カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

オエッとするが、楽しめる   嘆きのピエタ

2021-08-31 | 映画

嘆きのピエタ/キム・キドク監督

 よせばいいのにまたキドク監督作品を観てしまう。正直言って中毒性があるのである。なぜが高齢の母も興味をもって観ていたようだが、意味は分かってはいないようだった。
 高率の金貸しの借金取りをしているチンピラがいる。この男はたいへんに非情な取り立てをするようで、返せないとみると、手を切断させたり、飛び降りさせて足を悪くさせたりして、その障害を負ったことによる保険金で返済させるのである。映画はそういう残酷場面が続く。そういう中、男の母だと名乗る謎の女が現れる。当然男は最初信用せず、殴るなどした後は無視しているが、女はしつこく付きまとう。本当に母ならこれを食えといって自分の体の一部を切り取って与えたり、レイプしたりする。しかしそれでもまとわりつくので、これは本当に母親かもしれないと思い、今まで心の安らぎを覚えることのなかった男は、この女を母だとして慕うようになるのだったが……。
 とにかくキドク作品なのである。感情を逆なでする場面が続く。気持ち悪いし、嫌な感じだ。こんなことをする人たちなんて、悪魔ではないかとさえ思われる。キドク監督は、マゾとサドが混然一体となって悪意のかたまりみたいになっているのではないか。そういうものを見せられて、観るものを苦しめる。たぶんそれを楽しんでいるのだ。それがわかっていながら、観ることをやめることができない。どうなるか、気になるのである。
 キドク監督は、とにかく自国の韓国人からは嫌われている。だから韓国で映画を撮りながら、韓国の企業のスポンサーさえつかない。この映画は自主製作で、基本的にスタッフや俳優たちは撮影時には無報酬で、映画が売れたら出来高払いでギャラが支払われるシステムだったという。そうしてこの映画は、韓国映画としては初となるヴェネツィア国際映画賞の金獅子賞を受賞する。ますます国民感情を逆なでしたことだろう。
 この映画が素晴らしいとしたら、逆なでされる感情を、いったいどう整理したらいいか考えさせられるところかもしれない。キドク監督は元々画家だというから、本当には芸術作品を撮りたいのかもしれない。特にラストシーンなどは、これほど残酷ながら、それなりに美しいとはいえる。吐き気がするだけのことである。映像の撮り方も素人臭いのだが、やはり非凡である。後の作品は、海外スポンサーがつくようになって、本当に映像がきれいになっていくのだが、それもこれもこの映画が非常に評価されたからだろう。ひどい映画だが、非凡なのだ。そうして確かに中毒を起こすほどに魅力的だ。結局悪態をつきながら、キム監督にやられっぱなしなのである。
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二人のミニマニズム

2021-08-30 | 音楽

 ジャクソン・ブラウンが新譜を出している。曲がかかると、ジャクソン・ブラウンが歌う前からジャクソン・ブラウンであることがわかる。なんというか古臭い雰囲気。しかしちょっとゴージャスでタイミングがいい。要するに僕らが青春時代を過ごした80年代の青臭いままだ。歌詞もまだまだ青臭いんだそうで、かれももう70歳を超えているはずで、やっぱり老人というのは、青臭いことを言い続けることくらいしかできないのかもしれない。もちろんこれは誉め言葉で、そういうことを信じて生きてきたんだろうから、それでいいのである。僕らはもうまっすぐ歩けなくて、別の道に行っているだけのことだ。
 僕はあんまり彼のファンとは言えなかったはずだが、何しろヒットソングが多いので、検索してみたら結構曲を知っている。あの頃はあちこちで曲が流れていたし、プリテンダーはひょっとするとレコードかCDは持っていたかもしれない。いや、確かにこれは繰り返し聞いた覚えがある。なんだ、それなりに好きだったんじゃないか。恥ずかしくてそれを人に言えなかっただけのことだろう。何しろ僕はロック少年であって、こんな軟弱なロックを聴いていると思われたくなかった。そうしてこういう曲の流れる青春映画も好きじゃなかった。でも今見ると、結構面白いので、観るべきだったかもしれないけど。そうしたら、もっとジャクソン・ブラウンも聴けたことだろう。
 それにしても、これは一種のミニマニズムではある気がする。音数はそんなに多くなくて、ギターも鳴っているが、いつもではない。もっと弾いてもいいくらいだけど、印象的なくらい出てきて、ピタっと止まる感じ。でも、それしかフレーズがないような気もする。歌だってメロディアスであるとは思うけど、しつこくない。声は若々しいままで凄いけど、でもぜんぜん頑張ってない感じである。
 そういえばプリンスも新譜を出している。これは10年も前にアルバムは作っていて、時代に合わないか何か考えがあって、発表を控えたのだという。いわゆるアルバム一枚お蔵入りさせていた訳で、ちょっと考えられない。でも聴いてみるとこれが、やはりミニマニズムなんである。何か足りないわけではない。ものすごく凝っているくせに、音を少なくしている。でもゴージャスで重厚だ。スライ&ロビーのようなソウルフルな系統も受け継ぎながら、しかしプリンスでしかありえない。
 そういうものが並んで現代で同時期に発表される。なんだか本当に不思議な感じがするのだが、でも同時にまた、当然のような気もする。長く生きていると、いろんなことがあるもんだ。
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ヤクザの真の才能   ブロードウェイと銃弾

2021-08-29 | 映画

ブロードウェイと銃弾/ウディ・アレン監督

 新進脚本家に新たな仕事の依頼が来る。ただし、マフィアの情婦を配役して使うことが条件である。この女優(まあ、飲み屋のダンサーですね)が大根の上に文句が多くて使えない。しかしマフィアの資本も大切だし、実は自分も未熟で他の役者たちだって上手く使えていない。マフィアのボスは情婦の護衛に殺し屋を付けている。この殺し屋が、実に人間観察に優れた男で、脚本の合理性や色付けについて的確な意見を言う。確かにそうかと言われたように修正すると、みるみる劇の方が活き活きとしていくのだった。
 たわいないといえば、そんな感じのコメディなのだが、そこは何と言ってもウディ・アレン作品である。膨大なおしゃべりとそれなりの群像劇が、馬鹿げているけど、しかし確かに笑える。そうしてブロードウェイの舞台裏を見事に表現していて、それ自体の皮肉も効いている。おそらく何かの事実を拝借して取り交ぜているのだろうと想像させられる。これは当事者たちだって、冷や冷やしながら笑い転げたことだろう。アレン自身だって、映画を撮るためには資本が必要だ。様々な制約がありながら、作品作りをしているに違いない。そういう意味では自分への皮肉もあるはずで、そういうことも想像しながら見ると、重層的に変な笑いを楽しめるのではあるまいか。
 この作品はアカデミーの様々な賞を取った上に、実際にブロードウェイでも上演されるようになったそうだ。こういう笑いというのは、猥雑さや下品さもありながら、いかにもニューヨーク、といった趣がある。なんとなく都会的なのである。これを日本でやると、嘘っぽくなって笑えないんだよな。どうしてだろう。だから実際真似をして失敗している作品がごまんとある。演出家として、こういう作品を作りたくなる衝動は分からないではないが、やめておいた方がいいだろう。
 ともあれ、今となってはウディ・アレンの新作はもう望むことができなくなった。旧作がたくさんあるとはいえ、時代というのは恐ろしいものである。
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勝ち誇った友人が意地悪をする話、かも   みずうみ

2021-08-28 | 読書

みずうみ/シュトルム著(岩波文庫)

 他4篇を収める短編集。140頁余りの薄い本である。著者のシュトルムは1811年生まれで、ドイツのあるまちの弁護士だったり知事だったりした人らしい。それでこれも名作として残った作品なんだろう。
 まず表題作のみずうみだが、幼馴染の関係で年下の女の子との子供時代のささやかなやり取りの描写から始まり、主人公は学生になって遠くの町に離れてしまう。時折故郷に帰ってくる折にもエリーザベトと再会し、幼友達から恋へと二人の仲は静かに変貌している様子が見て取れる。もう一つ越えて告白に至る直前にまで至るけれど、それは学生生活に戻る直近のことで、結局その後手紙のやり取りもしないのだった(これは何故なのかわからない)。そうして月日は流れ、家からの手紙でエリーザベトは地元の親友と結婚したらしいことを知る。さらに月日は流れて、ある時帰省して親友のみずうみの側の家を訪れ、エリーザベトと再会する。
 一定の格式のある文章で、後に老人の回想であることがわかるが、読んでいて僕にはちょっと意味がよく分からないのだった。しばらくしてこの意地の悪いような叶わぬ恋だったものが、主人公の、そして叶わぬ恋の相手の、青春のすべてだったのだ、ということが分かったが。そういう叶わぬ関係だったからこそ、美しくも永遠のものだったかのようだ。
 他の作品も似たような回想ものがあり、時代を超えての恋の思いというのは、改めて強いのだということがわかる。それも年を取った人間だからこそ、そういう思いを強くするということかもしれない。当時の強い思いがありながら、その当事者は、やはりその状況がよく分からないものなのかもしれない。
 なんでこの本を買ったのかさえ記憶にないが、手に取ったら短いので読んでしまったという感じかもしれない。昔の文だし、翻訳だから、なんとなく格式は高いが状況がよく分からない。詩などが途中に入ったりして、まじめなのかふざけているのかよく分からない。そういうのが昔の良いところだけど。でもまあ、なるほど妙なエピソードは考えてみると真実かもしれないという気もする。小説は作り物だけど、時折事実より真実めいたことが起こってしまう。そうしてそういう話が、時を超えて残るということなのだろう。
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街中の今のファッションを伝える使命   ビル・カニンガム&ニューヨーク

