カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

あの財布は戻ったか

2024-04-30 | つぶやき

 先日つれあいの買い物にスーパーについていった。買い物が済んでカートを返しているときに、つれあいが何かを掴んで店の中に戻っていく。そうして何やら店員さんと話をして帰ってきた。前の人が返したカートの上に、大きな財布(おそらくカード各種も納められるやつだろうということだった)が乗ったままになっていたのだそうだ。店外に出たすぐには違いなかろうが、そのままだと危なそうだし、店員さんに預ける方が良いと判断したようだ。間違いなく気づいていないから買い物を終えて車に戻ったはずで、その後失くしたことをどこで気づくかだ。家に帰りついてからになるか、途中で気づくか、それは分からない。確実に慌てるだろうし、果たして買い物カートに置き忘れたとわかるのだろうか。
 しかしながら財布に何が入っていたか正確には知らないが、確実に自分の取った行動を紐解いて、失くした場所を探し回るはずである。冷静になって考える人なのか、慌てふためいてパニックになる人なのか、それは分からない。いや、失くしたことを知った時点で、少なからぬ動転をするものと思われる。それでも探すことをあきらめるとは考えにくい。買い物をした時に財布は使われたはずで、落とした可能性もあるとは考えるだろうけど、いちおうスーパーに問い合わせる行動にまで、行きつくことにはなるのではないか。それまで事故に遭わずに行動してほしいものであるが……。
 僕自身は財布を無くすような経験はあんまりないとは思うのだが、財布でなくともものを失くすとか、置き忘れるということはあるものである。そのまま返ってこないことがほとんどだが、まったく返ってこなかったという事でもない。日本は落とし物などが見つかる国だともいわれているが、友人などが財布を落としたりするときに、戻ってきたことはほぼ無かったように記憶する。日本人のほとんどは、高価なものならそのまま取ってしまうのだろうと思う。自分に関係ないものなら、届けてくれる場合もあろうが。
 僕はあちこち散歩して歩いて回るので、いろんなものを拾う機会がある。もちろん財布も何度も拾ったことがある。中身が入っていたことは無いから、中身を抜いた後に捨てられたものであろう。だいぶ前に運転免許証が入っているものを拾って、何やら電話番号も書かれてあるものがあって電話したら、呼び出された上に、お前は誰だと住所から何から取り調べのようなことを受けて脅されたことがあって(だいぶ前に失くしたもので、僕がこれを取った可能性を疑ってやったらしい)、それで懲りて届けるのをやめた。というか、道に落ちている財布をみても、拾わないだろう。店やホテルなどで財布を拾ったことも何度かあるが、その場合だけは例外的に店側に届ける。身分は明かさないでいいからである。警察なら行かないと思う。
 さて今回はどうなったか。顛末は分かりようがない。もちろん戻っていると、信じているのだけど。
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滑りまくった悲しい痛み   サンダーロード

2024-04-29 | 映画

サンダーロード/ジム・カミングス監督

 監督が主演もしている。母親の葬儀の際に、思い出の曲を掛けようとするがうまく行かず、伴奏無しでその曲に合わせた独自の踊りを披露して、参列者から奇矯な行動だと思われてしまった警察官の男がいる。母を失った悲しみのあまり、そこまで奇妙なことをしてしまった訳だが、実際その後の言動などを見ていると、それなりに病的である。離婚した妻と娘の親権を争っていたが、その行動や言動が問題視され、娘も失う。奇妙な行動ばかりとるので、警察の職も失う。病気なんだから病院に行くべきだが、周りの人間も理解していないようだ。
 そういうジャンルがあるとすれば、いわゆる「痛い映画」である。主人公の悲劇が、観るものによっては喜劇と映る。母親を失ったことは大きな心の悲しみには違いないが、それと共に背景として、そもそも主人公の男のこころは、さまざまな要因で荒れていた。別居中の妻とは共同親権のお願いをして一人娘を育てたい思いがあってもはねつけられ、しかし娘とも意思疎通がちゃんとうまく行っているわけではない。警察の捜査においても、妙な言動を繰り返しているので、邪魔ばかりしている。上司とも最悪な関係だし、同僚も必ずしもそれほどの味方ではない。生活は荒れているし、心の中は嵐が吹きまくっている感じかもしれない。
 しかしながら、そのまま破滅の道をずっと突き進んでいくのかというと、後半になって反転とまで言わないまでも、静かにその心は鎮まる展開を見せる。この男は、いわゆる心の優しい男で、変なことばかり言う機転はきくものの、それらはやはり本心では無いのだろう。静かに自分を見つめ直すきっかけさえつかめれば、いわゆる正常な道を歩むことも可能になるのかもしれない。そうした救いの物語のために、前半なんだか滑りまくっている悲劇が続いたわけである。大掃除の前に、部屋は荒れまくった方が、かえってすっきりと掃除ができるというものである。妙な感慨を呼ぶ作品ということで、評価も高いということなのであろう。
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ほとんど病的な怒る女の物語   ドライビング・バニー

