カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

梅の不作

2024-07-14 | Science & nature

 ニュースをみていると、梅の産地である和歌山では、記録的な不作なのだという。今年の冬は暖冬で、花が早く咲いて、雌しべが短くなるなどして受粉がうまく行かなかった。さらに春先に雹の降る被害もあり、未熟な実が落ちただけでなく、傷もついた。数も少ない上に、実のきれいなものも少なくなり、例年より高値になっているという。
 別段梅を漬ける家庭では無いので、今のところ実害は無さそうではあるのだが、先に梅干し自体が高値になるという事でもあろうし、数自体が希少になっていくかもしれない。よく知らないが、何年も在庫で漬けているようなところは、商売のチャンスかもしれない。
 実は梅が不作では無いかというよりも、自宅の梅がほとんど実をつけていないことには気づいていた。梅はずいぶん寒い時期には既に花をつけるもので、確かに暖冬というのもあったかもしれないが、ふつうに2月ころには咲いていた。以前からこんな早くに咲くのであるから、春の昆虫以外でも需要があるのかもしれないとは考えていた。梅の樹には鳥が結構やって来るので、そういう動物なんかも、受粉と関係があるはずである。雌しべの長さを気にしてなかったけど、それらの鳥の行動に合わない花の咲き方をしたということなのかもしれない。僕はてっきり何か害虫的な虫が付く時期があったのかもと疑っていた訳で、これが全国的なこととは思ってなかった。また庭の梅の木は、選定などの手入れはまったくしてない。母がまだ若い頃に植えた木だと思うので、梅の木自体が弱ってしまったのかもしれないとも思っていた。梅の実がたくさん生っているのは、風物詩ではあろうけれど、放っているのですべて落ちてしまう。なんとなく無駄にしているようで、心が痛まないではない感じでもあった。地面に落ちた梅は黄色から赤っぽい色に変色し、だんだんと腐ってしぼんでいく。そうなるともう近寄りもしないので、終わったな、と思うと梅雨も明ける、という感じだったろうか。これを書いている時期は、まだ梅雨入りさえしてないのだけれど……。
 子供のころには、この梅をたくさん漬けて、時折ザルに干していた。実際梅干はそうやって干すのである。最初に漬け込む作業は母がやっていたのでよく覚えていないが、干す作業は手伝っていたように思う。時期的に雨が多くなるころだから、雨が降りそうになると部屋に干した梅を取り込まなければならない。さあ降ってきた、となると、ワーッと言って梅を干したザルを運ぶ。なんだかそんなことが楽しかったような……。あとは大きな瓶に詰めた梅が、シソの赤色に染まっていくのをときどき眺めに行く。梅干は酸っぱい訳だが、眺めているだけで、なんだか口の中が酸っぱくなっていくような気分になったものである。塩分の加減の所為なのか、自家製の梅は、買って来るものより特に酸っぱいのであった。
 朝ごはんの締めには、一粒の梅干を食べている。高騰したら食べられなくなるのだろうか。代替品が出回るのだろうか。まだわからないが、やはりありがたいものなのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本からの外来種が海外で暴れている

2024-07-11 | Science & nature

 英国では日本からの外来種であるタデ科の植物イタドリが、猛威を振るっているという。あちらではジャパニーズ・ノットウィード(日本タデ)と呼ばれている。江戸時代にシーボルトが持ち帰って、英国に投機目的で送ったという記録があるという。最初は観賞用であったが、その後強い繁殖力で猛威を振るうようになり、今ではすっかり困った嫌われ者になっている。イタドリが植わっている土地は価値が下がり、もしイタドリがあるとわかっている状態で土地や家を売買すると、高額な賠償金を支払わなければならない法律まである。イタドリの駆除に何億円ものお金をかけて、行政が処分している現状もある。それでも完全なる駆除は困難で、イタドリは地下茎が少しでも残ると、休眠後にあらためて再生すると言われ、その後コンクリートも突き破るなどして成長し、繫茂する。イタドリが生息するとわかると土地の価値が暴落するので、専門の業者などを雇って駆除するより仕方がない。しかしながら完全駆除は非常に困難だから、後になってイタドリが成長してしまうと、膨大な額の損害賠償を請求される。小さな社会問題などではなく、ヒステリックな恐怖問題といえるようだ。
 過去にも紹介したことがあるが、日本発の外来種が海外で猛威を振るい人々を恐怖に陥れている例はたくさんある。有名なのは鯉だが、海外の川などの淡水の生態系を大きく変化させてしまっている。最初は観賞用などでもてはやされたのかもしれないが、もともと錦鯉などは人為的に改良されたものであって、自然に帰ると地味になり(捕食されないように)逆に天敵のいない環境で猛威を振るう訳だ。英国のイタドリは、まさにそのような環境下でイタドリにとって有利だからこそ、猛威をふるえている訳である。
 もちろん日本のイタドリも、時に新しく舗装された道などから伸びあがりアスファルトを破壊したりしているのを見かける。定期的に刈られるなどして保全されているようだが、またなんども生えてくるようだ。しかしながらイタドリ以外の雑草などの環境もあるのだろう。イタドリのみが広範に繁殖するようなことは、日本の自然環境にはないようである。イタドリを専門に付く寄生虫などもいるという。英国もこの寄生虫を輸入して対抗しているようだが、日本のように根付くものなのだろうか。他の生態系に影響が出る場合だって考えられるだろう。イタドリを人為的に移植したからこそ問題が起きたわけで、それをまた人為的に操作しようとしても、また別の問題が起こる可能性があるはずである。日本発なので気になるところではあるが、人間の行いが自然を変えてしまうのは、このような問題だけではない。その罪は重いものがあるけれど、人間の側が選択してもろくなことにはならない。少なくとも人間には、あまり学習能力が無い。外来種問題は、そのような宿題を人間に見せつけている事象なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9対1の不思議

