カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

子供は信用ならない  エスター

2023-01-31 | 映画

エスター/ジャウム・コレット=セラ監督

 すでに子供は二人いるものの、三人目の流産の記憶が痛手になっている妻のことを思い、孤児院からちょっと個性的な女の子を迎え入れることにする。ロシヤをルーツにする子のようで、ちょっとファッションセンスなど変わっているところはあるが、難聴の末娘との手話はすぐ覚えるなど、それなりに適応していくように見える。しかしながら学校でも異質な存在のようでいじめに遭うなどする。さらに夫との信用は築くが、妻との諍いのような事態を積み重ね、不信をあおるようなことを次々と起こすようになっていくのだったが……。
 何か過去に問題を抱えている少女が、その異質な素質を徐々に発揮して、家庭その他を破壊していく展開である。その中で、夫婦や家族の信頼関係までも破壊していく心理ゲームにもなっていて、後半の爆発的なホラーまで小気味よく展開するエンタメ作品になっている。最初から不穏な空気は伝わっていて、子供社会だから大人は詳しいことをよく分からずにいるわけだが、よく理解しようとするその良心のようなところに付け込んで、ホラーの下地が積み上がっていく。エスターという少女には、明らかに異常な暴力性があることは示唆されていて、子供社会ではそれは、はっきりと明示されていくにもかかわらず、特に夫にはそれはまったくわからないままなのだ。異常を妻は察知するものの、妻にも子供を亡くした際の心の傷ができた過去がある。そこに異常性を見出す周りの大人たちがいて、どうしてもエスターの異常性の方に目がいかないのである。
 子供が悪魔であるホラー作品なので、バイオレンスにおいて、子供を巻き込むなりの仕掛けが施してある。そういうところが現代的な気もするが、同時に畳みかけるようなアクションの布石になっていて、うまい作りである。見せ場には、確かに流れの中でも伏線が貼ってあったことに気づかされる。表現はえげつないが、それもホラーの見どころでもあるのだろう。今春には続編も公開されるとのことで、興行的にも成功したのであろう。
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男だから頑張れるは、むしろ幸福な感覚だ

2023-01-30 | 境界線

 先日新聞のエッセイを読んでいて、またか、というような印象を受けた。正月の箱根駅伝で優勝した監督が、走っている選手に激励の声を掛けて「男だろ!」と励ましたことにショックを受けて、あれこれ考えたことを記しておられた。このニュースは様々なところで取り上げられ、この監督の「男だろ」という激励は、それなりに話題になった。それはある種の揶揄されるものを含んではいるものの、おおむね肯定的で、そのことにもショックを受けられたようだ。ほとんど信じられない現象と受け止められた、という感じかもしれない。
 それというのもこのエッセイの筆者は精神科医で、日頃人の生きにくさの中にこのような、男だから、女だから、というまわりの決めつけや圧力に苦しんでいる人を、多く診察している所為であるということも書いてある。女だから病気の子供を病院に連れていくのが当然だとか、男なのにろくに家庭を支えることができないだとか、いうことなんだろうか。そういうものがつらいことであるのは重々わかるし、たとえそれが文化的な側面があるにしても、個人の資質で抗うことが困難な状態はたくさんあるだろう。そうでない社会の実現は、確かに望まれることなのかもしれない。もちろんそうなれば、別の弊害があるには違いないが……(面倒なのでここでは論じられない)。
 しかしながら、やはりわかってないな、というのは、この監督はこういう人で有名で、これで修正しないからこそ価値のある人なのである。単に精神論で男らしさばかりを言っている人でもなくて、人によっても使い分けることも知られている。いわばこれは愛嬌のようなもので、この「男だろ」が出るのは、それなりにまわりの人からは期待もされており、出たら参ったな、という人もいるかもしれないが、「はいはい」といったニュアンスの方が強いのではないか。男だろうが女だろうが長距離を走っているのはつらいので、力を振り絞ろうにもどうにもならない。しかしやっぱりそう来たか、クソっ、もういっちょだ、というような精神構造になれなければ、これは効き目が無い。もうなんだか無茶苦茶だが、やるしかないな、と燃える演出でもあるわけだ。
 今時こんなやり取りをしているのは、演歌の歌詞の世界だけだと思ったら大間違いである。実はやっぱりスポーツの世界では当たり前のようにこのようなやり取りはなされており、日頃の指導現場では、割合に自然に聞こえてくるものだ。もう僕は現役ではないので距離感があるが、女子でも男子でも、これらしきジェンダーを飛び越えたいいまわしや、馬鹿にしたような叱責は数多い。また、意外かもしれないが、これが海外の場合の方が、より厳しいということもよく聞く話だ。外国の監督やコーチがやってくると、必ずと言っていいほど、精神論でこのような言葉で叱責してくるのである。むしろ日本の指導者は紳士的なので、外国の選手はまるで言うことを聞かない。そうして日本人コーチは身の回りのお世話をするマネージャーと化していく。世の中というのは、そういうものなのである。特に強いか弱いかを競う世界に身を置いている場合は、そういうところの上をいかないことには、突き抜けられないのが実情なのだろう。
 ということで、だからよくない社会だということは言えるかもしれないが、良くない社会や環境下でなけば、人が育たない場合もあるという結論に過ぎないだろう。確かに誠にご愁傷様であるのであった。
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悲惨な世界をサバイブしていく   マイ・ブロークン・マリコ