2024-04-28 | 映画

ドライビング・バニー/ゲイソン・サヴァット監督

 事情があって子供と離れて暮らさざるを得ない貧困の女性がいる。なんとか妹夫婦の家に居候させてもらっているが、妹夫婦も迷惑がっている様子(夫が暴君である)。昼間には、信号や渋滞で止まっている車の窓ふきをして、小遣い稼ぎのような仕事をしている。ニュージーランド映画のようだが、あちらでは定職に就けない人々が、このような乞食めいた仕事をしているという、社会的な背景があるということのようだ。定職に就けない人々は、それぞれに事情がある。外国人労働者だったり、精神を含む病気だったり、ということなのだろう。
 後に明かされていくが、この女性は異常に短気で、致し方ない事情があったとはいえ、夫殺しで服役し、その為に子供の保護的な観点で、勝手に実の子供と会えない処置がとられている、ということのようだ。さらにそのような生活保護的な立場にありながら、住宅はあてがわれない中途半端な制度に喘いでいる。ここのあたりは日本とまるで事情が違うので、わかりにくい事とは思うが、あちらの社会では子供の生存が第一に考えられており、いくら親だとはいえ、子供を育てるにふさわしくない人間だと公的機関が認めないのであれば、親権は簡単に奪われる。虐待をしないように、社会が子供を厳重に守るという倫理規範があるのだ。それに物語を観ていて正直に感じることだが、この女性は気の毒なところがあるにせよ、いつも嘘をついているし、ひどく狂暴なのは確かだし、正義感もあるがそれはやはり暴走してうまく行ってないし、やり方はひどく汚いし、人を怒らせることばかりしているし、助けてくれる人まで罵倒する。どうしようもないクソ人間なのである。だからどんどん自分が招いたミスで窮地を招き入れ、さらに人を欺いてばかりいるのでしっぺ返しを食らうのである。
 ただし、妹婿の連れ子を性的に虐待している現場が許せなかったというのは、確かに正しい行動とは言えて、それを救い出す救世主としてのお話は、だから成立している。また人を欺く酷い所作は、西洋文化的には賢い事の現れであって、あちらの人々にはむしろ感心させられるものがあるのだと思われる。サッカーなどを見るとわかると思うが、彼らは審判を欺くプレーを素晴らしいと称賛するような、そういう賢さの価値観を持っている。日本人の僕からすると信じられないような人間的な汚らしさなのだが(少なくとも正直者を馬鹿にする行為だから)、だからこの窮地に陥った女性の立場からすると、弱い立場だからそうでもしないと自分の希望は達成されないという、いわゆる正義の行いだと言いたいのだろう。結果的には愚かだから悲しいものにはなるのだが……。
 僕は繰り返し映画の感想で述べているのだが、映画的に馬鹿な人間を称賛する価値観には組しない。不幸だからやってもいいという甘えは、やはり社会的にダメなのだ。彼女はいくらでも自分の子供との関係をよくするために、生活を立て直すチャンスがあるにもかかわらず、それを怠ったうえに短絡的に人を騙しているに過ぎない。頭の使い方が変であるばかりか、まともでもないのである。妹の娘を救えないのは、自分が愚かだから信用されないだけのことである。そういう事も人を不幸にしている要因だと言えよう。
 不幸がこのように連鎖するのだという教訓映画だというのであれば、それはそれで知見を広めるとはいえるのかもしれないのだが……。
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いったいどうなっているのか不明の名作   草原の実験