2024-03-09 | Science & nature

 統計的にも実感としても、ヒトは右利きの方が多い。世界的にほぼ9対1なのだという。何故そうなのかというのは、過去にはいろいろと説があった。ひとの心臓が左側にあるので、盾などでそれを守るために左で持ち、右に武器を持つためだ、と子供のころに教えてもらったことがある。確かに道具説というのがあって、ハサミなどで考えるとわかりやすいが、利き腕で使った方が効率がいい。今は左利き用の道具というのは出回っているけれど、当然割高になるし、9対1の売り上げなら、そもそも特注以外作らないかもしれない。左利きの人は不便を感じながら、右利き用に格闘しながら使ったりしているのかもしれない。
 人間以外の動物はどうなのか。これは調べるのがそれなりにむつかしいが、一般的に両方の割合が均衡するのが普通らしい。サルでも、チンパンジーやオラウータンに多少の違いがあると言われるが、誤差の範囲なのかもしれない。少なくとも、人間のように極端に偏ってはいない。
 現在最有力な説は、右脳左脳の違いというものだ。人間の場合と他の動物を分ける極端なものとして、言語がある。そうして人間の言語をつかさどる主な部位が左脳にあたる。脳出血などの場所で言語に障害が出ることで明らかにされていて、ほとんどの場合左の出血があると言語に影響するようだ。右脳と左脳の動きは体の半分に交差して伝わる場合が多く。言語で左脳を使う事によって、交差した右手の役割が変化した可能性が強いのだ。それが利き腕としての割合を強めたのかもしれない。もっとも、だから右脳で言語を扱う人が左利きなのかというとそうではないので、左利きが存在する理由は、また別の可能性があるのだ。
 要するに、生きていくうえで、右手用の道具を使わざるを得ない不自由さがありながらなお、左手の人が生きのびていくのに、有利なものがあるという事らしい。現代社会を見ると主にスポーツが思い当たるが、顕著なのは野球で、反時計回りにグラウンドを走るので、左利きは一塁に近くなるために、圧倒的にセーフになるための有利性がある。また右利きばかりの選手が多いので、サウスポーは貴重でもあり、特に投手では有利とされてもいる。また格闘技なども左利きの選手が少ないために、試合では番狂わせも時折起こる。対戦慣れしていないために、大技を喰らったりするようである。
 しかしながらスポーツと人間の進化の歴史はそんなに長いものではなく、これが進化上の有利と判断するのは違うのかもしれない。もっと生存に有利な何かが隠されているはずだという。それもずっと9対1の割合であることの有利さ、とでもいうようなものがあるということになると、それはいったい何なのだろう。9対1の割合ぐらいで、モテ度が違う有利さというか。女性の中に9対1くらいの変人がいて、左利きの男性を選んでいる可能性が有るとか無いとか。そういう事が明確になっていくと、なにか大きな発見につながるものがあるのかもしれない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子育ての経験こそが本能を呼び覚ます

