カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

長く子供でいられるために

2019-04-30 | Science & nature

 野生の動物界においては、出産後しばらくの子供時代は、天敵に狙われるなど、たいへんに危険な時期である。シカや牛などの哺乳動物においては、出産後数時間もしたら立ち上がって走り出すことができるという。敵から身を守るためには、まずは自分が逃げなければならない。弱い立場の者たちは、逆に最初からたくましいのである。
 一方で人間はどうなのかということだ。生まれてから数年間は、親の保護が無ければとても生きてはいけない。食料を取ることももちろん、身の回りのことのほとんどを、自分の力でやることはできない。このようなことから、人間という生物はなぜこのように未熟なのか、という疑問を持つ人も多いことだろう。
 もちろん諸説あるにはあるが、基本的に人間の幼少期に生きる力がないのは、脳の発達を優先しているためではないか、と考えられている。脳が様々な学習をするうえで、幼い好奇心があるままでいたほうが、都合のいいことがあるというのである。そもそも人間の脳は体のわりに大きな状態で生まれてくるわけだが、それでも発達の上では未熟な状態で生まれる。もっと発達した状態で生まれてしまうと、大きくなりすぎて母体がもたない。外に出られる最大の状態であっても、まだまだ未熟であるから、それからの発達がさらに続くものと考えれている。そうして子供の状態が長く続くことで、脳の発達はさらに伸びることになる。大人として成熟し固定されてしまう脳になる前に、十分に時間をかける必要があるようなのだ。
 人間になつく動物は、特に犬のような生き物は、大人になってもいつまでも子供の性質を残したままのように見える。実はこれはそのような性質をもった個体を選別して人間が飼ってきたために、犬の方で獲得したというか、いつまでも子供のまま成熟せずに大人になる個体になってしまったものである。いわば人間が作り出した動物なのである。人間にはこの子供っぽい性質に対して(男性であっても)母性的な本能が刺激されるようで、長く人間の子供を育てるために持っている本能的なものなのかもしれない。結果的に人間の特性として、ペットを飼うようなことをしてしまうのだろう。人間が生きていくというのは、子育てをすることを目的としたプログラムがあるに違いない。
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アイドルだって悩んで走っている   みんな好いとうと♪

2019-04-29 | 映画

みんな好いとうと♪/宝来忠昭監督

 博多で、ある喫茶店に入ると、なかなかの雰囲気の店であった。店主に話を聞くと、映画の撮影現場に使われもしたらしい。酔狂で、じゃあその映画を見てみようと思ったわけだ。
 博多を中心に活動しているアイドルグループがある。そこそこ人気もあるようだけれど、それでも稼ぎが足りないのか、解散を言い渡される。メンバーはショックを受けるが、やっぱり続けたいという思いがそれぞれに強く、マネージャーのような人間に何とかしてほしいと願い出る。そこで小分けにしたグループごとにミッションが出て、様々なイベントで成功を約束させられることになるのだが…。
 演出がどうこう言う前に、学芸会のような雰囲気の演技である。まあ、仕方ないな、という感じは流れるが、本当にそういう人たちがメンバーであるらしい。何人かの主流格は、様になってないことはないが、ほとんどはちょっとかわいい子が、地元の学校に通いながら放課後に活動している、という感じなのかもしれない。
 学校の学園祭でプロであるが勝手に出演を決めて、それがバレても成功を約束させられたりする。やる気になってビラ配りしたりストリートで踊ったりする。トラブルも起こるが、何か選挙運動を見ているような気もした。こんな風にして戦うものかもしれない。
 ラーメン屋の娘の父は、娘がセンターを張るようなタイプの娘ではないことは分かっているが、不憫でならない。だからラーメンのトッピングに高菜があるように、高菜を目指せという。そのトッピングの高菜だって大盛でラーメンに入れると、メインの具として高菜ラーメンになるだ、といって食べる。なるほど、そういうことはあるかもしれないね。
 アイドルはみているだけで楽しい、という人たちもいるのかもしれない。アイドルだって大変だということくらいは、背景を知らないでも安易にわかることだ。楽しいけれど大変という距離感が伝わったほうが、親しみがわいてよりファンとして楽しい、というのはあるんだろうか。僕にはわからないが、これだけたくさんの、さらに多数の女の子たちが集団になって踊っている世の中になって、結局需要の数だけ人数が必要になっているんじゃないかな、という気分になった。もちろんそれで全然いいんですけどね。
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日本人の心は、僕には分からなくていい