2023-01-29 | 映画

マイ・ブロークン・マリコ/タナダユキ監督

 OLのシイノは、テレビニュースで親友と言える友人が自殺したことを知る。死んだマリコは、父親からなどの虐待を受けながら育った経緯が順に明かされる。せめてマリコの遺骨だけでも取り戻したいと考えたシイノは、格闘の上父親宅から遺骨を強奪し、逃亡する。そうして、そういえばかなり以前マリコが行きたかったと語っていた「まりがおか岬」を目指し、高速バスに乗り込むのだった。
 虐待を受け続けるマリコの過去の記憶と、こちらもどうも家庭に問題がある不良のシイノとの友情(とはいえマリコは死んでいるが)の物語ではある。逃亡先で、さらに窮地に陥るわけだが、謎めいた釣り客の男に助けられる。そこにさらに事件に巻き込まれて……。
 いろいろと壊れている現実はありながら、曲がりなりにも再生の物語でもある。原作の漫画があるようで、どの程度の再現があるのかは分からないが、虐待を受ける子供の問題を取り上げながら、それなりのエンタメ作品になっている。不良娘が陥る悲劇としてはどうしようもないように見えて、ちょっとあり得ないとは思うものの、そう来るのか、という驚きはある。そうしてまあ、それでいいのかもしれないな、ということなのである。
 僕としてはやはり父親は許せない気もするが、そんなことを言うと付き合っていた彼氏らしき存在も許せないし、だからと言って不良になって精神も壊れていくような人は、やはり病院にかかった方がいい。どこかで児童相談所や警察が出てきてもおかしくないし、そのような発想があまりないことには不満だが、それが子供世界ということなのかもしれない。
 更にそういう人が就職する先がブラック企業で、悲惨だが、しかしそれが救いでもあるということも示唆されている。シイノが生き抜く土壌というのは、やはりこういう世界であり続けるのであろう。
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汚い人間の代表とは

2023-01-28 | 雑記

 飲んでいるときに野球や政治の話は禁物とされる。+宗教もかもしれない。実感としてそれはよく分かるわけで、言いたいことはあるが、相手次第では口をつぐむことになる。納得できない自分に苦しむが、しかしいつも喧嘩をしたいわけではない。平和の方が大切である。
 それというのも、よくある政治家はひどいという話である。国会議員なら、国民を馬鹿にしているし、地方議員なら何も考えていない。首長も自己中だし、地元にもろくな人間はいない。選挙で選ぶべき人なんて一人もいないが、どうして必要な人が立候補しないのだろう。
 確かに一部首肯できそうなところもあるのだけれど、それって本当にそうなのだろうか。ひどい人が混じっている可能性は高いと思うのだが、そんな人ばっかりなんだっけ。でもまあ誰彼は凄くいいよって話は、シラケるような気もしないではない。いい人いっぱい知ってるけど、そういうと決まってそいつもひどい、と返されるというか、また、面倒なんである。人の悪口は最高の酒の肴なのであって、ある程度は仕方がない。だけどなんだかな、と思う訳だな、これが。
 しかしながら、普通の人たちというか、大衆というか、政治家でない日本人と、政治家である日本人に、それほどの犯罪などに手を染める資質に違いがあるのだろうか。特に金にまつわる不誠実さというのに、明確な違いがあるのか。政治家の方が金の誘惑に弱いとする根拠はあるのか。
 実際にそういう事件はごまんとあるじゃないか、と言われるかもしれないが、それはニュースとして取り上げることにおいて、政治家がそうすると面白いから多く感じるのではないだろうか。だいたいニュースの基本というのは、面白いからであるし、珍しいからである。交通事故は日常茶飯事だが、大きく取り上げられるのは目を引く悲惨さがあるものだ。子供がたくさん犠牲になるとか。現実に一番多く犠牲になっている高齢者のものは、ごくたまにしか話題にならない。アクセルとブレーキを踏み間違えたとか逆走したとかいうような、一般の人にも恐怖を呼び起こす題材なら別だろうが。
 何を言いたいかというと、ちょっとした金にまつわる犯罪は、圧倒的に一般の人たちの引き起こしたものが多いに違いない、と感じるからだ。銀行などの金融機関でのトラブルなんてものは、おそらくごまんとある。ほとんどは示談で、家族などが保証などして表に出ないだけだろう。僕の少ない体験を通してみても、金銭トラブルと実際には犯罪としても立証できただろう盗難や不正などは、これまでに数多く見ている。ほとんどは警察に届ける以前に話し合いの末、いわゆる内部の問題として済ませているだけである。実際に犯罪として表に出た例だって知ってもいる。ひどいのは知った人が強盗したというのだってある。しかしながらそういうものは、もちろん大きな報道に乗らないし、別段ひた隠しているわけでもないが、狭い社会のゴシップとして巷間に流れることもあるが、ニュースとして嗅ぎつけられることなんてない。ありふれているし、面白くもないからであろう。
 一方政治家であればどうだろう。ちょっとした行き違いであっても周りの目が厳しく光っているし、うわさが流れると嗅ぎまわる人も出てくるだろう。そうして表に出るようなことになると、大して大物でなくともそれなりのニュースに取り上げられるだろう。結果的に起訴まで至らない場合でも、いわば公人の不正を断罪される場合もあるようだ。そうしてぬくぬくと生きていると言われる。誤解だったと言えば見苦しいと言われるのがオチだろう。
 別段政治家を擁護する義理なんて無いが、政治家だから汚いなんていうのは単なる偏見に過ぎない(一般の人に比べるとむしろクリーンだし)。全体を見回せば完全にクリーンなんてありえないだけのことで、むしろ少ない難しい環境下でありながら不正に手を染める愚かな人間が居るに過ぎない。そういう厳しさの中で身を律して頑張って欲しいものではあるが、実際にそうしている方が大多数であろう。人間の弱さの見本として、そのようなことが起こるのだということであれば、むしろそれが人間の証明のようなものではあるまいか。良くは無いが、完全クリーンな人間ばかりの政治というのは、かえってクレイジーだろう。まあ、何処までいっても悲しい人間の荒涼としたサガを感じはするわけだが……。
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羊は可愛くて怖い   LAMB/ラム