2023-12-09 | Science & nature

 母性本能という言葉があるが、そうしてそのことは、多くの人は自明のこととして疑われていない。しかしながら実に当然のことなのかもしれないが、子供のことをそんなに好きではない女性というのは、特に少ない訳でもないらしい。男の中には、そんなことを疑問にすら思ってもいない人がほとんどだろうし、子供が嫌いだという話を聞いても、なにか個人的に問題のある人だと考えてしまう人もいるかもしれない。そういう状況だから、子供が嫌いだとは人前では言えない人が、それなりにいるだけかもしれない。
 しかしながら、女性でないと子供が産めないのも明らかである。特に人間の場合は、圧倒的に子供を産んだ性である女性が、そのまま子育てをする。それは乳を与える機能も備えていることだし、哺乳類という分類からも、実に当たり前そうにもみえる。しかしその時点であっても、まだ子供のことを本当は好きではない女性も少なくないのだという。そうであれば、それは本来備わっている母性というのは、実は本能ではないのではないか。
 しかし実際に母乳を与えたり、赤ん坊の身の回りの世話をすることで、そこではじめて、赤ん坊をいとおしいと思う感情が芽生えることも分かってきている。母性というのは、経験で育まれるものなのである。実を言うとこれは男性も同じであって、生まれてきた赤ん坊の世話をして初めて、子供を本当に可愛いと思うようになるという。もともと好きな人もいるのでわかりにくいことだったのだが、これは子供の嫌いな男性でも、おしなべてそうなることで分かるようになった。つまり母性と言われるものは女性だけが持っている特性では無くて、子育てをする過程において人間が持つ共通の本能であるのだ。だから子育てをちゃんとしなかった男性には、ちゃんとした子供を守るという性質が育たない人間も出てくる。そもそもそういう環境に置かれなかった男性は、人間的な母性と言われる本能に、スイッチが入っていない可能性すらあるのかもしれない。
 しかしながらこれは、例えばペットの世話をするようなことでも、同じように育まれる可能性もあるのだという。ペットを飼っている人は、同じように世話をすることで、いとおしく感じるようになる。そのまま人間の子供を、好きになる人もあるという。要するにこの、世話をするという事は、人間のしあわせを感じる感情にも関係があるものらしい。そのようなしあわせは、経験がその人を育んでいるのである。
 母親に特別な感情を抱いているひとは、男女を問わず多いものと思う。母親から特別な愛情を受けて育った経験が、おそらくそうさせるのかもわからない。一方で幼い頃に捨てられたなどの経験ある人には、永くその思いが心を引きずるようなことになるのだろうか。そういう人は、ある程度の少数派かもしれないが、しかしそれなりに居ないわけではなかろう。しかしながらそのような話は、後から付け足して語られることによって、そう思わせられているところは無いのだろうか。実際にはわかり得ないが、例えばおばあちゃん子で育ったとか、母が亡くなり父親だけで育ったという人もいるだろう。そういう人に必ずそのような心の傷があると考えるのは、なんとなく危険な思い込みなのではないか。誰に育てられようと、一定の愛情をもって、そのような後から生まれる感情で接してもらった経験で育ったのであれば、あえて母親からだけの母性である必要は無いのではないか。
 そうであった方が、人間というのは、しあわせが多いのではないか。そんな風に思うのだが、どうなのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

環境が悪くなるとオスが生まれる

2023-11-24 | Science & nature

 田んぼなどで子細に見ると、たくさんいるミジンコ。体が透明で、エビやカニの仲間である甲殻類である。背中に心臓があり、目は一つしかない。水中で食べ物を集めるようにして食べる。
 ミジンコは、基本的にメスだけで増える。条件が良いと、一度に50匹ずつ増えることができる。そうしてまた二日ごとに、増え続けられる。そうやって大発生することが多々ある。多くの捕食者がいて、それらの生態系を支える重要な存在だとも考えられている。そうやってたくさん食べられても、どんどん増えるので生き残ってきたともいえるのかもしれない。
 しかしながら、生きていく環境が悪くなり、栄養状態が悪くなり、たくさん増えなくなってしまうと、突然オスが生まれる。悪い環境になっても対応できるような、新しいタイプの多様性を高めているのかもしれない。
 実際のところ、効率から考えると、メスだけで増えていった方が、生き物としては合理的である。メスだけでも突然変異が起こることは知られていて、長い歳月をかけて進化することを考えて生き残り戦略を立てるとすると、メスだけで増えた方が、いいということになる。
 しかしながらミジンコの例で考えるならば、条件が悪くなった時だけ、ちょっと変わったものを混ぜる必要が出てくるのかもしれない。なんでも擬人化して考えるのは危険だが、やっぱり人間のような哺乳動物に必ず雌雄があるのは、そのような環境への適応という観点からのものなのかもしれない。水たまりの環境というものであっても、自然界としては十分に厳しいような気もするが、ある程度の均質的なものとはいえるかもしれない。しかしながら人間は、アフリカ大陸から飛び出して、極限の場所にまでも進出し、今や宇宙にまで飛び出そうとしているように見える。様々な環境に適応できるだけでなく、そのような冒険が、いわば許されるようなことになったともいえる。それが果たして合理的なことなのかはよく分からないのだが、ミジンコのような合理性を捨てたために獲得できたものなのかもしれない。僕は男なので、ちょっとだけ感謝すべきことなのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「かわいい」は理解できるし分からない

