カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

振り返るより振ってみる

2012-12-31 | 境界線

 一年を振り返って反省してみようと思ったのだが、やっぱりやめることにした。いや、それなりに反省すべきことはたくさんあるのだが、出来れば忘れたい。それによく考えてみると、今まで反省してきてもろくなことは無かった。そういう反省をして反省もほどほどにする、ということにしたのを思い出した。何しろ失敗ばかりだから、何をするにも反省ばかりしている。反省に忙しくて何も手につかないようだと本末転倒である。ただでさえものぐさなのだから、そんなことを材料にまたサボるに違いない。自分の性格には反省は向かないのである。
 学生時代はそれだから駄目だとよく叱られた。若いころは反抗期もあったから、駄目だといわれると改めるより助長した方がいいと考える。「他人の嫌がる事を進んでしなさい」と言われると、人の嫌がるような悪戯ばかりする。その様なとんちは働くので、大人には迷惑がられた。またそれが僕の誇りだった。馬鹿だったと気づいたら、調子に乗れなくなった。人間調子に乗ったものの勝ちである。勢いの無い人間は埋もれるだけのことなのだ。
 まあ、実際はそれでもいいという考えもある。おとなしい方がいい場合もある。目立つことも好きじゃないし、ひっそり暮らすのも悪くない。そう思うのだが、時々引っ張り出される。その都度ちゃんと失敗するが、それで許してくれない場合もある。なんだか仕方ないから上手く行くようにやるしかない。それでも上手くいかないときはやはり上手く行かない。工夫はするが、やらないことは選べない。段々元の木阿弥になってしまった。
 ハンドボールをしている時に、監督に精神力が弱いと言われた。いろいろ考えず、ゴールを絶対に決めるという気持ちを強く持てば、しっかりとゴールは決まるものだ、ということらしい。ぜんぜん合理的でないし納得がいかないが、逆らえない。いろいろ考えないで投げるようにしたら、さらにゴールは決まらなくなった。考えないというのは難しくて、考えないという考えが頭から離れない。素直にあれこれ考えるべきだった。他人のいうことは素直に聞いてはならないのである。
 草野球では三球三振が多い。見逃して三振するのは振っておけばよかったと後悔するに違いない。最初から三回振れるというルールだから、三回振って行こうという意識が勝る。結局三度振って終わり。時々運が良くてボールが当たってくれるが、やはりあの棒に小さいボールが当たる方が無理があるようにも思う。さらに前に飛ぶかもよく分からない。そのうち誰も僕を打席に立たせなくなってしまった。相手にも選ぶ権利があるので仕方が無い。つまりちゃんと失敗さえしていれば、相手が勝手に僕の機会を選別してくれる。迷うこと無く振るべしである。後悔するよりよほどましだ。
 今後とも三度もチャンスあるルールばかりとは限らない。それはそうなのだが、とにかく振っていく。その様な考えの人間に、やはり反省すべきことなど無い。今年の反省点としては、それでもわずかに反省してしまったことかもしれない。人間まだまだである。

 皆さんよいお年をお迎えください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年のお勧めを選んでみた

2012-12-30 | なんでもランキング

 毎年のことながら、今年のタイムリーとは限らない、個人的な一年の振り返り。いい映画は結構観たけど、収穫としてはこんなところだろうか。もう一回観てもきっと面白いだろうと思うようなものを選んでみることにした。


野良猫ロック セックス・ハンター/長谷部安春監督
 まずは追悼、安岡力也。タンポポでもよかったんだけど、この作品は若くてなかなかカッコいいので、改めてみるべきかもと思った。




 いい映画というか、比較的感動ものという感じ。こういう映画に当たると、本当に時間の経過が分からなくなる。つまりいつの間にか熱中して観てしまう訳だ。


リトル・ランボーズ/ガース・ジェニングス監督
 ファンタジーだね。

ALWEYS三丁目の夕日’64/山崎貴監督
 これもファンタジーには違いない。

おおかみこども雨と雪/細田守監督
 これは大人の映画かな。絵なのに白いところが多いというのがまた○。

英国王のスピーチ/トム・フーパー監督
 いい話だよね。実用的だし。

スーパー8/J・J・エイブラムス監督
 これは文句なしかな。もちろん僕らの少年時代のノスタルジーだけど。



ドラゴンタトゥーの女/デビット・フィンチャー監督
 今年一番良かったな。個人的に、ということだけど。映画的な変なヒロインの誕生である。





 ホラーばかりではないが、ホラーとしか言いようのない状況も含めて。しかしここからいろいろ学ぶこともある訳で、目をそらすだけが人生では無い。

ブラック・スワン/ダーレン・アロノフスキー監督
 気持ち悪いけど、凄まじい芸術かも。

ぼくのエリ 200歳の少女/トーマス・アルフレッドソン監督
 なんだか美しすぎるが、恋というのは他人に仕えるわけで。

十三人の刺客/三池崇史監督
 ちょっとやり過ぎ。

クロッシング/キム・テギュン監督
 気分良くない。

チェイサー/ナ・ホンジン監督
 気分最悪。






 なんか今年は馬鹿な映画を借りて観たなあ、という感じがする。並べてみると、みな大青春。そしてやっぱり大感動。もちろん馬鹿な感性が無ければ面白くもなんともないかもしれないのでご注意を。

スーパーバッド 童貞ウォーズ/グレッグ・モットーラ監督
 この人たちは大人になってもきっと友情で結ばれていることだろう。

アドベンチャーランドへようこそ/グレッグ・モットーラ監督
 いい話だよな。もちろん今となっては、だが。

2999年異性への旅/マイク・ニコルズ監督
 ばか。

無ケーカクの命中男(ノックト・アップ)/ジャド・アバトー監督
 男の友人としてはいい奴なんだけどね。

40歳の童貞男/ジャド・アバトー監督
 この人は普通にモテるのではないか疑惑を持ちながら観たりして。

ソーシャル・ネットワーク/デビット・フィンチャー監督
 こういうのも、ある意味では馬鹿な青春というべきかもしれない。この作品だけはコメディでは無いので、ご注意を。

