goo blog サービス終了のお知らせ 

カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

一旦停止。

2025-05-21 | 掲示板
 という訳で、この親元であるgooブログの閉鎖に伴い、僕のブログのここでの更新も、一応これでお終いということになる。実際は11月に閉じるそうで、膨大なアーカイブがあるので、それはそのままにしておくというだけのことだ。
 なんというか本当に残念だし、資料を使っての概ねの移行ができたとはいえ、ぜんぶは出来なかった。そういうのってもうやる気にもなれない。12年だったかの歳月のいわゆる習慣めいたものが、これで閉じるわけだ。もっともはてなとワードプレスという二か所でブログは続けようと思うが、見に来てくれる人は伸び悩んでいて、これまで通りには戻りそうにない。そういうのが歴史ということなのかもしれない。
 長い間ありがとうございました。
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強引に引っ越しさせられている件

2025-04-19 | 掲示板

 gooがブログを閉じるという。実際には11月18日というからずいぶん先のことなのだが、少なからぬ衝撃が、このあたりに響いている。さっそく対応する必要を感じて、連携しやすいという「はてな」の方でブログを開設してみた。それだけでも良かったのだが、ふと別のものもこの機会に試していいかも、と思い、ワードプレスというところでもブログを開設してみた。どちらも慣れない設定なので、なんだか戸惑ったが、印象としても一長一短あって、面白くないわけではない。記事をUPする方法は似たようなところがあるけれど、いわゆるgooのように予約記事という考え方をしていなくて、両方とも今UPしないのであれば、下書き、としてストックする考え方をしているようだ。一応順に溜まるけれど、日付の指定ができないので、ちょっと不安なところがある。まあ、慣れはするだろうけれど。
 そういう感じで数日して、データをインポートする準備ができた。これは将来的に過去のものが消えてしまうので、「魚拓」の意味もある。何しろこちらのブログになって19年の歳月と七千を超える記事がある。写真も多数。改めてお世話になったな、とも思うが、そういうものが乱暴に消えてしまうという思いには、怒りもある。gooの親会社はNTTという巨大なものだから、信用して選んだのである。酷い裏切りのような感じもする。もっとも企業だから、収益に問題があるのだろう。ということは、他のブログサービスだって同じような構造を持っているはずで、やはり現代的にはSNSに写真や短文をあげるスタイルの方が、圧倒しているということだろう。アフォリエイトで収益の話もあるが、そういうのは釣りであって、実態は別のものだということくらいは見当が付く。僕らのような無名の人間がこういう事をしているのは、クラウド上に検索可能な魚拓があることが第一であって、そもそも詐欺的に金を稼ぐことではない。
 しかしながら引っ越しデータができて、「はてな」にデータをインポートを試してみたが、なんと、データが大きすぎてできないのである。仕方が無いので分割することにするが、このやり方どうにも上手く行かない。検索かけて、そのやり方をまねていろいろやるが、自動で分割したりしない。ということはやはりアナログにやるしか無くて、データを開いてスクロールしてコピーを複数作った。これには一時間以上かかってしまった。だいたいの勘ではあるが、8つくらいに分割してインポートにかけてみると、今度はデータを何とか読み込むことに成功した。やったね。しかし今のところこれも時間がかかっていて、今現在4つ目のファイルの読み込み中、と言ったところ(※ 結局その後丸二日かかってしまった)。一応記事は読めるように移行していることは確認出来ていて、ぜんぶの状態までどうなのかはまだ分からないが、まあ、多少おかしくても魚拓が確実に取れているのなら、いいだろう(※ 結局1000くらいの記事は行方不明のようである)。
 すでに書き溜めているものが、5月の中旬くらいまではある。でもまあ「はてな」のページは、それなりシンプルできれいで見やすい。基本的には、引っ越し場所としていいのだろう。しかしワードプレスに仮に開設してみて、なんとなく引っかかるものもある。魚拓は「はてな」でいいとしても、使い分けるというか、ちょっと交互に使ってみてもいいかもしれない。それというのも、使い勝手はそんなに良くないにしても、すぐに反応がある感じもするのである。こちらの方が寄りやすい何かがあるのではないか(※ AIで内容に対する画像を制作してくれるのだ。しかしながら制限があって、10回くらい使うと有料版に誘導されてしまった)。僕にはそれがわかり得ないが。確かに操作しにくいにしても、なんとなく不思議な別の美しさがあるのかもしれない。まあ、迷いながらではあるが、それぞれ楽しんでやるしかない。ぼちぼち使いながらやってみます。

※ ということで、おそらくだけど、ここはいずれにしても閉じて、数日後は引っ越します。新しいところでもよろしくお願いします。
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昼寝したのに寝足りない