2023-11-18 | Science & nature

 ヒトに飼われるペットの多くは、長年人とのかかわりの中で、いわゆる成熟した大人になってもなお、ひとになつく。野生動物はだから、ひとに飼われるようになっても、そうそうなつくことは無い。オオカミと犬は、遺伝的には同じだが(だから交配も可能だ)、もはや同じ種だとは言い難いほど違う。犬はオオカミには戻らないし、オオカミが犬化するには膨大な年月が必要だろう。このひとになつくという性質は、ネオテニー(幼形成熟)であると言われている。オオカミも子供のころには、好奇心が旺盛で警戒心が薄い。しかし成長するにしたがって、そういうした性質を失っていく。ひとはそういう性質を持ったオオカミの交配を繰り返して、今のイヌ化に成功したのだろうと考えられている。そうしてそういう性質を持った犬の形状も、耳は垂れ気味になり、どこか丸みを帯び、穏やかな顔つきになっていった。要するに子供の性質のまま成長し成熟したのである。
 そうした子供のままの姿を、ひとは「かわいい」と感じる。この可愛さは保護の対象となる愛情形勢にもつながっているものと考えられる。実はヒト自体もネオテニーの要素を持っていて、遺伝的にはチンパンジーやゴリラとはそんなに遠くないにもかかわらず、成熟した大人になってもなお、子供のころのままのように毛が薄く子供っぽい要素をたくさん残したままである。
 ところがこの可愛らしさというのは、文化によって少し様子が違うことも分かっていて、日本のかわいいと諸外国のかわいいは、ちょっと様子が違うことも知られている。今や日本の「kawaii」はそのまま英語としても通じるというが、それは日本のアニメ文化が広く海外でも人気を博しているからである。しかし気を付けた方がいいのは、そのままの日本のかわいいが通用している訳では無くて、あくまでアニメなどのデフォルメしたものの要素の中でかわいいは好ましいが、人間そのもののかわいいは、少し意味が違うのである。
 もっとも日本であっても、年頃の男の子などにいつまでも可愛いというと、嫌われる可能性はある。つまり可愛いという言葉の中には、「未熟」などマイナス要素を含んだニュアンスがある。Cute という単語には、日本のかわいいよりもその要素が強いと言われていて、大人の女性を対象に安易に使うのは危険だともいわれている。馬鹿にしているとも捉えられかねないのである。大人の女性には、同時にセクシーさが求められていて、そう思われるのが当たり前の文化なのである。日本だとかわいいは、セクシーさも兼ねてはいるのだが、そういうものは、妙な屈折感のあるエロと勘違いされるかもしれない。
 ということなのだが、日本文化というのは、そういう意味で文化の中にネオテニーが入っているようにも感じられる。若い女性に特に多いと思われるが、何を見ても感想は「かわいい」だったりする。かわいいの意味があまりにも多様で、いったいどのように解釈したらいいのか、いささか戸惑う思いがする。
 何かの機会にそういう話になって、ある女性からそれは明確に違うと諭されたことがある。同じかわいいではなく、明らかに語気が違うし、語尾の伸ばし方が違う。ちゃんと使い分けている、という事でありました。だから、それが分からないと言っているのだが……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人は見た目でやはり判断される

2023-10-26 | Science & nature

 ひとはあんがい見た目だけで、その人がどんな人なのか判断しているという。田舎に行くと、素朴で親切な人が多いと言われるが、実際はそんなことは無い。だがそのように感じている人は多いらしくて、まことに不思議である。家庭菜園などをしていると、なんだかいい人に違いないと思われたりする。そういうのを代表制ヒューリステックという。偏った判断をして、間違いを引き起こすことが多い。危険な場合もあると思うが、そのように判断してしまう人間の習性のようなものがあるのかもしれない。
 逆に言うと、見た目で悪く判断されがちな人というのもいるはずで、そういうのはそれなりに人生において損があるのではないか。それでいいという開き直りもあるのかもしれないが、ちょっと問題がありそうだ。
 知人に今どきでもパンチパーマにしている人がいて、その上に彼は特にこわもての人でもなく、どちらかと言えば優し気な人なのだが、どうしてそのヘアースタイルにしているのか聞いてみたことがある。答えは、周りが親切に接してくれるからなんだという。ちょっと意外に聞こえたが、実際に役場などの手続きだとか、食事に行くレストランのようなところで、非常に手厚く接してくれる人が多くて、生活が快適になるのだという。確かにパンチにスーツ姿なんかだと、ある意味でその筋の人のような感じも無いではない。僕には田舎のおっさんにしか見えないが、怖いと人と受け止めてくれるというのは、それなりにいるのかもしれない。
 そうすると、いわゆるヤクザのような人というのは、やはり一般の社会の中では、快適に暮らせているというのだろうか。今の日本はヤクザには厳しいものになっていると風のうわさにも聞くし、近所に住んでいるその筋の人がいるのだが、定期的にパトカーが巡回したり、家の前に待機していたりするのだが(要するに治安維持で税金が投下されてはいる訳だ)、そういうのって、不便なのではないかとばかり考えていた。抗争のようなものだってありそうだし、職業として食べていく困難もありそうだけれど、そんなに簡単にやめられるものでもないのかもしれない。たまにいかにもという黒い車が周りを睨みつけながら通ることもあるが、ということは子分がいるのかもしれなくて、暴力関係で働きがあるのかもしれない。もしくは堅気の仕事だってやっているのかもしれない。分からないが、見た目は確かにわかりやすくて、そういう意味では接触が避けられるので、ある意味助かるかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恵みの雷

