カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

そういえば名物食ってなかったです

2018-02-28 | 散歩
 7時からの飯は10分前から既に30人以上並んでました。



 で、食後の散歩です。



 朝なんでさすがに風が冷たい。



 駅みたいで、地下に潜ってみました。





 電気がついて明るいところと、まだあんまり電気がついてないところがあるんですよね。誰のせいだろう。



 電車がつくとどっと人が押し寄せてきたので、地上に逃げました。



 そういえば昨夜の繁華街でも観てみようと思い立ち、戻りました。





 路上には結構ごみが散らかってて、昨夜の喧騒がうかがえます。



 僕を呼び込んでいたのは、このようなお店だったのでしょう。



 一度ホテルに戻りチェックアウト。
 会場に向かいます。





 平地が多い割には自転車が少ないかもな、とは思いました。



 さて、午前中の研修もみっちり。終わったのはほぼ13時でした。



 役員さんたちはその後二つの総会が17:30分くらいまであるそうです。僕はちゃんと委任状書いてましたので、退散致しました。ごめんなさい。



 駅に戻って昼飯の問題を解かなければ。



 結論は味噌カツ。40人近く並んでましたが15分くらいでありつけました。





 帰りはミューチケットをサラッと買って、快適に乗車できました。
 ただし、名古屋の行き先案内はそんなに分かりやすくないですね。地名になじみが無いせいかもしれませんが、他の場所に行く場合いろいろ表示があって分かりにくい気がします。どのホームで待つべきか、また車両の長さによってドアの位置も今一つ分かりにくい。地元の人たちは、毎日大変じゃなかろうか。



 空港では、また行きの時に一緒だったお仲間と再会。お互いお疲れ様でした~。

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欲望の錦三をゆく

2018-02-27 | 散歩
 研修終えて懇親会も終えて二次会へくり出しました。



 伏見駅のそばの地下に飲み屋街があるようで。ちょっと怪しくていい感じです。



 基本立ち飲み屋で、店の外にテーブルを出して一部座れる形式みたいです。つれの人に喫煙者がいるので地下では禁煙ということで断念しましたが、なかなか楽しそうです。



 結局地上に出て、比較的開放的な居酒屋さんで手を打ちました。
 僕ら以外はカップルばかりが静かに飲んでました。



 いい時間で解散。三々五々ホテルに帰ることになるんですが、一人女性がおられて、なおかつホテルまでの道のりが怪しいところということで送っていくことになりました。



 携帯のナビでホテル探しです。



 後で聞いて知ったんですが、このあたりは錦三丁目で略して錦三(きんさん)といって、なかなかの繁華街だったのです。それも風俗店がけっこう多くて、女性をホテルに送った後、やたらに男一人の僕に呼び込みの人が群がってきました。マットのプレーが特殊だとか何とか言ってましたです。興味はありましたが、断念致しました。



 欲望のまちはまだまだ眠らない、といったところでしょうか。

 でも、おやすみなさい。


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寸暇を惜しんで散歩する

2018-02-26 | 散歩
 実は会場の観光ホテルと、僕の宿泊ホテルまでは、少しばかり距離があるようだった。



 僕は散歩が趣味なので、たいへんにありがたいことです。



 電車で一駅だということはなんとなくわかってたけど、そんなのに乗るわけないです。まあ、電車乗るのも好きなんですけどね。ここは歩けることに感謝であります。



 だんだんにぎやかになってきましたね。



 観覧車もみえます。



 あ、これだな。到着しました。



 電車で一駅と言ってもこれくらいなら電車に乗っても乗らなくても実質2分くらいしか差が無いと脳内計算しました(たぶんだけど)。タクシーだと嫌われるくらいだと勝手に解釈しました。つまり好むと好まざるにかかわらず、歩くしかないのです。





 研修の方は一時ものすごく眠たくなって閉口しました。



 休憩時間もこまめに外に出て気分転換。



 僕は喫煙しないんだけど、そういう行動パターンの為か、よくライター貸してくれとか言われるのかもしれません(休憩に喫煙しに行く人の群れにまぎれるから)。それも女の人が案外多いのです。そういう意味では声をかけやすい人種なのかもしれないな、と思います。今回は無かったけど、外国人やおそらく障害のある人からも道を尋ねられたりします。力になれなくて申し訳ないな、と毎回思いながら散歩しております。