2024-04-27 | 映画

草原の実験/アレクサンドル・コット監督

 題名もそうなのだが、まさに実験的な映画なのかもしれない。全編科白なしで進められ、あんまり説明がないので、まあそれなりに訳が分からない。親娘のドラマでもあるし、三角関係の恋愛劇でもある。そうしておそらく当時のロシヤの科学実験の社会批判が、根底にあるような感じなのだろう。衝撃のラストには、こちらの言葉さえ奪ってしまうものがある。確かに最後がこれでは、この映画は終わらざるを得ないだろう。
 映像美を観る映画でもあるし、さらになんと言ってもヒロインの少女の表情を眺める映画であるともいえる。何度も何度も、さまざまなシチエ―ションで少女の表情を映し出すのだが、そのたびに様々な想いと共に、ハッとするような少女の表情に惹きつけられるはずである。男性でなくとも、おそらくだがそう感じるだろうカメラワークであり、あえて科白が無いために、それが引き立つ感じもある。何かを話すその声が、ひょっとすると少女の魅力さえも損ないかねないところが、あるのかもしれない。監督はロシヤの方かもしれないが、少女の顔はむしろヨーロピアンでなく(韓国とロシヤの混血であるようだ)、そうして中央アジア的であろう顔立ちなのである。よくまあこういう人を探し出したものだ、と思う。おそらくだが、この少女を撮りたいがために、その為だけに撮られた映画である、と言われたとしても納得いくだろう。もうお話の筋なんてどうでもよくて、基本的に彼女のプロモーション芸術に徹している、と言えるかもしれない。
 父親などは何やら悲しい境遇に陥っているのだが、それでもファンタジーのようで、悲しさというものはあんまり感じられない。これからの生活はどうなっていくのか不安になるのもつかの間、以前から付き合っていただろう男との関係というよりも、ファンタジーを選ぶ感じもした。恋愛というのは理屈ではなく、どう落ちてしまったのか、ということに尽きるのだろう。
 そんなに時間の長くない映画なのでなんとか見続けることができる訳だが、基本的には何かよく分からないままに衝撃のラストを迎える。呆然としてしまう訳だが、妙なものを観てしまった感慨は残る。これってホントに名画だったのだろうか。まあ、しかし普通では無いのは確かで、話のタネには観た方がいいのかもしれない作品だったのである。
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ご機嫌ロック

2024-04-26 | 音楽

 とうとう渋谷さんの番組が終わってしまって、最終回の録音されていたMDを聴きながら運転していた。最後のリクエストは「アキレス・ラストスタンド」で、ふつうの番組であればやっぱり「天国への階段」になってしまいがちだと思われるのだが、しかしそうでないところが渋谷さん繋がりで、なおかつリクエストする人の想いなのだろうと、改めて思った。代役の伊藤政則さんが、その代役を務めた最初の回でもこの曲はあえてかけられたわけだが、その時は渋谷さんの復活を願ってのものだった。その思いは今も変わらないものがあるにせよ、最後にもまたこの曲がかけられることになった訳で、それはおそらく、多くの他のリスナーとも共通しているだろう熱い思いであるはずだった。それも複数の人がこの曲をリクエストしたのだということでもあるらしく、皆がそういう気持ちを共有しているのみならず、やはり渋谷さんならこれなんだよな、ということが、言わずとわかっているということなのだろう。
 運転しながら聴いていて、しかしとうとう涙があふれてきて困るのである。アキレスは長い曲なのだが、非常にドラマチックでもある。しかしながら最初と最後は変わらない。いや、実はずっと単調でもある。何を言ってるんだということだが、実際そうなのである。そうしてその繰り返しやグルーブが、いつまでも続いて欲しいという曲なのだ。発表されたのは50年近く前のことだが、さすがに僕はその記憶がはっきりしない。ちゃんと聞きだしたのは小学高学年、10歳くらいの事だったろう。朝からこの曲を中心にヘッドホンで聞いて、それから家を出るということをしていた。子供のころから興奮体質だったに違いない。まだ携帯しながら聞けるような音楽媒体が無かったので、しっかりと曲を耳に残して、学校に行く必要があったのである。
 そうして4月からは「洋楽シーカーズ」という番組に鞍替えした。伊藤さんと大貫憲章さんが、二人の掛け合いで番組を進めるものだ。年末に渋谷さん抜きで年末特集の番組は放送されたのだが、そのままそれをやるという感じだろうか。いちおう新譜を中心に新しいものを探し出してかけるスタイルをとると宣言されたわけだが、なんと最初はボンジョビで、元ハノイ・ロックスにクーラ・シェイカー。クイーンにロッド・スチュアートにニルバーナだったのである! まあ他にもあるにはあったが、これってやっぱりいつの時代なんだろうか? いや、新譜はかかったので、今の時代にもまだ彼らは現代進行形なんだよな、ということなのだった。スゴイ。
 そういう訳で、複雑な心境はあるにせよ、まだ生きていけるんだな、生きていていいんだな、って感じっすかね。古くさい言い方だが、なかなかにご機嫌、っていうことになったわけである。
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親が毒なら自立しよう   君は放課後インソムニア