2019-04-28 | 境界線

 もう桜の季節も終わったので書いていいだろう。というか結構何度も書いているかもしれないが、僕は桜の花がそんなに好きではない。桜は日本人の美意識を表しているという話があるが、本当にそうなんだろうか。パッと咲いてパッと散るのなんて、あんまりいい風習ではないようにも思う。別段やくざな生き方をしなくてもいいし、そのように生きることを良しとする日本人というのは、日本人らしくない感じもする。猛烈に同じような花が咲いて周りを圧倒するというのは、米国や中国のような国ならいざ知らず、あんまり品が良いものではない。やっぱり極めて現代人的な感覚なのではなかろうか。まあ、そういうことで、現代の日本人も好きになったのかもしれないが。
 しかしながら、桜の季節に浮かれる日本人というのも、それはそれでいいのかもしれない。なんのきっかけがいいのかわからないが、花見という理由で人を誘ってよくて、なんとなく連携できるというのがいいのかもしれない。またフラッと桜の花見に出かけてみたくなるというのも、いいのかもしれない。この時期限定だから、まさに無理をしてでも合わせなければならない。シャイな人だって誘いやすいし、シャイな人だって提案しやすい。役割分担に偏りや負担のある場合もあるかもしれないが、妙に張り切って助けてくれる人もいたりするだろう。単にぶらついてもいいし、人が多いから苦労はしそうだが、そういうことでも思い出にはなるかもしれない。
 忘年会に新年会は、その塊に集団としての特性がありそうだけど、花見ならボーダーが極めてあいまいになる。昔の人は散らかしたりケンカしたりしていたけれど、今の若い人は分別のある人も多くなったし、外だとはいえ、だいぶ安全になっている。子供が騒いでもいいだろうし、場所さえ確保出来たら、それなりに干渉もされないでいいかもしれない。
 なるほど、そういう意味では日本人的なのか。いまさらながら、桜がいいからというより、そういう気分に日本人的なものがあるのかもしれない。多少僕が外れてしまう理由は、だからなのかもしれない。
 しかしもう季節は過ぎて、ふつうに家の中で酒を飲んでもいい。やっぱり夜に(僕は昼に酒を飲むのが好きではない。昼は酒ではなくて、別のことをしていたい)、このように落ち着いて屋根のあるところで酒を飲んだ方が、いいな。
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勘違いされて死んだ人も多いのだろう   リメンバー・ミー

2019-04-27 | 映画

リメンバー・ミー/リー・アンクリッチ監督

 ピクサーのアニメ映画。舞台はメキシコらしい。何故か音楽を禁止されている少年はギターの名手で、将来は音楽家になろうと思っている。ある古い写真を見たことがきっかけで、ひい爺ちゃんが伝説のギタリストなのではないかと考える。お墓に忍び込んで一緒に埋葬してあるギターを手にすると、死者の世界に迷い込んでしまったのだった。
 死者の世界は、太っている人も痩せている人もその輪郭のわかる骸骨姿の人ばかりになっている。メキシコも火葬するんだろうか。まあ、ある意味では分かりやすいが、実際に骸骨だと個体識別はむつかしくなるような気もする。アニメだから何とかなってしまうけど、筋肉が無くてどうやって骨格を動かせるんだろう。
 そういった設定以外は、基本的に死者の世界も生きている世界も、そんなに違う世の中ではなさそうだった。いわゆるファミリーヒストリーが、現実社会に及ぼしたものが謎解きになっていて面白い。それなりに意外だったし。アニメの躍動感と音楽の融合もよくできていて、なるほどメキシコも楽しいのだな、と思ったりした。まあ、日本とは違う偏見も多い国のようだけど、作ったのはアメリカだしな。そういうあたりはもう少し勉強しなければ分かりえないものがあるのかもしれない。
 またアニメと直接関係のない話なのだが、このような死者の国という設定であると、人間誰しも死ぬわけだから、例えば殺人事件で殺した人と殺された人がまた出会うというようなことが起こりうるわけで、何かとむつかしい問題もいろいろと蒸し返される危険というのが大きくなるのではなかろうか。死後は何らかのチャラになるようなものが無ければ、大変な混乱を招きそうである。
 というわけで、図らずもいろいろ考えてしまう設定である。映画の中で死者の日というのがあるが、あれは日本のお盆のようなものかもしれない。文化の違いこそあれ、人間似たような生死観を持っているものなのだろうな、と思いました。
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フェイク・ニュースは見抜けるか

2019-04-26 | culture

 トランプ大統領にとっては、自分に不都合なニュースのことはフェイク・ニュースということになるようだが、一般的に言ってフェイク・ニュースとは、事実とは異なることが、あたかも事実として報じられることを指しているはずである。いわゆる何か政治的というか、人為的な思惑を伴って、またはそのような思いを伴わなくとも、単に冗談として、そのような行為に及ぶ人というのは一定数いるのではあるまいか。特に英国のように(だけではないが)、エイプリルフールなどをやる習慣のあるような国だと、このようなことは、ある一定の許容があってなされる可能性がある。またそのようなものを好んでいる人が、さらに存在しているような気もするので、物事はかなり複雑なことになっているのではなかろうか。
 のちにフェイクと分かるとしても、一定の期間信じてもらえたらいい、という手法がとられている場合も多い。または、とにかく拡散してしまいさえすれば、それでいいということもあるだろう。一つ一つを修正するのには時間がかかるし、やったもの勝ちであるという考えもあるのかもしれない。また最初にフェイクを流してしまいさえすれば、それを拡散させてくれる同士(だまされた人)はたくさん存在する。そのような土壌があってこその、フェイク・ニュースを生産させる動機が生まれていくのかもしれない。
 また、そのような期間限定で瞬発的な力があるということで、選挙などでこれを使うと、一定の影響力が期待されるということはある。嘘でいいので、誹謗中傷で構わない。以前から怪文章の類はあるわけで、考えてみるとフェイク・ニュースというのは、古くて新しい手法である。いや、古臭すぎるというか。要するに人間の感情というものは、その時だけ熱することができればいいのだから、利用されるのである。「お前の母ちゃんでべそ」などという真相が容易にわかりえないことをいうだけでも、子供だってちゃんとケンカできる(というか、大人でも我慢できないが)。いくら高度そうなことをやっているように見えても、レベルとしてはこれと何ら変わるものではない。そんなことを言われてもまるで平気だという人は、一定の訓練や意識づけが無いと難しいだろう。何しろ相手の武器は嘘なので、事実は母ちゃんのへその状態を皆に伝えるしかない。そんなことをしたくもないし、実際にやれば下品だろう。
 さらに問題は、実際は、当事者に向けた揶揄でなくていいことだ。関係のない第三者であっても、これが効果的であることだ。要するに反応する馬鹿はごまんといる。そういう人は特に意識づけをするような、動機などまるで必要ない。
 もちろん、被害が生じるので、嘘を流した元が特定できると、それなりに対処は可能かもしれない。抑止力としては、そのような強力な捜査というか、たどるスキルがあるということが広く知られることかもしれない。さらにそれなりに重い処罰である必要もあるだろう。
 一つのニュースソースをもとに、物事を判断するのはたいへんに危険である。ひどいニュースが流れたら、いくつかニュースを追ってみる必要があるだろう。結局は受け取る側に能力が求められるということである。まったく厄介な世の中になったものだな、と呆れるよりないようだ。
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後悔を抱えながら生きる   君のためなら千回でも

2019-04-25 | 映画

君のためなら千回でも/マーク・フォースター監督

 原作は小説で、世界的なベストセラーらしい。アフガニスタンは階級社会のようだが、最初は上流階級の子供と使用人の子供との友情物語になっている。しかしある事件をきっかけに、上流の子供はその後ろめたい心情から結果的に使用人を裏切ってしまう。その後ソ連軍の侵攻(侵略)があり、上流親子はアメリカに亡命する。大人になって小説家になった主人公にアフガニスタンから電話があり、彼は新たに危険なアフガンに行くことになるのだった。
 アフガニスタンは凧揚げが盛んらしく、特に子供は激しくその技術を競っている。長崎市のハタ揚げと同じく、相手の凧の糸を切る競技であるようだ(長崎のようにガラスは使わないようだが)。この凧の競技が友情の象徴になっているが、またこの凧がきっかけで友情も壊れてしまう。このような具体的な暴力を伴う虐めというのは、一種の社会問題にもなりかねないが、そういう社会がアフガニスタンであるということでもあるのかもしれない。
 僕自身はイスラム社会だから残酷なのだとは思っていないが、このような階級社会が現代にも残っている不幸については、心を痛める思いがする。どうしていいのかは分からないが、このような暴力が介入しやすい社会であるというのは、見て取れるようにも思う。
 また、後半のタリバンの支配する社会や、ソ連の軍隊が法を無視する恐怖というのも、非常に考えさせられる。我々の自由というものは、ある種の社会的な複雑な条件が重なって成立している、あやふやなものなのではないか。非常時には、簡単に崩れていってしまうものなのではないか。平和というのは尊いが、そうでない世界と、本当に隣り合わせでいるだけのことなのではないか。
 一応構成としては、それなりにハッピーエンドではある。しかしながら、何もハッピーに思えない厳しさが、描かれている映画である。外から変える事は容易ではないが、このような映画がこの世界でも流される日が来ると、少なからず変わる可能性はあるかもしれない。そんなことを考えさせられる、厳しい映画である。
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日本の食卓に衝撃を与えた食べ物