 それとこういうホテルでなんとなく気になるのは、従業員さんたちが丁寧過ぎることです。今回も何かの用事でエレベータに先に乗ろうとしてたのに、僕が乗ると遠慮して一緒に乗らなかったりしてます。客を優先させるそういうルールがあろうことは分かりますが、一緒に乗って何が悪いのか理解に苦しみます。仕方ないので僕の方から声をかけて、何も問題ないので一緒に乗りませんかと言ってみました。そうして一緒にエレベータに乗れましたよ。他にも客はいたけど、それなりに和やかになると思います。めんどくさい客かもしれないけど、客が偉すぎるホテルはあんまり好きになれないです。もっとホテルマンがダラダラしてるような日本にならないかな、と思います。

 ということで、コーヒー買って頑張って研修に臨んだのでありました。


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ナナちゃんとくねくね

2018-02-25 | 散歩
 今回は5番ゲートね。と確認してたら知った人が近づいてきた。それもぞろぞろと。



 犬山の方で呼ばれてるんだと。機内でも一人とはお隣でずっと話してて、いつの間にかついちゃった。奇遇というか、みなさんお忙しいこってす。

 で、名鉄に乗り換える。ちょっとまごついて、一つ乗り過ごしてしまった。ミューって買う仕組みが今一つ分かりにくいんですよね。お姉さんの説明聞いててよく分かったけど、電車は発車してしまった…。



 ということで気を取り直して、次の電車に乗車しました。





 着いたッス。



 上にのぼると、ビル街である。



 たぶんあのビルあたりから曲がってずっと行った先が目的地です。



 せっかくだから、ナナちゃんにも会いに行った。着てる服は前回と一緒だったような気がする。そういえば昨年も来たかもしれないね。



 名古屋は地下も発達してるけど、上を歩くのもいいのです。



 ここも歩いたことあるな。



 川も渡ります。



 実際だいぶ遅刻してて昼時になってました。まず飯ですな。



 くねくねラーメンってかわいい名前だけど、男率の高い豚骨の店でした。店内はそれなりにお洒落ですけどね。僕以外はほとんどラーメンとごはん(サービスらしい)。それとキムチが食べ放題で、これがけっこう辛くていいですね。ラーメン熱のある人には、それなりに良いんじゃないか、と思いました。



 基本的に若い人が多いような気がしてたけど、カウンター席には僕より先輩らしい男たちも居て、だまって黙々と食べている姿が印象に残りました。豚骨ってこちらではそんな感じの食べ物なのかもしれません。





 会場の名古屋観光ホテルは大変格式の高そうなところでした。
 参加券渡すときに、弁当券も持ってることに改めて気づきました。あらま。係りの人に良かったら食べて下さいと言ったけど、どうせ食べないですよね。弁当引き換えのテーブルには、見たところ30以上は余っている様子でした。僕みたいな人が他にもいるんでしょうね。飽食日本ってそういうところだよな、と反省しました。まあ、ラーメンの方が良かったとは思いますけど。

