カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

休肝日と戦う

2024-08-11 | 掲示板

 いちおう休肝日を設けていることになっているが、あんまり守れていない。これも目安として月曜がその候補日になっていて、しかしこの月曜に用事のあることが続いたことが大きい。打ち合わせ兼飲み会が入ったり、出張だったり、帰りが遅くなり同情してもらって少しくらい許してもらったり、つれあいが買い物で酒のつまみめいたものを買ってしまっていたりなど、いろいろと理由はあるにせよ、ともかく長い間休肝日は休んでいた。
 その日はそれでもいつもと違うスケジュール感がある日で、健康診断だったり、いつもは来ない客人が来たり、連絡網でイレギュラーがあったりした。土日とイベントが続いていたし、そうでなくとも春からまともな休みらしい休みの日なんて無い。月曜らしい月曜なんて、そうそうあるものでは無いのかもしれない。
 酒を飲んでいないので、ほとんどすぐに夕食の時間が終わり、珍しく食後の買い物に行き、帰ってから雑誌を読んで、その後シャワーを浴びて短いドキュメンタリ作品を少し観て、おもむろに映画を観て、そういえば観たいドラマがあるとつれあいが言うので、TVerでそれを観た。なんとなく涙が出て、薬飲んで水を飲んで寝た。
 それで目覚めるのが5時前くらいなのだ。しばらく寝たふりを繰り返していたが、なんとなく起きたかもしれないという気分になって布団から出て、思い切って犬の散歩に出た。曇り空だが夏の朝で、ワンちゃんのうんちも出た。知らない犬たちもいて、やはり普段の時間帯と違う散歩の風景があるのだろう。
 家に帰り朝食を食べて、テレビを見て新聞を読んだ。新聞を読んだら手持無沙汰で、いつもよりちょっと早いが出勤した。
 その車の中で睡魔が襲ってきて、コーヒーを入れてもらっていたからそれをちびちび飲みながらやり過ごし、頬をひっぱたきながら運転した。時には大声も出した。意識は飛んでいなかったと思う。やっと着いたので車の外で駆け足をし、荷物を置いて、さらに少し周囲を歩いた。首の後ろあたりに影が差しているような引っかかりを感じるが、なんとかなるだろう。
 スケジュールを確認して、LINEとメールを返して、少し読書しながらトイレに行き、ミーティングをして、電話した。客があって対応した後、またしても睡魔が襲ってきた。首がカクンと椅子の後ろに落ちそうになる。立ち上がって炭酸水を飲んで手を洗う。首をくるくる回して肩をもむ。もやもやとしたような闇のような重たいものが何かまとわりついている。この睡魔は普通にしていたらしてやられる。
 外に出て社用車のガソリンの具合を確かめたりする。外に生えている雑草の具合なども見て回る。そういえば北側のセンサーが夜に誤反応したという報告も受けていた。見に行くが、何がどう問題なのかさえ分からなかった。
 部屋に戻ると睡魔はいくぶん逃げていた。書類に目を通し電話をし、印鑑を押して、すでに日付の古い案内書のたぐいを捨てた。電話があり、出なくてもいいらしい案内には、欠席で連絡してもらった。肩の荷がまた少し下りた。こんなに時々睡魔が訪れるのは、休肝日の翌日だからである。それは分かっている。分かっているが、みんなアルコールが悪い訳ではない。それに対峙している自分の問題である。このつらさこそ今日飲めるだろうアルコールの活力なのである。
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ポスターを配る

2024-04-14 | 掲示板

 某会の用事で、役割分担としてポスター配りをしていた。前年度の役の割り振りの記録があって、それを今年度の役の人が引き継ぐ。役職に限らず配る人もいるのだが、僕の場合は今年の役で少し分担が違う。そうして行ったことの無い事業所ばかりの割り振りで、それはやはりそれなりになんとか頑張らないと配れないところなのだった。
 ちょうど用事が重なっていて人よりも少し出遅れた週の半ばに時間をつくって、さあ今日は頑張るぞ、ということで順次配って回る。アポなしで行けるところから順に回って、途中でアポの必要そうな事業所に車から電話を掛ける。そういうところは数件だけだが、要するにそれなりの規模があって、総務みたいなところを通さないと中に入れないような工場などである。一件はちょっと知っているが社長不在で、でもまあポスターなら持ってきていいということだったが、もう一件は、今はそういうことは取り扱いしていないと断られてしまった。「いや、例年お配りしているリストがあるので連絡した」旨伝えるが、それはおそらく総務からではなく、なにか個人的なつてがありそういう事になったのだろうという。では昨年の担当の人に確認したのだが、確かにそもそもちょっと知り合いがいて、頼んだかもしれないということだった。しかし最近は顔も見ないし、今は連絡が難しいという。もう一人、思い当たる人がいたのでその人にも掛けてみると、地元の知り合いがいるので掛け合ってみよう、となった。この件は翌日にその方から再度電話があって、今は会社の方針で、取次が難しくなっていると、結局断られた。大きいところはセキュリティの関係なのか、このような宣伝であっても、取次が難しくなっているのかもしれない。下々のものとはお付き合いを絶っているのだろう。
 別の事業所にも知人がいるので電話をしてみたが、あいにく今日はお休みだということで、出直すことになった。しかし翌日は別件の用事があってその事業所方面に近づけないまま閉店時刻を過ぎてしまった。翌日は用事が無かったのだが、僕の方がなんだか失念してしまった。翌々日はついでに寄ろうと考えていたのに、その用事が済んだら家に帰ってしまって、そうして花見だかなんだかの用事があって、やはり失念した。
 そんなこんなで一週間用事や失念が続き、いい加減何とかしなければと時間をつくって早めに退社し、その事業所に向かうと、大型トラックが何やら作業をしていて入り口をふさいでいて、そうしてそれをのけて入り口ドアに行っても開かないのである。硝子戸の中に本日店休日という看板が見える。携帯でネットを見ると、営業時間外とあるではないか。またしても店休日が来てしまったという迂闊であった。ひょっとすると縁のないお話かもしれないとは思うが、また出直すよりないのであった。

(※その後無事にポスター貼っていただけるようになりました。感謝)
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駐車場にミラーをつける

2024-04-06 | 掲示板

 小高い集落の上から4番目くらいに自宅がある。ピークは高速道路の上にかかる高架の道があって、それが別の高みの集落へつながる道になっている。以前は周りは田圃か畑で、一つとなりの細道のさらに高見に墓所がある。子供のころは、ここで凧揚げをして遊んでいた。
 当時道は舗装されておらず、雨が降るとあちこちに溝ができた。それをせき止めてダムをつくって遊んだ。この通りに僕の家があるきりで、お隣は500m以上は間があったはずである。うちは鶏を飼ったりヤギを飼ったりしていたが、特に農家ではなく、そのような暮らしに憧れた移住人の家族といったところだったのではなかろうか。自宅から下の土手は一面の梅畑になっていて、自分の庭では無いが、まだ寒い春先には見事な梅の花が咲き誇った。
 時は流れてこの辺りは、それなりの住宅地に様変わりした。聞くところによると、自衛官や教師などが土地を買い家を建てる場所として、まだまだ安価で見晴らしのいいこの辺りが好まれたのだという。もちろんそれ以外の人々もいるのだが、僕らから下の世代の子供のいる夫婦が、手狭になったアパート暮らしから、一軒家を購入する人が流れてきたのだろう。
 家が建つにつれ道路は舗装されていき、ぼちぼちと交通量も増えていった。僕も成長し、いつの間にやら自分も車の運転をするようになった。それでも僕の家の前の道というのは、基本的に入り組んだ住宅への足掛かりのような道で、一番外側を通っている準幹線道とはちがう。時々この家々と関係のある人がこの道に入り込み、抜けていく。
 僕の使っている駐車場は、長い土地の一番下にある。斜めに入り込むようになっていて、都合5.6台は十分に止められるスペースはあるが、その出入り口の右わきには段のあるブロック塀が立っていて、見通しが悪かった。出庫するときは、そろりそろりと車の頭を出し、自分はよく見えないが、通行する車の方がこちらを見つけて注意してくれたらいい、という感じだろうか。そういうことを続けて早や数十年。時々クラクションを鳴らされる程度で、事故が起こったことは無かった。
 ところが一年ほど前だろうか、そんな風にそろりそろりと車の頭を出していると、キキーッという音と共に自転車が突っ込んできたのである。厳密にはスリップして、止まるときにその人の足が僕の車のバンパーを蹴った感じだった。中学生の男の子は、それからまた自転車をこごうとして、おっとっと、と今度は溝にはまった。僕の車との出会いがしらのショックに動揺して、うまく運転できなくなったのかもしれない。車から降りて無事を確認し、ちょっと話を交わしてみたが、まあ、驚いて冷静さを欠いていたのだのだろう。怪我も痛いところもないということで、うちはそこだから、と伝えて中学生は去っていった。
 こういうのはやはり車の方が分が悪そうで、いや分がどうだとか言う前に、こういうのは何とかすべき問題である。その後ブロック塀にはびこっているツタ状の植物を一部はぎ取ったり、少し視界を明るくはしてみた。しかしどうにも都合は悪い。向かい側のブロックに鏡を設置させてほしいとも思ったが、こういうのは斜面の下側になっていて、不動産屋が自分の業者に、などということがあるらしい。そんな大げさなものが欲しい訳ではないし、それではやはり自分の家の側の土地に何かを……。ということで、ホームセンターに行って、家庭の鏡のたぐいをいろいろ見て、壁に貼り付ける類のものがあったので、それを買ってきて駐車場のブロックの角に接着剤でつけておいた。設置してもよく見えないのだが、まあ何らかの影さえ映ればいいだろう。
 しかしながらこれが、やはり勝手が悪いのである。見えているのかどうなのかよく分からない。角度が悪いのかもしれない。せっかくブロックにくっついていたが。半分くらい剥がして、そこに別の石などを詰めて角度を作り調整して見た。ぼやっと何か見える気がしないではない。
 ところがである。また今度も自転車の急ブレーキ音がしたのである。自転車は僕が車を出す側に沿って、坂道を下って来る。ちょっと前が見えた時は、ずいぶん近くに居たものらしい。これもギリギリセーフでぶつかりはしなかったものの、危ないのである。それにミラーには見えなかったのである。本人は前を見てなかった、と言っていたが、いや、結局僕の方が悪くなるだろう。
 ということで、結局ネットで探すとブロック塀に設置できる設備と一緒に、ミラーが売ってあるではないか。聞いていたものよりもだいぶ安価だから、すぐに買って設置してみると、思ったより簡単なうえに、ものすごく都合がいいではないか。これまでのことが何だったのか、と思えるほどによく見える。気を良くして、妻の車の出入り口にも二つミラーを設置までした。この通りにミラーが増えて、通行人は何か思うことがあるかもしれない。それらはすべて、安全のためである。遅ればせながらだが。
 日頃からできることはやるべきだ、なんてことを言っているくせに、こんなことには時間がかかってしまった。反省すべきは日ごろの行いである。ということで、気を付けます。
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします

2024-01-01 | 掲示板
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 年が明けることは分かり切っていたとはいえ、毎年それなりの感慨があるものである。なんなんだろうね、この区切り感は。日本人特有という人もいるが、今の時期に限らず考えると、そういう気分というのは人間的なものなのではないか。何かが終わって何かが始まる。そういう儀式的なものを自然の文化の中に見出し、そうしてそれなりの行動をしている。結果として気分的な区切りが明確になる。このような高揚感にあって何かを考えることは毎年危険だとしながらも、何か新しいことがやれるような期待感が自分自身にあるようにも思う。そうしてその他の人々に対しても。今年めぐって来るだろういくつかのトピックが既にある訳で、そういうものに対しても、真摯に向き合っていくことになるのだろう。残りの時間を頑張るものもあるし、これからの役どころを考えるものもある。準備しているものもあるし、これからのものもある。そういうものを順を追って片づけながら、前に進んでいくイメージでやっていくしかないのだろう。それなりに大変そうなものもあるけど、やりながら楽しめるものは楽しんでしまいたいものである。なんとなく自分自身の残りの時間が少なくなっていっているような感じもしてきた季節において、どれだけ余裕があるものかもわからなくなってきた。先輩方というのは、いったいこういう気分をどのように処してきたものであろう。聞いてみても仕方ないから、自分で考えるよりないのだろう。感覚というのは独自のものだろうから。
 そういう事であっても、実際のところそんなに変わりようもない事も薄々気づいてはいる。何しろこれまでもそうだったけれど、いつの間にかそれなりに結果的に変わってしまうものもある。変わってないけど変わってしまう。そういう事のために目の前のことがある。それを片づけていくと、自分が変化するのである。ちょっとずつなのだけれど。そういうことを期待している自分もいて、変わったことに瞬間的には気づきはしなかったものの、いつの間にか受け入れていた自分がいたのだろう。そういうことはなんとなく愛おしいものであり、しかしそれだけ失われた何かも含んでもいて、悲しさもちょっぴりということになるのだろうか。結局大局観はいらなくて、近視眼的な目の前のタスクだけを考えていくことにしよう。どのみちマルチに何かをこなすような器用さも無い訳だし。
 ということで、また新たに何かを刻みながら、毎日は数ミリでもよく、そういう感じでやっていこうと思います。まあ、後退したって、それはそれでそこからやり直します。
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やれることに縛りをつけてはならない

2023-10-31 | 掲示板

 結果においては茫然自失としたというのがあって、挨拶の言葉を選び、お礼とお詫びを述べた。選挙最終日には気持ちのたかぶりもあって、涙があふれてきた訳だが、今回は悔しい気持ちはあれど、涙の方向へは感情が向かない。今は何か考えているというよりも考えられないというか、信じられないというか、そうした感情の方が勝っていて、分析をする頭に切り替わらない。考えていたこととまるで違うことが起こったことは間違いなく、そうしてそれは、むしろ支持者の多くが滑り出てしまったというような形に、なっている可能性の方が高い。支持の輪が広がり仲間も確実に増え、そうして票を失った。それが事実であるのならば、何を反省すればいいというのだろう。他にいったいどんなやり方があるというのか。
 基本的に考えられることは、支持者の多くが現職と被っているということだろう。そうして二択になると、現職の方を選ぶ。出て欲しくなかったという声が最初に聞かれたのはそういうことで、別のステージではしっかり支持していたが、このステージであれば話が変わるということなのであろう。基礎的にそれが無ければ、このような結果の根本を捉えにくい。
 他の基礎陣営からの支持者も、結果的に伸び悩んだことも間違いない。自分の陣営でなく、あくまで他陣営である。運動員として活動してくれた人たちの声も聞こえてはいたはずだが、その働きを見てもなお、自陣営の戦いだったらどんなに良かったか、という思いのあった人も多かったのではないか。つきあってはくれたものの、それは夢の継続だったのかもしれない。組織としてもそうである。動員掛けて実働もお願いした。これだけのパイプがあるのは間違いないのだが、そのパイプにつなぐ原油なり真水なり、送り出すものや受ける皿が用意されていなかった。票が集まらない原因ではなく、票が集まった後のインフラが整っただけ、だったのかもしれない。
 これだけの巨大な組織の乗り入れがあってなお、本当には機能しないように見えるのは、そのような形作りにおいての拒否感のようなものが、隠されているのかもしれない。しっかりした基盤の上にしか、議会運営を含め政治の丁々発止は行えない。それができなければ、ある程度空回りを起こす。大衆やマスコミにとっては、それこそが政治ショーであって、そのような政治不信が一定以上あおられていないと、政治の成り立ちを報じる手立てが無いのかもしれない。もっともそれが投票率の低下の根本的な原因だとは思われるのだが……(※これはまた別で論じます)。
 実は勝てるイメージは、希望的な観測のもとに築きあげられていったものだったのではないか。巨大な現職の高くて分厚い壁は、8年間の歳月を経て、さらに強固なものへと成長していた。少なくとも四年前は、完全なる無風だった。しかしマニフェストの実現は無くとも、新たなイベントは組み替えられて、そこそこのやってるイメージは維持されていたのかもしれない。動かないものは、何か経過の中で忘れ去られても、そんなに問題のあることでは無いのかもしれない。
 多くのことを推進させるパイプは無いかもしれない。しかし首長が本気になって動けば、賛同する組織は少なくないのである。何かに所属しないまでも、協力体制で一つになれることは多いはずだ。たとえ反対した政策であったとしても、どうやれば実現できるのかという道筋は、それなりに種明かしとしてこちらは提示していったことは間違いない。ちゃんとやろうと思えば実行できるし、やり方も段階的に最小限の負担で積み上げて行けるのである。本当にノーサイドと考えているのであれば、やれることを着実にやって欲しい。我々は、政治的なまちづくりがうまく行くことを、一番に望んでいるのである。
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好きではないからやっている

2023-10-07 | 掲示板

 物事というのは好きだからやっているのだろうか? 好きこそもの上手なれ、ということわざもある。それはそうかも、という共感もある。その通りではあるのである。好きなことを、どうしてもその思いでやり続けている人には、一定の結果として、「上手」と言える状態にまで到達できるという事だろう。到達後も好きでやり続けていると、さらに上手になっていくものであろう。それはいったんわかるのである。
 しかし、頼まれごとには、必ずしもそうとは言えないことが、あるのではないだろうか? 少なくとも僕は、違う。僕は今までかつて一度として、自分がやりたくてやった役職というものは、無い。すべて、いろいろな事情があるにせよ、頼まれることを受けて、自分なりに困りながら、はっきり言っていやいやながら、引き受けてきた経緯がある。できればやりたくはなかったが、経緯を踏まえて、または踏まえなくても強引に、それ以上では断ったにもかかわらず、時にはみずしらずのうちに、それらの役職を賜ったものである。断れなかった経緯があるものもあるけれど(ちゃんと断ったにもかかわらず、というのはあるけど)、基本的には人助けというか、誰かが困ることであるならば、自分が困ればいい、という事だったかもしれない。自信もないし、不安ばかりで、しかし、どうにかならないものだろうかと祈るような気持ちで、そうなってしまった、というしかないのである。後悔したことはあっても、よかったと思えたことは、一度もない。仕事の上でも世襲したが、流れの中でそうなったという事もあるし、その後の役職その他についても、付随してあるものだとは、まったく認識してなかった。自分の気の弱さもあったと思うが、十分にできない事も含めて、受けてしまって迷惑をかけているだろうという事しか、自分の人生を振り返りようがない。今もそういう状態だし、未来もおそらく変わりないだろう。相対的な人間関係の中にあり、その中で、自分の立ち位置に合わせて役割を演じたいものであるが、そんなことが自分の思うようになったためしは、一度としてあり得なかった。すべてイレギュラーであり、だからこそ、不十分でいいという勝手な了解を得て、今の自分があるだけである。
 という事を何故あらためていうのかというと、そういう状況になってしまった自分を差し置いていうと、日本の社会というのは、順番を守らない人というのが少なからずいる、という事なのである。順番なんて無いように思っている人もいるかもしれないが、そいういうものは歴然としてあるのが現実である。無いなんて言える人が、果たして本当にいるものだろうか。そういうものがあるにもかかわらず、順番が回ってくることに問題がある、という事にすぎない。そういう順番に自分があるとしたら、それはちゃんと受けるべきなのである。今はそうではないから、そういうことを繰り返して、イレギュラーで仕方なく、だから、十分でないことは承知の上で、でも言い訳なんてしないのだから、元の順位のようなものにせめて戻してもらえないか、というのが本音である。そのうち寿命が尽きるので、よろしくお願いします。
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新しい手帳を買う

2023-09-30 | 掲示板

 アマゾン眺めてたら、すでに来年の手帳が売ってあった。早速購入する。調べてみると、大体毎年8月中旬ごろから予約販売されているらしい。実際僕は8月の末に予約しておいたものである。手帳が届いたのは9月8日(書いている当時)で、ということは、実際の発売は、9月中旬ごろからということになるのかもしれない。はっきりとした記憶は分からないが、以前は年末の11月ごろになると手帳を買い替えていたと思うのだが、こんなに早く買えることを知っていたら、もっと違った計画が立てられたかもしれないと思うのだった。
 それというのも、実際の話年末になって来年のことを書く作業というのは、それなりに大変だったのである。いちおう来年の三月くらいまでは余白のある書き込みくらいはできる手帳を持っていたわけだが、これを埋めるまで、旧手帳と新手帳のすり合わせが難しいのである。基本的によっぽど大きな予定でないと、一年後や半年後の日程は決まっているわけでは無いのだが、その前段階としての、さまざまな日程調整は2,3か月前から激しくなっていく。そうしてその決まった隙間に、その後の日程が順次詰まっていく算段である。それらのことを思うと、年末年始は常に新旧の手帳を持ち合わせて書き込みをすり合わせなければならない。そういうのが、本当に煩わしいのである。
 でもまあそういう事だから、新しいものが今から手に入ったとしても、来年の6月くらいまで決まっていることくらいしか書き込めないことが分かった。10月、11月に行われる大会などの折に、来年の予定が発表されることになる訳で、それらがまた書き込まれる頃までに、少し余裕ができたくらいにしかならない。結局はやっぱり二つの手帳を11月末まで持ち歩くことになるのは何ら変わりない訳で、まあ、少しだけの心の余裕になっただけに過ぎなかったようだ。
 しかし改めて新しい手帳が手元にあると、なんとなく先のことが見えてくるような錯覚は起こる。基本的にここ十年くらいは同じ型のものを続けて使っているのだが、ちょっとだけ色遣いが変わっているところもあったりして、そういうのは楽しいものである。書き込む予定が楽しいものばかりではないことだけが、やっぱり残念と言えばそうなのであるが……。
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U=NEXTへ移行するぞ

2023-09-20 | 掲示板

 忙しくなってろくに映画を観るなんてことも許されない感じになっていて、しかし、グジグジとずっと悩み続けていたことがあった。それというのもU=NEXTだった。観たい映画はアマゾン・プライムとネットフリックスにたくさんリストアップされていて、もう今年中に全部見ることは不可能なことくらいは分かっている。それにもまして、U=NEXTなのか、という悩みだったわけであるが、プライムなどのリストのほとんどは、実は有料レンタルのものであって、いずれ見たいのストックである。ネットフリックスはドラマは充実しているのだけれど、映画の方は、いささか二番手というか、一番今見たい旬ではなかったりする。U=NEXTは料金は少し高いのだが、ポイントの還元もあるようだし、お試し期間も31日間である。その間に今見たいと思われている作品の十数本は、すぐに見ることができる算段である。時間があればという限定的な問題はあるものの、数日掛けて一本を割り引いて観ている現実にあって、コツコツ見続けていくと、今見ているという達成感があるのではないか。ネットフリックス・オリジナルを除けば、観たい映画はほぼ重複網羅していることも調べていくと分かった訳で、これはもう移行するしかない、と判断するまで約一週間。とうとう決断したわけである。
 一応ネットフリックスだけを解約することにして(キャンセルというらしいが)、U=NEXTのお試しに入った。アマゾンとの重複を調べて、どんどんU=NEXT側のストックへ移していく作業をする。これが何とも楽しい。まだ映画を観ていないにもかかわらず、今すぐ課金なしに見られるという喜びが、ひしひしと全身に伝わってくる感じだ。実際に見たら失望する映画もあるはずなのだが、観る前の期待感というのも、映画を観る醍醐味の一つなのである。そういう気分こそ、僕が求めていたものだったのかもしれない。考えてみると、多少せこいものではあるのだけれど……。
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人間が無力だと脱力させられる

2023-09-08 | 掲示板

 パソコンを再起動させると、立ち上がり画面でウィンドウズ11に無償アップグレードできるという宣伝画面が左半分だけ拡大したもので占められ、固まる。そうなると何をやっても動かなくて、強制終了させるよりない。再度再起動させると、また画面が現れ、固まる。この画面の下方向に、この画面を終了させることができる文字があることは、過去の経験で知っているのだが、何しろ拡大した画面が下部を隠しており、操作が不能である。コントロールキーとAltキーとDeleteキーで強制終了画面に行くことができるが、これで再起動させてしまうと、また戻ってしまうので、強制終了よりほかに無い。
 いろいろ後で調べて、設定画面で更新プログラムで11に行かないようにするが、再起動すると、やはりしつこくこの画面になってしまう。時間がもったいないし、本当に腹立たしい。こんな会社と付き合わなければ生活できない環境に置かれている自分の不幸を、呪うしかない。
 それにしても別段11にしてもいいのではないか、という考えもあるのだが、使っているソフトなどには、不具合が出る可能性がある、と事務方から注意を受けている。あとで戻す方法もあるらしいのだが、そういう感じも、なんだか面倒なのである。
 職場の連絡事項など業務に使っているのはlineワークスというのだが、これも今後は有料になるという。うちの事業規模だと20万くらい余分に経費が掛かってしまうそうだ。いちおう別のところに相談したりしているが、すでにこれで仕事の関係はかなり使っていることもあって、別のものに移行するのも不安がある。なんだか踏んだり蹴ったりなんだが、便利さに誘われて使っていると、これらの会社は罠を掛けてくる決まりがあるようだ。かといって別の類似システムだと、別の不具合に遭遇する危険もある。いまさら紙など不合理なものにも戻れないし(実際は個人として使っているけれど)、なかなかに難しい問題なのである。
 まあいつかは僕にも寿命が来るし、こういうものと付き合わなくてもよくなり、煩わしさとは開放されることだろう。その日が来ることを望んでいないだけのことであるが……。
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すぐに買い替えを考えてはならない

2023-08-21 | 掲示板

 テレビのリモコンの調子がおかしくなった。正確にはレコーダーのリモコンであった。チャンネルは変えられはするが、何か動作が遅い。録画したものを選択するのに、画面が早く動かない。また新たに録画する番組を検索するのにスクロールが途中で止まったりする。何の不具合かよく分からないので、電源スイッチを長押ししてみたり(再起動のつもりで)元栓のコンセントを切って30秒くらい放置してみたりする。それでも動きの鈍さは改善されなくて、何か故障でもしたのかと考えた。
 ネットでリモコンを検索してみると、同じ機種のものは4000円ほどする。正規のものではなくて、ひょっとすると汎用性のありそうなものでも、やはり3000円はする。送料は別だし、そんなに値段は違わないかもしれない。
 ネットでそういう不具合のことを検索すると、やはり再起動だとか、これまで僕がやったようなことが書いてある。やっぱり買い替え時期なのだろうか。
 さらに検索すると、個人のブログで、あんがい電池ではないか、というのを見つけた。「電池?」と思ったが、僕が探しても単4が家のどこにあるのか、よく知らない。つれあいに聞いて、やっと2本探し出す。そうして取り替えたら、すらすら動くではないか。どうして電池だと思いつかなかったのだろう。最初に疑うべきは、電池だったはずではないか。危うくリモコンを二つにするところだった。4000円も使って。
 そうしてふとテレビのリモコンでネットフリックスを観ようとしたら、こちらも電源が不足と出た。やはり同じ時期くらいに替え時なのだろう。これはつれあいがちょうど買い物で買って来てくれて、事なきを得た。調子が悪いときは、電池を疑え。携帯やパソコンみたいにバッテリーの残量がわかるといいのにな。

 朝起きて腕時計をはめると、時計のカレンダーが2000年の一月になっている。どうしてリセットされたのだろうか。まあこれも古くなってきたからな。
 そう思っていたら,翌日もさらに翌日も……。まあ、時計を合わせることくらいは、僕にもできる。なんとなく朝の習慣のように思えて、毎日やっていたのだが、とうとう日中ふと時間を見ると、そのたびにリセットされるようになった。腕時計の電池の残量は少なくなると表示されるようになっているのだが、リセットされると残量表示は特に出てはいない。とうとう寿命かとも思ったが、いやまて、これもコインを出して開けてみて、電池交換をやってみた。なんて事は無い、それで翌朝はリセットされずに動くようになった。これまでは電池が切れそうになって、リセットされていたのだろう。まったく新しく買わなくてよかった。まあ、これはプレゼントでもらったものだし、まだ使えてさらに良かったのであった。調子が悪くなれば、まず疑うべきは、やはり電池なのであった。
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僕は命令に従いたい

2023-07-24 | 掲示板

 特に見たくもないと思っているものから観ている気もする。というか、強いて今見たいと思うものが、そう思う気持ちが、あまり無いのかもしれない。しかし録り貯めている録画時間はどんどん増えるし(時々整理して消してるけど)、ネットフリックスもアマゾンプライムもリストの数は増えるばかりだ。もちろん最初は嬉しい悲鳴のようなものがあったのだけれど、増えすぎてしまうとかえってそれらの圧力のようなものが薄れていき、要するにあきらめの気持ちが強くなり、もう全部見るのなんて物理的にはかなり難しいものであることを悟り、観たかった欲求まで奪われてしまうのかもしれない。
 それで録画リストを眺めて観始めるのは、大体5分とか、細切れの時間の合間をぬって作られたような番組で、要するに料理番組とか、子供向けのものとか、ミニ・ドキュメンタリみたいなものになる。観ていると楽しいので、特に文句があるわけでは無いのだけれど、そういうのを観始めると、あらためて、そういえば特集ものがあったな、とか、大自然や動物も見たいかもな、とか、科学番組とか宇宙物も見たいな、と思うのである。そうして、やっぱり映画観ようかな、とも思うのである。
 で、今度は映画のリストを見ると、やはり量があるのでパラパラとリストを眺めている間に、やっぱり録画物から先に見てもいいかな、とか思い直したりする。これはもう自分が優柔不断なところがあるというのはあるにせよ、ほとんど病気である。あなたは何を見なさい、という命令を下す人がいたならば、今の僕なら素直に従うに違いない。そうして実際に、そういってくれる人を求めてもいるのかもしれない。
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テレビを見ながらメモを取っていたが…… 

2023-05-04 | 掲示板

 僕はテレビを見ながらメモを取る習慣がある。そうしないと内容が頭に入っていかないような印象がある。実はそうまで真剣に見ているわけでは無いのだが、基本的にはテレビは録画しているものを見ていて、何か意図的に見ようと考えていたはずのものを見ている。そうするとそれはいったい何の話なのかということになり、メモを取るのではないか。
 しかしながら映画を観ているときはメモを取るわけではないので、録画で観る番組の内容で、何か気になる部分を切り取って残しておこうという気になる、という感じかもしれない。映画でも気になるところはたくさんあるが、物語を追う時に、メモの時間が省略されてしまうのかもしれない。実際映画の中で語られる別作品であるとか、画面に映っている気になるものについては、メモを取る場合が皆無ではない。面白そうな商品であるとか、あとでアマゾンで検索しようと考えるのだろうか(というのは、実際はそんなことはあまりしないので)。
 ところがこの数か月、テレビを見ながらメモをする機会がだいぶ減ってしまった。厳密にいうと選挙などで物理的に家に居なかった時期などもあるのだが、一応そういう期間を除いたとしても、メモを取ることを阻まれている要因がある。それが何かというのは明確にわかっていて、しかし排除し難いものなのである。
 それはずばり睦月ちゃんである。睦月ちゃんは飼っている犬のことで、彼女がメモをすると邪魔しに来るのである。ボールペンの動きが気になるというのもあるし、テーブルに置いてある手帳類が気になる。おそらくそれらには僕の匂いのようなものが付いていて、たとえそうでなくとも、噛みついて破るのが面白い可能性がある。だからもう、睦月ちゃんの手の届きそうなところには手帳やメモ帳は置いていない。噛みつかれるのが分かっていてそうするのは愚かである(しかしときどきいまだに噛まれているが)。そうするとすぐにメモする動作に入ることができなくて、一度席を立って、それらが置かれている場所に移動しなければならない。そうすると睦月ちゃんは当然反応するので、その後メモするのがバカらしくなるに違いない。もう席も立てないのである。
 しかし僕の服の胸のポケットには、小さなメモ帳が入っている。そうなのだが、このメモ帳を取り出す動作においても、睦月ちゃんは目ざとく反応する。一度近寄られると、もちろんメモは取れない。排除しようとする動きにはさらに興奮を呼んでしまい、焼け石に水である。暴れる彼女を抑えるには、一定の時間そうさせておくより仕方がない。そうすると、メモを取るタイミングを逸してしまう。
 つまりはそういうことで、テレビを見ながらメモを取ることが困難になってしまった。その為の損失が何であるのかはまるで分らないので、そもそもメモの意味というのは何だったのだろうか……。
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小掃除を行う

2023-04-25 | 掲示板

 僕は例えば年末なんかになっても、基本的には自分の周りの大掃除はしない。自分と関係ないところは大掃除のふりをして掃除するが、自分の部屋であるとか仕事関係の書類というようなやつは、そういう時にはあまりいじらないようにしている。理由は実にシンプルで、そういうイベント性のある時に何かやると、たいてい失敗するからだ。せっかくだから盛大に捨ててしまおうとか、もっと細分化して整理し直そうだとか、僕のことだから考えるに違いないのである。そうすると本当に盛大に捨ててしまってきれいさっぱりになって、後で慌てて何かを探す毎日になってしまったり、細分化して整理することに苦心すぎて何も捨てられなくなり、ごみの山がさらに増えてしまう上に片づけも当然終わらない、などということになってしまう。どちらもうんざりすることこの上ない。
 しかしだからと言って、まったく掃除や整理をしないわけではない。定期的に書類は処分しなければ置くところが無くなるし、一定期間保存が望ましいものであっても、そういう期間を過ぎたら処分が適当だと感じられるものが増えて困る。うちは役場でもないし、今の仕事の範囲で不便なければ、たいていのものは処分可能かもしれない。その代表が撲自身だったら最悪だが、まあ、それは置いておいて、処分に励むわけだ。
 書類と言ってもほとんどが案内を含めた関係書類や会議のものであり、パンフや資料や冊子のようなものが大量に積み上がっている。日程調整などはほぼメールでのやり取りになっているのに、やはり会議の折には書面をダウンロードするし、リアルだと資料ももらう。無造作に時系列で並べているけれど、これが段ボールにいくつもということになるし、ファイルしているものがあふれても来る。こういうのはうっかり中身を見てしまうと思い出がよみがえったりもするので、とりあえず長期間手を付けなかったという様子を見て、バサッと捨ててしまう。もちろん封筒の中には日当のようなお金が入っている場合も過去にはあったので、封筒のざっくりした内容物くらいは確認する。どんどんごみ袋に放り込んで、いくつが袋の山ができたら処理場へもっていってもらうゴミ置き場に捨てに行く。そうしてすっきりしたはずの部屋に戻ってくると、実はまだそんなにすっきりしていない。結構捨てたけどな、と思うけれど、そもそものカオスの世界がそう簡単に整理される訳が無いのである。本はあふれているし、現在の仕事関係のものも増殖している。今作業しているものもあるし、だいたい整理してなかったのだから適当に山になっているあたりを少しいじったくらいでは、山の高さが数十センチ下がったくらいのものなのかもしれない。せっかくスペースができたから山になってた本を移し替えたり、新しく書類を置けるように段ボールを置いたりしたではないか。動けるスペースがそんなに無くても、手が届きさえすればいいと、さっきまで思っていたじゃないか。結局はそういうことで、根本的な型付けというのは、僕の死後誰かにやってもらうより無いのであろう。
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ダークサイドからの生還

2023-04-12 | 掲示板

 昨日までの僕は、危うくダークサイドに取り込まれるところだった。それほどにダメージは大きかったわけだが、実際何を考えてもダークサイドが僕を引き込もうとするのだ。それなりに抗っているつもりだったが、出てくるものは毒ばかりになりそうだった。かなりつらかったが、そういうものに追い打ちをかけてくる人々もいる。少なくともそのような無理解が、ひどく堪えるのだった。世の中の人間というのは、心が無いのだろうか。
 しかしふと、なんだか違うものが陰から出てきた。いや、いつまでもこんなところに居るべきではないという感じのものが、頭をもたげたというか。少なくともつまらない生き方をしたところで、それは僕の人生だ。取り込まれた人生は、面白くなりようが無いではないか。
 先月末録音していた村上レディオで、村上さんがマラソンを走っているときにつぶやいている言葉を紹介していた。

 Pein is inevitable,but suffering is optional.
「苦痛は避けがたい。しかし苦しいと思う心は自分次第だ」

 もちろんオプションは、苦しいと思わない方を選んだ方がいい。それだけのことだ。
 僕は日ごろ、結果が重要じゃない。プロセスこそが大切だ。と言い続けている。人に言うが、もちろん自分に投げかけている言葉だ。簡単に忘れてはいけない。いつもつぶやいていなければならない。そんなこと人に理解される必要なんて無いじゃないか。
 そういう訳で帰ってきました。なんか面白いこと考えてみようかな、という気分と一緒に。とりあえず、たまっている本でも読もうかな。
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先を埋めて記録をつける

2023-02-15 | 掲示板

 以前も書いたと思うが、自分のことで呆れるというか、どうにも性分として困ることがいくつかある。全部は書きたくないので一つとりあえずあげておくと、このブログかもしれない。この文章が上がるのはおそらく2月の15日ころになる予定であるが、現在は7日である。お気づきの人もいると思うが、だいたい映画を二日にいっぺん。その間に何か別のものを交互に入れている。だから映画の分は既に20日までは上がっている。たまに今あげたいタイムリーさを感じると、翌日に繰り上げてあげることもあるが、だいたいにおいてこのような感じで、先んじて何か書いている。別段暇だからということでは無くて、逆に毎日上げるのが難しい可能性がある日に備えて、このようなことをしてしまうのかもしれないと思う。ちょっとした時間の空きに、メモなどを見てまとめる。そうするとすぐに文章にはなる。あとで一度か二度見直して校正することもあるし、そうするとまた別の文が出来上がったりする。いくつかの話を掛け合わせることもあるし、逆にそのように別の考えが浮かんで別枠で書いたりするわけだ。続き物はあまり書かないが、それでもたまにはそれもやる。あれこれ考えていた正体が見える場合もあるし、出来るだけ短くと思いながら舌足らずのような気もすることもあって、前段部分が長くなりすぎている。そうすると最初から別の話になったりする。ストックは最小限でいい気もするのだが、そのようにしてたまりすぎることがある。あんまりたまりすぎたな、と思うとさすがに数日寝かせておく。15日以上先になるとだいたいもう書かないのだが、そうすればそうするで、たいてい書かなければ忘れるので、また何かこしらえて書かなくてはならない。そういう性分なので日記はつけないが、こういうものを書いたという記録はつけている。そうするとその記録をつける行為に何らかの快感のようなものがあるらしく、もっと記録を増やしたいような気もする。書き終えてそういう記録が一行増えると、ちょっと満足である。日頃いくつもの複数の案件を抱えていて、それらが完全に終わるなんてことはそんなに無くて、継続していくつかは絡み合い、そうしてまた次の仕事も舞い込む。おそらくそういう気分の中にあって、ブログで何かを書いて終わるということが、ちょっとした精神安定につながっている可能性がある。ブログにはどれくらいの人がやって来たかということが分かるようになっていて、始めたころにはこれが少し励みになっていた。しかし実際のところ、僕のような無名の人間が雑文を書いたところで、読んでくれる人は簡単に増えない。一時期は少し増えて一日に二三百人ということもあったが、そうするとしばらくして今度は少し減っていく。飽きてしまうということもあるのだろうし、そもそも長文なら読まない人の方が多いのだろうとも思う。実際にフェイスブックなどで友達の人からそういわれたこともあって、見に来ているのに読まないのか、と衝撃を受けた。けれど僕だって他人の長い文章を全部読んでいるのかは怪しい。まあ当然か、と思うと気が楽になるというか、そもそも人数を増やすのが目的で書いていたかも怪しいことで、まあ、気にならなくなった。つまるところ自分の問題であるのだから続いているのであって、書いたらまた、一行何をどれくらい何分で書いた、と記録する。別段それは見返さないのだけど、それだけで書いた甲斐があるような気もするから不思議である。そんなだからいつ止めたっていいし、確かに未練もそんなにない気もするんだけど、文章を書いていると自分の考えも確認できるわけだし、何かちょっとだけすっきりすることもある。そうならないこともあるんだけど、そうなる場合もあるのである。結局それで先に備えてまで書いてしまう。こういう性分の人は僕以外にもいると思うが、やはり少しくらいは困ってはいないだろうか。いや、困らないかもしれないが……。
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