カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

村八分

2015-07-31 | ことば

 村八分とはいわゆる仲間外れのことだが、村の共同体の掟として、火事の場合と葬式を除いた一切を一緒にやらないということだといわれている。では残りの八分は何かというと、成人式、結婚式、出産、病気、新改築の手伝い、水害、年忌法要、旅行、だという。これに意見を言いたくもなるが、まあ、普通は火事なら延焼を防ぐためもあろうから消してはやろう。葬式は、死んだ者は仕方がないし、死体は腐敗するためかもしれない。というような理由かもしれない。もっとも「はぶく」「はじく」という言葉が転じて「八分」になったという説もある。由来のもっともらしさと、言葉の面白さもあって、現代でもなんとなく通じる言葉として残っているのではないか。
 確かに村八分にあうのは、村八分されたくない人にとってはこたえるものなのかもしれない。特に農村のような共同体であれば、村八分は死活問題だったという話もある。問題なのは現代で、しかしもともと孤立しているような人はそれなりにいる。孤立したくなくて、しかも自然に村八分状態になるような人は、社会問題化もされている。一人暮らしのご老人など、何かと心配も多いのではないか。
 さらにこれがいじめ問題だと、村八分ではないが、集団で個人を攻撃するものとしては、いまだに結構残っているのではあるまいか。村八分する側にとってもエネルギーはいるだろうが、同調の圧力を抜けることは、あんがい容易ではあるまい。そうして孤立する人の苦悩というのがあって、やはりこれは残酷な行為である。
 懲罰なので、相手が懲りるくらいでなければ意味が無い、ということもあろう。もちろんこれは本来の村八分のことで、何か掟を破るなど、懲罰に値することをしでかした場合、長老か何かから言い渡されるということがあったのかもしれない。直接手を下さないので、一見緩やかな感じもあるが、繰り返しになるが共同体で生きなければならない社会であるなら、これは死活問題である。じわじわと苦しめられるということで、反発して事件になるということもあったようだ。いや、現代でもそのような事件というのはあるらしく、近隣地域での個人の孤立は、大きな事件へと発展するということもあるという。
 村八分は陰湿さもさることながら、やはり実施されることには問題が多い。勝手に孤立する自由があるのはかまわないが、実際に完全孤立は、つまるところ人間としては、なされてはならないことに間違いは無かろう。
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個人の犠牲をあてにしないで欲しい

2015-07-30 | 時事

 憲法学者から違憲判断が出されたのだからという議論がかまびすしく叫ばれている訳だが、それが問題であるように思う前にもっと問題視すべきことはある。憲法違反というのであれば、自衛隊の存在自体が憲法違反の疑いが強いはずだ。実際に多くの憲法学者によると、明確に自衛隊の存在は違憲である。まあ、それだけの話であって、だから(自衛隊は)解散すべしという意見は聞いたことが無い。だいぶ前だが、社会党の議員さんが自衛隊の違憲合法論という現実路線を打ち出したことがあったが、結局それで(当時の)社会党は一般的に信用を獲得したと思う。結局はそういうことだというのが現実であって、違憲であるのなら素直に憲法の方を粛々と改正すべき問題であって、しかしこれも現実的に不可能であることは明確だから、いわゆる違憲であろうが合法的に法整備をやるより無いということである。つくづく日本というのは変な国だけれど、それが敗戦の歴史ということだ。しかし、国民の命を守るということは国家の責任なのだから、怠慢をするわけにはいかないのだろう。まあ、これまで怠慢かまして何とかなっていたように見えていたのがいけなかったのかもしれないが…。

 ところで、自民党の若手議員が、議論を呼びそうな発言を繰り返すことについて橘玲が解説していた。自民党は圧倒的な多数を占める与党である。いまや連立を組んでいない他の党は、あまりにも弱小すぎて玉がいない。そのせいでかえって個人の存在が目立つことになる。若手であっても質問する機会があるし、小さいながら党内で重宝されているように見える。それは所帯が少ないのだから当然のことであるわけだが、自民党のように激しく巨大になると、若手は下働きするより無いし、まじめにそういうことをしていたからといって、将来的にポストなんて回ってくる気配すらない。仕方ないから国会で野次を飛ばすくらいしか注目を集めようがない。そういうものは、国会議員は聞いているかもしれないが、国民がまともに聞いているはずもない。仕方がないから問題になりそうな場をつくって、威勢の良さを見せたい気分になったのだろう、ということだった。なるほど、ああ勘違いの真相という訳だ。
 せっかく国民の信任を受けながら、ちょっと外れたような、現政権の足を引っ張るような行動に出てしまうのは、だから実は合理的な判断なのだろう。可哀そうなものである。
 結局民主的に議論を重ね、十分に時間をかけてやったことが裏目に出て、世論操作のマスコミに安易に面白さのようなものを提供して空転する。バカバカしいが、これが民主主義というシステムというしかないではないか。若い人が投票に行かないのは、実に賢いことかもしれない。馬鹿に付き合うほど、暇じゃないということだろう。でもまあ結果的に、戦争には駆り出されることだろうけど。
 そういえば献金するように言われてるんだよな。個人としても苦しい情勢であります。無理して出すその金でもって家族に旨い飯でも食わせた方が、何十倍もしあわせなのにね。頼んますよ、議員さんたち。
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廻りにいる異性と同性

2015-07-29 | 境界線

 女子高出身の友人から聞くところによると、(女子高出身であることで)素行がだらしなくなるということがあるように思うことがあるらしい。男の目が無い女性というのは限りなくだらしなくなるという意味であるらしい。服装は乱れ、言葉遣いも乱暴になるらしい。
 では男はどうか。かなり前の話だけれど、(厳密に男子校ではないが)工業出身者の友人は立ち話などをしているときに、時々視線が移動する。なんとなく気になって訊ねると、無意識に僕の背後を移動している女性に視線が移っていたためらしい。これはたぶん工業高出身者の性(さが)であるとのことだった。そうなのか。
 僕なんかは短大出身だから周りは女だらけだったわけで、確かに最初はかなり戸惑ったが、こういうものはあんがい慣れる。今考えると贅沢だったという意見も分からないではないが、慣れるものは仕方がない。確かに当時の女の子たちには性的に力がある時期であったというのは分かるけれど、そういうものを素直に受け止める能力のない男というのはあって、だから若いうちは恩恵などと言うのは分からないものなのだ。
 夏になると女性の服装の肌の露出度が一気にあがる。これはまあ自然と言えば自然ではある。しかし、目を楽しませる程度というのがあって、場合によってはどうしたのだろう? ということもある。本能的に嬉しいのか困るのかよく分からなくなる。
 仕事でそういう人がいると、気合いが入っているのか、不真面目なのか、ということも考えてしまう。しかしながら淡々と気づかないふりなどしなければならない。
 で、ある時にそういう話題になった。するとある女性が、周りが女ばかりになると、そういう女子的に敏感になりすぎる人が出やすくなる、という話をされた。どういうことかというと、男性がいると性的には控えめにする配慮が自然に働くものなのだが、女ばかりで働いていると、周りの女性性に同調圧力が加わって、過激に化粧をしたり、明らかに下着が見えるような露出度の服になるような集団ができることになるらしい。田舎ではある程度小規模なのであまり気にならないかもしれないが、東京の女子大がそばにあるような駅では、そのような壮絶な女子集団というのが見られて、女が見ても恥ずかしくドキドキするとのことだった。
 僕は露出の多いのは、てっきり以前はヤンキーだった名残なのかな、くらいにしか考えたことが無かった。結局空気を読んでいる、ということなのかもしれないですね。女性性というのは、なんだか奥深いです。
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ソ連の蛮行をゆるく告発   ジョパンニの島

2015-07-28 | 映画

ジョパンニの島/西久保瑞穂監督

 終戦後の9月になって、いきなりソ連に占領されてしまう北方四島の一つ、色丹島での生活を描いた作品。ソ連による蛮行を告発するというより、色丹島で暮らす家族と、子供の目線から戦争を描いたということになるのかもしれない。
 ソ連兵はいきなり上陸して島を占拠し、島民の自由を奪うばかりか、漁業を禁止し主たる物資を没収し、捕虜をとらえシベリアに移送したり、住居を奪ったりする。そういう立ち振る舞いに島民はなすすべがないばかりか、脱出を試みて事故にあい、命を失ったりしている。悲惨極まりない世界にありながら、しかし子供たちはあんがいソ連の人たちに興味を示し、子供たち同士では交流があったりする。お互いに意味は知らないまでも、お互いが歌っている歌をけなげにいつの間にか歌えるくらいになってしまったりする。そうして主人公の少年は、家を奪った将校の娘にほのかな恋心を抱くのである。
 もともと主人公の父親が銀河鉄道の夜が好きらしく、息子の名前は登場人物のジョバンニをもとに淳平、カンパネラをもとに寛太と名付けている。子供たちは何度もこの物語を朗読させられて、物語にもなじんでいる。おもちゃの列車を走らせて、銀河鉄道の夜的な空想世界に遊んだりしているのである。
 確かに悲惨な思いをしながら、しかし子供はそういう状況も楽しむことができる。もちろん親が居なくなって、命を懸けた冒険じみたこともするのだが、大変に運よく、何とか生きながらえることができた。戦争を生き延びるというのはそのような運が無ければ不可能で、しかしやはり多くの命は、簡単に失われてしまう。たくましく生き延びているのは、狡猾で不真面目なおじさんなどのような人もいるが、ある程度の無邪気さが必要なのかもしれない。まじめで一徹な生き方をしていると、さらに窮地に立たされるようなことに巻き込まれてしまう。見ようによってはそのような教訓は得られるわけだが、しかしその時代を振り返ってみても、主人公は戦争を恨んでいるような訳ではないのである。皆単に時代と場所が悪かっただけなのだろうか。
 もちろん過去をあげつらったとしても、その失われたものがかえってくるわけではない。思い出されるいい思い出を、抱いて生きていく方が幸福だということだろうか。反戦モノには違いない作品だが、少し抑圧の効いたファンタジー作品ではないだろうか。そうして普通のロシア人がこの映画を目にするといいのだけれど…。
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朝食を食べる問題はどっち?

