カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

縮小社会ニッポン、絶望と希望

2016-09-30 | net & 社会

 日本社会が縮小化するというのは、ずいぶん前から当然わかっていた事実である。分かっていたが、その事実を受け入れるだけの度量が果たしてあるのか問題というのがあるのだろう。NHKがドキュメンタリーで取り上げていて、面白かったのだが、まあ、それでもその程度の見方なのかな、とも感じた。
 一つ目は東京都であっても、縮小は免れないということ。東京オリンピック後に多くの区では減少に転ずる。特に豊島区では28万もの人が減るとみられる。もともと出生者数より死亡者数の方が多いのだが、転入者がそれをカバーしている(現在)。ところがこの転入者の所得が低いのが問題で、年収200万から250万程度の20代若年層が多いのが特徴だ。建設ラッシュの続く東京で、例えば警備などの仕事で地方から転入してくる若者が多いということだ。その収入では結婚などできないから子供も生まれない。彼らが老後を迎えるまで住み続けると、豊島区試算では100億円税収が減り社会保障費がかさばり負担にあえぐことになるだろうということだった。
 それは確かにそうだが、その前に地方で収入の見込めなくなった人が集まるわけで、彼らが飛び出てきた地方の方がもっとひどいというのは容易に想像できる。東京だからショックだというのは、つまるところ逃げ場なんてないということだろう。
 ということで既に惨状になっている夕張のレポートに続く。驚いたのは市長の手取りが15万8千円で、交通費が自腹だということだった。財政破綻したまちなので(破綻は10年前、11万の人口は9000人になり、借金は350億返さなければならない)、文字通り撤退戦。市民の要望を聞くことは既に皆無で、住民サービスは医療に至るまで縮小(公園管理は無し、図書館は閉館など)。住宅インフラなど維持管理もままならず、住民に移動してもらって閉鎖し取り壊している。
 さらに将来的な問題は、高校生が地元校に進まないことだ。学校の統廃合が進んでおり、出来るだけ早く夕張から外に出ることを身をもって示す若者たちだ。夕張を見切っているので外に出て働くことは確実だろう。要するに将来の税収の道も事実上絶たれている。さらに保育所で耐震構造を満たしている建物は無く、40年を過ぎた老朽化した建物の改築のめども立たない。幼児であっても身の安全は自己責任だ。
 島根県雲南市は「財政非常事態宣言」を宣言し、職員を二割カット。借金財源で地域住民自らに地域の維持管理を任せることになる。しかし担い手の高齢者は次々に死亡。地域は維持することも困難なのが現実で、縮小をどのようにするのか模索中だった。
 このような撤退戦を展開している役場職員に対して、高齢者などが無理に移転して、それが原因で亡くなってしまった人もいるというようなこという地域の代表の人の話などがあった。お気の毒だが、だからといって縮小が止まる話ではないだろう。
 このような将来は、すでに日本全国に今現在広がっている惨状だ。皆こうなることは、各地域の担い手たちは、実はもうわかっている。それでも撤退戦を始めていないのは、いまだに住民にその説明をしてないばかりか、新たな要望を聞き続けているからである。だから、より将来の惨状は今より悲惨になるだろう。何しろそのスピードは異常である。止める術は、撤退戦以外に今のところないのである。
 ただし、一つだけ明るい話をしておこう。行政サービスはこのような惨劇になるにせよ、民間の人々は、経済活動は止めていないだろうということだ。さらに行政が破綻したとしても、われわれの生命が直ちに止まるということでは無い。行政をもたせる為に増税が進むことはあるにせよ、すべての人がそれを容認することは無かろう。破綻してある程度身軽になって、ぜい肉が完全に落ちてしまった後になると、たとえ地域は焼け野原でも、今度は復興の道が見えてくるだろう。落ちる過程は悲惨だけれど、どのみち逃げ場はない。自分も不幸だが、お隣だって不幸には違いない。これほど日本人の心にとって、安らぎになる予想は無いのではなかろうか。
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生々しすぎて正確に語りえない歴史   終戦のエンペラー