ウソから始まる恋と仕事の成功術/リッキー・ジャーヴェイス監督
 キリスト教の国だとこういう話になるのかなあと思ったりして。

SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム/入江悠監督
 痛い、ホントに痛い。完成度も高くなってきたなあ。

小悪魔はなぜモテる?!/ウィル・グラック監督
 これは特別かもしれない。こういう女こそいい女だと思うけど、世間一般ではそうでは無いかもしれない。しかし、やはり人間として偉い人は尊敬されてしかるべきだと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

頑張れ広島カープ   マネーボール

2012-12-29 | 映画

マネーボール/ベネット・ミラー監督

 強いチームを作るためにはどうしたらいいか。別に監督やオーナーで無くとも方法は明確に分かっているはずだ。どのようなチームが強いか、実際に知っているからだ。細かく子細に見て行くといろんなことが言える訳だが、はっきり言ってしまうと、いい選手が集まったチームが強いに決まっている。しかしながら、いい選手というのはいったいどのような選手なのか。また、当然だが、いい選手ばかりだと契約に金がかかる。ではお金の無いチームは強くはなれないということなのだろうか。
 答えはある意味でイエスであり、ノーでもある。実際にお金持ち球団が当然のようにいい選手をかき集めることができる訳で、そうして実際にとても強い。しかしお金の無いチームであっても、なかなかやるじゃんというか、強いチームは存在する。そのからくりはいったい何か。この映画が実話をもとにしているのは、そういう訳である。
 いい選手であっても、チャンスが無ければ、その能力を発揮する機会が無い。そのチャンスにおいても、上手くアピールができなかった人もいる。人というのは印象で人の評価を随分とゆがんで判断してしまうことがあるようだ。いわゆるいい場面で派手に活躍するといい印象が長く残り、さして重要でない場面で着実に仕事をする人というのは、あんがい評価が低くなりがちなのではないか。実はその様な働きぶりには、ちゃんとデータとして残っているのにかかわらず、人々は簡単にそのデータを見落としてしまう。もしくはそれよりも現実の印象を重視してしまう。それも野球の専門家というような人ほど、面と向かって対面しているその人本人をみるあまり、データの存在を忘れてしまうのかもしれない。確かに机の上で分かることには限りがある。でも現実を見ている人にも、誤りというのは当然あるものなのだ。認めたくない事実にこそ、物事の本質は隠されているものなのだ。
 しかしながらこの主人公は、いささか軌道を逸している。強大な権力があるからこそ、いろいろと手を打つことができた訳だが、そのやり口というのも、そんなにお勧めというものではなさそうだ。このやり方はものすごく参考になるはずなのに、しかし実行できる日本人はほとんど存在しないだろう。つまり極めてアメリカ的で、傲慢でいけすかない。しかしそうであっても、現実には現実を駆逐する力を持っている。現代世界で君臨するアメリカの様に、それはやはり実際の話だからなのだ。このような見苦しい人間物語をやりくりする人が、本当に強いという世界を作り出すことができるということなのだ。
 しかしながら主人公は、実は自分の中にこそ、その屈折した大きな痛みを抱えたままで生きている。彼の信念は、その様な体験をベースにしていることは間違いがない。自分の中の大きな挫折、もしくは二度とどうすることもできない深い後悔。それがあるからこそ、この主人公の強さもまた本物になるのである。
 限りなく迷惑で嫌な奴だが、しかし何故か爽快な気分にもなる。それはうわべだけの情熱では無く、本当に熱い煮えたぎる情熱のようなものを内面に持っている人間の強さのためではないだろうか。そうして心躍らせる結果をモノにして行く。
 この世界は実際には多くの人に知られることになって、他球団も多かれ少なかれ彼の方法を採用するようになっているようである。彼はアメリカの野球のシステムそのものを変えることに成功したのだ。結果的には自分のチームだけが強くなる秘密が漏れた訳だが、恐らくそんなことは気にしてないだろう。自分のやれることを着々とやっていく。それはある意味で、頑固な石頭人間の生き方なのである。

 余談だが広島カープにこそ知ってもらいたい物語だが、その様な人物がカープに存在するのかは分からない。もちろん新人を育てるのが一番上手い球団であって、この方法も当然知っているはずなのだ。それでも勝てないのだとしたら、日本社会はやはり閉塞社会だということになるのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ズバリ、タイムリーな本 スタンフォードの自分を変える教室

2012-12-28 | 読書
スタンフォードの自分を変える教室/ケリー・マクゴニガル著(大和書房)