2023-10-09 | Science & nature

 雷がゴロゴロいうと、うちの犬はおとなしくなるのでとても可愛い。普段はお転婆で困っているのである。確かに犬にとって雷というのは、訳が分からない上に恐ろしいものであろう。もっとも人間にとっても、これが好きだという人はめったにおるまい。窓から見える閃光を美しく感じることもありはするが、それは自分が絶対安全な場所にいるというある種の錯覚からそういう余裕があって、そう見えるだけであろう。雷を専門にする写真家などもいるというから、これが好きな人もやっぱりいるんだろうけれど。
 雷は音がやかましいというのはあるが、実際に閃光が走るだけではとらえられない全体像があるらしい。宇宙から雷を眺めると、地上から見えるよりはるか上空にも、赤やオレンジなどの光の束が宇宙へ向かって光っているらしい。宇宙からでなくとも、遠くにひかる雷を観察すると、雲の上空に伸びるそれらの光を見ることができる。スプライトと呼ばれる現象らしいが、0.1秒にも満たない一瞬のことで、なかなかに観察が難しいようだ。
 原始地球においては、非常に激しい荒天が続き、雷が頻繁に地球に落ちたという。雷が地上に落ちると、ときに稀にフルグライトと呼ばれる塊ができることがある。またこれも落雷によってできるシュライバーサイトという鉱石があって、これには大量のリンが含まれている。実はもともと地球上にはリンは存在しなかったとされ、このような雷によってもたらされたリンによって、生命が誕生する素養ができたのではないかとも考えられている。
 嫌われがちな雷だが、我々生物は、この雷が落ちない限り、生存することができなかったということらしい。今はよっぽど天気が荒れるなどしないと雷は落ちないので、それくらいは許容するべきことなのかもしれない。もっとも実際に近くに落ちたり、自分に落ちたりすると大変に危険である。いちおう日本では年間に13人くらい、落雷によって命を亡くされているという。雷が鳴ったら非難するに越したことはなさそうである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

認知シャッフル、いいぞ

2023-08-31 | Science & nature

 お酒を飲んで寝れば何の問題も無いのだが、休肝日であるとか、酒量が足りないとか、そういう時には、寝つきが悪いと感じる。妙な時間に目が覚めてしまって、睡眠が足りなくなって、日中に睡魔に襲われることになる。あんまり寝てないな、というのは寝ない限り解消できない。つらい時間が長いのが、さらにつらくなる。
 仕事がそれなりに立て込んで忙しかったり、ちょっとした問題が長引いたり、人間関係で気になることがあったりすると、このような睡眠の乱れだったり、眠りに対する難しさのようなことが出てくるように感じる。睡眠導眠剤を処方してもらって、なんとか眠れる、という安心感のようなものに頼っている感じがある。これで眠れないのは、どうなのか、などと疑問に感じるような日は、やっぱり最初あんまり寝つきが良くないようにも思う。なんとか眠れてはいるものの、そういう感じはちょっとつらいものがある。
 そんな風に思っていたのだが、ネットで「認知シャッフル」睡眠法というのを知った。やり方は簡単で、「なつ」だとか「いぬ」だとか、簡単な単語をつかって、「なつ」であれば、最初の「な」から始まる単語をランダムに思い浮かべるというものだ。「納豆」「南蛮船」「納屋」「中島川」とかなんとか思いつくままにやっていく。そのうち出てこないな、と思ったら「つ」から始まる単語を思い浮かべていく。そういうのを繰り返していくと、いつの間に寝てしまっている、というものである。あまりにも簡単なので、かえって疑問に感じる向きもあろうかと思うが、これがなかなか優れもので、本当に簡単に眠れるようになってしまった。ほんとにキツネにつままれるような感覚である。
 最初のころは、いわゆる頭がさえているので、どんどん単語が浮かんでしまう。どんどん単語を思い浮かべようと頑張ってしまって、実際「あ」から順番に思い浮かべてしまったりしていた。しかしながらこれは、思いつくままにやればいい、というラフなもののようで、あんまり頑張らずに思いつかなくなったと思ったら、随時次の単語に乗り換えていいようだ。一つの単語が終わったら、また適当な単語に切り替える。なつ、いぬ、ときたら、ふね、みず、とか何とか、実に適当にやればいい。僕の場合もう寝てしまっているので記憶が定かでは無いが、二つくらいの単語の途中で、段々単語を思いつかないな、という感じに思っていたら寝落ちていた、というのではないかと思われる。
 理屈はいろいろ考えられるし、気になったらググってもらうといくらでも解説があると思うので調べてもらえばいい。なんとなく「マインドフルネス」にも似ている感じもある。あれも考えを途中でやめる方法なのであって、その後に新しい考えが楽に浮かぶような感覚がある。今までの頭の中のごちゃごちゃが整理される感覚かもしれない。「認知シャッフル」は逆に頭の中に新しい関連性の無いものが出てきて、関連のあるぐちゃぐちゃから思考が遠のいてしまうイメージかもしれない。もともと眠たかったので、そのまま寝てしまうのだろう。眠れる方法がある、というのが分かっただけで、かなり精神的にも楽です。お試しあれ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マッコウクジラVSダイオウイカ

2023-06-06 | Science & nature

 鯨とイカが戦っている絵というのは、子供のころから見た覚えがある。深海にはまだ、未知の生物がうようよいて、しかしその姿を確認することは困難である。しかしながら時には漁師の網や、陸に上がって来る死体などで、体長10mを超える巨大なイカがいることは知られていた。そのダイオウイカという存在は、近年深海をさぐるカメラなどに一瞬であるが姿を現すという記録がとられるようになっている。
 また新海深くまで潜るらしいというマッコウクジラの体には、時にダイオウイカのものと思われる巨大な吸盤の跡がついていることがある。その事からも、マッコウクジラとダイオウイカは、深海において戦いの場があるらしいことは確実視されていた。しかし実際にその映像が撮られたことも無く、もちろん目撃したという情報も無い。あくまでそれは想像上の壮絶な戦いに過ぎなかったわけである。
 ところが、ある時マッコウクジラの群れが水上近くまでひしめき合って、何かを捉えている様子がうかがえる撮影が成功した。これこそダイオウイカとマッコウクジラの戦いの場面であると期待されたのだったが、そこに見られたのは、既にダイオウイカの足の一部とみられる残骸のみであった。もっともマッコウクジラの個体の中には、大きな吸盤の跡が物々しく残されたものも確認された。
 これらのことから、マッコウクジラはダイオウイカを集団で捕獲して食べているということが考えられた。戦いが行われていることは確実だが、基本的にはマッコウクジラが、ダイオウイカを捕食する図式であるようだ。いわば集団で分け合って食べる、巨大なごちそうなのかもしれない。
 ともに巨大な存在なので、食うや食われるかの壮絶な戦いであればという期待もほのかにあったのだが、集団で狩りもすることができるマッコウクジラの方に、軍配はあがったということなのだろう。もっともまだ決定的な捕獲の映像が撮られた訳ではない。あくまで空想上のことかもしれないが、深海では壮絶な戦いが繰り広げられているのかもしれないのであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先人を嫌い新たな道を開く人

2023-05-31 | Science & nature

 猿橋勝子の伝記仕立てのドラマを観た。猿橋勝子は日本の女性科学者のさきがけのような人で、海中の二酸化酸素濃度の測定や、アメリカの水爆実験で被爆した第五福竜丸事件を受けて、「死の灰」の分析などの功績で、世界的に知られる人物である。女性科学者に贈られる猿橋賞の創設者でもある。
 猿橋は戦前生まれで、当時の女性が理系で勉学を励むのはもちろん、それらの学問をするための高等教育機関で、そもそも女性を受け入れるところは少なかった。女学校を卒業後、一度は生命保険会社に勤めるが、医師になる夢を捨てきれず、両親を説得し女子医学専門学校を受験し直す。学科には受かったものの、校長である吉岡彌生との面接のときに、吉岡校長のような立派な女医になりたいと述べたところ、「私のようになりたいと言っても、そうたやすくなれるものではありません」と言われ失望する。校門を出たところ帝国女子理学専門学校の開設のビラをもらい、方向転換して再度両親を説得し直し、入学を果たした。
 その時に「どうしても吉岡校長の居る女子医学校には行きたくない」という理由で押し通したとされるのだが、それは猿橋が著名になった後に多くの場所で語られた逸話であるという。
 それで気になって吉岡彌生とはどんな人なのか調べてみると、これがまた日本の女医のさきがけとなるような立派な人なのである。日本で28番目に女医になった先人であるばかりか、女性の医学教育の門戸の狭さを改善させる思いから、女子医学校を設立したのである。
 そのような偉い人だけれど、戦後には学校の組合設立などを拒み、吉岡家一族の独裁的な専制支配などを批判され、実際に教授会首謀者などを追放などするも裁判で敗れ、そういう中にあって戦争協力など指導的な立場であったということで公職を追放され、いったんは学内から去った。しかし五年後新生東京女子医科大学の学頭に返り咲いており、叙勲等も受けている。
 詳しい事情は知る由も無いが、吉岡の一時の戦後の評価と猿橋の評価の逆転のようなものが、エピソードとしての私怨を隠さない発言となったのではなかろうか。まあ、吉岡も気の強そうなところがありそうだし、猿橋もそのようなところがやはりありそうだ。二人とも女性の生きる分野として困難を極める世界を切り開き活躍した同志のようなものであったはずだが、同時に何かどうしても相容れられないわだかまりを残していたのだろう。しかしそれが無ければ猿橋は医者になっていたはずで、それはそれで別の功績を残せはしたとは思うものの、今のような評価につながる活躍ができたかどうかはわかり得ない。先人の苦労は、妙な運命を生み出したもののようである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地球外生命を探せ

