カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

やはり醤油の違いだろう

2013-10-31 | 


 訳あって客人を迎えての接待。長崎の自慢の刺身などを。





 以前にやはり客を迎えて刺身を食べている時、少しはお世辞だと思うのだけれど、こんなに新鮮な刺身ならそれを前面に出せばもっと売れるのではないか、といわれたことがある。そこの店はここいらでは割合普通の居酒屋だったが、確かにそういうことを思われるのは分からないではない。長崎のお店で新鮮で無い刺身を出す方が少数派だろう。だから新鮮と書いてあっても、なんじゃらホイ、としか長崎人は思わないのではないか。いくらあちら人のニュースであっても。
 でもまあ寿司屋の刺身である。これがまずい訳はない。僕らだってこれはしあわせだ。
 さらにクジラの数々。商売でテロをやっている連中にも食べてもらいたいものだが、まあ、もったいないのでやめておこう。クジラに失礼だろう。



 鯛の煮付けも美味である。客人に聞くと、やはり味付けは甘いのだという。醤油も含めて甘過ぎるということのようだ。まあ、甘いものを出すのがこちらのおもてなしの心なのだが、焼酎でも飲んで考えてもらうより無い。日本酒だとそういう文化とは違う感覚を持つものかもしれないが。もっともこのお客さんはあんまりお酒は得意ではないようだった。ではお茶でも合うはずだと思うが、まあいいか。



 いろいろ話題はあったのだが、何故か失われた20年のお話になったりした。結論は政治の所為になったようで残念な感じもするが、酒の席なのでもう何も言うことは無い。いや、たぶん言いたかったのだけど、よしておいたというべきか。困ったことはたくさんあったが、それが日本なりの豊かさでもある訳だし、そうして20年は戻らない。20年前にやっておいたらよくなっているものもあるだろうけど、先送ってきたから今がある。そうしてたぶんまだまだ先も先送りだろう。



 途中トイレでチラと見た時は楽天が勝っていたようだけど、お開きになると巨人が勝ったらしいことを報じていた。お見送りして二次会に行って、そうして同じように認識の違う話を聞いて、結局しこたま飲んでしまった。いつものことだと言えばそういうことで、お茶をたくさん飲んで寝てしまった。
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ふざけているけど、まっとうなアメリカ精神   ヘンリーの悪行リスト

2013-10-31 | 読書

ヘンリーの悪行リスト/ジョン・スコット・シェパード著(新潮文庫)

 過去の悪行を償うための巡業に出るようなイメージを抱くかもしれないが、実際にそうではあるんだが、やはりこれはロマンチック・コメディとすべきところだろう。極めて映画的な小説だが、それもそのはず、作者は映画の脚本を手掛けるらしい。はっきり言って、古いアメリカの良心を良いものと思える人なら、きっと楽しめる作品だろう。僕はそういうものに対しては警戒心を持っている方だと思うけれど、別段そう構える必要などなかった。漫画的な会話を楽しみスラップスティックなギャグを楽しみ、そうしてやはり心温まる気分になる。それのどこが悪い?という読後感だった。ありえない話だけど、気分良く楽しめるんだからいいじゃないか。その様な開き直りが必要なのは、それだけなんだか気恥ずかしいような素直さを失ってしまった人間だからだろう。それは自分の責任であって、この作品の責任なのではない。漫画的で映画的であろうとも、しかしある意味で大変な共感もある。その様な心の傷のある人も、ヘンリーのおかげで傷が癒える可能性すらある。そんなバカなと思うかもしれないが、僕はそんな気が何となくするのである。もちろん過去は変えられない。しかし、今や将来の気持ちは変えることができるのである。そうして、実はまじめにそういうことに向き合えるのは、楽しいファンタジーだからこそかもしれないのである。
 ヘンリーがいわゆる暗殺者といわれるような、邪悪で鉄の心臓を持つにいたった理由は、失恋である。もともとヘンリーはいい人なのである。しかし、決定的に自分を変えることに成功する。あらゆる人格改造のセミナーを受けても変わらない人があるとする。そういう人であっても、本当に心の底から好きな人にいいところまで行って断られたならば、それはそれなりに変わらざるを得ないだろう。ヘンリーはティーンエイジャーでそういう経験をする。一夜限りの関係も結び、人生の絶頂を味わった後に、奈落の底に落とされる。これで人生の変わらない人間は居る筈が無い。それで心を入れ替え、ある意味で、人生の成功者へ登りつめてしまう。人道的にはどうかということはあるにせよ(それもひょっとすると偏見かもしれないし)、金銭的には大変な成功者なのである。そうしてまた同じ女から、二度目の人生変換の仕掛けを食らうのである。今度は失われてしまった、いわゆる本当の自分を取り戻すために、奔走しなくてはならなくなるのだ。
 価値観の問題はある。それはちょっとどうかという偏見もある。しかし、そういうものを努力して掴もうとする。そういうところは非常にまじめである。そうしてそういう修正主義的な考え方は、たぶん宗教的な背景がある。ピューリタン的な一貫性がある。それ自体も楽しい仕掛けにはなっているのだが、しかし、なじめない人は日本人には居るのではないか。日本的なまじめさとは違う潔癖とは何か。そういうことも同時に考えさせられる。今や日本もこの影響はずいぶん浸透している。気付かない人がいるとすると、既にそれは半アメリカ人なのではないだろうか。
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みんなビンボーが悪いんや   警察日記