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ねぐらを毎晩替える

2018-02-24 | 雑記

 南米にヒメアリクイという生き物がいる。名前の通りアリクイなので、アリを食べる。成体で体長25センチくらい。さらに夜行性で樹上生活をしている為見つけにくいらしく、生態はよく分かっていない。アリクイは近年、ペットとしての人気も高くなっており、乱獲の対象として危惧されるところである。また、見た目がとても可愛らしく、爪は鋭いがおとなしいというのもあるのかもしれない。体を広げて威嚇する姿が可愛らしいとする愛好家もいるようだ。
 野生のヒメアリクイは、毎日ねぐらとする場所を変える。木から木へ移動するときは、地上を歩かなければならない場合があり、外敵から狙われるリスクも高いとされる。しかしかならずねぐらを変える。
 理由として考えられるのは、まずひとところに留まる事は、匂いなどのために外敵に見つかるリスクもあるのかもしれないということ。それともう一つは、主として食べている木の枝の中に住んでいるアリを食べ尽くさない為なのではないかという事らしい。ヒメアリクイは他のアリクイとは少し違って、アリ塚を壊してアリを捕食するのではなく、木に穴をあけて住んでいるようなアリを主に食べている。ひとところに住んでいるアリを食べ尽くしてしまうと、将来的には自分らの食べ物を食べ尽くしてしまいかねない。そうやって本能的にバランスを取っているのではないかということである。
 アリクイという種がいることでも分かる通り、アリというのはたくさん生きている繁栄した昆虫である。しかしながらそれに特化して食べ尽くしてしまえば、アリクイだって生きながらえることは出来ない。いわば共存の道を選んだ種が、逆説的に捕食者であるアリクイなのかもしれない。
 人間は捕食する立場として、一体何と共存するつもりなんだろうか。もちろん家畜を買ったりすることはあるが、何かそれは所有している資産の一部のような態度のように感じる。ペットであってもそれは単にエゴかもしれない。そういう意味では、人間の本能というのは、実に何も学んでいないように思える。
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複雑なものをデフォルメする能力   PKピーケイ

2018-02-23 | 映画

PKピーケイ/ラージクマール・ヒラニ監督

 インド映画。サッカー映画では無い。宇宙人が地球に降りてきて、宗教の不思議に疑問を持ち、いろいろ騒動を起こす。それをネタにテレビで話題をさらおうとする女性ディレクターが絡んで、過去の恋愛も解決してしまうというような話。まあ、いろいろなエピソードが満載だし、急に歌と踊りがあって、休憩もある(まさにインド)。
 実をいうと最初の恋愛のところでの勘違いは、すぐにネタが分かった。だから、これはおそらく後半に使われるだろうという予想は的中した。また宗教に関するゴタゴタは、少しカマトトすぎると思われた。まあこの宇宙人は、地球よりはるかに進んだ文明からやってきたわりに、リサーチがなされていないし、ものを知らな過ぎるという気もする。あくまで地球の理屈の中で物事を考えすぎているきらいがあって、そんなに感心できるものでもない。まあ、地球人に理解できなければ面白くないだろうから仕方ないのだけれど。
 長くはあるがテンポもいいし、踊りも面白いし、撮影もきれいで観やすい。分かりやすいわざとらしさは、デフォルメとして我慢して観ることができる範囲ではある。娯楽に徹しているという事で、よくできた作品であるとは思う。ヒットしたのもうなずけるところである。
 ヒロインのアヌーシュカ・シャルマという女優さんが、大変に魅力的だというのが大きい映画だと思う。いわゆるインド人の顔ではあるが、ショートカットで活発そうで、胸の谷間は見えるけれどエロエロで無い爽やかさのある人なのだ。この人が動いているだけで物語が楽しくなるような印象さえ受けた。インドの濃すぎる顔付の人たちの中にあって、実に西洋的に清潔感のある感じは、この映画の明るさと共に僕ら日本人が受け入れやすい映像作りに成功している最大の要因だろう。インドらしさはあるが、だから全世界標準作品なんだろうと思う。内容も考えさせられない訳でもないし、コメディとして気持ちの良さも一級品である。本当は多民族で様々な宗教や文化が複雑に絡んでいるだろうインド社会の閉塞感が、そのことを知らない文化圏人にまで見事に分からせてしまう説得力を持っている。やはりそういうことが何より凄い映画なのかもしれない。
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西郷どんとツン

2018-02-22 | 散歩

 西郷隆盛は17匹も犬を飼っていたらしい。いや正確には同時に17匹も飼っていた訳では無くて、生涯トータルという事だろうか。記録が残っていたという事だろうけど、それを数えた人がいるという事だろうけど、そうであれば、実はまだいたかもしれない。西郷家で飼っていたという事かもしれないし、趣味の狩りをするときに犬が必要だったからということもあるようで、ある程度まとめて続けて飼っていたという事だろう。上野公園の銅像の西郷さんはイヌを連れていて、犬を飼っていたらしいということは広く知られている。あの銅像のモデルは西郷さんの身内の人で西郷さん本人では無い(孫であるという話もある)。さらに西郷さんの奥さんの糸子さんは、この銅像を見て似てないと失望したという(軍服で無かった為という話もある)。さらに実は連れている愛犬はツンという雌犬だったが、モデルとなったイヌは雄だった為に雄で作られている。また実際に飼っていたツンは薩摩犬とされ、もう少し小さかったらしい。銅像は西郷さんそのものではないにせよ、犬までも違うものであるとは少し驚きだけれど、犬を連れて散歩することは実際にあったらしい。それというのも西郷さんは肥満に悩み、医者のすすめで散歩をしていたらしい。それで朝夕一時間ずつ犬を連れて散歩をしたという事らしい。忙しい人であるようで、実はあんがい暇だったのだろうか。西南戦争の時は敗れる前に、連れていた犬の首輪を外して自由にさせたという。その犬が生き延びたのかどうかまでは、特に知られてはいないようだ。
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うつむいても歩いていける  敗者の想像力

2018-02-21 | 読書

敗者の想像力/加藤典洋著(集英社新書)

 なんかすごい本を読んだな、という読後感。批評というのは、こういう凄みを含んでいるのか。内容を一言で表すのは難しいが、戦後の日本人論というのが、こういう意味だったのか、と改めて驚く内容になっている。日本人である自分が驚いたのだから、翻訳されたら、恐らく多くの外国人が驚くことになるんじゃなかろうか。もっとも米国などの戦勝国には、やはり分かりにくい話かもしれないが…。
 日本が戦争に負けたことは僕でも知っていることだが、そのことが僕ら日本人自身に影響があろうことも分かっているつもりだったけれど、実はやっぱりよく分かっていないところがたくさんあったのだと思う。何しろ戦後だいぶ経っているし、例えば責任問題といっても、今の国民自体に何らかのものが残っているはずもないが、残っているような事が取りざたされたりして困惑している人々をいまだにみたりする。国の問題においては、呆れるほどまだ戦後だということも報道でみられたりする。そういうことを遠巻きにはみているけれど、何かもやもやしたものは簡単には晴れない。極端な言動の方が声が大きく、耳をふさぎ気味な態度をとっていることが多いかもしれない。
 いろいろ語られているが、特に大江健三郎問題というか、大江論というのが最後にあって、これが特に凄い。大江作品を熱心に読んではいないが、ノーベル賞作家で、万延元年のフットボールは感心して読んだ記憶がある(前半読みにくいが、凄い作品だ)。しかし皆も知っている通り、沖縄問題などでは、少し残念な印象のある作家である。残念なとりまきから担ぎ上げられて、少し勘違いしているところもあるのではないかと、そんな風にも思っていた。
 実際はどうだかはやはり知らないが、しかしこの大江論を読むと、やはりそれは戦後日本人論としては、非常に素直で、なおかつその正面にたって物事を考えていた人だということもよく分かる。そしてそのことを、ちゃんと文学として書き続けているということも分かる。主義主張で眼鏡を曇らせることなく、そのことをちゃんと理解して解説できる人が、一体どこれくらいあるのだろう。
 僕は大江批判をしている右翼の気持ちも分からないでは無い。その時代のことを今の目線で批判するというのはフェアではないし、また、蒸し返して現代人を貶めるように見える左翼というのは、それなりに実は頭が悪いのではないかとも思う。そうは思うが、その両方の気持ちというのも、理解できないでは無い。それは日本人の屈折した立場を、奇しくも表していることは確かだろう。その左翼側と目されている大江健三郎だが、極端な右翼に対峙しながらも、しかし必ずしも極端な左翼目線で物事を捉えている訳でもなさそうである。批判されているような自分自身を、本人としても批判し、そうして行われた事実の在り方だけでなく、その被害者としての心情を、実に見事に文学作品として描いている人だったのである。普通は書いてあるものを読めば分かるのかもしれないが、しかし書いてあるものだけを読んでも、それはほとんどの人は分からないことでは無いか。そのことを加藤は読み解くことが出来る人で、大江を使って自分の主張をまっとう化しているという事では無い。これは戦争を体験した日本人を痛烈にまで描いた見事な文学だったのだ。
 他にも小津作品やゴジラなど、なるほど戦後日本人というのは、こういうところでもちゃんと表されていたのだと改めて目から鱗が落ちることだろう。評論ってやっぱり凄いことなのである。いや、加藤典洋が凄いだけかもしれないが。
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歌う準備はしたくない

2018-02-20 | 音楽

 今はもうほとんど行かないにもかかわらず、カラオケで歌いたいと思うことがある。ふだんはいわゆる洋楽というものしか聞かないから、歌える歌なんてない。日本語の歌というのは日常で聞かないが、聞こえてきて覚えるというのは無いではない。しかし、そういう経験があったのは若い頃だけのことで、だから歌えるのは古い曲だ。以前は歌謡曲という分野があって、テレビなどでそういう曲を流していた。今もあるのかもしれないが、そういう番組を見るような事が無くなったので、知らない。ラジオから歌謡曲が流れるという経験もほとんどない。ラジオは録音して聞くので、録音に偏りがあるのかもしれない。
 という事ではあるが、この間テレサ・テンの歌が流れていて、それもテレサ・テンの曲を誰か違う人が歌っていて、これは知ってるな、と思って、歌えるかもな、と思った。実はテレサ・テンの「別れの予感」は若い頃によく歌っていて、得意である。でもまあそれだけで、他の彼女の曲はまったく歌ったことが無い。知っているけど詳しいことは分からない。そういうときはネットをいつの間にか見ていて、さらにアマゾンで、あと一歩でクリックするところだった。でも止めた。
 その時の気分だからそうしたってよかったのかもしれないが、考えてみるとカラオケを歌うときになって考えが変わるかもしれないと思ったのだ。カラオケに行くかもしれないという予想はこれからの人生だからあり得ない訳では無いが、もうそんなに近くにあるという感じでは無い。そうであるのにそのために準備したりする気分にはなれない。考えてみるとテレサ・テンは、僕よりおじさんたちと飲んでいて、彼らも知っているだろうという無難さから歌い出したような気がする。「別れの予感」にしたのは、沢田研二の「時の過ぎゆくままに」を探していて「時の流れに身をまかせ」って曲も知ってるな、と思ってテレサ・テンにつながり、でもそれじゃありふれてるから違う曲を選んだらそれだったという事だったと思う(たぶん)。ママさんが一瞬、自分が歌う曲じゃなかったかしら? といった風にマイクを探して、歌い出したのが僕だったのでちょっと愉快だった。ただそれだけのことで持ち歌のようなことになってしまった。
 という事で、特に別のテレサ・テンでなくてもいいのだ。もちろん別のテレサ・テンを歌う日もやってくるかもしれないけれど。
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ちょっと青い時代のことだけど   青い車

2018-02-19 | 読書

青い車/よしもとよしとも著(イーストプレス)

 漫画。たぶん成人向け。それなりの性描写があるから。しかしそれが特にエロとしては描かれていない。短編集でそれぞれ独立した話だけれど、一定の不思議なトーンはある。よく分からないが著者の他の作品にもそのようなものがあるのかもしれない。
 誰かが褒めていて買ったはずなのだが、それが誰だったかはやはり思い出せない。ずっと前から知っていたわけで無くて、それなりに最近のことだったはずなのに。
 でもまあ、なんとなくこれは、影響力はある漫画かもしれないとは思う。絵に才能があるとかそういうことでは無くて、なんとなく青春の思い出として、こんな気分はあるように感じるからだ。カッコ悪さもあるけど、でもカッコいい。気どっているけど、悟られないくらいは自意識を保っている。そんな感じでありながら、それなりにぶっ飛んでいる。分かられなくていいと思うし、しかし確実に分かるやつはいるだろうという確信がある。そうしてそのことに成功していることも分かっているのである。
 人の死があったり、時間軸が絡まっていたり、実際にタイムトラベルしたり、無茶苦茶なままで話が収斂さえしない。わざとシャレもダサかったりする。たぶん狙っているが、そういうしかなかった(科白として)という能動的な感じもする。読後感は、だからそんなに悪くない。それで人気があったのだろう。
 まあ僕の世代に近い話だったのだけど、僕が若いころに知らなかったのが悪かった。そういう青春像なのかもしれないな、と思った。もう僕らはこんな人間関係はつくれないし、それで成り立つのは非常に疲れる。要するに、若さには体力があった訳で、その体力のある人が力を抜いて頑張ったら、こうなるのではないだろうか。やっぱりなかなか良かったのかもしれません。
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人気は白人女性

2018-02-18 | 境界線

 インドでは代理母は合法で、ビジネスになっている。為替に差のある国の子供を代理で出産すると、4年分の年収になるという。これを人身売買であるとか人体搾取であるという批判は当然ある。が現実として需要と供給が成り立っているということのようだ。
 文化的な側面もあるとは思うが、しかしインドであるというのは限りなくグレーであるとは思える。米国内でも代理母は可能なようだが、やはりディスカウントされているということになるだろう。日本人である場合はどうなのか。実際に利用している人はそれなりにあるのだろう。

 ↑というのを半年ほど前に書いていた。需要と供給でビジネスが成り立つとはいえ、倫理問題という気分があったのだと思う。
 ところが最近別のドキュメンタリーを観ていると、米国女性の代理母の需要が高まっている、というレポートがあった。依頼主はアジアから。それも圧倒的に中国からだという。米国は多民族国家ではあるが、代理母のほとんどは白人女性であるという。必ずしも受精するとは限らず、米国の代理母の料金は非常に割高であるとされるが(失敗しても試みたという事で料金は発生する)、数百万単位での依頼は殺到しているという。米国の取次会社の信用ということもあるのと、やはり白人女性を代理母とすることにステータスのようなものがあるのかもしれない。もちろん依頼している中国人は、富裕層である。
 代理母には、実際に出産後に訴訟になったりするなどという事が、以前は話題の中心だった。倫理問題もあるにせよ、不妊の問題は深刻であり、夫婦として自分たちの子供を残したいという欲求は、理屈を超えるものがあるのかもしれない。しかしながら合理性を越えての需要がインドより米国の選択をさせるということに、より現代性を感じる。いや、不合理は慣習的な感情の方かもしれない。風水のようなものと生活が結びついているような文化と、関連があるのだろうか。もちろん日本人でも代理母を利用する人もいるとは思うが、表に出したがらないのではないかと勝手に想像する(もちろん有名人のニュースはあるが、これは後に知られるよりも自ら公表した方が良いという判断があったのだろう。有名人でなければ、秘密裏に実行する選択をしたのではないか)。
 代理母は、お金が無ければ選択できない。そもそもこれは格差問題なのかもしれない。
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惹かれあったら悲しい思い出   百年恋歌

2018-02-17 | 映画

百年恋歌/ホウ・シャオシェン監督

 3話オムニバスのようになっている。最初は60年代台湾。ビリヤードしてタバコ吸って、手紙を読んで人を探している。二番目は清の終わり。おそらく遊郭のようなところで、お茶を飲んで枇杷を食べたりしている。義妹が身売りされたりする。三番目は2000年代の現代。オートバイに乗って、写真撮ったりセックスしたりする。みんな不良ばかり出ている感じもする。三つの話は独立しているとしてもいいのかもしれないが、当然関連している。演じている男女が同じで、時を越えて通じ合っている様子という意味かもしれない。しかしながら最初はともかく、結局行き違っている二人という感じはする。何しろ僕にはよく分からないのだから、退屈しながらいろいろ考えなければならない。途中であきらめて早送りしてみても、ぜんぜん話は進まないような物語だった。ちょっと自己中心的な作家作品である。
 さまざまな状況下におかれて、二人の仲は仕方ない困った状況にありながら、惹かれあうんだからしょうがないじゃないか、という事かもしれないし、やっぱり悲しいという事かもしれない。最後はお互いに恋人がいて、共にその関係を捨ててまではどうなのか、という感じはある。恋人を捨てると、捨てられた方が悲惨である。そうまでして自分たちの恋愛を選ぶべきなのか。そんなことは彼らが考えたらいいことなので、僕には何にも言うことは出来ない。悲恋というのであれば、それを大切に生きて行ったらいいだろう。
 時にはつまらなくても映画を観て、まあ、無駄な時間を浪費する。少なくともこういうものを撮りたかった監督さんがいて、少なからぬ人がこれを良いという。そういうことが人間社会の面白さである。この監督さんの他の作品はそんなに嫌いでは無かったので、今は僕が大人になりすぎたか、体調が悪かったのかもしれない。
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ニュートンの猫の扉

2018-02-16 | Science

 万有引力の法則などで知られるアイザック・ニュートンは、錬金術など発明に関しても様々研究をしていたと言われる。実際にいろいろなものを実験的に先駆的に作ったらしい。
 その中には扉のついていないシンプルな猫の扉というのがある。部屋のドアの下のところに猫の通り道として穴があけられていたらしい。それも親猫と子猫用の二つ(大小)。
 ニュートンはたいへんに頭の良い人と思われている訳だが、こんなことをしたために多くの人が、実は大変に頭が悪いか、頓馬な人ではないかと疑いをもつことになった。その為か、これは事実か否かという議論もある(穴の開いた扉が存在したことは事実らしい)。まったくニュートンともあろう人が、あり得ないミスではないか。
 もちろん子猫は、親猫のとおる大きめの穴であっても通り抜けることが可能だ。要するに小さい穴は無駄なはずである。だからそんなことに気づかない人間は、考えが足りない人のように思える。
 しかしながら実際に猫の扉としての穴が二つあけられたというのは、本当に考えが足りない所為だったのだろうか。最初にあけた穴が小さすぎて、大きい猫のために新しい穴をあけたとも考えられる。しかしその場合なら小さい穴を、大きくサイズアップしてもいいはずだ。もしくは最初の大きな穴をあけたけれど、特定の猫しか通らなかった。それで少し小さいサイズの穴をあけたところ、そちらを通る猫がいたとは考えられないか。
 現代でも猫の通り道としての扉を作っている家はたくさんあると思われる。やはりいくつもあけているような頓馬な人は少ないようだ。何事もパイオニアの人は、ちょっと考えすぎて失敗した痕跡なのかもしれない。もちろん考えが足りな過ぎて、という疑いは晴れない訳だが。
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数の魔力と永遠の偉大さのために   数学者たちの楽園:「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち

2018-02-15 | 読書

数学者たちの楽園:「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち/サイモン・シン著(新潮社)

 黄色い顔したデフォルメ・アニメとして米国では有名らしい「ザ・シンプソンズ」。この内容において、いかに数学的なアプローチが重要なものとして使われているかの解説本である。いかに高度な数学が使われているのかというのをこの本で知り、驚愕すること必至である。アメリカの数学オタクが寄り集まって、もの凄くくだらない意味不明とも思える数学ギャグをアニメに投入しているという事実があることに、そしてそれがやはりそれなりにウケているらしいことに驚いてしまう訳だ。さらにこのような解説無しにこのような高度な数学が理解できる人が、本当に視聴者にいるんだろうか。まあ、まず居ないだろうが、そのことに気づいて数学の楽しさを紹介したという功績は、たぶん随分あるんだろうと思われる。解説されてもよく分からないところはたくさんあったのだが、それでも基礎的な数のことをいろいろと考えることが出来て、楽しい読書体験ができる。数学に魅せられた人々の、ある意味壮絶で幸福な気分というものも、なんとなくは理解できることだろう。
 アニメのシンプソンズがそれなりに素晴らしいという話は、聞いたことが無いでは無かったが、日本と比べると米国のアニメというのは、いかにも洗練されてなくて、なおかつ動きも良くない。内容がどうなのかという事までも考えたことは無かったし、米国人向けに楽しい話が、日本人に面白いかどうかというのはよく分からない話だ。この本であの黄色い人たちが、実は四本指である事など初めて知ったし、またあのようなアニメであっても、綿密に計算された脚本が練られ、一流の賞を受賞するなど評価の高いことも知った。さらに非常に長寿番組らしい。米国での影響力は、決して小さくは無いのだろう。
 サイモン・シンの著作は、もの凄く高度な内容でありながら一般の人の読み物として優れていることに定評がある。何より読んでいて非常に楽しい訳だが、数学のオタクたちが、何を考えて面白がっているのかというのが、オタクで無い人々にも分かるというのは、非常に困難なことだったはずである。何しろ分かったとしても、それなりにくだらないし、実際にはその計算のやり方なんてほとんどやっぱり理解できない。ただしその恐怖の世界だった数学が、実はやはりオタクたちを引き込んでしまう魔力があるらしいことくらいは、理解できるようになっている。数学は苦行として学ぶために存在している訳では無くて、人間が生きている喜びと永遠の真理として結びついていることが理解できるだけでも、なるほど素晴らしいことなのではないか。少なくとも僕自身、素数という数字の魅力というものが、なんとなく伝わって感動的だった。漠然とラッキーセブンだとか数字が揃ったりすることで喜んでいた次元から、その数の持つ自然の力のようなものを理解できるという事自体が、人間が生きて行くうえで喜びに繋がる事だったなんて、何とも不思議なことである。嘘だと思ったら手に取って読んでもらうだけで、即理解可能だろう。まったく偉大な本というのは、ギャグと連動して偉いのである。得するので特に買うべき本だろう。
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においトラブル

2018-02-14 | culture

 においトラブルというのがあるらしい。体臭を気にすることも指すし、柔軟剤や芳香剤などの科学的な匂いに拒絶反応を示すような人も多いという(それで日常生活に支障をきたすような人も)。接客で体臭の指導をする企業もあるらしい。
 都市部は人が多いので、密集しやすいとか、一定の場所とも関係があるのかもしれない。電車やエレベータなど、人が近づきすぎなければならない場面も多いだろう。体臭だけとは限らないが、化粧などいろいろな匂いが混ざって、むせるような体験をした人も多いことだろう。これが逆に他人への配慮を必要とするのではないか、という不安にもつながるのかもしれない。
 日本には、特に匂いなどを取る商品なども多数売られている。宣伝だからマナーめいた脅迫のような表現も見られるように感じる。注意喚起されて、改めて気になる人もいるのではないか。それというのも、諸外国では、ここまで気にしているとは考えにくいからだ。
 でもまあ柔道の抑え込みなんかを見ていると、気の毒になる場合も無いではない。まあ、とりあえず頑張っているし仕方ないけど。
 僕もまあ発生源の方だとは思うが、そこまでは気にしてない。ひとと会う約束があってもニンニク料理を食べることに躊躇は無い。迷惑かも知れないが、距離というのはあるし、それになんといっても、ひとよりニンニクとの付き合いの方が、歴史もあるし今後のつきあいも長くなるだろう。まったく、ごめんなさい。
 また、クサいと言われたところで、とりあえずはその場はどうしようもない。ああ、そうなのかすいません、以外に何ができるというのか。一種の開き直りだが、家に帰ってシャワーを浴び直すわけにもいかないだろう。あまりにも強烈過ぎるのは確かに事前に考えるべきなのかもしれないが、取り返しがつかないものを考えても仕方ないようにも思う。気にする人は、だからその前に気にしているという事なんだろうけど。
 嫌われるかもしれないという恐怖感は、ムラ社会と関係があるかもしれない。今後も関係を続けなければならない相手と、出来る限りトラブルを避けるという考えもあるんだろう。それは分かるが、クサいときもあってそうでない時もあるというは、その人のあってもいいことのようにも思う。まあ、毎回注意されたら考えるかもしれないが。
 しかしもう元には戻らない感覚が、世間では、すでに定着しているのかもしれない。それを知らないは僕のみという事に、ひょっとしたらなっているのだろうか。
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