2025-04-18 | 掲示板

 認めたくないだけのことなのだが、目がかゆくて、鼻水の出る日が続いていた。要するに花粉症かもしれないということだ。抗アレルギー薬は飲んでいて、しかし今年はなんだか効かない感じもする。鼻水に関しては、相性のいい薬があって、それを飲むと一時期は収まるような感じにはなる。しかしちょっとボーっとするので、続けて飲みたくもない。背に腹は代えられないから飲んでいるだけである。
 しかし微熱があったりする。咳も出たりする。要するにこれは、風邪であるかもしれない。熱はほとんど無いのだが、たまに36.8度Cくらいまで上がったりする。そうして咳が出て、ある宴会の席の二次会で歌を歌ったら、声がかれてしまって、さらに風邪の後遺症のような感じになってしまった。喉が痛くて咳が出るので、本当に病人である。しかし風邪ではないと言い張っている。そうして別の飲み会に行って、タクシーが来ないよ、と言われて、それでは一緒に居た人の代行運転に便乗させてもらうことにしたのだが、それでも配車まちで一時間。すっかり午前様になってしまった。
 翌朝はそのまま同じような時間に起きたのだが、眠くて仕方がない。明らかに体調がおかしい。飯を食って散歩して、なんだかフラフラする。しかし愛犬のとの絆の方が大切である。そうだけど具合は悪いままだし、昼にご飯を食べたらどうしてもどうしようもなくなって、ソファーで布団をかぶってしばらく寝ていた。
 そうしたら、目覚めた後もなかなか、体がきついのである。なんだかいつまでも寝足りないというか、三時間以上は寝ていたようで、そうするとトータルで考えると、普段の睡眠時間の累積上は、だいたい多いくらいだ。要するに十分に寝ているという計算はついている。そんな感じのはずなのに、寝不足のまま無理に起きている感じがする。だるい上に、何かむかむかするような気分の悪さもある。
 仕方が無いので夕ご飯に酒を飲んでようすを見るが、ビールを飲んで、ワインを飲んでいるが、スイスイ進まない。休憩して眠くなって、しかし風呂に入り、風呂上がりだから焼酎の水割りを飲んで、それを二杯目くらいになって、ようやくちょっとだけ落ち着いたのだった。さらにもう一杯飲んで、これは大丈夫かな、と安心したが、翌朝起きると、やっぱり具合は悪いのだった。ということは、やっぱり風邪をひいていたのだろうか。
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年賀状は気楽になった

2025-01-24 | 掲示板

 今年は(昨年末は)年賀状の数が大幅に減った。職場で出すものは、減ったとはいえ三百枚程は固定があるので、そこまで実感は無いが、なにしろ個人のものがだいぶ少なくなった。若い頃は先輩にもさまざまな仲間にも出さなくてはならないという使命感のようなものがあったので、二百枚程度まで伸びた時代もあったが、だんだん返信の無いものを減らしていって、百五十枚あれば十分、というところまでは近年来ていたと思う。昨年もだいぶ減った印象もあったが、とりあえず実績のありそうな百五十枚は一応葉書は買っておいたのだが、昨年来た人を中心に書いたのは百枚にもならなかったし、予期せず来たものは四枚程度だった。一気に百枚を切るまでになってしまったのだ。
 改めて年賀状じまいをする人が周りに増えたものだと、つくづく思う。昨年に、来年以降はお気遣いなく、という文面が目に付いたものだが、今年は予告として、年賀状は出さないというのまで来た。丁寧というのはあるが、さすがだな、と思う。ある人の話だと、そういう予告も何もなしに、賀状が来てもとにかく反応しないということをしても、数十枚は来るものだ、と言っていた。だからもう何もしない、ということなのだろう。
 はがき代が上がったという理由も、それはきっかけにはなったと思われる。しかしながら一番多い理由は、やはりSNSなどでリアルタイムに年始の挨拶は交わすようになったのが一番だろう。つながっている状態で挨拶を交わしているのに、さらに賀状まで出す必要性が薄くなった。もともと年賀状は、年始の挨拶ができかねる場合を考えての書式での挨拶なので、年始の挨拶をすることが分かっている人には出す必要はないのかもしれない。そもそもの年賀状の役割に、現代人は戻りつつあるということなのだろう。
 僕としては特に来年以降この流れに沿って年賀状じまいをするような気分には無いが、年賀状を年末に書くという重責から、実際にかなり負担が軽くなったというのはあると思う。減ったおかげで数時間なんとかしたらいいことになったので、逆説的に、これなら続けてもいいかもな、という感じかもしれない。この程度ならいい、という気分と、さして重要でない気分が合わさって、出し忘れや、思わぬ人から一方的に頂いたとしても、そこまで心を痛める必要が無いような気もする。実際どう思っておられるかなどは分かりようがないが、ずいぶん気楽な行事になったものだ。デザインはつれあいにやってもらうようになって久しいので、そんなに負担を感じないでも、そもそもよかった問題だったのである。字の練習になるのであて名を書いていたようなところもあるし、しかしそんなに簡単に字なんて上手くならない訳だし、さらに利き腕が以前よりうまく使えないような年頃になってしまって(ちょっと麻痺があるのである)、そんなことも気にならなくなった。いい時代になったなあ、ということになるんだろうか。まあ、そういう事で、皆さんあんまり気にしないでくださいませ。

追伸:今年頂いた年賀状で感心したこと。数枚蛇の絵を手書きしている人がいた。一筆書きのようなものと、漫画チックなもの。それぞれとても良かった。ヘビは単純なようで、描いてみるとあんがいむつかしい。しかし、やはり味があるものである。
 アプリがあるのだと思うが、家族の写真などをきれいにはがきサイズに合わせて印刷してあるものがある。毎年このサイズがきちんと印刷されてない事に悩んでいるので、こういうのを見ると、いいなあ、と思います。もう済んだことだけど、来年はこういうあたりをブラッシュアップさせたいです。
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あけましておめでとう