2023-01-27 | 映画

LAMB/ラム/ヴァルディミール・ヨハンソン監督

 舞台はアイスランドあたりの山あいの牧場。あたりには他に人の住んでいる気配すらない牧羊の地であるようだ。吹雪の夜、山から何かがこの牧場へやって来る。羊たちはおびえ逃げようとするが、一匹だけ痙攣して倒れてしまう。
 羊たちは出産のシーズンになる。順調に生まれ牧場には豊かな空気に包まれる。夫婦は二人で支え合いながら働き、牧場を切り盛りし、それなりに満ち足りた毎日を送っているように見える。しかしそんなある日、羊の生んだ子羊に、何か異質な感じが満ちる。映像では分からないが二人は驚きながらもとりあげ、マリアはその羊を抱いて奥へ連れていく。自分たちの寝るベッドの横で毛布にくるんで大切に育てるようになる。
 後にわかるがことになるが、この子羊が明らかに異質な存在で、映像も妙なトーンが被るようになる。男は最初トラクターの中で一通り泣くが、その後は何もなかったかのように幸せな顔をして、妻と一緒に羊の子育てにいそしむ。そうしてそんな中に、何か問題を抱えて逃げ出してきたような夫の弟が帰って来るのだった。弟はこの世のものとは思えない羊の子供を見て激しく動揺するが、果たしてこの状態をどうしたらいいのか、考えあぐねていくようなのだった……。
 よく分からないものの、何か自然と人間との間に起こりえない不思議なことが起こりつつあって、普通なら現実には受け入れるはずのない人間が、過去にこころの瑕を抱えていることがおそらく原因になって、むしろこれを積極的に受け入れようとする。よく分からない表現は多いけれど、これはたぶん何かの符号と絡んでいて、それはこの土地に伝わる伝承神話のようなものなのではないか。人間は自然の中で一体となって暮らし、契約のようなものを結んでいたはずなのだ。現代人には知る由も無いが、そのようなルールと、人間のしあわせを考えたものの、不都合が混ざり合ってしまったのだろう。
 かなりショッキングで受け入れがたいものがあるにせよ、最小限の説明の下で、さまざまな人間の葛藤が見て取れる。動物たちも動揺しながら、人間の葛藤に付き合っている。そうしていっときの、融合したしあわせな時間は流れていくように見えるのだった。もっとも見ている分には、ずっと不穏な空気の中にいることは明白なのだけれど。
 いちおうホラー作品なのかもしれないが、そういうものだけではない。人間の存在も残酷だし、自然もさらに残酷だ。それが大自然の中で生きていく人間の宿命であるということなのかもしれない。
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いじめ問題というより人間社会と文化論   いじめの記号論

2023-01-26 | 読書

いじめの記号論/山口昌男著(岩波書店)