2015-07-27 | 

 学生時代にはよく聞いたものだが、朝食を食べない人というのは結構身の回りにいるようだ。いろいろ理由はあるようだけれど、まあ、習慣ということが一番多そうである。
 子供の関係者、というか教育の現場などでは結構激しく言われることは、とにかく朝食を食べさせろ、という。年齢にもよるだろうが、子供の発育という観点と、午前中の学習意欲などと関連付けられている場合が多い。しかし、これは結局教育現場からの親への教育という面が一番強いようだとは感じていた。生活習慣に教育が介入するというのは、要するに不信感である。朝食を抜かせるような家庭というのが、その主たるターゲットだったということだろう。まあ、議論はあろうが、普通なら本来どうでもいいことだから。たとえ子供にいいことであっても、朝食を食べなくて優秀な子供ならいくらでもいるだろう。
 朝食を食べることはそのようにして、体にいいとか生活習慣上いいことという洗脳がある程度あるということだ。信者も多いし、そう簡単には揺るがない牙城だろう。まあ、実際には午前中に活動する人の多くは、朝食をとって栄養を補給した方が合理的であるのは確かだろう。食事をとることで脳が活性化するのは、実験的にも明らかだという。実感としていいのなら、そうすればいいというだけの話である。
 ところでやはり、朝食を抜くことが健康には良いと力説されることもある。特に奇抜な意見ということではなく、実践して健康という人もおられるようだ。長生きの秘訣であるとか、まあ、怪しいのは怪しいけれど、力説のあまり声が大きくなってしまうのかもしれない。実際に朝食を食べる人と食べない人との比較にあいまいさが残っている面は科学的とは言えないまでも、現代のような飽食の時代の方が異常であるというのは、それなりに説得力はある。人体にとっては、ある程度の飢餓というのが、かえって体にはいい場合もあるらしい。長寿と関係のあるといわれるサーチュイン遺伝子も、飢餓によって活動を始めることが分かっている。マウスの実験などでも、ある程度の食事の制限のある方が、認知能力なども高まるそうだ。さらに攻撃性も弱まり、毛並みも良く長生きする。人間が一緒だとは必ずしも言えないが、似たような人体実験の報告もあり、実践されている人もいるようだ。
 子供にいいことと大人にいいこととの違いもあるだろうし、さらにはっきりと個人差にも違いは大きいだろう。どちらが完全に正しいのだということではなくて、選択の問題である。あまりの飢餓や、栄養不良を放置するのでなければ、朝食くらいは食べても食べなくてもどちらでも好きにしたらいいのである。
 ということなんだが、経験上の実感としては、若いころには比較的朝食を抜く人の方が多かったように思うし(おそらく朝が弱いせいだろう)、しかし社会人になり一定のリズムの中で、朝食をとるように習慣づいた人も多くなるという感じだろうか。しかしながら二日酔いだとか、やはり少し食べ過ぎて胃がもたれるような場合など、適当に抜いたりすることの方が自然という感じだろうか。朝方の人と夜型の人もいるだろうし、無理にスタイル化することの方が、ストレスが多いのではあるまいか。
 僕は胃腸が弱いので、朝を食べておいた方が楽である。食いしん坊というのもあるだろうけど、どちらかというと比較的朝方だし、目覚めてすぐ食べることが多い。結局は、個人的な問題なのである。
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妙にデフォルメが進みすぎている   エリジウム

2015-07-26 | 映画

エリジウム/ニール・プロムカンプ監督

 近未来の地球は、環境破壊などが進んで住みにくくなっており、富裕層などは宇宙にコロニーをつくって、そこに移住している。地球人はそのコロニーにあこがれている訳だが、当然自由に行き来はできないということになっている。地球はロボットなどから厳重に規制されており、犯罪歴があったり問題のある人間は、この世界から抜け出すことができないのだ。
 そんな中、何かの放射線を浴びて余命5日となった主人公が、パワースーツを着用し超人化する。そうしてエリジウムと言われるスペースコロニーに侵入し、万能の医療処置を受けようとするのだが…。
 要するに格差社会を戯画化して活劇にしたものである。アクションを本当に主眼としたものではないのかもしれないが、恐らく現代にもある、例えば米国の医療の格差問題を批評的に描いた作品と取る人も多いのではないか。人間社会の個人というのは、原理的に平等でありうるはずがないが、それをもう少し誇張して描いてみると、このような展開になるのであろう。
 もっともその前提となる人間のあり方のようなことと、やはり少数しか厳密には助け出すことができないという物理的な問題というのがある。それは別段近未来を描かなくとも、現代社会の中にも現実にある事実である。ただし、ことは複雑に過ぎるので、単純化してものすごくわかりやすい話にする必要があったということなんだろう。
 そういう意味で、この物語は分かりやすく、意味を考える上では成功しているといえる。しかしながら既にこの問題点に現在憂いを持つような人間にとっては、いささか単純すぎてかえって薄っぺらい問題のように思えてしまうということになる。少なくとも僕はそう思った訳で、そうしてこの映画をつくった監督でさえ、本当はそんなことを思っているのではないかとさえ疑ってしまった。それというのもやはりこの監督の前の単純な作品の方が、かえって深みがあるのではないかと感じているからだろう。それはハリウッドの映画製作のシステムが悪いのか、実は監督の底の浅さなのかは分からない。それはこの映画で映像化されない影の物語なのであろう。
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もう少し客の感受性を信用しよう   バーレスク

2015-07-25 | 映画

バーレスク/スティーブ・アンティン監督

 こういうのを見ていると、いわゆる女の人の裸(これはダンサーだから厳密にヌードではないけれど)に対するエロの感覚というのは、東洋のそれとはずいぶん違うのではないかということだ。あちらの女性の体形が大仰というのは最初にあるが、見せ方がドカーンという感じで、力強い。歌舞伎で見栄を切って、どうだ!という見せ方している。悪いということではないのだろうけれど、それってエロなんだろうか?という感じかもしれない。いや、明確にエロを売っていることは分かるのであるが、それが僕にはエロには見えないという感じかもしれない。歌やダンスは素晴らしいけれど、まあ、それは彼らのものなんだよな、という冷めていく感じがあるということだ。一種の頂点にあるというエンタティメントなんだろうが、そういうエロさ加減がそんなに美しくは感じないということなんだろう。同じような西洋であっても、ヨーロッパのバレエのような肉体美というのであれば、分からないなりに感心したりもするんだけれど、米国の夜のダンサーというのは、パワーの方が強すぎて、滋養強壮剤と麻薬とウイスキーでなければ正気でいられないような戸惑いを感じる。そういうものなんだということだが、すでに酔っぱらってへべれけだ、という終焉を迎えるより無いではないか。
 さらに映画的に演技があるわけだが、お約束のわざとらしさが鼻をつくというのがある。どう考えても登場してからすぐに誰がヒロインとはっきり分かるコントラストがありながら、周りの人間がちっとも理解しようとしない。一部の人間を除いて。そうして偶然のチャンスが巡ってきて、皆がびっくりするという感じだ。おいおい、お前らは本当にプロだったのか? という突込みがどうしても入ってしまう。これほどの実力差がありながら、むしろ素人的に明確でありながら、プロの方が素人よりも数段感受性が低い。そういう物語なんだから仕方がないにせよ、もう少しそれらの必然が微妙な差で分かるように考えるのが演出というものではなかろうか。サクセスストーリーでありながら、これでは最初から実力がある人間が、圧倒的すぎる力をただ発揮できなかっただけの時間の経過にしか見えないのである。分かり切っていることを遠回りしていくことより、何かそれなりの知恵なり努力なりで乗り切る道を見たいということなんではなかろうか。そうすると平均的な米国人には意味が分からなくなるという懸念があるのかもしれないけれど、やはりそれは自国民を蔑みすぎる行為なのではなかろうか。
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殺人は良くて煙はご法度

2015-07-24 | culture

 アニメ監督のブログを読んでいたら、アニメのディティールで何かと自主規制がうるさいことがある、ということが書いてあった。たとえば車の運転のシーンだと、シートベルトをちゃんと着用させるように描かなければならない。また、未成年の喫煙や飲酒なんかもご法度。さらに主人公がとっさにバイクに乗るような場面があったのだそうだが、これにヘルメットを着用していないというので、揉めたことがあったらしい。世の中にはいたるところにバカがいるものである。それもそういう人間が、あんがい現場の権限を持った人だったりする。
 それにしても殺人や暴力は描いて良くて、煙草だけがダメだとかいうのは納得できない、と書いてあった。まことにその通りで、そういう規制や思想というのは、殺人より恐ろしい暴力だ、ということに気づかない人が多いということだろう。

 タバコなんかはできるだけ描かないようになっているという話は、映画なんかでも聞いたことがあるが、それは米国のような清教徒がいるような国だからだろう、なんて思っていた。ところがすでに日本でもある程度自主規制があるようだし、放送禁止用語のような頭の悪い人しか考え付かないようなものさえある。自分が馬鹿だと人に分かるようにしているのは単に愚かだからいいのだけれど、バカでない人にも実害があるので困るわけである。
 映画や漫画の世界で不良の未成年が飲酒をしたりする表現が使えなければ、別の表現を使えばいいということなのかもしれない。じゃあマリファナ吸ったり薬に手を出したりすればいいのだろうか。アクションシーンでとっさにバイクに飛び乗ってヘルメットをつけているようでは、単にのろまな奴にしか見えないだろう。もちろん映画であればスタントマンの命を守るために撮影にはヘルメットをつけてやろうよ、というのであれば理解はできる。知らないがCGで外すことができるようなら、それでもいいのではないか。シートベルトもそれで然りである。運転中の携帯電話なんかは、「パルプ・フィクション」ではたくさん見られたものだ。今はあんがい難しいかもしれない。
 一時期ヌード場面などで芸術かどうかなどの表現の自由で揉めたような時代もあったが、しかし、このようなものは現場の権力者の知恵のなさで簡単に自主規制が出来てしまうということのようだ。そうして規制が勝手に進んで行って、そういう場面が希少になると、たまに小さい露出があれば、かえって目立って騒ぎ立てるような人間を作ってしまう。表現の世界が、ますます歪んでしまうということになるだろう。現代人というのはつくづく勝手に裸の王様をつくってしまう。これを愚かだと思わない感性というのは、何と呼べばいいのだろうか。
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自宅は留守電にどうぞ

2015-07-23 | 掲示板

 自宅では基本的に電話に出ない。携帯電話の事ではなくて、据え付けの電話のことである。もちろん時々鳴るが、じっと無視。留守電の設定にしているけれど、昨年のある時期を最後に録音されたことは無いという。平日なら8時以降に電話が鳴る。土日には、ちゃんと昼の時間にも電話は鳴る。ちょっと前に試しに出てみたことがあるが、もちろんセールスであった。電話契約のものがほとんどだが、たまにそれ以外もある。今は個人の電話帳というのは見なくなったが、以前のものを使うようにしているのだろうか。新たに漏れたということより、個人宅の電話に出るような人なら、カモになるということなんだろう。
 出なくてもセールスの電話だとわかるのは、続けて必ず二回鳴るからである。おそらくルールになっていて、留守番電話でコールが切れると、ひょっとすると間に合わずに受話器を取らなかった可能性がある。そういうことを防ぐために、大事をとって二回電話するというマニュアルでもあるんだろう。もちろん電話に出てもいいが、相手が話してる途中でわざと受話器を切る、という意地の悪いことをしなければならないので心が痛むから嫌なのである。聞くところによると、例えセールスを断ったとしても、ある程度話を聞いた(たとえば1分以上とか)ような人には、また別の人が電話をするというマニュアルもあるんだという。彼らは仕事だから仕方がないが、個人的に恨みがあるわけではない。しかし僕も嫌だが、そのような仕打ちをされるのは彼らも嫌だろう。お互いの平和のためには、電話に出ないということにするより方法が無い。
 もちろん、留守番電話が嫌で、さらにセールスで無くて用事のある人もいるかもしれない。でもまあ、それはそれで仕方がないことである。すべてはセールスの所為で犠牲になったということになるんだろう。
 電話での詐欺が高齢者ばかりという現実があるが、おそらく備え付けの電話に律義に出るような生活をしておられるせいである。携帯以外には電話に出ない。基本的にはそのような心掛けをすることで、かなりの被害は防ぐことが出来るだろう。だいたい例えセールスであっても、電話で呼びかける行為というのは、詐欺の亜流ということも言える。このような不便な状態で防衛するよりほかに無いということは、まったく悲しい現実である。
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聖徳太子キリスト説

2015-07-22 | culture

 聖徳太子には、厩戸(うまやどの)皇子という名前がある。母の間人(はしひと)后が厩の戸にあたって産気づいたのでそういう名前になったとされる。(※日本書紀)
 この話ですぐに気付く人もいるだろうが、イエス・キリストによく似ている。キリストは、母マリアが馬小屋で産んだことになっている。
 日本書紀が編纂された8世紀初頭には、日本と中国(唐)は遣唐使を通じて交流があった。さらにその当時の唐では、いわゆるキリスト教ブームのようなことが起こり、キリスト教徒が結構いたという。首都長安にはキリスト教寺院などが存在したらしい。
 これが聖徳太子の伝説は、新約聖書の影響を受けているのではないかと言われているゆえんである。決定的な証拠は無いが、専門的な研究家の間でもしばしば話題になり、ありうるとされている説である。
 高句麗系の騎馬民族文化圏渡来説というのもある。馬とのかかわりのある渡来人(朝鮮系)のかかわりを示唆するものという。当時の考え方だから、いわゆる朝鮮系であることで、皇族の箔がつくということなのかもしれない。
 いずれの説も決定的な証拠は無いが、当時の人の考え方を知る上では面白い。権威や伝説というものは、多くの場合は借り物なのかもしれない。それは歴史だけでなく、今でも同じようなことのようにも思えるが…。
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男はあきらめで達観する   刑事コロンボ・別れのワイン

2015-07-21 | コロンボ

刑事コロンボ・別れのワイン/レオ・ペン監督

 名作と人気のある本作品。僕はなんだかんだで4,5回は観ているかもしれない。しかしながらレコーダーに入ってたので改めて鑑賞。大筋は覚えてはいたものの、やはり久しぶりでいくつかは新鮮だった。物覚えが悪いって、人生を楽しくします。
 腹違いの兄弟である弟から、金欲しさに父から受け継いだワイナリーを大手の酒造会社に売却する計画を聞かされ、逆上し鈍器で頭を殴ってしまう。気絶した弟を密閉できるワインの貯蔵庫に閉じ込め窒息死させ、自分は一週間の旅行に出てアリバイ工作。帰宅後既に死んでいる弟にスキューバダイビングの装備をつけさせ、海に流して事故に見せかけるというもの。
 まあ、最初からいろいろ無理はあるが、とっさの考えとしてはなかなかのトリックかもしれない。しかしながら誤算というのは一週間留守にしていた天気。雨も降った上に記録的な猛暑になったということが、犯人の思惑を大きく狂わせてしまう。結果的にワインにかける情熱すらも、悲しい海の藻屑としなければならなくなってしまう。
 この物語が面白いのは、さらに秘書として信頼のおけるパートナーであった女性に、助けられることを条件に精神的に追い込まれてしまうことだ。自分の命運を握っているほどの助け船を出してくれるのだが、これが大きな弱みであり、自分の将来を暗くさせてしまう。静かに助け舟と脅迫をかける秘書の恐ろしさも見事である。
 ワインのうんちくについては、あまりにも神がかりすぎていてかえって胡散臭い。これが作品の一定のトーンになっており、格調が高い作品のように思われているようだ。しかしながら僕のように胡散臭く思ってしまう人間にとっては、ちょっと滑稽な感じもする。さらに言うならばコロンボの取っている行動というのは、犯罪であるばかりか、人間としてルーズに悪すぎてとても共感のできるものではない。イタリア人はいい加減なところがあるという偏見があるが、こんなことがそもそも捜査とはいえ許されるはずがないのである。
 そうではあるが、女の恐ろしさが描かれているところが大変に良くて、僕はそこを買うのである。どのみち逃げられない不幸なら刑務所へ行こう。そういう達観のような余韻が、納得の作品なのではないだろうか。
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ゆるいファンタジー   わたし出すわ

2015-07-20 | 映画

わたし出すわ/森田芳光監督

 なんで金を持っているのかは謎だが、以前の同級生を訪ねて、主にお金に困っていたら惜しみなく援助してくれる女の人の物語。一種のファンタジーだと思うが、こんな以前の友人あたりの人が金を出してくれると、何かと助かるのは確かだ。肉親ではかえって心配をかけるだろうし、個人的事情に対して、公的なものから借りるわけにもいかない。設定どおり、知ってはいるが最近の付き合いは特にないような以前の友人あたりだと、金を出してもらうことに、かなり抵抗が薄れるのではあるまいか。それでもやはり、なんでこんなに簡単に出してくれるのかは少し気味が悪い。誰も積極的に自分から貸してくれとせがんでいる訳ではない。友人として心配してくれた上に、気軽に大金を出していいといってくれる感じなのだ。特にお金持ちには見えないし、しかし、どういう訳か本当にお金は持っているらしい。最後には全財産という金の延べ棒を、比較的に彼女を妬んでいるような友人に全部あげてしまう始末だ。恐らくだが、これでそれなりに困ることにはなるんではあるまいか。しかしそういうことはお構いないようで、潔くお金を手放していく。以前の友人たちだから当然のことであるかのように、やはり実際に好意として、お金を出すことの方を目的化しているように見える。
 さて、しかしながらそうやってお金を手にした側には、それなりに問題が起こってしまう。思わぬ金が転がり込んだせいで、欲望に目覚める主婦が居たり、最終的には命を落とす者までいる。お金をもらって単純に目的を達成してハッピーそうな人もいるのだけれど、どうも歯車はくるっているような印象を受ける。身の丈というか、いわゆるあぶく銭というのものは、何か人々を不安定にさせてしまうのかもしれない。
 だからどうだということを、ことさら批評的に描いている訳でもなさそうだ。お金は欲しいが、やはりそれなりにまっとうに手にすべきだとか、そういう説教じみたメッセージがあるわけでもないのではないか。ただやはり、お金によって人生には一定の影響力が働くだろうことは分かる。それがダイレクトに人間の欲望のためなのかはよく分からない。人間は単にそういう生き物なんだということなんだろう。
 不思議な浮揚感のある映画で、最後までなんだか現実感が薄い。人というのは淡々と不幸になったりハッピーになったりするようだ。それは本来は近しかった友人たちであるはずなのに、やはりどこか遠い物語だ。まあ、実際にはふつう誰も金なんか出してはくれない。そもそもの成り立ちが成り立ちにくいからこそ、変なファンタジーになりえたという作品なのであろう。
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表に出にくい面倒さの壁

2015-07-19 | 境界線

 そういえば夫婦別姓の議論の時のことを思い出したのだが、伝統的な文化の継承が崩されてしまうという反対議論があった。一見おおごとのようにも聞こえるのだが、文化の継承が結婚して名前が変わらないことでどうして崩れるのかは、やはり本当にはよく分からないのだった。仮に何かが崩れるとしても、心配している人個人に、いったい何の不利益があるのだろうか。
 それというのもトランスジェンダーという人の議論を見たからだ。表だって反対しているような人はあんまり知らないが、やはりいろいろ問題は多いらしい。同性愛の結婚というのであれば、夫婦別姓と同じで、何が問題かはほとんどわからない。そうでない人に何の不利益があるのかということでも一緒だ。制度が無くても勝手に一緒に住んで、事実婚であることにも、何の関係にあることかも意識しなくてもよさそうな話である。
 ところが、実際に企業が採用するというときに、例えば山田太郎さん(仮名)が実は自分が女であると主張している。だから男性トイレは使いたくないという。企業としては、現在いる女性社員の同意を得たうえで、山田太郎さんの女子トイレ使用を可能にするようにしなくてはならない、というような話だった。実際のところは、同意は得られて、しかしきめられたビルの階のトイレを山田さんは使用しているとのことだった。
 これをめんどうな話とみるか、当然とみるか、というところはあるかもしれない。たぶん僕にも偏見というのは当然あるから、このような一見面倒な感じは、やはり受け入れる側に少しばかりの葛藤を生むような懸念が残らないではない。山田さんがそのようなトラスジェンダーだという同意というか理解というか啓蒙というのは、確かに必要な作業という気はするが、もっと簡単にならないのだろうか。
 結局は、やはりかなり見た目を女性化させたうえで、苗字はともかく、太郎さん以外の名前がいいんじゃなかろうかとは思う。一瞬ですべてが解決とまではいかないまでも、まあ、ある程度そうであるのか、というのを、言語以外でも分かるようにできないものだろうか。会社の組織の大きさにもあると思われるけど、50人以下程度なら号令をかければ、周知も簡単だろうけど、それ以上ならこれは普通に啓蒙に時間がかかって当然だろう。
 基本的には、こういうことが面倒だから、採用を見送るような場合があったら問題だということではある。だから、採用時に確認したいが、それでもあえて隠している、ということが起こりうることだろう。だいたいこれを理由に採用しないというのは明確に差別であるが、そうであるなら、やはりそれが理由で無いように、不採用にするという疑いも残る。そうして、結局やはり隠れたままであると、後からの告白があった後に、会社があわてる、ということになるんだろうか。それともずっと隠し通すという現実があるんだろうか。
 こういう議論が表に出ると、やはり人はいささか慎重に話をしているようにも感じる。あまりに例が少ないというか、経験が少なすぎるのだ。
 順を追って考えると、何も問題では無いようなことなんだけれど、しかし現実に目にしたり、表面に大声で出さなければ理解できなかったりするということは、現実問題としてありそうだということは分かる。以前北海道だったかのJCの理事長がカミングアウトして、仲間内で議論になったことがあったのだが、その当時は、まあ、そうですか程度にしか感じてもいなかったが、やはりそのように、公の場で発言力を持った時点で、大声を出す必要があったのかもしれない。
 障害者問題なんかも似たような部分はあるが、少数者の声を伝えるということは、時々先鋭化してしまうことがある。そういうことが逆効果にならない程度に、やはり地道な啓蒙以外に道は無いのかもしれない。まだまだ不自然感が残るのであれば、このような例をたくさん積むより他に無いのではなかろうか。
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なかなかしつこい者同士  おとなのけんか

2015-07-18 | 映画

おとなのけんか/ロマン・ポランスキー監督

 子供同士でちょっとした喧嘩のようなことがあり、一方が怪我をしてしまった。それで加害者の方が被害者の家に出向いて謝罪するという場面。実にその一点のみの物語。
 通り一遍の謝罪と受入れが済んだように見えて、謝罪側の父親が忙しい人らしく、携帯電話がしょっちゅう鳴っている。なんだか不穏な空気である。実は形だけの謝罪であって、そんなに大きな事とはとらえていないことが見え見えなのである。そこでやはり被害者の方はそれがどうにも引っかかる。寛大であるという態度を見せながら、しかしもう少し何とかならないか。加害者側の母親だって、この忙しい夫に何か不満がありそうだ。帰る帰らないで、どんどんこの二組の夫婦の内情がさらされていき、ついには酒を飲みかわして本格的な喧嘩に発展していくのである。
 子供を持つというのは、このようなリスクがある。加害者にも被害者にもなりうる。事実そのような覚えがあるようだ。謝罪の時はできうる限り理解してもらいたいと思うが、受け入れが大柄すぎるということも経験がある。不快さが残ってなんだか気分がわるいということもある。さらに被害を受ける場合も、やはり相手が軽いと、いったい何しに来たのだ、という怒りも沸く。たかが子供のことかもしれないが、それは分かっていても、お互い様でありながら、大人同士の付き合いがそもそもあんまりなければ、気持ちの伝わり具合がどうにも上手くいかないものである。いっそのこと保険か何かで、事務的にすんなり済ませられないだろうか。今は交通事故なんかが、結局そういう様相を呈しているという感じだ。程度が軽い場合の方が、かえってそれなりにこじれそうにも思われる。軽いといっても跡が残るような怪我だってある。そういうものは、表面以外にも傷が入っている。わだかまりというのは、やはり厄介なのだ。
 映画の方は、事態がどんどん悪くなっていく感じがある。敵味方も時々入れ替わる。実際の被害も発生して、それでもしつこく喧嘩は続く。もともと何の話だっけ? 当事者たちだってそんな気分になるのではないか。この場合は謝る側と受ける側がそもそもはっきりしているはずだ。しかし被害者の方は、結果的にもっと被害をひどく受けているようにも見える。日本人の感覚からすると、いささかバランスが悪い。恐らくそれは、客を受ける側とも連動しているせいもあるのかもしれない。ホームに受け入れる側のマナーが、日本の場合と少し違うのだろう。主導権がありながら、自ら傷口を広げるネタを提供している。そうして相手はそれを受けて、それなりに最悪な形で失態をやらかす。また謝らなければならないのに、被害が広がってますます謝罪の受け入れが難しくなるのだろう。
 妙な話だが、これがそれなりに面白い。ちょっとしつこいことになってしまって、お互いにうんざりして、しかしそう簡単に離れられない仲になってしまう。もうどの程度どちらの方が悪かったのかさえよく分からない。しかし喧嘩はまだ終わったわけではない。そういう途方のくれ方が、シニカルな笑いになっている。人間は容易には懲りない。たとえそれが子供の喧嘩であっても。しかし彼らはもう懲りたのではないか。これだけ長く喧嘩をすると、やはりそういう達観に達するという気もする。そうでなければ、また続きをやるしかないのである。
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天国への階段

2015-07-17 | 雑記

 ツェッペリンに天国への階段というのがあって、曲はいいんだが、歌詞が難解である。まあ意味なんてそんなにないのかもしれないけど、解釈はいろいろあるようだ。それはいいとして、歌詞が難解だから分からないというだけでなく、天国に階段をのぼっていくというイメージが、僕はよく分からないというのもあった。なんでまたそんなことをして、天国へ行かなければならないのか。というか、いったいどれくらいの階段になるというのか。
 ジャックの豆の木だとか、芥川の蜘蛛の糸のような感じで、空の上に一直線に伸びていったところで、恐らく天国というのはもっとはるか上というイメージはある。もっとも今は空のさらに上にいくとただのスペース、宇宙空間があるということを知っているけれど、まあ、階段なんかで上がるよりは少しだけ合理的という気もする。しかし死んだ人が例としてふわふわ浮いて、そのまま天上へ登っていく方がもっと楽だし、合理的なイメージという気もする。
 ところで天国がどんなところかというのは謎なんだが、死んだ人間がお星さまになる、というのはそれなりにポピュラーなイメージのようだ。児童文学の世界でなくとも、あんがい星を指さして、自分の亡くなった肉親をしのんだり、過去の偉人を讃えたり、というのは結構聞く話だ。実は古代エジプト文明においても、すでに王様などは死後に星になると信じられていたという。ミイラにして復活するという話との整合性はよく分からないけれど、やはり人というものが考える想像としては、理解できない話ではない。
 王の墓がピラミッドであるというのは知られた話だが、権力の誇示もあってむやみにでかいのだと思っていた。ところがこのピラミッドの大きな意味は、実は星へ通じる階段であるというのである。王様は死後、このピラミッドの階段を使って天に上り星になるというイメージらしい。いくらでかいとはいえ、ちょっと無理がありそうな話なんであるが。
 まあ、星になるにせよ天国に上るにせよ、とにかく上を目指すというようなことで死後を片付けるより無かったのかもしれない。実際のところいまだにそのように考えている人も多いことだろうし、人間の考えている単純さというのは、いつまでもあんまり変わらないものなのかもしれない。
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