 読み終えて思ったのは、まさに今のタイミングで手に取ることができた幸運かもしれない。ひょっとして僕は何か運というものを持っているのかもしれない。
 それというのも今は年末で、年が明けると今年は何をしようと毎年いろいろ考える時期だからだ。そうして正直に告白すると、それらの多くは成就されたためしがない。自分自身のふがいなさに、数カ月にわたって嫌悪を覚えながら生活し、しかしいつの間にかそのことも忘れ、そうして年が明けると、今年こそは、と気持ちを新たにするわけだ。なんというか、リセットして生まれ変わろうということかもしれない。
 この本の題名通り、そのような生まれ変わる手助けをするというか、まさにその方法が書いてある本で、しかしよく考えるとそのシステムを解説してあるだけの本かもしれない。そうであるのだが、読んだ感想として、これは絶対にイケル本だという確信がある。それほどインパクトがあるし、納得のいく内容なのだ。
 このような本というのは、一般的には似たような内容が多く、実際それは精神論というものがほとんどだ。それはそれで悪くないのだけど、実用性としてはあんがい使えないというのは多いものだ。読んで感動した自分はいるが、実行する自分は別人なのだ。非常に残念なのだが、実はそれには理由があるようなのだ。自分のことなのに自分のことを知らなかっただけのことで、そのからくりは実はごく当たり前のことだったりする。しかしその当たり前を認識している人は、ほとんど居ないということなのだろう。そのようなことを知ることによって、そしてこの本の課題に沿って(講義形式をまとめたものらしく、実際はその課題を週ごとにゆっくりクリアするのが望ましいようだ)自分を見つめていくだけで、いつの間にか自分を変える方法を身につけることが可能になっていくのだろう。僕はまだ読んだばっかりなので、その成果はずいぶん先に報告できるかもしれない。なんだかとっても楽しみである。
 さらにズバリ言ってしまうと、今からダイエットをしたり禁煙をしようという人は、ほかのハウツーものは放っておいて、なにはともあれこの本を手に取るべきだと忠告しておく。特効薬ではないけれど、数ヵ月後には成功の確率が上がっていることを実感できることになるだろう。速効性を求めている人の考えも、おそらく変えることになるだろう。
 物事を先送りにしてやれない自分にうんざりしている人も、まさにこれはうってつけである。今やるべきことが分かっていても、それを実行するのは非常に難しいことだったのだ。気分も楽になるし、そしてそういう自分をやはり変えることが可能だとも理解できるのである。
 そのように魔法のように素晴らしい内容なのだけど、実は驚くような魔法の方法が書いてあるわけではない。ある意味では、ごく当たり前のことを論理的に、実証的に考察しているということに過ぎないのかもしれない。そしてそのような態度だからこそ、心の底から腑に落ちる思いがして、そうして実際に自分を変えてみようという実験の客体に自分自身を置くことに成功して行くのだろうと思われる。そうなればしめたもので、時には自分変革の格闘もするだろうけれど、着実に歩みを進めていくことも、やはり可能になっていくのだろう。
 実際に著者の授業を受けるというのが一番いいのは間違いがない。しかしこの本を一章づつ毎週読み進むような体験を積むことができれば、おそらく似たような効果がもたらされる可能性も高い。多くの日本人には言葉の壁もあるし、ましてや物理的な距離や金銭的な問題を考えると、十分それでも合理的な選択である。
 要は読むか読まないか。その前に買うか借りるかというハードルもあるな。まあ、結局は、それに尽きるわけだが、そうしない人間を僕は別に咎めはしない。でもまあ、ちょっとばかりは、哀れであると同情するかもしれない。
 年末もあとわずか。もしくは新年の始まりに是非どうぞ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悲しいが、喜びでもあるようだ   ベニスに死す

2012-12-27 | 映画

ベニスに死す/ルキノ・ヴィスコンティ監督

 ひとことで言うと長編ミュージック・ビデオ。実際そのように観賞するのが正しいといえるだろう。スジというのもあるけれど、基本的に流れている音楽に合わせてゴージャスで物悲しい映像を眺めているということになる。退屈と言えばそうなんだが、妙に見ハマっていくのが快感になる人もいることだろう。確かにいろいろと本物の豪華さを満喫できるところもあって、これを金を払って体験する身分に無い僕にしてみると、悲しいがケッと言う感慨もあって、その屈折具合を楽しむということもできたようだ。
 監督のヴィスコンティさんは本当に貴族ということもあって、こういう世界を身を持って知っていたし、そうしてどこか忌み嫌うところもあったのではなかろうか。まあそれは憶測にすぎないが、映像世界と内面性が、同時に表現されていることは間違いあるまい。
 実は原作の小説は中学生の頃の読んだはずだが、あんまり記憶にない。ちょっと早すぎたんだろう。原作は小説だが、マンのベネチア旅行の実体験に即して描かれたもので、後にこの美少年も実在の人物として発見されている。本人も旅行中のドイツ人にジロジロみられていたので、記憶していたのだということだ。美少年を演じたビョルン・アンドレセンは、その後ゲイではないかと書きたてられ、16歳という年頃の所為かショックが大きかったようだ。好かれることもなかなか容易な人生じゃない訳だ。
 僕はたぶんバイセクシャルじゃないので本当には理解しえないところもあるのかもしれないが、叶わぬ恋という見方をすると、やはりしっくりくるような気がする。実体験はまあ内緒だけど、そんなような悲しさというものはあるのかもしれないとは思う。その時化粧までするものかは分からないけど、そういう気持ちになれるということは、それはそれであんがいしあわせなことかもしれないとも思う訳だ。普通はとてもそんな気にならない人が、そこまで思いが高ぶってしまう。もちろんそれでどうなる訳でもない。むしろ逆効果になるような気がしないではないのだけど、そうせざるを得ない。
 ああ、そうか。それは自分自身への肯定と、目覚めの表現ということかもしれないね。書きながらやっと気付いたよ。
 音楽を聴くように観ると言ったけれど、やはり監督のメッセージの本質は、そこにあるようである。素直に心を開かせるほどの美少年がそこに居て、必然的に恋に落ちる。それは誰であっても抗いようがない。たとえ悲しすぎる現実があっても、そのことを否定して生き続けていくことなど出来ないのだ。
 時には旅に出るということは、このような期待の発露もあるのかもしれない。ふさわしいのはやはりベニスか。日本だとどこになるんだろうね。金沢とかそういうところなんでしょうか。なんかしっくりこないのは、僕が貴族じゃないからなんだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チケットを買わない間抜け野郎