2021-08-27 | ドキュメンタリ

ビル・カニンガム&ニューヨーク/リチャード・プレス監督

 ドキュメンタリー映画。ニューヨークの街角で、道行く人(主に女性)にカメラを向けて撮りまくるスラリとした身なりの老人がいる。手当たり次第に写真を撮っているのかというと、さにあらず、街中でひときわキマッている着こなしをしている人を探して撮影しているのだ。主にニューヨークタイムズ紙でファッションコラムを担当しているビルは、街中を闊歩するおしゃれな人々を、もう50年以上にわたって撮り続けている。街中を自転車で駆け抜けて、急に被写体にカメラを向けバチバチ写真を撮るので、知らない人は面食らってしまう。ニューヨークでは有名なようで、彼の写真に収められたことを誇りにしている人々がたくさんいる一方(ファッションセンスが注目された証拠である)、なんだかよく分からない爺さんに勝手に写真を撮られ怒る観光客もいる。
 ビルは、単に街中だけに出没するわけではない。ありとあらゆるパーティ会場に足を運び、そこに着飾って出席する人々も写真に収める。ニューヨークの街は眠らないという。神出鬼没に現れては着飾った人々を写真に収め、新聞や雑誌のコラムや今やネット配信でのファッション紹介など、さまざまなメディアを使って、まさに「今」面白いと思われるすべてのものを紹介しつくそうとする。
 ビルは私生活も変わっている、というか謎が多い。カーネギーホールにある小さな部屋に、今まで撮り貯めた膨大なネガフィルムの詰まったキャビネットを積んだ部屋に、ちょっとだけベッドを置いて寝泊まりしている。トイレ・シャワーは別室。キッチンすらない。自転車は階段横の掃除用具入れのようなところにしまう。徹底したミニマム生活で、クローゼットも何も無い。何しろカーネギーホールに住んでいるのは、もう一人の伝説の芸術家の女性と二人だけ。そもそも人が住むように設計された部屋ですらなく、スタジオやダンスホールや事務所などをしつらえた場所の一部に間借りして、いつの間にか住んでしまった結果のようだ。あまりに古い住人なので、仕方なくそのままになっている、というのが現状なのだろう。
 実はビルは、ニューヨークだけで生活しているわけではない。パリのファッションショーがある時期は、パリに入りびたりになり、ショーの写真を撮りまくる。最新の服のデザインに敏感で、ショーで過去のパクリのような服が紹介されると,即座に昔の証拠写真と並べて紹介してしまう。まさにファッションの生き字引のような人でもあるのだ。そこでの面白い最新のデザインというものを目に焼き付け、そうしてニューヨークで、それらの服を着こなそうとしている一般の人々をさらに撮っていくのだ。
 彼は若い頃に徴兵もされているし、仕事をしていた出版社が買収されたりなど仕事の土壌を変えざるをえなかったり、さまざまな体験をしてきたことは間違いなさそうだ。しかしながら一貫しているのは、ほとんど毎日街に出て写真を撮り、そうして街で起こっている現象を写真を並べて視覚化し、夜遅くまで編集作業に明け暮れ、そうしてまた写真を撮りに自転車をこいで出かけていくのだ。そういうことを、もう50年以上し続けているのだという。それはビルにとっては楽しくて仕方なくて、恋愛する暇すらなかったというのだった。
 記録によると、86歳で脳卒中で亡くなったようだ。少なくともその前までは、街に出て写真は撮り続けていたようだ。ニューヨーカーというのは、まさにこのような人を言う、ということかもしれない。ファニーだけど、愛される人だったようだ。
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バナナのたたき売りが無くなった訳

2021-08-26 | 

 バナナのたたき売りといえば、啖呵買の代名詞のように言われる。寅さんなんかでおなじみの、などと前振りがついて紹介されたりしている。実際に寅さんはあんまりバナナを相手にしているようではなかったが、啖呵買という情景を思い浮かべるのに都合がいいのだろう。寅次郎といえば実際に売っているものは、手相の本とか怪しいおもちゃの類で、生ものは得意じゃなさそうだった。しかしながら寅さんのお友達のような人たちは、バナナを売っていたかもしれない。
 そのようなバナナのたたき売りの発祥の地が何処なのかは正確に知らないが、門司港にもバナナがたくさん輸入されていた関係で、あの辺りはいまだに観光客相手に啖呵買というのをやっているのを見たことがある。1000円くらいから始まって、だんだん値が下がっていく。半分以下くらいになって、本当の客だかサクラだか知らないが、そういう人が買っていた。もちろんアトラクションだから、そういう掛け合い自体が催しになっている様子である。門司港には、当時たくさんのバナナが輸入されたが、輸送の途中で熟したり傷んだものを、そのようにたたき売りしたものだといわれる。
 もちろんバナナがそのようにたたき売りにされるのは、安く売らなければ腐ってしまってもったいないからだ。バナナは輸入品だから、持ってくる間にすでに時間が経過している。日本に輸出されるバナナは、最初は青く熟していないものだったらしいが、そういう時間の経過を計算して、そういうものを選んでいるのだろう。しかし船の中の温度や、仕入れる環境の問題から、早く熟すものがあるのかもしれない。もともと台湾からのバナナは高価なものだということは庶民は知っている。そういう高価な品が安くで売られることに、興味と喜びを見出したものだと考えていいだろう。
 しかしながら実際は、門司港以外の場所でも、バナナの啖呵買は結構見られる光景だったという。バナナは元々南米のもので、台湾のバナナが不作だったりすると、一時期エクアドル産などが日本を席巻した。南米ではそもそもバナナが盛んに作られているようで、主食として食べる人々もいるという。ビールにして飲んだりもするらしい。文化的に古くからある食べ物で、暑いところだと一年中収穫できる。できたものから順々に収穫して食べたらいいので、保管しておく必要さえなかったのかもしれない。
 そういう高価で、なかなか手が出ないたべものだったが、その後日本へ輸出されるバナナは、ほとんどフィリピン産となる。これは日本の農家や現地のミンダナオ島の宗教の関係なんかもあって、自分たちでは食べないバナナを、南米より日本に近くて、そうして熱帯である地域という地の利を生かして、盛んに栽培されるようになったからである。そういう訳で、高価で手が出なかったバナナは、比較的安価になり、安定的に日本に入るようになった。しかしながら当時の日本には日本の事情があって、冬になると他の果実が豊富に手に入るようになる(リンゴやミカンなど)。実際にはバナナは年中作られているにもかかわらず、日本人が買わなくなってしまうわけだ。そうすると売れなくなってもったいないので、秋が過ぎていくにつれ、バナナはたたき売られるようになったのだという。
 今は年中バナナは食べられるようになり、それでたたき売り自体もなくなってしまったというわけだ。それに日本人も贅沢になったのだろう。多少悪くなったって食べられるバナナであっても、見向きもしなくなったということではないか。

 僕は中国の福建省の泉州というところに留学していたことがある。そこは対岸に台湾を望むようなところで、熱帯的な気候であったようだ(でも冬はちゃんと寒かったけど)。それで露店でよくバナナが売られていた。僕らのような日本人がまず驚くのは、それらのバナナは日本のものよりやや小ぶりで、そうしてまだ青いというか緑色をしているのだ。バナナの房もなんだか巨大で、まだ枝ぶりまでしっかり見て取れる。そういうのを適当な大きさの房で切って売ってくれるようだ。
 さっそく買って食べてみると、これがたいへんに瑞々しい。味はバナナには違いないが、ジューシーな果物としてのバナナなのだ。僕らが日本で食べていたバナナは、多少乾燥したバナナだったのだな、と思った。水分が滴るような果物では確かにないが、まだ香り立つような肉感というか、ぷりぷりするような弾力が感じられる。これを炒めたり煮たりしても食べるのだという話だったが、まあ、一般的には彼らもおやつとして食べていたのではないか。アジアでは、やっぱりバナナは主食ではない感じだった。でも、やっぱり日本よりは、果物としては力強いものだった。
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どんよりと嫌な感じ   淵に立つ

2021-08-25 | 映画

淵に立つ/深田晃司監督

 小さな町工場で働く男とその家族のところへ、男の昔の友人が突然転がり込んでくる。転がり込んできた男は、殺人を犯した前科者らしい。しかし礼儀正しく娘のオルガンを教えてくれるなど、徐々に家族には馴染んでいく。むしろ家族を支える夫には後ろめたい過去があり、居候の男には何も言えないままなのだった。そういう中、居候の男と妻は、ひかれあうようになっていくのだったが……。
 あえて明かさないが、ここからお話は大きく反転し、その傷を抱えたまま月日は流れて、事実上第二部に突入する。ここでもまた、新たに雇う若い男の秘密が、家族を苦しめることになる。小さな罪の代償が、抱えきれない重荷となって、個人個人を苦しめていく。そうして原因となった過去の男の消息が、漏れ伝わってくることになる。
 説明は少ないが、小さな歯車の行き違いのようなことから、大きな暴力に巻き込まれてしまう。お互い過去に抱えてしまった躓きが大きくなりすぎて、現在の精神がむしばまれていく。それは償い難い過ちになっており、徐々に積み上がるようにして、生活に影を落としている。時折激しい怒りとして表面に出てくるが、それに畳みかけるようにして過去の亡霊が、さらに家族を襲うのである。
 絶望に絶望が覆うようにして物語が進んでいく。こんな夫のどこがいいのかよく分からないが、一応家族で、しかも自分のことも許せない。そういう感じの妻の行き所のなさも、どうにもあらわしがたい絶望感だ。結果的にカタルシスもないのだが、映画的にはどうなんだろうか。娯楽作ではないが、一定の成功を収めている作品である。まったくいい気分になれないまでも、そういう映画なんだから仕方ないのである。個性的な役者が個性的な違和感を、嫌な感じを抱えたまま演じている。そうして嫌な予感はおそらく的中するが、そうなるよりしょうがないじゃないか。後悔するのを了解済みで、観ることを勧めるよりない作品である。
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僕ならどうする、回答編(人生相談)

2021-08-24 | 雑記

 菅首相が朝新聞の人生相談を読んでから、回答者の文を読まずに散歩に出かけるのだという。自分だったらどう答えるのか、考えながら散歩するのだ。そうして帰ってきて回答者の文を読み、いわば答え合わせではないが、自分と比べてみて考える、ということを日課にしておられるのだという。
 これは以前にも書いたことだが、そうはいっても僕はこの人生相談のようなものについて、どうにも納得がいっていないというか、いまだによく分かっていない。人には相談したいことがあるというのは分かるが、新聞や雑誌に載っている人生相談というのは、なんだかへんちくりんなものが多いし、その回答も、ちょっと納得のいかないものが多い。そんなことが続いて、いつの間にか全く読まなくなっていたのだったが、先に菅総理の逸話を読んで、それ以来、なんとなくつらつら人生相談を、気が向いたら読むようになっている。菅さんのように散歩中考えるなんてことはしないのだが、ふと思い出して考えてみないこともない。相変わらず妙な質問もあるし、妙な回答がある。時々なるほど、という回答もあるんだけど、そういうのはたいてい、そんなこと気にしなさんな、ということの亜流で、回答者がやる気のないときである。よくもまあそんな人が相談事に応じるものであるな、といつもあきれているのだが、それが読み物として面白いということであろう。
 ところで先日、やはりある女性の相談を読んでおり、結婚して何年かにはなるが、夫には隠し事などがあり、自分でこしらえた借金などもあるという。そういう隠し事をする上に、自分が仕事などで遅く帰ってくると、自分だけ弁当を食べて済ませているのだという。これはもう合わなくなっていることかもしれず、離婚した方がいいでしょうか? という感じだった。回答者は、お互い隠し事がある方が自然で、お互いの価値観の違いを認め合いましょう(大意)といった感じだった。
 僕の感じた自然な感想を言うと、やはり回答者は的外れなのではないかと思う。お弁当を先に食べて済ませている夫の姿を想像するに、妻の絶望の深さのような、あきらめのようなものが見て取れる。僕は男でもあるし自宅で料理はしないから思うけれど、弁当を食べて済ませていることもやろうと思えばする可能性さえあるけれど、だからと言って、遅く帰ってきた妻の分の弁当も買わずに、一人で食べてしまうことには、激しく後ろめたさを感じるに違いない。本当の詳しい状況は分かりえないけれど、おそらくそういう後ろめたさもないように見える夫について、嫌な感じを、取り返しのつきそうにない感じを、妻は抱いているのではないか。何でもすぐに別れてしまえばいいとは言えないまでも、これは何か深く修正しがたいメタファーが感じられないだろうか。
 そういう訳で、僕が回答するならば、別れる潮時のようですね、確かに。としか言いようがないではないか。要するに僕には人生相談は、やっぱり無理そうだ。でもまあ、面白そうなので、いくつか挑戦してもいいかもしれない。ブログなんだし。
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武士の仕事はまじめにやろう   武士と献立

2021-08-23 | 映画

武士と献立/朝原雄三監督

 藩の台所を任されている武士のことを包丁侍と呼んでいた。一種の揶揄もありながら、藩の威信のためには他藩などを招いた宴会料理などは大変に重要なものだった。しかしながら武士は今でいう戦闘を主とした武人である。そういう内なる葛藤を持った男のところに嫁いだ料理の才能のある年上の女の苦悩の生活と、そういう時代背景の複雑な加賀藩の歴史的な史実に基づいて描かれているドラマである。
 外様大名である加賀藩においては、武士たちには何かくすぶったものがあった。特に幕末の加賀藩には藩の在り方そのものに反発を覚える勢力があった。この主人公の女の嫁ぎ先の夫も、武人としての腕の立つ若者でもあり、反勢力の気概を持つ武士であった。台所を守る仕事をどちらかというと下に見ており、仕事に身が入っていない。そういうところから、妻は叩き直して出世させなければならないのである。そうして武人の夫の意に背く、大きな行動にも出るのだった。
 その当時の価値観であり、時代に翻弄される個人の人生である。今では考えられないほどの制約がありながら、なんとか努力して地位を勝ち取らなければ豊かな生活はあり得ない。そうではあるが身分や地位も、固定されたものも残っている。そうしておそらく、恋の運命もあったはずなのだろう。そういう中で、なかなかに上手く仕込んだドラマになっているとも感じられた。幕末の加賀藩の事情もくみながら、一定のリアリティを保ち、男女の機微を描いている。もっともその当時のことは厳密に現代の価値観に置き換えることは難しそうだけれど、大河ドラマのような極端なデフォルメではないことはありそうで、残酷ながら運命が動かされる中で、そのうえでの命の別のかけ方があるという見方を示している。人間の幸福は生き残ったことがすべての結果ではないけれど、それでも何か、女の賢さのようなものがわかるのではなかろうか。ふつうはアイドルとしての存在であるはずの上戸彩の演技も、いいと思った。そんなに期待して観ていなかったせいだろうか、却って面白く観ることができたのだった。
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youtubeってホントに見てる?

2021-08-22 | net & 社会
 ユーチューバーっていまだによく分かんないし、あんまり観てない。ヒカキン(だっけ?)は知ってるけど、それも最近は知らない。まだ頑張ってるんだろうか。
  音楽で見ることもあるけど、ほんの一時見ていると、まあきりがないので見なくなる。そうして離れてみると、しばらく近づく接点がない。やっぱりテレビの方が気楽で、そうして録画があるんで、そっちに熱中する。モニターとしてのテレビの威力は大きくて、映画にしろドキュメンタリーにしろスポーツにしろ、その臨場感や迫力は段違いだ。パソコンやスマホ画面でユーチューブを見るにしても、それはあくまで補完的なものに過ぎない。 
 と思ってたんだけど。やっぱりテレビは老人しか見てないメディアなんだそうだ。若い人でテレビ見ているのなんて、実際は少数派なんだそうだ。そういう統計資料を見た覚えはないにせよ、そうなんだからそうなのだそうだ。まあこれはネットでの記事にそう書いてあった。だからテレビ輿論というのがあって、それはかなり高齢者フレンドリーなんだそうだ。若者でテレビ的な意見を言う人がいるような気もするんだが、特にそれは何でも政争がらみに物事をとらえるやり方のように感じていたが、実際のところ若者ぶった年寄りなんだろう。よく分からんが。 
 でもまあネットの輿論的なもので感じるのは、テレビよりはるかに多様で、偏りもひどい代わりに、網羅的で標準かもしれない。ネットを見る個人には、好みによるバイアスがかかるものの、やはりテレビでは絶対に見ることのできない落ち着いた意見があるのは間違いない。記録が残るので発言を控えている人がいる一方で、それでも自由にものをいう文化もちゃんとある。テレビではすでに選別が済んでいるポジショントークの人しかいないので、そういう文化しか知らない人には、出会えることのない人々なのかもしれない。僕としてはだいぶ助かってもいる感じも確かにある。何しろ無理に偏らないのでイライラしない。 
 そういう感じでありながら、でもまあ日頃はテレビや新聞メディアでニュースは拾う。これは僕が老人性の習慣があるためで、なかなか変えることができない。だから結構いつも不機嫌で、画面に向かって悪態をついたり、記事を読んで怒鳴ってみたりしている。彼らは本当に馬鹿ではないのか、といつも考えている。彼らの意見ばかり聞いていると、世の中左の人しかいなくなってしまう。そういう態度としての僕はバカそのものだが、馬鹿に付き合っているのでそうなってしまうのだろう。 
 でもかみさんはほとんどユーチューブを見てるらしい。やっぱり若者文化に染まっているのかな、というと必ずしもそういうことでなく、それはいつも母と僕がテレビを占有しているためであるという。本当にお気の毒である。 
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極めて漫画的な実写映画   ザ・ファブル

2021-08-21 | 映画

ザ・ファブル/江口カン監督

 原作漫画があるらしい。また新作(第二作)が今年公開もされている。
 凄腕の殺し屋が、一年間誰も殺してはいけないと師匠に条件づけられている。そうして一般人の生活をおくる為に大阪におもむくのだが、そこはやくざの組織がしのぎを削っている世界でもあるのだった。バイト先の女の子がやくざの罠にはめられるのを助けるために、命を懸けて救出することになるのだったが……。
 設定も流れも動きも漫画的なのだが、そうしたものを実写化しても、主演の岡田准一が一定の緩急のある演技をしていて、笑わせながらいい動きを見せている。さすがに大乱闘になっても銃を乱射しながら人を殺さないという設定は無理がありすぎるが、そういうことにしないと強すぎるので、ハンデが必要なのだろう。しかし師匠は好き勝手に人を殺すわけで、一貫性がない。やくざの社会の仁義も、なんとなく筋が通っていない。要するに物語はちぐはぐなんだが、漫画だからいいのかもしれない。そうして実際ふざけているが、結構笑える。大爆笑という感じではなく、痛いけど笑ってしまうという感じだろうか。つまりこれは、娯楽映画として成功しているのである。
 それにしてもすぐ死ぬ人と、銃で撃たれても素早い動きで当たらない人がいる。その落差が激しすぎて、ちょっとどう考えていいのかわからない。結局最初からどのように頑張っても報われない人と、たいして何もしなくても生きていられる人がいるような感じかもしれない。ヒロインの女の子もかわいいのはかわいいが、なんとなく地味だ。そういうところはあるんだけど、いろんなキャラクターにそれぞれ個性的なところがあって、そういう小話のようなエピソードの積み上げで、ぐいぐい話が引っ張られていくようなところがある。ちょっとだけ出てたけど、妙に印象に残っている人もいて、そういうところが漫画のキャラクターの作り方のうまいところなのかもしれない。実写だけど、それを忠実に演出化しているものと考えられる。いや、漫画は知らないのだけど。
 映画としてどうこういう作品ではないが、そういう意味で楽しめるので、続編も撮られたということだろう。テレビドラマのほうが向くようにも思うけれど、どうなんだろうか。
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夏が戻ってきても歩く

2021-08-20 | 散歩

 盆にこんなに雨が降ったことなんて記憶にない。それはおそらく、僕の頼りない記憶の所為だけではないだろう。記憶だけでなく、記録にも残っていないはずだからだ。
 僕自身は、必ずしも雨が嫌いではないのだけれど、ずっと降ってもらっては、やはり困ることになる。日課のようにしている散歩ができないからだ。今年はずっと暑い日が続いて、そうしてそれを言い訳にして、目標にしている歩数に届かない日が増えていた。そういう日が続くと、万歩計の記録は残るので、何かとても残念な気分になった。そうして達成できない歩数というのは蓄積されていき、その月の目標とする歩数から、かけ離れていくのだった。足りない歩数のはずなのに、それが増えることは、何か借金の額が増えるような錯覚を起こした。そういうものは、心の片隅にだんだんと積み上がっていって、そうして僕自身を脅迫するのだ。そのまま返さないつもりか? それでお前は平気なのか?
 もちろん気の弱い僕は、そういうことが平気ではない。実際にしている借金のことは、日常では忘れているくせに、歩いていない歩数の積み上がりは、気にかかるものである。
 雨は続いていたが、時折止んでいることはある。そういう空具合を見計らって、少しでも歩こうとした。そうするとまたパラパラと雨粒が落ちてきて、慌てて元の道を帰ったりした。
 何にもやることのない日曜に、ふと雨が止んでいる。これはチャンスだと思って、まとめ歩きを断行した。それも午前も午後も。3時間くらいは合計で歩くことができた。散歩以外にもいくらかは歩くので、久しぶりに2万歩を超える歩数が稼げた。それでも全部の借金は返し終えていなかったのだが、少し見通しが明るく感じられた。まだ残りの日数から考えて、この月には見込みがある。一日に借金を増やさない頑張りはもちろん維持して、そうしてできることならば、プラス千歩でいいから超過できれば、この月はクリアができるだろう。
 読んでいる本のあとがきに、著者のコロナ禍の心労のようなことが書いてあった。親しい人とも会うこともかなわないし、研究に必要な文献を見るための図書館の制限などもあったという。そういうつらい条件の中にあって、なんとか書き上げられたということだろう。そうしてこういう時には散歩しかないといわれて、ひたすら散歩に励んだのだという。わかるよ分かるよ、まさにそんな気持ちの時、ひたすら歩くという感じはよく分かる。散歩は気分転換というよりも、何か瞑想のような心の平穏を保つような作用があるはずなのだ。それも気分よく歩くのではなく、何か励むように歩いているような場合においても、それがそれだけの目的化したとしても、自分を助けてくれるのである。でもそれだけでは何か自分を維持できなくて、例えば万歩計のような、目標の後押しがなければ自分を動かせない。人のモチベーションというものは、なかなか難しいのである。
 そうしてやっと長い雨が明けたような気がする。ああ、やっぱり心はなんとなく晴れやかになるのだな。そうして外に出てみて、あっと思った。暑いのである。青空に入道雲がぐんぐん育つように伸びていく。それは真夏のそれで、暑いのである。
 長時間歩くのは無理だ。時計を見て時間を刻んで歩くよりないと、来た道を帰っていくと、クラクションが鳴って横にするすると軽トラックが止まった。ご近所の農家のおじいさんで、僕を見かけて声を掛けたのだ。そうしてそのまま通り過ぎるのではなく、車から降りて話をし出した。僕はもう一度時計を見て、「帰らなければ……」と言ったのだけれど、「ああそれはヨカ」と言って、また話をするのだった。田舎で自由に歩くというのは、それなりにむつかしいことなのであった。
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包み隠さず自国を語ろう   国家が破産する日

2021-08-19 | 映画

国家が破産する日/チェ・グクヒ監督

 1997年の韓国の国家破産危機のおりに、IMF(国際通貨基金)から資金援助を受けた経緯を社会派ドラマ化した作品。目覚ましい経済成長を遂げ、先進国の仲間入りを果たしたと考えられていた韓国において、実態としては旧態依然とした財閥などの独占的で非効率な生産性と過剰な投資による債務の超過状態にあり、それらを支える国家の財政赤字も深刻な状態にあったと考えられる。歴史的には国際支援を受ける以外に危機を脱することは難しかったと考えられているが、その内情で葛藤する人々にとっては、一筋縄では語れない苦悩があったことがドラマ化された形である。
 これを観て改めて感じたのは、やはりこのIMFの介入によって再建を果たした韓国の歴史というのは、韓国自身が自国の力で再建できなかったトラウマを残した事象だったということらしい。危機を迎えていることを国家はひた隠し、その裏で安易にIMFに支援を求めたがごとく描かれていて、さらに傷口を広げたという印象を残している。実際に過酷な条件を付けられたということは言えなくはないが、それほどすでに傷口は深かったと考えられているわけで、この支援後大きな痛みを超えて、韓国経済は復興したというのが事実だろう。逆張りをして大もうけした人や、国家を信じ抜いて自殺した人などが対照的に描かれていて、経済の問題はそもそも残酷なものだというのは言えることかもしれない。
 そういう認識にはどうかな、というのはあるが、映画として評価もそれなりに高かったので観ることにした経緯がある。しかしながら、そのような史実は、ちょっと漫画的に偏りすぎているきらいが強かった。知らなかった人にはそれでもいいということなのか知らないが、やはり自国を美化しすぎだろう。韓国は、今や小さな国ではないが、自分を大きく見せすぎているところもある。自国を正視することが可能になってこそ、本来的な先進国への仲間入りが果たせると思われる。まあしかし、アメリカだって中国だって似たり寄ったりなんで、韓国にだけ厳しく言っても仕方ないことではあるし、まったくそれは日本にも言えることでもあるわけで、お互いに悲しいというのが現実なのかもしれないが……。
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カレーはそもそもよく噛めない

2021-08-18 | 

 よく噛んで食べろ、というのはダイエット以外でもいう。いわゆる健康にいいということかもしれない。子供のころに牛乳であっても噛んで飲み込んだ方がいいと言われた。牛乳でお腹を壊すこともあるので、その防止策だったのだろうか? よく分からないが、なんとなく大人は浅はかである(合理的理由があったかもしれないが)。
 よく噛めと言われても、なんだかうまく噛めない食品というのはある。硬くて噛めないということではなく、その逆である。そうしてちゃんと食べているにもかかわらず、おそらくちゃんと噛んで食べていないと考えられている代表のような食べ物が……。
 というのがいわゆるカレーライスである。僕はちゃんと噛んで食べているという意識はあるが、そばにいる人からは噛んでいないと疑われている。カレーを愛好する人々の中には、カレーは飲み物だと称する人たちもいる。それは冗談として面白いということかもしれないが、ぼくの感覚からすると、いささか気持ちが悪い。カレーを飲んでいるイメージが、今一つしっくりこない。カレーはがっついてあっという間に食べるので早い訳だが、水液としてとして飲み込んでいくイメージだと、あんまりよくないのではないか。または、カレーは飲み物のように胃に入っていくもので、あたかも水分補給するように食べるのであるという意味があるのかもしれないが、やっぱりカレーは食事であって、できれば少しくらいはお腹いっぱいになりたい。少ないカレーというのは、カレー道においても決して王道ではないと僕は信じるものである。やっぱりガツガツ食べ進んでいって、結果的によく噛んでないからそんなに早く食べてしまうのだ、と怒られる食べ物なのだ。
 でもね、やっぱり味わいあるわけだし、ご飯とカレーのルーは溶け合い具合が絶妙なので、ガツガツの合間もするすると食道に流れ込んでいって消えてしまうのかもしれない。それは口の中から消えるだけのことであって、食べたという満足感は、しばらくテーブル周辺に漂っているものである。早く食べても余韻を楽しんでいるので、それだって十分食事中ではないか。早く食べたことを素早くとがめるべきではない、というのが結論ではあるまいか。
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汚名返上といわれる作品   その土曜日、7時58分

2021-08-17 | 映画

その土曜日、7時58分/シドニー・ルメット監督

 事情があって金に困る生活をしている弟に、不動産の売買などの関係で成功を収めている兄が、強盗話をもちかける。実際は不正会計の穴を埋めたい思惑もあるわけで、簡単なヤマを片づけてくれたら、万事うまくゆくはずだった。しかしながら気の弱い弟は、強盗の相棒にチンピラの知り合いに持ち掛けたところ、この男が一人で宝石店に乗り込んだ上に、返り討ちに撃たれて死んでしまう。実はこの宝石店は彼らの両親が営んでいる店で、強盗で被害を受けても保険でなんとかなる上に、彼らも宝石の売り先の目星はついており山分けして万事片付くはずだったのだ。
 金に困って強盗までしているのに、母親は撃たれて重体(のちに死ぬ)で、死んだ相棒の妻が弟を疑って脅しをかけてくるし、会計処理の不正がバレることが確実になってますますドラッグにおぼれる。どうすりゃいいんだ、この先は……、という感じである。
 兄の妻で弟の浮気相手にマリサ・トメイが出ていて、なかなかいい味を出している(大胆に脱いでるし)。彼女は「いとこのビニー」で大ヒット後長い間ふるわなかったが、この映画で復活し、さまざまな当たり役にも恵まれるようになってカンバックした。脇役だが、これは確かに使えると他の監督たちが思ったに違いないのである。
 兄のフィリップ・シーモア・ホフマンは、実にいやな感じを見事に演じているし、弟のイーサン・ホークも典型的なダメ男をこれもうまい具合に演じている。お父さん役のアルバート・フィニーもなかなか怖い熱演だ。監督さんは「12人の怒れる男」という栄光を背負った人で、その後もう駄目になったと思われたのだが、この映画で名誉挽回した(その後老衰で死去)。無茶苦茶いい出来栄えの映画というわけではないが、このような撮り方の映画は、その後ちょっとだけ流行った。
 ルメット監督は、なんと言っても「グロリア」という愚作を作ったせいで落ちぶれてしまった訳で、当時人気沸騰していたシャロン・ストーンの評判を貶めただけでなく、ジョン・カサベテス監督の同名作品のリメイクだった所為で、明確に比較して能力のなさをさらけ出してしまったというのが痛かった。これは何にもわかっちゃいない、と思われたのだ。しかしながら名匠だったわけだし、周りの人間はずいぶん戸惑ったことだろう。死ぬ前にわずかながらでも認められて、本当によかったのではなかろうか。
 それにしても、この邦題は何とかならなかったのか、とは思うけどね。
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