2025-01-01 | 掲示板
 新年あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
 という事で新年の始まりなんですが、おめでたいのは一般的にあるにせよ、まあ、なんと言いますか、いろいろと心配といいますか、そんなこともあるわけで。それに、かみさんにもいろいろ怒られることもあるんで、僕として自由という訳では無いんですけどね。人が生きていくというのはそういう事なんで、いまさらながら、それでいいわけですけど。
 僕はメモ魔というか、メモはもちろんだけど、いくつか手帳とかノートを持っていて、それに何かを書く、という習慣があります。だから日々何かをするとか、そういうのは複数のものに書き込んで、書くだけで見返さないものはあるにせよ、いくつもそういうのは既に書いている訳です。でもまあ、あんまり空想の世界に住んでいる訳ではないわけで、今年がどうだというのは、そんなにスペシャルで無い、というのはあるかもしれません。無いというのは無いにせよ、しかしそれなりに……。
 なので今年は何をする? ってので先に心配なのは、行く先々で、いわゆる二次会ですね。スナックなどをどう効率的に探すってのがあるんですよ、実用的に。これが上手くいきますように、ってのが、実はそれだけが願いだったりします。まあ、人任せのことは難しいので、願いというにすぎませんね。
 今年自分自身がどうしたいというのは、そんなに例年と変わるわけではないのだけれど、せっかくだから夢としての目標というのか、そんなことを思うとしたら、ほんとに自分の限界を自分で決めない、ってのがあります。だんだん諦めることが多くなってきている昨今、仕方ない部分はあるにせよ、そういうのは切り捨ててしまって、一見無理に思えることでも、いや、考えてみよう位のものなんですけどね。それでどうなるか、ってのは、あんまり考えないで、自分の殻を破ってみたいと思います。そういうことの繰り返しで、これまで来たわけでもあるんですけどね。だから失敗の多いこともあるのですが、そうなることを望んでいないでそうなってるんで、怖がっても仕方ありませんものね。
 という事で、一応威勢よく行きましょう。
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過去を振り返ってしまった

2024-11-01 | 掲示板

 これは僕の性格の問題だと思うのだが、一度始めてしまうと、なんというか、一定の間どうしても気になるというか、明確な答えのようなものが得られないことが分かりつつも、ずっとやってしまう、ということなのである。
 きっかけに当たることは、既に一年以上前のことになる。僕は毎週FBになぞなぞ問題を出していて、最初はあんまり気にして無くて、ちゃんとした記録は取っていなかったのだが、推敲したものとか、ワードに残っているものがあった。それである程度出題して、これからも続きそうだな、と考えて、ナンバリングして記録を正式に残すようになっていた。それがもうかれこれ十何年か前からのことになっていて、ワードだとパソコンだけの作業になるので、グーグルのドキュメントに、設問を途中から移すことにしたのだった。これもすでに何年も前になる。文字の検索も簡単なこともあって、重複も避けられるかな、ということもあったりして、使い勝手がいいのかもよく分からないけど、とにかく移してしまっていた。
 設問として既に出題したものだけナンバリングしていったのだが、まだ出題を控えているというか、事実上の没になった問題も含めると、それなりに膨大な量のストックが生まれていた。それで出題したものと、まだ推敲中というのを分けて記録した方がいいかも、という考えが浮かび、それでそのように分けてみることにした。その時の状況は今となっては記憶があいまいなのだが、なんとなくエイヤっという感じにやってしまい、後で考えると出題した過去問題の数百を、何故か消去してしまったのだった。気が付いたときには後の祭りで、あれれ、と思ったらもう無かった。焦ったがどうにも元には戻らない。幸い古い方の300ばかりはワードの記録が残っていて、いちおうそれを持ってきてコピペした。新しい方の問題も、分けようとした最初の段階で小分けした断片の記録が残っていて、だいぶ探し出すことができた。消去してしまったショックも大きかったが、そういう作業を経てみると、失われたのは150問前後にまで減ったようだった。しかし正確なナンバリングが分からないものもあったし、新しいものはこれからのこともあるので、ちょっと整理が必要だった。頭に血がのぼっていたので、少し距離を置いて考える必要があった。別段死んでしまう訳ではなく、自分のミスが嫌なだけなので、落ち着きが必要だったのだ。
 そういう訳で、もうかれこれ一年くらい、このことは考えないで、なぞなぞ問題は作成し続けていた。それでふと思い出したのだが、考えてみるとずっと過去問題はFB上にあげてあったはずである。これをさかのぼることで、正確な順番と過去問題の復活ができるのではあるまいか。なんでそんなことに今まで気づかなかったのだろう。
 で、頑張って遡ることにしたのである。自分の出題だけに絞って遡ればいいので、自分のプロフィールのようなところから過去に飛んでいく。しかしながら一年でも52問。僕は毎日他の投稿もしているので、毎日の記録は飛ばして見なければならない。流れる画面で一週間前ごとに止めて設問を確認していく。ずっと作業をやっていて、それはちょうど土曜の午後からだったのだが、気が付いたらいつの間にか4時間以上が経過していた。それでも遡れたのは数年に過ぎなくて、遡っている途中でFBの画面操作の問題なのか、ときどき固まってしまったりすることが分かった。FBもあまり過去のことになると、記憶があいまいになってしまうのだろうか。時々文章はあるけど写真が無いなど、奇妙なことが起こるのだった。そうして現在の画面に突然戻ってやり直し、という事にもなってしまった。もう確認したものを再度見直すのはだんだんまどろっこしくなって、画面を自動で飛ばす技術も取得した。画面右下の矢印を押したまま右クリックすると、自動で画面が流れて過去にさかのぼるのだ。そうやってしばらく放っておいて、また戻ってくるとたいてい画面が白くなって固まっている。スクロールで少し戻すとそれが解ける。だいたい二年から三年までは自動でそのようにさかのぼれる。一度止まってもしつこく放置すると、また動き出して遡れることも分かった。しかしこれも5年から6年前までということが多く、塊のままいつまでも放置したところで、今度は本当にフリーズしてしまったりするのだった。
 そんなことを繰り返していると、その自動で遡る作業だけという毎日を送ることになったりして、いつの間にかその作業だけで一週間が費やされてしまった。うまく行くときは2014年の何月だったかが最高で、それ以上はほどんど遡れなくなってしまった。
 パソコンの調子なのかどうかよくわからないが、最高記録は別として、だいたい2016年とか2015年くらいまでは毎回さかのぼれることに成功するようになった。そうしてワードで復活した過去問と照らし合わせて合致するところまでは、すでに突き止められるようになった。それは過去問の100問を切るところまでだった。一門一門再度確認していくと、ワードやドキュメントの記録では飛んでしまって失われているものも見つかった。そうしていつの間にか数十問のカウントを飛ばして、現在に至るところも発見した。そういう問題を細かく埋め合わせて、そうして改めてきちんとカウントし直して言った。そうして現在に至るまで600問以上を、再現することに成功したのである。
 それで分かったことで、意外だったのは重複が2問ほどあったことだ。気を付けていたのにやってしまっていた。問題文は違うのだが、答えが一緒なのだ。しかしそういう事はあるかもな、という思いは実はあって、意外なのは2問だけだったことだ。さらに意外だったのは、すでに出したはずだと思い込んでいて出していない問題が数問あったことだ。つれあいとは問題を出す前に問題になりそうな単語について話をしたり、素案の時にラインで見せたりするので、それで覚えのある単語は出したと勘違いしていることがあるのかもしれない。しかしもしかするとそれも思い違いで、FBの記録からもすり抜けて失われてしまうこともあるのかもしれない。実際自動運転になってから、ずいぶん過去まで行く方を優先するきらいがあって、途中はかなりすっ飛ばす。そういう中に失われた問題があるのかもしれない。そうして全部の過去問までたどることは、今のところ不可能なのである。絶対にすべてを確認できたという確証がない。たかが自分自身の十数年の歩みであっても、正確に割り出すことは困難なのである。
 というところまで分かったのだが、もう二週間くらいそんなことをやっていて、途中出張もあったりして中断もしたわけだが、もう離れるべきだろうな、と思うのである。いったいこんなことをどうしてしなければならなかったのか、それはまた、あいまいな自分の中の問題であり、やはり性格的なことなのだろうな、ということなのであった。
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休肝日と戦う

2024-08-11 | 掲示板

 いちおう休肝日を設けていることになっているが、あんまり守れていない。これも目安として月曜がその候補日になっていて、しかしこの月曜に用事のあることが続いたことが大きい。打ち合わせ兼飲み会が入ったり、出張だったり、帰りが遅くなり同情してもらって少しくらい許してもらったり、つれあいが買い物で酒のつまみめいたものを買ってしまっていたりなど、いろいろと理由はあるにせよ、ともかく長い間休肝日は休んでいた。
 その日はそれでもいつもと違うスケジュール感がある日で、健康診断だったり、いつもは来ない客人が来たり、連絡網でイレギュラーがあったりした。土日とイベントが続いていたし、そうでなくとも春からまともな休みらしい休みの日なんて無い。月曜らしい月曜なんて、そうそうあるものでは無いのかもしれない。
 酒を飲んでいないので、ほとんどすぐに夕食の時間が終わり、珍しく食後の買い物に行き、帰ってから雑誌を読んで、その後シャワーを浴びて短いドキュメンタリ作品を少し観て、おもむろに映画を観て、そういえば観たいドラマがあるとつれあいが言うので、TVerでそれを観た。なんとなく涙が出て、薬飲んで水を飲んで寝た。
 それで目覚めるのが5時前くらいなのだ。しばらく寝たふりを繰り返していたが、なんとなく起きたかもしれないという気分になって布団から出て、思い切って犬の散歩に出た。曇り空だが夏の朝で、ワンちゃんのうんちも出た。知らない犬たちもいて、やはり普段の時間帯と違う散歩の風景があるのだろう。
 家に帰り朝食を食べて、テレビを見て新聞を読んだ。新聞を読んだら手持無沙汰で、いつもよりちょっと早いが出勤した。
 その車の中で睡魔が襲ってきて、コーヒーを入れてもらっていたからそれをちびちび飲みながらやり過ごし、頬をひっぱたきながら運転した。時には大声も出した。意識は飛んでいなかったと思う。やっと着いたので車の外で駆け足をし、荷物を置いて、さらに少し周囲を歩いた。首の後ろあたりに影が差しているような引っかかりを感じるが、なんとかなるだろう。
 スケジュールを確認して、LINEとメールを返して、少し読書しながらトイレに行き、ミーティングをして、電話した。客があって対応した後、またしても睡魔が襲ってきた。首がカクンと椅子の後ろに落ちそうになる。立ち上がって炭酸水を飲んで手を洗う。首をくるくる回して肩をもむ。もやもやとしたような闇のような重たいものが何かまとわりついている。この睡魔は普通にしていたらしてやられる。
 外に出て社用車のガソリンの具合を確かめたりする。外に生えている雑草の具合なども見て回る。そういえば北側のセンサーが夜に誤反応したという報告も受けていた。見に行くが、何がどう問題なのかさえ分からなかった。
 部屋に戻ると睡魔はいくぶん逃げていた。書類に目を通し電話をし、印鑑を押して、すでに日付の古い案内書のたぐいを捨てた。電話があり、出なくてもいいらしい案内には、欠席で連絡してもらった。肩の荷がまた少し下りた。こんなに時々睡魔が訪れるのは、休肝日の翌日だからである。それは分かっている。分かっているが、みんなアルコールが悪い訳ではない。それに対峙している自分の問題である。このつらさこそ今日飲めるだろうアルコールの活力なのである。
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ポスターを配る

2024-04-14 | 掲示板

 某会の用事で、役割分担としてポスター配りをしていた。前年度の役の割り振りの記録があって、それを今年度の役の人が引き継ぐ。役職に限らず配る人もいるのだが、僕の場合は今年の役で少し分担が違う。そうして行ったことの無い事業所ばかりの割り振りで、それはやはりそれなりになんとか頑張らないと配れないところなのだった。
 ちょうど用事が重なっていて人よりも少し出遅れた週の半ばに時間をつくって、さあ今日は頑張るぞ、ということで順次配って回る。アポなしで行けるところから順に回って、途中でアポの必要そうな事業所に車から電話を掛ける。そういうところは数件だけだが、要するにそれなりの規模があって、総務みたいなところを通さないと中に入れないような工場などである。一件はちょっと知っているが社長不在で、でもまあポスターなら持ってきていいということだったが、もう一件は、今はそういうことは取り扱いしていないと断られてしまった。「いや、例年お配りしているリストがあるので連絡した」旨伝えるが、それはおそらく総務からではなく、なにか個人的なつてがありそういう事になったのだろうという。では昨年の担当の人に確認したのだが、確かにそもそもちょっと知り合いがいて、頼んだかもしれないということだった。しかし最近は顔も見ないし、今は連絡が難しいという。もう一人、思い当たる人がいたのでその人にも掛けてみると、地元の知り合いがいるので掛け合ってみよう、となった。この件は翌日にその方から再度電話があって、今は会社の方針で、取次が難しくなっていると、結局断られた。大きいところはセキュリティの関係なのか、このような宣伝であっても、取次が難しくなっているのかもしれない。下々のものとはお付き合いを絶っているのだろう。
 別の事業所にも知人がいるので電話をしてみたが、あいにく今日はお休みだということで、出直すことになった。しかし翌日は別件の用事があってその事業所方面に近づけないまま閉店時刻を過ぎてしまった。翌日は用事が無かったのだが、僕の方がなんだか失念してしまった。翌々日はついでに寄ろうと考えていたのに、その用事が済んだら家に帰ってしまって、そうして花見だかなんだかの用事があって、やはり失念した。
 そんなこんなで一週間用事や失念が続き、いい加減何とかしなければと時間をつくって早めに退社し、その事業所に向かうと、大型トラックが何やら作業をしていて入り口をふさいでいて、そうしてそれをのけて入り口ドアに行っても開かないのである。硝子戸の中に本日店休日という看板が見える。携帯でネットを見ると、営業時間外とあるではないか。またしても店休日が来てしまったという迂闊であった。ひょっとすると縁のないお話かもしれないとは思うが、また出直すよりないのであった。

(※その後無事にポスター貼っていただけるようになりました。感謝)
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駐車場にミラーをつける

2024-04-06 | 掲示板

 小高い集落の上から4番目くらいに自宅がある。ピークは高速道路の上にかかる高架の道があって、それが別の高みの集落へつながる道になっている。以前は周りは田圃か畑で、一つとなりの細道のさらに高見に墓所がある。子供のころは、ここで凧揚げをして遊んでいた。
 当時道は舗装されておらず、雨が降るとあちこちに溝ができた。それをせき止めてダムをつくって遊んだ。この通りに僕の家があるきりで、お隣は500m以上は間があったはずである。うちは鶏を飼ったりヤギを飼ったりしていたが、特に農家ではなく、そのような暮らしに憧れた移住人の家族といったところだったのではなかろうか。自宅から下の土手は一面の梅畑になっていて、自分の庭では無いが、まだ寒い春先には見事な梅の花が咲き誇った。
 時は流れてこの辺りは、それなりの住宅地に様変わりした。聞くところによると、自衛官や教師などが土地を買い家を建てる場所として、まだまだ安価で見晴らしのいいこの辺りが好まれたのだという。もちろんそれ以外の人々もいるのだが、僕らから下の世代の子供のいる夫婦が、手狭になったアパート暮らしから、一軒家を購入する人が流れてきたのだろう。
 家が建つにつれ道路は舗装されていき、ぼちぼちと交通量も増えていった。僕も成長し、いつの間にやら自分も車の運転をするようになった。それでも僕の家の前の道というのは、基本的に入り組んだ住宅への足掛かりのような道で、一番外側を通っている準幹線道とはちがう。時々この家々と関係のある人がこの道に入り込み、抜けていく。
 僕の使っている駐車場は、長い土地の一番下にある。斜めに入り込むようになっていて、都合5.6台は十分に止められるスペースはあるが、その出入り口の右わきには段のあるブロック塀が立っていて、見通しが悪かった。出庫するときは、そろりそろりと車の頭を出し、自分はよく見えないが、通行する車の方がこちらを見つけて注意してくれたらいい、という感じだろうか。そういうことを続けて早や数十年。時々クラクションを鳴らされる程度で、事故が起こったことは無かった。
 ところが一年ほど前だろうか、そんな風にそろりそろりと車の頭を出していると、キキーッという音と共に自転車が突っ込んできたのである。厳密にはスリップして、止まるときにその人の足が僕の車のバンパーを蹴った感じだった。中学生の男の子は、それからまた自転車をこごうとして、おっとっと、と今度は溝にはまった。僕の車との出会いがしらのショックに動揺して、うまく運転できなくなったのかもしれない。車から降りて無事を確認し、ちょっと話を交わしてみたが、まあ、驚いて冷静さを欠いていたのだのだろう。怪我も痛いところもないということで、うちはそこだから、と伝えて中学生は去っていった。
 こういうのはやはり車の方が分が悪そうで、いや分がどうだとか言う前に、こういうのは何とかすべき問題である。その後ブロック塀にはびこっているツタ状の植物を一部はぎ取ったり、少し視界を明るくはしてみた。しかしどうにも都合は悪い。向かい側のブロックに鏡を設置させてほしいとも思ったが、こういうのは斜面の下側になっていて、不動産屋が自分の業者に、などということがあるらしい。そんな大げさなものが欲しい訳ではないし、それではやはり自分の家の側の土地に何かを……。ということで、ホームセンターに行って、家庭の鏡のたぐいをいろいろ見て、壁に貼り付ける類のものがあったので、それを買ってきて駐車場のブロックの角に接着剤でつけておいた。設置してもよく見えないのだが、まあ何らかの影さえ映ればいいだろう。
 しかしながらこれが、やはり勝手が悪いのである。見えているのかどうなのかよく分からない。角度が悪いのかもしれない。せっかくブロックにくっついていたが。半分くらい剥がして、そこに別の石などを詰めて角度を作り調整して見た。ぼやっと何か見える気がしないではない。
 ところがである。また今度も自転車の急ブレーキ音がしたのである。自転車は僕が車を出す側に沿って、坂道を下って来る。ちょっと前が見えた時は、ずいぶん近くに居たものらしい。これもギリギリセーフでぶつかりはしなかったものの、危ないのである。それにミラーには見えなかったのである。本人は前を見てなかった、と言っていたが、いや、結局僕の方が悪くなるだろう。
 ということで、結局ネットで探すとブロック塀に設置できる設備と一緒に、ミラーが売ってあるではないか。聞いていたものよりもだいぶ安価だから、すぐに買って設置してみると、思ったより簡単なうえに、ものすごく都合がいいではないか。これまでのことが何だったのか、と思えるほどによく見える。気を良くして、妻の車の出入り口にも二つミラーを設置までした。この通りにミラーが増えて、通行人は何か思うことがあるかもしれない。それらはすべて、安全のためである。遅ればせながらだが。
 日頃からできることはやるべきだ、なんてことを言っているくせに、こんなことには時間がかかってしまった。反省すべきは日ごろの行いである。ということで、気を付けます。
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします

2024-01-01 | 掲示板
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 年が明けることは分かり切っていたとはいえ、毎年それなりの感慨があるものである。なんなんだろうね、この区切り感は。日本人特有という人もいるが、今の時期に限らず考えると、そういう気分というのは人間的なものなのではないか。何かが終わって何かが始まる。そういう儀式的なものを自然の文化の中に見出し、そうしてそれなりの行動をしている。結果として気分的な区切りが明確になる。このような高揚感にあって何かを考えることは毎年危険だとしながらも、何か新しいことがやれるような期待感が自分自身にあるようにも思う。そうしてその他の人々に対しても。今年めぐって来るだろういくつかのトピックが既にある訳で、そういうものに対しても、真摯に向き合っていくことになるのだろう。残りの時間を頑張るものもあるし、これからの役どころを考えるものもある。準備しているものもあるし、これからのものもある。そういうものを順を追って片づけながら、前に進んでいくイメージでやっていくしかないのだろう。それなりに大変そうなものもあるけど、やりながら楽しめるものは楽しんでしまいたいものである。なんとなく自分自身の残りの時間が少なくなっていっているような感じもしてきた季節において、どれだけ余裕があるものかもわからなくなってきた。先輩方というのは、いったいこういう気分をどのように処してきたものであろう。聞いてみても仕方ないから、自分で考えるよりないのだろう。感覚というのは独自のものだろうから。
 そういう事であっても、実際のところそんなに変わりようもない事も薄々気づいてはいる。何しろこれまでもそうだったけれど、いつの間にかそれなりに結果的に変わってしまうものもある。変わってないけど変わってしまう。そういう事のために目の前のことがある。それを片づけていくと、自分が変化するのである。ちょっとずつなのだけれど。そういうことを期待している自分もいて、変わったことに瞬間的には気づきはしなかったものの、いつの間にか受け入れていた自分がいたのだろう。そういうことはなんとなく愛おしいものであり、しかしそれだけ失われた何かも含んでもいて、悲しさもちょっぴりということになるのだろうか。結局大局観はいらなくて、近視眼的な目の前のタスクだけを考えていくことにしよう。どのみちマルチに何かをこなすような器用さも無い訳だし。
 ということで、また新たに何かを刻みながら、毎日は数ミリでもよく、そういう感じでやっていこうと思います。まあ、後退したって、それはそれでそこからやり直します。
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やれることに縛りをつけてはならない

2023-10-31 | 掲示板

 結果においては茫然自失としたというのがあって、挨拶の言葉を選び、お礼とお詫びを述べた。選挙最終日には気持ちのたかぶりもあって、涙があふれてきた訳だが、今回は悔しい気持ちはあれど、涙の方向へは感情が向かない。今は何か考えているというよりも考えられないというか、信じられないというか、そうした感情の方が勝っていて、分析をする頭に切り替わらない。考えていたこととまるで違うことが起こったことは間違いなく、そうしてそれは、むしろ支持者の多くが滑り出てしまったというような形に、なっている可能性の方が高い。支持の輪が広がり仲間も確実に増え、そうして票を失った。それが事実であるのならば、何を反省すればいいというのだろう。他にいったいどんなやり方があるというのか。
 基本的に考えられることは、支持者の多くが現職と被っているということだろう。そうして二択になると、現職の方を選ぶ。出て欲しくなかったという声が最初に聞かれたのはそういうことで、別のステージではしっかり支持していたが、このステージであれば話が変わるということなのであろう。基礎的にそれが無ければ、このような結果の根本を捉えにくい。
 他の基礎陣営からの支持者も、結果的に伸び悩んだことも間違いない。自分の陣営でなく、あくまで他陣営である。運動員として活動してくれた人たちの声も聞こえてはいたはずだが、その働きを見てもなお、自陣営の戦いだったらどんなに良かったか、という思いのあった人も多かったのではないか。つきあってはくれたものの、それは夢の継続だったのかもしれない。組織としてもそうである。動員掛けて実働もお願いした。これだけのパイプがあるのは間違いないのだが、そのパイプにつなぐ原油なり真水なり、送り出すものや受ける皿が用意されていなかった。票が集まらない原因ではなく、票が集まった後のインフラが整っただけ、だったのかもしれない。
 これだけの巨大な組織の乗り入れがあってなお、本当には機能しないように見えるのは、そのような形作りにおいての拒否感のようなものが、隠されているのかもしれない。しっかりした基盤の上にしか、議会運営を含め政治の丁々発止は行えない。それができなければ、ある程度空回りを起こす。大衆やマスコミにとっては、それこそが政治ショーであって、そのような政治不信が一定以上あおられていないと、政治の成り立ちを報じる手立てが無いのかもしれない。もっともそれが投票率の低下の根本的な原因だとは思われるのだが……(※これはまた別で論じます)。
 実は勝てるイメージは、希望的な観測のもとに築きあげられていったものだったのではないか。巨大な現職の高くて分厚い壁は、8年間の歳月を経て、さらに強固なものへと成長していた。少なくとも四年前は、完全なる無風だった。しかしマニフェストの実現は無くとも、新たなイベントは組み替えられて、そこそこのやってるイメージは維持されていたのかもしれない。動かないものは、何か経過の中で忘れ去られても、そんなに問題のあることでは無いのかもしれない。
 多くのことを推進させるパイプは無いかもしれない。しかし首長が本気になって動けば、賛同する組織は少なくないのである。何かに所属しないまでも、協力体制で一つになれることは多いはずだ。たとえ反対した政策であったとしても、どうやれば実現できるのかという道筋は、それなりに種明かしとしてこちらは提示していったことは間違いない。ちゃんとやろうと思えば実行できるし、やり方も段階的に最小限の負担で積み上げて行けるのである。本当にノーサイドと考えているのであれば、やれることを着実にやって欲しい。我々は、政治的なまちづくりがうまく行くことを、一番に望んでいるのである。
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好きではないからやっている

2023-10-07 | 掲示板

 物事というのは好きだからやっているのだろうか? 好きこそもの上手なれ、ということわざもある。それはそうかも、という共感もある。その通りではあるのである。好きなことを、どうしてもその思いでやり続けている人には、一定の結果として、「上手」と言える状態にまで到達できるという事だろう。到達後も好きでやり続けていると、さらに上手になっていくものであろう。それはいったんわかるのである。
 しかし、頼まれごとには、必ずしもそうとは言えないことが、あるのではないだろうか? 少なくとも僕は、違う。僕は今までかつて一度として、自分がやりたくてやった役職というものは、無い。すべて、いろいろな事情があるにせよ、頼まれることを受けて、自分なりに困りながら、はっきり言っていやいやながら、引き受けてきた経緯がある。できればやりたくはなかったが、経緯を踏まえて、または踏まえなくても強引に、それ以上では断ったにもかかわらず、時にはみずしらずのうちに、それらの役職を賜ったものである。断れなかった経緯があるものもあるけれど(ちゃんと断ったにもかかわらず、というのはあるけど)、基本的には人助けというか、誰かが困ることであるならば、自分が困ればいい、という事だったかもしれない。自信もないし、不安ばかりで、しかし、どうにかならないものだろうかと祈るような気持ちで、そうなってしまった、というしかないのである。後悔したことはあっても、よかったと思えたことは、一度もない。仕事の上でも世襲したが、流れの中でそうなったという事もあるし、その後の役職その他についても、付随してあるものだとは、まったく認識してなかった。自分の気の弱さもあったと思うが、十分にできない事も含めて、受けてしまって迷惑をかけているだろうという事しか、自分の人生を振り返りようがない。今もそういう状態だし、未来もおそらく変わりないだろう。相対的な人間関係の中にあり、その中で、自分の立ち位置に合わせて役割を演じたいものであるが、そんなことが自分の思うようになったためしは、一度としてあり得なかった。すべてイレギュラーであり、だからこそ、不十分でいいという勝手な了解を得て、今の自分があるだけである。
 という事を何故あらためていうのかというと、そういう状況になってしまった自分を差し置いていうと、日本の社会というのは、順番を守らない人というのが少なからずいる、という事なのである。順番なんて無いように思っている人もいるかもしれないが、そいういうものは歴然としてあるのが現実である。無いなんて言える人が、果たして本当にいるものだろうか。そういうものがあるにもかかわらず、順番が回ってくることに問題がある、という事にすぎない。そういう順番に自分があるとしたら、それはちゃんと受けるべきなのである。今はそうではないから、そういうことを繰り返して、イレギュラーで仕方なく、だから、十分でないことは承知の上で、でも言い訳なんてしないのだから、元の順位のようなものにせめて戻してもらえないか、というのが本音である。そのうち寿命が尽きるので、よろしくお願いします。
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新しい手帳を買う