2012-12-26 | 境界線

 アラスカの巨大カレイ(ハリバット。または日本ではオヒョウとも言われるらしい)釣りのドキュメンタリーを見た。とにかくでかくて、畳一枚分という表現もまんざら嘘では無い。100ポンド(45キロ以上)を超える重さのものがざらに釣れるようで、日本の釣りではちょっと考えられない世界であった。
 釣りで有名なその場所の商工会議所では、釣りチケットを発行しており、このチケットを買うことで、そのシーズンで一番の大物を釣った人には懸賞金が当たるシステムになっていた。一等賞金は例年数百万になるようで、参加者次第ではあるけれど、だいたい五百万といった賞金をもらえるチャンスがある訳だ。
 ドキュメンタリーのシーズンでは、春先にドカンと大きな記録が出て、なんと352ポンド(160キロあまり)という大物が釣りあげられていた。皆この大きなハードルに向けて釣りを楽しんでいる訳だ。さすがに300ポンド越えのものはそんなに出る訳ではないようだが、それでも毎日のように超大物はあがる様子だった。巨大な量りに吊られた大物の計量をみて、人々は大いに盛り上がっているようだった。何しろこれくらいになると甲板に持ち上げるだけでも一苦労で、だいたい何ポンドという予想は出来ても、正確に量るなんて船上ではとてもできそうにない。第一大物を釣り上げる前には、拳銃でハリバットを撃って最小限暴れないようにしなければ、人間の方が大けがをするという大変なものだった。畳が暴れたらさすがにどうしようもないのだ。
 そうした中でついにこのシーズンの新記録を樹立する大物があがった、というニュースが駆け抜ける。しかし計量現場に来てみると、釣りあげた本人という人が浮かない顔をしている。記録の方は確かに354ポンドと数字が出ている。では何故?
 実はこの人、何故か釣りチケットを買っていなかったのだというのだ。釣り大会に参加していることにはならず、あえなく対象外ということになったらしい。聞くところによると、毎年チケットを買っていたのだけど、今年に限って何故か買っていなかったのだという。奥さんに電話していたけど「間抜け!」とだけ言われたらしい。大物を釣ったという名誉はどこへやら。さらに五百万円のチャンスもふいになってしまった。結局そのシーズンは352ポンドが優勝を飾り、文字通り間抜けな男として歴史に残ることになった。
 まあ、僕はこのような男を好ましい奴だと思いはするのだけど、どのみち無理だとせこく考えていたのだとしたら、やはり「間抜け!」だと言わねばならない。

 ところで年末宝くじをどうするという話を巷間ではよく聞くのであるけれど、僕は当然のように宝くじは買わない。そうすると六億が欲しくないのか? と言われることがある。いや、六億は欲しくない訳じゃないが、宝くじに参加したい気分にならないだけなのかもしれない。ハリバット選手権のようなものなら必ずチケットを買うはずだと思うのだけど、宝くじは駄目だというのは何故なのか。
 時々宝くじの券を景品などで頂戴することもあるんだけど、当選番号さえ確認したことも無い。だから当たることにも興味がないらしい。いや、見てもよかったのだけど、見ることも持っていることもすぐに忘れてしまうのだろう。
 宝くじは当たることの期待こそが楽しみで買うものだと思う。まさに人々は夢を買っている訳だ。釣りチケットにもその様な側面はあるにせよ、やはり競技を楽しむオマケのようなものだと思う。僕は競技を楽しむ仕掛けには参加したいと思うが(実際には遠いので参加しないだろうけど)、夢自体を買おうとは思わないということかもしれない。実に夢の無い男だということになるが、まあそうなんだろう。
 という訳で、宝くじが10枚買えるお金を持って、酒かなんかを調達しようかな、というのが本音。今夜の楽しみの方が、僕にはウェイトが大きいというだけの話なのだかもしれないのだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追われる生活

2012-12-25 | HORROR

 特に趣味と言えるようなものは無いが、じゃあ日頃家で何をやっているかという問いに正直に答えると、録画している番組を観ている、ということがいちばん多いかもしれない。他は休肝日でなければ酒を飲んでいる。しかしながら酒を飲みながらやっていることと言ったら、やはり録画しているものを見ている訳で、なるほど、これは趣味かもしれない。
 じゃあ何を見ているかと言われると、だから録画した番組である。ドキュメンタリーを中心にチェックしていると意識にはあるが、そればかりでは無い。だいたい一週間に二回から三回、番組表を見てまとめて録画チェックする。はっきりしてないが、多い時は50時間くらいだろうか。少なくとも20時間程度。
 それくらい録りためていると、はっきり言って家ではそれを見ないことには始まらない。どんどん見て消去しなければ、次の番組を録画できない。録画スペースを空けるために番組を見ているという感じで、番組を見るために録画しているという感覚がだんだん薄れている。ちょっとした逆転現象で、だから録画している番組を見て楽しんでいるというより、見てみるとつまらないということの方が嬉しかったりする。何故ならそこで見切って消去できるから。
 下手に面白かったりすると、これはちゃんと見なければならない。面白いものが続くと、これはずっと真面目に観続けなればならない。時間がいくらあっても足りなくなってしまう。時間に追われると苦痛になるから、早く面白さから解放されたい。仕方がないから、ハードディスクからDVDに録画し直して溜めておく。こうやってちゃんと見ることを先送りにする。そうして空いたスペースに、後から番組を予約録画しておけるのである。
 いつまでもこんな生活は嫌だなあとは思うのだけど、やはり番組表は気になるところだ。また映画も勝手にレンタル予約したものが送られてくる。常にリストは100近くに溜まっているから、見終わったらすぐにまた送り返されてくる。これも観るために借りているというより、返すために観ているという錯覚を起こしているかもしれない。
 たまに面白いものがあって、これは真面目に見なければならない。面白くなくても、不思議と映画は観てしまったりする。録画している番組も観なくてはならないので、その合間合間の時間を割いて、コツコツ映画も観ているという感じ。
 眠くなって寝てしまうと、どこまで観たのか分からなくなって、何度も何度も観てしまう。仕方がないのでカウントをメモしておいて、眠くなる前に区切りをつけておく。そうやって映画の方も、連続ドラマとして楽しむ訳だ。
 本の方もどんどん溜まる。ページに挟んだところまで読んだ記憶が無くなっても、これは頑張って先を読んで、何となくカンを取り戻しているという感じである。
 これは場所があればなんとか逃げることができる訳で、本棚の方がどんどん増えるということになる。大きな声では言えないが、職場にも本置き場をつくらなければどうにもならない。いろいろルールを作って買わないように規制を掛けているが、本というのは生ものだから、やはりタイミングで買わなくてはならない場合がある。
 読むために買っている訳だが、実際にたぶん読むことなんてないのだろう。ついには置き場所が無くなるだろうから考えなくてはならないが、捨てるなりして置き場所が出来ると、やはり買ってしまうに違いない。つまらない本はさっぱり捨てやすいが、読んでない本は捨てにくい。聞くところによると本の置き場を作るために、アパートなり家なりを借りる人もいるらしい。たいした酔狂には違いないが、意味としてはよく理解できるところである。
 しかしながら田舎暮らし。土地の方はあるから小屋を作るなりすれば何とかなるかもしれない。そんなことを考えていると恐ろしくなるから、とにかく読んで減らさなければ話にならない。そのうちお迎えが来ることになるんだろうが、減るより早いということは、やっぱりありえないんだろうなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今夜の仕掛け、頑張ってください

