サンキュー・スモーキング/ジェイソン・ライトマン監督
煙草業界の広報とロビー活動をしている男の奮闘を描いた作品。米国の話ではあるが、既に政治的にも煙草の害が確定したとされている中で、煙草を援護し口先八丁のみの力で、さまざまな場面を打開していく姿が描かれる。さらに人間ドラマとして、離婚した妻の元にいる息子からも尊敬を受けるという構造が面白い。映画としても絶対的な不利であることを分かった上で(本人も煙草の害を認めている)、煙草の普及を目的とした作品にしている訳では無く、比喩としての絶対的な価値観を自分の頭で考えて覆すことができる、ということを示しているところが凄い。実際にこの映画を撮ること自体が困難だったろうことがうかがえる内容で、人間が困難に立ち向かうことの意味さえ考えさせられる。後に知ったが、煙草を題材にした映画ながら、誰も煙草を吸っているというシーンさえない。これは構造的にきわめて綿密に練られた作品であるだけでなく、アメリカ社会を見事に写した作品であると思う。普通にコメディとして観てかまわないのだけれど、既にアメリカナイズされている日本社会には無い力強さを感じさせられる作品になっている。日本人はこんなことにチャレンジする人など恐らくいない訳で(何しろ圧倒的に煙草擁護は不利だ)、人間の賢さとは何かということも考えさせられた。もちろん事なかれ主義にも賢さは無い訳では無いが、やはりそれは単にずる賢いだけのことかもしれない。自分の頭で考えるということは何なのか、尊敬される大人とは何か、不思議と感慨深い気分にさせられる。
もっともこの映画を表面的に真似ても、痛い目に会うだけのことではある。主人公の息子は、今後の生き方として父を見習うことにはなるだろうが、そもそも煙草擁護のような選択をするとは限らない。教材としては極端だから面白い訳だが、やはり選択としては賢明ではない。特に時代は下って、現代になればなおさらのことだろう。おそらく煙草業界も、戦略としては別の道を取っていることも明白だろう。そういう意味では既に古典だが、日本には無い思考実験であることは確かで、アメリカ人の考え方を学ぶ上では有用かもしれない。だから日本は負けたのだということが、分かる人には分かるのではないか。捕鯨業界がこれを観たらどうか。結局アメリカ社会で戦うには、彼らなりの極端さが必要なのかもしれない。