2023-09-30 | 掲示板

 アマゾン眺めてたら、すでに来年の手帳が売ってあった。早速購入する。調べてみると、大体毎年8月中旬ごろから予約販売されているらしい。実際僕は8月の末に予約しておいたものである。手帳が届いたのは9月8日(書いている当時)で、ということは、実際の発売は、9月中旬ごろからということになるのかもしれない。はっきりとした記憶は分からないが、以前は年末の11月ごろになると手帳を買い替えていたと思うのだが、こんなに早く買えることを知っていたら、もっと違った計画が立てられたかもしれないと思うのだった。
 それというのも、実際の話年末になって来年のことを書く作業というのは、それなりに大変だったのである。いちおう来年の三月くらいまでは余白のある書き込みくらいはできる手帳を持っていたわけだが、これを埋めるまで、旧手帳と新手帳のすり合わせが難しいのである。基本的によっぽど大きな予定でないと、一年後や半年後の日程は決まっているわけでは無いのだが、その前段階としての、さまざまな日程調整は2,3か月前から激しくなっていく。そうしてその決まった隙間に、その後の日程が順次詰まっていく算段である。それらのことを思うと、年末年始は常に新旧の手帳を持ち合わせて書き込みをすり合わせなければならない。そういうのが、本当に煩わしいのである。
 でもまあそういう事だから、新しいものが今から手に入ったとしても、来年の6月くらいまで決まっていることくらいしか書き込めないことが分かった。10月、11月に行われる大会などの折に、来年の予定が発表されることになる訳で、それらがまた書き込まれる頃までに、少し余裕ができたくらいにしかならない。結局はやっぱり二つの手帳を11月末まで持ち歩くことになるのは何ら変わりない訳で、まあ、少しだけの心の余裕になっただけに過ぎなかったようだ。
 しかし改めて新しい手帳が手元にあると、なんとなく先のことが見えてくるような錯覚は起こる。基本的にここ十年くらいは同じ型のものを続けて使っているのだが、ちょっとだけ色遣いが変わっているところもあったりして、そういうのは楽しいものである。書き込む予定が楽しいものばかりではないことだけが、やっぱり残念と言えばそうなのであるが……。
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U=NEXTへ移行するぞ

2023-09-20 | 掲示板

 忙しくなってろくに映画を観るなんてことも許されない感じになっていて、しかし、グジグジとずっと悩み続けていたことがあった。それというのもU=NEXTだった。観たい映画はアマゾン・プライムとネットフリックスにたくさんリストアップされていて、もう今年中に全部見ることは不可能なことくらいは分かっている。それにもまして、U=NEXTなのか、という悩みだったわけであるが、プライムなどのリストのほとんどは、実は有料レンタルのものであって、いずれ見たいのストックである。ネットフリックスはドラマは充実しているのだけれど、映画の方は、いささか二番手というか、一番今見たい旬ではなかったりする。U=NEXTは料金は少し高いのだが、ポイントの還元もあるようだし、お試し期間も31日間である。その間に今見たいと思われている作品の十数本は、すぐに見ることができる算段である。時間があればという限定的な問題はあるものの、数日掛けて一本を割り引いて観ている現実にあって、コツコツ見続けていくと、今見ているという達成感があるのではないか。ネットフリックス・オリジナルを除けば、観たい映画はほぼ重複網羅していることも調べていくと分かった訳で、これはもう移行するしかない、と判断するまで約一週間。とうとう決断したわけである。
 一応ネットフリックスだけを解約することにして(キャンセルというらしいが)、U=NEXTのお試しに入った。アマゾンとの重複を調べて、どんどんU=NEXT側のストックへ移していく作業をする。これが何とも楽しい。まだ映画を観ていないにもかかわらず、今すぐ課金なしに見られるという喜びが、ひしひしと全身に伝わってくる感じだ。実際に見たら失望する映画もあるはずなのだが、観る前の期待感というのも、映画を観る醍醐味の一つなのである。そういう気分こそ、僕が求めていたものだったのかもしれない。考えてみると、多少せこいものではあるのだけれど……。
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人間が無力だと脱力させられる

2023-09-08 | 掲示板

 パソコンを再起動させると、立ち上がり画面でウィンドウズ11に無償アップグレードできるという宣伝画面が左半分だけ拡大したもので占められ、固まる。そうなると何をやっても動かなくて、強制終了させるよりない。再度再起動させると、また画面が現れ、固まる。この画面の下方向に、この画面を終了させることができる文字があることは、過去の経験で知っているのだが、何しろ拡大した画面が下部を隠しており、操作が不能である。コントロールキーとAltキーとDeleteキーで強制終了画面に行くことができるが、これで再起動させてしまうと、また戻ってしまうので、強制終了よりほかに無い。
 いろいろ後で調べて、設定画面で更新プログラムで11に行かないようにするが、再起動すると、やはりしつこくこの画面になってしまう。時間がもったいないし、本当に腹立たしい。こんな会社と付き合わなければ生活できない環境に置かれている自分の不幸を、呪うしかない。
 それにしても別段11にしてもいいのではないか、という考えもあるのだが、使っているソフトなどには、不具合が出る可能性がある、と事務方から注意を受けている。あとで戻す方法もあるらしいのだが、そういう感じも、なんだか面倒なのである。
 職場の連絡事項など業務に使っているのはlineワークスというのだが、これも今後は有料になるという。うちの事業規模だと20万くらい余分に経費が掛かってしまうそうだ。いちおう別のところに相談したりしているが、すでにこれで仕事の関係はかなり使っていることもあって、別のものに移行するのも不安がある。なんだか踏んだり蹴ったりなんだが、便利さに誘われて使っていると、これらの会社は罠を掛けてくる決まりがあるようだ。かといって別の類似システムだと、別の不具合に遭遇する危険もある。いまさら紙など不合理なものにも戻れないし(実際は個人として使っているけれど)、なかなかに難しい問題なのである。
 まあいつかは僕にも寿命が来るし、こういうものと付き合わなくてもよくなり、煩わしさとは開放されることだろう。その日が来ることを望んでいないだけのことであるが……。
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