2016-09-29 | 映画

終戦のエンペラー/ピーター・ウェーバー監督

 マッカーサーをはじめとする進駐軍が、日本を統治するために天皇の戦争責任をどのように追及するのか調査し、どのように判断していったのかということを中心に据えたドラマ。敗戦が決まった後の日本に進駐してきた米軍が、米国世論の背景を受けながら、日本のテロなどに備えながら、どのように統治すべきか模索していた様子がうかがえる。もちろん映画的な娯楽の要素を交えてあって、史実をなぞった物語になっている訳ではないが、ある程度の当時のマッカーサー陣営の考えていた日本のことが、分かる内容になっている。また、日本人ではいまだに作りにくい、天皇の戦争責任問題についても考えさせられる内容である。ちょっとしたミステリにもなっていて、米国人向けには、それなりにショッキングな内容かもしれない。また恐らくやはり現代米国人の観客へのサービス精神か、または配給会社の判断だろうが、戦争責任を調査する准将のラブストーリーが、創作ながら挿入されている。
 史実がどうこうという話では厳密に違うお話だが、終戦後の日本に降り立った進駐軍には、それまで激しい抵抗を見せていた日本人の中心部に駐留する緊張感があったものだとは容易に想像がつく。勝負は決していたとはいえ、本土決戦が無いまま敗戦を迎えた国は当時は無かった訳だし、いまだにそのような国は無い。天皇の国民に向けた「耐えがたきを耐え」の言葉を日本国民は受け止め、抵抗が極端に少ない駐留になっていると受け止めていたのかもしれない。戦争を始めた罪としての戦争責任問題としては、限りなくクロであるとしても、戦争を終わらせた上に本人も戦争責任を認めている現実から、その後の日本統治ということを鑑みて協力体制を築くことを選択したという見方をとったということなのだろう。
 既に歴史は戻らないが、その後の日本の在り方の方向は、かなりの部分、米国の国内世論ではなく、実際に駐留している内部での判断で決まったことは間違いなさそうである。思惑は様々あったことだろうが、現実として天皇制は堅持され、さまざまな問題は内包されたまま現在に至っている。戦後70年の時を経てもなお、やはり日本では敗戦後ということが残っていることは明らかだ。既に重要な資料の多くは検証不可能だし、しかしまだ目に触れられていない史実も埋もれてもいるのだろう。1000年たってもわからないことが10日で判断できなかったというのであれば、もはやこの時期のことは、分かり得ない問題になっているのかもしれない。いや、生々しい記憶が無くなってから、またこの問題は別の意味で、日本の将来を変えうる時期に使われるかもしれない。
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巨人の肩の上

2016-09-28 | Science & nature

 ニュートンは言わずと知れた偉大な科学者だ。おかげで僕はこの人を使ってよく話をした。特にPTAでの子供たちの前で挨拶をするときは、重宝した。それというのもニュートンには有名な逸話が多く、特に「巨人の肩の上」は引用しやすい。ニュートンは万有引力をはじめ多くの法則を見出し、天文や数学、物理の世界において様々な発見をした。しかしそれらの功績の陰に多くの科学者の果たした役割については本当に認めていたようで、「私が人より遠くまで先を見通せているとしたら、それは私が巨人たちの肩の上にのっていたから」と述べていたという。多くの人の功績があるからこそ、その功績に上に自分の成果を積み上げることが出来たのである。
 しかしそのような背景は正しいとはいえ、実は当時のニュートンには強力なライバルがいた。バネの法則で有名なロバート・フックである。この言葉は、当時ライバルとして毛嫌いしていたフックに向けた嫌味だったという説もある。実際にこの言葉はフックにあてた手紙にも書かれているという。どういう意味かというと、フックという人はたいそう背が低かったらしい。要するに、お前は遠くまで見通すことは出来ないだろう、ということを暗に言いたかっただけなのだと。偉大な人が性格まで良かったとは、必ずしも言えることでは無い。まあ、そのほうが人間らしくていいと、あえて思うことにしよう。
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邪悪な心があちこちに潜む   プリズナーズ

