カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

レンズ無しに見えるもの

2007-06-29 | 時事
 やっと田植えが終了した。心の底から嬉しい。今日は「さなぼり」が某所で開催される運びとなった。関係者の皆さん本当にお疲れ様でした。
 さて、その田植えの仕上げをすっぽかして昼より夏越の会議に参加。その前に開催された臨時理事会には間に合わなかった。本当にごめんなさい。言い訳に過ぎないが、ああいう作業中に中座できるものではないのだ。もちろんもう少し早く終わる予定が、例の「レクリエーション」と揶揄されたスタッフの根性により、熱心に補植がなされたためであるのだが…。
 会議に参加している皆さんも作業着姿の人が多かった。現場から駆けつけた感が強く、汗臭そうな連中が並んで物々しい。見た目の良さと清潔感は皆無だが、若者が肉体労働をしているという感じがとてもよかった。これは僕の偏見だが、「健全」とはこのことではないか。多くの若者はちゃんとがんばっているのである。
 さて、職場に戻ると、提出資料の締め切り前に悪戦苦闘するスタッフの姿が。二十数年間、提出期限に間に合わなかったことは一度も無い。しかし今回は完全提出が不可能であるミスが発覚した。これも忙しすぎて単純に見過ごしてしまったミスである。ここに来て唖然とする思いだ。物理的に修正する時間を考えると完全にアウトだ。残念だが、指摘を覚悟で後で追加して送付することにする。ずるいがやるしかないので割り切るだけである。いろいろ話を聞いていると、他にも小さなミスを発見する。ちょっと任せすぎていたのかもしれないと反省する。ものすごく分かりきっていることばかりで、気持ちがたるんでいたのだと思う。どうして、という思いもあるが、ここで怒っても仕方が無い。やれることを坦々とやるのみだ。いや、やってもらうのを待つという感じだけれど…。ここは辛抱なのである。

 さて、最近はどういうわけかニュースを見たりする。長時間見ると精神衛生上良くないが、ちらりと見るぐらいはまあ、いいだろう。
 相変わらずミートホープ社叩きは続く。雨水で肉を解凍していたという。エコロジーともったいない精神を賛美したものではないようだ。一般の会社ならそう考えるほうが自然だと思うが、大変に不思議だ。
 宮沢元首相が亡くなっているようだ。既に死んでいたと思っていた人も約一名身近にいた(特に誰かは秘す)ので笑ってしまったけれど、この好意的報道にも驚いた。死人に鞭打つというのもどうかとは思うが、見た目の優しさはあるけれど、この人は日本にとっては罪深い人間の代表なのではなかったか。この人の事なかれ主義や米国追従のせいで、どれだけの人間が被害をこうむったことだろう。失われたものはあまりにも大きい。そして取り返しはつかない。もう少し時間がたてば、恐らく極悪人になるはずの人だろう。というか、みんな目を覚ませよ、という気分だ。

 今朝の新聞を読んでいると、「男のクセに」という表現はセクハラかどうかという話題があった。ほとんど意見は二分されているようだが、女性のほうがややセクハラでない、という意見が優勢のようだった。女の人は、男らしくない男に厳しいらしい。セクハラかどうかという意見を問う姿勢自体が僕は好きではないけれど、セクハラで苦しめられていると考える女性が、男性に反撃するよすがとして、この表現をアリにしたいという苦悩が垣間見られた。
 男は女より弱いというのは誰が考えても事実だと思うが、そう考えていない人が本当にいるのだろうか。僕にはそういう感覚が不思議でならない。例えば同じく、「女のクセに」という表現であれば、間違いなくこれはセクハラ判断が優勢であろう。それぐらいこの問いは恣意的なのである。男を罵倒したい女が多いということはなんとなく分からないではないが、女に許されて男に許されない表現の方が社会的にははるかに多すぎるとは思う。
 まあ、世の中それぐらい不公平でもいいけれど、自分の不幸に無自覚な女性は世の中に多いのだなあと感慨深かった。厳しい言い方かもしれないが、社会より個人に幸不幸の根本的問題は隠されているのである。方向を見誤ってはならないと思う。
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選別されていたらしい

2007-06-29 | 雑記
 ブログで反応があるのはうれしいことであるけれど、なにやら変ないやらしいコメントやトラックバックが来ることも確かである。それもほっとくとどんどん来る。コンピュータにキーワードか何かで検索したり、ランダムにコメントを発送するシステムになっているのだろうか。リンク先などにも同様に同じトラックバックが行っている場合もあるようなので、連携して送っている主のような人がいるのかもしれない。なんだか気持ちの悪い世の中である。
 仕方ないので、防御策として一時保留して確認後、公開することにした。コメントを保留にするのはしばらく躊躇していたが、やはりある一定期間には必ず変なものが混じるようなので仕方が無い。無視してもいいんだけれど、ご婦人(いまどきはなんというのか)にはぎょっとするようなきわどいものが多いので、そういう気分を味あわせてしまうというのも気の毒だ。実際に見てしまった人に、なんだ、こういうのを放置してんのか、とか、ひょっとしてウイルスに感染してるんじゃないか、などと思われるのもいけない。実際はそういう不安はいらないと思うけれど、用心する人に勝手に敬遠されるのも困りものである。
 そういうことで、保留することで一応安心することにしたのだが、この作業があんがい煩わしい。一日に新しいブログをアップする時と、なんかの拍子に閲覧ついでに見ることがあるぐらいだったので、下手をするとまる一日ぐらい保留していることがあるようだ。知人のものだと申し訳ないような気分になる。せっかく送ってくれたのに邪険に扱ったような罪悪感だ。
 ブログのページもそういう感じだけれど、メールの受診箱にもたくさんのスパムが来る。一日受診するメールの9割ぐらいは当然のようにスパムである。絶対数がまたそんなに多くは無いのだろうけれど、二三日出張していると100ぐらいは軽くたまるようである。坦々と延々とひたすら消していく作業が本当に煩わしい。うっかり音声をONにしたままにしていると、アンチウイルスソフトがサイレンを鳴らしてまったく五月蝿い。あんたの仕事なんだから確認せんでよろしいので、じゃんじゃん消去すべきである。
 あるとき町山さんのラジオ番組を聴いていると、こういうエッチなメールがたくさん来て困る、というようなことをやはり言っていた。ふむふむどこでも(町山さんは米国在住なので)事情は同じなんだなあ、と思いながら聞いていると、女性アナウンサーのところにはスパムは来るがエッチなものはまったく来ないのだという。つまりエッチなページを閲覧しない人にはエッチなスパムが来ないということらしい。し、知らなかった。
 コンピュータは男性か女性かを識別しているのである。というより、身から出た錆のようなものなのか…。コンピュータって、人間くさい機械のようである。いや、使い込んでいくと、人間の垢がしみこんでいくのかもしれない。自分の恥ずかしさと情けなさまでにじみ出てしまうほどパーソナルな道具なのであろう。
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職人芸

2007-06-28 | 雑記
 田植えの続き。どいろこいろ(いい加減、というニュアンスだろうか)で仕事を済ませられない職人助っ人(厨房のおばちゃん)が来ている関係で、仕事が異常に丁寧。一枚の田圃の補植が何時間もかかったりする。レクリエーション(職人談)できているスタッフは疲れ果てて消耗していく。僕は遅れて参加して、それでも疲れ果てて、昼食を食って休んでいたら置いていかれた。邪魔になるので忙しい人はまたきてくれろ、ということらしい。職人に嫌われてしまった。
 しかし、仕事の上では確かにないがしろにできないものを持っていることは強い。何もそこまでは、という気持ちは、結局あきらめといい加減さである。後になって稗が出たり、タニシの休憩場所を作ってしまう。後手後手に回ることでさらに仕事を増やしてしまう。それなら最初から丁寧に仕上げて、問題のリスクを減らしていくという考え方なのであろう。ただ、やはり理想と見切りもあって、どこまでが適当かという議論は必要なんだが…。
 ご近所で田植えをしている人も僕らの田圃を見に来て、「いやー、今年はみごとだね」とお褒めの言葉をいただく。素人集団なので、いつも気にかけてくれているのだ。ほめられると嬉しいが、もちろん僕の功績ではない。こういうのは上前はねるというのだろうか。
 しかしながら職人は口も悪く、一緒に仕事をしている人たちの体力と精神を同時に疲労させてゆく。ある人は「歯がゆいが、力はあちらが上だ」と、どうにもならないことを嘆いていた。プロとの力の差がありすぎるのである。つらいが、終わるまでの辛抱である。
 
 夕方にはTもっぴーと夏越の仕事。僕もそれぞれの仕事の引継ぎである。
お願いにあがったところである先輩と話をしていて妙に懐かしい気分になる。息子さんがずいぶん大きくなっておられて、見上げるようだった。この先輩と夏越をしていた頃には僕は独身で、この子は小学生だった。何でも来春大学受験だとか。僕は卒業するはずだし、髪が薄くなるはずなのである。
 こちらの方は職人芸までは到達せずに引き継ぐことになった。将来はどうなるのか、僕はもう何もいわない。それこそこれからの人のためになればいいのである。断じて無責任でいってるわけではないのであしからず。口だけ出して行動しない人たちより、ずっといいんじゃないでしょうか。
 さて、さなぼりはどこでしようかな。いいところがあったらご教授くださいませ。
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声がでかいぞNHK

2007-06-27 | 時事
 米国下院の従軍慰安婦報道を見ると、なんだかなあ、という気分の悪さを感じる。特に右翼の人たちが暴れたくなる気持ちもよく分かる。人の気持ちを逆なでさせて楽しいという米国は、益々孤立するのではないか。まあ、相変わらずといえば、そうなんだけど…。
 まあ、しかし誤解で謝罪するわけにもいかないし、この問題は事実上スルーされるのだろうけれど、思い切って繰り返し誤解だと暴れる方が国際社会にとってはいいことであるとは思う。小泉首相が繰り返し靖国参拝したことで、日本の国際的評価は飛躍的に高まったといわれている。特にヨーロッパ関係では日本も外圧に負けずに自国の主張をするということで、かなりびっくりしたようだ。今回は相手が米国だし、思いっきり突っぱねることで評価はまた上がることだろう。そういうチャンスではあるけれど、国内報道はそうはならないだろうことだけが、相変わらずうんざりである。日本も北の将軍様を見習わず、偏った報道ばかりするべきではない。多少他国語の分かる人もいるんだろうから、各国の反応を素直に伝えて欲しいものである。
 拉致問題の反撃としてこういう問題が遡上にあがっていることは容易に想像できることだが、そういう政治的な駆け引きというのは、正直言ってよく分からない。お互い米国にジャッジして欲しいという心情なのは、やはりアジア的な思考方法なのかもしれない。
 一方で繰り返しこうした謝罪が求められるという背景もあるとは思う。日本は確かに尊敬されず嫌われているということではあるのだろう。反日抗日というのは、歴史的にも根強いものだし、民衆が盛り上がる題材でもある。ブルース・リーの映画でも、悪人はたいてい日本人だった。日本の悪口がヒットソングになるのはアジアに共通のもののようだ。何も中国、朝鮮系だけでなく、東南アジアにいたるまで、日本のことをよく思っていない人口は、相当数あるらしいことは予想できる。経済の発展をねたむという要素も確かにないこともないだろうけれど、ことはそれだけではないような気もしないではない。
 たぶんそれらの国からみて、日本という国は一言でいって、「傲慢」なのではないか。そして不思議なことに傲慢なくせに自覚が無い。たとえていうなら、足を踏んでおきながら知らんふりしている感じかもしれない。「あれ、痛かったの」程度の自覚しかないように思われているのではないか。
 養老さんも書いていたけれど、日本は米国に似てきたのではないか。自国のことだけで相手のことを考えない。そしていつも傲慢である。世界各国から嫌われているのに自覚が無く、そればかりでなく押し付けがましい。世界の警察を勝手に気取っており、ずかずか踏み込んで制裁したりする。そしていつまでも間違いを認めない。
 そういう米国に憧れ追従し、真似ばかりしてきたツケが回ってきたということか。アジアに対してそういう態度を取っているという自覚が無いのではないか。アジアの国の人たちを、一段軽く見ているのではないか。僕は普段の日本人を見ていて、実は常々それを感じる。偏見であることにも気づかないぐらい根深く残っている優越感のようなものである。
 実際僕自身も中国や韓国という国は、国家としては問題も多く深刻だと思ってしまうことも多いのも事実である。日本の国内問題など、かの国々に比べるとたいして重大でも厄介でもなさそうに思われるぐらいだ。そうではあるけれど、日本の優越性は限りない偶然が生み出したものだということも自覚がある。日本国民が近隣国民よりすぐれていたから経済が発展したわけではない。日本人も確かにがんばったが、報われるだけ幸運も重なったのである。自分達だけでなりあがったと思うのは、いささか勝手過ぎるのかもしれない。
 まあ、それでも「正しい」歴史なんてものは、そもそもありはしない。正しいという表現が既に政治的である。実際には想像力と勉強が足りないだけである。
 また、こういうやり方で別問題である「傲慢さ」を正そうとする行為はフェアじゃない。お互いの壁をさらに厚く高くする政治には、やはりまともに取り合わないということが大切だろう。
 心なしかNHKの声が高いのが気になるところだが、安倍首相に復讐しているのだろうか。こういう選挙運動をするメディアというものは、注意が必要である。権力というものは、どこで声がでかくなるかということでもある。報道の温度差を見てみるのも面白いのかもしれない。
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膿が出る

2007-06-27 | 雑記
 歯の痛みは続くが、食欲はあるので困る。やわらかいものを選んで食う。硬いものでもかまわず食う。結局歯が痛いくらいでは食欲はコントロールできない。
 夕方口の中で異様に唾液が増えたように感じた。洗面所に走っていって吐き出すと血のようである。恐らく膿なのだろう。なんど吐き出しても大量に出てくる。口腔の内側の方に、かなり腫れてぽっこりしたふくらみができていたのだが、舌でふれてみると少し張りが無くなってゆくようである。その分膿が流れ出しているのだろう。洗面台一面に血の海のような有様になって、異様ではあるがなかなか愉快だった。
 子供の頃にニガネがつぶれて大量に膿が出るのが楽しかった。痛いけれどどんどん吹き出るので、ついつい押し出してしまう。出が悪くなると残念なのだった。今まで痛くて苦しめられたが、膿が吹き出ることで気分が洗われるような気がしたのかもしれない。
 今に至ってもまだ痛みはあるけれど、腫れの方はだいぶ引いたようだ。歯茎の痛みも少し残っているが、快方に向っている手ごたえを感じる。もう薬も飲む必要がなさそうだ。
 年配スタッフEばらさんからは、「そういう年頃になったんですよ」と嬉しそうにいわれた。人が老けてゆくのが楽しくて仕方ないらしい。人生の先輩としてそういう態度でいいのかと思うが、仲間が増えてきたという気分なのかもしれない。
 まあ、事実として、だいぶそちら側に行っているのは確かなようだ。今までよりこれからのほうが残り少ない可能性も大きい。大切に生きるという感覚は無いけれど、なんとなく寂しいものである。
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歯が痛い

2007-06-26 | 雑記
 田植え第二部の代掻きが始まる。僕は弁当を届けにゆく。
 河口に近い田んぼで石が多く、土が重い。トンボ作業もつらいところである。そしてほとんど炎天下。じっとしてても汗がにじむのに、重い土を分散させる作業はどんどん体力を消耗させていくだろう。トンボの数に限りがあるので、仕方なく眺めているが、なんとなく申し訳ない気分である。ほとんど意味は無いが水口を見てまわったり、隣との畦の水漏れを確認したりしてうろうろする。やっとキリのよい状況になったらしく、みんなが畦に上がってきてホッとした。
 軽ワゴンの後ろの扉を屋根にしてその下に弁当を広げる。何にもしていないが、おにぎりは美味しい。塩鯖とか細長い豆の炒め物などをぱくつきながらいただく。
実は朝から片側の歯ぐきが腫れており、噛むたび激痛が走る。反対側の左のほうも一部の歯がぐらついており思い切り噛めない。ほとんどそのまま飲み込む状態で食べている。胃のほうでがんばって消化してくれるよう期待するより無い。いやちゃんと消化せず排泄されることもついでに願っておこう。
 歯だけでなく、右腕のひじから二の腕近辺も妙に筋肉が張っており、動かしようによっては異様に痛みが走る。寝違えた首の筋肉のような感じといったものが腕に来ているという具合だろうか。思い当たるふしは無いが、コップを持ったり、首近くのボタンをかけるときなどに支障がある。夕方からネクタイをしたが、これも我慢しながら苦労した。
 そういえば思い当たるふしといえば、一泊研修なのだろうか。テントに寝たが、目覚めて体が痛かった。マットなどを敷いて寝ることのありがたさを再認識したものだ。快適な生活をしているという自覚無しに、快適さに慣れてしまっているのだろう。少し勝手が変わると、すぐに体から危険信号が出るのかもしれない。そういえば風邪やぎっくり腰は、そういう体を強引に休ませるための体からの危険信号であると説明を受けたことがある。それでもがんばろうとするが、どうにも無理はきかない。結局休ませて、壊滅的な体の決壊を防いでいるのかもしれない。

 「のだめ」にハマっていて何故か連想して小谷美紗子「うたき」を繰り返し聞いていた。ぜんぜん違うといえばそうなんだけど、天然の面白さはあると思う。中島みゆきはホラー過ぎてとても一人では聞けないが、小谷は聞きながら思わず笑ってしまう。ギャグじゃないけど、独自のセンスは笑うしかない。いえ、いい曲も多くていつの間にか口笛でふいていたりするのでメロディメーカーとしてもすばらしいのだが、歌詞の発想が「のだめ」っぽいのかもしれないなあ、と思うわけです。このアルバムしか知らない人だけれど、現在もがんばっている様子である。ご活躍を期待しております。

 ハマっているといえば落語である。結局志ん朝を買ってきたが、一度目より二度目が面白かったりする。この人は子供の頃に見た記憶があったので選んだけれど、考えていたよりずいぶん早口である。動きで笑わせているところもあるようで、CDではそこのところがもどかしい。しかし、それも含めて落語というものが楽しいというのは、自分が枯れてきている証拠ではないか。土地柄寄席に通うことはできないけれど、せめて名演をCDで聞ける程度には、しあわせな時代なのである。

 テレビのニュースを見ていると、ミートホープ社の社長がすっかり極悪人である。鈴木宗男とか佐藤優はいい人に復活したが、この人はどうなるか。ヒューザーの小嶋社長や木村建設社長なんかも実際はいい人だという噂も聞いたことがある。なんでも本当に知らなかったんだとか。まあ、そうではあるが、復活はむつかしいだろうな。まあ、ニュースや芸能で復活する必要も無い訳で、そのまま巨大な負債を抱えて闇に消えるのだろう。自殺なんかするとマスコミは喜ぶだろうが、死なずにしぶとく生きて欲しいものである。
 雪印はメグミルクになったが、この会社はどうなるか。コムスンの譲渡先は夜間在宅サービスは行いそうにない。結局一部の利用者の損害が大きくなるわけで、解決なんだかどうなんだか。だからといってミートホープは確かに悪いわけで、解決の道は完全に閉ざされたということだけである。関係はないけれど、残酷で見苦しい世界だな、と思うだけである。合掌。
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鬱陶しい日

2007-06-25 | 雑記
 セミナーから帰って、息子の卓球の試合に行こうと思っていたが、特に行かなくてもいいとのこと(特に理由を秘す)。それで、つれあいと買物に行く。風が強かったのか、駐車場にたくさんの葉っぱが散らばっていた。それでも街路樹は落葉樹がいいと個人的には思う。手入れが大変な方が、気を使っていいのではないか。
天気も霧のような雨が続く。ときおり激しくも降ったりする。梅雨なんだから降っていいけれど、いわゆる梅雨の雨とは違う気もする。しとしとボツボツ感が足りない。
 空梅雨だと気象庁に文句をいう人がいると聞く。そういうことをいう人は、天気が気象庁の都合で変わると思っているのだろうか。海外の事情はよく知らないけれど、天気予報に文句をいう人がよその国にもいるのだろうか。予想という商売に保障なども必要になるのだろうか。難しい問題のような気もするし、今後リスキーな展開になるような気がしないでも無い。
 天気のせいもあろうが、雨の日にはスーパーなどは少し寒すぎる。とても長時間食品を選らんでいられない。食べ物の鮮度のためにはいいことかもしれないが、人間の忍耐にはつらいものがある。買物のためには今の時期でも長袖を準備する必要がありそうだ。
 車の中でもエアコンをつけると寒い。しかし消すとむし暑くも感じる。窓は開けられないし、程よい調整がむつかしい。この時期はいろいろと中途半端にむつかしいことが多くなるような気がする。予想がつけづらく、変更も余儀なくされる。仕方ないといえばそうだけれど、気分が乗らないのはそういうせいもあるようだ。鬱陶しいという気分の代表的な時期なのだろう。
 雨の中少し歩いてみる。確かに少し風が舞っていて、傘を持ちづらい。
 ある店に入ろうとして入り口の傘立ての前に行くと、何故か人だかりがしている。みんなタバコを吸う人のようだ。マナーがよくなったというか大変だというか、しかし店内に入りにくいのは営業妨害ではないか。
 ピアスの若いお兄さんと少し触れるぐらいぶつかると、ものすごく丁寧にお詫びされた。そのギャップというか、アンバランスに妙に可笑しみも感じ、僕も丁寧な態度で接してしまった。人は見かけによらないということをいいたいわけではない。ある一方の立場になると身構えているのではないかと思ったのだ。この場合通路でタバコを吸って迷惑をかけているのかもしれないという後ろめたさだろうか。自覚があると自然に行動ができる。立場がはっきりしないので、態度もはっきりしなくなるのではないか。
 消費者はいつの間にか社会的強者になりすぎているような気がする。もっと弱者になればいいという意味ではないが、ふるまいとしてもう少し違う態度を開発できないものだろうか。
 どこかの食肉業者の肉は詐欺ではあったのだろうが、食ってみるとちゃんと牛肉の味がするのだという。騙されて食う分にはそんなに問題があったのか。それだけ安かったのだろうし、買ったほうにも後ろめたさは無いのだろうか。言っちゃ悪いが、たまたま見つかったのだろうと思う。業界はどのように裏で対応しているのか。そういうものは、やはり目に見えない形なのであろう。最初から牛肉味のブタとして売ると、やはり売れはしないのかもしれない。しかし無理をしてでも安くないといけないと要求している圧力もあったのだろう。魔法がきかないので、できるといえる方法を発明したのが仇となった。皮肉なものだとつくづく思うのであった。
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揖令

2007-06-24 | 雑記
 一泊研修セミナーの中で、「揖令」という言葉が出てきた。淳ちゃん先生も言葉に詰まっていたが、ユウレイとでも読むのだろうか。よく分からん。
 電波法の話で出てきたのだが、そのほかにも非常通信を「頼信する際には「ヒゼウ」の表示をして差出すよう定められている」などとの表現もあった。なんとなくユーモラスに感じる。こちらは分かるが非常時なのに分からん人も居るだろう。腕白相撲で両国に行った際に、みんなで「どぜう」を食った。大して旨くはなかったが、満足できた。そういう場合なら楽しいが、こういうものを見直さないというのは、つまり非常時のことはあまり見直されていない題材かもしれないと思った。

 しかしながらセミナー自体は大変有意義ではあったし、それなりに面白かった。
僕も仕事柄というか立場柄というか、今の時代の流行というか、リスクマネジメントの研修などにはよく顔を出させられる。面白い場合もあるが、セミナーを受けてもさらに疑問に思うことも少なくない。緊急時の最大の課題は、想定外という事態ではないか。しかしそうして範囲を広げてもきりがないのである。
 北朝鮮がミサイルを打つという可能性はゼロではない。ではその可能性に対応して核シェルターを作るところがどれだけあるか。意味がないとはいえないが、本当にとるべき行動であるかというのは疑問がある。つまるところ最大のリスク回避のためには、そういうことも考えておけということさえいいかねない人もいてかえって危険である。
 やはりあるセミナーで聞いた話だが、会社などの非常時を後から検証すると、不思議なことにある一定の傾向のある人が活躍することが多いのだという。一定の傾向というのは、普段はむしろ不良といえる問題社員だというのだ。仕事はサボりがちだし、上司の命令も時々無視したりする。しかしながらひとたび不祥事などの問題が生じたときは、開き直るというか、落ち着いて自体を打開する働きをしたりするというのである。結果的にそういう人がいなければ、事態はもっと大変なことになっていたというようなことは枚挙に暇がないといっていた。
 そのために不良を会社に取り込むということにはならないのかもしれないが、組織というのは、一枚看板だからいいのだということではないのであろう。平時には活躍できないが、非常時なら活躍するような人材を抱えられるほど懐の深い組織こそ、どのような場合にも自在に対応できるということなのではないか。一定方向にバイアスがかかりすぎるより、結局はバランス問題かもしれない。
 もちろん、小さい段階で芽を摘むことができるなり、致命的な状態にならないような行いこそが、一番のリスク管理だろうとは思う。
 さて、自分のことを棚に上げているが、僕のような人間を抱えるリスクを組織はどのように考えるのだろうか。
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のだめカンタービレ

2007-06-23 | 読書
 いまさら感の漂うことは承知だが、我が家のブームは「のだめカンタービレ」。
 面白いとは聞いたことがあったけれど、そういうウワサが一般的であるほど共感の少ない性格なので、スルーしていた。それに偏見もあって、クラッシック好きの友人も少ない。僕自身は割合好きなほう(でも日常では聞かない)なんだけれど、クラッシック薀蓄を聞かされるのは苦痛だ。ましてやそういうものに憧れている人も好感が持てない。いわゆるスノッブ感が嫌なんですね。
 漫画の中で出てくるような、「千秋さま~」というような感じも大嫌い。そういう人と距離をおいた生活がしあわせへの第一歩だと、座右の銘に刻んであるくらいである。
 さてそうなんだが、やっぱりハマッたというある人の話を聞いて、17巻大人買いした。僕が駄目でも、つれあいが読むかもしれない。つれあいが駄目でも、つれあいの友人にプレゼントできるかもしれない。
 ところが、やっぱり面白いですね。けっこう笑いました。ムキュウーッときました。マングースも最高です。疑問に思わないところも無いではないが、ひたむきに努力をするというところも琴線に触れます。突出した才能があることは確かだけれど、努力だって異常にするということがスポ根のようで楽しい。もちろんちっともスポ根で無いけれど、ギャグ漫画として大変によくできている構成だと思う。
 実際にのだめのような女がいたら近づくことは無いけれど、他人事なら大変に愛すべきキャラクターだ。千秋ももちろんそう。漫画というのはストーリー性というより、キャラクターが活きていれば何とかなる世界なんだなあ、と改めて認識した次第。ドラマも観だしたけど、基本路線はしっかりと漫画とまったく同じ世界。不思議なほど漫画と実物が同じである。ポーズまで同じ動きなので、動画と漫画を見比べても大変に楽しい。演出もそこのところを非常に忠実に再現している感じがする。再現が無理なところをどのように解釈しているかというところもなかなか面白い。
 正直に言うとヨーロッパに飛んでしまってからはそんなに面白くは無いが、ストーリーとしてまとめる必要があるのだろう。今後は特に期待していないけれど、前半の爆発力をぜひ取り戻して欲しいものである。飛行機に乗れないなどの制約があるからこそ生きてくるものがあったのだから、克服できない方がよかったんじゃないかという気がしないではないけれど、過ぎたことは仕方が無い。僕はのだめと千秋を今後も見守っていくだろう。
 僕もなんだか知らないが、がんばってゆこうと思う。なんかを集中して練習するイメージで、がんばりたいものである。
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飲酒運転撲滅運動

2007-06-22 | 雑記
 年に一回の交通安全講習会。丸一日缶詰の拷問の日である。交通安全は大切なことだが、天下り団体のために付き合わされる事業所はつらい。いろいろ制約があって、お金も時間もとられる。権力というのは恐ろしいものである。こちら側の申し開きは一切認められない。一方通行の仕組みというのは、本当にどうにもならない。改善できないので、さらに増殖していく。つまり手がつけられないのである。
 最初からいたたまれなくなるビデオを見せられる。
 会社の新人歓迎会で回りから強引に勧められて仕方なく飲んでしまう。仕方が無いので最初はタクシーで帰ろうと思っていたようだが、そのタクシーがなかなかつかまらない。それで駐車場にとめてある車で少し仮眠を取って帰ることにした。ところがけっこう飲んでいたらしくそんな簡単に酔いが覚めていたのではなかったのだろう。運転しながらついウトウトしたところで自転車の女をはねてしまう。
 ここからの転落ぶりが凄い。結局女は死んでしまうのだが、もちろん残された家族はこの不条理を許すわけが無い。当然のように詫びなど受け入れられない。愛娘を失ったショックで精神も病んでしまう。加害者の会社は事故が大きく報道され、大口の契約を失うし、幇助の罪にもとわれることになる。加害者は当然クビになるし、収入の道は閉ざされる。慰謝料は億を超えるので、保険でまかなえるものではない。奥さんは近所の陰口に悩まされ心労で流産してしまう上に、刑務所の夫の分まで働かなくてはならない。幼子は深夜まで保育所に預けられっぱなしで寂しそうである。ローン途中の家も売り、近く結婚を予定していた妹は、人殺しを出した家からは結婚式など出せないという理由で式を挙げられなくなる(もちろんその金は慰謝料の一部にあてられるわけだ)。加害者はいくら悔やんでも刑務所の中である。これからの一生はつぐないの一生だと誓うのである。
 確かに事故とは恐ろしいものだという啓蒙のための物語だし、実際にこのような人がいることも本当のことだろう。交通事故とは、起こってからではつまるところ取り返しがつかないことなのである。
 どんよりと暗い気分になって、さらにいろんな統計を見せられたりして、一日中拷問は続いていくのであった。
 しかしながら、僕は本当は知っている。これは正直者はバカを見るという現実に過ぎない。この加害者はバカ者には違いないが、善良だからこのような悲劇から逃げられないのである。このような人間的行為をまっとうする気持ちがあるから、素直に刑罰を受けることになる。現実社会の多くの加害者は、このような善良な人ばかりではない。むしろ自分の非を認めず、被害者をさらに追い込んでゆく。法が厳罰化されていく現実は、そのような非道の者を許せないからである。すると皮肉なことに、さらに善良な者を激しく鞭打つ方向にもつながっていくのである。こんなサイクルこそ、本当に馬鹿げたことではないか。ひどい目にあうのは、ちゃんとした極悪人であって欲しい。その願いはなかなか叶いがたい現実なのであろう。
 というわけで、僕はちゃんと代行運転を呼ぶ毎日です。つれあいには悪いのだが、飲む可能性が高い会議には極力送ってもらうことにしている。ビデオの加害者のように、車で帰る気が無くてもタクシーがつかまらなかったり、魔がさして「乗っちまえ」という気分にならないとも限らない。リスクはできるだけ排除しなければならない。意思で何とかコントロールできるほど、人間は強い動物ではない。それができるなら、太った人など世界から消えてしまうであろう。ああすればよかったということは後から考えることであって、今考えられることなのではない。失敗が許されないことは、現実に今防御策をとらなくてはならないことだ。究極には酒を禁止するか車を禁止するということだが、それは現実的ではない。善良な人間は、守ることを攻めるように現実化していくことである。
 鉄は熱いうちにということで、早速職場でも研修の報告会をした。さて、自分のことのように思ってくれたであろうか。善良な人は、そう思ってくれると信じよう。
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同質の問題かも

2007-06-21 | 雑記
 暑い暑い。暑いときに暑いなんていうと却って暑くなると文句を言う人が居るけれど、文句を言われても暑くなるような気がする。しかし物理的にいったかいわないかで暑さが変わるはずがない。暑いときに涼しい顔をされるのだって不快だ。つまり暑さはとにかく嫌だ。
 夏越の関係でTもっぴーと待ち合わせる。彼は職業柄背広にネクタイ。それにしてもこの暑さの中大変だよな、という話なる。客にもネクタイなんかはずしたら、といわれることは多いらしい。しかし、これはそういうわけにはいかないとのこと。体にいいはずはなくて、実際に体を壊す同業者は多いという。暑いのでギンギンにエアコンを効かせる。そうしてまた炎天下に出て、そして帰ってからまた冷やす。
そういえば、冷蔵庫に出入りする人も体調を崩しやすいと、冷凍食品メーカーの人が話しているのを聞いたことがある。しかしサウナなんかはどうなのか。北欧の人は心臓病で死ぬ人も多いらしい。死んでも気持ちがいいのならいいが、不快でさらに死ぬのは嫌だ。
 一時期IT関係者の人のラフな服装がもてはやされたりしていた。確かにうらやましい。文句を言う人なんて関係ないもんね、という態度もさらにうらやましい。
役所などに行くと日によってはものすごくラフな格好をしている時がある。そういう取り決めらしい。まあ、取り決めたくなるものなのだろう。
 しかし実際にラフになってみると、やはり吹っ切れるのではないだろうか。こんなんでもよかったんだという気分は、これまでは何だったにつながらないか。
 それでも結局営業は年中スーツなんだろう。僕は偏見の多い人間なので、スーツ姿の営業の人の話は半分も聞かない。あの格好だと信用できない。世の中の多くの営業の人が積み上げてきた実績が、僕の偏見をはぐくんだのだと思う。だからといってもちろんだらしのない人が来ても話は聞かないので、そこのあたりの配分は難しいところだ。
 無難というかその業界のルールの問題なのだろう。そこのところに文句を言っても始まらない問題であった。しかし、この日本の夏の不自然な習慣は、やはりどうにかしたい気がする。温暖化問題とか健康神話にうるさい国民が、この問題を放置していいものか。
 クールビズがあるじゃん、という話もないではないが、あれもなんとなくかっこ悪い。もう少し自主的にばらつきがあるといいのだけれど…。結局誰かに決めてほしい問題が、解決を遅らせているんじゃないか。年金問題と似たようなことか。あれは困った問題だけれど、彼らとは僕らと同質なんじゃなかろうか。こうして文句を言いながらスーツを着てしまう僕は、同じ過ちを犯す人間に違いないのである。
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かまぼこ雲

2007-06-20 | 雑記
 会議のために背広に着替えたけれど、暑いので上着はずっと手に持ったままである。クーラーの効いた会議室の中で一呼吸して上着を羽織る。しかしやっぱり暑いので結局途中で脱ぐことになる。こういうことを繰り返していると、人間って悲しい生き物だと考えてしまう。
 年配の人は堂々と地味な半そでシャツなどを着ている人が居る。スーツを着ているのは、現役感の漂う人だ。まあ、確かに仕事着なのでそれはそうだろう。スーツを着ると身が引き締まるという話も聞いたことがある。僕はいまだに気恥ずかしいし、むしろくすぐったい。もう少し複雑な気分だと後ろめたくもある。本当に仕事をしていないというか、スーツを着てやる仕事なんて、という偏見があるせいである。もちろん誇りを持ってスーツを着ている人がおられることは尊いことであるが、僕にとって会議が生産性(まあ、生産性だけの問題じゃないけど)のあるものだとはどうしても思えない。選ばれて遊ばされているというか、適当にあしらわれてこういうことをさせられているのではないかとさえ思っている。本当には仕事の上では役に立たないが、一緒に仕事をやる上ではやりにくいので、あちらへどうぞ、ということなのではないか。世の中のホワイトカラーなんて、そうやって押し出されてしまった人たちなのではないか。ブルーカラーも個人としてはつらいのかもしれないけれど、組織というものをああだこうだとかき回している多くの男(が、たぶんこういうの好きなんだと思う。フェミニスト的には、という意味じゃないよ)は、結局そういう政治が無ければ生きていけないのかもしれない。
 なんていう愚痴も、どうでもいい議題と暑いせいであろう。幸い、会議は早く終わって助かった。

 夜もPTAとJC理事会。そして夏越、で日付がいつ替わったものか分からなかった。
 跳ねて沖縄ハッピー料理。調子に乗ってなんだか飲みすぎたね。Gちゃん送ってくれてありがとう。ちゃんとニンニクくさいそうで、回りには申し訳ないが、僕は満足です。

 おまけ。
 かまぼこ雲。僕も見てみたい。
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砂嵐の画面

2007-06-19 | 雑記

 本格的に雨が降って潔い。代掻きも本代であるという。水戦争にとっても恵みの雨だ。自然が争いを解消してくれる。僕は天に感謝を捧げよう。そうしたら天は雷でもって返答してくれる。ゴールデンのメリーは迷惑そうに怯えていた。

 物品購入のため見積もりをいくつか見る。営業の人から丁寧な説明も受ける。考えていた金額より300万円ほど高い。これほど認識に差があると、接点を見つけることがむつかしくなる。もう一度最初から要望を説明しなおして再提出をお願いする。僕らの業界について先方はどの程度まで認識しているのだろうか。いろいろ詮索しても始まらないけれど、勘違いしている気がしてならない。ついついそう考えてしまって、世界経済の動向など、脱線して私見を述べたりしてしまう。いつの間にか大演説になってだんだん僕の独擅場と化す。僕の悪い癖に付き合わされて、営業の人がかわいそうだった(もちろん、後から思うと、ということだが…)。
 どういうわけかハエが大発生している。電気のネットで退治するハエたたきがあるのだが、営業の一人がこれを気に入ったらしく、事務所で振り回していた。時々、バリッという音が響いて獲物が餌食になっていた。おどろおどろしいが、同時になんとなくユーモラスだ。普通のハエたたきは圧死させるものだが、ハエの最後としては電気との選択としてどちらが苦痛が少ないものだろうか。
 僕の昆虫の死のイメージは、テレビの画面の砂の嵐のような感じがする。いきなり画面がガーッと嵐になって終わる。同じように飛び降り自殺もそういう画面になって死ぬような気がする。確かめてみることは一度しかできない問題だが、そういう風に想像するだけで、僕は乾いた恐怖感にとらわれる。痛い死に方も嫌だが、あっさり死ぬのも嫌だ。じゃあどうすんの?と、自分に問うても、嫌なものは嫌だ。これは死に方の問題じゃなくて、死にたくない問題であった。

 昼飯は焼そばなのかスパゲティなのか分からない麺だった。先に食べている人に聞いて見ると、「さあ」という返事だった。誰もそういう問題を気にしていないということが、僕には大変に不思議に思えた。
コメント (2)
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千年女優/今敏監督

2007-06-18 | 映画
鍵はとうになくしてしまったが…

 今話題の監督の作品なので遅ればせながら拝見。これもそれなりに話題になっていたんだってね。世の中にはちゃんとした人たちも多いということだろう。まっとうな評価というものは、しっかりついてくるものなのだ。
 スジは複雑に連なっているけれど、本当にうまくつないでいるという感じがする。なるほどアニメーションというものはこういうことにも都合がいいのか、と思わず唸らされた。実にうまい演出である。こういう映画を撮りたいという監督は、きっと多いんじゃなかろうか。そういう垣根を見事に取っ払う快作なのである。もちろん実写でも必ずしも不可能な作品なのではないだろうけれど、アニメだからこそ却ってこのリアリティを作り出すことができるという気がする。変に凝って映像化しても、あんがいウソっぽい印象になってしまうのではないだろうか。
 主人公の女優さんは別段特異なしつこい女性なのではないと思う。彼女がしつこいなら、取材をしている社長も十分にしつこい。彼女と結婚した監督もしつこいし、嫉妬し続けた女優もしつこい。うーん、これは皆偏執的な人たちの歴史絵巻なのだろうか。
 というか、そういうことではなくて、人の感情というものは、多少単純化してみて見ると、このような希望で生きているということなのではないだろうか。自分の持っている期待というものを、自分自身はいつまでも持ち続けているものなのではないか。もちろんちょっと極端に思う人も多いのかもしれないけれど、そういうものを持っているからこそ、生きていくということが面白くなるのかもしれない。夢と希望を持とうじゃないかと言葉で言われるとなんとなく白けてしまうが、こういう壮絶さを見せられるとやっぱりがんばろうという気分になる。それはアメリカンドリームというのとは少し違う感じの、サガとしての人間性の許容なのではないだろうか。悲しいけれどしあわせな人生は、結局は自分が作り出していくより他に無い。時代には翻弄されてしまうけれど、自分が生きていくということがなにより大切な所作なのであろう。
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トゥモロー・ワールド/アルフォンソ・キュアロン監督

2007-06-18 | 映画
国民性を覆すオタク作品

 この監督は芸術作品と娯楽作品を使い分けて演出するという評判の人である。僕は娯楽作は未見だけど、芸術作といわれているヤツは観たことがある。ずいぶん助平な作風だな、と思ったが、まあ、外国人には良くあることである。しかしながら今回はそういう作風を期待したわけでは断じて違う。町山さんのラジオを聞いていて、この作品の長回しに興味を持ったからである。
 いきなりネタばれで申し訳ないが、この長回しのオタク振りには本当に呆れて感心した。よくもまあこんなに凝った作品をつくったものだ。最近のハリウッド作品では考えられない気の遣い方である。撮影の準備のことを考えると、ものすごく大変だったことだろう。計画どおりに撮影されたものかどうかは知らないが、もし考えたとおりだとしたら、神がかり的である。DVDで観たので後で再度見直したが、なんど観てもすごいと感嘆してしまった。特にラスト前の戦闘に巻き込まれるシーンなどは、血糊のようなものが画面に付いたまま撮影が続行している。血糊のような影は階段を登るあたりで消えるが、ここの場面だってつないでいることがよく分からない。ひょっとすると画像処理をしたものだろうか。素人の僕にはとてもどうやって撮影したものか分からなかった。想像してもトリックが分からないという意味では、一種の手品のような技法なのであろう。
 もちろんこういう演出をするのには訳がある。多くの人が解説しているだろうことだけれど、こういう戦場を映画を観ている人に参加体験させたかったからである。ハリウッド的なリアリティで観客を戦場に連れ出したのは最近では「プライベート・ライアン」があるだろうが、いわゆるハリウッド的でない手法なら、この人の長回しということになるのだろう。スピルバーグは天才だが、この人も呆れたオタクである。戦争で人が死んでいく乾いたリアリティが、同じ時間を共有しながらじわじわしみこんでいくような緊張感であった。余分な説明が少ないので、いま自分がどのような状況におかれているものなのかよく分からなくはなるけれど、戦時中の人間に自分の置かれている状況が分かるはずが無い。実に緻密に計算され、神経質に行動したに違いない。いや、そうして思い切った大胆さも同時に発揮されているのだろう。撮影スタッフもさることながら、出演しているエキストラまですべて、ものすごい緊張に包まれたのではないだろうか。
 撮影ばかり褒めているが、まあお話としては僕には結局良く分からないのであった。子供が生まれなくなっても、世の中はそんなに暗くなるものなのか、さっぱり見当がつかない。未来は平和じゃなくなるということが、物語としてはあってもいいけれど、つまるところあんまり期待していないのだろう。僕の楽観主義は、本物らしいリアリティでは崩せないものだとよく分かった。
 それにしてもそういうことも抜きにして、よくこんな映画を撮ったものである。メキシコ人はいい加減な人ばかりだと思っていたので、認識を改めなければならない。国民性でみんながぐうたらだとか、みんなが生真面目にはならないということの証明であろう。ものすごくいい加減なお国柄のところからこういう几帳面な作品を作る人が生まれるということが、なにより地球の面白いところなのかもしれない。
 またこの作品が世に出たことで、世界のオタクが真似したくてたまらなくなるだろう。できるだけ退屈にならないようにお願いしたいものである。
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