2019-04-24 | 

 今までいろんなものを食ってこれまで生きてきたわけだが、初めて食べて衝撃を受けた食べ物というのもそれなりにある。でもまあいろいろあるとはいえ、すごくインパクトが強くて社会を変えてしまったようなものというのは、実際にはそんなにないかもしれない。ということを「まんぷく」さんを見ていて考えた。確かにカップラーメンは人類にとって大きな事件ではあったのだろうが、ある意味でそういう見方をする面白さも手伝っていると考えられる。さらに僕自身の個人史を考えると、ものごころついた時から、インスタント麺というのは存在していたし、そんなに家庭で食べていたわけではないが、レトルト食品のようなものも、すでに開発された後だった。そういう先進的な食品開発の飽和状態にありながら、さらに衝撃のあったものとは何だろうか。
 そんなものは無い、という意見もありそうだが、シャウエッセンがあるじゃないかと思うわけだ。
 これは僕が十代の終わりころに発売されて、本当に日本の食卓を激変させた食べ物じゃないかと思われる。少なくとも僕はかなりの衝撃を受けた。昔の人が初めて西洋の食べ物などを食べて、こんなうまいものが世の中にあったのか! と驚くことは聞いたことがある。まさにそういう経験を自分自身が体験するとは思っていなかった。
 日本のソーセージというのは、文化的な背景もあって、魚肉ソーセージが主流である。また、そのころの肉を使ったソーセージというのは、赤いウインナーのアレというのしか、スーパーには売っていなかった。レストランとか、それなりの店であれば、いわゆる輸入物の本場のソーセージは食べることができたかもしれない。しかしそれは、決して家庭の味ではなかった。そうしてさらに、シャウエッセンは茹でるのである。当時のソーセージは、フライパンで焼いて食べるものであった。西洋の食べ物はフライパンで調理するものとばかり思っていたら、茹でて食べるのだという。なんなんだそれは! という感じである。で、齧ってみると、パリッと音がするのである。中から肉汁があふれ出して、アッチッチなのである。そしてなんという旨さなのか。これが本場のソーセージというものだったのか。ドイツ人はこんなものを食っていたのか!
 などと思ったが、実際の欧州事情はほんとは知らない。というか、このシャウエッセンのように旨いウインナーは、本場ドイツのスーパーにも売ってないという噂もある。シャウエッセンという商品名は、いかにもドイツ語のように見えるが、単なる造語で和製ドイツ語のようなものらしい。シャウエッセンに似た商品は他にもあるが、それはその後他の日本メーカーが作って日本で売っているものらしい。
 というわけで、こんなにうまい食い物は、日本のほぼ専売特許のようなものらしい。凄い。庶民的にはシャウエッセンは高級だという話も聞かないではないが、これだけの値段で他の高級ソーセージと対抗できるものはなかなか見当たらないのではないか。それに実際に日本の食卓の風景を変えたのは間違いないことらしく、自宅で食べられる手軽なごちそうとして確固たる地位を築いたといえる。少なくとも僕の子供時代とは、明らかに現代社会は変わってしまったのだ。
 でもまあ実をいうと、そういうことがあるのだから時折赤いウインナーが懐かしく旨いというのはあるんだけどね。
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偏見を持って生きて復讐する   スリー・ビルボード

2019-04-23 | 映画

スリー・ビルボード/マーティン・マクドナー監督

 何者かに娘を殺された母親は、事件が何の進展を見せないことに腹を立て、地元の田舎道に大きな三枚の警察批判の看板を立てる。これが田舎の町に不穏な空気を作り出して、様々な事件が新たに持ち上がっていく。実は地元警察署長は非常に人望の厚い人で、町の人々の多くは保守的で、警察に対しても同情的なのである。看板を立てた母親はどんどん孤立していくばかりではなく、先鋭的に反抗的な態度を助長させていくのだった。
 絶対的な被害者である立場の人間が、むしろ同情を得ることなく孤立していき、さらに危険な状況に追い込まれていく。母親の看板を象徴する態度を批判して、強硬に暴力に訴えそうな空気が醸し出されていくのである。正義感は強いが、保守的で偏見に満ちた若手警官は、この状況に警察権力を用いながら暴力の制裁を下そうとするのだったが…。
 ちゃんとした推理や捜査が行われている気配はない。実際に罪を犯した人間が何かヘマをやらかさない限り、娘の手がかりがつかめるような様子はない。母親は行き場を失い軌道を逸した行動も(はっきりとテロ行為)とってしまう。ほとんど無茶苦茶な展開にありながら、物語は意外な方向へ転じていく。
 おそらく差別問題や、偏見や地域性などを加味して作られた作品なのだろうと思われる。僕らはアメリカ人じゃないから、そういうところは分かりにくい。アメリカの中西部に住んでいる伝統的な貧しい白人社会というものは、このようなでたらめなものなのだろう。そうした不満を抱えながら、差別意識をよりどころにしながら、生きているのである。あえて言うなら、まるで日本人だけが誇り高く、東アジアを馬鹿にする人々のようでもある。まあ、似たような構図を追いかけて、日本社会もうらぶれていっているということなんだろう。
 特に楽しい映画というわけではないが、名画的ないい雰囲気である。実をいうと主人公の母親を演じる女優の旦那であるコーエン兄弟の作品だとばかり思って観ていた。まさにそのような雰囲気なんだが、全然違う監督作品だった。まあ、悪くない作品なんで、それはそれでよかったのだろう。
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震災の傷跡よりも長く残る風評被害

2019-04-22 | culture

 福島原発の廃炉の進み具合をレポートするものを見た。ロボットで内部を観察できてはいるものの、放射線に汚染されたがれきやデブリを除去する作業は、たいへんに難航していた。露出した部分についても、切断する折の飛散する埃などが巻き上がらないように、細心の注意を払って準備を進めていることも見て取れた。廃炉に向けては、これから何十年もかかる予定が組まれているが、作業は遅れに遅れ、その枠にはとどまらないのではないかという話だった。それでも根気強く、粘り強く、着実に作業を進める努力を最大限とっているということである。
 被災して事故が起こって早8年。避難区域は徐々に解除され、人々は戻り始めている。もちろんこのような地元の人たちが中心になって、廃炉作業などを進める人々から戻ってきているということなのかもしれない。避難区域を解除しながら同時進行で作業を進めるという困難さ(チェルノブイリだってそんな試みはしていない。政府の役人は内部に住んでいるけど)も浮き彫りにされていた。特に汚染水の入ったタンクが敷地にあふれんばかりになっており、将来的な作業に大きな支障をきたしてきている。汚染水は水で希釈して海に流すことが決まっているが、地元の根強い反対があって、実行には移されていないからだ。水で希釈された放射能は、人的には何の問題も無いが、要するに漁業者などが漁で生計を立てて復興を果たそうとしている折、事故での汚染水が海に流されるという風評被害が必ず起こるという懸念からである(これは報道の自由のあるメディアが、必ず意識的に垂れ流すのが確実である)。放射能被害は起こりえないにもかかわらず、人間の感情被害が根強いということだ。皮肉なことにそのためにさらに復興が遅れ、連鎖した風評が残り続けるということになるのだろう。これは本当に僕らが生きている間に復興を果たすことを困難にしている足かせである。このような時間を記録することが、将来的な人類にとって、何かの教訓になることがあるのだろうか。震災を忘れないという取り組み以上に、人類に伝えるべき愚かさというのは、簡単には伝わりえない問題なのではなかろうか。
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屈折した人生を強制的に歩まされる人々   将軍様、あなたのために映画を撮ります

2019-04-21 | ドキュメンタリ

将軍様、あなたのために映画を撮ります/ロバート・カンナン ロス・アダム監督

 北朝鮮に拉致された韓国の女優と映画監督の当時のことを追ったドキュメンタリー。特に監督のほうは、当初北朝鮮へ亡命したとされていて、韓国では批判があったようで、すぐにこのような映画は作りにくかったのかもしれない。実際に彼らは北朝鮮で精力的に映画を撮り続け、国際社会へのアピールをしていた。もちろんそれは北朝鮮(特に金正日)の思惑であったためで、北の社会では優遇された身の上ではあったかもしれないが、常に監視され国策に従わされていた現実があった。一時は映画であれば自由に撮れるということもあって、情熱をもって映画を作りつづけていた事実はあるようだが、最終的にはアメリカに再亡命することになる。まさに数奇な運命ともいえる二人の境遇を、関係者や家族、女優本人のインタビューを交えて、衝撃的に紹介している。
 二人はもともと韓国でも第一線で活躍していたばかりか、夫婦でもあり子供もいた。夫である監督の浮気と、別に子供もいたということで離婚はしていたようだ。しかしながら当時は韓国も軍事政権下でもあり、映画を撮るためにはなかなか金が集まらないなどの苦労はしていた。先に女優のほうが拉致され、追って監督も拉致されるが、北で映画を撮るというのは、金正日の意向なのであるから、豊富な資金を与えられて自由に映画を撮り、ヨーロッパの映画祭などに出品するなど、国際世論からは屈折した見方で二人の境遇はみられていた可能性が高い。そういう屈折した事情がドキュメンタリーによって明らかにされることで、北朝鮮の実情のようなものも浮き彫りにされていくのである。独裁国家の、世襲したカリスマ性のない比較的おとなしい男の孤独と、北の民衆のクレイジーにふるまわなければならない残酷さの一端も、見事にとらえられている。
 日本でも拉致問題は深刻なのであるが、当然一番拉致被害者の数が多いのは韓国であろう。様々な思惑で北朝鮮にとらえられ、そうして家族が引き裂かれるだけでなく、その国策のために働かされることになる。一方では裏切り者とされて、亡命先はアメリカにせざるを得なかったのではないか。休戦状態でいまだに戦争の終わらない東アジアの状況は、このような悲劇を再生産させ続けているのかもしれない。
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土星の輪は新しい

2019-04-20 | Science & nature

 土星といえば、なんといっても特徴的なリング(環)である。子供のころ父親が買ってきた天体望遠鏡で土星にちゃんと環がかかっているのを見て、ひどく興奮したことを覚えている。生きていてよかった。
 土星の環は何でできているのかというと、ほとんどが氷なんだそうだ。そうしてこの氷が古くなって汚れていないことから、比較的新しいものであると考えられるという。土星が生まれた45億年前は、土星には環が無かった。そうしてそのころには、土星の周りにはそんなにチリは舞っていなかった。ごく最近になってチリ(氷)の量は増えてきて、そうして土星の環を形作っていったらしい。新しいから輝きが美しく、もっと古くなると黒ずんでいくのだという。
 しかしながらこの新しい現象は、今から1~2億年前くらいからとのこと。恐竜などが地球を闊歩していたであろう頃からという。それは宇宙の時間軸から考えると、ごく新しい出来事だったのだそうだ。
 もちろんごく最近であるその時代には、まだ人類は誕生すらしていない。宇宙のごく新しい出来事のトピックとしては、人間は最近過ぎてまだカウントに入れてもらえないのかもしれない。
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馬鹿でも正面からせめて吉   クローバー

2019-04-19 | 映画

クローバー/古澤健監督

 たぶん原作は少女漫画。ホテル勤務のヒロインは、ちょっとドジなところがありいつも怒られてばかりいる。そういういつも怒っている鬼のような上司は、一方でたいへんに二枚目で周りから憧れられているようないい人である(ここ、少女漫画的に重要!)。そうして、なんとこの上司から交際を申し込まれてしまう。冷酷そうで高飛車でちょっと怖い相手だが、二枚目で将来性があるということでなんとなく交際していたが、初恋の相手が現れたり、会社の取締役の娘というライバルが現れたり、前途多難なんである。
 まあ、はっきりって無茶苦茶である。しかしまあこれが成り立つのが少女漫画的なんであるから、はっきり言ってたいへんに楽しい。いくら周りの女性から憧れられるような状況だとは言え、見栄だけで頑張って恋を成就させようという魂胆はけしからんのではないか。おそらく実際にもアイドル的にかっこいい人が上司を演じているようで、そういうあたりは男の僕には良さが今ひとつわからないが、実は性格も割合良いような設定になっており、クールなだけではなく彼女のために自己犠牲は払っているということらしい。自己本位ではあるものの、かわいい、ということかもしれない。
 それなりに狭い社会での物語だが、アメリカがチラついたり、会社の若い偉い人が横柄でも許されるような、某韓国の財閥系企業のような設定も笑わせられる。こんな会社今時あるんだろうか?
 しかしまあ初恋の相手は今はどうも手癖の悪い男に成り下がっているが、ヒロインだけは別で、かわいい女優さんが演じているので当然かわいいのは良いにしても、ドジでそんなに才能など取り柄がなさそうだけれど、上司の男は彼女を離さない(表現は下手だけど)わけで、彼女にとっては極楽である。本当に素晴らしい。まあ、それなりに危機があって最終的には大どんでん返しがあるわけで、そういうところが何より素晴らしいのだが。
 皆さんもお気づきのことと思うが、多少気取った映画であれば難癖ばかりつけているくせに、このような一種のバカ映画だと僕の点数は甘い。何故かというと娯楽映画としては、こちらの方が何倍も優れていると思うからだ。いくらばかげていようと真正面からそういう楽しさを追及して映像化するというのは、本当に映画的に素晴らしいところだと思う。皆さんもこういう映画精神を見習って、楽しいことに素直なまじめな人生を送りましょう。その方が絶対しあわせになれますよ。
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猫の経済に沸く人々

2019-04-18 | net & 社会

 いわゆるインスタ映えというのだろうか。SNSなどで大変な人気を博して、ものすごい人数のフォロワーを有する猫というのがいるらしい。猫界のスターということらしいが、拾ってきた猫をインスタにあげていたら人気になり、関連グッズなどが売り出され、3億円余り稼ぐまでになった猫スターもいるという。すごい。
 その過熱ぶりは確かにすごいけれど、内容的には演出が凄いようで、気まぐれな猫を使って楽しい写真や動画をとる能力の高い飼い主が、その仕掛人ということになるようだ。いわゆるそのセンスが光っているわけで、やはり誰もがなしえる技術ではないのだろう。
 そうではあるが、猫を中心とする猫ビジネスはそれだけではなくて、いわゆる賃貸住宅であっても縦型に猫環境に適した物件が売れているという。人間にとっては住みにくい環境であっても、猫の満足度を考えると、そのような家に住めることが飼い主の満足なのである(猫ちゃんが喜ぶから)。
 また猫というのは多頭飼いする傾向も顕著である。小さいということと、いくらか手のかからないということもあってか、何頭も何頭も、結果的に増えていってしまう飼い主がいるようだ。そうして猫のために生活費を削り十数万の経費をかけて猫を飼い続けている人が紹介されていた。いわゆる酔狂なのであるが、これができる人ばかりではなかろうから、ここらあたりに問題が隠れているようには見受けられたが。
 しかしながら猫に関する過熱を見ると、やはり何らかの現代的な人間側の問題があるようにも見える。猫というのは人間に飼われているペットでありながら、なついてはくれるものの、何か気まぐれに野生を謳歌しているように見える。これほど身近な存在になりながら、何かミステリアスな要素が残ったままだ。安易に人間の思うように芸を覚えるわけではないし、観察をしていても、いつも動いてくれるわけではない。野生動物の記録をとるのはたいへんに困難が伴うが、適当にむつかしいながらも人間側の労力がある一定以上になると、いつかは人間の望むような写真なりが撮れることもあるのではないか。そうすると、人間側の達成感もそれなりに大きい。そういう共感もあって、周りからの評価もちゃんと得られる。まさにそういうやりがいのような達成感や満足が、猫を取り巻く人間のニーズとしてあるのではなかろうか。
 一方で猫というのは、ある意味では非常に手のかかる面もあると思うが、鳥をかごで飼うような監禁感もないし、自由にさせているという人間のエゴが感じられにくいとも思える。飼い猫が人間に依存しているのは間違いなかろうが(そうしなければ生きられない環境を人間が作ったからだが)、猫が人間と暮らしていて幸福だというのは、擬人化した人間の側の誤解だろう。もちろんそれはすべてのペットや家畜に言えることだけれど、猫にはその人間の側の罪悪感が、きわめて希薄な動物なのだろうと思われる。
 もちろん人間は、そのような性質をもった動物である。良いとか悪いとかいう問題ではなく、猫を愛することのできる生き物なのであろう。
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一筋縄では理解できない痛快娯楽作   ブラックブック