2016-09-27 | 映画

プリズナーズ/ドゥニ・ヴェルヌーヴ監督

 感謝祭の日に近所の友人宅で家族同士のパーティをしているときに、お互いの娘二人の行方が分からなくなる。途中まで一緒に遊んでいた兄は、近くの路上に止められていたキャンピングカーに人が乗っていたことを思い出す。キャンピングカーが第一怪しいと捜索されるが、発見されると運転している男は暴走しそのまま事故を起こす。警察に拘束されても、何か精神的な障害があるのか、的を射ない証言しか得られない。物的証拠も見つからない。警察としては犯人と断定できず釈放。すると娘の父親はこの男を拘束し、拷問して娘の居場所を突き止めようとするのだが…。
 誘拐されたと思われる娘たちの命を思うと、限られた時間で助け出すためには、娘たちと接触したと考えられる怪しい男を調べるより他に無いと、父親としては自分の暴走を正当化している。明らかに行き過ぎだが、しかしその心情は必ずしも理解できないではない。何しろ娘たちが歌っていた替え歌を口ずさみ、何か知っているそぶりは確かにある。しかしいかに拷問しても、何故か口を割らない。容疑者の男自身も、何か訳の分からない障害を抱えていて、普通の人間ではないことは示唆されている。怪しいがそれは、障害的な偏見かもしれないという疑いも、同時に観ているものは抱くだろう。そういう中で、別の容疑者が捕まり、尋問中にミスがあり自殺してしまうのだった。
 精神的に非常に恐ろしい展開である。父親の暴走も恐ろしいが、警察がいかに正攻法で捜査していても、時間的な制約の中で本当に娘たちが生きたまま見つけ出せるのは、誰にも分からない。怪しい人はいても、娘たちの姿には行きつかない。それもそのはずで、犯人は意外な人物ではあったのだ。重層的にいくつものトリックが行きかい、捜査官も父親も、確かに犯人の周辺に限りなく近づいているのだが…。
 異常な人がたくさん出てくるが、もともとの邪悪な狂気のようなものが、まち自体を支配しているような展開である。普通なら家族はなす術もないのだが、家族に接触してきた邪悪な影のようなものとは、何かつながりがあったようなのだ。娘を深く愛するがゆえに踏み外して軌道を逸しているように見える父親だが、しかし、何かもう少しのところに娘の足跡のようなものを掴み損ねているだけのようにも思えてならない。警察とは距離を取らざるを得ない境遇に自ら陥りながら、自ら非常に危険な立場にさらされていくのだ。
 恐ろしい映画で、さらに何ともやりきれない暴力がどんどん連鎖していく。しかし観終わってみると、少なからぬカタルシスはある。どんでん返しでハッピーということでは無いにしろ、見事な演出といっていいだろう。人間の中の邪悪なものと向き合うという意味では、気持ちが悪いだけでなく、非常に考えさせられる内容でもある。家族のいないものでも、恐らくは理解できる(したくなくても)映画なのではなかろうか。
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よく分からないが、よく分かる

2016-09-26 | 感涙記

 杉良太郎と脳外科医の上山博康って人が対談してた。いろいろ思うところあったのだが、杉良太郎が心臓手術を受けて、このような手術をする上山のような先生に会ってみたくなったということだろうか。
 上山先生は、神の手を持つといわれるような難しい脳血管の手術を数々成功させているという名医である。しかしその「神の手」というのではダメだという。いうなれば「匠の手」でなければ。神の手を持つ人がいなくなる、もしくは死んでしまえばそれでおしまい。匠の手で次に技術を伝承しなくては、という思いがある為らしい。ある程度経験を積まなければならない世界。若いころに自分のミスで患者を殺したことも正直に話されていた。公共の場では危険な発言でもあると思うが、素直に素晴らしい人である。
 杉良太郎はネットの世界では有名人で、僕もひそかに尊敬している。被災地へおもむく炊き出しボランティアの規模が突出していて、その他の福祉に対する取り組みも破天荒だ。貧しい子供に食べ物やおもちゃを渡したところ、実はお父さんお母さんが欲しいと言われ、これまでに100人以上養子にしたという。なんだろう、それは。いろいろ考え方もあろうかと思うが、芸能界で人気絶頂でお金もたくさん入ったが、人気はいらないと思ってやめて、そういう活動をしているということらしい。何故ということに対しては勝手にやっているということを言っていた。ボランティアをしても礼を言われないこともあって、へとへとになって、でも続けている。上手い理屈があるということでは無く、何か自分にこみ上げる思いがあって、やってしまっているという感じなんだろうか。凄まじくも、素晴らしい人である。
 こういうことは確かにうまく言えないが、仕事でもなんでも、やっていることの中には、ひどくくだらないこととか邪悪なものが混ざっている。そういうものをひっくるめて、好きだからやっているというのは簡単だ。だから好きとは言えないがやっているということになることが多いのではないか。僕は福祉を生業にしているが、そういう意味で杉良太郎は信用が出来ると感じる。よく分かろうとしない人には、たぶん分かり得ないし、それでも行動してしまおうということをやめられないのだろう。
 さて、人にはやれることとやれないことがある。また一からやれることをやるしかないかな、と思ったことだった。
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真実を描くフィクション  ジャッジ・裁かれる判事