2012-12-24 | 感涙記

 お袋がクリスチャンなので、我が家ではクリスマスはそれなりに重要な行事だったような気がする。西洋映画のものとは違うまでも、クリスマスの特別な空気は、これまでの日常生活とはまるで違ったものであったように思う。なんだか分からないけどものすごく期待するものがあって、そうして確かにしあわせなのだけど、しかしそれは寝てしまうと終わってしまうようで恐ろしいという感じもした。
 サンタクロースについては、居るとか居ないとかではあまり悩まなかったようにも思う。姉や兄とも年齢が離れているから、随分長い間信じていたのだけれど、しかしよく考えてみると、幼稚園の時にネタばらしをして教えてくれる親切なのか迷惑なのか分からないおせっかい者が居て、だからそれは実際には知っていたはずなのだ。だから知らなかったというのは実は演技をしていたようなもので、騙されていることが快感であったのかもしれないとも思う。みんなして演技をしていて、その役割としてあたかも騙されている役を演じている。騙している方も騙されている方も、そのことの秘密に酔っているというような、耽美な約束を守っているということなのではなかったか。
 実は小学生の3年だか4年だかそのような年になって、サンタは親であると発言する奴がいて、言い争ったかどうかして、結局僕はそいつを殴ってしまった。そのことは少しばかり話題になって、殴ったことについて先生から咎められることも無かったと記憶している。僕自身も悪いことをしたとはさらさら感じていなかった。今となっては遅ればせすぎるが、正直者で正しかった彼は僕に殴られ損だった訳だ。申し訳ない。
 つまり必死で何かを信じているふりをしている事が心地よかった訳で、そうしてその気持ちには偽りはなかったのである。サンタクロースは親だというのは現実的には本当かもしれないが、しかしそれとは別にサンタクロースが本当に居る世界であっても現実として存在するということも信じられたのだ。それは今になってみると何となく理解できるが、人間の性質として、サンタクロースという存在を作り出す癖があるだけでなく、信じることができるということの方が、はるかに価値が高いということなのだろう。
 もちろんその様な嘘が、上手く馴染めない年頃であったり、理解できない人というのも現代人には多いのではないかとは思う。しかしサンタクロースはやはり、居なくなるということは無いのではないか。たとえ正体が親だとしても、それで現れなくなるような存在なのでは無いのではないか。
 サンタが居なくなったとして、プレゼントの習慣のみを残すということの方が、逆に欺瞞が隠れているのではないかとさえ思う。ある意味でその様な正直な態度こそ、サンタクロースに対する不正直な態度であることの告白なのではないか。それは宗教的な馴染の感覚なのかもしれないが、形の無い「愛」というようなものを理解する上では、やはり演技としてサンタクロースの存在を残しておくべきなのではあるまいか。
 もちろん、年頃の僕の息子たちも、早くからサンタの存在を信じなくなっている事とは思う。しかしながらはっきりしているのは、恐らく彼等は自分の子供に対しても、サンタクロースを演じることになるはずなのである。それがいつかは分からないけど、本当は彼らだって、サンタクロースが居ることを本能的に知っているからに違いないからである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

権威主義と闘う見事な革新思想の勝利   英国王のスピーチ

2012-12-23 | 映画

英国王のスピーチ/トム・フーパー監督

 他人前でスピーチをする苦痛や、話をするそのものに苦手意識のある人は多いだろうと思う。僕自身もその一人だが、よく考えてみると、それは個人的な苦手な分野というより、誰もが訓練なしにはできない分野ということのような気もする。その様な苦しみをいかにして克服できるのか、という実証的なハウツーを提供してくれるという有意義な内容であるばかりか、実に感動的な物語にも仕上がっている。物語もよく練られており、史実をもとにしているということが信じられないくらい、ドラマチックな展開やどんでん返しが楽しめる。そうしてやはり身につく技能のヒントが満載だ。これを見ることで即スピーチが上手くなるということではないが、分かる人にはかなり有益に違いない。他人前で話をするような機会のある人や、その様な場を断れない人は、ぜひ観ておく必要があるだろう。
 英国王式の格式というものは、正直に言って実感としては良く知らない。王室だとか皇室だとかには馴染がないし、なんというか、あんまり興味も無い。時代遅れな制度の中に個人が閉じ込められている不幸があるらしいということは聞いたことがあるが、いわば僕らの生活にはあまり関係のあるところとは思えない。しかしながら実際にその様な立場に生まれてしまった人間にとっては、そんなことはもちろん言ってられない。当事者として運命的に逃げられないばかりか、その重圧や権威が幾重にものしかかる時代の背景もある。ただでさえ性格的に不向きな人間であっても、そのことでおそらく自分に不利な障害が出ているにもかかわらず、逃げ場はどんどん塞がれていくのである。
 まさにホラー的な状況なのだが、そこに風変わりな救世主が出てくる。敵か味方かも分からないし、おおよそ自分自身が好きなタイプの人間ではない。むしろ不快であるばかりか、自分の立場を脅かす新たな障害にもなりかねないのである。
 ところが、である。実際にその男に接すると、自分の障害である吃音が、何となく克服できているという兆候がみられるのである。認めたくない事ばかりだが、しかし本来の目的に光がさしていることは間違いなさそうだ。頼るべきか別の道を見つけるべきか。今までも散々苦しめられてきた自分自身の問題においても、正面切って戦い続けること自体も大変に苦痛である。その上に、リスクを持って戦っても、実は信用のならない相手かもしれないのである。
 基本的にその様な葛藤の人間ドラマが中心である。悲劇的だが、しかしその心の葛藤は実際は喜劇的でもある。社会的な立場が個人を苦しめている事に間違いがないのだが、しかし最終的に自分自身の心の狭さのために、コロコロと悩まされ葛藤を強いられているのである。しかし、この王様の心の狭さは、よく考えてみると我々の心の狭さとも共通するものがある。つまり手の届かない人物の崇高な物語なのではなく、人間が誰しも持っている共通の悩みなのである。
 この映画の最大の逆転劇は、実はその様な権威主義的な人間社会への強烈な風刺が効いているということのように思える。だから王室の無いアメリカのような国でも、共感を持って観ることが可能だったのだろう。さまざまな賞を受賞したのは、作品の出来がもちろん良いということが一番だが、その様な革新性が、他の国の人にも受け入れられやすいということがあると思われる。
 王室のゴシップを、知らない世界の人間が興味本位で喜んで観るということでは無くて、人間の身近なドラマとして、そして自由を手にする手段としての考え方を学ぶことができるのである。我々を縛る不自由な世界を、個人は考え方で克服することができる。それはその場から逃げだすことではなく、向き合っていても可能なのである。まさにそのことを歴史が証明し、映画が分かりやすく解説してくれたわけである。見事なドラマに脱帽なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋の上では杖をつかない

