カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

なんという悲劇の記憶と現実   死の記憶

2014-01-31 | 読書

死の記憶/トマス・H・クック著(文春文庫)

 今となっては一人の息子と良き妻の居る家庭を持ち、仕事も堅実である男のには、自分以外の家族を皆殺しにして、逃げ去った父を持つという過去がある。凄惨な事件を経ながら、ちょっとした偶然で命を残すことができた主人公だが、もちろんそんな過去のことが影になっていることは確かなようである。そうして形の上では忘れ去られたようにも感じられる35年前の事件を、ある女性作家が改めて調べなおして本にしようとしている。残された家族である主人公は、そういう作家の作業に付き合ううちに、忘れてしまったと思っていた過去の記憶(あるいは忘れようとしていた)を蘇らせていく。そうして、そのような過去への旅を重ねるごとに、現在の生活をどんどん失ってしまうことになってしまうのである。何もかもが生き残っているだろう父への憎悪に変わってしまう中、改めて父を追跡することになる。そうして明らかにされる驚愕の過去とは、いったいなんだったのだろうか。
 読みながらいろいろと気に食わない気分には陥った。彼自身は不幸な境遇だったかもしれないが、彼が現在を損なっていくのは、必ずしも過去の責任とばかりはいえない気がするからだ。もちろん動機のはっきりしない残虐な殺人を犯した父の血を受けついた者という考えもあるかもしれない。そのように示唆される描写もある。一種、のろわれた血を持つものが、呪われた過去の記憶にとらわれていくのである。そのことが、現在を損なう原因となるように感じるのは、必ずしも不自然ではないのかもしれない。そうかもしれないが、読んでいる僕としては、どういう趣向性にあえて馴染んでいこうとする主人公の気持ちが、どうしても理解できないのかもしれない。
 しかしながら物語としては、そういう破滅の道を歩む過去という負の遺産に向けての興味として、どうしても過去を暴かずに居られない気持ちにもなる。記憶だけを頼りに、本当に過去にさかのぼることが可能なのか。事実として物事を捉えきるまでには、生き残った当時の主人公は幼すぎるのではあるまいか。もちろん、見た光景をその当時は理解できなかったことはあっても、現在の大人である自分には、改めて理解できることは多い。すべてを失う悲しい家族のドラマというものが、徐々に徐々に浮かび上がっていく。読者としてもその経験を一緒に味わっていながら、しかし最後にはその事実の驚愕の転換に打ちのめされるに違いない。凄惨で悲しい物語が、もっとひどく悲しい物語になったとしても…。
 この、一見叙情的な悲劇の物語だと思っていた作品が、ミステリーとして非常に優れたものであるという事実が、さらに読者の心をつかむに違いない。気分のさえるような満足感のあるどんでん返しではないのだが、読み終わった後にもふさぎこむような気分になったとしても、作家の名前を忘れられなくなるのではなかろうか。このような暗い物語でありながら、絶大な人気を誇る作家である意味というものも、同時に強烈に理解することになるだろう。
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幸福から逃げている人こそ手にとって欲しい   幸せのメカニズム 実践・幸福学入門

2014-01-30 | 読書

幸せのメカニズム 実践・幸福学入門/前野隆司著(講談社現代新書)

 そもそも幸福感というのは個人差のあるものだ。そういう前提に立つと、客観的な学問としての幸福の研究というものが、普遍性ある幸福として誰にも当てはまるようなことが可能なのか、ということになる。つまりこれはそもそも学問なのか。
 しかし一方で、統計的な意味で幸福な人とはどんな人なのか、または状態は何かというのは、あんがいわからないではないのである。いろいろな変人が居るとはいえ、幸福な人というのは居る。もちろん不幸な人というのも居て、それはどうしてかというのは理由を調べることができる。そうすると、いろいろと条件が整えば、幸福感の得られるような人間になれるのではないか。学問以外ではそういうことは、すでに多く語られてきたことで、なんの目新しさも無い。しかし学問的なアプローチでそういうことが分かるとしたら、より幸福への道が容易になるのではあるまいか。そういう意味で、なかなかお得というか、興味深い本なのではないか。
 そもそも不幸より幸福でいたほうがいい。生きていることは幸福への希求かもしれない。条件が整えば幸福になれるなら、それに越したことは無い。よっぽど無理な状態に居る人が無理に幸福になることは難しいかもしれないが、一定の条件を整えると幸福に近づけるのならそうしたほうがいい。そうして幸福になれる条件というのが本当にあるらしく、そういう方法さえあるようだ。本当にそれが書いてあるわけで、信じる信じないというレベルでなく、いうなればそういうことを知って意識付けながら生活できれば、かなり幸福な人間になれるという仕組みである。もちろんこの著者はそのことを知っており、そうして大変に幸福そうなのである。それは即実践可能だということであって、それなりに励みになる。なぜそうなのかという理屈も当たり前だが論理的に書かれてあって、そんなに怪しいものではない。さらにまた、実際にそんなに難しそうなことでもない。さて、それでは本当に誰でも幸福になれるのだろうか?
 答えとしては、誰でも幸福にはなれると思う。今が不幸の絶頂の人であっても、過去のことを仔細に思い出せば、多少なりとも幸福だったことはあるだろう。変な話だが、たとえ北朝鮮に生まれてきた人であっても、幸福だという人はいるかもしれない。そういうところが人間の面白いところだとは思うが、やはり気持ちの持ちようの部分が、結局は大きいということだ。そうであるなら考え方や、いや、厳密に言えば、行動を変えてしまうことで、幸福にかなり近づけるのである。最終的に幸福感を味わうのは本人だが、やはり、結果的に人は幸福な状態になるとかならないとかいうことになる。自分で幸福になりにいきながら、最終的には受動するということがヒントという事になろう。
 でもまあ、こういう本を読んでいると、改めてヒトというのは、逆説的に不幸な状態というのに陥りやすいことも理解できる。自分で望んでないことなのに、自ら不幸に身を投じてしまう人が多いのである。そうしてそういう不幸というのは、あんがい共感があるものだし、増幅もしてしまう。それは、おそらく人間の想像力が、不幸の恐怖から逃れたいがために、不幸なことを考えてしまうためではないかと思われる。不幸とはいえないレベルの嫌な事であっても、容易に忘れることさえ困難だ。そうして嫌な事や不幸なことをついつい幸福な状態にありながら、考えてしまう。要するにそういう幸福を楽しめない人が、あんがい標準のレベルで多く居るのかもしれない。まったくそれこそが不幸な現実といわねばならない。幸福な人や状態の人であっても、ずるずると不幸の道に滑り落ちてしまう。残念ながら、すべての人を安易に幸福にすることはできそうに無いのだが、しかしそれでも、幸福な状態へ転換させる足がかりは提供できる。実践できる人が増えていくことで、ひょっとすると幸福な連鎖というのも可能かもしれない。そういう意味でもこの本自体が福音書となりうる可能性がある。幸福から逃げたい人こそ、ぜひとも手にとってもらいたいものである。
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ペンギン空を飛ぶ

2014-01-29 | 散歩
 以前はよく動物園に行ったような気がしないではない。単純に好きなのだろうと思う。動物を閉じ込めている施設を好きというのは何たる残酷な人だ、とは思わないでもらいたい。本当はもっと残酷なんだよ。



 理由はいろいろあるわけではない。ちょっと行けない用事があると思っていたんだが、行けない事はないということもわかった。つまり行かなきゃどうするである。



 この動物園では子供のころにスケッチに来たことがある。象の絵を描いたり鳥の絵を描いたりした。僕は絵を描くのがとても早い子だった。もっと丁寧に書きなさいといわれたことをなんとなく覚えている。








 サル山も大好きだったが、今回はヒヒだということだった。みんな寒そうで、なんだかかわいそうだった。



 奥には熊が寝ていた。




 今回少しだけ熱中したのはミーアキャットだった。哲学的にかっこよく、かわいいやつだった。









 こちらはなんとなく風情は似ているがプレーリードッグということだった。





 ねずみも見たが、つれあいはつきあってくれなかった。





 ヤギが器用に寝ていた。



 アライグマも人気があった。餌を買うべきかとも思ったが、ほかの子供たちがやるのでいいだろうと思った。









 そうして目的というのはペンギンさんなのだった。いきなり空を飛んでいるようで、本当に素晴らしかった。















 上から見ても本当に楽しそうだった。写真を撮っている人もたくさんいた。ペンギンが人気者で、僕もなんとなくうれしいのだった。











 という具合に目的は果たした。


 後は散歩がてら、

 ビーバー。



 孔雀。



 キャメル。







 何だっけ?



 ゼブラ。



 何とかザル。子供と日向ぼっこらしい。





 テナガザルはあんがい人気者だった。



 ちょっといやらしいポーズ。



 子供が生まれたということだったと思う。



 写りが悪いな。



 これはレッサーパンダが背を向けているところ。




 植物園は暖かかった。







 かえるもいた。























 蛇もとぐろを巻いていた。同じくガラスの前で動かず眺めている子供が印象的だった。





 そうして帰ることにした。

 さよならパンダ親子。



インコ。





 そうしてたぶん皇帝ペンギン。




 SSKの横を通って、



 五番街というところに行った。



 そうして何故だかリンガー(野菜たっぷり)ちゃんぽんを食べた。



 また、ペンギンを見に行ってもいいな、と思ったのだった。











追伸:これは「食」のところで論じるべきことだが、リンガーちゃんぽんは長崎人にとっては厳密にいえば長崎ちゃんぽんではない。以前も語ったことがあるから繰り返さないが、丸亀製麺が厳密にいえば、讃岐うどんではちょっと違うということと似ている部分があるかもしれない。それでもそういう分野のちゃんぽんであることは認めるし、すでに定着しているまっとうさも認める。でも…、という点を持っておかない限り、ちゃんぽんの事は正直に語れない。


 さて、そういうことは無しに話すべきだが、リンガーもかなり変化していましたね。麺も変わっていたし、かなり味自体も変化していることに気づいた。やっぱり通わないとこういうことは無頓着になりますね、たぶん。社会勉強になった一日でした。
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引っ越す前段階 お引越し①

2014-01-28 | 掲示板

 訳あって近々引越しを控えている。自宅でなく職場。



 これが当たり前だが結構大変なのだ。何が大変かというと考えただけで。今はまだ準備段階なのにこれだけ大変だから、本番はきっともっとすごいことになるに違いない。本番がくるのは分かっているので逃げられないが、本番が過ぎるのも時間の問題だ。だからもう考えなくてもいいというのは普段の僕の考え方だが、しかし実際はそうはいかない。日々怯えて暮らしているという感じになってきた。



 そもそもあんまり引越し体験が無いからかもしれない。引越ししたことは無いではないが、回数が少ない。友人などの引越しを手伝うことは結構あったように思うけど、自分自身は数回程度かもしれない。それも本当に若い学生時代が主で、しかしその学生時代も基本的には地元人間だったから、回数が少なかったということだろう。手伝いが多かったのは、やはり地元人間だったのと、車を持っていた関係もあるだろう。



 手伝いだから準備段階をあんまり知らない、というのはだからそのとおりだろう。今困っているのはこの段階だからであり、怖いのは本番が来るからである。先延ばしばかりではどこかの国の政治みたいだからいい加減にしなくてはならないが、やはりもう少し先だったらいいのにな、という思いが消えない。しかし近づかないとできないものがあるから、やはり集中は必要だ。やはりそこのあたりが悩ましいのだろう。



 引越し好きという人がいるようである。これは環境を変えたいという願望が強い人かもしれない。一所に落ち着かないというのは、いいことなのか悪いことなのか。



 もともとサルのような動物は移動しながら暮らすようだ。食料や衛生の関係でそうしているのだろうけど、そもそもの欲求のようなものがあるのかもしれない。リセットするとやる気が出るのは人間心理だから、何かを始めるには住まいを変えるのは合理的だ。古いアパートに変わるといっても、新生活は始まる。そういう期待が強かったり、実際それが楽しかったり、そういう思いが強い人は、やはり住まいを変えてしまったほうが何かうまくいくようなことがあるのであろう。



 実は引越しの楽しみにはそれがある。今はその感情だけが、インセンティブになっているとは思う。引っ越すことは手段であって必ずしも目的ではない。そうではあるが、新しい生活の期待というのはそれなりに大きい。できればすべて新しいもの。そういう感じだともっとよさそうだ。



 仕事の引継ぎが無ければもっとハッピーかもしれない。いっそのこと仕事自体を変えてしまうか! なんてことになると本末転倒だから駄目か…。向こうに行っても新しい仕事をするわけではないわけか。いまさらながらにそれに気づくと、ちょっとなんだかがっかりかも。



 ともあれ、めんどくさいことを気分で乗り越えようという感じもあるかもしれない。



 実はこのブログの名前は、今の職場の場所のことを指している。引っ越すと名前をどうするか問題というのがある。あるがネット上は本当はそんなことはあんまり関係はないだろう。そういうことではあるが、自分にとっては正直になれないというのがありそうだ。しかし、やっぱり、移ってない自分が居ない場所のことを想像だけで決めるのはやはり問題がありそうだ。さて、本当に名前を変えるべきかどうするか。そういうどうでもいいことでも悩んでしまう時間のほうが、本当にもったいないということかもしれない。



 さ、準備準備。



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まったく変な個人史   フローベールの鸚鵡

2014-01-27 | 読書

フローベールの鸚鵡/ジュリアン・バーンズ著(白水社)

 読み始めてしばらくは、自分は何でこんな話を読んでいるのか我ながら疑問だった。それというのも、いつこの物語は始まるんだろうと、素朴に疑問に思ったからだ。なんといえばいいのか、おおよそ小説らしくない展開だし、評論といってもいいもののようにも感じる。評伝、という感じもしないではない。どこまで事実かは知らないが、どうもこれは本当の話なのではないか。日本にも私小説というのがあるから、それはそれでいいとしても、いろいろもったいぶった考察があって、ようやく物語が逸脱しだしてもなお、小説なのかはさっぱり分からない感じなのだ。もうあきらめてボツボツ読み進めて調子に乗ってきたら、ああ、やっぱりこういう小説もあるんだな、とやっと分かるような気分になって、しかし最後は元に戻って評伝のように終わってしまった。そんな作品といえばそれまでかもしれないが、変な小説であることには間違いはあるまい。
 そもそも名前くらいはなんとなく知ってはいたのである。それくらい有名な小説家さんではあるんだろう。誰が好きといっていたかは失念したが、池澤夏樹のエッセイを読んでたら、また名前が出てきた。まあ、酔狂にはいいかもしれないと思って、買っておいたものらしい。
 現代の小説がどのようなスタイルなのかというのは知らない。現代小説という分野があるのか無いのかも知らない。しかし、前衛的と知っていたなら、そもそも読もうなんて思わなかっただろう。しかし文体は目新しいという感じではなく、英国人らしい風刺の利かせ方は感じられる。つまり、なんとなく古臭い感じだ。でも小説としては特にまとまりも無く、何を言いたいのかさっぱり訳が分からない。で、つまらないかといえば、暇つぶしになるくらいはつまらなくない。これは一定のファンがいるな、というのは分かるくらいポピュラーな面白さもある。堅苦しく衒学主義的でもない。しかし、実に多彩な情報が詰め込まれていることも間違いなさそうだし、明らかに膨大な資料の読み込みもありそうだ。しかし小説だから信用はできない。そんなものを読んでどうなるか。ま、楽しむしかないんでしょうな。
 そんなことを感じながら読んでいて、しかしこんなような変な話を書いてみたいような欲求も生まれる。簡単に書けるようなことはないだろうが、ちょっと前に死んだような人を訪ねていって、いろいろ周辺のことを調べたりして、その人のことに思いを馳せるというのは、あんがい楽しいことではないだろうか。死んだ人だから、その人の歴史を語ってももはや文句は言わない。家族もいるだろうが、その人も忘れてしまうくらい適当に昔なら、勝手にありそうなことを発掘しても、そうそう文句は言われないのではないか。
 それが作者の動機なのかは知らない。しかし、このような錯綜した作品を描いたことは、さぞかし充実感があったのではなかろうか。フローベールのすべてを描いたものではないのかもしれないが、その周辺はかなりのところまで面白く理解することができた。本当かは知らないけれど、現代においてのフローベールは、そういう人で決まりである。後世の人が個人の歴史を作ること。そういう小説があってもいい。必ずしもそれがヒーローでなかったとしても、彼の書かれたものが生き残っていなかったとしても、そのようにして残る個人というのはあるのかもしれない。
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とにかく手っ取り早い即効薬   のうだま-やる気の秘密

2014-01-26 | 読書

のうだま-やる気の秘密/上大岡トメ&池谷裕二著(幻冬舎)

 基本的に漫画で解説したやる気を出す方法。分かりやすいしエキスだけきれいに抽出できているので実用的な本。普通に2,30分あれば読了可能なので、そのまま実践突入が可能な本かもしれない。そういう意味では即効性の高い薬のようなものかもしれない。
 池谷本はファンなのでたくさん持っている。時々手に取るが、基本的に焼き増しているものも多いのだが、その段階においては本人の格闘も垣間見えて面白い。まさに現役の研究者という感じだ。そういう本と比べてどうかというと、厳密には彼がほとんど書いてないことで、実は彼の考えがすんなり分かる仕組みになっているのは面白い現象かもしれない。外から見えて、さらにそれが間違いでもなく単純化するには、やはりこの漫画家の目が必要だったということなのだろう。作家としてだけでなく、編集者としての力量のある人が紹介したということが言えるだろう。
 やる気というのはどうしたら出るのかは、実は知っていた。それは過去にも池谷本読んでるし、他にもそれらしいことは何度も聞いている。しかしそれでも、やる気というものがすんなりコントロールできるのかというと、やはりそれなりに難しい。難しいがコントロールが不能かというと、これを読んだ限りでは、何とかできそうな気もする。実際にこれは朝読んで、数時間経過しているが、いろいろ済ませて時間ができた。正直言ってこれは凄いことであるように思う。即効性は僕自身が証明済みということだ。
 まあ結局は普通に考えると難しいことなんだけど、うまく騙くらかしてしまうと、あんがい脳というのは調子に乗りやすいということなんだと思う。そうなってしまうと自分としても気分が良くて、そうしてやりすぎるくらい平気になってしまう。そういう状態が習慣化するのが望ましいわけだが、もともとそれはそれなりに難しいことが分かっている。分かっているが、その難しさを逆手にとって、マンネリ化を習慣化に変化させてしまおうという目論見ができてしまうところも面白いところなのだ。
 時折検証しながら自分作りにいそしむということは必要かもしれない。薄い本だが人によっては、バイブルとして生き残る可能性も高い。お得という意味では、ずばりそのとおりの本といっていいだろう。特に年初に目標に挫折した人は、あきらめずにこれで自分を作り変えてはどうだろうか。
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僕も泣いているんだよ

2014-01-25 | 感涙記

 僕は普段はテレビは批判ばかりしている。じゃあなんで見るの? 問題はあるが、テレビは見るものなのである。で、やはり録画して見る。
 その録画する番組の9割9分はNHKなのである。報道は最悪の偏った思想が癪に障る放送局だが、いいものは、というより見たいものは、これに集中しているためだ。
 で、コウケンテツを見る。よく泣く人だよ。でもそれで、もらい泣き。よく分かるんだよね。今は以前のアジアの旅の焼き増しだけど、コウテンケツは素晴らしい。いや、現地の料理が素晴らしいのだが、コウケンテツの涙で、その素晴らしい味が分かるのだ。本当は日本人の口に合うようなものではあるまい。でも、この味は、涙が出るような人でないとわからない味なのだ。本当に素晴らしい旅とは何なのか。そういうことを考えながら見ている自分がいるのである。
 ほかに欠かさず見ているのは数多いが、「デザインあ」も素晴らしい。
 僕は見ていて時々やはり泣きたくなる。それで思い出すのはコウケンテツ。通じるものがあると思う。それが何かは良くわからない。でも、その視点の多くは似ているものがあると思う。こういう番組を、いわば面白がって作っている現場がある。そういうこと自体が、いいなあ、と思う。そして泣きたくなるのかもしれない。
 それは、やはり本当には王道ではないかもしれない。でも、ちゃんと同じようにいいと思っている人が多いからこそ成り立つ世界ではないだろうか。そういうものを信用できるから、何とか僕もバランスをとって、生きていこうかな、という勇気がわく。大げさだけど、そんなような感じが僕のテレビの時間ということなのかもしれない。
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普通に悪いのはコロンボだろう   刑事コロンボ・二つの顔

2014-01-25 | コロンボ

刑事コロンボ・二つの顔/ロバート・バトラー監督

 いつものように犯人は最初から分かっているように見える。そこのところをうまく利用したいつもとは違う味の作品である。
 コロンボが捜査の段階で犯人に嫌われるのはいつものことなのだが、今回は犯人以外からも激しく嫌われることになる。それはギャグだったり伏線だったりするのだが、嫌われて当然のデリカシーの無さ。さらに言い訳もするが、今の時代だったら到底その理由にも納得ができないものだ。当時はむしろおおらかであるということが垣間見えるわけで、現代社会だとコロンボは捜査をすること自体がかなり困難そうに思える。葉巻も他人の家の植木に投げ捨てたりするし、普通にだらしないチンピラのようなものなのかもしれない。僕らは昔からのファンだから、そういうところも愛らしく見えるわけだが、コロンボが生きにくい社会になっていることを改めて感じずにはいられないわけだ。
 被害者のフィアンセにしてもコロンボのことを嫌う。こういうのはなんとなく珍しい気もする。コロンボはむしろ、彼女の味方のはずなのに…。そうして途中では不必要にさえ見える退場もしてしまう。これで犯人が捕まらないわけにはいかなくなるわけで(いや、最初からそうでなくては困るが、倫理上これは行き過ぎた状態だろう)、なんだかちょっとかわいそう過ぎる気もするのだった。また、捜査の段階で殺した後にうまく逃げ切ったというだけの説明だけれど、そういうリスクがさらりと済みすぎる当時の警察力にも疑問が残るものだった。
 コロンボのテレビ出演であがってしまう場面もあるし、犯人の二役の映し方のうまさもあるし、なかなか見所も無いではない。弁護士の狡猾な悪さも面白いし、結果的に家政婦と和解するだろう結末もいいだろう。しかし、そういうものを含めても、なんとなく、まあそんなもんかなという鑑賞時間を過ごした感じになってしまった。コロンボ作品は過去にほとんど見ている(一番新しいシリーズ以外)はずなのに、まったく覚えている要素が無かったのも、なんとなく納得できる作品という感じがしたのだった。
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ポエムでも、力付けばいいじゃないか

2014-01-24 | net & 社会

 ちょっと前にNHKのクローズアップ現代という番組で、居酒屋甲子園の紹介がされていた。この番組を見た正直な感想は、かなり気持ちが悪いというものだった。餃子の王将の研修なんかもそうだけど、やらされている感というものがあるし、何かをごまかしているような印象も受ける。
 同じような印象を受けた人が圧倒的に多数だったようで、数日ネット上に批判の嵐が沸いた。あれを観たらそうだろうな、と思うわけだが、しかしこのネットの反応を見て、僕自身は少し考えを改めるべきという感覚も同時に持ったのだった。
 批判している趣旨は、基本的に低賃金長時間労働を隠蔽する手段として、このようなポエムや主張をさせているのである、ということである。番組の作り方はまさにそのような視点で作られていたことは明白だった。居酒屋というサービス業の形態や実態として、そのような過酷な環境を働くものに強いておきながら、夢を語らせてごまかすなんてけしからんじゃないか、ということらしい。僕の受けた印象とも、ほぼこれは等しい。
 しかしながらそうであるなら、いったい何故そのような批判にさらされることを承知して、居酒屋甲子園側は取材を受けたというのだろうか。おそらく、まったく想定外。むしろ好意的に取材を受け、さらにこの甲子園のような試みが広がることを期待していたのではないか。
 これがむしろテレビの恐ろしいところであると同時に、ネット上の意見の広がりの画一的な一方性を現してはいないだろうか。悪いものを悪いと叩いていいと、安心して集中放火する。いわゆる炎上していい題材ができて、喜んでいる様子さえある。いや、それも無理はないとは考える。僕だって気持ち悪かったのは確かだから。
 しかしながらその一方的な感じが、逆に気持ち悪いのである。
 居酒屋甲子園は、たとえ過酷な環境で働いていようと、その仕事において少しでも誇りを持って働いて欲しいという願いが、根本にあるのは間違いないようだ。居酒屋のようなサービス業で働いている人たちの多くは、自分の仕事に誇りを持てず、その職場の人間関係にも疲れ、転職を繰り返すというような傾向にあったという。それを何とかできないかという発想で、自分たちの仕事にも誇りを持てるところがあるじゃないかというものを、多少のデフォルメはあるかもしれないが、詩などに託して発表してみようということのようだ。それが結果的には第三者には気持ちが悪い部分があるにせよ、単純に批判できるものなのだろうか。
 サービス業に限らず、仕事というのはつらいものを内包していて当たり前である。さらにサービス業だからとそれ以外の業態の人間が、卑下して希望を持つなという制限を加えることに何の意味があるというのだろう。実際にはそういうサービス業を利用して疲れを癒し、明日の活力を得ているのは誰なのか。自分に誇りを持って働いている人間に、接客してもらったほうが、どんなに気持ちがいいのかを考えてもいいのではないか。
 あまりに一方的な批判ばかりだったから、改めて考えさせられたことであるので、それはそれで意味がなかったとはいえない。しかしこのテレビ番組は、かなり罪なことをしたものだったと思うのである。本当に社会悪なら摘発して批判するのも良かろう。しかし敵の内部にごまかして潜入し、裏切るような報道をする。そうしてそれに乗じて批判するものを味方につける。基本的にどちらの姿勢のほうが卑怯なのかは明白ではなかろうか。人間としては、どちらのほうが愚劣というのも明白そうに思える。
 僕としては基本的に「職業に貴賎なし」という考えに変わりはない。低賃金長時間という実態には、本当にデータを持って批判するならいいだろう。ただしそれだけを人間の価値観として、本当には計れるものではない。サービス業で働く人たちが、気持ち悪くなく元気になる方法を提案できるなら、それこそが本当に社会的に意味のある行いなのではないだろうか。
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そういえば沖縄編

2014-01-23 | 散歩


 実は、というか、ご存知の方も多いかと思うが、沖縄に行ってきた。
 もちろん仕事で、研修である。後ろめたくはぜんぜん無いが、一緒に行った連中の中には、同僚に申し訳ないと思ったそうだ。何を思おうと勝手なことであるにせよ、そんなこと思う必要など無いものを。



 結構空いていて、勝手に窓側に座って外を眺めていた。





 そうしたらやがて、見えてきたわけだ。





 天気はあんまり良くないようだが、それでも雨じゃ無くてよかったよ。






 で、一通り見学を済ませた。飛行機乗る前に弁当食ったので、なんとなく一食損した気分ではあった。






 沖縄はコンクリートの家が多いのだが、家の前はやっぱり植物が豊富という感じがする。





 そうしてお約束の首里城なのである。





 これはこの場で聞いたのだが、広場の前の並びの線が斜めなのであった。理由はなんだったっけ?



 とにかく赤くて立派だよ。



 昔の基礎らしい。



 先に進む。






 貫禄のある人がお座りになるんだろうな。



 外も見られるのであろう。



 まあ、立派。








 印鑑のようなものも立派だよ。





 急な階段。



 そうしてミニチュア。







 観光終えて、ホテルに帰って、ちょっと休憩後、歩いて懇親会。

 もちろん泡盛。



 なんとなくボーっとしてたのか料理の写真は少ない。





 踊りも見た。



 その後居酒屋ハシゴして、二件目で一度飲み直し、再度人が合流して部屋を替えてまた飲んだ。

 どういう理由か定かでないが、またタクシーで30分くらい移動して、4次会(かな?)で3時前くらいまで飲んだ。
 僕はこれが祟って風邪をこじらせてしまい、下痢の脱水症状と睡眠不足とで二日目はもうどうにもならんくらい耐え忍ぶ日となった。


 で、ひとつ研修会場を後にして移動中にひめゆりの塔に行った。



 結局僕はトイレに篭り、見学は足早となった。残念。それと合掌。


 まん前のおみやげ屋兼食堂。



 なに買ったかも忘れた。




 午後の研修も何とか済ませ、第一班は飛行機に乗って帰ってしまった。サヨウナラ。

 で、僕らは自由の身。てくてく歩いて国際通りへ。







 お約束の公設市場へ。









 で、二階にあがって懇親会前の飲み会を始めた。













 これで二日酔いは良くなった。


 僕は知らなかったけど、ネーネーズ(だっけ?)の居る店で飲んだ。




 やっぱり二次会も行ったけど、写真は撮り忘れた。



 飲み終わって、コンビニでさすがにたくさんお茶とか水を買って帰った。とにかく睡眠時間が惜しいのだった。




 翌日はちゃんと目覚めてシャワーを浴びて少しだけシャキッとしたつもりにはなったが、相変わらずおなかの調子は悪いようで本調子からは程遠い。
 でもレンタカー借りて観光には行くことになる。
 
 それで、お約束の…。



 美ら海水族館。

 水槽の中のヒトデたち。





 ということで水中散歩の気分を満喫する。











 結構な人出である。そういえば駐車場は「わ」ナンバーだらけだったから、ほとんど県外の人たちなんだろうね。外国人も多かったみたい。嫌われてる国のようだけど、観光は別なんだろうね。















 中学生みたいな人も(高校生かも)多かったけど、やっぱりそれなりにカップルが多い。皆さんお幸せに。









 というか近くで見ているので当然会話が聞こえるが、ウゲっとか、ジェジェッとか、儀濁音だけで会話を成り立たせている人が多いように感じた。彼らは本当に地球人だったのだろうか?












 そうしてお待ちかねの巨大水槽。何度観ても圧巻だね~。






















 でも結局その後もトイレ篭りは続き、一人はぐれてしまった。





 電話があってイルカショーでみんなと合流。オキちゃんとか、ゴンちゃん(だったっけ?)が一所懸命演技をしてくれた。





 その後移動して昼飯。



 その後万座毛に行ったが、そこでもトイレしか行けなかった。


 で、那覇に戻って車返して空港へ。




 空の人になって帰路に着いた。





 チカレタビー。





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無人島に持っていくもの前提編

2014-01-22 | なんでもランキング

 無人島に何か一つ持っていけるとしたら何にするか問題、というのがある。思考実験という性質もあるが、前提条件でいろいろ答えの違う難しい問題の様に思える。以前この問題を聞いた友人が「友達」と言っていてズッコケた。無人島に一人というそもそもの条件を覆すものだ。しかしそういう前提条件が無いのだから、それはそれとしてアリと考えたのだろう。でもそれがアリとなると、答えが異性であっても良い訳で、それは問題の本質と違う気もする。人は孤独と向き合ってどういうものを必要とするか、そういう性質がまずあるように思うからだ。
 さらにサバイバル問題と捉えるのもまずい気がする。無人島に一人なのだから生きていくための道具が必要なことが本当は最大の条件そうに思える。ではそういう実用的なものとすると釣竿や銛のような魚とりの道具というのがあるかないかで、だいぶ生存率に違いが出るだろう。もちろん拳銃など陸の動物を視野に入れてもいいかもしれない。道具を細工して作ることを考えると、ナイフや鉈のようなものだって重宝しそうだ。刃物は料理にも活かせそうだし。火をおこす道具だって大切だし、そうなると必需品って結構多岐に渡るので、選択に迷ってしまう。つまりそれはサバイバルとしてのとんち問題と言うことになる。
 電化製品は電池に寿命があるのでパスしたいところだが、実用として考えないならありかもしれない。レコードプレイヤー系のものは答えとしてOKなのではないか。
 そう考えると、やはり人間は退屈にどう対処するか。そういう個人の趣味の問題を扱っていると考える必要がありそうだ。さらに繰り返し鑑賞に堪えうるようなもの。実際にはそれでもそれしかないのなら飽きてしまうのは必須だが、そういうことも一時は無視する寛容さも必要だろう。本当のことであるという想像力もあるが、やはり実際は遊びのことだ。自分は退屈したら何を必要とするのだろう。さらに自分が大切に思っている究極もの、と言う感じのことになろうか。
 しかしそうはいっても、消耗する嗜好品という答えだってありそうだ。タバコや酒がないと生きていけない人もいるだろうが、現実にはそんなものを持っていってもいつかは底がつく。それでも持っていかなくてはという切実な思いならわからないではないが、それならそれは生活必需品と変わりないだろう。嗜好品と言うのはそういう中毒的な恐ろしさを秘めているものらしい。
 そういう前提のことを考えているだけで、実際に持っていく答えのことを忘れてしまった。どの道一人では何も楽しくない。そういう人はロープひとつあると首をくくれるかもしれない。いやこれも死に方問題としての選択は他にもある。もっと気楽に考えなければ、答えなんてとても答えられない。昔からある問題でありながら、いくつも答えがあったほうがいいという。不思議な設問なのかもしれない。さらにジャンルわけをして細分化すると、どんどん答えは増えていくだろう。本ならどうする、曲ならどうする、さらに細分化できるし楽器などの趣味世界もある。でもこれも壊れないという前提がさらにあって、無人島はリアルに本当に恐ろしい場所なのである。
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壮絶だが冷たく呆れ返る怒り   カティンの森

2014-01-21 | 映画

カティンの森/アンジェイ・ワイダ監督

 戦争に行った兵隊さんは、戦争が終わってもなかなか帰って来ないようだ。いろいろ事情があって、捕虜になったり交通事情が悪かったり怪我をして動けなかったり。そうしてやっと帰ってきてもいろいろと複雑なものを背負ってくる。また、いくら強く待ちわびる人がいたとしても、やっぱり帰って来ない人もいる。死んでいることが明白ならば、いくらか心の整理もできようものだが、死んだかどうかもよくわからないまま、という人もそれなりに多かったようだ。理由があるわけだが、その理由でさえ戦争の都合というだけのこと。死んだら本人は話せない。それが物語を複雑にしてしまう。死んだという知らせが届いても間違えられていただけで、実は死んだ人が帰ってくる。死亡リストに無かったのに、やっぱり死んでいたという人の代わりに…。
 たくさんの人が死んだのだから、どのようにして死んだのかということも、必ずしも明らかではない。日本にも戦後の引揚者から話を聞くだけのことで、かなり錯綜した状況が生まれたようだ。中には詐欺まがいのことが起こったり、嘘をつく気が無くても、適当に話をあわせて、不確かなことが正当化されたり。戦況は調べる人がそれなりに筋を作るが、兵隊のそれぞれの状況なんて、誰が記していたわけでもない。膨大な数の真実があり、しかしそれらはむなしく埋められたまま風化していったのかもしれない。
 しかし、そういうどさくさに紛れて、戦後に物語を作ろうと考える人たちもいる。実際は嘘だから矛盾がある。疑いを捨てきれない人もいるし、知っててそれを受け入れざるを得ない人もいる。戦争だから、勝った側と負けた側がいる。別に正義だから勝ったわけでもないし、悪だったからこそ勝てたわけでもない。しかし勝った方は、幾分そのことを正当化したいという欲求がある。悪いことをしたのは全部負けた側がしでかしたことだ。そういうことにしておきたい。特に負けた方に極悪非道のナチスがいるではないか。
 カティンの森とはそういうそのものの悲劇とともに戦後の悲劇が重なった事件のようだ。生き残った人が、だからずいぶん長く苦しめられる。いや、苦しみが短いからそれで良いともいえないわけだが、戦後ずいぶんたってから、実際の姿が霞んでよく見えないようになってから、改めて当時のことが語られるようになる。歴史というのはそういうどんでん返しを含んだ真実であるわけだ。
 さて、それでもしかし、ラストのそうであったろう虐殺の描写のすさまじさはなんともいえない。動物の屠殺と基本的には変わらないわけだが、もちろん食うために殺しているわけではない。坦々と、ただ殺すためだけに殺していく。後には死体の山ができ、そうしてブルドーザーで土をかぶせて埋めていくだけ。意味は良くわからないが、復讐が怖かったのか、捕虜の人間が邪魔になったのか。感情がわからないから、余計に冷たくそして壮絶にあきれる思いがする。その悲しさも、哀れみも、ただ余裕の無いまま済んでしまったことなのかもしれない。
 昔の話でも、怒りは消えないというのはそういうことだろう。虐殺だからと特化するのも人間の癖だが、それは戦争そのものの一部の姿なのである。そのことを考えられるかどうかも人間の分かれ道。つまりこの映画観た人たちの問題なのだろう。
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宝くじは僕には当たらない(買わないし)

2014-01-20 | 音楽

 今頃になって昨年のことを考えるなんて間が抜けているんだけど、さらに最近は新しいCDなんてまるで買わないのが現実だから、語る資格なんてものもなさそうな気がして申し訳なく思う。思うが感想はあるんだからしょうがないじゃないか。
 それというのも月並みだけど、ロックの高齢化が進んでいることと、しかし新人もそれなりに増えたという印象がまずある。そのコントラストが鮮やかだった年ということがまず言えそうだ。ポール・マッカートニー兄貴しかりストーンズ話題は、もうなんと言うか、涙。デビット・ボウイなどはアルバムも素晴らしく現役感あふれ、ただ脱帽。これって本当にすごいことなんだよな、と後でしみじみ思ってしまう。しかしやっぱりジェイク・パグであるというのもあって、彼はすでに大物として歴史に残って、そうして僕らの死後も活動しているはずのような予感がある。若いけど古いタイプのピン芸人。じゃ無くて正統派スターでやっぱりすごいなと思った。また、やっぱり若いけどストライプスという超古臭い完璧なスターバンド。時代が時代ならビートルズよりすごいのは間違いなさそうだけど、やはり大人の陰謀も感じられるし、かわいいけど本格派というまま、そうして長く活動して欲しい大本命なのであった。
 でもまあこっそりというか個人的に今年良かったなと思うのはバンパイヤ・ウィークエンドとパールジャムという変り映えしない面子だったりする。内容も変り映えしないし、特に並べていいものか疑問のあるタイプの違う二つのバンドなんだけど、そういう変わらんが地味にすごい感じが良かったという感じかもしれない。
 アトムズ・フォー・ピースもあるじゃん、という声はわかる。わかるけどこればっかりは、なんとなく鼻についてしまって、しかし悔しいけど良いと思うから、もういいんじゃないの、という気持ちが強くなった。そういう人で楽しめばいいので、もう広がりを見せて欲しくない。
 それとたいした話題じゃないが、僕はお兄ちゃんよりビーディ・アイのほうがいいと思ったね。やっぱり声の力なんだろうか。どっちもどっちなんだという意見もあろうけど、偉そうより普通に不良の弟のほうが、力強くかっこいいという感じもする。世間もそれでいいんじゃなかろうか。
 ほんとのこというと、年末はN島君がFBでドナルド・フェイゲン聞いてる旨UPしているのを見て、なんとなくスティーリー・ダン熱が高まって熱心に聞き返していた。一緒に聞いていたのはベックだったりクラッシュだったりRCのブルーだったり急激に古いというか、いつもどおりというか、で、カラオケでは沢田研二を歌ったりしてたわけだ。おいら何にも変わんないんだもんね。それと一番新しめで繰り返しなんてものはアラバマ・シェークスとビンテージ・トラブルで、これはすでに一昨年前だから微妙に古い。もっと巷間で盛り上がって欲しいと思ってたけどなんとなく消えたように見えて寂しかったのだ。
 最後になぜか避けて通っていたようなものがあって、それはほかならぬダフト・パンクということになる。この恥ずかしいくらい古い感じのものが昨年を圧倒的に席巻していたという風景が、僕にはどうしても馴染めない思いだったかもしれない。一部のファンが盛り上がっている分には微笑ましかったのだろうけれど、何でまたこうも世界がこれ一色になるくらいこればっかりになってしまったのだろうか。怪現象といってしまえばそれまでだけれど、誰もこればっかりは良くわからん状態だったのではなかろうか。時代がめぐってちょうどここにやってきて、何にも変わらん古臭いやつらの頭の上に偶然落ちてきたということでしか説明がつかん、という変な感じで昨年を片付けてしまいたくない思いだった。だからほんとのこというと、終わってホッとしたというか、もう終わって欲しいは願望かもしれない。本当に何か新しい予感のほうが、めぐりめぐってくる偶然より楽しそうだ。まあ、世の中は本当にわからんもんだねという宝くじ的な当たり年だった人たちに、僕らは振り回される運命にあるのかもしれないですけど…。
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足跡は残したくない

2014-01-19 | 

 一人で飯を食う機会が少ないというのはあるが、確かに一人飯というのは少し悩やまないではない問題かもしれない。めんどくさいから食わないでおこうと思うこともあるし、しかし腹は減るので気になるとはいえる。
 出張中なら比較的簡単ではある。もともと一人なら普通にラーメンかそんな感じ。カウンターに座って携帯をいじればどうにでもなる。文庫本をポケットから出すのは少し勇気がいるかもしれない。
 問題は普段の飯で、しかし一人での昼飯かもしれない。僕は行ってみたい店というストックがそれなりにあるから、そういう機会に選ぶというのはある。しかしそういう場所で無い場合がある。公園がそばにあればコンビニ・サンドイッチでいいけど(散歩にもいい)、寒いから温かいものを食いたい場合もある。とにかく歩いてみて、店を物色する。
 第一に探すのは食堂系列。一人客が多そうだというのもあるし、なんとなく無難である。ふらりと入っても気を使わないような感じもいいかもしれない。女の人が少なそうなのもいい。一人なのだから余分なことは考えたくない。
 チェーン店も場合によってはいい。しかしどこでも一緒という感覚は、少し損した気分もちょっとある。無難なものを食おうというのに、ドラマが欲しいということかもしれない。
 最近は夜は居酒屋だけど、ランチもやってます、みたいな店も多くなった。残り物でやってるとは限らないが、あんがいあたりもあったりする。また、飲み屋ということもあるので、僕のような人間には比較的入りやすい。飲みはしないけど、慣れの問題だろう。
 変な話だが、ものすごく旨い必要もない気がする。いや、旨いにこしたことは無いのだが、僕はグルメじゃないし、びっくりするほど旨いのはどうかとも思う。なんとなく現地人にも愛されて、たまたまそういう場面に遭遇したというしあわせと同化が大切であって、僕自身も当然のように忘れ去られる。そういう感じに飯が食えれば最高だな、と思う。特に一人なんで、誰とも共有するものが無い。だったら消え入るような体験こそ、一人飯には必要な条件なのではなかろうか。
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壮絶だけど変な映画   ザ・マスター

2014-01-18 | 映画
ザ・マスター/ポール・トーマス・アンダーソン監督

 初っ端からなんだが、見事に何のことなのかさっぱり分からない映画だった。何となくエッチなトラウマの葛藤映画なのかというのは感じたけど、だから何だというのはやはり分からない。分からないが何となく怖い感じがつきまとって、いつそれが大爆発するのか、ドキドキし通しだった。そういう緊張感の持続するいい映画ではあるのだが、いかんせん何のことやらわからんというのは多少痛いことかもしれない。しかしながらそれで面白くない映画かというと、実はそんなことはなくて、さすが若いのに熟練の監督さん風のアンダーソン君という印象も持つ。素晴らしいけど、まったく変な映画なのであった。
 人間の洗脳はどうやってやるか。さらに多少キテいる人に対してはどうするか。おそらく実話どおりというか、かなり忠実に再現しているのではないか。普通の洗脳は学校の授業で受けているものが基本だけど、もっと個室などのほうが効果が高いだろう。基本的にわけがわからないだろうけど、支配するにはこういう感じだとうまくいくというのは学習できる。もちろん自己防衛のためにこれを学習しておくと、たぶん生活上も役に立つだろう。これを見て「まったく平気だったよ」という安心を覚える向きには、甘い!とだけ言っておこう。対面の人間の迫力というのは、こういうものではもちろん違う。知っておいて騙された振りをするのに都合がいいと考えたほうがいい。そうして次の機会を作らず逃げる。実生活ではそういう術こそ賢い生き方だ。
 そういうことだとは思うのだが、やはりかなり怖い体験には違いない。おかしいと気づきながら、実際には抗えない。しかし組織からは疎外されても行く。そういう葛藤を経てしかし首謀者との関係は深くなっていく。お互いがお互いを奇しくも支えあっている。妙なバランスなのだが、しかしそれなりに強固に結びついている。それはお互いが実は弱く不安定だからこそ、お互いが強く結びつくということなのかもしれない。人間の結びつきというのは本当に不思議なものだと思うのだった。
 そうではあるが、やはりむちゃくちゃである。こんなことがあっても、支持者は広がっていくということだろう。強烈な個性だからというのもあるし、しかしその首謀者には影の支配者もいる。そういう重層的な狂った世界が本当に存在しているということだ。多くの有名人がその会員である、米国の有名なカルト宗教集団のサイエントジーの内幕映画なのだから。僕はまったく知らずに見ていたのだが、最初は宗教ではなく科学であるということでスタートしていたのだ。科学というのも一種の宗教だから(学問としては違うが、大衆の思想としてはいまだにそうだ)、その成り立ちはまったく正しい。そうして間違いを指摘されるとキレるのだ! 面白すぎるが、痛い。こんなんで本当に米国その他を席巻しているなんてまったく驚きだ。トム・クルーズやトラボルタやベックなどが信者だというが、こういうのに引っかかってるなんてまったくほんとにどうかしている。しかし宗教なら自由だから僕は文句はない。せいぜいがんばってください。
 でもまあ、やはり人間には救いが必要なんだろうな、とは思うわけだ。そういうどうしようもない部分がたまらなく悲しいわけだ。自分がおかしいことはわかりながら、やはりおかしいことはやめられない。ほんの一時でもいいからそういうものから逃れられるとしたら、たとえそれが本当には間違ったことだったとしても、第三者の誰がそのことをとがめることができるのだろうか。いや、迷惑ならとがめていいんだけど、本人はやっぱり納得はできないだろうな。
 もともとそういう変な人間の本質部分をえぐりだす映画なのだから、映画自体がやっぱり変になっても仕方がなかったのだろう。問題作というのはそういうものだという見本のような、実に妙な気分にさせられるカルト映画ということが言えるのかもしれない。お勧めではないけど楽しんでください。
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