2013-10-30 | 映画

警察日記/久松静児監督

 警察に厄介になる人は犯罪者だけか。そういう視点から出発しているのだろう。もちろんそれだけで済むなら警察なんか要らない。そういう皮肉もあるのかもしれない。
 戦後の混乱と貧困とを交えた人情群像劇ということができるが、トーンとしてはそんなに深刻なものではない。深刻な問題を扱ってもいるし、ジーンとくる場面も多々あるのだが、基本的には喜劇として描いている。そうしてそのような喜劇だからこそむしろ腑に落ちるようなお話、ということも言えるのかもしれない。
 比較的悪い人間も出てくるのだが、本質としての悪さというより、そういうたくましさを持っているという印象がある。本当に悪そうなのは偉い人で、そこのあたりは類型的かもしれないが、役に弱い組織の日本人の姿ともいえる。現代でもそうだから、普遍的なものなのかもしれない。
 それにしても背景に横たわっているどうにも難しいものは、他でも無く貧困である。お金が無いから生活が苦しい。それは今に通じている話ではないかと思う人もいるかもしれないが、根本的にその質は違うことは間違いあるまい。豊かな人もいるのだけれど、当たり前だが圧倒的に少数で、なんとなく生活が成り立っている人も、貧困に対する理解が深い。つまりお互いさまという了解が自然に成立している。事件と直接には関係のないそのような困った背景に首を突っ込まざるを得なくなり、一緒になって困ったりあれこれ世話を焼いたりしている。それはそれでたいしたことだが、そのおせっかいが今の常識からすると、少しズレている感じもする。だから必ずしも上手くいかなかったり、そのことが関係して別の問題を引き起こしたりもしてしまう。それでもおおらかに何となくの落とし所で良しとするようなところがある。本当にこれで良いのかは疑問もそれなりにあるけれど、貧困なんだからそこのあたりにするより仕方が無いじゃないか、といった感じかもしれない。特に捨てた子供を引き取りに来た母親が、本当は子供と共に心中しようと考えていることを知る。もちろんそんなことは出来ないから返せない。今の子供を預かっている家も悪いところでは無いから、遠くから顔を見させてお別れをさせ返してしまう。一見合理的だが、やはり人情劇だ。そうして貧困は、自分の力で何とかするより無いという、ある種の達観があるということだろう。
 子役の演技が素晴らしいのだが、これは天才と言うべきもの。子供の可憐さは、演技というもの以上の威力があるということだろう。もちろん時代の求めている象というのがある。まさにそのツボにぴったりとはまった演技力が発揮されているのであろう。この映画の名画らしい印象の多くは、子役の演技に集約されている。そういう感じの変な喜劇映画なのであった。
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捨てる判断をきめる一つの方法

