カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

経済学が政治の表舞台に立つべき理由   幸せのための経済学

2016-05-31 | 読書

幸せのための経済学/蓼沼宏一著(岩波ジュニア新書)

 副題は「効率と衡平の考え方」。高校生でも分かる入門書という捉え方らしいが、高校生でなくとも近代経済学を知るためには役立つと思われる。幸せというのはあくまで個人的な、感覚的な概念とは思われるが、そのことを衡平(公平ではない)に効率的に成立させるための考え方を簡単に説明してある。個人的嗜好と分配を効率的に達成できるならば、個々人の福祉は格段に向上できる。要するに現行のシステムは、その衡平な分配にどうも支障があって、効率よく達成できていないために、ある意味で不幸な状態にあるということを暗に示してある。そういうことを経済学の問題としてとらえ考えていこうという合理的思考を身に着ける一助になるかもしれない。しかしながらちょっと気になるのは、これを本当に一般の人や政治家が理解できるのかという問題はあるのだが…。
 やはりちょっと前に(いまだにだが)、ブータンの人の幸福度が高いということで、それに比べて日本はどうだという感情的な議論があったように思う。ブータンの人が、例えば歩くしか移動手段の無かった場合に自転車を持つことによる幸福感は、日本ではクラウンに乗りたい人が軽自動車しか買えなかった場合と比較すると、格段に幸福度が上になるということになろうが、しかしながらそのような比較が、果たして意味のあるものなのかというのは、よく考えなくても疑問があるのではないか。そのようなことをいろいろと思考実験していって、各人の幸福度を高めることを効率的に行うことを、経済の仕組み(もしくは税制など)で行う必要がある。複数の因子を絡めて、そのことが果たして各人に有効な分配となりえるかということを、考えていく。実際問題となると、もっと何を例にとりながら行うのかということの疑問は残ったのだが、少なくとも単純に一つの項目のみで達成を図るのは、かなり問題があることは理解できることである。
 また、現在の政治においても、基本的には不利な立場の人を合理的に救済するような政策がとられている訳だが(基本的に多くの人に合意可能な考え方=福祉だから)、しかしながらその分配や方法においては、まだまだ改善の余地があることは確かそうだ。経済政策においてもそのような考え方を取り入れながら公平な制度を作ることは、素直は福祉政策となることは間違いない。経済学の考え方が理解されながら国の政策が形作られることで、政治の意味を大きく変えることになるだろう。感情論だけで陳情に反応するのでなく、合理的に「公平で効率的な」政策立案のために、進むべき道しるべになるのではないだろうか。
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汽車に乗ってきてください

2016-05-30 | ことば

 僕が住んでいる町を通っている鉄道はJRのみで、さらにディーゼルカー、つまり汽車である。職場から歩いて10分のところに駅があって、時々それでお客さんが来る。タクシーも少ないまちなので、てくてく歩いてこられる。連絡くださればお迎えに行ったのに、と申し訳ない。ところでそういった中、多くの人が口にするのは、「電車で来ました」とおっしゃるのである。JRで来たことは間違いないので、厳密にはあり得ない。諫早か、早岐で乗り換えるまで電車だった可能性はあるが、そのことを指して言っている訳ではなさそうだ。要するにディーゼルカーを電車だと思っていたか、そもそも列車のことは電車というと思っておられるのかということであろう。
 このことは実は前にも書いたのだけれど、どうも不可解な感じはある。あらためてどうして電車と誤って思っておられるのだろうか。最近は電気自動車というのもあるから、電線が無くても電化された列車があると思っている可能性もある。時たまにしか汽車には乗らないが、昔から乗っているので、電車でないのはすぐに分かる。ディーゼルエンジン音がするし、外から見ると、煙を出して走っていることもある。蒸気機関車みたいにモクモクとまではならないけれど、感覚としては電車とはかなり違うとは思う。そして停車しているときもエンジン音が続き、少し振動が残っている。これも汽車ならではだ。
 いくつかあえて単語を使ってみたけれど、ひょっとすると「汽車」という単語自体が死語なのではないか。まったく知らない訳ではなかろうが、現代には存在しないと勝手に考えている人がいるのではないか。さらに蒸気機関車などはディーゼルカーとは見た目がずいぶん違う。使い分けて、電車の分類にディーゼルカーも入れてしまっているのではないか。
 良く知っている人には、電車では無くて汽車ですよ、ということがある。そうすると、ほとんどの方は「?」という顔をするだけである。はっきりとは言わないが、汽車という単語を使いたくなかっただけですよ、という感じの人さえいる。先日は、「いや、私はふだん電車にばかり乗ってますから」という人がいた。習慣上の言葉の使い方ということだろうが、そこでやはり、使い分けてない実感と、そこに気づくことを非難するような語感を感じた。なるほど、都市生活者に汽車の単語は禁句になっているのだ、という感じだ。
 都市と田舎の問題は別に論じることがあるだろうけれど、汽車を使わないことで田舎に配慮しているような感覚もある可能性もある。これは人間の偏見なのだが、個人の価値観としても田舎であることを嫌うというのは、実は差別的で勝手な判断に過ぎない。しかし多くの人が都会の方がいいと思っているようなフシがあって、さらに多くの人がそのことを許容しているような現実がありそうだ。それは僕には大変に不思議に思うのだけれど、その不思議自体が、多くの人には通じない話だろう。
 電車という単語の一般化は、無意識の人間の偏見意識の表れのような気もする。でもどうして人が都市部の方を便宜上は好むのか、それは僕にはよく分からない。まさか高校生でもあるまいし、都会に出て暮らしたいなんて人が大人になってもいるんだろうか。まあ、いるんでしょうね。
 先日長崎市に通勤している人が、バスを利用しているという話を聞いて理由を聞くと、「座れるから」ということだった。JRだとふだんは二両編成だし、通勤時は4両くらいにはなるにしても、結構混むようだ。料金も場合によっては安いという。JRの経営のことをどうこう言うつもりはないが、ただでさえ赤字路線ばかりということは聞いている。まったく厳しい限りである。
 このままでは汽車どころか、この地区では電車も死語になるかもしれません。
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オランダも個人主義らしい  ロストID