2016-09-25 | 映画

ジャッジ・裁かれる判事/デビット・ドブキン監督

 母親の葬儀に駆けつけた敏腕弁護士の息子は、父親とは折り合いが悪いようだ。父は地元で長年判事を務め、いわば名士と目される人物だ。たいして関係が改善されないまま帰ろうとしていると、父の車に傷がある。さらに警察から連絡があり、ひき逃げの容疑がかけられる。肝心の父には持病の薬の作用なのか、記憶が無いという。地元の頼りない弁護士に任せることが出来ず、自ら弁護をすることになるのだが…。
 息子は弁護士としては大変なやり手のようだが、女性への手癖は悪いようだし、感情も激しく、善悪の見境があいまいだ。現実主義と合理主義とさらに傲慢という感じだろうか。父親のことも地元のことも、いい思いなどは持っていない。しかしそれでも父親である。どうしても、弁護して無罪を勝ち取りたいと一心になっている。父親は真面目一徹で、さらに正義感の塊のような人物だ。事故については記憶が無いというが、どうも何か隠しているような感じがする。もちろんその謎はだんだんと解けていくことになるが、むしろ父親は罪を積極的に被ろうとしているのではないか。そうしてそれは何故なのか。
 テンポよく、エピソードも面白く娯楽作として楽しめる。しかし物語はだんだんと親子の人間ドラマとして濃厚な展開を見せるようになっていく。
 映画としての娯楽性を失うことなく、さらに単なる親子の甘ったるい愛情を描くということでもなく、しっかりとドラマを組み立てられている秀作である。道徳や倫理という問題から考えて、こういう物語で良いのかどうかは僕には分からないが、下手な説教を聞くよりも数倍も人間理解には役立つのではないか。これで傲慢なところがある息子の更生になるとは思えないが、親子の感情は計り知れないくらいに改善がもたらされたのではあるまいか。心が温かくなるような映画ではないけれど、そのような不条理を抱えているのが人間らしいということになるのであろう。そういう意味では正直な映画だし、真実が描けているフィクションだと思うのだった。
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ヤマメとサクラマス。どちらが勝者?

2016-09-24 | Science & nature

 渓流釣りなどでは人気の高いヤマメ。水の澄んだ上流の川でよく見られる。斑点模様があって、見た目も特徴のある美しい魚である。北海道から九州まで広く分布し、地方では呼び名なども微妙に異なる。さらに同じ魚ながら、川によって多少の生態が異なる。人間の目からということになるが、特に北に住むヤマメというのはずいぶん変わっていて、北の渓流の厳しい自然で生き抜くために、ずいぶん個体の変化の激しい魚なのである。
 ヤマメの餌となる水中昆虫などは、渓流でも上流の瀬に集中して流れに任せて漂ったりしている。ヤマメの稚魚は、この渓流のポジションどりで、大きく成長が違う。場所争いに勝ち出来るだけいい場所を確保できた個体は、多くの餌にありつきどんどん体を大きくする。そうするとますます強くなって、いい場所を独占し続けることが出来る。滅多に餌にありつけない個体は、小さい体のまま場所取りに負け続け、水生昆虫の少ない下流域へ下って行かざるを得ない。細々と食いつなぎながら、段々と下流へ流されるように下っていく。その経過において模様も銀色めいていき、淡水から海水にも適応できる体へと変化していく。そうしてついには大海原へ、その生き方を大きくシフトしていくのである。
 渓流では体の大きな強い個体の主にオスのみが君臨し、生存競争に負けたオスや多くのメスたちは、大海原へ旅立つ。川に戻ってくる個体は0.1%をはるかにしのぐといわれている。渓流での競争に敗れたヤマメは、厳しい大海原で生存をかけて生きていかざるを得ないのである。
 ところが海へ飛び出したヤマメには、リスクがあるとは言いながら、渓流とは桁違いの豊富な資源のある海で、どんどんと体を大きくしていくのである。渓流では大きな個体といってもせいぜい20センチ(条件によっては40センチに達する例もあるとはいうが)だが、海で成長したものは60センチにも達するほど成長する。そうしてそのような海の個体は、姿かたちもヤマメでは無く、サクラマスという個体へ変貌しているのである。生態を知らずに姿だけを観て、ヤマメとサクラマスが同じ個体だと判断できる者は無いだろう。まったく別の種別だと思う方が自然なくらいの大きな変化である。
 人間の目から見てこの成長の変化は、人生の大逆転に例えられる。ある場所でダメだったとしても、別のところで開花する人生もあるだろう。最初に負けたからといって、最終的にはオオモノになる人間もあるだろう。
 ところで産卵のために遡上してきたサクラマスのメスは、当然小さなヤマメのオスなどは相手にしない。サクラマスのオスに寄り添われ産卵を促され、そうしてサクラマス同士で寄り添いながら産卵を行う。ところがその瞬間に岩陰に隠れていたヤマメのオスたちは、その小さな体を生かして、機敏にサクラマスのメスの体の下に回り込み、同時にちゃっかりと射精を果たす。受精する卵のどれくらいがヤマメのものかは知らないが、確実にヤマメも自分の子孫を残していると言われる。もともと同じ魚なので、生まれた稚魚がどちらに由来するものはは分からない。さらにヤマメやサクラマスの人生に、どちらが勝者といえるのかは、やはり限りなく分からない話なのではないだろうか。まあ、どう思うかという人間の勝手な思いはあるのだろうけれど…。
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地味な方のヤツの物語   つちはんみょう

2016-09-23 | 読書

つちはんみょう/舘野鴻著(偕成社)

 話題の絵本で手に取った。只々圧巻。絵の力って凄いものだ。
 ハンミョウといえば道案内。子供の頃に学校帰りに道案内を何度も受けた。追っかけるが捕まえたことは滅多に無い(網が無ければ難しいだろう)。なかなかすばしっこい奴だ。もっともこの絵本ではこの派手なハンミョウでなくつちはんみょうという黒くて地味なヤツである。実を言うと意識的には知らなかった。
 基本的にはつちはんみょうの一生を描いている。ただそれだけなのだが、何か非業の物語を読んでいる感じだ。実際そうなのだから仕方がないが、多くの命が死んでいく。それも感情があるのはおそらく読んでいる人間の方である。彼ら(彼女ら)がどのような感情をもって死んでいったのか、わかるはずもない。ただ生きることと、いわゆる種を残すことに、何らかの感情があるように見えないことも無い。さらにその姿は、実に普通に賢明さがあるのである。絵本を読んだ多くの人は、その生態を知り驚く共に、その非業な生物世界に、何か殴られたようなショックを受けるのではあるまいか。少なくとも僕はそうで、どこか不快な感じがありながら、それでも畏敬の念を抱かざるを得なかった。個体には明確な意思があるのかどうかも分からない。むしろ目の前のことだけにしがみついた非常に視野の狭い世界を生きている。それでありながら、なんだか不思議な広々とした冒険があり、生死を懸けた凄まじいサバイバルを繰り広げ、そうして無情なまでにシンプルに迷いなくその場を切り抜けていく。もっともその逆の個体もたぶんいて、ちょっとした運のために力尽き死んでゆく。または殺されていく。
 そういう世界があることは、なんとなくは聞かされてはいた。どうしてこのようなことになってしまったのかは分かり得ないが、しかし、それなりに長い年月の間、もの凄い偶然のようなことに頼りながらもこの道を選んだ種が生き残っている。そうして恐らくまた長い年月をこのようなサイクルをもって生き延びていくのだろう。当たり前だが地球上に生きているのは人間だけなのではない。図らずもそのようなことを人間に教えてくれるのは、このような生命たちなのである。もちろん知らなければそれだけのことではあろうけれど。
 また、このような話を絵本にしようとする人間も、やはり面白いと言えば面白い。そんなに爆発的に売れるような本ではないだろうけれど、さらにいくら絵本とはいえ、子供にウケるようなことになるとも思えないのだけれど、しかしこの絵本は書かざるを得なかったのではないか。大人こそ、手に取って見るべきなのではなかろうか。
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多様性こそが価値を高める

2016-09-22 | 時事

 パラリンピックが閉幕した。肉体の限界を駆使して闘う姿に感銘を受けた人も多かったろう。中には著しく絶妙なバランス感覚で肉体を動かす選手もいて、改めて人間の可能性の深さを考えさせられた。いろんな概念が崩れる快感というか、凄いものです。
 ところでパラリンピックには、退役軍人とか負傷兵が多数参加していることでも知られている。現在も戦争や紛争というのは地球上のあちこちで勃発している訳で、そこで負傷した兵隊さんが、リハビリなどを経て、パラリンピックを目ざすアスリートとして復活(復帰というか)するという、一定のストーリーがあるということだ。もともとパラリンピックの歴史的原点は、先の大戦の負傷兵のリハビリとスポーツとの融合であるとされている。もっとも正当な原点は、だから負傷兵の参加であるというのは当然だろう。
 ところがこのことに、少なからぬ反発を覚える人たちもいるらしい。確かに米国などの軍事大国が、国威発揚のためにこれを利用していると感じる人もいるのだろう。実際に派兵をしている国のパラリンピック・アスリートのメダリストは多い。しかし、だからといってその価値がどうこう言うのはどうなんだろうか? いろいろ考えはあるにせよ、そういうのがさらに個人のアイディンティティを傷つけるような気もしないではない。
 もっともパラリンピックには、ドーピングとは違った意味で障害偽装のようなものが度々指摘されてきたということもある。障碍程度を偽ったり、例えばスペシャル・オリンピック(知的障害者の大会)の融合に、失敗した歴史などもある。そのような障害を偽って、もしくは偽装して、メダル獲得に励むような不届きものが、過去には少なからず指摘されてきた経緯があるわけだ。人間の悲しさという面も確かにあるということなんだろう。まあ、けしからんと言えばそうなのだが、僕なんかはそれすらも人間らしいとは思うのだけど。
 しかしながらこれは、考えてみるとオリンピックであってもまったく同じような負の側面であることは分かることでは無いか。国を挙げて個人の活躍が奨励され、さらにその栄誉のために、ぎりぎりのところで努力を重ねることにおいて、その微妙なライン上にグレイなものが含まれているということだ。表の面だけでそのものを語るカマトト文化よりも、そのほうがずっと深みがあるような気がするのは僕だけではないだろう。単純に素晴らしいものだけでない人間としての悲しみがあってこそ、そのメダルの重みも増すということなんじゃなかろうか。
 それにしても障害だけでなく個性的な人が多いのもパラリンピックの魅力という感じもする。そういうないまぜ感というのが、大変好ましく受け入れられる社会というのが、本当の成熟度なんではないでしょうか。
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翻訳と関係ない人であっても…   翻訳百景

2016-09-21 | 読書

翻訳百景/越前敏弥著(角川新書)

 主にミステリ作品などを翻訳している訳者自身が、翻訳という仕事そのものや、その活動内容をつづったもの。さらに元になっているのは作者のブログらしい。翻訳というものが、同時通訳や、テレビや映画、さらにはドキュメンタリーなどとも違うということを具体的に記してある。文章は単語を単純に日本語に置き換えたらいいというものでは当然ない。著者は英語を専門としているようだが、英語のニュアンスを出来るだけそのままに日本語にするというのは、至難の技であるというのがよく分かる。また、全体の文意から、どのように訳すのかというのに四苦八苦するする姿も見て取れる。まさに大変である。そうしてやはり翻訳ものにはヒットするタイミングもあるから、時間制限まである。厳しい制約があり、時には複数の人とチームを組んで何日も根を詰めた作業をしなくてはならない。それでも翻訳そのものが楽しいということも伝わってくる。また、そのように翻訳に携わり、翻訳家を目指しているらしい人も多くいるらしいことも見て取れる。これ一本で生きていくにはそれなりに大変そうだけれど、厳しいが夢のある仕事であるというのは理解できるのではなかろうか。
 前半はそのような翻訳作業そのもの話。翻訳のテクニックや実際の苦労話など。後半は翻訳家としての自分の生活ぶりなども紹介されている。読書会などにも積極的に開いて、楽しい交流をしている様子が見て取れる。
 学校のお勉強で英文を訳すという経験は誰にでもあろうが、翻訳の世界は単にその延長ということとはずいぶん違うようだ。英文を書く前にも文化的な背景や、専門的な知識というものが活かされている。そういうものの理解なしに単語を置き換えても、実は意味としてはまったく通じなかったり、まったく別のものになってしまうこともありうる。ダジャレなど、そもそも音として翻訳不能と思われるものもあるし(しかしそれでも翻訳してしまえることもあるようだ)人の名前一つとっても、いろいろと遊びを取り入れて訳すこともできる。また、日本文化を知らない人が日本の文化を勘違いしたまま書いていることもある。間違いは間違いと分かったまま、どのような対処方法でそれを日本に伝えることが出来るのか。基本的には忠実に訳していけば事は足りても、誤解のまま済ませていいものかという倫理のような問題も残るのではないか。翻訳者というのは、訳しながらそういうことにも悩まされながら、何とか読者に自然にそういうことを伝えられるように、悪戦苦闘の毎日を送っているものらしい。翻訳に関係なく、しかし時には普通に翻訳された日本語を読んでいるはずの人であっても、きっとこの世界を知ることで何か知見の広がることもあるのではないだろうか。
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若手から引退する

2016-09-20 | culture

 会議なんかに出ていて最近思うようになったのは、ずいぶん年下の人が頑張ってるな、ということだろうか。意見を言ったり資料をまとめたり、その後の働きも恐らく彼ら(彼女ら)が当たり前に中心になってやってくれるだろう。僕にも仕事はあるにはあるが、ちょっとばかりポジションが変わっているようにも思う。昔は逆にあそこにいたのは僕だったかもな、とも思う訳だ。
 しかしながら僕もいまだに若手とは分類されている。年齢的にはまだそうだろうけれど、若手といわれ続けてかれこれ30年くらいにはなるんではないか。年配の人とのお付き合いも、それなりに長い。またやはりいろいろな組織で役割をやらせてもらっているが、30年近くもやっているような人間としては、ほとんど僕が経験年数として最長老という場合も少なくない。いや僕より年齢的には先輩はたくさんおられるが、経験年数は僕の方が長く、歴史的にも知っていることが僕の方が多い。そういえば多くの先輩は引退され、そうして多くの先輩は既に鬼籍に入っておられる。あと何年この記録が伸びるのか知らないが、なんだかそんなのは嫌だなあ、と思う。過去のことを踏襲しないのが基本的なスタイルなのに、自分より年配の人から相談されることといえば、過去にはどのようにしたのかという記憶のことがダントツで多い。記憶力が悪いのだからたいていは忘れているはずだが、まあ、なんとなく覚えていないことも無い。そんなことがあったのか、と驚かれるようなことも、けっこう知っているかもしれない。僕の意見が通ることは稀だが(そもそも僕には、言いたいような意見があまりない。言いたくないことが多すぎるのだ)、僕の記憶の意見が通るようなことが、それなりに増えてしまった。日本というのはもう発展しないかもしれない。
 結局は既に老人である。やっと気づいたか、ということもあるが、あんまり自覚するとかえって怒られる。まだまだこれからの人が、そんなことを言ってはならない。真顔でそういうことだけは、先輩が口をとがらせていう。しかし年齢というより、もうすでにいいじゃないか、という気分はある。経験的に新しいことなんて、今のような状態では、そんなにあるわけではない。自分の自由な管轄になると、それなりに新しいことはやっている。でもそれが別の組織で出来るのかというと、そもそもやる気が無いのだからやれるわけが無い。
 まあしかしそろそろ先が短くなると、そんなことも気にしなくてもいいんじゃないかという気もする。誰かに許されるかどうかなんて、考えてみるとそうたいしたことでもない。失敗が怖いなんてことも、ぜんぜん無い訳じゃないにせよ、まあ、仕方ないな、とは思う訳だ。年を取るというのはそういう訳で、そんなに悪いことばかりではない。若いままだったら、つらくてとてもやってられない。たぶんそのために年を取るのであろう。
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腹を切れば許される?   蜩ノ記

2016-09-19 | 映画

蜩ノ記/小泉堯史監督

 同僚とのちょっとしたいざこざがきっかけで城内で刀を抜いてしまった罪(これはいきさつ上仕方が無かったことは明確。抜かなかったら殺されていただろう)で、本来は切腹のところ温情であるものの監視(要するに飛ばされた訳だが)を命ぜられる。藩主の歴史を編纂している男は、過去に何か事件を起こし、二年後には切腹が決まっている身だった。この後に及んで逃亡などをしないようにということのようだ。ところがこの男の犯したとされる事件も、何やら謎が多い。さらに男の生活態度や考え方も立派である上に、家族も皆なかなか感じの良い人ばかりである。監視役の男は徐々にその魅力に感化され、過去の謎の事件の真相を追うことになるのだが…。
 不条理なことが続くが、それが当時の世の中ということになろうか。民主的な考え方に現代の思想が見え隠れするのが鼻につかないではないが、時代劇とはいえ現代人のための娯楽なので致し方ない。それにしてもところどころは当時の思想を受け入れなければ話の筋は通らない訳で、かなりごった煮ということになってしまう。身分を越えて意見が交わされる場面があったり(あり得ない)、実際に殺しておきながら、その報復で仲間が殺されたことで藩主側に反抗する(あり得ない)など妙な展開を見せる。映画的にはありかもしれないが、後半はかなり疑問符の多い展開であった。結局は切腹するのだからという理屈だろうが、当時の人間の命の価値というのはもっと軽いとしか考えようがない。結局は敵役の家老が大人すぎる考え方の持ち主だったからこそ、暴れ者の多くが許されたという感じだったかもしれない。それではまったく逆の意味のお話になってしまうのだが…(彼らが無能だったからこそこのような過去の事件が起きたはずなのだ)。
 そもそもの事件などの展開から、そもそもの切腹の沙汰というのは無理があったというべきだろう。また温情があったとされる刀傷事件についても、怪我をした方が城内にとどまっているらしいことは不思議である。さらに武士の息子の友人を思うあまりの復讐劇は、お家が取り潰されてもおかしくないだろう。しかしお話はすべて切腹がそれらをとりなすということになるのかもしれない。むしろ現代人が過去に抱いている、命の重さをもってして成り立っている物語なのであろう。
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ちょっと気取って食べるもの

2016-09-18 | 

 子供の頃にはあんまり好きじゃなかったけど、大人になって割合好きになったのはシチューである。理由はよく分からないけど、子供の頃にシチューをおかずにご飯を食べるのが、なんとなく貧しいような気分があった。いっそのことご飯にかけて食べたら良かったかもしれないが、それならカレーなりハヤシライス(これも大人になってから好きになった。逆に二十代のほとんどはカレーを食べきれなかった。それは前にも書いた)の方がいい。
 ある先輩がある洋食屋を好きで、時々一緒に寄った。もちろん酒を飲む席である。そこでビーフストロガノフがあって、僕は白くないシチューというのをほとんど初めて食べた。これがひどく旨い。人間というのは面白いもので、黒っぽいシチューが好きになると、白でも味わいが分かるような気がしてくる。家庭用の白いシチューも、酒のつまみにちゃんとなる。要するにとろみの付いた洋風鍋のようなもので、旨いものだと知らなかっただけなのかもしれない。当たり前だがパンと食べても旨い。これは家庭の事情で、どうしてお袋はシチューにパンを出してくれなかったのだろう。かといって普通の食パンより、バリバリ崩れる固めのフランスパンのようなものの方が合うようで、最初から昔の僕の家庭では無理な話だったけど。
 ところで某シチューのテレビCMでは、シチューのイメージは北海道のようだ(今現在もそうなのかは知らない)。しかし僕にとっては、シチューは北海道ではない。どちらかというと温まるために食べる家庭料理というより、二次会三次会と流れてまだ小腹がすいているときにあったらいいな、という感じだろうか。でも、そんなだから体重は増加したんだろうな。
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観ていて恥ずかしくなるが、勇気を持とう   花とアリス殺人事件

2016-09-17 | 映画

花とアリス殺人事件/岩井俊二監督

 前作「花とアリス」も以前に観たが、だいたいの内容は普通に失念。設定は前日譚ということだが、独立してみても問題は無いだろう。さらになんでアニメなんだろうという思いも最後まで消えなかったし、そのアニメも実写をトレースしたような絵柄でそんなにアニメチックでないのだが、まあ、観終わってみると雰囲気としては分からないではない。アニメ系の声優でなく実演系の人が声を当てていて、これもなんとなくあっていない感じもあるが、岩井作品としては、それさえも雰囲気としてはいいということかもしれない。また、お話自体がちっとも不思議でないのに不思議な感じがあって、これはもう岩井作品なんだから正解ということだと思う。嫌な感じもあるが、ハマってみているとやられてしまう。僕は基本的にこのクサさがそんなに嫌いでないという部分があるようで、途中はかなりいいな、と、うかつにも思ってしまった。岩井監督さすがである。
 という変な映画だが中毒系ということである。だからあえて万人向けでは無い、と思う。
 しかしながらよく考えてみると、花とアリスは既に10年位前の映画であるというし、その前日譚であるので彼女らが中学生という設定で、声の担当は10年前の女優さん達である。必然的にアニメにならざるを得なかったということはこれだけでも言える。そうして昔の言葉づかいなのか現代のものかは不明だけれど、やはり一般の人にもある程度通じる言葉づかいでなければならないが、それでも若者言葉らしい感じも必要で、要するに科白自体がファンタジーでもあるようだ。彼女らが次々に勘違いの連鎖をしていって、謎の殺人事件が起きたようなことになってしまう。大人たちは何故かこれに付きあっていて、のどかなのだが、同時にこれも観ている人にはそれなりに違和感がある。あるが、それが時代だと言われたらそんな気もする。少女性それ自体は映画とは相性のいい題材だと思うけれど、だからこれは男の幻想の少女性なんだと思うのだが、どうだろう。このような感性を大人になっても持ち続けている監督さんが、そのことを十分に理解しつつ、さらに映像世界として表現できることが、作品として素晴らしいのかもしれない。気恥ずかしくて認めたくないが、面白かったです。
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名前で性別が分からない

2016-09-16 | ことば

 越前敏弥著「翻訳百景」(角川新書)を読んでたら、今の若い読者はポールやジェーンという名前だけでは、性別を分かってくれない場合があるということが書いてあった。翻訳書が売れなくなった背景として、そのような外国文化そのものに若者が興味を抱かなくなっているのではないか、という洞察である。
 確かに驚いたが、しかし同時のそれは本当に嘆かわしいことなのか、とも思うのだった。僕らの上はもちろん、そのように外国文化に憧れるような心情というのは、逆説的に屈折したものがあるようにも感じる。特に日本の米国崇拝に関しては、明らかに屈折しすぎて不幸だとさえ思う。若者にそのようなものが薄れているとしたら、それは別に良いも悪いも無いことだ。何にも興味が無いと言えるような幸福な人というのは、将来は暗いかもしれないが、まあ、それでいいだろう。
 ということなんだが、それはそれでいい。
 しかし、ポールやジェーンで性別が分からないというのを嘆かわしいと思うより、やはり性別の分かりにくい名前というのはそれなりにあるようにも思う。北欧の名前や、東南アジアでも分かりにくいのは結構ある。南米なんかもそもそもどこからどんな名前なのかさえ分からないものもある。要するに馴染みの問題で、そういうことをとりあえず無視して英米文化が分かるというのも、ちょっと鈍感な感じもする。一面ではすぐにそれは変だと思うものの、一面過ぎている自分には無頓着だ。そういうのは、日本人もアメリカや中国人と似ているところではないか(こういうのは分からない人が多いだろうけど)。
 また、実は日本人でも、どちらかよく分からない名前というのは結構ある。親が悪いというより、何か考えがあったのだろうが、それを一般の日本人が分かりづらく思っているだけなのだろうけど。有名どころは野口英世なんかもある。知っているから間違えないだけで、ヒデヨというのは普通に女性でおかしくない。知った人にも何人もいるが、ツカサさんというのは男女とも知っている人がいる。歩(あゆみ・あゆむ、はあるが)さんも男女聞いたことがある。マサミさんも男女に知り合いがいる。「○○み」という名はあんがい男性にも多く、字面だけでは混乱のもとかもしれない。ムツミという男性もいて、名刺をもらって驚いたこともある。本人も困ると言っていた。文字や音だけでは男女が分からないというのは、それなりにありうることなのではなかろうか。
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