2013-10-29 | 雑記

 断続的に「断捨離」などという言葉を聞く。一種の思想やスタイルを含むのは分かるが、みなものを捨てることには苦労しているということだろう。
 もともと捨てられるような甘いものではない、という意見もある。それはそれとして承知しているし、捨てても良いかもしれないが、捨てられないということ自体を肯定しても良い場合があるのはひとまず措いておかねばならない。よっぽどの金持ちであるとか、環境が許さない限り、ものを捨てなければ物理的に問題を生じるという現実問題がある。僕自身は普通の人に比べると、かなり物理的空間の余裕のある立場だとは思うのだけれど(別宅もあるし、倉庫もある。さらに自由に使っても恐らく文句を言われない部屋も複数準備できると思われる)、たとえそうであっても、溜めこむ人生に有限であるのに違いは無い。さらに溜め過ぎると結局宇宙空間の様な検索不能に陥る訳で、さらにその間に虫が湧いたり腐敗したりなどの衛生問題も生じる。捨てる営みは生きている人間の証であるのかもしれない。
 とはいえ、やはりある程度の基準を設けなければ、捨てる営みは成立しない。捨てるのか捨てないのかの選択に、あまり時間を取られない程度には、思想やルールを持たなければならない。
 基本的にはこれが無ければ飛び上がって困るようなものは捨てられない。究極には、その基準だけでよいという噂は聞くが、過激すぎて守れそうにない。守れないものをルールにする訳にはいかない。
 では、困るかもしれないが…、の間にいろいろありそうなことがある気がしないだろうか。コレクションであるとか、お気に入りはおのずと不必要でも捨てられないから、そういうものは一応排除しておく。要は、困るか困らないか。飛び上がって困ることは無かろうが、無いと困ることが将来起こるのが困りそうなのだ。
 仕事関係の書類というのは、これによってとりあえず保管、という道をたどっているものがほとんどだ。あと、持っていれば便利かも、という期待や、もっておかなければカッコつかん、というものもあったりするが、とりあえずはやはり、将来的に困るか困らないかだ。役場などは書類を関係別にして永久だとか、10年だとか、5年だとかに分けているとも聞く。複数の人が取り扱う場合は、そのような時間軸という考え方はひとまず参考になる。
 という訳で、一年間一度も手に取らなかったというものを、とりあえず放り込んでおくようなことができると大変に便利である。一年後に必要なものがあるからまだ捨てられないような場合もあるが、この時点でかなり捨てられるものが選別できる。今は燃やすといろいろやかましいけれど、以前はそういうものを年末になると盛大に燃やして喜んでいた。放火魔というのはこのような喜びではないかと心中思ったりしたものだ。
 しかし残念なことに、それでも残るものはある。これは少し危険度がありそうなものだ。危険では無くても写真の類もあるし、本の様なものもある。文房具や家庭用品など、普段使うには足りているが実用的なものも捨てにくい。思い切って人に見せて持って行ってもらうという手もあるが、自分の要らないものは偏りがあるのか、あんまり評判が良くは無い。
 酒を飲んで選別するという手もある。気分が大きくなっているので、「要らないものは捨てる」という目的意識にそって考えると、かなり捨てている場合がある。そのことも忘れていることもあるから危険には違いないが、もうどうにもならないという点では諦めも付きやすい。
 僕がたまにだけどやってみるのは、とりあえず持ち歩いてみるというやつだ。大きな袋に入れて持ってみる。時々外出する時に持って行ってみる。なんという無意味な行動かと思われるかもしれないが、これは精神的に良いことに気付いたのだ。何故なら僕は出張中に頂いたものは結構捨てるからである。
 出張にはなんかの大会なども多く、いろいろと参考資料を頂いたり持って行ったが読んでしまった本などもある。そういうものを持ち歩いていると、なんだか急に悲しい気持ちになる。たまに捨ててしまった本をまた古本で買うことはあるけれど、資料などはその時説明を受けた後に見直すことなんてまずない。ホテルの部屋で選別してメモ用紙に「忘れものではない。捨ててください」と書いて置いて行ったりする(これをやらないであとで連絡が来たことがある)。駅のゴミ箱を見つけて捨てる。重いものを運ぶことに、なんだか不条理な気分になるせいだと思う。持ち歩く価値のあるものなら捨てられないが、そうでなければ捨ててもいいかもしれないのだ。
 という訳で他の人に参考になるかは分からないが、「持ち歩いてみる」が、僕の断捨離の一つの基準なのでありました。
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陶器販売風景です

2013-10-28 | 散歩
 仕事とはいえイベントへ参加してきたので、どんな具合かあげてみます。時にはそういうことも知りたいというリクエストもあったもので…。


 商売道具を車に詰め込んで、いざ出発。



 でもすぐにインターに寄って、ジュースを買います。





 なんか改装中みたいですね。



 盲学校の文化祭での出店です。生徒さんや家族の皆さんは体育館で集まって何やらやっているうちに、商品並べて設営です。



 だいたいできた。うちの焼き物はこんな感じであります。











 とある一室をあてがってくれた訳ですが、PTAさんと一緒でした。







 お隣の部屋は、何やら芸術的な展開であります。







 芸術なんですが、子細にみると、やはり何となくエッチですね。





 販売まではまだ間があって、早目の食事を調達に行くことにしました。ついでに校内を散策。









 変なものもあります。



 改めて玄関。


 目の前にあった銅像。



 なんて書いてあるかほとんど分からん。



 門の外の注意書き。犬は嫌われているらしい。



 コンビニでお茶とお菓子を買って帰って来た。今度は体育館側の坂道を上った。



 グラウンドを見ると、青春って感じっすよ。



 弁当を販売しているのは知ってたので、そちらのおにぎり弁当を購入。けっこうなボリューム。もちろん旨かったっす。



 うちの売り子さん達。後に彼女らは大活躍するのだった。



 で、正味二時間あまりはけっこうな客足。というか必ずしも人は多くないけど、立ち止まってくれる人やお話をしていく人などでほとんど写真を撮る余裕すらなかった。正直言ってあんまり売れないかも、と聞いてたんだけど、あと一つか二つサンテナが必要だったかもしれない。

 怒涛の販売の後に、丁寧にお片づけ。



 またしてもみなさん体育館の方へ去っていかれて、さびしい学校の風景に戻ってしまった。







 帰りもコンビニ寄ってお買い物したりして、外出を楽しむということも、まあ、仕事の一環なのであります。僕らも楽しくないといけないんですよね。いい訳じゃ無くて…。

 やっと帰って来た。また後片付けして、今度は食事前の準備やら何やら残務処理。今日の仕事はなるべく済ませてしまわんと、明日がまたつらいですからね~。



 また来年もと校長先生も言ってくださいました。ほんと期待してますよ。来年もよろしくお願いします。






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残念顛末

2013-10-27 | 掲示板
 ななつ星のことは知らないではなかった。でもまあ、そんなに興味がある訳ではない。中学生の時に「あかつき」で大阪に一人で行ったとき(兄のおごりで一人旅をさせてもらったのだった)に初めて寝台列車というのに乗って感激した思い出はあるけど、あのような感激は若いからだったろう。
 つれあいの姉だったか何だったかの遊びに付き合って(というかだんだん興味が湧いてきたわけですが)、見に行くことにしたのでした。

 これも十代の末に友人の就職見送り以来に買ったんじゃなかろうか。入場券。




 既にホームにはけっこうな人だかり。





 つれあいがベンチに座っている女子高生と何やら話をしているのでなんだろうと思ってたら、彼女らはこの騒ぎの原因を知らずに、なんで人が多いんだろうといぶかしんでおったそうで、教えてあげたらしい。親切のおかげで写真の競争率がアップした。

 黄色い線の内側へというアナウンスがひっきりなしにながれ、しかしひかない人々との葛藤がしばし続く。

 で、来た来た!



 あれ、フラッシュが焚けない。



 ゆっくり駅を通過していく。





後ろ姿が少しだけ。



 良く分からんかったけど、反対のホームからの方が撮影には良かったかもしれんという話だった。

 残念な感じだけど、何となくライブで客同士が感動を共有しているような空気がホームに満ちていた。駅員さんも嬉しそうだった。また来週も来ますよ、と何度もいろんな人に話しかけていた。


 駅前のコンビニではいつもと変わらないヤンキーの人々がいつもと変わらずウンコ座りしたりチャリンコまたがってだべっていた。田舎だなあ~。


 
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数学的音楽世界

2013-10-27 | 音楽

 NHKでは白熱教室という番組が続いていて、サンデル教授以外でも面白い授業を聞く事が出来る。まあ、サンデルさんの様な話って、日本受けするのは分かるけど、他の人たちも毛並みは違うんだが、なかなか凄い。学問的にどうかというより、一般向けの公開講座という感じで、とっつきやすい演出とは言えるのかもしれないけど、いい時代になったものだな、とつくづく感じますね。
 さて、そのシリーズのオックスフォード版の、さらに数学教授であるマーカス・デュ・ソートイさんの授業が現在シリーズで放映されている。これもなかなか面白い。内容は見てもらった方が早いが、数学が実に豊かな感性を育むことが理解できて素晴らしい。文系人間は数学やデジタルみたいなものを、情緒的につまらないものとみなすような偏見を持っているような人が多いように思うんだけれど、まったく逆だという事実に心打たれて欲しいものだ。
 実はこの人の本は買いそびれていて、ああそうだったと改めて思った次第。ずいぶん前から出版の方面では有名なことは知ってたけど、こんなに楽しい人だったんだね。それも今回のテレビの収穫だった。
 さて、それで数学の世界を音楽で表現したものとして紹介されていたオリビエ・メシアンに興味を抱いて、聞いてみた訳です。



オリヴィエ・メシアン「世の終わりの為の四重奏曲」


 うーんそういえば現代音楽だったよね。ケント・ナガノ以来の?!な世界で恐れ入りました。難解というよりかなり気分が悪くなる感じかもしれない。
 でもまあ、この分からなさはある意味で邪魔にならない感じも少しして、流しっぱなしで何も考えないのには良いのかもしれない。分からなく楽しくないものがすべて駄目だということではない。お経などを聞いているよりよっぽどましかもしれない。いや、お経がいい人はそのままで結構ですが…。
 ある種のシンメトリーというのは、身を任せるには心地よい場合があるのかもしれない。僕自身はあんまり馴染の無い世界だったので、ついつい引っかかってしまうのだろう。もう少し我慢を続けるか、それとも放り出すか、今のところまだ思案中であります。
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コメントのやり取りはあんがいむつかしいですね~

2013-10-26 | net & 社会

 話題のタンブラー(tumblr)を覗いてみたんだけど、登録するも何となくめんどくさくなった。デザインがカッコいいのは分かったけど、コツが飲みこめてないからだろう。まだ友だちもいないし、結局様子見という感じである。

 FBの方はほぼ日常の一部化ということで、日頃はある程度制限をかけている感じである。やはり浸食されるという感覚はあって、自制心を持たねば、と思う訳です。

 ところで、普通はFBにおいてのコメントのやり取りは軽く済むものが好ましいとは思うのだけれど、内容によってはかなり行き違いがあったり、舌足らずにならざるを得ないものがあって、消化不良を感じる。ツイッターではそれが顕著だったから離れた感じだったのだけど、FBでもちょくちょくそういうことがある。ダイレクト・メッセージで長文のやり取りをしたりしたこともあるが、やっぱり文章の対話だと一度すれ違ったニュアンスの修正がむつかしい。そもそもの背景を丁寧に共有しないままだと議論にならないものもあって、そういうのはかなり長文の往復書簡にならざるを得ない気がする。
 これは僕の意見に誘発されて、別のイメージが膨らんでしまった場合に多いようで、それは僕としても分かるが本文の趣旨とはずれるし、だからと言ってそちらのお話の方も重要である場合もある訳だ。考え方が完全に違ったり、間違いが含まれているようなものは何となくスルーすれば済むようなこともあるが、誤解のままだったり、本当はもう少し僕としての意見のあるものがある場合は、かなり引っかかったまま消化不良を起こしてしまう。たんにもやもやと気になって気持ち悪いということなんだが…。
 別トピックを作ったりするという手もあるんだろうけど、それで議論が発展するのがいいのかという感じもしないではない。なんで?と思う人の方が多い感じもするし。別のブログでトピックをたてるのがいいのかもな、とも思うが、これも本当にタイムリーで無いと食い付きが難しいようにも感じる。そもそもFBでのひとが、追ってこちらに来るものだろうか。
 短くて不完全だからいいものであるのが基本だと思うものの、このような問題はいつも付きまとうのがSNSなんだと思う。まあ、別段普段の生活の会話と変わらない訳なんだが、頭の片隅に引っかかるしつこさは、ネット特有という気はする。まあ、忘れるのが一番なのかもしれないですけどね。
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雨に活躍するビニール傘と薄情な僕

2013-10-25 | 掲示板

 長期の出張の後に帰ってくると、妙な具合に仕事が停滞する。するが、テキパキ捌くのも何となくできない。非常に怠惰な気分になってしまって、これはもう少し後回しにしちゃえ、的な声が聞こえてくるような気がする。今しなくていいものは徹底して今しなくていいというのはラテン気質というらしいけど、ラテンの気分ではぜんぜん無くても、そういう気分にはなる。そうしてこうやって外は雨で、ぶつぶつなんて言っていると、やはり何かはかどらない。晴れていても外で何かやる訳でもないが、晴耕雨読を気どってインナーにサボりたくなるのかもしれない。

 ところで出張の折も雨が降る日があって、研修の会場からホテルに傘を指して歩いていたら、突然僕の傘が閉じてしまった。留め金か何かのトラブルかな、と思ったが、実はそいうもののない特殊な折り畳み傘で、なんというか紐の様なものが骨組みを束ねる部分を引っ張る仕組みのようで、それがダランと緩んでいる。どうもそれが原因らしいという見当はつけることができたが、何しろ雨の中である。ビル陰でいろいろ作業するにも、研修の時の書類などを抱えたままだとどうにもうまくいかない。気がつくと何となく持ち物に赤い色が付いており、指をざっくり切ってしまっていることにも気付いた。雨でよく分からなかったが、それなりに出血があるようだ。まさに踏んだり蹴ったり。諦めて、まわりを見回すと、少し先にコンビニを発見。こういうときは助かりますね。
 さっそく500円だったかのビニール傘を購入。並んでいる人に気付かずに店員さんに怒られて並び直して買ったのは愛嬌だが(陳列の陰に人が並んでて気付かなかった)、とにかく新しい傘は壊れてなくて助かった。それでホテルに帰って壊れた傘を再度いじるというか触るというか、ちょっと紐を引っ張るようなことをしたくらいで、簡単に傘は直ってしまった。お気に入りでもあるし助かることでもあるのだけれど、そのあっけなさに妙に腹が立ったりしてしまうのだ。それならどうして困っている時に直ってくれないなんて意地悪なことをしてくれたものだろうか。
 傘は直ったけれど、翌日の雨の中ではせっかく買ったビニール傘を使う。新幹線に乗ったりいろいろ移動した後、やはり現地は小雨でやはりビニール傘。二泊して用事が済んだら、結局ほとんど使わなかった折り畳み傘をもちかえり、ビニール傘はホテルに寄贈した。助けてくれたりよく働いてくれた方を見捨ててしまった訳で、我ながら薄情なことをしたような気分だった。
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帰って来たよ、疲れました

2013-10-24 | 散歩
 いよいよ最終日。

 朝飯。


 で、やっぱり散歩。上着なかったらかなり寒い感じでした。













 その前の晩に片町ってとこに飲みに行ったんですが、地下道を通ったんですよね。何やら地下道がけっこうあって、そういう道がたくさんあるようでした。








 最終日は講演があったり施設見学があったりで、これも大変に勉強になった。凄いところはホントに凄いという感じで、さらに歴史の重みを僕らはどう受け止めるのか、ってなことを考えたりいたしました。

 途中で食った弁当。






 駅までマイクロバスで送っていただき、鯖江から鈍行で武生に行って、またサンダーバードに乗ることになりました。



 いちおうおみやげ屋によってみた。人の良さそうなご夫婦でした。



 駅中で刃物の龍。ちょっと反射で見にくいですね。



 さらに菊人形。八重さんだそうです。



 サンダーバードも快適。けっこうスピード出すんですよね。

 途中琵琶湖を通って、




 鴨川、京都。




 新大阪。修学旅行(?)の子供で一杯。
 ここからバスで伊丹まで。



 で、帰って来た。




 飛行機の中でお隣に就活中の女子大生といろいろ情報交換出来ました。彼氏が留年してどうしたもんだろう、というお悩みを抱えておられたようです。若い男というのはそういうもんですよ、あとで復讐しなくてはなりませんね。でもまあかわいい上に賢そうな人で、就職はおそらくばっちりでしょう。



 やっぱり家で飲むのは良いですね~。晩御飯はおでんでした。



 と、〆サバ。




 おみやげ。おふくろや息子のことも考えてのことです。職場のはスタッフにカンパして選んでもらっておきました。




 杏月ちゃんの顔もみられてゆったり致しました。ただいま~。

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三日目、四日目、福井

2013-10-24 | 散歩
 三日目朝は暴風雨まっただ中。4時前から目が覚めてニュースと外を見てました。電車が動いていたり、新幹線が動くと聞いて、なんだか日本ってえらいなあ、と感激してしまった。少ないけれど通勤する人もチラホラで、さらに偉いもんだなあと思ったり…。



 でもラッシュアワーであっても人が少なくて、荷物があるのに電車に乗れたのはラッキーだったかも、です。
 新幹線は一時間ほど遅れて品川から乗れました。それだけで、なんだか嬉しかったなあ。



 名古屋経過して、



 前原で乗り換えだったのですが、当初予定したしらさぎが運休。回り道してきたサンダーバードに乗れました。さらに運よく座れて、駅弁も食べることができた。このあたりは雑踏の中大変だったけど、結果オーライであります。



 で、福井着いたー。


 
 大会会場と宿泊ホテル。



 窓の外、駅前再開発みたいですね。



 この後予定されていた会議は延期。大会会場整えたり、後発組の仲間と合流して食事に行ったのだけど、カメラを部屋に忘れてました。ということで、残念レポートになってしまった。いろいろ食ったんだけどな。
 ちなみに蟹は解禁前ということで断念。財布との相談もあったけど、残念でした。