 著者山口自身の書いたいくつかの著書を底本として語られた複数の講演をまとめたものであるらしい。ですます調の口語調で書かれているが、しかし当然手直しもなされているものであろう。口頭での勢いもあり、確かに話があちこちに飛んだりもするが、しかしそういうまとまりでもって、いじめなどをテーマにして「文化」というものが語られているのかもしれない。
 自分の体験や、学校での勉強のことや、親子関係など身近なことも語られるが、神話にも飛ぶし、外国の話にもなる。対比されるものにはいじめの要素があるし、はみ出してもなるし、優秀でもなる。持ち上げられても落とされるし、踏みつけられた後にさらに掘られて埋められるかもしれない。
 前半にいじめられた過去の体験の作文の紹介があるのだが、この文章がたいへんに印象深い。妙な例えだが、村上春樹の短編「沈黙」になんとなく似ている。しかしながら内容は、いじめている主犯格より、その陰にいたもう一人への恨みの強さと、その人間の陰湿さにある。いじめとして具体的に殴ったり蹴ったりしていたものより、その傍にいて、いじめそのものに加担していた卑怯な存在こそ、いじめているものをひどく傷つける場合がある、ということかもしれない。それは見ているだけの第三者も、ある意味で同じである。いじめられている人間は、当然大きな傷を負うものだが、それは具体的に傷つけられることよりも、もっと大きな心の傷を負うものだということである。それはいじめを見つけられなかったとする先生も同じだし、その場にいるクラスメートという第三者も同じである。いじめを止められないことは、いじめに加担することと同義であるし、またいじめが起こる本質なのかもしれない。
 いじめられる具体的な背景というものは、数多い。それは人間社会そのものでもある。そのような異端を見つけ出し、差別化して生贄を作り出す。それは弱い人間だからということでは、必ずしも同じではない。絶頂に君臨していたものであっても、落とされる場合がある。また社会全体が、その繰り返しでもある。日本のマスコミ報道などを見てみるとすぐにいくつも例があるように、社会は平気で個人へ憎悪をあらわにして攻撃を繰り返している。時には、いや、その多くは、それを正義だとも思っている。
 問題は、そのように実際のいじめは悪いとはわかっていたところで無くなるものではないけれど、それを知ったうえでどのように生きるか、ということかもしれない。著者自身はたいへんに頭が良くて、なおかつ強烈な個性を持っているからそこ、自分なりに対処できた経験を持っているようだが、いじめの構造では、なかなかにそれができる人間というのは多くは無い。またいじめられている人間が、このような本の内容を理解できるとも限らない。ただし、いじめの本質的なものを理解していない、いじめの現場の人々の陰湿さというものが明らかにされることは、いじめの消失を早めることにはなるのかもしれない。ほとんど淡い期待に過ぎないのだが……。
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恋愛と老齢期   スーパーノヴァ

2023-01-25 | 映画

スーパーノヴァ/ハリー・マックイーン監督

 キャンピングカーで旅をする二人は、長年連れ添った夫婦のような同性愛カップルである。どうもこの旅は、若い頃に訪れた場所をめぐっているものでもあり、そうして片割れのサムの実家であり姉の家への訪問でもあった。二人とも高齢化していて、作家のタスカーは認知症も進んでいる。二人は深く愛し合っているがゆえに、晩年の考え方にすれ違いが出てきているのが分かっていく。
 老夫婦の悲哀を描いているわけだが、同性愛だとどうなるか。要するに何も違わないように見えて、やっぱりなんだか違うようにも見える。知人や家族も皆認めている間柄で、そのことには何ら違和感のない世界になっている。もちろん過去には葛藤があったのかもしれないが、少なくとも既にそういう段階の話ではない。しかし老齢期に差し掛かり、一人は作家だが、とても新作など手に付けられないほど認知症が進んでいる。片割れは見守りの介助をしながら、いたわりながら暮らしているのだろう。今は休暇中で、とりあえず仕事をする必要もない。認知症の進んでいる作家は、そういうパートナーに迷惑をかけ続けたくないと考えている。そうするとどのような選択が彼には残っているのだろうか。
 二人はいまだに同じベッドで夜を過ごし、裸の場面もある。要するにそういう感じはまだあるのかもしれない。子供は無いが犬を飼っていて、おそらくいつも一緒のようだ。お互いが芸術家だし、暮らしに困っている風でもない。むしろ豊かな部類だろう。しあわせな老齢期と言っていいだろう。しかしそれも一人の認知症が、この関係に揺さぶりをかけている。認識のできるうちに考えることは、やはり相手のことなのかもしれない。
 特に驚くようなことではないとは思う。ゲイのカップルを演じている俳優の演技を楽しむ作品かもしれない。日本人の僕が見ても、感情の機微が細やかによく分かる見事さがある。特にコリン・ファースは、若い頃に美男子で鳴らした人気俳優だ。多くの女性は、ずっと魅了され続けていたはずだ。そういう含みもあっての物語なのであろう。
 実際にはここで介護保険の話になったりするはずなのだが(日本だと、ということだ)、そういうちょっと前の一時の時間であろうと思う。だから、ちょっと自意識が強すぎるのではなかろうか。一緒に暮らす特殊性もあるのかもしれないが、得難い相手だからこそ、乗り越えなければならない課題なのかもしれない。何でも同性愛で考えることで、より自然な語りになる時代になった。ちょっとした感慨のある細分化ではなかろうか。
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地面から、その下のことを考えてみる    地球―その中をさぐろう―

2023-01-24 | 読書

地球―その中をさぐろう―/加古里子(かこさとし)著(福音館書店)

 絵本。しかし題名の通り地球のことを描いたもので、特に地球の地面からその下の世界のことを説明してくれる。物語があるとしたら四季を通してということになるが、それはあくまで説明上の時間軸であり、表面の移り変わりを説明するためである。もっと深くなっていくと、さらに時間がダイナミックになり、そうして宇宙とのつながりまで考えなければならなくなっていく。その先は読んだ人が研究を繋いでいくということになるのだろう。
 地面に生える植物や、人間の暮らしや、虫や動物が細かい絵でたくさん出てくる。名前や大きさが記されていて(何cmとか)、巻末には検索もある。この本全体のお話の解説も付されていて、大人も読みごたえがあるかもしれない。一頁をまじめに眺めていても時間がかかるだろうし、読み返しを想定しても描かれているかもしれない。絵本だが数日に分けてパラパラ眺めるようにして読み進んでみたが、また見返すかもしれない。図鑑ほど詳しくないにせよ(何しろ絵が小さすぎる)、そういう読み方も可能といえば可能だ。僕は知らなかったが、それなりに読まれた絵本なのかもしれない。
 子供向けに子供が地球のことに興味がわくように描かれた絵本だが、せっかくだから月との衝突であるグレートインパクトのこととか、プレートテクトニクスのことにも触れてくれても良かったかもしれない。また、大気についてはまったく触れられていない。視点の違いとはいえ、そういう展開があっても良かった。要するに地球というくくりは、他にも展開が可能な分野であるだけのことかもしれない。
 しかしながら、やはり絵本として見る視点がいる。これは既に僕が大人になってしまったのでよく分からないのだが、こういうこまごまして字がたくさん書いてあるような絵本というのは、子供が喜ぶものなのだろうか。先入観の方がイカンとは思うけれど、どれくらいの子供が喜ぶのだろうか。親が読んでくれるので、そういうところは構わないのかな? まあ、どういうものに興味がわくのか分からないので、面白い分野なのかもしれないけれど……。
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そういえば題名がスイッチだった   スイッチ

2023-01-23 | 映画

スイッチ/月川翔監督

 テレビドラマらしい。ネットフリックスで観た。以前長い間恋人どうしであった検事と弁護士の二人だが、現在はお互いに結婚を前提につきあいのある相手がいる。それでも友達としての間柄は続いている。もっともそれは秘密にはしているわけだが、憎まれ口をたたきながらもお互いに仲はいい(と言えるだろう)。しかし、ある殺人事件が起こり、弁護側と検察側で、その事件で対峙することになるのだった。
 いわゆる恋愛コメディなのだが、ちょっとした仕掛けがあって、ミステリ仕立てにはなっている。二人はすでに別れてしまったが、別れがたい何か秘密が隠されていた、ということになる。それは事件の進展とともに後半一気に明かされていくが、それまでは、なんだかよく分からないラブコメである。惹かれあってはいるようだが、しかし今の付き合っている相手とも関係は悪くは無いのである。
 他にも弁護士事務所の人間関係のギャグもあるし、警察捜査のデフォルメしたいい加減さをあらわすエピソードなんかもある。裁判の争点も、このような切り口で崩せるのだという見方も面白い。そういう意味では構成もよく練られていて、軽いドラマ仕立てであり、ある意味で荒唐無稽さもありながら、それなりに説得力のある娯楽作に仕上がっている。
 適齢期というよりすでに大人だし、付き合いがあれば結婚もすぐに目の前にあるような二人にありながら、どうにも煮え切らないものがある。それは燃え上がるような恋愛では無い訳だし、悪くない人だから付き合っているが、その先に進むのもなんだか面倒なのかもしれない。仕事も二人ともよく出来るが、しかし本当に熱心に仕事をやりすぎない方がいいという問題がある。そういえば、最初からやりたくなかったという伏線が貼ってあった。それはどういう訳だというのだろうか。
 まあしかし、これでは生きていくのは大変だろうな、と素直に思う。だからドラマにはなるわけだが、そのためには、やはり何度も成功し続けなければならないだろう。いや、それはある意味で成功ではあるわけだが、片方の側の本当の成功は、破滅だからだ。まあそこのところは観てのお楽しみということで……。
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中国の農村を行く   送別の餃子(ジャオズ)

2023-01-22 | 読書

送別の餃子(ジャオズ)/井口淳子著(灯光舎)

 副題「中国・都市と農村肖像画」。著者は中国の民族音楽の研究者で、おそらく何かの楽器も演奏できる人のようだ。80年代の終わりころから中国に縁あって通いだし、フィールドワークを通して研究を続けてきたものらしい。そういう中で知り合ったりした人々を回想して、まとめた文章である。おそらくだが、一般的な中国の旅を記した日本人の文章とは、まったく別の物語になっていると思われる。それというのも彼女が旅した場所が、主に中国の農村部だからだ。農村部と言って日本のそれを思い浮かべても、ほとんど意味が無い。それはまったく別の世界だと言っていいからだ。かといって、いわゆるジャングル奥の秘境の場所というのでもない(ある意味でそういうところもあろうが)。それは中国の長い歴史のある中で、人間の暮らし続けている文明文化のある場所だからである。こういうのはちょっとおそらく比較する例が乏しい、というか、僕にはとても思いつかない。読んだ方が早いが、そうした辺境の場所を繰り返し訪れては、民族音楽や演芸などを丹念に調査されたようだ。僕も同じような時期の終わりに農村ではない中国に留学していたから、ほんのちょっとだけはこの困難がわかる。とてもじゃないが、いわゆる普通の日本の若い女性が容易に行けるものではないし、また、一般の日本人が、その場所でなにがしかの暮らしのようなことができるようなところではない。実際はそのような壮絶な場所なのだが、著者は少し以上に日本人離れしたところのある人のようで(それでも苦労されたはずだが)、まさに体当たりで現地の人々と溶け込んでいたようだ。それだけでも凄い記録だが、そこでふれあった市井の現地の人々がまた、壮絶に面白い人ばかりなのだ。ありきたりかもしれないが、人間の一生っていったい何なのだろう、と考えてしまうのだった。
 また著者は、現地で現地の食べ物をとてもおいしく食されている様子なのだが、これこそが、ちょっと普通の日本人からすると並外れた才能のような気もする。実際それは、もちろん素晴らしくおいしいものには違いないとは思うが、日本からいきなりそこに行ってそのおいしさを理解できるものでは無いのだ。説明が必要だが、それというのも、日本のおいしさと中国のおいしさは、たぶん違う。それも、大きく違う。例えば日本の餃子と、中国の一般的な餃子は、まるで味が違うとおもう。焼き餃子と水餃子という違い、という意味ではない。同じような食材を使って、仮に中国で焼き餃子を作ったとしても、結果的には味が変わっていると思う。そもそも中国人の一般の人がおいしいと感じているものと、日本人とのそれとは根本的に何かが違うのである。これは一定期間現地で暮らしていて初めて分かる美味しさであって、いきなり理解できるものではないような気がする。しかし著者は、最初からそれがわかる才能のある人で、それだからこそ、秘境と言える中国の農村地域で、地道な調査を成し遂げることができたのだろう。ただし、時には体調を悪くされてもいたようだけど……。
 中国にわたってなにがしかの仕事をした日本人は少なくないとは思うが、実際に中国の農村で、このような体験をした日本人は限られていると思う。それはたいへんに困難なことだからだ。それがどんなことなのか、読んで確かめてみて欲しい。
 装丁も変わった本で、そういうところも楽しんで読めるのではないだろうか。
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純粋さは偏見に勝る   ベイブ

2023-01-21 | 映画

ベイブ/クリス・ヌーナン監督

 1995年の映画。BS放送を録画して観た。当時は結構話題になり、続編も作られた。
 養豚場の豚として生まれたオスの一匹が、お祭りの景品としてある農場に引き取られた。様々な動物たちと交流しながら成長する中、ひょんなことから飼っている羊を助けたことからご主人に見込まれ、牧羊犬のコンテストに、豚でありながら出場することになるのだった。
 今の目線から見ると、ずいぶん皮肉の利いた残酷な家畜物語なのだが、要するにこれが強烈な風刺を伴うギャグになっている。ほぼ全編そのようなブラックなギャグに貫かれた暗い奴隷物語になっているのだが、何しろ子豚のベイブは純粋な考え方の持ち主で、これらの風刺の中にあって、けな気さを保つ天使なのである。
 しかしながらこれは、人間の強権的な家畜社会の枠組みの中だけの物語なので、何かに置き換えて考えてみると、今ではなかなか難しいものをかなり含んでいることが分かる。例えばこれは、奴隷制度時代の黒人の立場だったらどうなのだろう。飼い主の気まぐれのみで命さえ左右され、結局はその気分のためだけに尽くすしかない自由だとしたらどうだろう。これは他の人種にも当てはまりそうで、西洋人はみじんも気づいていないから描ける残酷ギャグであって、無頓着だからこそこの残酷を笑い飛ばせるという図式に変わりはない。だから家畜を擬人化するのは難しいのであって、特に長い歴史で食べることに特化した豚という存在というのは、生き物がどのように生きるかという問題とは、かなり異質なものであることを意識すべきではないだろうか。身近な存在であると同時に、考え出すとこのようなキャラクターにはとても使えない存在なのである(まあ、時代性もあるということだが)。
 ということを一応は差し置いておかないと楽しめないのだが、子豚のベイブはやはり可愛くて、しかし可愛いからこそ日頃食べている身としては、哀愁を伴う。犬たちは可愛いと同時にさらに残酷な家畜の王者で、人間と食べられる家畜との中間に位置する特殊な動物である。彼らは同時に擬人化された社会だから同じような人間の言語を暗に種別を越えて話し合えるということになっていて、しかし立場上、種によってはお互いを理解しあえていない。その垣根を越えられるのが、純粋で偏見を持たないベイブなのである。考えすぎではあるが、今の国連にこのような存在がいると、ひょっとすると話し合いの垣根が越えられるのではないかと思ったりしたが、やはりこれとそれとは別の問題だろうな。残念です。
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やってきたことは、自分には残らない

2023-01-20 | ドキュメンタリ

 NHKでやっていた立花隆の追悼番組のようなものを観た。若い頃には僕もファンだったので、亡くなってしまって寂しいものを感じる。また、生前のことづけで、死後膨大な蔵書をすべて処分していたことを知り、少なからず驚いた。立花の仕事場である猫ビルは有名だし、それらの蔵書はアーカイブとして残るものとばかり思っていたからだ。死体もごみとして処分して欲しいと言い残していたそうだが、さすがにそれは法にも触れそうだし、どうしたことか正確には語られていなかった。問題はどうしてそのような考えに至ったのか、ということになろうが、これはもともと立花隆という人間の持っている哲学観のようなものだったのかもしれない。晩年には癌に侵されながら積極的な治療はしなかったともいわれていて、様々に物事を捉え思索にふけった結果、最後にそのように家族に希望を伝えたということだろう。そうであれば、それらしいとは思われた。実際にはちょっともったいない気もするが、それだけ蔵書が他の人の手に渡りやすくなったということであれば、それはそれでいいのだろう。もっとも立花が持っているとか、猫ビルの書架や廊下などに積み上がっている本だからこそ、興味を持つ人も多かっただろうけど(それらの記録は、写真に収められ、本にもなっているけど)。
 そのような興味で見る分には、このドキュメンタリは良かったのだけれど、時折立花は、このドキュメンタリを撮っているデレクターに憤りを見せることもあったようだ。それは確かに見ている僕の側も物足りなさは感じていて、そうだろうなと思ってもいた。それというのも立花を知の巨人として捉えながら、その思索の答えを単純化して表そうとばかりしているからだと思う。「俺の本なんか読んでないんじゃないか」とまで言われていた。実際読んでないんじゃないかとも感じられるわけで、こういうのはどうしたものか。
 他人が言う分には仕方ないから放っておいたのかもしれないが、立花自身は「知の巨人」ということを果たして考えていたのだろうか。確かに人間のことを知りたいと模索していたとは感じられるものの、立花のそれは本当に学問の人だったのだろうか(学徒ではあろうが)。いわゆる研究者ということとは違ったアプローチで物事をまとめていたらしいことは分かるのだが、それは彼がジャーナリストだからである。そうして作家としての書き手だったからこそ、富を得て、書籍を買い集めることができた。それは本人にとって幸運なことではあったと思うが、知の巨人として役割をはたしている存在だったのかは、どうなのだろう。
 だいたい学問の世界で考えると、誰が何をどう考えるかということなんてものは、実際の話どうだっていいものだ。そんなものはあまり学問的とは言えないし、知の集積としても、そんなに意味のあるものでは無かろう。どのようなことがあるということの道筋であるとか、研究であるとか、事実ということの方が大切なのであって、その結果をどう考えるかは、つまるところ人間の勝手である。本人には意味があっても、他にはどうだっていいのだ。もちろんそれ自体が面白いので、なるほどね、程度には思うかもしれないが、研究そのものを追求するには、あまり価値は無かろう。つまるところそれがジャーナリズムとの違いではないか。紹介はできるし、どのようなものであるかは理解できるが、それが研究そのものでは無いのである。知るということは、つまるところそういう感じがする。
 もちろん立花の言う、分からないことを知る、分からない部分の面白さを知る、ということには共感を持つ。そうしていわば、それが見てきたことの答えでもあったのだろう。それが何だと言い切ることは、それは追求としての終わりなのかもしれないし、何もわかっていないということを知らないだけのことかもしれない。
 まあしかし、生きているうちの考えであれば、死後は自分を残させたくないということは、分からないではない。それも一種の欲であろう。死んだあとは自分が残らないのであるから、そんなことは気にしなくてもよさそうなものだが、そう考えるのも人間である。そういう意味では、やはり人間くさい達観が、彼にはあったのだろう。
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果てしない消耗戦   アウトポスト

2023-01-19 | 映画

アウトポスト/ロッド・ルーリー監督

 アフガニスタン北部の米軍野営基地攻防戦を描いた作品。実話に基づいているものらしい。日常的にタリバンからの砲撃を受けるほか、地形が谷底になっていて、包囲されると逃げ場がない。最初から危険な場所であることが分かっていたが、前哨基地として米軍の拠点であると考えられたのかもしれない。しかしとうとう実際にタリバンが総攻撃を仕掛けてきて、激しい銃撃戦に耐えることになるのだった。
 いくら装備が充実している米軍であるとしても、不利な条件が重なる中に攻撃を仕掛けられ、多くの犠牲者を出した実際の戦闘があったということらしい。その再現に当たって、基本は俳優たちが演じているものの、当時その場所にいた兵士も撮影に加わっていたようだ。商業映画だが、後半の犠牲を伴う銃撃戦の場面が延々と続き、いかに壮絶な戦いだったかということが克明に再現されているようだった。仲間が撃たれて倒れても、助けに行けば標的になってしまう。ジレンマを抱えながら、どのように闘っていたか、ということだった。
 もちろんこれは一方的に米軍の側から見た戦闘である。犠牲者の数としては圧倒的にタリバンの方が多いだろう。バランスを考える必要が無いから、タリバン兵がまるでゾンビのように襲い掛かって来るという展開になっている。しかしそのようにして米兵が犠牲になっているということであって、基本的には米軍称賛映画なのである。結局この戦闘を経て、この前哨拠点基地は閉鎖されたということなのだが……。
 反戦ものだから優れているとか、戦意高揚ものだから駄目だとか言う気は無いが、おそらくこれは米軍の協力も得て撮影されたという経緯もあるので、こういうことになったという気もする。死んだ兵士の家族も観るわけだし。だからこそリアルな場面が描けたということも分かるし、それでいいわけだが、戦争には相手がいて、タリバンとしては米軍をやっつけなくてはならない訳で、多くの犠牲が見込まれながらも果敢に攻めてきた、ということも言える。結局は殲滅されるということになるが、人の命がこのように消耗されるのみが、戦争という現実なのである。アフガニスタンの非協力的な村の様子もなんとなく描かれているが、本当にいったい何のために米軍は戦わなくてはならないのか、よく分からなくなっていく。しかし兵隊として赴いたからには、銃を取って人を殺すよりない。いろいろ事情はあるにせよ、現場は大変だなあ、ということなのかもしれない。
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哀愁のジェフ・ベックよ、永遠に

2023-01-18 | 音楽

 ジェフ・ベックが亡くなった。ショックと言えばそうだが、78歳ということだから、ロックスターなので長生きだろう。昨年もツアーやったり他のプロジェクトの録音があったり活躍している様子だったので、意外性はあるにはあったが、亡くなるにはおかしな年齢ではない。
 日本では過去に世界三大ギタリストの一人としてジェフ・ベックの名前があった。今もそういう名称が残っているとする古いファンもいるだろうが、いわゆる新しいブルース・ロックの世界の黎明期においての存在感のあった人だ。影響を受けたかもしれないギタリストはそれなりにいるはずで、僕より少し先輩の人はまねしている人も少なからずいた。まあピックを使って弾いてはいたが。たいてい「悲しみの恋人たち」であり、僕が中学生くらいの時は流行っていたのである。
 僕自身もいくつかアルバムは持っていたが、当時はインストルメンタルの曲が多くて、あんまり熱心には聞いていない。ちょうど80年代のアルバムだったということもあってゼア・アンド・バックはよく聞いていた(探せばワイアード、ブロウ・バイ・ブロウなんかは持ってると思う)。時代もあるんでエレクトリック・サウンドの、いわゆるコテコテ泣きのギターでなかったのに、それなりに町で流れていた印象がある。
 その後も来日していたようだし、ファンも多かったと思うが、いわゆる大ヒットを飛ばすような感じでは無かった印象がある。とにかくいつまでも伝説的なレジェンドであり、息の長いプレイヤーだった。しかし相当な変人であるという固定的な印象もあって、わがままにステージをすっぽかすような人だとばかり思われていた。体調を壊したとかいう理由でツアーが中断したりということもあったと記憶するが、それも過去の噂だったかもしれない。ネット時代になっても演奏する映像はそれなりにあって、やはりライブでは精力的に活動を続けていたようだ。クラプトンも神格化されているが、ジェフ・ベックも我が道を歩んでいるという感じだろうか。
 少しジャズっぽい方向もあって、ジェフ・ベックと組んでいる人たちの演奏能力も高いという感じだった。だからからか、それなりに即興でライブを膨らませていくような弾き方をしていたのではなかろうか。体形も変わらず維持していたようだし、地毛かどうかは知らないが、少し短くなったとはいえ長髪だったし。妙なところで急に盛り上がるくせに、情緒なくパタリと演奏が終わったり、まあ、独特なセンスではあった。
 僕としては三大の残るもう一人の動向が気になっていたけれど、結局ジェフ・ベックのように精力的に活動をすることもしないので、こればっかりはいまだに残念だ。ジェフ・ベックは本当にギターを弾くのが好きだという感じがして、羨ましいのだった。どういう思想の持ち主なのかはまるで知らないが、もちろんそんなことよりギター・プレイである。放っておいてもおそらくギターを弾き続けるような人だったに違いなく、幸運にもファンが根強くいたので、最後までお金を取ってプレーし続けることのできた人だったと言えるだろう。それこそが彼の素晴らしさで、そのすべてであろう。
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続編は落ちていく   マスカレード・ナイト

2023-01-17 | 映画

マスカレード・ナイト/鈴木雅之監督

 ホテルに殺人予告が来たことにより、警察とホテルマンが協力して犯人を見つけようとするドラマの二作目。いわゆる近年盛んになっているテレビ局による映画作品なので、俳優陣がテレビでおなじみのキャストになる。とはいえ僕はあんまりテレビドラマは観ないので関係ないけど。またそういう影響もあるので、演出は分かりやすめである。しかしこの映画はテレビドラマの映画化ではないところが、ちょっと変わったところかもしれない。そうではあるが、キムタクと長澤まさみの掛け合いを楽しむという図式を踏襲していて、そういう向きに合う構成になっているといえるだろう。
 それなりに脚本が凝っているのは分かるが、そういう訳で割合に分かりやすい。いや、分かりやす過ぎるかもしれない。そういうのはこのようなミステリ仕立てのドラマではどうなのか、と逆に心配になってしまった。だって次にどんな科白を言うのかさえ、だんだん予測がついてしまうくらいなのである。オチについても、面白くないわけではないが、すぐに予測がつく。伏線が分かりやすいからである。だから演技のほうがさらに遠回しに臭く感じられたりして、よくないのではなかろうか。まあ、あまりに不親切な映画も多いわけで、こういうののほうが親切という考え方かもしれないけれど。
 良くも悪くもそういう映画だということで、前作が良かったから続編も作ってみたが、斬新さが薄れたぶん、パワーも落ちてしまったようだ。
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