2012-12-22 | culture

 いつかやってみたいな、とひそかに思っているのは、お遍路さん。
 理由は万歩計のカウントをたくさん稼げるだろうから。まとまって歩く毎日というのを堂々とやってみたい。でもまあ、ひと月以上歩くというから、よっぽど物好きで無いと無理かもしれない(失礼!)。
 ところでお遍路のとき多くの人は、長い距離を歩くということと、弘法大師と共に歩くという意味もあって杖をついている訳だが、「橋の上では杖をついてはならない」というルールがあるのだという。理由としては、弘法大使が橋の下で休んだことがあるという逸話から、橋の下で休まれているかもしれない弘法様の邪魔をしてはならない、ということなのだという。
 このようなルールは面白いなとは思うものの、これを日本人独自の気遣いの話にしてしまうといささか面白くない気になる。宗教的な修行として出て来た発想だろうから、本来的な意味での気遣いとは少し違うのではあるまいか。
 それというのも、やはりこれはルールを厳格化するための権威主義を用いているのがまず気になる。その様な配慮を忘れないことは大切だとは思うが、あんがい昔は実際的な問題もあったかもしれないではないか。
 それというのもやはりお遍路は長い距離を歩く。場合によっては橋の下に寝泊まりするとか、ちょっと日差しを避けて休むという実際的な人もいたのではあるまいか。さらに昔の橋と言えばやはり木造のものが多かったかもしれず、それなりに音がしてうるさい。休んでられないから、杖をついて歩いた人が怒られるということがあったのではないか。同じお遍路をしている人の気苦労は知れているから、それは静かにした方が良かろうと考える人があってもおかしくない。
 または、やはり橋の下で休んでいるのは、お遍路の人だけとも限らなかった可能性も無いだろうか。今は適当な言葉が無いからめんどくさいけど、そこに住んでいる人が居た可能性もあろう。彼らにしてみると、お遍路は迷惑だ。うるさくてゆっくり休めもしない。または逆恨みして反撃してくる危険があったのではないか。
 そうすると事情が少し違って、お遍路をやっている人の身を守るという実際的な話にもなるのではないか。
 さすがに現代になるとその様な人はめったに居るまいから、実際的なお話では無くなってしまったが、代わりに気遣うという修行としてはもっともらしい事になったのではないだろうか。感心する人もあるだろうし、僕みたいに単純に面白いと思ってこのように想像をめぐらす人もあるだろう。
 基本的には面白い話で、気遣いの話では面白くない感じがする。そこのあたりはいろいろあるだろうけど、変な話というのは訳が分からない方がもっといいと思ったりする。特に合理的で無い方が、現代人にはウケないまでも、修行には良いのではなかろうか。
 今のところ予定は無いが、橋の上では杖をつかないというのは、あんがい歩いている時に独特のアクセントになるのかもしれないな、とは思う。修行の思いを忘れない配慮ということであれば、やはりなかなかのアイディアなのかもしれないのだった。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今じゃやっぱり作れない映画ではある   反逆のメロディ

2012-12-21 | 映画
反逆のメロディ/澤田幸弘監督

 原田芳雄の魅力満載映画といった感じ。地井武男が骨のあるチンピラの役をしていて(なお梶芽衣子と絡んでたり)感慨深い思いもした。さらに感慨深いのは佐藤蛾次郎がちゃんと演技をしていたり歌を歌ったりすることだったりするのだが、これは衝撃とも言って良いかもしれない。いろいろ面白いキャラクター満載でありながら、みんな原田が持って行って終わりということにもなって、いい映画なんだけど妙に微笑ましいという感じもする。後の男くささというものの原型でありながら、しかしむしろ美しい男という感じもあって、そちらのファンにもしっかり貴重な映画かもしれない。というか、今の視点からすると、ほとんどそっち系という感じしかしないかもしれない。
 ヤクザの組が解散して堅気の仕事をするようになって、もとのヤクザとしてはちゃんとしてないやくざが面白くないという図式がまず滑稽なのだけど、悪いとされているヤクザ集団が怒って当然の事を繰り返し嫌がらせしてやっており、相手がヤクザらしい復讐して返すものを利用してさらに爆発するという刹那的なところが、時代と言えば時代だが、困った自己中という思いがする。まあ、カタルシスとしてはまったくもってそれでいいのだけれど、もっと活躍しそうな人は、あんがい簡単に方がついてしまって拍子抜けするということも言える。
 最終的に一番悪いのは他ならぬ警察で、彼らの手の中で遊んでいる分には何の問題も無いのだが、本当にその枠から外れると抹殺されてしまうということなのかもしれない。それは権力というものの象徴かもしれなくて、あくまで抵抗して反抗するのが正義ということを言いたいのかもしれない。でも本当はそういう大義のようなものをかざして「スカーッとしたい」というだけの未熟さがあって、昔の大人は子供だったんだなあというような時代の空気を読み取ることができる。
 それにしてもあれだけ暴れておいて、警察から取り調べを受けると、何にもしてないのにと悲観にくれる姉さんの姿を見ていて本当に無理があると考えてしまっては、この物語は盛り上がらないだけのことかもしれない。いや、実はそういうところが僕は好きなんだけど、それはそれで屈折した見方かもしれなくて、なかなかいい映画だということが言いたいというのが本音であるのだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手元もぞもぞ観察シーズン