2023-05-14 | Science & nature

 地球外生命がいることは、確率的には確実なことである。しかし問題は、地球人がその生命体を確認出来たり、願わくばコンタクトが可能なのかということがある。
 生命が存在できるカギとなるのは、生命あふれる地球のような岩石惑星をさがすことである。ただし太陽のような恒星であれば、望遠鏡などで確認が可能なのだが、惑星というのはその恒星の放つ光の反射や、恒星を横切る際の影などの観察でしか、確認するのが難しかった。宇宙空間というのは、基本的には暗いようだ。
 また地球のような生命の存在の期待できる惑星の位置も、重要であるとされる。いわゆるハビタブルゾーンという領域に惑星が無ければ、生命の誕生が難しいと考えられている。太陽から近すぎると星が熱くなりすぎるし、離れると冷たくなりすぎる。さらにその岩石惑星の大きさももちろん重要で、一定の物質を重力によって引き留められるだけの力が無いとむつかしい。そうして有機物が存在しやすい水を蓄えていることも重要だ。地球上でも干からびたような乾燥地帯では、生命種は限られているわけで、ましてや水なしの状態の星では、きわめて生命の存続が難しくなる道理であろう。
 近年の天文学では、観測技術が向上して、恒星の周りの岩石惑星の存在もかなりの精度で確認することができるようになっている。光の構成を分析して惑星が岩石なのかガスなのかはもちろん、その星に水が存在するのかとか、大気の組成も分析が可能になりつつあるようだ(もちろん観測の条件もありそうだけど)。そうして地球で植物に不可欠な二酸化炭素があるのかどうか(人間社会ではジャーナリズムとして厄介視されてはいるけれども)。生命が育まれる条件としての大気組成は、たいへんに重要なものなのである。
 しかしながら近年の研究では、そのような条件下のみで地球外生命を探すのではない、新たな試みもあるという。むしろ条件の悪い惑星において生命体が確認できる方が、知的生命体の存在を期待できるのではないかという。
 どういうことかというと、例えば火星を地球化する計画が実際にあるのだが、それをテラフォーミングという。理論的には可能だが、まだ地球人はその計画を実行には移せていない訳だ。しかし系外惑星の中には高度に知的な生命体がいるはずなので、すでにテラフォーミングを果たしている星がある可能性がある。むしろそのような星こそを探し出せたら、地球人としてはコンタクトを試みるべき存在を探し当てることができるのではないか、ということだ。
 また大気中に生命を育むもののみを探すことに、異を唱える科学者もいる。むしろ大気中に生命にとっては都合の悪い二酸化窒素のようなものが見つけられたら、エネルギーを必要として排出される生命体の存在が確認できるかもしれないという。まさに地球がそうであるように。
 条件がいい星を探すべきか、むしろ悪いところを探すべきか、それが問題なのである。その星の住人が、善人ばかりとは限らないにしても……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

増えていくのはアフリカ人、試金石はナイジェリア

2023-05-06 | Science & nature

 中国やインドの人口が巨大すぎて霞んでしまうためか、あまり話題にあがらないが、世界人口増の背景にあって、その増え方の主流に躍り出ているのは、アフリカ諸国である。既に日本のように人口が一億を超えている国が、ナイジェリア、エチオピア、エジプトと三か国もある。予測ではコンゴ、タンザニア、ニジェールなどなど、複数の国々が将来的には1億以上の人口を擁し、日本を超えるのは確実だろうと考えられている。
 中国のような人口大国と違うのは、いまだに出生率が高いことである。それでも出生率は年々下がってきており、全世界的にはいずれ人口減少へと転換することにはなるだろうけれど、それは100年後なのかどうか。だからそれまでの間、多少の鈍化を経ながら増え続けていく代表に、ナイジェリアがある。ナイジェリアでは、一人の女性が平均で7人もの子供を産んでいるとされる。それでも近年は減る傾向になり、徐々に減って5.5人になると推計されているが、それでも2.1を割り込む国がほとんどの中、驚異の数字と言っていい。2050年までには3億7700万人に達するとされ、アメリカの十分の一の国土に、北米の人々より多くの人が住むようになる計算になる。
 本来人が増えること自体は、経済発展にも寄与し、望ましいことである。日本の奇跡の戦後復興も、日本の人口の多さが最大の要因だったともされている。そうではあるのだが、ナイジェリアの爆発的な人口増には、かなりの問題が潜んでいると言われる。残念ながらナイジェリアは最貧国で、毎年餓死者を出している。穀物などの輸入も3兆円を超えており、食糧事情が内政を圧迫しているほどだ。人々が貧しいのなら手を差し伸べる手立てはあるが、治安も悪く、せっかく農業従事者が穀物を生産しても、いわゆる成功した農家や農業法人に勤める職員などが、年間350人も誘拐されるか殺されている。貧困が悪の連鎖を呼び、数千人の人が何らかの形で誘拐されているともいう。せっかく国内で豊かになろうとしても、貧困が足を引っ張りそれを許さない。一流大学を出て、例えば医者になったとしても、多くの若者はこの国では働かず、外国へ飛び出してしまう。必要とされる人間はいなくなり、飢えた大衆は人から奪うことで生き延びようとしているのである。
 そういう面があろうとも、もちろんこの国を何とかしようと働いている人は大勢いる。そうして新しく生まれる人々で、しばらくは若々しい国として発展しようとしているのである。これからの地球の人口の推移を見るとき、間違いなくナイジェリアの人々が、将来の地球の人間像となっていくのであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

増えていく人口と減っていく国の人

2023-05-05 | Science & nature

 昨年末に世界の人口は80億人を超えたという。いつ頃のことだったか記憶が定かでは無いが二十代のころに40億台から50億になったと話題になったような気もする。少なくとも生きている間に倍増はしているはずだ。
 もっとも僕の生まれた時の世代は数が多かったが、その後は減り続けていったのは確かそうで、今の子供の様子を見ると明らかに数が少なくなった。学校のクラス数は4以上あったし(中学では9。高校は10以上あった)、クラスの人数も50人近かった。机の隙間を歩くときは横向きにならなければならなかった。
 そうではあったが、その後の日本は人数の増え方は鈍化してゆき、しまいには減っているという。生まれる人数はどんどん減っていたが、長寿の人が増えたために鈍化したような錯覚を持っていただけのことであって、ついには平均寿命が頭打ちになり、どんどん減りだしたということだろう。すでに書いたように実感を伴って減っているのは間違いなくて、まちには高齢の人が増え、子供の声が聞こえづらくなっている。いるところにはたくさんいるが、全体として寂しくなっている感じだろうか。
 そうではあるが、世界人口は増え続けている。中国やインドの人口がひどく多すぎるので、同じアジアの人間としては、地域性としてどんどん増えている脅威があるが、東アジアである日本や韓国、東南でもタイなど国は減っていく組に入ったようだ。推計上は、将来的には国民が消滅する水準まで減るとまで言われている。僕は途中で死ぬ組の人間なので見届けることはできないが、それがどのような未来なのかは恐ろしげである。
 もちろん日本の人口が減っていくことで、日本なりの対策はこれから打たれていくことだろう(※ 実はすでに米国などより子供政策は手厚いが、これはまた別の機会に)。人口が減ることでの内訳で、一番困ることは、人口の年齢形態である。要するに高齢化が進み労働人口が減るので、国を支えていく根幹が難しくなってしまう訳だ。今あるもので何とかするには、定年を延長して(※ そもそも年齢で仕事を切るのは、差別の可能性がある)、社会保障費の負担割合を増やし、そうして給付額を下げるということになる。消費税を上げるのが一番合理的だが(※ 消費税は一定の逆累進があるというデータもあるが、実際は富裕層のほうが金を使うので、納税額は富裕層のほうが多く支払うことは間違いないらしい。所得税より公平なのである)、そう思わない人の壁があり、政治手腕の問われるところだ。
 もう一つ簡単にやれることは、移民受け入れ政策である。減っているのだからよそから補充して行ければ問題は無い。しかしこれには自国民の意識の壁が高く、文化の違いを受け入れることができない上に、日本語という言葉の壁が相手側にもある。日本にもさまざまな寺院などが増えだし、チャイナタウンのような別の人の国の人たちが特に集まるまちなどが、たくさんコミュニティとして立ち上がっていくだろう。それ自体は平和の象徴のはずだが、そう思わない人だっているだろう。生まれた場所だけが根拠の差別的な特権意識のある日本人をどう教育していくのかが、課題ということになろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スッポンは離さない?

2023-04-04 | Science & nature

 子供のころに川で遊んでいてスッポンを見つけたことがある。喜んで捕まえたが、指だか手首だったかを噛まれた。びっくりして振り回したらとれたのでホッとしたのだが、その体験を大人に話すと、それはスッポンじゃないという。スッポンというのはものすごく噛む力が強くて、一度噛んだら指がちぎれるくらい離さないものなのだという。
 しかしながら僕だって川遊びはしているので、ふつうのカメとスッポンの区別くらいつく。そんなに大きな個体では無かったとは思うが、甲羅が無茶苦茶硬いわけでもなく、体のサイズに比べて、異様に首が長く伸びる。目玉も頭の上に寄り気味でついていて、鼻がちょっと突き出ている。噛まれたのにびっくりして放してしまったが、その後もものすごく素早く泳いで逃げてしまって、もう捕まえることができなかった。スッポンは川の忍者ともいわれているわけだが、確かに実に素早い動きなのである。
 それにしてもスッポンに噛まれたのにスッポンではないと認めてくれなかったことは、少年である僕を深く傷つけた。大人は分かってくれないのである。そうやって子供はグレていくわけだが、僕がグレたのは、すっぽんだけの所為では無かったようにも思う。まあしかし、この件では納得いかなかったにせよ、なんとなくスッポンは恐ろしいような印象が、僕には残ったような気がする。
 ところでこの間テレビをみていると、このスッポンを取り上げていた。スッポンは噛む力は確かに強いが、相手がびっくりするくらい噛んで水辺が近かったら、噛むのを止めてさっさと逃げてしまう、と言うではないか! その後ユーチューブのスッポン動画をいくつか見てみると、スッポンに噛まれてもすぐに放してもらえるという実験をしている人もいた。無理に噛ませ続けても、7分くらいが最長だった(それは凄くながいけど)というのだ。
 ほらみたことか! あの頃僕にスッポンでは無いと言い張った大人は誰だったっけ? 友達の近所に住んでいる農家のオヤジだったはずで、僕らがそういう話をしていると、横から首を突っ込んできたのだった。僕は子供だったからそのオヤジがいくつくらいの年齢だったか見当がつかないのだが、当時は周りが田んぼだったところは住宅地になっていて、そこらあたりで作業していた地主のような人だったかもしれない。今となっては姿も見たことが無いので、土地を売った後悠々自適な生活はされたかもしれないが、多分もう生きてはいないだろう。文句を言っていやりたいが、つくづく残念なことであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする