カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ボールペンを捨てる

2011-12-31 | 感涙記
 メモ魔の僕の年末の楽しみは、今年インクの切れたボールペンを捨てること。
 黒だけ残ってる場合は本をよく読んだ(赤で線を引くから)場合が多く、赤が残っている場合は会議がつまらなかった(資料にたくさん書きつけるから)場合だとかが多く、何故か青は先に切れることが多くて困らないが(請求書をたくさん書いたとか)そういう感じでインクの残っているボールペンは、それこそ山のように机の引き出しに眠っている。キャップをなくしてしまったものとか、時々書けなくなっているかもしれないと思って書いてみるけど、年々ボールペンの性能はあがっているものと見えて、なかなかそういうものが出てこない。書けるもの(まだ使える)を捨てるには忍びないので、使い切ったものを堂々と捨てられることに快感を覚えるのだろうと思っている。漱石は年末になるとたまった手紙を庭で焼いて喜んでいたそうだが、そういう気持ちは何となくわからないではない。書けなくなったボールペンには感謝しつつもお別れできて大変に嬉しいのであった。
 そうしてまた、新しいボールペンを手にすることの喜び。胸のポケットに新しいボールペンをさすことの快感は、そのたびごとに気持ちをリフレッシュさせるのであった。

追伸:筆ペンがなくなるのは不幸が多かったのかお祝いが多かったのか、その両方が多かったからに違いない。
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幸福(しあわせ)

2011-12-30 | 映画
幸福(しあわせ)/アニエス・ヴァルダ監督

 つれあいと二人で見終わった後に、何だかあっけにとられた作品。後知恵によると64年に作られたヌーベルバーグの名作らしい。フェミニズムの視点もあるんだとか。なるほど。
 男の僕から見ても、単なる男の身勝手物語だし、そのうえものすごく馬鹿にしか見えない。馬鹿なんだけど純粋とは言えるのかもしれないし、まあ、子どもなのかなという印象は受けた。幸せな毎日を美しい映像で綴っているのだけど、音楽に伴って妙な緊張感がある。僕は画面の中に、いつ幽霊が出てもおかしくないとドキドキしたくらいだ。そのうえ展開については、ひょっとするとこうなるんじゃないかという予測が立つのだけど、ある意味でその予測はことごとく裏切られるというか、つまり何にも起こらない。そうではあるんだけど、限りなく不自然なのである。この違和感こそが、おそらく幸福の対極にあるアンチ幸福のようなもの、その偽りの世界そのものなのだということなのではなかろうか。
 別段かっこつけて言っているわけではないが、家庭を持った上で、その奥さんとも深く愛し合う日々を過ごした上で、性的にも相性のいい女の人とも自由に性交を行うことが男の幸せであるとは、僕には到底思えない。性的に自由でありたいという幻想を抱いたことがないわけではないが、それが現実化したとして、やはりそれは幻想だからいい世界だとしか思えないような予感がある。知らない世界なので想像でしかないのだけど、いつもいつも性的に満足だというような生活が理想でも何でもなくなってしまった。それはひとえに愛のある性交を行う相手の女の人にも、それぞれに人格があるからに他ならない。僕自身の男性という存在は、彼女らとの相対的な存在であるだけのことである。僕が良くて相手も良くないと相対的な関係など成り立たない。自分の理想にあった相手を自分の都合通り複数抱えるというのは、だから金銭的なものであるとか、、権力的なものであるとか、そういうもので具体化するしか方法がないことが、歴史的にも認められることなのではないか。そうしたければそのような方法を使って、いわば正攻法でまとめたほうが、世の中は平和なのではないか。いや、それでも平和な幸福たりえないような気がするので、自分自身でもう少し調整したうえで渡り歩く必要がありそうだ。そこにはある程度の欺瞞は混じるような気がするけど、器用にやれる人だっているにはいるのであろう。単に僕にはちょっと無理そうだなあというだけの話なのかもしれません。
 ということで、ファンタジーなんだけど欺瞞に満ちた世界をシュールに描いたということなんでしょう。名作とは、このように考えさせられるということを含めての讃辞であると心得ておきましょう。
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復活宣言

2011-12-29 | 掲示板

 やっとパソコンが復活。しかしながらやはり失われた資料の膨大さに呆然とする思いに違いはない。戻ったもので貴重なものもあるので、これで良しとするしかない。考えてみると年が変わるわけで、本当に新たに仕切りなおして歩みを始めるという感じなんだろう。
 スカーレット・オハラだって、すべてを失ってから希望を見出したではないか。新村出だって火事ですべの資料を失ってから広辞苑を編纂したではないか。おいらの置かれている状況なんて、そんな事に比べたらまだまだなんじゃないか。
 そういうわけで、これからも温かく見守ってくださいませ。ただの備忘録だったにせよ、ここだって僕のストックなわけで、ネットって、自分自身のアイディンティティにかなり貢献した存在なんだなあと改めて思った次第であります。
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猫まんま

2011-12-28 | 
 昨夜何故か「猫まんま」の話になって、そういえば久しく喰ってないなあという思いはともあれ、これを食えないという人を説得するのに苦労した。しかしながらよくよく聞いてみると、食えないのは食ったことが無いだけでなく、食いたくないというのが正しかったのであって、不味くて食えないという話ではなかった。つまり食ってみれば旨いと思う可能性はあるわけで、説得の甲斐はあったはずである。次回出会った折にはしつこく追求せねば。
 しかしながら猫まんまというのは、あったかご飯に熱々の味噌汁では、やはりどうにも実行できない雰囲気がある。そういう潔さは、猫まんまと言う物語に反しているのである。
 残り物のご飯があって、おかずが何にも見当たらない。そういうときに少しだけなべに味噌汁が残っていて、温めたら、鍋が「ジー」っという音を直ぐに立てるくらい申し訳程度の味噌汁という感じがさらに食指をのばし、さらさらというかジュカジュカという感じにご飯を流し込んで食うというのが、なんとも至福なのである。何でまたこんなに旨いものが世の中に見捨てられたまま存在していたのか、その奇跡におののくと共に、なんとなくこの旨さを独占している後ろめたさも感じられる所が、さらに魅惑の味なのである。
 そういうものが無い人には、ただ勧められて食ったとしても本当に猫まんまを味わったことになるのだろうか。
 まあ、それより何より、そういう境遇にならない人には、猫まんまの至福は訪れることはないのかもしれない。そういう訳で、ある意味でそれは、しあわせな人生なのであろう。
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年末騒動

2011-12-27 | 掲示板
 パソコンのバックアップも取らずにセットアップしてしまって個人的に大変な騒ぎになっている。本当に魔が差したとしか言いようが無くて、どうしてこうなってしまったのか、ただ単に後の祭りである。普段使っているパソコン本体は業者に引き取ってもらった。年末のこの時期に自分のパソコンが無いのは本当に痛い。
 そういうわけで仮暮らしのパソコンを覗き見る程度にお借りするという状況であります。例年だと今年を振り返ること等をしているようだけど、今年はそういうわけで、来年くらいになって今年を振り返ることになるんではなかろうか。どの程度復活するかは未知数だけど、いくらかでも残っている可能性に全てをかけるしかない状態であります。
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呼ばれるほどには馬鹿で無し、とはいったものだけど

2011-12-26 | ことば

 敬称というのは伝染するものらしくて、会議の席なんかで誰かが「先生」などとやるとその人は以後先生になったりしてしまう。意固地になって何々さんというのも、かえってはばかられる思いがする。時々僕なんかでも先生といわれることがあって、以前は単に馬鹿にしてるんだろうと思っていたけど、なんとなくそれなりに慣れた。習慣というのは恐ろしいのである。
 実際に飲み屋さんなんかでは、金が無さそうなら「先生」、金払いがよさそうなら「社長」というらしいという話は聞いたことがある。インテリ風だとか単に眼鏡だとかやせ形だと「先生」という話も聞いた。恰幅が良ければ「社長」かもしれないが、足元見られているようで面白くなさそうだ。まあしかし、実際にはあんまり聞かなくなったな。
 業界ではそうするというのもあるみたいだ。漫画家は先生らしいというのは編集者としては分かるが、読者が先生と書いているのはいまだに少し変だとは感じる。子供だから仕方ない面はあるけど、漫画家はさん付けが良いとは思う。子供向けに書いている人達は、そう呼んでくれと子供には伝えるべきではないだろうか。まあ、そのようなカッコ悪さは、同時に心地よさかもしれなくて、簡単じゃないのかもしれないな。ま、いいか。
 落語家などが師匠というのは、仲間うちではいいと思うが、アナウンサーなども師匠と呼んだりするのは、なんとなく見苦しい。お笑い芸人にも師匠はいるんだろうけど、ほかのスジの違う芸人さんが師匠と呼んだりするのは、やはり子供っぽい。まあ、大人のいない世界かもしれないので、それも仕方ないか。
 しかしながら、師匠は特殊にしても、先生は便利ではありそうだ。たくさんいるので、あんまり名前を覚えられない時には「先生」と呼んでおく、というのはありそうである。本来は「様」より上っぽいけど、逆転して安っぽくなったと捉える方が適当かもしれない。平民は皆先生、という時代になっているのかもしれない。
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今から買っても間に合っている話

2011-12-25 | culture
 FB見てたらクリスマスケーキはイブじゃなくて25日に食べるべきじゃないか、と言うようなつぶやきがあった。25日がキリストの誕生日なんだし、ということのようだ。しかしながら25日がキリストの誕生日ではないことはほぼ明らかなことで、聖誕祭と言うのは後からできた便宜上のことでしかないようだ。実際にイエス・キリストがいつ生まれたかは不明らしいし、実在自体が怪しいと言う話もあるくらいだ。まあ、それらしき人はいたらしいとは思われているが。なにぶん昔の話だからいろいろ書き換えられるのが歴史というものだし。
 その上暦や習慣というのもまたややこしく現代とは違う。今はクリスマス・イブと言うことで前夜祭を祝うんだと言うことになっているけど、以前の西洋では一日の始まりが夜から(暗くなってから)と言うことで、イブはすなわち既に25日だった可能性がある。また、今のような12月の存在自体がはっきりしてないこともあるようで、西暦が今と同じようにカウントするのは案外そんなに昔からではない。そもそも、誕生日を祝ったりはっきりと人々が誕生日を意識して知っていると言うのも、近代的な概念かもしれない。
 そういうわけで25日がクリスマス、と言うことじゃなくて、だいたいこのあたりがクリスマス期間と言う程度のほうが、実情的な話のような気がする。結論からいって、ケーキはいつ食べてもお好きにどうぞ、と言うことではないか。
 コメントしようかと思ったけど、長くなるのでメモしました。
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駅前の歩き方

2011-12-25 | 読書
駅前の歩き方/森田信吾著(講談社)

 寿命の方が短くなってくると、食の方がいやしくなるということはあるような気がする。出張などで名物と聞くと、何が何でも食わなくては!という気分になったりする。しかしながら若い頃のようにはたらふく食えないから、一点集中ということにもなる。一点に集中すると、外れた時の落胆も大きい。調べて行くというのが一番確実なようだが、下手に有名なところというのは予約も難しかったりする。それに変なものだが、そういう手間を掛けるのが面倒だとも思う。それにお勧めの店というのが、駅から遠いのも移動に困る。せっかく来たのにだんだんどうでもよくなってくる。そうしてまあ、酒さえ飲めたらそれでいいさ、という程度になってしまったりする。
 そういう訳で、食い物にうるさいわけでもグルメでもなんでもない。食うこと自体は好きなんだけど、時々一日三食食うのがめんどくさいとも思う。腹が減らなければずいぶん楽なんじゃないかと考えることもあるが、考えたって仕方がない事はあって、やはり腹が減って飯を食う。せっかくだから…、とループする。
 実はめしは旨いにこしたことは無いのだが、時々あんまり旨くなくてもいいんじゃないかと思ったりする。長崎県に住んでいるので普通に魚介類が旨いということもあってあんまりありがたみが無いせいもあるのだろうが、めしはまずくない程度に食えるだけでありがたい。それにいくら旨いものだと言っても、続けて食っていればいつかは飽きる。適当に毎日ばらついたものにありつけるというのが一番の理想なのだろう。
 食にまつわるいろいろなエピソードを交えての人間模様を描いているわけだが、彼らの求める常食というのは、その字の通り、注意しなければ人間模様にうずもれて気にもかけない普段着のものでありながら、ちょっとばかり個性的な食べ物の紹介になっている。焼きそばの類からぜんざいのような甘いものまで、いわゆる最近流行りのB級グルメのようなものかもしれない。
 長崎からはトルコライス。学生の頃は、それこそ駅前の喫茶店のようなところで普通に食っていたけど、いつの間にか食わなくなってしまった。不思議と適当にまずいのが良くて、最近は洗練されておしゃれに旨いものが増えて、だんだん食指が動かなくなってしまった。考えてみると確かに変な食いもんである。
 もうつぶれてしまって無くなったのだけど、学生の頃に看板の無い食堂(実際は「ももや」というらしかったが、看板は無かった)があって、そこの650円のトンカツ定食の大ファンだった。650円は学生には大金だから、お金のある時だけの楽しみだった。そこは交通の不便なところにあったので、作業着姿のオヤジや学生ばかりが食いに来ていた。ほとんどは漫画のページをめくりながらがつがつ食うたぐいのところだ。でかいトンカツをたらふく食えるというのが何より楽しみであるにせよ、僕はココのポテトサラダが好きだったような気がする。刻んだキャベツの上にでかでかとトンカツが盛り付けてあって、そのトンカツをさらに山高く盛り上げているのがポテトサラダだった。トンカツの衣とかソースなどが混ざって純粋さに欠ける訳だが、これだけでも結構食べがいがあった。ポテトの中にハムときゅうりと卵が入っていた。人参は無かったと思う。もともとマヨネーズも入っていたはずだが、キャベツを食うためにテーブルには業務用のマヨネーズも乗っていた。ドバドバ掛けても特にとがめられなかった。少し遅めの昼時に入ると、おばちゃんが「ポテトが余ったらすぐに腐る」とかいって食べている皿の上に追加でポテトサラダを盛ってくれる事があった。それも本当にドカッとおいてくれるので、嬉しいが食うのが苦しくなるくらいだった。せっかくだからとても残せない。サービスなのだが、あんまり遅くなると行けないな、などと友人と話したものである。
 まあ、そういう訳で、若い頃がたくさん食えて楽しかったなあ、とは思う。あんまり量が必要で無くなってしまったけれども、適当にあんまり旨くない食堂が普通にあるようなまちに住めるしあわせを、改めてかみしめてみるのも悪くないのではないだろうか。
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真に望まれるリーダー像とは

2011-12-24 | culture

 よく日本では強力なリーダーが求められているというような論調を聞くことがある。そうしてそのような強力な指導者の不在が嘆かれるのである。確かに大阪の橋下市長の登場に期待を寄せたり、小泉純一郎のような首相を懐かしむということはある。僕自身もそういう人の存在が素直に望まれる心情はよく分かるつもりである。
 しかしながら本当に日本人の多くは、強力なリーダーを欲しているのだろうか。仕事や日常において様々な人事の様子を見る機会があるわけだが、そういう機会に接するたびに、同じ日本人でありながら、本当に日本のリーダーというのは不思議なものだとつくづく感じる事の方が多い。もちろん多くのリーダーは指導力のある方々が多いというのはある意味で間違いないのだけれど、実際に望まれているリーダーというのは、最初からそのような人物像で無い場合の方が多いのではあるまいか。
 日本の組織というのは、多かれ少なかれムラ的な社会の閉じたものが大半である。そのこと自体は、いったん批評は置いておこう。そういう社会においては、人事というのは実は生活に密接しており、あんがい重要である。特に男社会というのは人事が大好きで、そういう季節を問わず、居酒屋談義の多くは、人事問題だったりする。職場のグチというのは、人事問題と同根とさえ思えるほどだ。特に自分の上司にあたるような人がどのようなリーダーであるかは、仕事の本質にかかわる重要なものである可能性が高い。また、仕事も含めた様々な団体が存在するわけだが、そのような人事においても、それぞれに無ければ困るようなコミュニティの基本をなしているものが多い。あっても無くても良いように思える地域コミュニティでも、崩壊するとまちの秩序というのは、同時に崩壊してしまうことだろう。少なくとも、それなりのコストがかかってしまう性質のものが多いようだ。
 そのような重要な組織が複雑に存在するなかで、実際にはどのような人物がリーダーにふさわしいと思われているのだろうか。世話役的な役割は、忘年会の幹事的に大変なものであろうけど、むしろそういうものは、本当にしっかりした人を本当に選択する場合の方が多い。問題なのは、頭に座るべきリーダーの事である。
 実は昨夜もある会の忘年会をやっていたのだけど、事務局の方がある会の顧問に退かれた元会長のお話をされていた。それなりに剛腕を発揮される人で、僕などははっきりしていてなかなか良かったのではないかとさえ感じていたものだから、その話を聞いていてなんとなく感じ入ってしまった。それというのも、ほぼ迷惑だったことの苦労話ばかりだったのだ。如何に振り回されて困ったか、ということのようだ。お気の毒だけれど、何か仕事をやろうとすると、まあ、そうなってしまうだろうなあ。ということで、最後には、失礼だけど、今度の会長は何にもしないので本当に助かる、とおっしゃったのだった。ああ、そういえば、望まれるリーダーというのはこれかもしれない、と思ったわけだった。
 言いたいことはいろいろあるけど、時にはリーダーをじゃんけんで決めるようなこともするようなのが日本人である。諸外国の人には恐らく「?!」なんじゃなかろうか。ちょっと説明不能ですらある。そもそもそれってリーダーという概念ですら無いのではないか。
 まあ、そういう訳で、本当に望まれるリーダーというのは、指導力をモロに発揮するような人ではない事は明らかなように思える。本音ではそうだから、首が簡単に変わる現象も現実に起こってしまうのだろう。実際にそれでは困るのだけど、いろいろもっと困ることを具体的にされても困るということなのだろう。リーダーが決断しない事は、日本では合理的な行動のようなのである。
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100万円の悲しい響きについて

2011-12-23 | 境界線

 友人のターボ君と話していると、時々彼が50円や100円を、それぞれ50万円とか100万円とかいう。そうしてガハハと笑ったりする。そういうのを見ていると、つくづく僕らは年をとったなあ、と思わざるを得ない。ちっとも面白くない上に悲しくなってしまう訳だ。特にターボ君は若いころから純朴な青年であって、僕のような不良行為はめったにしないし、学校の課題などもまじめに〆切りを守るような、偉い、ケナゲな奴だったのだ。そういう人間であっても、いつの間にかそのようなオヤジ言葉を発して喜んだりしている。まさかこんな時代が来るなんて、いったい誰が予想しえたことだろうか。
 年齢的にオヤジになってしまうことは、むしろ仕方のないことである。そういうものにあらがう姿勢というのも、行き過ぎると時にはかえって見苦しい。しかしながら、いつの間にか気付かぬうちに、じっとりと体に染み付くようにオヤジという生物になってしまうことは、本当に恐ろしいことのように思える。人の振り見て、という言葉もあるが、たぶん僕もターボ君と変わらぬくらいには、オヤジ的な所作を会得しているに違いない。そういう恥ずかしさと居たたまれなさを感じながら、人というのは生きていかなければならないのだろう。残酷で悲しいことではあるけれど、それが定めというものなのであろう。合掌。
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炬燵への警戒

2011-12-22 | culture

 サザエさん見てたら、こたつを出すの出さないのとモメていた。実はノリスケが一番悪いといういつもの嘘の上塗り話だったのだけど、こたつというのは家族で揉めるには良い題材なのかもしれないとは思った。
 こたつは自宅に普通にあるものだし、家族も利用する平和の象徴なのかもしれない。しかしながら僕はこれがけっこう苦手だ。どういう訳か僕の子供時代から椅子の生活が多くて、ストーブやヒーターで育ったということが一番大きいのかもしれないのだが、畳の生活も同時にしており、また、子供の安全の面からも炬燵が悪いものとはとても思えない。親戚の家に遊びに行くと、炬燵があってうらやましいというような覚えもおぼろげながらある。
 炬燵の生活を本格的にやったのは、家を建て増して個人部屋が生まれた頃かもしれない。中学生にあがった頃のことだろうか。部屋に個人用の小さな炬燵がしつらえてあったようだ。建前上は勉強机だったのかもしれないが、炬燵に入ってもっぱら漫画などを読んでいたのだろう。そのうち眠たくなってゴロン、とやってしまう。しかし炬燵で寝ると、その後が激しくだるくなってしまう。これがつらいというのが、僕が炬燵を警戒する最大の理由だと思う。ああいうつらさを覚えるくらいなら寒い方がましだと考えて、いつの間にか蒲団を外してしまう。そういう試行錯誤を何度も繰り返したようである。
 現在の自宅の居間はフローリングである。椅子で食事をとるが、その後は床でゴロゴロしている。冬の間は炬燵が出してあるようだけど、僕はその炬燵の中にはめったにはいる事は無い。炬燵布団の脇にゴロンと横になることはあっても、中にはいる気分にはならないのである。
 他所のお宅にお邪魔して、炬燵しか無い場合には恐る恐る利用するが、時間が経過するうちに、炬燵の前で正座していたりする。いつまでたってもどうにも慣れないというか、炬燵はちっともくつろげないのである。そういうわけで、炬燵の無いお宅だと、なんだか本当にホッとする。寒いのが苦手なくせに、こういうところはめんどくさいと自分でも思うのである。
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ジョンイル雑感

2011-12-21 | 時事

 北の将軍様の死去のニュースばかり。確かにビックニュースだし、いろいろ思うところがあるのもうなずける。暗殺説なども跋扈しているが、真意のほどは知らない。しかしながら考えようによっては、ある程度は個人としてあのような立場で人生をまっとうしてしまったわけで、現代社会にありながら、そういうことが可能であったということが、現実感を超えて不思議でさえある。
 死後二日隠していたという論調もあるが、北の事だからそれくらいは当然のようにも思えるし、むしろ二日程度しか隠せなかったということも言えるような気がしないではない。この二日で何を決め何を決められなかったか、これから徐々に明らかになっていくのかもしれない。政府も様々な情報を集めるだろうが、どれほどのジャーナリストが核心に近づけるのか、怪しくなくてそれが出来る人が、来年あたりから台頭するのではないか。
 正恩という人間がどれほどのものかはまったく未知数だが、傀儡で動かす人物がいそうなことは確からしい(妹婿という噂が、それなりにリアリティがありそう)。もちろんその後ろ盾を本当にやるのは他ならぬ中国であって、そういうパイプの強い人間が、事実上実権を握っていくのだろう。
 傀儡よりも強いパイプのある人物がいるのであれば、クーデターも可能だろう。そういう行動を支持できる中国側の意図が合致するかどうかという問題はあるだろうが…。場合によっては飛び火するわけで、そういう展開になると却って危険な国家になるという見方もある。ただでさえ孤立しているわけで、そういう展開はあり得るのだろうか。
 対話路線になる可能性はそれなりにあるとは思う。この機会をどれほど準備画策していたかは知らないが、日本がそういうパイプを持っているとは到底思えない。もちろん、日本国内に相当つながりの深い人物が居ないわけではないだろう。そういう模索を本当にやろうという強い意志が働けば、チャンスだという見方は当然だろう。表面的な拉致問題への同情で無く、何らかの働きかけをすべきなのでは無いか。時間がどんどん経過するだけに見える中で、これだけは本当にこの時期に懸けるに値するように感じる。
 この冬の脱北者の動向でも占うことは出来るのかもしれない。それは内部の結果でもあり、始まりでもあるかもしれない。毎年激しい飢餓が起こっているらしいことは伝えられている通りだ。今飢えていない人であっても、目の前の現実が見えない訳ではなかろう。そういう状態に滑り落ちる可能性のある人間が一か八かの可能性に懸けるということになると、不安定材料はさらに増すことになるだろう。
 一定期間は喪に服すということを口実に沈黙するように見えるかもしれないが、もちろん激しい権力抗争が展開されそうな事は間違いあるまい。もちろんそのことが、北の国内問題だけでないことは、隣国日本は重々理解する必要があるはずである。
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ホンダの偉さは日本の偉さなのか

2011-12-20 | culture

 ニュースを見ていたらホンダの航空機の紹介をしていた。気になったのは、日本のモノづくりが航空機分野に参入するということを手放しで喜んでいる様子だった。しかしながら日本人の社長以外はほとんど米国人のように見えたし、生産拠点も販売先も米国である。ホンダという日本出身の国際企業が、日本人ということとは関係なしに、米国の航空業界に参入するという事実にしか見えない。それはホンダという企業の素晴らしさだとは思うが、日本人の誇りになりえるのかはかえって疑問だ。日本を生産拠点に出来ない何らかの理由はあるとは思うが、そのような技術は、やはり米国内でなければ容易ではない可能性もあるのではないか。
 喜ばしくこのニュースを伝える日本人のアナウンサーの姿を見ていると、日本というのは本当に落ちぶれてしまったのかもしれないとさえ感じてしまった。今や、こんな微妙なニュアンスのことくらいでしか喜ぶべきことは無いのだろうか。
 しかしながら日本が誇るべきことは、実はたくさんあるのだと思う。そういう当たり前のことは調べなければ詳しく分からない事だし、インパクトが薄いと感じている報道側の考え方があるだけの事ではないか。または解説をするほどの能力も無い為に、伝えきれないだけのことなのではないか。
 もっとも、日本人だけが素晴らしいなんてことも、日本向けにしかあんまり意味のなさそうなことである。どこの国だってそんな自尊心をくすぐるような気分を味わいたいニーズはあるのかもしれないけれど、そういうことばかり欲しがる心情というのは、なんだかかえって貧しさを感じさせられる。日本が迎えている局面は、そのような方向へ流れて行っているような、そんな気もして寂しくなるのだった。
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ミツバチのささやき

2011-12-19 | 映画
ミツバチのささやき/ビクトル・エリセ監督

 スペイン映画のカルト的名作。中古のセル・ビデオは見たことがあったけど、馬鹿っ高いのでせこく躊躇して未見だった。そのまま何年も忘れていたけど、衛星で放映されるというありがたい事件が起こった。こういう時だけ受診料を払っているという誇りを感じる。
 子供とは何か、ではなく、少女とは何か、という問題があるように思う。僕が男だというのもあるとは思うが、このような映画を観ると、しみじみとそのようなテーマに多くの男性がうつつを抜かしているのがよく分かる。よく分かるが少女とは何かは相変わらずよく分からない。本当に不思議な生き物なのである。そういう少女性を見事に描いた映画であったとは、二重に驚くべき事件だった。
 淡々と少女の日常を追っているだけなんだけど、そのことが既にファンタジーになっている。ものすごく不思議な世界に迷い込んで行って、そうして不安になり、頭が溶けていきそうになる。気を失い掛けそうになりながら、本当に現実の幻を観てしまう。あくまでイメージ的にそんな感じなのである。本当は少女が子供であるばかりに現実を勘違いしているだけなのだけど、勘違いしながら現実の足跡を勝手に解釈していくうちに、だんだんと空想の方が、現実の物事の方を微妙に歪めて凌駕してしまう。そういうファンタジーが現実に起こってしまうのである。フランケンシュタインは映画の中の人物だったのに、少女の日常に現実に現れうる存在に変化するのである。
 これをどのように捉えるのかというのにはあんまり興味はない。はっきり言ってしまうと、いきなりこれは現実の物語なのだと言いたくなる。それこそが、僕らの知らない少女性というものなのではなかろうか。僕には恐ろしくもあるのだけれど、やはりこれは美しいというべきだろう。
 大人になっても不思議な女の人はいるにはいるけど、そうなってしまうと結構迷惑だったりする。少女性というのははかなくも消えてしまうからこそ、美しく切ない貴重さがあるのではなかろうか。この映画に出ていた少女も、今は誰かの母になっているのかもしれない。もしかしたらその子は娘なのかもしれなくて、そうしてその少女性を引き継いでくれればいいんじゃないだろうか。かくて少女性は永遠も獲得する。それはひょっとすると目撃されないものなのかもしれないのだけど、存在するのは間違いのないことなのである。
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「純化」というらしい

2011-12-18 | ことば

 韓国の外来語の取り扱いについてのレポートを見た。外来語の氾濫で、社会的に影響があるものらしい。そこらあたりは日本とも事情はかなり似ているようにも見えた。しかし韓国からすると日本は外来語について寛容であるように見えるらしい。確かにレポートを見る限りでは、何とか今のうちに手を打っておきたいという気持ちが強いようにも思えた。外来語の中でも、若い世代が使う日本語の影響も大きいように思えた。そこのあたりは日本における朝鮮語も同じようなものだと思うが、日本の場合だと、若者文化という感じでもないのが、なんとなく違うところだろうか。
不必要な外来語は「純化」という言い方をしていたが、出来る限り韓国語でいいかえをする作業をしていた。それは国家的な取り組みというより、影響力の強い放送関係者が自主的に取り組んでいるようだった。
 そういう取り組みは、特に日本や韓国だけの話では無く、フランスなどの国もやっているという話も聞いたことがある。一般の会話にも支障が出てくるくらいに、外来語が入ってくるスピードは速いのだろうと想像される。
 日本の場合を見ても、はっきり言って僕自身も既に外来語の多くを意味の分からないまま耳にして受け流すことが多くなっているようにも思う。もうどうにもならない、というくらいの諦めにも似た気持ちがあるようだ。会話の途中で遮って意味を聞いても、追いつかないくらいに多用する人も実際には多い。大まかにはこちらが適当に意味を当てはめて対応するより無いということもあるようだ。
 言い換えられるものは言い換える必要もあるだろうけど、時にはそのままの方がむしろ適当らしいこともあるのが、また厄介な話である。業界の専門用語などにそのような言葉があったりして、行政などがその言葉をコンセンサスにして使ったりする場合がある。これはもう仕方なく使用するより無かったりするが、そのことが本当に適当であるのかは疑問の残るところだ。そのようにして、なし崩しになってしまうことが多いのではなかろうか。
 しかしながら言葉というのは、勢力の強さそのもののようなところがあって、その勢いが強ければ流れを止めることなどはかなり難しい。更にそのまま定着するかどうか、ということの方が問題であって、放っておいても消えるものだってそれなりに多いのではなかろうか。流行りであるだけなら、そこまで神経質になる必要もなさそうだ。若者言葉が分からない、なんていうのは過去だって多かれ少なかれ同じようなものだろう。彼らだってあえて分からないように話しているところもあるのだろうから、分からないままの方がよさそうなものである。そこまでして分かりあう必要もなかろう。
 言葉というのは共通理解のためにあるようなものだが、もともと多様化するような性質もあるような気がする。それで日本語が決定的に損なわれるというようなことがあるとすると、その後に生まれた日本語もまた変化していくだけの事なのではあるまいか。
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