 という訳で、翌朝の散歩。


































 
 という感じ。川があったり路地があちこちあって、なかなか風情豊かなまちのようでした。

 昼には大会があって、まじめにやったのでかなり疲れて懇親会。



 二次会も地下でやって、またしてもコンビニ行って部屋飲み。



 でもちょっと余分だったです。



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遺体拒否の行先

2013-10-23 | culture

 少し前に元ナチスの将校の埋葬先が決まらない騒動のニュースがあった。虐殺に関与した人物の死体でも許せないという感情が、その様な形になったということだ。殺されたとされる人の家族や親戚にしてみると、そのような感情というのは分からないでは無いにしても(それでもそれでいいかは分からない)、今騒いでいる人々は、恐らく違う人々だろう。過去のナチスは許せないということを誰もが同意しているからこそ、こういうことになるという気もする。
 死んだら仏さんだからいい加減してやれよ、という日本的な声も聞こえそうだが、じゃあ、日本に連れてくることに同意するとして、やはりそれでいいのだろうか。結局いつまでたっても宙ぶらりんが続いてしまうような気がする。
 ナチスは悪いことをしたが、ナチスという邪悪性がそういう確定したことをするのだろうか。ドイツ人だからだろうか。日本だって同類だろうか。普通は掘り下げたりその先を考えたりするともっと疑問があるはずだし、実は答えらしきものもありそうだ。しかし多くの人は、そのずいぶん手前で考えをやめるような気がする。悪い人の遺体は放射能の様なものなのか。穢れの様なものなのか。このような考え方は、西洋だけではなさそうでもある。それならば、現代人の癖なのだろうか。
 しかし死んだ人は既に何も感じてはいないだろう。宙ぶらりんのまま朽ちてしまえば、ウジなどが処分してくれるかもしれない(骨は時間がかかりそうだけど)。つまり自然は最初から許容している。
 雑誌をぱらぱら見ていたら、宮崎勤死刑囚のことが書いてあった。鳩山法相の時代に死刑が執行されたのだそうだ。それでも刑の執行まで二十年。いろいろあって、実はそれでも順番的には繰り上げてのタイミングだったようだ(詳しくは小学館の「本の窓」を参照のこと)。二十年間、ほぼ毎月一度面会を続けていた宮崎の母は、息子の遺体と対面した後、遺体の引き取りを拒んだという。これはナチスとは意味が違うようだが、母親である責任と、憎悪に似たものを同時に内包していたのかもしれない。
 人を殺すというのは、殺された人以外の人にも大きな影響が及ぼされる。自殺なども含めて人の不幸な死は、残されたものにいつまでも暴力としての傷を残すのではあるまいか。もちろん、死んでからはそれは分からない。生きているからこそ、そのことは考える必要があるはずなのである。
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二日目、霞が関、新橋

2013-10-23 | 散歩
 本番研修会場へ。霞が関なので歩いていく。既に小雨がパラパラ。





 アウトラインとしてまずまずの成果。
 昼弁当を食って、小雨の中散歩する。

 ほぼお隣の国会議事堂。





 警察官もたくさん動員されてるし、何やら物々しい。国会初日だったようだ。デモ隊なんかも行進してて、なんかみんな暇なんかな、という感じもしないではない。いや、非難している訳じゃ無くて、物々しくも、何となくのどかというか…。



 このように写真を撮っていると、何やら警察官が寄ってきて職務質問を受けた。でもまあ、終始和やかに世間話という感じ。「デモやらたいへんですね」というと「やはり注目が集まりやすい国会初日というニュース性のせいでしょう」と解説してくれた。彼等にとっては日常的な業務なのかもしれない。お疲れ様であります。

 首相官邸。





 午後の研修も良かったです。僕は普段はあんまり勉強熱心じゃないのだけど、いろいろ考えるところ多くて勉強になった。やっぱり実践している人の言葉は重いと思った次第。僕も頑張ります。





 外に出ると雨脚がひどくなってて大変だった上に、急に持っていた傘の調子がおかしくなって開かなくなってしまって、もう一本傘を買って帰ったら、壊れていた傘の調子が戻って二本になりました。



 で、近所の居酒屋へ、GO!











 というように、酔って行きました。台風のおかげでガラガラ。まあ、こんな酔狂をやってる人間が少ないということでしょう。
 店員のお姉さんは上海周辺の町から来たという学生さん(本人談)。少し中国語で話をしたら、マシンガンのように普通語で話をし出して、ほとんど聞き取れませんでした。さびしかったのでしょうかね? 日本人で中国のことに関心のある人が減ったことを嘆いてもおられるようでした。まったくその通りですね。



 出歩くには最悪なのでコンビニ寄って、昨日飲みきれなかった分を眠たくなるまで…。



 ということで、台風を気にしながら、いつの間にか寝てしまっていたようです。

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移動日、新橋と銀座

2013-10-22 | 散歩
 今回の出張はホントに疲れた。幹になった全国大会は前々から分かっていたものだが、前半の研修は実は代理。比較的近くに行くのだからお願いします、ということだった。いい研修だったから良かったものの、そうでなかったら正直つらかった。

 という訳で振り返って参りましょう。

 まずは空港で見送りしてくれた杏月ちゃん。切ない顔をしてくれるけど、僕も切ないよ。



 で、空港は省略していきなり新橋に着いた。右手に人が溜まっているのだが、煙草の集団でした。大変ですね~。



 宿泊先に荷物だけ置いて、昼飯パスして散歩&映画でも見ようかな、と思ってブラブラする。





 何故か太陽の塔みたいなのがあった。



 最初は良く分からんでいたけど、この日は祭日だったらしく、さらにそのためなのかどうかも知らないけど、銀座は歩行者天国になってた。







 まあ、自動車道を人が往来できるだけで天国というのも変ではありますけどね。


 戻ってきて新橋ビルにも入ってみた。何故か写真撮り忘れてしまったが「ビーフン東」も店構えだけ見た。準備中のようでしたが。



 飲み屋街に神社もあった。熱心にお参りしているお兄さんがいて、何かあったのかなあ、などと心配してしまった。




 呼び込みの兄ちゃんに付いていって、宿泊ホテルそばのたしか「坐和民」改装中に入店。一人なんでカウンター。



 店員の中国人率高かったけど、特に問題無し。適当に純米も頂く。




 牡蠣。なんか高級食材が入ってたようだったが、忘れた。



 んで、焼き鳥。



 そういえば最初に注文してたサンマの刺身。甘くて旨かった。



 焼き鳥用にだろう。一味も添えられていたが、空だった。もちろん補充してくれました。




 新橋だけどけっこう閑散とした感じであった。祭日というのもあるし、明日以降に来るらしい台風の影響なんだろうか。

 ホテルは普通にビジネス。相鉄なんとか。フロントが2階にあるため、強制的に必ず2階に泊まる仕組みが煩わしいと思ったが、たぶんコールガールを呼ぶ人が多いためでしょうね。宿泊者のカードが無ければエレベータも動かない仕組みでした。

 部屋は必要最小限の狭さ。まあ、不満はありませんが。









 で、晩酌。





 朝飯と二日酔い対策。


 とまあ、初日の移動日はこんな感じでした。そういえば、映画の方は食指が動かず断念。16000歩くらい歩いたようでした。
 
 二日目に続く。




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子供の頃に食べていれば…   断たれた音・刑事コロンボ

2013-10-21 | コロンボ

断たれた音・刑事コロンボ/エドワード・M・エイブラムス監督

 なんだか犯人も被害者も両方にも同情してしまう作品。勝負の世界だから相手に対して猛烈に闘志を燃やしても悪いことではないが、殺してしまってはどうにもならない。さらに相手側は、実は大変にいい人で、そういう勝負に勝つことが必ずしも大きな目的でないような感じなのだ。そうであっても一方的に邪魔もので、さらに迷惑な存在ということになろう。注目を浴びなければ恐らく良き理解者として交友を結べていたのではあるまいか。
 これを見てふと思い出したのだが、子供の頃に、恐ろしげだが食べてみたかった料理はエスカルゴだった。ひょっとすると、これがきっかけでは無かったのだろうか? 被害者の憎めないひょうきんさを表す道具として出てくる料理なのだが、実に旨そうなのだ。しかしカタツムリ。愛嬌のある生き物だが、通った後にナメクジのような跡が残るあのナメクジを食べるなんて! そうしてこのことをきっと家族で話題にしたに違いない。外国の食用のナメクジは、たぶん紫陽花などを歩いている(?)日本のものとは違うとか、育て方に違いがあるとか、いろいろ聞いた記憶もある。本当かどうかは知らないが、もちろん家族のだれもが食べたことなど無いのだ。さすがに大人になって初めて口にした時は、巻貝の一種を調理したような感じなのだと少しばかり失望した。もっとも酒に合うおつまみのようなもので、旨くはあった訳だが…。子供の頃に食べるような体験があれば、いったいどのような感想を持ったことだろうか。
 さてしかし、この回はレベルが高く大変に楽しめた。今の時代だと扱いにくい題材だとは思うが、特に差別的な感じは受けない。あくまでトリックとしてのどんでん返しの効果が高い事と、この犯人の優れた能力だとか、苦悩の背景にもなっているとも考えられる。コロンボが引っかかっている問題も、さすがという思いがする。最初に言った同情心が無い訳ではないが、ラストに起こる一連の謎解きの見事さは、シリーズ中でも高い位置にある作品だろう。
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