2012-12-20 | net & 社会

 忘年会シーズンに限らずだが、飲み会で人が集まりだすと「ヤアヤア」と最初は挨拶を交わす。田舎というのは集まる時間にルーズなので、始まりがはっきりしない。集合時間というか開催時間というか、アナウンスのあった時間帯に近づくと自分の席らしいところに何となくおさまるのだけど、そういうときちょっとばかり沈黙のような静かになるような時がある。いよいよ開催だという時を待って黙ってしまう訳だが、今は圧倒的に皆、携帯というかスマホをいじっていてうつむいているような事が多くなった。いよいよ開催ということを発信しているのかもしれないし、始まる前に思い出した用件をメールしているのかもしれない。
 そうして宴会が始まると挨拶中に何かもぞもぞしている人はさすがに少し減る。ところが乾杯になると、とたんに席を立つ人が数人出る。メールを諦めて電話にする人が多いと推察するが、本当にトイレの人もいるのかもしれない。
 いくつか塊が出来て話がはずむというのはあるが、この塊から少し外れる人が出てくる。熱心に何かパクついている場合も無いではないが、そうなると途端に手元をまたいじりだす人が出てくる。時間を持て余すのがつらいというのもあるかもしれないが、やはり何か寂しいというのがあるのかもしれない。
 いつもつながっている安心感というのもあるが、同時にこの不安定な気分というのは手元の動きで感じられるようになっている。その行為が不快であるとか咎めると言うことでは無くて、空き時間の一人で過ごす時間や空間を埋めなくてはならないような、そういう焦燥感を覚えるということだ。事実手持無沙汰という時は、歩いていても携帯の画面をつい見てしまう自分がいる。
 実は僕自身は何となくそれを制限するようになっていて、当然返答がタイムリーでなくなっているのだが、思い切ってそうなってしまうと、かえって不安は安らいでいるようにも感じる。
 しかしながら時にふと周りも見回すと、僕一人が独り言のように話をしていて、まわりがいつの間にかうつむいてしまっている時がある。いちばん近くの人が気付いて顔を上げながら手元を動かす曲芸をしている。その様な器用さが、近年の嗜みのようなものになっているのだろうか。
 単に自分自身の不器用さの告白なのかもしれない。出来ないからやらないだけであるからだ。しかし年配ばかりの飲み会になると、かえってホッとしている自分がいる。もう手元は見ない人ばかりだぞ。
 いや、今度は終電の時間を確認しなくては。迎えの確認のメールもしなきゃな。
 単純に忙しいだけの話なのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悟りというのは終わってから分かるものかも   紀ノ川

2012-12-19 | 映画

紀ノ川/中村登監督

 長かったなあというのが素直な感想。まあ、退屈しながら観たという感じ。文藝ものだからそれでいいのだろう。良い意味で風格のある映画で、観たことがあるだけで自慢にはなるかもしれない。
 人の一生を重厚に描いているのだけれど、観終わってみると、やはり儚いという気もする。ある意味では献身的な女性の一生ということかもしれないけれど、同時に自分の思い通りの一生でもある。最終的に自由になってみると、人は思うように動かない。何のために頑張ってきたのか、ということであるが、紀ノ川の治水というのは形として残っている。それだけでも十分そうな気もするが、個人としてはそういう割り切りのつかないものなのかもしれない。
 裕福な一族の物語でもあるが、時代に翻弄されて、最終的には衰退するということも言える。家というものがどんどん大きくなっていっても、人々は平均してしあわせになっていくようには見えない。誰かが割を食うということなんだけれど、しかしその様な犠牲を払ってでも、自分の中の歯車が少しでも狂えば、やはり全体としては上手く回って行かない。そのために翻弄したはずなのに、巨大な家に頼る人間が出てくるだけで、脆弱にもろさを露呈するということなのかもしれない。人それぞれの役割は、何となく演技をするように、持ち場持ち場でやっていくより無いのかもしれない。それはこのように資産のある無しの問題ではなく、どの家庭でも言えることなのかもしれない。
 夫が政治家だからという訳ではないが、この主人公の女性のふるまいは、極めて政治的だという気がする。家の繁栄のために、あくまで表に出ない形でいろいろと物事をサポートしていく訳だが、結果的にこの女の思うように男たちを動かしているということだからである。原作を読んでないから本当のところは分からないが、恐らく自分の恋を差し置いて、この家の政治に一生を捧げているということなのではないか。それは犠牲かもしれないが、その上運命的なものかもしれないが、しかしその様な一生を女として送る事が、役割として政治的に大切であったということではないか。封建社会の物語でありながら、極めて近代的な政治世界という気がするのは、うがった見方なのだろうか。
 しかしながらその様な政治的な考えを持ってふるまってきた自分の一生を振り返ってみると、極めて思うように世の中が回って行った訳ではないように思う。もちろん上手く行ったこともたくさんあるし、その様な才能を持った人間でもあったように思われる。そういうたぐいまれな才能を持った人間であっても、やはり目に見えない時代の力に抗うことはできない。奔放な娘も、どこか自分に似たところがあるように見える孫娘も、同じように女の一生を背負っていくのだろう。それは業のようなことかもしれないし、単なる偶然かもしれない。政治的な一生というのは、やはり人間的に無理を重ねる一生ということのような気がする。それに気付いたところで、ちょうど一生の長さが終わる。長くて儚い理由は、そこのところにありそうである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とにかく何かが起らない方が吉

2012-12-18 | 時事

 選挙が終わった。終わってみると驚くほど選挙前の予想通りの結果となった。良いとか悪いとかは今から分かりようがないが、このことの解説はこれから大量に目にすることになるだろう。期待もあるからおおむね肯定的な意見が占めるとは思われるが、この際に何を期待するとハードルを上げたところで、何かその様な意見が採用されるということも少ないとは思う。
 かと言って公約通り何かをやるのかというのも未知数で、まずは何をするかなという優先順位と選択を小出しにして行くことになるのであろう。民主党政権へ政権交代時には、次々に自民党時代への拒否と変革というようなことを印象付けることをやらなくてはならかったようだが、そのことで結果的には自滅していった事は記憶に新しく、自公政権が同じように慌てて何かをするということは考えにくいと思われる。まずはその準備段階で、世論の様子をうかがいながらということを考える方が、格段に得策ということになるのではあるまいか。
 選挙戦ではかなり評判の悪い舌戦を叩かれもしたが、結果的に選挙結果にはあんまりひびかなった訳で、それで安心してさらに踏み外すと、期待より失望が早く訪れるということにもなりかねないので、いくら参議院を気にしなくても済むような大勝といっても、気を引き締める事の方が肝要であろう。先ずはたくさん来るだろう陳情の客を迎えて、大判振る舞いのふりをするということになるだろう。
 年末年始に官僚を呼んでいろいろレクチャーを受けることにもなると思うので、役人さんにとってはおいらの休みはどうなのよ? と悲観しているかもしれない。ずっと恨まれない程度に協調路線を取るということになるんだろうか。それはそもそもの自民党の姿だから、当然かもしれないが。
 しかしながら法治国家にやっと戻るのは良いとして、計画通りばらまきが出来るのかというのも、あんがいむつかしい事だ。原資が無いというのもあるが、それなりに整理されている後だから、すでにばらまく相手がずいぶん減ってしまった。無理に工事をしようにも、役場の仕事通り期限を守ってやれる技能のある人たちの数に限りがあるという話である。土建業界もそのあたりは冷ややかに見ているようで、実際に仕事がたくさん出て慌てるくらいになって、ホントだったんだなあ、と実感することになるだろう。それにしても補正とか本予算とか、どれくらい間に合うものがあるんだろうか。ということで、これももう少し先の話かもしれない。
 大方のお話と同じように、これだけの大勝をしながら何となく冷ややかな雰囲気なのは、投票率の低さが象徴するように、失望の果てに政治が終わりかけているという風景も見えているからではなかろうか。消去法で残ったというより、それでも選挙にまがりなりにかかわった人たちのお祭りが終わったからなのだろうと思う。何かを生み出す事には、たぶん誰も期待してないし、出来れば何も起こらない方がいいのかもしれない。
 今までは先延ばしにしないために何かをしなければという議論があったが、今は何か良さそうに思えることがなにも上がっていない。ほとんどは出来れば何もしないか、もしくは誰かもう少しまともな人の話を聞いて、修正を掛けて欲しいという思いの方が強いのではないか。どのみち誰もが納得のいくような事が実現する世界では無いので、とにかく落ち着いて、論理の通る道を模索して欲しいものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恋愛人生反面教師   馬鹿まるだし

2012-12-17 | 映画

馬鹿まるだし/山田洋二監督

 まんま「無法松の一生」のハナ肇版である。山田洋二監督が無法松を好きな理由はよく知らないが、自分が作る喜劇の原型にしているらしいことはほぼ間違いあるまい。後の寅次郎の原型自体が無法松の亜流なのではあるまいか。純粋過ぎて、行き過ぎて、馬鹿なのである。だから実際に周りが迷惑を被ることをやらかしてしまっても、愛を持って許すことができる。その許しの中に、込み上げてくる笑いがある。笑っているが悲しい。口では自分のことを汚く感じているらしいが、その言葉とは裏腹に、きれいすぎて可愛そうなのだ。
 馬鹿なのはハナ肇だけなのではない。まちに暮らす人々は、多かれ少なかれ馬鹿なのである。みんな馬鹿なら落語の世界だが、落語でなくても人々の暮らしというのは、馬鹿な事が混ざっている。みんな馬鹿でみんないい、という訳だ。
 そういう時代だったという見方もできるが、しかしたぶん今でも馬鹿はたくさんいるには違いない。そうなんだけど、今は馬鹿で笑えなくなっているのではないか。馬鹿を見ると怒りだす人もいそうである。それはまともな反応だが、しかしそれで面白くなるはずはない。馬鹿を笑うのは品が無いのだけれど、しかし笑い飛ばすのは品とは関係なかろう。それはたぶん情の世界で、だから本当は不変のはずという気がする。
 無法松が好きかと言えば、近くに居れば困るかもしれないが、やはり好きなのかもしれないとは思う。知り合いなら、おせっかいくらい焼きたくなるかもしれない。しかしそうすればするほど、彼はそのおせっかいの使い道を間違うに違いない。それならやはりいらぬお世話であるけれど、しかし彼が自力で自分の思いを遂げることも不可能だろう。
 そう考えると、なかなか残酷な人物設定であるということができる。水戸黄門なら一件落着でハッピーだが、不幸にならなければ落ち着くことができない。このような人の自分の幸福は、相手あってのものだから、結論として幸福から自ら逃げなければならなくなってしまう。それを見た僕らはその可笑しな悲しさに泣いてしまうのだ。
 単純なようで複雑な心理である。というか純粋なようで、どこか捻じれてしまっている。しかしそういう屈折ほど、人は理解できるものであって、共感が生まれる。自分はああはなりたくない。人生教訓にできる人間はしあわせになれるかもしれない。
 しあわせの反面教師。根本には、自信のようなものという気もする。他人に振り回されたくなければ、自分で立つより方法はなかろう。自由人は、そのリスクを自分に負えなければしあわせになれない。どうせ周りに迷惑を掛けるのである。最愛の人にその荷を分担して背負ってもらっても、バチは当たらないだろう。そうなってくると、はじめて夫婦という単位が出来てくるという寸法なのであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする