カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

当たりを約束通りに分けるべきか

2013-08-15 | 境界線

 僕は本当はギャンブルは好きなんだと思う。でも好きだからやるかといえば逆で、好きなのを分かっているから面倒でやりたくない。そこのあたりは理解できる人もいると思う。
 宝くじは買わなければ当たらないと言われる。夢を買うとも言われる。しかしながら基本的にギャンブルだと思う。そういう感じもなんだか嫌なのかもしれない。もちろん買う人は買えばいいと思う。寄付的な感じもあるから、本人は善意かもしれない。
 つきあいというか、その場の流れでつい買ってしまった事はある。結局番号を確かめる事もしなかった。どの道当たらないので無駄な努力だ。どこかにしまい込んだのだろうか。誰かにやったのだろうか。それすらも記憶に無い。ただ、当たる訳が無いという思いしか無いので、確認する時間がもったいないと思ったのだろう。
 もちろんそれでも当たる人がいるのは知っている。高額な宝くじが当たるのは大変な幸運だろう。でもそれは雷に打たれて死ぬ人もいる、ということとさして変わらない出来事という気がする。それは不幸なことだろうが、そういう人もいるということだ。出来事としてはかなり近しい感じもする。僕にとっての宝くじはそういう不吉さも含まれている。
 先日景品として宝くじを頂いたそうだ。つれあいから電話があって、「当たってたよ」という。宝くじを頂いたとき、同席していた人たちと当たりを分けあう約束をしていた。約8名ばかり居たんじゃなかろうか。さて、300円を分けるべきか。そういう倫理については悩むべきではないのかもしれない。
コメント
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