2016-05-29 | 映画

ロストID/ピーター・ド・バーン監督

 オランダ映画。なんかのコンサルタントの仕事している男が、自転車での帰り道、川に転覆したばかりの車を見つけ泳いで救助しようとするが、一人は助けられた(運転手)ものの一人は死亡。死んだ男はかつての自分の依頼人だった。ところが警察ではそのま少女誘拐の嫌疑をかけられ拘束されてしまう。どうも何者かが自分のIDを利用して犯罪行為を行ったらしい。警察からの嫌疑は完全に晴れないまま、生き残った運転手と共に独自に捜査を展開していくのだが…。
 つくりとしてはハリウッド・サスペンス的なヨーロッパ映画という感じ。スリル展開はハリウッド的なんだが、要所要所主人公たちがとる行動がなんとなく個人主義的で、自己中心的な印象を受ける。敵なのか見方なのかもよく分からないし、離婚して息子との仲は大切にしたいと思っているのに、簡単に捜査上の女とも情事に転じてしまう。でもまあ行き当たりばったりだけど、なんとなく事は自分たちの都合の良いようには転がっていく感じだ。伏線としての事件のように思われたエピソードはそのままほったらかしになってしまったり、無駄な描写もそれなりに多い。印象には残るが、ラストもこれで良かったのだろうか…。
 とにかく変な映画には違いないが、不思議と面白くない訳ではない。ハリウッドでこのような映画になるとそれなりに理屈が分かるというだけのことで、オランダだとその辺はグダグダしてもいいということなのかもしれない。逃げるにしても良く走るが、あまり工夫は無い。結局応援を携帯で呼んで車に合流して逃げているが、それなら何故最初に車から降りたのかよく分からない。監督がそうしたかったからそうなったのかもしれないが、ヨーロッパの個人主義というのは、そのような理解を客に強いるものなのかもしれない。
 この映画を何故借りようと思ったのか動機が思い出せないが、薦めてくれた人が居たのかもしれない。確かにヨーロッパ映画としては少し変わっている感じはするけれど、しかし、むしろさまざまな国で、ハリウッド的なアクション映画が、それなりに人気が高いということを表しているのではないか。それじゃあ、ハリウッド映画でもいいじゃないかと思われるかもしれないが、やはり自国の人気俳優たちが活躍した方が、もっと楽しいということでは無いか。日本や韓国でもそのような映画は数多いが、しかし本家の米国のものとは少しばかりのずれが生じる。映画としては、そういう部分が面白い、ということになるかもしれない。そういえば最近フランスのこのようなアクション映画を見たけれど、フランスでは銃撃がやたらに多かった。オランダでは爆弾やひもやナイフだったので、そういう部分はお国柄なのであろう。
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大村線の風景の美しさ

2016-05-28 | 掲示板

 通勤の時に必ず見る大村湾の風景。天気が良くても美しいが、天気が悪くても美しい。ヒトはいい環境だからその場所に住んでいるようなところがあるとも思う。もちろん致し方ない事情や、仕事などの関係もあるのだが、基本的にはどこに住んでもいいわけで、そうすると、出来るだけ気分のいいところが良いに決まっている。実際のところ僕の場合はたまたまに過ぎないが、たまたまなのに美しい風景をほとんど毎日眺められる。それはいくつかは感じている仕合せの中のささやかなる一つのことだ。
 先日は天気が荒れて、海も大荒れ。だいたい大村湾というのはほとんど閉じた湾で、さらに水深も浅く、風が無ければ鏡面のように穏やかな海だ。琵琶湖より小さいので、琵琶湖よりも波が無い。ただ実際には湾だから、潮汐の関係で満潮と干潮がある。満潮時に例えば台風などが来ると、それなりに内陸に水が浸水するようなことがあるようだ。知人に千綿宿の人がいるが、荒天に海水を被るので、自転車などはすぐに錆びてしまうということだった。港近辺の人たちにとっては当然のことかもしれないが、やはり自然というのは侮れない。それでも比較的に穏やかな海である日の方が多い。暴れていたのが嘘のように、すぐに静かな水面に戻ってしまう。
 ところでここに鉄道の大村線が通っていて、撮り鉄とでもいうのだろうか、頻繁にカメラの趣味の人々が、この湾岸を走る列車を写真に収めている。特に花の季節や夕陽の夕景などを狙う人も多く、線路脇の高台などにカメラの三脚をしつらえて、列車が通るのを待っておられる。僕には特にそういう趣味は無いのだけれど、そういう趣味の人を集めるほどの美しさがある場所であることが、勝手に誇らしくもあるわけだ。
 鉄道エッセイで有名な宮脇俊三という人(すでに故人)が「最長片道切符の旅」(新潮文庫)という本を書いている。僕はそれにも大村線搭乗があるらしいことを知って(本の題名からいって当然だろう)、多少ウキウキしてその部分を読んだ。宮脇俊三は別にも読んだ記憶があり、日本の作家にしてはユーモアセンスがなかなか豊富で、どんな紹介のされ方をしているのか楽しみだった。唐津から伊万里、そして松浦線、平戸、佐世保と来て、いよいよ大村線を諫早まで下る。早岐、南風崎と戦後の引き上げ者には馴染みのある、しかしよその人には珍しい読みの地名の紹介があり、川棚、松原、大村、そして諫早に着いたら、乗り換えてさっさと佐賀に戻ってしまった。車窓外の風景などの詳しい記述はほとんど無い。それもそのはずで佐世保発時間が17時30分。さらに日付が12月の17日である。窓の外はほとんど暗くて、さらに田舎だから明かりさえ乏しかったのではあるまいか。
 せっかくの美しい風景も夜眼にはその価値が分かりえまい。宮脇にとっても読者の僕にとっても、残念なことだった。
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日本語のラップのもっとも恥ずかしい部分を惜しみなく MOROHA

2016-05-27 | 音楽

 ご多分に漏れず僕もテレビの「しゃべくり」でMOROHAを見て、興味を抱いて二枚買って聞いてみた。最初にⅡの方から聞いたので、ファーストを後から聞くとやはりⅡの方がそれなりに洗練されている印象を受ける。ファーストの荒削りもいいのだけれど、よりストレートに迷いがなくなったような印象だ。彼らの歌(?)はラップということらしいのだけど、まあ、ラップだろうな、とは思うものの、やはり正当な、というか、一般的なラップ・ミュージックとはずいぶん違う。ギター一本で、そのわきでボーカルが一人語りしているスタイルで、ラップのようなファッショナブルな感じは微塵も無くて、泥臭いと言った方がいい感じかもしれない。それがいい味であるのは確かで、しかしむしろ詩を調子よく読んでいる感じはしないではない。さらにしかし、韻を踏んだ詩の朗読という感じとは少し違う。でもまあ、たぶん即興では無くて、少し演劇めいているという感じかもしれない。
 ラップのアルバムは数枚持っているようで、まったく聞かない訳ではないけれど、そんなに関心のある分野ではない。ほとんどはつまらないし、さらに外国のものだから、はっきり言って聞いているのは偽善的であるとさえ感じる。物珍しさと、どうせ訳が分からないのでBGMとして流して聞くことがある程度なのだろう。実際には渋谷さんがエミネムのことをあまりに凄いと持ち上げるので、しばらく聞いていたら分かることもあるかもしれないと思っていたのだが、他のラップには面白いものはあるとは思うものの、エミネムに関しては、まあ、時代に消えるような、日本人には関係のないものに過ぎないように思えてきて失望すらした。関係ないので失望したことすら無駄という感じだ。
 さらに日本語のラップだが、そもそも誰がラップ・ミューシャンなのかさえ知らない。映画のサイタマノラッパーは名作だと思うが、彼らがミュージシャンなのかさえ知らない。ラジオでは宇多丸がラッパーらしいと知っているが、彼の映画評には興味があっても、ラップに興味があるわけではない。
 そもそもの問題としては、赤毛のアンなどでも見られるように、西洋社会では詩の朗読などの文化があって、韻を踏んだ詩そのものを音で聴くことに喜びを感じているらしい土壌がある。日本にも無いわけではないが、その価値がそれほど高いわけではない。中国にも古くから漢詩があって、恐らく西洋と同じで韻を踏むリズムが何より素晴らしい感銘を与えるものらしい。ならば中国文化とラップは相性がよさそうだが、政治的土壌がそれを許さないという疑いも少しありそうだ。
 さて、MOROHA(このような表記は好きではないが、彼らの考えなんだろうから仕方がない。「もろは」と読むようだ)だが、正直に言って聞いていて、最初はお尻がむずがゆくなるような感覚を覚える。特に一人で聞いていても恥ずかしい感じだ。恐らくこれは歌っている方もそのはずだと思うのだが、それが彼らのスタイルで、それが彼らの気迫のようなものを素直に伝える武器になっている。むずがゆさはじきに慣れるが、今度はこれを良いと思う自分に、少し不安になってくるのだ。不安になるが、確かに力強く気持ちを掴まれる感じはする。僕はそこまで若くないので彼らの言っていることに素直に共感できるものではないのだけれど、さらに、なんか違うけどな、という部分も多いのだけれど、それでもやっぱり凄いことが行われている臨場感に酔ってくるのである。そうして曲が終わるとホッとするような感じと、余韻がまだ残っていて、凄いな、と思うのである。基本的にはほとんどワンパターンといっていいのだけれど、いちおう曲は違うし違う物事を違うパターンで歌ってはいる。そうしてもっと違うことを言っているのを聞きたいな、と思うのである。
 これを聞いてよかったと正直に言っている自分を知った人に知られたくないのだが、僕も正直なので言わざるを得ない。友達にするにはめんどくさい連中かもしれないが、今後もCDは買うかもしれないです。頑張ってください。
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泳がなければ沈んでしまう

2016-05-26 | Science & nature

 テレビでジンベエザメが出ていた。大きなサメのくせに人間を襲うような恐ろしいことはせずに、プランクトンなんかを大口を開けて食べる。プランクトンは小さいから、本当に食べているのかもよく分からないが、海水ごと呑み込んで、鰓で濾して食べてるという。大きなクジラだってそういうのが多いようだから、プランクトンを食べるというのは、あんがい食いっぱぐれないいい方法なのかもしれない。海流で栄養が豊かな海域が出来ると、たくさんのプランクトンが爆発的に増える。そうしてこれらを食べるために、実に多くの魚などの生き物が群がる。多くの生き物の食べ物の基礎となる為だけにプランクトンがいるわけではなかろうが、それだけ食べられても絶滅しないくらいたくさんいるということなんだろう。偉いものである。
 ところでジンベエザメは大きな体をしているから、とりわけたくさんのプランクトンを食べているようだった。特にたくさんプランクトンが集まっているようなところだと、立ち泳ぎをしてそのまま口の中に流れ込ませるようにして食べている。どれほど食べたらお腹いっぱいになるのかは知らないが、それなりに食べたら動かなくなって、そのまま海底に沈んで行ってしまう。ジンベエザメには浮き袋が無いらしく、泳がなければ比重の関係で海水に沈んでしまうのだという。何もしなければ浮いてしまうのよりも都合がいいのかもしれないが、海だっていつかは底があるし、また深すぎるところまで沈んでしまったら、また浮くために泳がなくてはならないのではないか。まあ、そのあたりは適当に判断しているのだろうけど、大きさを持て余してゆっくり休むところを探すのも大変なのではないか。イルカなんかだと脳の半分ずつ分けて眠ることが出来るらしいから泳ぎながら寝られるというが、ジンベエザメにもそんなことが出来るというのだろうか。まあ、魚だから溺れないというので、安心して沈んでいられるのだろう。
 最近は体重計に乗るだけで体脂肪まで教えてくれる。おかげさまでそれなりの体脂肪をキープしているので、僕が海に入ると余裕で浮くに違いない。現在の体脂肪より少なかったであろう子供時代に海で泳いだが、ごく普通に浮くことが出来た。浮きながら完全に睡眠をとるようなことはしたことが無いが、ある程度のバランス感覚で浮き続けられることも体験的に知っている。僕ら人間の多くは、泳がなければ浮けるのだ。
 もっとも減量をして極端な筋肉質のボクサーだとか、長距離を走るようなランナーなどは、体脂肪が少なすぎて、水に浮くことが無いのだという。要するにジンベエザメといえどもたくさん食べ続けているようで、アスリートたちのように引き締まった体を自然にキープしているということだろうか。いやむしろ、自然の感覚の食事でもっても、適度の食事が出来ているということかもしれない。顔はちょっととぼけたところがあるけれど、なかなかやるなあという感じではないか。
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シンザトは、なに人なんだろう

2016-05-25 | 時事

 沖縄の女性が米軍の男性に殺害された事件については、被害者の女性の事を考えると悲惨すぎて何ともいえるものではない。それは最大限の前提だけれど、しかし、それを無視して外国人差別を繰り広げる日本の世論も見苦しいのは確かなことだ。確かだが、それは歴史もあって、日本人ばかりが馬鹿なわけではない。占領している米国人が、復讐を恐れて、罪を犯した米国の軍隊の人間を守って来た歴史が(それは単なる偏見だったけれど)、いまだに日本人の心の傷を引きずっている構図を利用したものであることは明快で、今更だが、メディアはこの原罪にある背景を解説すべきだろうと思う。彼らは復讐心で不当に重い罪を個人が背負ってしまうという恐れに(信用が無くて)抗うことが出来ず、かえって軽い処置を軍部の裁判でやってしまうという愚行を繰り返してしまいすぎたわけだ。馬鹿な兵士はいるとしても、駐留している他の兵隊の事を考えると、未開の地(と思っている米国人)の日本に赴く人間の心理的問題は、あんがい複雑なものなのだろう。さらにこの騒ぎがこの考えを将来的にも助長することだろう。
 そういう前提はあるにせよ、今回はやはり報道の経緯は不思議だった。米国軍の関係者であることは比較的早期に明らかであったにせよ、なかなか名前が出なかったし、でも報道で出たということでは、おそらく米国軍の人間だろうことは明らかそうに感じられた。そうしてやっぱり米国の人間だと解ったわけだが、名前の最初が「シンザト」というのも、沖縄の日系人らしいという感じはした。しかし、名前が出ると、しばらくして顔が出る。黒人のようだ。シンザトとは何だろうな、と漠然と思う。調べないとわからなかったけど、お母さんが日本人だということらしい。ファーストネームでは無いのに、でも何故かシンザトが先にあり、日本語もあんまり得意でなかったという話も漏れ伝わった。
 こういうのは結局推測に過ぎないが、日本の報道の配慮と、結果的に外国人差別を平然とやってしまう左翼と報道の姿勢は、内部にある偏見を自ずから明らかにしている。
 悲しいけれど、戦争というのは僕らの生まれるず~っと前の時代の事だと思っているのは僕らだけのことで、いつまでも人間というのは厄介なことを忘れないものだ、ということなんだろう。今を生きている人間にとって、歴史の正義を採用するのは、本当に幼稚なことのように思えてならないのである。普通の態度として、シンザトは厳粛に日本の法の下で、罪を粛々とつぐなうべきであるというだけなのではないだろうか。報道はそういうことをまじめに僕らに伝え続けて欲しいものである。
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恍惚のレバーの味

2016-05-24 | 

 録画したテレビを見てたら、池川義輝という人が焼き鳥を焼いていた。普通の炭火焼き鳥屋さんなら、遠火でじっくり焼くのが常道とされるが、池川は違う。火が近く、気を抜くとすぐに焦がしてしまう強火だ。そうすることで表面をカリッとさせ、中身は柔らかくということらしい。しかし中に火が通らないことには旨い焼き鳥にはならない。要するに火加減が絶妙なわけだ。その前提として鳥を捌き、串を打つことも絶妙で、とうぜん最後の焼きも生きてくるというお話だった。日本料理でも魚を焼くというのが一番難しいというし、鰻なんかもそのようだ。焼き加減のちょうどというレンジは、ほんの数秒のタイミングであるといわれる。ストップウォッチでは計れない見極めが必要なのだろう。
 ところでさまざまな焼き鳥をそれぞれ食べてみたいものではあるが、特に旨そうだったのは他ならぬレバーだった。いったいどんな味がするんだろうね。もっともこの店はカウンターのみ17席で、予約は二ヶ月待ち。金額は8,000円程度というからべらぼうではないが、物理的に食べることは叶わない。人気が無くなるのを待つより無かろう。
 まあしかし池川さんの焼き鳥はもちろん食べたいには違いないが、僕は近所の焼き鳥屋のレバーだって十分好きなのである。確かに焼き鳥屋さんによっては、そこまで旨すぎない店も無いではないが、まあそれでも焼き鳥であればそれなりであってもいいような気分もある。何もかもダメならキャベツでも食べていればいい。旨かったらもうけものである。
 留学時代はやはりレバーを好んで食べた。木耳などと炒めたやつだとか、にんにくの芽と炒めたやつだとかお世話になりました。日本ではあまり食べないけど、腎臓(マメ)なんかと炒めた奴なんかもう絶品で、汚い屋台だとさらに旨かったりしたものだ。日本ではちょっと無理かもしれないな。
 もう食べられないもののことを考えても仕方がない。実は僕の奥さんが作ってくれるレバーがまた旨いのである。塩で焼いたシンプルなものも素晴らしいし、何やらだしを効かせたもので煮込んだものもなかなかイケる。家に帰ると恍惚のレバーが食べられるので、僕には何も不自由はありません。
 ところで僕のつれあいは、このレバーが苦手らしい。だから味見などしたことが無いんだそうだ。料理の腕というのは、舌で確かめるようなものではたぶん違うのだろうね。よく分かんない世界である。
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なかなかに驚かされるサスペンス  女神は二度微笑む

2016-05-23 | 映画

女神は二度微笑む/スジョイ・ゴーシュ監督

 インド映画。地下鉄毒ガス・テロ事件が発生して2年。夫と連絡が取れなくなったということで英国から探しにやってきた妊婦さん。警察と一緒に夫が居たはずの痕跡を探すが、そもそも泊まっていたとされるホテルには宿泊した記録が無いし、勤務先にも働いていた痕跡が無い。いったいどこに消えたのか、という問題と、そもそも探してる妊婦さんの狂言ではないのか、という問題がともに分からない。いなくなったのならどうして痕跡まで消えたのか(何かの事件に巻き込まれた)。狂言なら、この妊婦さんの目的は何なのか。
 この妊婦さんと共に失踪したとされる夫を探す警察官と、その警察内での他の事件との絡みもある。最終的には、それらの謎が複雑に絡みながらどんでん返しになるのだが、途中までこれがどうなるのか、なかなか予想がつかない。つまり評判通りよくできたサスペンス作品である。また、インドならではの風景もふんだんに見られるし、そういう気分を楽しむのもいいかもしれない。もっとも個人的には、失礼ながらもっとインドは汚いところとばかり思っていたので、あんがい都市化が進み、地下鉄などの風景がそれなりに洗練された都会の感じがあって意外だった。インド的な美人とか、そうして美男子の感じもなんとなくわかる。必ずしもハリウッド的に分かりやすい感じでないところが、文化的にも面白いとも思った。
 物語の内容についてはネタバレになるとほとんど面白さが半減するので言えないけれど、インド映画に特有のふざけた感じは皆無で、そういうところも大変に見やすい映画だと思う。多くの人が映画大国インドという見方で、要するに、インド映画は、発展途上のようなことを差し引いて楽しむことを暗に推奨しているところがあるように思うのだが、ことこの映画に関しては、そういう心配はほとんどない。そういう意味ではあんまりインド的ではないとさえいえるのではないか。インド国内だけで楽しまれることを想定している映画ではなさそうで、しかしちゃんと英語でない言語で作られていることに意味深さを感じる。
 若いころには行ってみたかった国だったが、今はそれほど行きたいとは思っていなかった。事件に巻き込まれないというような前提はあるにせよ、これからなら、徐々に外国人でも行ける国になっていくような気がする。もちろん映画だけで判断するには、ちょっと危険かもしれないけれど…。
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レベルの低い日本映画やばい、っすか

2016-05-22 | net & 社会

 映画配給を仕事にしているある外国人が、最近の日本映画のレベルの低下を嘆いて、こんな状態じゃ「やばいよ」と発言したとされることを受けて、日本の映画製作者側である人物がツイッターで「低予算で頑張っている現場を知らずに神目線の発言する奴なんか信用できない。勝手にほざいてろ(大意)」という発言をし、逆に苦労したからといって映画のレベルとは何の関係も無い精神論で反論したため大炎上したという事件(ま、よくある日常ですが)があった。情けなくて笑える訳だが、結局予算が無いだろう日本の映画界の現状が漏れ伝わってくるのは、確かに悲しくはある。
 映画のレベルと予算は関係あるかと言えば、多少はあるだろう。しかしそれは映画の種類によっては絶対条件ではあり得ない。いや、まったく予算なしじゃ話にはならないとはいえ、興業なのだから、予算があってとりあえずその予算内で作る仕事としては、それでやるだけのことという現実以外の何物でもない。作られもしなければレベルもなにも無いだろう。
 問題はその外国人とやらがいうレベルの話なのだが、いや、神目線といわれるまでも無く発言すると、それは多くの人が既に感じていることだろう。でもまあ、昔から日本の映画のレベルが高かったのかという議論もあって、まあ、ある程度厳選されて作られていた時代もあるだろうし、逆に量産されて酷かったものもたくさんあるわけで、そのレベルがどうなのかというのを物理的に語るのはけっこう難題だ。
 そうすると相対的に諸外国の映画とはどうなのか、を考えなければならないが、外国の映画だって、それはまあ似たようなものだろう。映画王国の米国だって、実に全体レベルからするとひどいものはそれなりに世界一であろう。金のかかったハリウッドものでも、例えばマイケル・ベイなんかの映画を観ると、凄いには凄いがものすごく低レベルだ。まあそれでいいという開き直りが清々しいからいいんだけれど、そういうレベルの映画が日本にも増えているような実感があることも確かである。
 結局レベルがどうのというけれど、その程度しか作る技量はともかく、映画は既に日本では娯楽の王道ではない。そんなことは別段そんなに最近からのことでは無い。相対的に近隣諸国の映画というのは比較的多く作られるようになっており、例えば韓国や中国、東南アジアなどの映画の質が上がっていることも確かだろう。日本映画というものがそれらに比べてレベルの低いものになっているという指摘はある意味では当たってしまうのが当然のことで、そういう中でもいい映画というのは時たまくらいは出来てしまうというに過ぎないのかもしれない。観る方としては、日本映画に頑張ってほしいという心情があったにせよ、まあ、はっきり言ってどうでもいい話である。作っている人だって生活があるので、いい映画を作りたいという矜持は持ってたってかまわないが、食えないのならやめるより無いだけだろう。食えるように頑張るしかないではないか。その上に客をくさすなり批評をくさすなりしたところで、まあ、それで気分がいいのならやればいいだろう。たぶん、むなしいとは思うけれど…。
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危なく不可解な関係   私の男

2016-05-21 | 映画

私の男/熊切和喜監督

 原作はベストセラーの小説らしい。どの程度忠実なのかは未読なので不明。
 奥尻島を襲った地震と津波で家族を失った少女を、親戚の男が引き取る。いわば親子になるのだが、少女が成長するにつれなんだか妙な官能的な関係になっていく。なにかと世話を焼いて心配してくれている親戚の爺さんが、どうもそういうことに気づいているようだ。この疑似親子がこのままではイカンということで、説得して引き離そうとするが、これに娘は反発を覚えてしまう。そうして事はちょっとまずい感じになっていく…。
 あまり説明的な映画ではないし、それなりにショッキングなことも起こるわけだが、そういう危うさが、かえってこの映画の緊張感を持続させている。場面によっては、普通の危ういポルノ作品のような感じになっていくのだが、辛うじてとどまっているということだろうか。異常な中に、さらに何か異常な謎が含まれているサスペンスにもなっていて、少女から大人の女になっていくその魅力から、男が心情的に抗えないというのを上手く描いている。女の方も謎めいているが、本能的にそれが深い愛であることにも納得がいっているのかもしれない。もちろんそういうものが壊れやすく危ういということも含めて。そうして本当に自ら破滅へと踏み外していくのである。
 これはちょっと不謹慎に言ってしまうと、なぜだか最近起こった中学生の2年に及ぶ誘拐監禁事件を思い出してしまった。恐らくというかまったく同じような環境ではないし、ぜんぜん違うような事柄には違いないのだが、男が身柄を引き取る感じが、実はほとんど誘拐のようにも感じられたからかもしれない。少女の方は、家族を失った悲しさと、ちょっと異常性が感じられる不思議な親戚の叔父さんが、唯一の家族となるような状況におかれてしまい、そうして成長するに従い、自分を女として求められていることに自覚的なのだ。そしてそういう状況を見ていて、本当に痛々しいような気分と、そうして嫌悪と共に逃れられない恐ろしさを同時に思うのだった。
 楽しい映画という訳ではないけれど、異常だから変態が楽しむというようなカルト作品なのではない。少しくらいのエロの期待で観ていると、気分的にはどうなんだろうか。この二人にとっては時間は断片だが、この不幸感は、恐らく将来も続くことだろう。人間の不可解さを、なかなかよく描いた作品なのではなかろうか。
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美人は不幸か幸福か

2016-05-20 | culture

 美人話が続いてしまって申し訳ない。
 東村アキコの作品に、「主に泣いています」というのがある。絶世の美女過ぎて苦労する女の話である。彼女の美しさに男たちは見ただけですぐに恋に落ちてしまい、過激な誘いや行動をとらざるを得なくなる。争いや血が流れる。それを防ぐためにおもてにむやみに出られないし、ふだんは変な格好や奇行を繰り返さなければならない。
 しかしながらこの人、自分が好きな相手が妻子持ちというのがそもそもの不幸な形なのであって、その美貌を生かせない方法のやり方を誤っているという感じもする。まあ、そこが面白いのだけれど。
 美人は美人税を払っている、という話を聞いたこともある。美人であることは一見得であるようではあるが、やはり憧れられる存在であるために、いろいろと面倒に巻き込まれることを指しているようだ。例えばストーカー被害があったり、痴漢にあったり(これは必ずしも美人であるだけとは関係ないかもしれないが)、妬まれたり、ということか。
 美人であるだけで妬まれるというのは本当にあるらしく、話したことも無い相手から、ひどく冷たい仕打ちを受けるようなことがあるとも聞く。しかしまあそうであれば、知らない相手からやさしくされることもあるんじゃなかろうか。もちろん特に器量が悪くてもひどい目に会う人はあるだろうから、人というのはもともと恐ろしいものなのかもしれない。
 美人が得だというのは、やはり女の人の多くから聞く話だ。彼女らには実感がこもっている。美人だったら絶対に人生が違ったはずだという。まあ、そうかもしれません。でも、美人の方なんじゃないかと思われる人もそのように言うのを聞くので、これはある意味でよく分からない。もっとも私は美人だから、と自ら言うのも、美人らしくないということか。
 しかしながらやはり問題は、美人だから幸福になれるか、であろう。幸不幸が付き合う男次第だとは思えないが(お互いパートナーとの関係性は重要だけれど)、しかし恋愛対象として優位なら、男問題で考えると、やはり選ぶ際に選びやすい立場であるのか、というのがあろう。好かれるのだからそのはずだと短絡的に考えるのは良くない。美しさに気後れする、というのはあるかもしれない。また競争が激しいというのは、選択肢が増えすぎるということもある。多すぎる選択は、得てして満足のある結果を生まないことの方が多いという。それなら次の選択に切り替える方法もあるが、妊娠出産の期間の長い女性には、短期の交際のリスクの方が大きいとも言われる。ある程度の経験も必要ではあろうけれど、やはり最初の方がかなり重要であることは間違いあるまい。
 それならば、やはりこれは美人だけの問題ではやはり違うかもしれない。美人は話題性が高い割に、やはり一般論として語るには、少し問題の多い括りのようにも思える。女優さんであるとかモデルさんであるとかのような、美人であるための収入の違いのあるような場合なら分かりやすいが、美人であることでの職業(それは夜の場合はありうるな)でない限り、やはりそんなに利点が無いということでは無いか。
 いや、やはりそれは経済的なものだけではない、という意見もあるだろう。そういうところをどういう秤で解釈するか、研究のまたれるところである。
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事実をもとにすると事実だと思いかねないが…   フォックスキャッチャー

2016-05-19 | 映画

フォックスキャッチャー/ベネット・ミラー監督

 アメリカでは誰でも知っているような有名な事件らしく、その事件の背景をドラマ化した映画らしい。後で調べてみると、やはり事実とは異なることも多いようだけれど、ドラマとしての異常性は、なかなか見どころの多い映画である。僕なんかは結末はまったく知らなかったので、なるほど、そうなってしまったのか、とそれなりに驚いてしまった。
 レスリングのオリンピック代表選手候補のマークは、特に生活が豊かなわけではないらしい。そういう中でトレーニングをもくもくと積んでいるのだが、ある時大金持ちから電話がかかり呼び出される。飛行機のファーストクラスの席と、自家用のヘリコプターで連れてこられた場所は、広大な敷地にお城のような大邸宅(この場所がいわゆる以前の貴族の遊びであるキツネ狩りの場所だったようで、映画の題名であることと、その練習チームをそのままフォックスキャッチャーとしていたらしい)。そこにはレスリング・コートまで設置されており、空いた部屋には自由に住んでいいし、給料も払うといわれる。もちろん言われるままに移り住むのだが、メダリストであるマークの兄もつれてくるように言われるが、兄のデイブの方は、家族との生活もあるし、一緒に移住することは断るのである(最初は、ということになるが)。
 徐々に明らかになっていくのだが、財閥デュポンの御曹司であるジョンは、ちょっとエキセントリックなところが強く、孤独で母親から認められたいというような欲求をいまだに抱いているような男だった。レスリングの経験もあるらしく、それが米国ナショナルチームを支援したいという動機でもありそうだが、武器の収集をし、警察の射撃練習なんかも敷地内でやれるようにしている。愛国心が強く、レスリングで金メダルを取ることで、自らも尊敬を集めたいというような欲求があるように見て取れる。
 ドラマの中では暗にほのめかしてあるけれど、ジョンは同性愛者であるような感じだし、要するに男同士のレスリングの絡みも、なんとなくエロティックなものが混ざるようなところがある。お金や権力にあらがえない人々と、やはりそのことに反発するような心情との緊張感があって、記録映画的な興味よりも俳優たちの演技合戦の方に力が入っていく感じだ。そのことが映画的にこの映画の評価が高くなったものだろうし、後から関係者からクレームがあがったことの原因だろう。要するに、事実とは違う記録映画(ふつう事実をもとにした映画は皆そうだけど)になっているのだろう。それは別に観る者には悪いことでは無いのだけれど、やはり娯楽として徹して観るような心構えは必要かもしれない。
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長崎は美人が多いらしい

2016-05-18 | culture

 美人が多い少ない問題というのがある。いや、あるんだと思う。以前中国内陸部を旅行していて、西安だったが、そこでバックパッカーたちと飲んで騒いでいて、ここの地は特にひどい、という話題になったことがある。混ざっていた中国人も大いに同意していてもりあがったのだが、古代中国はともかく、伝説の美人なども居る地であるのにおかしなことだった。西安には都合4度ほど行ったが(観光の定番の地だし)、その度にそんなことを思い出す。最初に思い出すのは、兵馬俑などよりまずこれである。困ったものである。
 日本でも時々そんなことを耳にする。田舎から都会に出ると美人が多いように感じる、という話もある。東京はさすがに美人が多いね、というのもよく聞く。でもまあ人口の所為か、そうでない人も数多いとは皆思っているはずだが。
 関西でも京都は特に美人が多いのではないか、という話も聞く。芸子舞子がいることだし、また女性の旅人も目立つまちだし、特に若い女性が多いような印象もあるのかもしれない。これもあんまり真面目に取り合わないでいたが、旅行から帰ってくると、なんだかそんなような印象があるような気もする。大阪などではあまりそれは無いのが不思議だ。神戸でもそんな感じじゃないと思う。奈良や和歌山なら違うのだろうか。
 東北は美人が多いと言われる。寒いので家から出られない。それは科学的にも根拠があるらしく、確かに色白の人が少なくない。色が白いのは七難隠すともいわれるが、多少の難は、とりあえず不問にしてしまう力があるのかもしれない。だが、本当にそうだったかは、あんまり印象的ではない。
 ところで、長崎には美人が多いね、とよく言われるのである。僕にそのようなお世辞を言ったところで何の意味があるのかとも思うので、これは厳密にはお世辞ではないのではなかろうか。長崎にみえられる客人が、何かの情緒をもって、長崎の女性の美しさを実感するというのがあるんだろうか。
 しかしながらこれは結構頻繁に言われる。長崎の女性よ、自覚はあるのだろうか。
 本当に美人が多い県や少ない県というのがあるか。これは実感というだけでなく、実際に調査した人がいるのではないか。僕はそれを疑っている。せっかく調べても公表できない、何か理由があるに違いない。もっともそれらの調査がどれほど厳格なものであったか、批判を恐れたのかもしれない。まあ、知ってどうする、という問題も、やはりあるんだけれど。
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テレビっぽいけど、騙された   ルームメイト

2016-05-17 | 映画

ルームメイト/古澤健監督

 交通事故で入院していた晴海は、病院で知り合った看護婦(麗子)と仲良くなり、退院後ルームシェアして一緒に暮らすことにする(職が不安定なうえリハビリなども必要で、家計が助かるということもあるようだ)。最初は気の合う友人・麗子との生活は順調で楽しいものだったが、徐々に麗子の奇行が目につくようになっていく。明らかに異常がみられるようになって、ルームシェアを解消するかに見えたのだが、不思議と晴海はこの状態から完全に逃げ切ろうとはしないのだった。
 事故を起こした加害者の青年との恋らしい絡みや、その青年らと関係のあるらしい政治家も時々場面に現れるので、恐らくミステリらしい展開の何らかの関係があるのは分かるのだが、物語のホラー度がどんどん上昇していくうちに、ちょっと本当にこの話が成り立つのかさえ不安になってしまった。しかしながら結末までは一気にまとまりを見せていくわけで、良くできた作品だとは思った。恋人同士の会話の不自然さというのがあって、さらに不必要に殺されていく人がいるようにも感じはするのだが、お話としてはそのほうが断然面白いのでいいのである。むしろ騙される渦中で、主人公の行動に少しイライラしてしまうところがある。早く逃げてしまえ、という気分がそうさせるのと、実は恐らくネタはそこだろうということに、半分くらいは気付いてしまうからだ(原作があるらしいし、記述ミステリの定番トリックだし)。しかし、正直にいうと、完全には読み切れてなかったというのは告白しておく。ちゃんと騙されて驚きました。
 まあ、そういう意味では、割合評判のいいのに騙されて借りてしまったかな、という思いもいい意味で裏切られて楽しめた。僕は人気のある俳優だからという理由で映画は選ばないけれど、北川景子の驚きの顔はこういうのに合ってると思うし、何と言っても深田恭子のコケティッシュな可愛らしさとこの怖さのコントラストは良かったな、と思った。映画というよりテレビのサスペンスっぽい感じはあったのだけれど、それもあえてこの作品の雰囲気にあっていて良かったのではなかろうか。
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