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カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

圧倒的不利でも簡単には諦めない賢さ   サンキュー・スモーキング

2017-06-30 | 映画

サンキュー・スモーキング/ジェイソン・ライトマン監督

 煙草業界の広報とロビー活動をしている男の奮闘を描いた作品。米国の話ではあるが、既に政治的にも煙草の害が確定したとされている中で、煙草を援護し口先八丁のみの力で、さまざまな場面を打開していく姿が描かれる。さらに人間ドラマとして、離婚した妻の元にいる息子からも尊敬を受けるという構造が面白い。映画としても絶対的な不利であることを分かった上で(本人も煙草の害を認めている)、煙草の普及を目的とした作品にしている訳では無く、比喩としての絶対的な価値観を自分の頭で考えて覆すことができる、ということを示しているところが凄い。実際にこの映画を撮ること自体が困難だったろうことがうかがえる内容で、人間が困難に立ち向かうことの意味さえ考えさせられる。後に知ったが、煙草を題材にした映画ながら、誰も煙草を吸っているというシーンさえない。これは構造的にきわめて綿密に練られた作品であるだけでなく、アメリカ社会を見事に写した作品であると思う。普通にコメディとして観てかまわないのだけれど、既にアメリカナイズされている日本社会には無い力強さを感じさせられる作品になっている。日本人はこんなことにチャレンジする人など恐らくいない訳で(何しろ圧倒的に煙草擁護は不利だ)、人間の賢さとは何かということも考えさせられた。もちろん事なかれ主義にも賢さは無い訳では無いが、やはりそれは単にずる賢いだけのことかもしれない。自分の頭で考えるということは何なのか、尊敬される大人とは何か、不思議と感慨深い気分にさせられる。
 もっともこの映画を表面的に真似ても、痛い目に会うだけのことではある。主人公の息子は、今後の生き方として父を見習うことにはなるだろうが、そもそも煙草擁護のような選択をするとは限らない。教材としては極端だから面白い訳だが、やはり選択としては賢明ではない。特に時代は下って、現代になればなおさらのことだろう。おそらく煙草業界も、戦略としては別の道を取っていることも明白だろう。そういう意味では既に古典だが、日本には無い思考実験であることは確かで、アメリカ人の考え方を学ぶ上では有用かもしれない。だから日本は負けたのだということが、分かる人には分かるのではないか。捕鯨業界がこれを観たらどうか。結局アメリカ社会で戦うには、彼らなりの極端さが必要なのかもしれない。
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童貞でカエル好きは問題か   箱入り息子の恋

2017-06-29 | 映画

箱入り息子の恋/市井昌秀監督

 僕はよく知らないが、星野源の主演というのに価値のある作品かもしれない。おそらくその後のテレビ・ドラマにも影響のある作品なのかもしれない。
 しかしながらこのドラマの脚本というか、人々の反応には、ちょっと問題の多い作品のような気もした。これが市井の人々の普通の感覚だというのは、ちょっと考えづらい逸脱の仕方ではないか。障害者への目線が極端すぎて、ちょっとどうなのか、というのがいちいち気になる演出にもなっている。そんなに偏見の強い日本社会なのか? という疑問がかなりついて回った。主人公にしても、そんな人って普通にたくさんいる気がする。そして、そんなにみんながみんな気にしてない方が普通だろう。問題が無い訳じゃないかもしれないけど、もっとありふれた普遍的な演出は出来なかったのだろうか。
 人間関係作りが得意でない自宅暮らしで独身(おそらく童貞)の男の両親が、息子を心配するあまり見合いの相手を探している。そうしてやっと対面まで持ち込めた相手は病気で視力を失った女性だった。さらにその娘の父親が、その障害のある為か、極端に保守的で威圧的にこの男のことを嫌っているという設定だ。二人は最初から惹かれあっているのだが、ギクシャクした上に周りの障碍(環境というか)が多すぎるという感じかもしれない。
 独身の中年男性というのは、独身の中年女性より、はるかに統計上数は多い。生涯童貞という場合も、少なからぬ数の人が存在すると考えられる。おそらく統計を取って、その方面の調査をしている研究もあると思われる。独身でも風俗があるという主張もあるだろうけれど、そのような人ほど利用しづらいという話もある。女性の場合はどうなのかという場合もあるが、正確に統計を取るのはほぼ不可能だろう(正直にすべての人が答える保証はない)。だから推計するより無いが、しかし特に異常という数値では無く、一定数存在しても特におかしなことではなさそうだと思う。何が普通かも含め、単に偏見を助長するだけかもしれない。
 恐らく人類の歴史上もそうであるはずで、生殖は生物としての本能的な欲求であるにもかかわらず、それなりに思いを遂げられない人というのは存在したはずだ。特に社会的に恋愛至上主義的な現代になって、その数が一定数増加するというのは、自然の成り行きだろう。それでいいか悪いか問題はあるかもしれないが、悪いと決めつけるのも、要するに文化的な問題に過ぎないだろう。
 しかしこのドラマは、恐らくその前提に大きな偏見を持ち込みすぎているということなんだろう。面白くない話ではないのだが、やはり残念という感じだろうか。極度のあがり症で付き合い下手の人間が、必死に恋をする姿というのは共感できるので、このような物語は一定の需要はありそうだと思う。結局噂でしか知らないが、後のテレビドラマの方では、この姿が洗練されていったということなのではなかろうか。まあ、いつになるか分からないが、観てみようかな。
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狛キジさんにおののく

2017-06-28 | 散歩
 先日の埼玉出張は、わが所属する某団体の名代として。たまたまスケジュールが空いてるのが、たぶん僕しかいなかったのだろう。みんな忙しいのだ。
 とはいえ、九州は長崎からだから、義理堅い仲間関係なのだ。



 会場は南浦和のとある場所。京浜東北線に乗り換えてそのまま来たのでストレスなし。首都圏通勤のベッドタウンになるはずですな。昼ごろだったので乗車している人の高齢率はやや高めだったけど。





 ちょうど昼時で、めし屋を探すかどうか逡巡。会場まで歩いて7,8分くらいとは見当がついている。見つかれば入る。見つからなければ、まあいいか。
 でも携帯みてると、神社があるな。街路はうだるような日差し。木の有るところに行きたい。



 ちょっと静かすぎる感じだけど、木はたくさんで日陰たくさんであった。
 ご本尊には戸の隙間に穴が開いていて、そこから賽銭を入れる仕組みだった。じゃらんとやれないのは威勢が良くない。静かにやって神さまがお目覚めになる事だろうか?





 ここが面白いと思ったのは、まず大きなユリノキというのがあったこと。よく分からんが凄いかも。
 大谷場氷川神社、というんだね。読みはオオヤバ。





 さらに面白いのは狛犬ならぬ、狛キジがいること。僕は最初ハトかと思って驚愕したんだけど、ググったらここは「キジの氷川神社」とあがめられているらしい。人間よりキジがたくさん棲んでおられたのでしょう。それはそれでなかなか味のあるところである。





 僕はどうも裏からお邪魔していたらしく、表の階段から退出致しました。



 さて、もう昼なんていいかという暑さ。とにかく会場に向かう。



 着いた着いた。





 でも駅から近いんで、また開場まで時間あり。
 
 で、もう一周したら、また小さい祠あり。こっちはお稲荷さんみたいですね。





 役割も無事に終え。講習もついでに受けて、なかなか良かった。いろいろ話もできて有意義でしたよ。これらかも連携強めて勉強していこうと誓い合いました。僕らも頑張らねば。

 さて、そんなに時間はなくて、最初は大宮散歩しようとか思ってたんですが、先いってまた戻る時間がなんとなく面倒に思えて、その辺ぶらぶらすることにした。



 住宅街に小さい祠。



 駅前なんで、段々飲食店が増えてきた。



 公園があって、何やら多くのカメラマンが鉄道写真撮ってた。名所なんでしょうかね。







 ググったら、こういう趣味の人々のスポットなのかもしれません。

http://blog.goo.ne.jp/ohx5575c/e/8b7f7b8ea56dcc229cd28b1e808f7860

 少し商店街らしき雰囲気。





 南口も行ってみる。








 暑いしもういいか。飛行機の出発時間まで2時間くらいか。ま、いいところでしょ。

 京急に乗りかえるつもりが、夕方電車の人が増えてきたので、モノレールに変更。荷物は無いけど、なんとなく疲れたので座れる期待があった方が楽である。



 ということで浜松町からさようなら。

 ちなみに順調すぎて一時間少し前に空港ついて、地元は雨がひどいという噂があったにもかかわらず、すべて順調定刻に大村に帰って来た。
 何人か知った先輩がこの飛行機には乗ってて、何か東京でこの日にイベントがあったらしいと思った。皆さん忙しいですね。では、ごきげんよう。
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携帯に影響受けない訓練を

2017-06-27 | culture

 会議や研修の時に電話が鳴る。最初に注意喚起される場合も多いし、今はさすがに減ったとも思われるが、それでもいまだにこれは起こる。当事者はほぼ高齢者。中には壇上で発言しているとかいう場合でも鳴らしている。これは呆れるというより、恐ろしいとも思う。
 最近はマナーモードなら良いという認識もある。遠くの人なら気にならないかもしれないが、これはやはり鳴れば(振動すれば)結構周りも分かるものだ。出られないから無視をする人が増えて何よりだが、しかしなんとなく一定時間皆が緊張する。自分の携帯かもしれないと確認する人もいる。自分じゃないとホッとしている。それから誰だろうときょろきょろする。謎のままという場合も多々あるようである。
 鳴っている人が自分の携帯を取り出して画面を見ている。誰からか確認をするとおもむろにまた携帯を戻す。何を考えているか知らないが、今は無視していいという確認にも見える。又はそのような相手を軽く見ているような印象も受ける。やはりいっそのこと見ない方がいいようにも思う。
 そのまま会議の場から立ち去る人もいる。まったく忙しいものである。立ち去りながら電話に出て、大声で「ハイハイ」と言いながらドアを勢いよく開けて出ていく。結構うるさいと思う。あろうことか、席上そのまま電話に出る人もいる。今は会議中なので出られない、と返事をする人もいる。「だけど、何の用?」などと会話を始める人もいる。だから出てはダメなのだ。電話の強制力とは本当に恐ろしい。
 アクセルとブレーキを踏み間違う事故が増えているという。ちょっと考えられないな、と思っていたら、電話が鳴って驚いて踏み間違うケースが結構あるんだそうだ。テレビで実験しているのを見たことがある。多くの人が電話の音で、運転に影響を受けていた。また、踏み間違うことが無くても、少しブレーキを踏むタイミングも遅れるらしい。運転中たまたま危ないときに電話が鳴ると、そのまま事故を起こしてしまいかねない。こうなると、電話は命の問題だ。
 電話を無視する訓練が必要じゃないかと思う。電話が鳴ってもふだんから無視できるようになると、影響を受けにくいのではないか。そもそも携帯を持たないという猛者もいるが、やはり現代生活の上では現実的でない。マナーの問題という以上に、踏み込んで訓練を受けるべき問題になっているのではなかろうか。
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勧められても書きたくない   私小説のすすめ

2017-06-26 | 読書

私小説のすすめ/小谷野敦著(平凡社新書)

 私小説を通じた文学論と、私小説を書くということを万人にも勧めた内容。
 確かに私小説に関しては、偏見というか誤解のようなものが漠然とあるようだというのは、聞いたことはある。日本人は西洋人のようなスケールの大きな話をつくるのは苦手で、例えば私小説のようなチマチマしたものを書いてばかりいる、というような批評めいたものを、日本人の作家だったか批評家だったかが時々書いているのを、何度か読んだ覚えがある。そういうもんかね、とは思うが、そもそもあまり信用はしていなかった。いなかったが、日本には漠然と私小説のようなものは多いかもしれないという印象は、持っていたかもしれない。しかし、海外には自伝文学というのがあって、何かとすぐに自伝を書いてセンセーショナルな話題になるようなことはあるんだ、という話も聞いたことがある。しかしまあ日本でも話題の人はたいてい自伝的な手記を書くことになってきたようにも思うし、ジャーナリズム的にそのようなものを好んでいるのは、日本も西洋もあんまり変わらないだろうとは思っていた。
 ところで私小説だが、外国の映画などを観ていると、小説家などに近づいて、自分のことを書いてもらいたがる人々が時々出てくる。ははあ、やはりあちらの作家も、私生活を題材に小説を書いているらしい、と思った。考えてみればそれは当然で、空想で作り話をこしらえるにせよ、身の回りにあったものをモチーフにした方が、いろいろと都合がいいような気がする。小説家が何を書こうが勝手だが、自分のことを書いてもらいたいという人は、あんがいたくさんいるのかもしれない。小説に限らずだけれど、ブログのようなものは日常的にあふれている訳で、自分のことや身の回りのことを書いたり読んだりすることというのは、人間的にはごく普通の関心事ということなのではなかろうか。SNSでは人の食っているものなんてどうでもいいという言明は多いが、しかしやはりそのことが中心から離れることはありそうにない。僕はいろいろなことを多岐に亘って書いているつもりだけど、一番反応がいいのは身の回りの極身近なことであるという実感がある。あえてどうでもいいようなことの方が、無難であるという以前に、人々の関心事であるのは間違いなさそうに見える。
 しかしながら著者が言っている私小説というのは、もう少し違うことではある。自分の中にあることで、事実を書くのはもちろんだが、たとえそれが自分にとって恥のような事であるにせよ、書かずにおられない何かのことである。文学的に価値があるとかいうこととも、何の関係も無い。ましてや私小説などほとんど読まれないものであるし、時には書かれている人も傷つくだろう。それでも書かれてしまう何かというものに、私小説の価値があるということなんだろう。
 さてしかし、僕は「蒲団」を読んだ時は、何とも情けないような妙な気分になったし、「火宅の人」などは十代の後半くらいに読んで、何と子供っぽい大人がいたものだ、と思った。面白くない訳でもないのかもしれないが、こんなものが書かれて恥ずかしいと素直に思う。それが文学的にどうなのかはよく分からないが、代々読み継がれていく可能性があるとしたら、もう今となっては仕方ないのだろうけど、何か幸福な感じはしないというのが正直なところだ。そういう人達がいて、苦労するには結構だけど、本当の意味で私小説的な生き方をすることだけは、したくないものだと思う。ひとの一生だからいいのであって、自分は違う生き方を模索する。それが僕が私小説を時には読んでみるということのように思う。人の不幸だから面白いというのは正直なところであるにせよ、いつまでも面白いと思っているような時間を多くしたくない。自分を生きるためには、そのような距離感の方が、上手いこといくように思うのだが、どうだろう。
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大きな声と近い声は聞かないこと

2017-06-25 | 境界線

 幻聴が聞こえると言えば、それは病気だと言えそうだが、かくいう僕は幻聴を聞いたことがある。禁煙をしている時に苦しくて、他人の捨てたたばこの吸い殻に無意識に手が伸びていた。おっと危ない、と思って手をひっこめたら、「これを吸ったとしても、また止めたら、禁煙は失敗してない」という声が聞こえた。もうびっくり。でもこれは、いかにも僕が考えそうな理屈だ。そして、たぶん僕自身の声だった。幻聴が聞こえたということは、僕は病気かもしれない。病気なら治療が必要だな。そしてその原因は、どうも禁煙にあるらしい。それで結果的に禁煙は成功した。病気なら仕方ないと思えたことが、僕を楽にさせた。いかにも僕らしくひねくれて論理を受け入れたものだと思う。
 病気で苦しんでおられる人は気の毒だと思うが、幻聴でどんなことを言われているか聞いたことがある。いろいろあるんだが、基本的に大声であるばかりか、うるさいことを言うらしい。それもどうも自分には、都合の悪い話が多い。聞きたくないが聞こえて困る。
 基本的に人間は、近しい人から何かを言われると、おおむね言うことを聞かなければならないと思うらしい。それが多少不条理なことでも、なかなか断れず困る。言い争いになったとしても、平行線のままでも、言われたことが気になる。放置しておけない。それは近くで言われているほど、その影響力は大きい。実は当たり前で、遠くの方で命令されても、特に気にしなくていい。自分と関係ない人からだと、無視したってかまわない。
 会社のストレスなどで気を病むことが多いのは、近い人から、自分と合わないことを言われたりすることが大きいという。考えと違うことや、自分に不都合な事など、近い人から言われ続ける人ほど、苦しむことになる。それで必ず病気になるとは言えないが、近い人の影響を受けていることは間違いない。ひょっとするとそれは、限りなく幻聴に近い感じかもしれない。原因と結果が違うと思う人もいるかもしれないが、状況としては同じような苦しみかもしれない、ということだ。
 要するに、離れられたらいいのにな、と思う。もしくはあたかも遠くで聞いていると思うか。そんなことできる筈が無い。隣に座っている上司が言うのだから、という人もいるだろう。そういうときは、あたかも自分が暖簾のごとく、クラクラかわしているイメージはどうだろう。言っていることは暖簾の隙間から、自分の後方に通り抜けていく。まあ、そんなことをしているとさらに怒られるかもしれないが、まあ、それもいいじゃないですか。会得すると自分には都合がいいはずである。
 近い人の言うことを聞かない。それならいっそ距離を取る。それが出来れば苦労は無いと思うかもしれないが、実はいろいろ方法はあるんじゃなかろうか。何しろ物理的な距離は、絶対にとれない訳では無いのだから。
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一人で生きるぞ、弁当屋   のんちゃんのり弁

2017-06-24 | 映画

のんちゃんのり弁/緒方明監督

 働かない亭主に愛想を尽かして下町に帰って来た女が、娘を連れて女の自立を図るべく奮闘する。娘の幼稚園の時間と都合の良い仕事は無く、資格も技能も何もない30越えの女には厳しい現実であることを思い知らされる。いよいよ貯金も底をついてくるし、仕方なく時給の良い水商売にいく。小料理屋兼スナックの客は、酔って気持ちよくなるとキスしてくる。思わず突き飛ばして、バイト料も取らずに遁走。そんなこんなで上手くいかない毎日において、ニートの夫はストーカーまがいでやってくるし、幼馴染で初恋らしい写真屋の息子とは良い感じにはなっていく。
 実はひとつだけ特技のようなことがあって、それは娘ののんちゃんの保育園のお弁当作りに情熱を燃やしていた、ということだった。決して順調で無い毎日にありながら、娘が新しく通っている幼稚園のお弁当は、オリジナル重層のり弁が評判になっている。ついでに幼馴染の保母さんや仲間の分まで弁当を作ったりする。そんな中写真屋の息子と一緒に寄った配達先の料理屋のオヤジのサバの味噌煮に感動し、このような美味しい料理をつくって、多くの人に食べてもらいたいという夢に憑りつかれてしまう。そのまま店の手伝いをしながら料理の技能を盗み、弁当屋を開くという夢に邁進していくように見えるのだが…。
 演じている小西真奈美のキャラクターが活きていて、その奔放さと至らなさ、いわゆるイタい感じもよく出ていると思う。それではダメだと分かっていても、なんとなく同情してしまうようなところがあるのかもしれない。非常に都合よく料理屋のオヤジはとんでもなくいい人で、そのおかげで一本道筋が通るような気分にはなるのだが、物語の〆方としては、なんとなく締りが悪いような、残念な印象を受けた。子供がいることは、一番最初から分かっていた問題で、その子供を振り回して生きていくことに躊躇しないから成り立つ物語があって、いいのではないか。子供がいても個人の人生は回る。当たり前のことを、もっと前向きに生きて行っていいと僕は思う。それとやっぱり、誘拐は誘拐として刑事責任をちゃんととってもらうべきだった。殴ったから済むという問題では無い。さらにこの事件で恋人との関係が悪くなったような展開になるが、普通はここで引かないのが愛であろう。性格が大人しいということなんだろうか。僕にはよく分からない問題であった。
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時には葬儀に通う

2017-06-23 | 感涙記

 特に僕の周りの人の死亡率が高くなっているとは聞いていないが、しかし葬式に行くことは確実に増えている。週に三度も葬式に行く、なんてことも珍しくなくて(どういう訳か四度以上という経験はまだ無い。三度というのは複数回経験があるのに、それは超えられない回数なんだろうか。まあ、超えたい記録ではないけれど)さすがに多いな、という気分にはなる。こういうのに慣れても仕方ないんだけれど、淡々と仕事をこなすように葬式に通っている気分になってしまう。
 葬儀社にもよるんだが、葬式のアナウンスで、やたらに悲しさを演出するところもある。家族でのエピソードを交えて、あんなに楽しかった日々を一緒に過ごしたのに、今はもう居なくなってしまって、何と悲しいことよのう(大意)、という感じで涙を誘っている。つきあいの程度にもよるのだろうけど、そういうのを聞くのは、かえってなんとなくシラケるような気もする。もちろん心が冷たいというのはあるのかもしれないが、家族が悲しんでおられることに共感が無い訳では無い。きっとあまのじゃくな精神があって、そういう盛り上げ方には俺は乗れないぜ、という頑なな気分が高まるのだろうと思う。
 ところがやはり、残された人々の落胆ぶりが激しい場合は、これは大変につらい。もう途中で席を立って帰りたくなる。逝くには早すぎる人というのはあって、奥さんはもちろん、子供さんなどが仕事をするような年に達していない場合など、ついついこの先のことなど考えてしまって、つらくて仕方ない気分になる。世の中の不条理にとてもやりきれないという切なさに胸が詰まってしまう。もともと僕は基本的に涙もろいので、葬式の間中ハンカチを手放させない。もう勘弁してほしいものである。
 先日の葬儀では、普通に仕事関係の義理のある方面であったので、けっこうビジネスライクに葬儀に参列した。読経が終わって、喪主に変わって息子さんが挨拶をした。息子さんといっても、僕より少しばかり先輩くらいの人かもしれない。その人となりの紹介が改めてあって、やはり息子さんから見ても、それなりに苦労人の親だったということだった。そして最後に一言、「息子として生まれてきて良かった」と言っておられた。あらためて偉い人だったのだな、と思ったのと、あまりにノーマークだった所為か、何かその一言で堰を切ったように涙があふれてきて困ってしまった。
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バカバカしいが、突き抜けて楽しい   白雪姫と鏡の女王

2017-06-22 | 映画

白雪姫と鏡の女王/ターセム・シン・ダンドワール監督

 白雪姫のあらすじを知らない人を対象にしている映画ではなさそうだ。さらにディズニー映画とも違う。アダルトってわけでもないが、それなりに大人の映画ともいえる。ブラックな笑いが随所にあって、さらにバカバカしさも突き抜けている。なんとなく血が流れないだけのことで、そういうあたりはファンタジーなのかもしれないが、あんまりロマンチックさを追求しないお笑い路線重視なのかもしれない。世間的に言われているようにジュリア・ロバーツが悪役でいい味を出していて、本当に適役という感じだ。現代的には差別的な小人たちが、逆説的に楽しく活躍するのもいいと思う。あんまり考えすぎると難しくなってしまうことが、笑いということにおいてタブーを外して楽しめる。そうして何だか本当にハッピーになっていくような気分を味わえる。子供だましでは到達できない、馬鹿らしいながらも楽しいファンタジー作品に仕上がっている。
 童話作品というのは、よく考えてみると何とも不条理な設定のものがあんがいあるが、ここまで分解して再解釈することで、生き返るものもあるということかもしれない。もちろん元になっているお話があまりに有名であるために、思い切って分解しすぎると、本当にすべてをぶち壊しにしかねない問題もあったことだろう。このお話も、厳密に言えば、そのままスジが同じように進行するわけではない。しかし、その壊れ方と分解のされ方が、なかなかうまい具合に処理されていて、それが痛快な気分にさせられるのだろう。多少おかしな部分もあるんだけれど、一応は子供も見ていいよ、というような事なのかもしれない。まあ、あんまり理解はされないだろうけど。
 後世に残るような名作ではないが、娯楽作としては実にまっとうである。だからこそ、これが映画なんだという正当性まで感じさせられる不思議な魅力のある作品に仕上がっ多のではなかろうか。
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お金につられて得をする

2017-06-21 | 掲示板

 早起きは三文の得という。なんでもお金で換算する思想というのは、多少のいやらしさはあるものの真実めいてはいる。しかし三文だが、二束三文という言葉もある通り、非常に安いというたとえでもある。現代で換算するのは難しいが、仮に一文を30円前後と考える場合が多いので、三文は100円弱くらいまでを含んだ感覚ということにしよう。早起きしたら100円。個人差もあるが、まあまあかな、という感覚は分かる。コーヒーくらいは飲める感じだ。おにぎりも食べられるし、パンもOK。早起きの得としては、確かに絶妙の金銭感覚かもしれない。
 で、早起きしたんで、少しは得して、いいスタートが切れた。これでこの得はすべてか、ということも思う。早起きしたせいで寝不足で、その後調子が悪かった。そんな場合はずいぶん損しているんじゃないか。そもそも早起き出来ずに寝ていたいというのは、寝不足の疑いがある。十分睡眠をとるというのは、大前提問題だが、そもそもスッキリおきられる人というのは少数派ではないか。だいたい人間というのは24時間という地球の物理的な時間と体内の時間とにずれがあると言われている。体内時計は普通の人で約25時間くらいか。だから夜は予定より眠くなるのが遅くて、だから睡眠が不足した時刻である早起きを強いられる。すっきり目覚めなくて、日中もある時間帯は眠い。あんまりそんなことが常態化していると、普通に体を壊してしまうのだろう。
 では長い目でみると、出来るだけ遅く寝たぶん、遅く起きた方が健康的ではないのか。しかしこれが困ったことは、そんなことは社会的文化的にそもそもの前提として許されることでは無いということだ。分かっていても守ることは倫理に反する。
 ではやはり早起きするための前提の方を何とかしなければ解決できない。早起きするためにやれることは、第一に早寝をすることだ。まず寝ないことには起きることが無い。そうして一定の水準の睡眠時間の確保には、逆算した根拠なしに実証できない。
 要するに、これのハードルが高いのが真相ではないか。さらに個人差がありすぎる。また人によっては早く寝ること、あまり眠たくなくて無理に寝ることが、苦痛な場合もあるだろう。寝られないのが怖いので、眠たくなるまで頑張ってしまう。結局朝はつらいままだ。
 それで、眠たくなるにはどうしたらいいだろう。という問題が起こる。よく眠る為には日中活動を充実すべきではないか、ということだ。もうここまで書くと、多様性は爆発するのでめんどくさい。一つだけ言えることは、早起きや、早寝や、日中の充実は、ヒトの一日のサイクルとしては、当たり前だが連動している。どこかがおろそかになると、どこかに支障が出るという相関関係にあるということだ。
 結局好きにやればいいのだが、その自分の好きにやる方法を、上手く決められない人が多いのではないか。とりあえず三文の得で早起きして、日中もその調子で頑張って、夜になったら疲れて寝たらいい、という後の文章が省略されているということだろうか。そういうことなら、まずはお金につられるのも、悪くは無い話である。
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題名は意味深だが、僕には分らない   女の中にいる他人

2017-06-20 | 映画

女の中にいる他人/成瀬巳喜男監督

 最近この映画のリメイクのドラマが放映されたようだが、それで興味を持った訳では無い。一年くらい前にレンタルのリストに入れていたらしいのが、ようやくめぐって来て観たというだけのことである。
 夕刻東京でビールを飲んでいる友人を見つけ合流した男の妻が、後に同時刻あたりで絞殺されていたらしい。男性遍歴に奔放であったらしい妻を殺した者は、なかなかつかまらない。そのうちに友人の男の様子(精神的に)がだんだんとおかしくなっていく。
 いわゆる心理サスペンス。殺人に関わって苦しむ男の苦悩は、なんとなくわからないではないが、その周りの人々の反応は、今一つ僕には分らなかった。妻を殺されて男は、ショックが無い訳では無いだろうが、それなりに平然としている。苦悩する男の妻も、これは後に大きなポイントになるにせよ、反応がやはり鈍い気がする。成瀬監督作品は、気になって一時期観ていたことがあるが、この作品に限って言うと、ちょっと上手くいっていない気がする。面白くない訳では無いが、もう少しギクシャクしたドキドキ感があっても良かったのではないか。
 もちろん殺人までの経験が無いから分からないということはあるかもしれないが、いわゆる隠し事の苦悩というのはある。それは言えないのだが、知っているからこそ苦しい。要するに嘘をついているようなもので、しかしその嘘は本意ではない。積極的に言いたいという訳では無いかもしれないが、言う訳にはいかない。事情はいろいろあろうが、当人を前に勝手に気まずいというのは分かる気がする。それは確かにサスペンスであるが、告白して自分の身を気分的に軽くしようとする誘惑というのは、それで罪が軽くなるというような感覚というのは、やはり僕には分りづらい問題かもしれない。言ったところで罪の重さは変わらない。相手が許すから良いとするのは、自分に対する甘えではないか。だからといってバレなければいいという訳では無いが、そういうものを抱えて生きていきたくないから、要するに隠し事なんてつくらないようにしているということかもしれない。僕には秘密を言わないように、みなさん気を付けてください。
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認知症:めんどくさい、近所づきあい我を救う(かも)

2017-06-19 | ことば

 「認知症」という言葉自体が認知症予防を妨げているという。順を追って話すと、認知症というのは検査によって、「認知症予備軍」と診断された状態であれば、十分にまだ進行を止められるし、あるいはある程度までは改善することが可能であるという。ということで検査をするわけだが、診断結果が、このいわゆる「予備軍」といわれるところに分類をされると、多くの人がその事実を拒否してしまうのだそうだ。それは考えてみると分からないことでは無いが、予備軍はあくまで認知症の最終通達では無い。さらに恐らく認知症としての自覚がほとんどない場合と、ひょっとしたらそうかもというような自分に対する疑心暗鬼のようなものがあるのだろうと思われる。そうして事実を認めたくないという拒否反応と、さらに羞恥心のようなものもありそうだ。大変に複雑で困ったことだが、その拒否によって対策を受け入れず、結局認知症を進行させてしまうというのだ。さらに検査そのものさえ拒否して、そもそも失礼とばかりはねつけて、結局進行させてしまう予備軍らしき人たちが、それなりにいるのだという。
 認知症という言葉は、いわば「ガン宣告」に近い響きを持ってしまったのではないかといわれている。その恐ろしい響きが、人々をダイレクトに傷つけてしまう。破壊力が大きすぎて、近寄りがたい。そのために必要な処置でさえ拒否し、結果的に自分の身をさらに傷つけてしまうのだ。
 現在は認知症に変わる言葉を作ろうという動きもあるらしい。しかしながらそれは一時の間はそれで通用するかもしれないが、過去に認知症は痴呆症などと言われたものから言い換えられた経緯もある。何度も言葉を変えるうちに、その意味本来が見えにくくなることは無いのだろうか。例えば物忘れなどは誰でもすることで、そんなに気にすることは無いが、そのことと認知症のような状態というのは、厳密には違う。混同して恐れすぎることの弊害もあろうし、そのような誤解で気を病む人を結果的に増やすことになるかもしれない。
 そもそもの検査というと重々しいが、それとなく皆がゲームをするように検査のようなものを受けて、それらしき人々の集団に、自然にプログラムとして予防法に取り組んでもらうようにできないものか。
 しかしながら問題の多くは、そのような場にさえ顔を出さないような環境の人ほど、やはり発見は遅れてしまうのだという。個別にいうと核家族化と独居問題かもしれない。
 結局地域力とか、コミュニケーションの問題から掘り下げるよりなさそうだ。そもそも人間というのは集団行動をベースに生きていた生物なのかもしれない。もちろん孤独を好む性質の人もいるのは確かだろう。しかしながらやはり程度問題で、いつまでも孤独がいいというような人は、孤独の本質さえ分からずに言っているだけのことかもしれない。
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ペットに家族愛を持ち、肉を食らう人々   ぼくらはそれでも肉を食う

2017-06-18 | 読書

ぼくらはそれでも肉を食う/ハロルド・ハーツォグ著(柏書房)

 副題「人と動物の奇妙な関係」。人間は雑食性の動物で、当然動物を殺して食べる。生き物を殺すことで、自らが生き延びている。さらに何を食べるのかというのは、習慣的文化的な背景があって、多種多様だ。欧米人が日本のクジラやイルカを食べることの違和感もそこら辺りにある。嫌悪を覚える人もいる。ファンダメンタリズムがあって、豚肉を食わない人たちもいるし、ビーガンといわれる菜食主義者なども居る。本人がそういう振る舞いをする分には、関係ない部分もあるが、そのために活動をする人もいる。中にはテロまで起こす。人間の性質が起こしている不合理だが、たぶん当人たちには自覚は無い。娯楽として闘鶏や闘牛もある。娯楽でなくても、虐待的に動物を扱う事実もある。効率を考えてブロイラーは一生土も踏むことなく監禁され殺される。人間の医療のために何万という単位でネズミは無慈悲に殺されている。ペットだって、本当に彼らの意思で飼われている訳では無い。中には酷い境遇で、事実上虐待の苦痛の生涯を送る動物はごまんといることだろう。
 猫に愛情を注ぐ善良な婦人が、皿に載っている牛の肉片に何の罪悪感も覚えないのは何故だろうか。考え出すと不思議に思えるような感覚を、人間は持っている。できるだけ苦痛を避けて、のびのびと飼育され、安楽死させた牛の肉を、比較的高い値段で購入して自分の精神衛生上正当化させている人もいるという。単なる偽善だが、そのようにしなければ落ち着かないという精神性は理解できないではない。ボートで遭難した時に、犬を海に捨てるべきか(そうでなければ助からない人がいるとして)、その倫理性はどうなのだろう。不条理に見えることでも突き詰めて考えていくと、どこで線引きしたからといって、一貫性のある正義などあるのだろうか。答えに合理性が無く、個人の中にだけ正解があるという倫理に何の意味があるのか。しかしそれでも今日、人間が恣意的に虐殺している動物は減ることは無い。むしろ快楽を見えない形にして、水面下で大量の命は、安価に殺され続けているだけのことでは無いか。
 動物の苦痛に対する共感が人間にはあるらしい。だから人間が少しでも愛着や共感を覚える生物に対しての、人間の行う行為まで嫌悪するということかもしれない。自分で肉を食いながら、に嫌悪する人もいる。刺身の踊り食いを狂気とみなす人もいるだろう。昆虫を飼っている人に驚く西洋人もいる。網にかかって食べられもせずただ殺して捨てられる魚たちに無頓着でも、経済効率的に魚を取ることに躊躇しない漁業は正当化されるだろう。子牛肉に舌鼓を打つグルメが、クジラ漁船を攻撃する団体に資金を援助したりする。彼らはすべて一貫性が無い。矛盾に満ちている。そしてそれが、人間の姿だ。
 僕は日本人なので、これらの議論についての著者の公平性と偏見の両方も気になった。もちろん著者にだってこれらの問題に対する一貫性は無い訳だ。また西洋人には宗教の影響もあって、菜食主義者がかなりいるようである。日本人にも居ない訳では無いが、その数は比較して少ないだろう。おそらく日本の犯罪の少なさとも関係があると思うが、そのような考え方の違いを考えることもこの本の効用だろう。読んだ感想として、まだまだ語りたいことがたくさんある。そういう刺激に満ちた読書体験として、多くの人に是非とも手に取って欲しい本である。
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会議では、今後福岡集まり中心と決まる。

2017-06-17 | 散歩
 今回はバスで博多入り。自宅の関係で、これが都合良い。





 博多節舞姿。




 「着衣の横たわる母と子」。噂では2憶6千万ともいわれてる。凄いですね。




 KITTE前のポスト。


 
 僕が写真撮ってると、次の人たちが前に並んでポーズ取ってました。なんとなくかわいいもんね。

 博多口はすっかり街の顔になった感じしますね。


 いかなかったけど、駅から三百歩横丁。KITTEの地下にあります。




 さて、役割終えてホッとして一晩泊まった。
 それで簡単に朝飯済ませてやっぱり散歩。車で通るときは、なんじゃろか~、この寺。って感じでした。







 まだ朝なんで境内以外は開いてないんですが、建物の中にはデカい大仏さんがいるらしい。9時までなんてとても待てないので、また今度ね。









 木陰に何人か休んでおられる人もいて、憩いの場所であるのは間違いなさそう。表の道では通勤の人が急ぎ足で闊歩している。そういうコントラストはなかなかいいかもしれません。









 弘法大使がお建てになられ、黒田藩の何代かのご当主の墓所にもなっている真言宗のお寺だそうだ。
 五重塔には御釈迦さんのお骨も納められているとか。ほんとか?









 表の通りにもこんなのが飾られてた。



 ちょっと歩くとまた奥に寺が見えるぞ。聖福寺という禅寺さんらしい。長崎にもおんなじような名の寺があったな。関係となると僕は知りません。



 見事な塀。










 中には金ぴかの立派な仏さんが三体も。









 外に出ると消防詰所も立派だった。



 さて、国体通りはさんで、大きな鳥居が見えて、さらにその道をまっすぐ行って突き当たると。



 櫛田神社である。もうこれは何度か来てるが、博多っ子純情である。のぼせている人は多いはずである。



 ここにもちゃんと塀はある。何とか塀というんだが、失念した。







 やっぱり山笠は鎮座しているのである。



 出口へ向かう。



 ブラタモリでやってたけど、ここに船着場があったという。今じゃ考えられんね。





 かみさんとこの親戚の墓がある。萬行寺。墓を探す気力が無くて、墓参りは断念。合掌。



 阿比留君に思いをはせて、よりあいどころ対馬の前を通る。



 散歩は終了。






 
 で、バスに乗って帰った。




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やはり人間ドラマだと思う   寄生獣・完結編

2017-06-16 | 映画

寄生獣・完結編/山崎貴監督

 いろいろ違うところはあるというのはあるが、それでも基本的には割と原作に忠実という流れはある。だから駆け足だと感じるところもあるし、やはり違いそのものが浮き上がるところもある。原作が漫画だということもあって、二次元とはいえ具体的に視覚化されているものを再構築して三次元にするというのは、それなりに苦労の多いものである。しかしながらそういう苦労を考えながら映画を楽しむというのも困難で、そういう不満が感じられた作品ということになってしまうかもしれない。
 ただし、原作を知らない人がどう思うのかというのはよく分からない。実際にこの世界観というのはかなり特殊なので、漫画だから成り立つものが現実の映像だと分かりにくいものがたくさんありそうに思う。そのような処理こそが映画の醍醐味で、そういう視点で映画を観ると、恐ろしさはそれなりに伝わるものになっているのではないか。特に重要な存在である田宮の姿は、映画としては良く撮れているとも感じた。親子の愛情のようなものは、人間だって同じように生まれていくものかもしれない。寄生獣はあんがい人間的なのだ。その解釈でいいという訳でもないが、人間理解という意味では考えさせられるものだった。ただしやはり後藤との闘いは、もう少し偶然に助けられた方が良かったとは思ったが。
 最終的には、寄生獣より人間の方が怖いし悪い訳で、しかしそれが同胞人間の悲しさでもあるわけだ。寄生獣は非常に賢いが、やはり人間を食ってくれた方がいいと思う。もちろん現実には起こりえないからこそそう思う自分がいる訳で、人間というものはそれくらい複雑なのだ。この作品の存在価値はそういうことだと僕は思うので、やはり観て考えてくれる人がいるのであれば、それなりに意味のある映画だと思う。いや、この作品自体がだからこそ名作であるということになる。気持ちの悪い映画というだけでは無いということが伝わってくれるといいのだが…。
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