られているので義務だろうと思っていたのだが、8名の出席予定が3名だった。中学校の校長の名前もあったはずだが、欠席のようだ。まあ忙しいのだろうけど、欠席の連絡ぐらいはした方がいいと思う。ほとんど関係のない小学校のPTA会長の僕は出席してるんだから失礼であると、やりたくないから文句をいいたくなった。まあ、他にも欠席者がいるわけで、みんなそれなりにその程度の認識であるということはよく分かった。
 出席者も少ないので、三人一緒の車に乗って、危険箇所というような場所をぐるぐる回ることになった。夜間といっても8時過ぎだから本当に悪いやつが出歩く時間でもないんだよね、と慣れた主導者のような爺さんは言う。やってる人が疑問でも善意は止まらないということである。
 暗いトンネルには落書きがされていたが、ゴミひとつないきれいな状態であった。実は地域ではこのトンネルの管理上必要がないから閉鎖したいという話になっているのだが、何とかという手続きが厄介らしくてどうにもならないらしい。そうして一部の人が善意で掃除して落書きを消している。そこに僕らは見回りをしているということだった。まあ、見回る場所があるということでいいのだろう。
 そのほか小さな公園を見て回るが、ある公園に車のヘッドライトを当てると反射板が光ったようだった。誰かいるな、ということで車を降りていくと、ベンチに高校生カップルが仲良く座って話をしていた。僕らは丁寧に「夜間補導で回っています」と声をかける。「ああ、もう八時過ぎなんですね」と男の子が返事をして、大人しく二人はそれぞれ自転車に乗って去っていった。少し照れくさそうだったけれど、素直な反応だった。まあ、僕としても邪魔して済まないような気分だった。
他の公園だとか学校とかを見回って、戻ってきて、また小さな公園のベンチで先ほどの高校生ではないかというようなカップルが座っているのが見えた。あれ、帰ってなかったかなと思ったら、同じ高校の制服の別のカップルだった。地元の進学校の生徒で、この学校の人が特に不純異性交遊が流行っているという事ではないとは思う。まあ、二例だけだが…。このカップルも素直に帰りますといって去っていった。なんとなく不満そうな態度は見て取れたが、思春期のカップルがそう感じるのは当然だろう。
 最後に広めの公園を懐中電灯を持って回ることにした。最初に傘のあるベンチに髪を染めた少年二人が携帯電話をそれぞれ眺めながら黙って座っていた。高校生ですかと声を掛けると「卒業しています」という。「見回りですか、お疲れ様です」とその風貌とは裏腹に丁寧に声まで掛けられる始末だ。
 奥のほうから別の老人が半裸(着ているシャツを脱いで肩に掛けている)でやってきていきなり声を掛けてきた。どうもこちらの隊長老人の知り合いらしい。奥の電灯が切れていてけしからんと鼻息が荒い。一人でまくし立てるように話を進めて、この間は市役所のどこそこに苦情で電話を入れてやったが、態度が悪かったので名前を聞き出して上司にも文句を言ってやっただの、地元住人が管理しているのに地元を優先しない何がしかのことがおかしいだの、剣幕を巻いていた。これがクレーマーという張本人だということがよく分かった。役場もおかしいながら大変だろうなあと思うのだった。
 そういうわけで見回りが終わって疲れて帰った。まだまだ夏休みは始まったばかりで、花火大会だとか夏祭りや登校日など、また見回りをするという。だいたいそういう日に見回りをするのだということを、今日出会った気の毒なカップルには事前に教えておきたいものだなと、思ったのだった。
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ひとり日和

2008-07-19 | 読書
ひとり日和/青山七恵著(河出書房新社)

 なんだか私小説のような話だなあと思いながら読んだ。著者は大学を出ているようだからこの主人公とは様子が違うが、限りなく私小説的な感じのする小説だ。恋愛を描いているけれど、恋愛小説とはちょっと違うような気がする。淡々としているけれど、激しい感情も女というエゴも正直に書いている。行きがかり上というか、半分は自分から望んで一緒に暮らしている老女とのかかわりもいい。気を使っているようで、お互い妙な距離感があって、べたつかない。しかし信頼関係はありそうだ。母親との距離も、男とはだいぶ違う感じだ。女親と女の子供の関係というのはこうなのかと変に感心した。これは男にはほとんど見られない関係のようにも思える。まあそれが悪いというのではなく、親子というより大人のつきあいのような感じもあり、そして妙な同類としての共感がある。そういうところも正直というか、あっさり書いているようでなかなか深いものだなあと思うのだった。
 帯を見ると(読み終わって見た)石原慎太郎と村上龍が褒めている。芥川賞受賞作らしい。彼らが感心する作品なんだなあと思う。僕は雑誌の中央公論で小谷野敦が褒めていたので買った気がする。同じく小谷野が褒めていて昨日読んだ「どうで死ぬ身のひと踊り」がかなり良かったので期待して読んだのだろうと思う(今となってははっきり思い出せないが間違いなかろう)。まあ、よくできた話だなあと思うには思ったが、みんな感心したんだなあということの思いの方が不思議かもしれない。僕はほとんど小説というものは知らないので、こういう話が芥川賞なのかということもよく分からない。そして不思議な人たちが褒めているんだなあという感想を持つのだった。
 もちろん話はかなり良く出来ていて、仕掛けになる手癖の悪さだとか、スジの運びも上手いと思う。これでよいのかどうかよく分からないにしろ、半分少女のような女のふっきれていく成長物語としてさわやかな読後感がある。盛り上がらないということはあるにせよ、嘘っぽく盛り上げても何にも意味がないわけで、真実っぽい人間ドラマが好感をよんだのかもしれない。普通ならどうでもいい個人の日常であるような日々の記録が、実は文学として洗練されているということに、おそらく選考委員を唸らせるものがあったのだろうと想像する。
 僕はすでに若くなくなったので、若いころの悩みというものを既にだいぶ忘れてしまったのだろうと思う。しかし二度と戻りたくない青春。まあそんなものが女の人にもあるらしいのだなということ知った。いや、彼女がそう思っているかは実はよく分からないのだが、脱皮して違う人生を歩む決意は感じる。それはさりげなく力強いもので、真実として感染するような勇気のようなものをわかせる力があるのだろうと思う。今になってそんなことに気づいて、悪くないものを読んだという気分になってきた。また小谷野の勧める小説をいくつか手に取ろうかと思った。
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どうで死ぬ身のひと踊り

2008-07-18 | 読書
どうで死ぬ身のひと踊り/西村賢太著(講談社)

 ドメスティック・バイオレンスということが社会現象化しているかどうかは知らない。しかし、いわゆる家庭内暴力というのは、ずいぶん歴史的に古いものだとは思う。昔の人はよく家人を殴ったのではないかと思う。教育が厳しくて、社会化していない場所では、容易に暴力が行われる土壌になっているのではないかと思われる。もちろんそういうことを容認しているわけではない。暴力の連鎖はロクなことにつながらないということだけは分かっている。しかし内と外という区別のある家庭において(そういうものがない世界もあるのだろうか)、腕力の弱い女が被害を受ける確率は格段に高くなることだろう。現在は家庭内暴力であっても、ちゃんと傷害事件として取り扱うようになっている。少なからぬ抑止力になっていることは間違いないだろう。
 さて、そういう暴力がどのような状況で起こるのかというのは、実を言うと僕にはよく分からなかった。つれあいや子供に対して激しい憎悪を覚えるということはまったくないわけではない。むしろ身内ということで、普通より過敏になる場合もある。しかし、だからと言って暴力的になるということは、僕の場合たぶんほとんどない。
 以前酒を飲んでいて、頭にきて家人を殴ってしまったという男の話を聞いたことがある。時にはそれぐらいしなければ効かない場合もあるということだった。「うへえ、そういうもんかね」とかなり驚きながら聞いたものだ。まあ、いいとか悪いとかの前に、そういう性質の人なのか、そうでないのかということにすぎないのだろうと思う。アル中と似たようなもので、止めなければ治らない。殴る人は元には戻らないのではないか。
 まさに僕のそのような考えは確信に変わった。もちろん小説だから創作はあるのだろうと思う。読者のことを考えて、ある意味でサービス精神で書いている可能性もあるだろう。しかし、この話は限りなくリアルな響きが伝わってくる。最初はなんだか突飛な感じもしたけれど、だんだん状況を飲みこんでくると、じわじわ暴力へ引火していく過程がよく理解できる。爆発後もすさまじいもので、この人はおかしいなりにいわゆる素直である。そうして自己嫌悪となんというのだろう、自己防御というか情けなさというか、謝り倒して許しを請う姿までが滑稽を通り越して哀れになるほど正直に吐露される。これは愛というより、男というものの寂しさというか、不完全さというか。なるほど、家庭内暴力の生まれる現場は、このような葛藤があるのだということが実によくわかったのだった。
 もちろんこの男自体にもともとかなり問題がある。読者として共感し憧れる藤澤造と同化してしまう行動は、明らかに度を越している。非常に洗練され美しくある種の品格さえ感じられる文章でつづられる日常生活と、粘着質な執着のある藤澤造への憧憬の姿は、じわじわと破綻へと向かう恐怖心をあおっていく。そして噴火するような大爆発を起こす。なんだか読者の頭をくらくらさせてしまうような衝撃力のあるものすごい小説だ。これは間違いなく文学的にものすごいものだということは、嫌悪を感じながらも認めざるを得ない。正直言って参りましたという感慨さえ抱いてしまう。その後作者はどうなってしまうのだろうと少なからぬ心配を残すが、男という性をここまでさらけ出し暴きだした功績は大きいのではないかと思う。
 正直に言って多くの男は、このような狂気を内在させていながら何とか抑え込み、やっとのことで成長するのだろうと思う。だから普通ならこのような目に見えた爆発はしない。しかしだからと言って男という生物が、この異常な男と別モノだと考えることはできないと思う。僕はこの物語を読んで嫌悪を感じるとともに、素直な共感と恐ろしさを覚えた。しかし自分の本性を語るような恐ろしいことは、社会生活を営んでいる以上とてもできない。そういう自我(というか自己防衛)があるためほとんど正直に語られてこなかった人間性というものを目の前にして、西村賢太という作者の偉大さをつくづく感じることになる。この作品は、文学というものはこのような人間を描ききる力のあるものだ、ということを見事に証明した名作であることは間違いないのである。
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バスジャックって

2008-07-18 | ことば

 また「バスジャック」事件ということで定着しそうである。いや、定着してないのは僕ぐらいのものなのだろうか。以前にはちゃんと「バスのハイジャック」ということをいう人が少なからずいたような気がするが、当然のように「バスジャック」が使われるようになった。せめてジャックという言葉に占拠のような意味があるといいのだが、男性一般を呼びかけるという日本語には意味がわかりづらいものだけに勝手に流用されてしまったのかもしれない。すでに幅広く定着して意味が通じるからいいじゃないか、という意見もあるかもしれないが、ハイジャックとは何かというときに、やはりいちいち問題になるような気がする。素直に日本語のみで(すでに和製英語だからハイジャックは厳密には日本語ではあるが)バスの占拠事件とか乗っ取り事件ということにしてはどうなのか。
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