2024-04-25 | 映画

君は放課後インソムニア/池田千尋監督

 夜は眠れず、それで昼に眠たくなる高校生の話。一応そういう体質というか、一種の病気なんだという事なのであろう、一定の理解もあり二人とも周りからはそのことを肯定されている。そうして学校の倉庫化している天文台で、授業をサボる毎日を送っている。しかしながらそれが一般的な生徒たちにもバレそうになって、そのままでは都合が悪いということになる。いっそのこと天文部活動という部活として、そこにいることを認めてもらおうとする。実際夜は起きているのはつらくないので、まずは良い天文写真を撮って認めてもらえるように努力するのだった。
 原作漫画があり、アニメ化もされている作品の実写作品。青春恋愛物語なのだが、お互いの都合と、実際にいい感じに好き会う仲になる男女関係の彩が描かれる。夜に寝られない人生なので、他の大多数の人々とのコミュニケーション関係は難しいものの、同じような不眠症関係者とは逆に親密になれる。そういう意味では、一石二鳥ではないか。
 そうではあるのだが、なんだか親たちがどうもよくない。特にヒロイン側の親は毒親で、ちょっと普通では考えられない人間的な差別をするような考え方である。物語はそれで台無しで、どうにも後味の悪いものになっている。こういう人たちが日本人にいるというのが、気持ち悪い。もっともそれは親が子を思う気持ちであるように描かれているので、余計にたちが悪いという感じかもしれない。こういう思考の底が浅いのである。
 しかしまあ、そういうのが子供視点の物語かもしれず、だから若者には分かりやすいと言えるのかもしれない。僕なんかはこんな介入はまっぴらごめんだけど、それはそれで時代性の問題なのかもしれない。将来的には両親を含め付き合っていくものかもしれないので、大人のダメさ加減が気になるだけのことで、二人にとっては、つまるところ関係のない問題だと考えるべきであろう。
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強い女たちは悲しさも   355

2024-04-24 | 映画

355/サイモン・キンバーグ監督

 様々な組織にある諜報部員の、特に女性スパイの称賛の称号が、355と言われる歴史的な暗号名である、という設定である。それにちなんだ活躍をする女たちがいる、ということなのである。当初は敵対していた組織のもの同士だったが、追っている世界混乱を巻き起こす可能性のあるデバイスの行方を追って、最終的には協力し合いながら奪取を目指す。しかしながら諜報活動においては一筋縄に行かない思惑が渦巻いていて、裏切りがあったり、謎の組織がさらに重なり合ったりする。女たちにはそれぞれ事情があって、家族を置いて飛び回っているものがあったり、愛するものを失ったものなどがいる。基本的にはそれでも、女だからこそ強いということなのだろう。実際ガンアクションだけでなく、フェミニンな服装をしていたとしても激しい格闘アクションが見ものになっている。いろいろ鍛えられた人たちがやっていることとは思うが、スタントマン含め、それなりにけが人の出るような撮影現場だったのではなかろうか。ストーリーは複雑だが、映画的にはそのようなアクション娯楽として、楽しむべき作品なのだろう。
 非情な作戦を行使し、自らも激しい感情をぶつける主人公たちにありながら、奇妙なところで手を抜くような行動を取ることが気になっていたが、それがのちの生き残りをかけた戦いの、伏線になっていたりする。そういうところになんとなくお話のご都合が見える感じもして、ちょっとどうかなと思うところはあった。また非情な殺しが頻発するのだが、ちょっとそういう極端に振り切った悪ぶり方のある演出というのも、気になった。ヤクザな人以外がそんなことをするのは、やっぱりなんとなく倫理観に反する感情を生む。スパイとはそういうものだ、ということなのだろうけれど、もう誰も応援する気になれないというか、虚しいというか。
 もちろんこういう作り物のアクションには、設定のスリルは重要である。敵を圧倒する場面も必要だし、逆にどうしようもない窮地に陥ることもある。それを機転で脱することによって、留飲が下げられる快感がある訳だ。ジェームス・ボンドだけがスパイではない。そこには強い女たちあってのことだって、必要なのである。
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狩られるものの知恵   ザ・ハント

2024-04-23 | 映画

ザ・ハント/グレイグ・ゾベル監督

 何か金持ちの娯楽として、生身の人間を狩の対象として殺すゲームがあるという設定である。いろいろと罠があって、多くのターゲットは、無残に狩られて殺される運命にある。ところがこの獲物の中に、特に優れた戦闘能力を持つ女性が紛れていた。彼女は疑い深く、罠にはハマらない。サバイバルし続けて、ついにはこのハンディングの首謀者まで上り詰めて、対決するに至るのである。
 という設定のあらすじはあるものの、そのシンプルな筋道だけでない様々仕掛けがあるわけで、なかなかの娯楽アクションになっている。だいたいのタネが分かるようになっても、その先にある伏線なのかミステリなのか、そういうものが地雷のように眠っている。主人公はだから、まるで名探偵さながらに、そういった謎も解いていきながら、サバイバルしていくのである。いくら何でも、という気分はないではないが、なかなか凄いので面白さに引っ張られて、それでいいような気分にはなる。でもまあそうでないと、これらの設定は収斂されないので、これでいいのである。
 基本は金持ちの道楽には、命のかかったサスペンスのある狩の本能がある、ということなのかもしれない。現代社会では、それは野蛮すぎて表に出すことはできない。しかしそういう要望に応える、ビジネスが存在するとしたらどうか。どのみち社会の外れものを選択して、始末するだけのことである。相手にも武器を与え、うまく逃げおうせたら、自由を手にすることができるかもしれない。いや、実際のところそんなことになると問題なので、絶対的に有利な条件のもとで、狩は行われる訳であるが……。逆に言うと、そういう絶対的に不利な条件であろうとも、ちゃんとした戦闘能力と、賢い頭の持ち主であるならば、状況は打開することができる。それは一種のアメリカン・サクセスの姿でもあるのかもしれない。
 まあ、そんな深読みなど必要のないアクション娯楽作である。何にも考えずに、人殺しショーを楽しめばいいのである。
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老母おりんは超絶人間だ   楢山節考

2024-04-22 | 読書

楢山節考/深沢七郎著(新潮文庫)

 読書家として知られる向井万起男さんが、日本文学の最高傑作として本書をあげていて、むむむ、と思って本棚を見たらあったので読んでみた。まだきれいなままの文庫本だったので、まったく読んでいないか挫折したのだと思う。短編集で中短の作品が4つ並んでいる。まずやっぱり「楢山節考」を先に読んで、それから他を読んだ。楢山節考は最初から筋は分かっている。映画化されたものを観たことがあるし、たぶん以前はドラマとして放映されたことがあるんじゃなかろうか。子供のころに複数回見た記憶がある。姥捨て山というのはだから、僕らの子供のころには一般的に知られている悲劇だった。後にこれは嘘の伝説だとされるものをやはり複数読んだことがあるが、この楢山節考を観た外国人が、一様に日本は年寄りを大切にしない伝統が古くからあるらしいということを受けて、これでは国際的にまずいと考える人々が増えたためにそうなったのではあるまいか。もちろん子供を口減らしに殺したり棄てたりするのはよくある話だが、自分の母親であるものを口減らしのために殺すのは、伝説以外の記録としては無いのだという話は聞く。そうではあるが文学としての楢山節考とは何か。読んでみて確かに妙な話だが、これは後の解説などに書いてあるように、なにか人間を超絶したようなものなのではないか。ちょっとあり得ないものがありながら、そのような人間を超絶した人間愛のようなものがあって、心がざわざわするのである。こんなことがあっていいものか。あってはならないとするヒューマニズムを語ることは簡単だが、しかしこのような物語を紡ぐのは困難だ。それが深沢の楢山節考を日本文学の最高傑作とする考え方なのだろう。
 他に妻が精神病になるホラー作品だったり、エルビス・プレスリーに熱中する若者を描いた訳の分からないものがあり、そうして楢山節考を絶賛し、その後交友のあった作家の正宗白鳥を描いたものがある。全部がなんだか妙な書き方のされる妙な物語ばかりで、ちょっと面食らってしまった。おそらく以前は、このために挫折してしまったのだろう。これで僕がきれいなままこの文庫本を持っていたことの謎は、解けたということなのである。
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願わくばイタリアの平和のために  イコライザーthe final

2024-04-21 | 映画

イコライザーthe final /アントワン・フークア監督

 シリーズ第3作。ファイナルというのが本当なら、最終話なのかもしれない。さらに何故か舞台はイタリアである。いや、何故かというより、観終わってみるとそれでいいのだが。
 またまた主人公のマッコールさんは、人助けのためにイタリアのマフィアの人たちを惨殺しまくることになる。殺し方がえげつなく描かれるのだが、何しろ相手は悪人たちばかりだから、そうしてもいい設定になっている。しかしながら今回のマッコールさんは、冒頭の格闘後にミスを犯し、かなりの負傷をうける。それを助けてくれる善良な集団があって、このまちのために、この人々のために、さらに一肌脱がなければならない使命感に駆られる。そうして国際的な凶悪なマフィアになっている組織と、またしてもほぼ一人で対峙することになる。もちろん地元の警察も、この悪の元凶を追っている国際警察も絡むのだが、要所はマッコールさんの戦いが無ければ成り立たない。殺す前に様々な科白を吐くわけだが、そういうものもなかなかに洗練されていてハードボイルドで、いいのである。
 この人の生活費はいったいどうなってるんだろうというのは、ほとんどバカボンパパと同じくらいのファンタジーさだが、しかしこれだけの力のある人だから、そもそもそんなことには困らない。むしろ不条理な暴力や、運の悪さで立ち行かなくなっていく人々を助けないことには、彼らはかわいそうすぎるのである。それだけ相手が悪いと言えるのだが、その不条理が目の前にあるからこそ、マッコールさんは張り切ることもできるというものである。それを観る僕らの方も、しっかり留飲を下げることになるという仕組みだ。実にそれがよく出来た娯楽作なので、安心して楽しむことができる。三作目にして最高傑作は間違いないところであり、そうしてこれが打ち止めだということも悲しむべきことかもしれない。イタリアにも平和な日々が続くことを願うばかりである。
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羅生門は次の名作をも生む   怪物

2024-04-20 | 映画

怪物/是枝裕和監督

 いわゆる羅生門映画で、同じような場面を違う人物の視点からとらえ直すことで、見方がまったく変わってしまう物語を描いている。そういう意味では三部構成のようになっていて、三つのお話と考えていいかもしれない。最初はシングルマザーの小学生男児の母親の視点からで、息子がいじめられているような形跡があり、さらに担任から酷いことを言われているようなのである。学校側に問いただすのだが、シングルマザーのクレーマー的な母親が乗り込んできた風にあしらわれ、さらにその担任の態度は最悪で……。ところが今度は担任の若い教師の視点から見ると、実際は問題の男児のことを結構気にかけていて、そんなに悪い先生とは思えない。しかし自分の恋愛の絡みも含めてだんだんと信用も無くし、この虐待を疑われる事件から報道陣にまで狙われることになり……。そうして子供たちの視点になると、これまでだんだんと示唆されてきたことではあるが、複雑な子供たち同士のいじめのような問題は、実はもっと隠されている個人的なものなのであった。そうして二人の友情の行方は……。
 というようなことなのだが、そこでこの「怪物」なのであるが、見方を変えるとそれぞれ違うようなことであるのは確かだが、やっぱり観終わってみると、母親が一番そうだったな、という感じがしてしまった。それは映画の意図には無いはずだが、結局一番わかっていないのではないか。わかり得なかったのかもしれないが……。
 さらに結末においては、観るものにゆだねられているのだろうと思われるが、つまるところよく分からないのである。だからいったい何だったのか、少なくとも僕には分からなかった。要するに大人たちの偏見に、一種の人たちというか、この場合の子供たちは苦しめられ、自由には生きていくことができないのは分かる。そういう立場になればおそらくそうだったのであろう。それは分かるのだが、だからと言って大人たちが悪いのだろうか。そういう事も含めて考えると、そもそも大人の問題というよりも、もう少し別のことなのではあるまいか。虐待を受ける前に理解があればよかったが、しかしそれらの偏見は社会的に根付いたもののように見える。だからそれが悪いのだという告発かもしれないが、それは今だから言えることなのであって、過去にさかのぼって言えることなのではない。その為の映画だと言われたら、これからの教材になるのだが、これからの人には、これからの考えでまた別に生き方を模索すべきであろう。少なくとも、もっと真相を明らかにしてしまわないことには、そもそものこれからさえもないのではあるまいか。
 映画的な作為は分かるけれど、最後が芸術的過ぎて分かりづらくて残念というのが正直なところである。つまるところ、親も学校も馬鹿野郎である。こんな風に腐ったものごとは、今後とも腐ったままなのではなかろうか。
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退屈さを好む人向け(後悔します)   aftersun/アフターサン

2024-04-19 | 映画

aftersun/アフターサン/シャーロット・ウェルズ監督

 批評家の多くが大絶賛する映画なのだが、最初に断っておくと、そんなことはまったくない。というか、面白くもなんともないのである。僕は正直なので言えるだけのことなのであるが、こういうのをいい映画だと人に勧める人は、なにか自分本位なのである。自分がいいと思うのならそれでいいのだから、自分だけがそれに酔っていればいい。観る人にとっていい映画と、撮る人にとっていい映画は違うものである場合がある。そういうものだから、それが良いという評価ならわからないでは無いが、観る人のことを考えると、お勧めしないという正直な感想が、この場合は必要だろう。いわゆる王様は裸なのだから。
 父との思い出をつづった作品で、おそらくホームビデオで撮られているものと、普通に映画的なものと混ざっている。11歳の時にトルコに父子で行った思い出である。夏なのであろう。プールサイドとか、海とかで泳ぐ。そうして日焼け止めを肌に塗ってもらう。表題はそういうことを表している。その当時の父のことを考えると、子供だった自分にはわかりえないことがたくさんあった。自分は間違いなく愛されていて、しかし当時の父も若いわけで、そういうことを自分に向かって素直になれないこともあったようだ。大人になった今はそれが痛いほどわかる。いわゆる、そういうノスタルジーに頼った物語なのだろう。
 娘と父親の関係というのは、正直に言って僕は体験が無いので(体験しようもない訳で)よく分からないのかもしれない。11歳の娘なので、まだ幼さもある。少なくともまだ少女の域で、大人としての女性というのには早い。しかしなんとなく、男性には興味があることはある。それは当然だが、やはり同世代の少年だと物足りないものを感じざるを得ない。実際にはちょうどいい精神性であることも確かなのだけれど、事恋愛などの性愛のからんだものは、少し背伸びしてちょうどいいという感じだろうか。一連の出来事で、そういうことは分かる。一方の父親は、大人の男性でありながら、しかし人間としてはまだ若いのである。何か人生の初期の段階の葛藤がある。離婚して娘だけと旅行しているのがそうかもしれないし、なにか死と直面しているような、暗い影を持っている。なんとかしようとしているのかもしれないし、これが最後と思っているのかもしれない。おそらくだが、映画はそれを思わせぶりに語っているわけだ。
 面白くないなりに何かを感じ取る人は、そういうところを評価しているのだろう。
 だからと言って、ヘタな歌を聴かされたりするのもどうかと思う訳である。それは一種のリアルであるけれど、まあそれが象徴するところの映画の出来栄えまでが、なにか甘えのような、相手の技量にゆだねられている感じがある。それにしても外国の人も、順番にカラオケを歌って、それを聴く習慣のようなものがあるらしい。もっとも司会がいて進行するスタイルは、あんまり日本には無さそうだけど。
 それを聴いた父親が動揺するのであるが、曲がREMのLosing My Religion なのである。エンドロールでREMだったよな、と思って確認したのだが、作詞者作曲者のクレジットで、よく分かりにくいのだった。結局スポーティファイで確認して分かった。そういうところも不親切なのである。日本人だから苦労するだけなのかもしれないが……。
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喫茶店で何か書けるか

2024-04-18 | 雑記

 文筆業の人が時々、喫茶店なんかで原稿を書くということについて書いている。今はほとんどパソコンだろうから、喫茶店やカフェで原稿を打っている訳だ。携帯で書いている人もいるというから、たまに真剣に携帯に文字を打ち込んでいる人を見かけるので、なにかの原稿を書いている可能性もあるかもしれない。まあ、ほとんどはSNSなんだろうけど。
 実際のところまでは知らないが、もちろん自宅でも仕事はするんだろうとは思われる。気分転換もかねてかもしれないし、又は本当に喫茶店などの方がうまく原稿を書けるような人もいるのかもしれない。喫茶店で原稿を書くというのは、それなりに一般的なようにも感じられない訳ではない。これまでに複数の作家やライターの人がそのように書いているのを、見かけるからである。別段気取って書かれているということではなさそうで、わざわざ喫茶店に行って書くということを、義務のようにして書いている人もいる。明日は喫茶店に行って頑張って原稿を仕上げる、などという表現でもわかるが、仕事の必死感が伝わる。適当に人がいて、そうして喫茶店なので特に他に動きもなく、テレビなどで気が散ることも無く、手元に別に何かさぼるようなものが置かれていない環境において、集中して原稿を書く環境というのが、喫茶店なのかもしれない。
 なぜ喫茶店で書くのか、というのを書いている人もいて、やはり何か行き詰ってしまって気分転換になる、という事でもあったろうし、わざわざ喫茶店まで来て書こうとしているので、覚悟が決まるようなところがあるのかもしれない。
 原稿を書くということではなかったが、ずいぶん以前に友達が遊びに来て、図書館一緒に勉強に行こうと誘うのである。僕の家から図書館まではずいぶん遠くて、さらに自転車こいで、最後に帰りには坂道を登らなくてはならない。しかし友人は、そうやって勉強した方が絶対捗るから、というのである。一二度は付き合って行ったかもしれないが、僕は図書館に行くと、本を探してしまうので勉強どころではなくダメだった。僕の地元に喫茶店が無い訳では無いのだが、やはり数が少ないし、人前で勉強するなんてことはなんとなく恥ずかしい行為のように思われ、出来なかった。
 前日何かの打ち合わせで適当な店を思いつかず、ファミレスに入ったのだ。昼時でもないのに結構人がいて、びっくりした。そうしていわゆるドリンクバーにたむろする学生生徒たちがいる。見るともなしに見ると、彼らはそれなりに静かに勉強していたのである。今の子はお金持ってるんだなあ、ということではなく、やはり環境的にこういう場所が捗る場合があるんだろう。作家の人は喫茶店と書いていたが、あんがいファミレスでも書いているのではないか。こういうところは長時間いても、あんまり客をとがめるところではなさそうだし、静かではないかもしれないが、覚悟はつきそうだ。捗るかまでは、僕にはわかり得ないことなのだが……。
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怪しい修道女の一生   ベネデッタ

2024-04-17 | 映画

ベネデッタ/ポール・ヴァーホーベン監督

 17世紀の実在の人物である修道女「ベネデッタ」をもとに着想したという、半分伝記ものの娯楽作。奇跡を体現している聖女として崇められもするものの、当時は大罪とされる同性愛で告発されるという暗転の人生を歩む、その顛末が描かれている。監督さんがヴァーホーベンということで、一筋縄でいかないことは観る前から分かり切っているものの、まったく変な作品なのではある。御年84歳でメガホンをとっているという事でも(撮影中大病して中断したりしたという)話題になった。さらに当時はペスト流行の時代でもあったことで、現代のコロナ禍ともシンクロするお話だとも言えて、ある意味ではなかなかに現代的な物語になっていたりする。今の状況とよく似ているともいえはするが、しかしやはり当時だからな、というところもある。思い切った解釈であるようだが、なんとなく伝記としての平坦な物語の運びという感じは否めない。それは監督のこれまでの行いからくる期待度の高さが、そう思わせているのかもしれない。傑作とは少し外れたところにありながら(いつもそうなんだけれど)やはり快作ではある、という立ち位置と言えるかもしれない。
 女優さんたちは個性的というか、それなりに美しい人たちが多いのだが、そういう人たちが神聖なる修道院の中でありながら、裸になったり性交を行ったり喘ぎ声を出したりする。まさにそういうのを、おそらく監督はやりたかったのではなかろうか。一種のこの人なりの変態的な趣味のあらわれである。そういう思いが遂げられているのだから、それはそれで監督としては成功しているのかもしれない。しかしながら、いわゆる奇跡はインチキが示唆されているし、さまざまな人間模様については、やはり単純にベネデッタが悪いような気がする。そういう人物には、なかなかに感情的な肩入れできないものがあるのであって、対照的に敵側の人々が次々に死ぬが、それはよく考えると可哀そうなことなのである。繰り返しになるが、この監督さんならではの変な感じではあるのだけれど。
 ということで、面白くない映画ではないので、思考実験として観るのもいいだろう。またこの監督さんの一連の過去作を観ていないのであれば、ぜひ観てほしい。そうして比較対象して楽しむというのが、映画鑑賞の醍醐味であろう。
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階段の下の睦月

2024-04-16 | 睦月ちゃん

 睦月ちゃんは体つきもしっかりしているし、体力も有り余るくらいだし、実際散歩でも終始リードを引っ張り続けてゼーゼー苦しそうにしながら歩くような獰猛さがある。駆けずり回ってカーペットの位置をずらしたり、モノを噛んで傷つける。いくら叱られても何にも思っていない(たぶん)。何か言われてもものともしないし従わない(そんなつもりがそもそもない)。
 しかしながらどういう訳か、階段を上ることができない。もちろん下りも難しい。これまで飼ってきた歴代のワンちゃんたちで、階段を登れなかった例が無いので、なんとも不思議に思えてしまう。身体能力として出来ない事ではなさそうでありながら、事実として登れないのは確かである。成長するにつれてそんなことも無くなるかもしれないとは考えていたのだが、一年と半年が来ようという現在に至るまで登れないので、ひょっとするとこれからも登れないのかもしれない。登れない理由は本人に聞かなければわかり得ないことかもしれないのだが、真相を勘ぐって考えるならば、単に怖いだけであろう。
 そもそも極端な怖がりで、子供のころは散歩もうまくできなかった。散歩の理由がよく分からなかったらしく、なんとか歩きだしても元に戻ろうとする。それこそ毎日のように少しこしづつチャレンジし続け、その結果やっとのことで、今は様々なコースを自在に歩けるようになった。体力はあるので、一時間歩き続けても平気になったくらいだ。それなりに気温が上がると苦しそうになる場合もあるが、しばらく後ろ足で耳の裏をかいていると復活する。口の周りはよだれで大変なことになりはするけれど……。
 散歩をしていても基本的には階段は難しい。多少の段というか、近所の田んぼのコンクリの段差などは、自分の体高くらいはあるが平気で飛ぶくせに、階段状になっているとだめらしい。公園にある少し幅の広い階段状の段差は斜めに走りクリアするが、これは階段と思っていない可能性がある。
 階段に限らず前にすすめなくなるのは、聞きなれない音を聞いたときとか、路地の風が顔に当たるときとかでもある。アスファルトとコンクリートの境目のコントラストがはっきりしたところも、何となく苦手である。点字ブロックも嫌いで、おそらく色の違いの境目が駄目なようだ。もちろん側溝の網蓋は苦手だが、飛び越えるので問題はない。それなりに広いものでも飛び越えられるようになった。今でも立ち止まってしまうのは、線路の境目と小さな橋などである。怖くて体が固まってしまい、抱えて歩かなければ先に行けないことがほとんどだ。橋などはたまにクリアするので、考えすぎなければいけるようになるのかもしれないが。
 しかしながら我が家の二階には上がれないので、それはそれで管理上はいいことかもしれない。二階にあるものは、荒らされる心配がなくなるからである。噛まれそうなものを高いところにおいておく必要が無い。
 そうして階段から降りようとすると、階段の下から上を見あげて待っている姿を見ることができる。この顔が何とも言えずかわいい。そもそもかわいい顔をしていると思っていたが、階段の下の顔は、一段とかわいい。ずっと登れず見あげていてほしいものである。
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