2019-04-17 | 映画

ブラックブック/ポール・ヴァーホーヴェン監督

 ナチス占領下のオランダで、ユダヤ人家族が船で逃げようとしたところ、どうも裏切りがあったらしく皆殺しにされてしまう。一人だけ川に飛び込んで逃げおうせたエリスは、レジスタンスに加わりナチスの幹部の愛人としてスパイ侵入する。隠しマイクを仕掛けるなど活躍するのだったが…。
 その後物語は二転三転、クライマックスでお話が終わったかと思ったらまだ続きがあって…、という具合で結構長い。しかし、いわゆる飽きさせない演出で、ヒロインは頻繁に服を脱がされ胸を出されてしまう。本当に歌手らしくて歌も上手いし、熱演である。汚い場面も危険を伴う場面もあるし、なかなか大変である。たくさんギャラをもらってたらいいのだが。
 戦争娯楽映画だから、ある程度の残酷さとカタルシスはあるのだが、なんといってもヴァーホーヴェン監督である。なんとなく話はひねってあり、一筋縄ではいかない人間ドラマとなっている。ナチスは確かに憎むべき悪だが、レジスタンス側にも許されない人物はたくさんいる。そういう戦争の悲劇を、なかなかの皮肉で描き切っているのではないか。一番けなげで屈託なく戦争を生き切った人間は、ふつうに頭の悪い娼婦だったりする。むしろ意識が高く正義感の強い人間は、残酷な運命で殺されてしまったりするのだ。
 戦争というものは、どちらかが悪いからだとか、正義として正当だからという理由で勝ち負けが決まったわけではない。基本的に殺し合いだから、どちらも悪いに決まっている。ナチスのユダヤ人の虐殺は、確かに戦争としてひどいものだが、その後戦勝国がドイツ人を虐殺した罪が問われていないのは、結果的にたいへんに不公平だった。それが現代の戦争のすべてである。だからこのような映画が作られたというのは、あんがい非常にまれなケースであったりすると思われる。近年になって少しばかりそういう視点のものを民衆が受け入れるようになってはいるとは思えるが、基本的に娯楽作品でありながら、そのような視点を混ぜている映画というのは希少である。変な監督が映画を撮るという意味はそこのあたりにあって、この監督さんは偏って変な人だからこそ、我々を驚かせることができるのである。慣れていないと妙な感想を持つことにはなるかもしれないが、まあ、それもいい体験である。今に生きているということを考えるうえでも、このような映画は貴重であろう。
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母乳を飲んで健康に

2019-04-16 | Science & nature

 赤ちゃんはお母さんの母乳を飲んで、驚くほどの速さで成長する。それで以前は、母乳には赤ちゃんの成長を促す、何か強力な成分が含まれているのではないかと考えられていたらしい。もちろん、そのような成分が含まれていないわけではないようだが、赤ちゃんが消化吸収できないオリゴ糖が、かなり含まれていることが分かった。消化吸収できない成分がなぜそんなに必要なのか、当初はそれなりに謎だったらしい。
 オリゴ糖は赤ちゃんの腸内のいわゆるビフィズス菌(ビフィド・バクテリウム・インファンティス)という腸内細菌、いわゆる善玉菌を爆発的に増やすことが分かった。腸内の善玉菌が増えることで、赤ちゃんの免疫抵抗力が飛躍的に高まるのではないかと考えられている。病気に強い個体として成長するのに欠かせないということだ。実は体の成長よりも大切なのは、抵抗力を高めて病気をしないことなのではないかということらしい。
 僕は胃腸の調子が慢性的に弱いようで、日頃から軟便である。たぶん悪玉菌だらけなのではないかと思われる。さらに乳製品にも弱く、牛乳などもってのほかで、外出の予定があるときはとても飲めない(好きだけど)。だからだろうか、年に20回ほど風邪をこじらせてしまう(実際に何年か数えてみたら、そんな感じである)。しかしながら風邪をひくと、どういうわけか軟便が治まる。どうしてだろうか、と不思議に思っていた。
 これは風邪が原因なのではなく、おそらく風邪をひいたら風邪薬である抗生物質を飲むためではないかと思われる。腸内の細菌が減るために、軟便が治まるのではなかろうか。
 もっともこれは、悪玉菌はもちろん善玉菌も一緒に減らしてしまうのではないかと考えられる。体の弱さの悪循環である。いまさら母乳を飲むわけにはいかないが、オリゴ糖の含まれる食べ物をせっせと食べる必要があるのだろう。豆腐は好きで結構食べるんだけどな。まあ、頑張りましょう。
コメント
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