カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

眠気撃退法

2007-08-31 | 散歩
 朝と夜と二度に分けて散歩できた。順調で嬉しい。ともに一時間ずつ程度。歩数も順調に伸びで、「まあちゃん」さんとの歩数の差も少しばかり余裕ができた。素直に自分を称えたいと思う。
 朝は車や人がなくて歩きやすい。時々気合を入れて挨拶してくる人を除けば、不快なものはまったくない。むしろその挨拶にしろ、近頃は控えめに会釈とはっきりしない声掛けが多くなったように思う。葬儀の折に交わす会釈のような感じかも。みなあんまり大声は気持ち悪くなったのではないか。ふりの大げさな人が少ない世の中は平和である。
 車や人がいないと、まちは廃墟のような雰囲気も帯びてくる。ふと異次元に迷い込んだような気分がする。もちろん次元の違う世界を知っているわけではないから勘違いだろう。しばらくそういう自分だけの世界を楽しんでいると、やたらに猛スピードで走り抜けていく車がある。朝は人がいないので軽快に飛ばしているのだろうか。時々僕のような人がいるので安心しないで欲しいものだ。事故はお互いに不幸である。
 僕は新聞配達少年だったので、こういう風景は懐かしさも感じる。あの当時は部活もしていて、とにかく毎日が眠たかった。配達しながら居眠りして、電柱や植え込みに突っ込むこともしばしばだった。車にはねられなかったお陰で今もこうして生きている。自分の幸運に感謝したい。
 しかし、居眠りでこけると、ひどく痛い上に緊張感が出て、すっかり眠気が取れたものだ。自分で腕をつねってみたりしても、痛いのは痛いのだけれど、ちっとも目は覚めないのだった。自分でもどうしてなのか不思議ではあるが、何かにぶつかりそうになったりするだけでも、ずいぶん目覚めの効果は大きかった。眠たいときにはびっくりするといいのかもしれない。
 昼寝のときなどは、例えば椅子にもたれかかって寝るときなど、手にボールペンか何か持ったまま寝ると目覚めがよくなる。うっかり深く眠たくなると手のひらからボールペンが落ちる。「あっ」と思ったら、いっぺんに目覚める寸法である。授業中に寝むくなって机の上のものを落とすと、いっぺんに目覚めたという経験はないだろうか。
 何とかして少しぐらい自分をびっくりさせる方法があると、眠気予防グッズの開発になるのではなかろうか。
 ただ歩いているだけでつまらなくないかと聞かれたことがある。答えは素直にNOである。普段はこんなようなことを考えながら歩いているので、けっこう忙しいのである。
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ぐんぐん歩く

2007-08-30 | 散歩
 朝から少しだけ距離を伸ばす。ぐんぐん歩く感じが自分でも心地いい。
 高速道路からガンガン何かを叩く音が聞こえる。前の晩から引き続き工事が続いているのか、それとも早朝から始めているのだろうか。そういえば会議の折に通った際にはこのあたりを工事していたと思い出す。昼夜通して作業を続けているものらしい。高速道路と平行して通っている小道の上からのぞいて見ると、実に大勢のおじさんたちが黄色い車に挟まれて作業をしていた。心の中で「おつかれさん」と声をかけて、僕は先に進んでいった。
 公園という場所や、ちょっとした広場があると人が集まっている。ラジオ体操の時間らしい。子供が多いが、遠巻きにけっこう大人も混じっている。なんとなく扇状に整列して体を動かしている。向っている方向はラジオ受信機らしい。なんとなくラジオ様という雰囲気がある。これ以外でラジオの威張れる場面はあるのだろうか。
 職場でも早朝ラジオ体操をするが、僕はちゃんと体操ができない。音にあわせてタイミングよく体を動かすことが、つらくなってしまった。なんとなく調子は合わせたつもりで、自分勝手に体を動かしておしまい。いつの間にかわがままになって、ラジオ体操ができなくなってしまったのだ。
 子供の頃は体育部というのが確かあって、校長先生などが話をする台に上って見本となって体操をしたことがある。そういう記憶があるのだから、もともと体操ができなかったわけではないのである。人間は成長するようで退化もするということであるが、横着な性格は獲得されたものでもあるのではないか。いまさらあわせるつもりはさらさらないが、そうであれば、もう僕は元には戻れないということなのであろう。失われた青春は戻らないのである。

 職場では多くの人が日中に草払いをしたようだ。炎天下でおでこに熱冷ましシートを張りながら作業する人もいた。
 金網につたが絡まって、ジャングルのようになっている。植えている梅の木にもつたが絡まり、こんもりとした緑の固まりになってしまっている。道路わきの草が伸びて、車の離合がむつかしくなった。切っても切っても後からどんどん伸びてくる感じだ。
 日本という国は、自然の猛威があるので、人間を勤勉にするのではないか。手入れをしなければどんどん自然が人間社会を侵食してしまう。人間の方もそれを恐れてどんどん土をコンクリートやアスファルトで固めてしまう。土を残すと、このように草を払わなければならない。
 中国などは禿山が多い。一度木を切ると、後から生えないものらしい。それをある人は人間の歴史といった。僕はたぶんそれは違うと思う。自然の状況と人間との付き合いの問題であって、日本人なら木を植えるだろう。日本はなんとなく貧乏臭くて、誠実なのだ。
 父が上海に疎開した時は、庭に芝生が植えられていたそうだ。元は西洋人の邸宅だったのだろう。祖母が芝を剥がしてイモを植えたらしい。祖父はそれを見て、日本人は貧しいなあ、とつぶやいたという。
 自然と向き合う姿勢は時代も関係があるようだ。僕らは草を払って、付き合う道を選択したのである。どこまでもコンクリートで固めてしまえるわけではないのだ。

 日が傾く頃にもさらに足を伸ばす。前の方を歩いているかなり太目のおじさんを目標にしていたが、その影がどんどん遠くなる。意外なことに歩くスピードがかなり速いようだ。途中で目標を見失い、単調な長い道を自分なりに蛇行しながら歩いた。新興住宅街で、変化の乏しい道である。明日はどこか違う場所を歩こうと思う。どこに車を止めたらいいものか思案しながら歩いていた。前の方で走っている細身の女性が、いつまでも遠くならない。彼女は走るのが遅いなあ、と思いながら、いつの間にか対抗心を燃やして早足になるのだった。
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カルピスと皆既月食(無関係)

2007-08-29 | 散歩

 歩くほうも好調で、順調に歩数を伸ばす。朝飯前と帰宅前の時間配分も理想的だ。涼しいうちにという配慮だが、歩くと汗びっしょりになる。帰宅後冷水シャワーを浴びて生き返る。
 そういえば筒井康隆の短編に冷水シャワーを浴びるものがあったような記憶があるが、あれはどんな話だったのだろうか。冷水を浴びる前には軽い恐怖感があるのだけれど、思い切って決断した後には、本当に気分の良い気持ちよさがある。少しぐらい無理して冷たいぐらいがさらに快感となるようだけれど、やはり冷たいのはちょっと怖い。そういう話だったと思う。共感したので覚えているのかもしれない。しかし、題名は失念したし、いつ読んだのかも思い出せない。そういえば筒井康隆の本は本棚にもない(探せばあるだろうが)ような気がする。10代で読んだのだろうか。
 「まあちゃん」さんがライバルと思っていたが、ここに来て伏兵(失礼)の「ダンベル博士」さんが伸びてくる。最近のがんばりで少しばかり水をあけているとは思うのだが、うかうかできない状況だ。勝手にライバル視している「まあちゃん」さんだって、爆発力がないとも限らない。
 全国的には「ウルトラネクサス」さんという人が、また追い込みを見せている。一日平均6万歩以上歩くのは、トップの「しろくま」さん(72才)ぐらいのものなのだが、「ウルトラネクサス」さんも同じく6万歩台。23才女性の会社員という経歴も、トップ陣の中では異色である。ここ数日で奇蹟が起こるのだろうか。

 まったく話は飛ぶが、歩行中にカルピスの自動販売機を見つけて思わず買ってしまう。僕の敬愛する伊藤礼氏が、自転車こいで休憩にカルピスウォーターを飲む、と書いてあったので、僕もいつかはそうしてみたいと思っていたのだった。僕は自転車ではないが、コーラでなくカルピスを休憩しながら飲めるというのは、そこはかとない喜びであった。ものすごくのどが渇いていると、カルピスのように甘いものをかえって飲みたくなるのかもしれない。その上にカルピスの自販機は極端に少ない。そういうめぐり合わせが、さらに喜びを深めるのではないだろうか。

 皆既月食があるというので外に出てみるが、息子はテレビの「ほんこわ」の方に興味があるらしい。つれあいとしばらく眺めていたが、あいにく雲が多い。いつの間にか皆既という状態は過ぎてしまったらしい。段々と三日月の明るい部分が増えていって、隠れた部分が赤く見えるのが幻想的だった。むし暑く蚊に食われながらの観賞ではあったけれど、人間として生きていて良かったと思えた。次は何年後のことになるかは不明であるが、またつれあいと一緒であるといいと正直に思う。ほんの小さな人間の営みは、残念ながら永遠ではない。しかしそのはかなさが、しあわせのヒントであるような気もする。

 新聞記事にハバネロの明太子が発売されたとあった。怖いけれど、気になるものは仕方がない。僕は辛い物好きではない。しかし気になるのはなぜだろう。決して食べたいわけではない。そうではないはずなのだが、せめて一目見てみたい。見てしまうと買ってしまって、そうして食べてしまうのではないか。そういう抑制の効かない自分という存在が、なんとなく怖くて仕方がないのである。
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新幹線・島原ルート

2007-08-28 | 時事
新幹線・島原ルート 
 新幹線問題は外野でいたい気分だったのだけれど、こういう話なら乗り気である。構想があるとは聞いてないけれど、画期的だと思う。僕の住まいは大村であるが、どうしても大村に、という物言いは下品で好きじゃない。それに、何でも福岡まで、という考え方にも大いに疑問を感じる。後はどのくらいお金がかかるとか、そういうことは専門に任せる。
 海上を渡る新幹線というのは、単純に魅力を感じる。九州という単位では、この構想がもっと早くに出るべきだったのではないだろうか。
 まあ、妄想だから楽しいということもあるかもしれない。新幹線が通ることはまちづくりにおいては、かなりオイシイ話であることは間違いがない。結局利権争いだから嫌になるだけで、島原を巻き込んでいろいろ言い合うのは楽しいんじゃないだろうか。
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批判するのは保身のため

2007-08-28 | 時事
 朝新聞を取りにいくついでに散歩する。ほとんど歩数稼ぎという感じで、やはりちょっと意地になっている。しかし歩き出すと楽しいので、つい遠出したくなる。朝はトイレ関係にも不安があるので、無理はできない。しかし気温の低い今しかチャンスはないと思うと、かなり逡巡してしまう。道の分かれ目前で先に行くか戻るべきか必死で悩んで選択する。馬鹿げているようでいて、この悩みが現在の僕の最大の選択事なのかもしれない。

 昼にはネクタイをつけて会議に参加。ものすごく冷房が効いていて具合が悪い。外はうだる暑さ、室内はキンキン状態。これを不自然と思わない現代人が嫌いだ。
 しかしながら会議は議題も少なく早く終わる。いや、決めるべき議題は先送りである。僕はご愁傷様という気分になる。
 会議を進める上で事務局の準備した素案があげてある。そのことを協議すればいいのであるが、素案にあげてあるものの予定根拠自体を議論しようとする意見が出てしまう。会議の折に時々出てしまうまっとうすぎる妨害策である。なぜこうなったかの根拠もはっきり示されているのだが、他にも選択があるという主張だろう。厳密にいうと選択はあるけれど、結論を先延ばしにしても妥当案に落ち着くことははっきりしている。別の選択がいいという根拠は誰にもわからないことなのだ。
 僕はもう付き合うのもうんざりという感じだ。実は事務局に批判的な勢力の嫌がらせに過ぎないことははっきりしている。誰も言いたくないが、みんなでうんざりするよりない。何でこうなったかはそれなりの歴史があって、それはそれで仕方のないことだったと今となっては思う。しかしそれとこれとは別の次元の話であって、混同すべきことなのではない。腫れものに触るように最大限配慮して持ってきた素案がこれであることは事前に知っておきながら、あえてまた混乱を目的にして揺さぶりをかけているのである。
 事務局というのは本当に参加者に振り回される宿命なのだろうか。こんな議題を決めることは妥協以外のなにものでもない。会議というのは妥協のためにあるようなものだ。だから意見の強い人に振り回されるわけで、本当に意味のある会議にするのであれば、会議の前に勝負を決していなければならない。残念ながら、それが日本という社会における会議の真の姿であろう。
 もう僕を呼んで欲しくない。心の底からうんざりしてそう思う。次の日程を決める調整があったが、大変喜ばしいことに出張と重なった。僕の願いがかなったのかもしれない。

 新聞を読んでいると組閣が決まったとのこと。そして当たり前のように批判する意見の掲載がある。
 小谷野敦のブログを読むと、批判するのは安全策だ、という指摘がある。自民党を選択したのは国民なのだから、本来は安倍内閣を批判することは、国民非難なのではないか。しかしそういう本質的なことはおいておいて、むしろそのことを避けておいて、自分の安全な場所で非難しているに過ぎないという。
 選択した人(投票をした)だから、その政治にものを申すという行為ができるのだと僕は思うが、まあ、確かにそういうことなのではなさそうだ。小谷野敦の言うように、組閣批判は安全策だというのは良く分かったし、その通りなのであろう。
 なるほど、こういうどうにもならないことを悪く言うのは、確かに自分自身にとって何にも非難されない安全な場所である。むしろこの組閣を褒め称える方がはるかに勇気のいる行動であろう。もし悪かったらともに批判されるし、よかったからといっても自分がたたえられる問題ではない。この組閣をほめている人がいたら、その人は本当に勇気のある人だということがいえる。人間を見る目というのは、そういう視点なのかもしれないな、と思ったのであった。
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夏風邪と強引な散歩

2007-08-27 | 散歩
 ここ二日ほど風邪気味で、鼻水が出て不快だった。頭もなんとなくボーっとする。原因は明らかで、エアコンである。エアコンがなければ暑くてやりきれないが、直接風の当たる場所だといっぺんに風邪をこじらせてしまう。酒を飲む機会があって、となりの人がやたらに暑がる。暑い寒いの個人差を埋めることは困難だ。冷房は27以上でないと長時間耐えられない。これはあきらめるより無いと思って静かに飲んでいた。案の定やられてしまったが、上手くやり過ごすより他に無い。やはり長袖が常時必要なようである。しかし連日この暑さ。長袖を着る余裕は無い。ましてや普通の日常で、長袖を持ち歩くのはナンセンスだろう。僕の体が非常に厄介である。
 風邪の所為ばかりではないが、日中にやたらに眠くなる。車に乗るととたんに睡魔が襲ってくる。しばらく椅子に座るとウトウトする。暑い涼しいは関係なくて、後頭部の一部にもやのようなものがかかって、スーッと意識を失いそうになる。疲れもあるのだろうとは思う。朝は杏月ちゃんに確実に起こされるので、眠くても早起きである。日中に休養するよりないのだろうか。夜はある程度酒を飲まなければ眠くならない。自分の体なのに上手く扱えないもどかしい感じもある。ミンティアをしきりになめてみるが、睡魔というのはこういうものではどうにもならない。手のひらを冷やすと一時的に目覚めるが、そもそもいつも手を洗うわけにもいかない。その上やはり一時しのぎに過ぎない。犬や猫のようにいつでも好きなときに寝られるというのが、なによりしあわせなのではないか。

 月末になってきて、歩くほうも佳境に入ってきた。月の初めは夏越のお陰で、一日中無理やりに歩いていた。お陰で最初は上位に名を連ねていたのだが、実力者にどんどん追い抜かれてやる気を失いかけていた。レベルの低い長崎県においても、やはり実力者はいるもので上位はやはり強いものがある。
 しかしながら、一人気になる人がいて、その人は84歳「まあちゃんさん」という。僕より少しばかり平均の歩数が多い。僕は朝から歩数更新をするのだが、その時点では必ず僕よりひとつか二つ順位が上だ。更新するとかろうじて僕が上に上がったり、少し足りなかったりという位置関係である。
 正直に言うと、かなり意識して、僕自身が無理をしてあげている関係がある。何しろ「まあちゃんさん」は84歳とのことである。炎天下、恐らくがんばっておられるご健脚の御仁らしい。年齢が半分の僕が、簡単に引き下がるわけには行かない。
 日中に歩数をのばすのは至難の業だけれど、なんとなく時間があるうちに何とかしたいものである。躊躇しながら外にでて、恐る恐る日陰をたどって歩いてみる。すぐに滝のように汗が噴出す。あきらめては戻り、休憩しては外に出る。まとまった歩数を稼ぎたいが、暑くてやりきれない。そうではあるが、日の暮れるのがまどろっこしい。夕方日が傾いて、喜々として家を飛び出すが、やはり気温が高くて汗が噴出す。全国の仲間達はいったいどうやって歩いているのだろう。歩数をのばすことだけが目的化してきた。全国一位の「しろくまさん」と張り合う気など毛頭ないが、「まあちゃんさん」にだけは何とか追いつきたい。残念なのはメールのアドレスを「まあちゃんさん」は開示していない。お互い励ましあってみたいが、僕の存在も恐らく彼も知っているはずであるとは思う。そういう思いだけが心の支えである。あと数日間のバトルの結末に、乞うご期待ください。とにかく今月だ。来月はしんどくなってあきらめているかもしれないけれど、今月まではあきらめないぞ、と気を引き締めているのである。つづく。
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事実は生きるには余分かも

2007-08-25 | 雑記
 子供が地理の勉強をしている。ヨーロッパの国の国土と人口を比較しているようだ。日本と比較したらどうなるか質問してみる。日本より国土が広くて人口の多い国はどこだろう。
「ポルトガルは大きそうだな」といって調べる。「あれ、小さいぞ」
「ドイツは大きいだろう」といって調べる。しかし、ドイツもたいしたことなかったようだ。
「先生は、日本は小さな島国といっていたよ」という。僕もそんな話は聞いたことがあるな。しかし、事実はそうじゃない。
 本当のことを言っても、そう簡単には偏見は変わらない。そういうことも知っている。自分だけが理解していればいいことだとおもう。
 物事の正しさとはなんだろうと思うことがある。ひとつ絶対的にいえることは、絶対的に正しいということはないだろうということだ。まあ、そういう議論はどうでもいいか。
 文系の人は過去の文献を引っ張ってきて議論することが多いような気がする。まあ、そういう作業も物事の確認には必要なのだろう。間違った手法ではないとは理解している。
 しかし時々、こういう学者が言ったことで、というようなことを言い出す人がある。これはいけないと思う。権威を借りて正しいかどうかを判断するのは、正しいという尺度とは外れることだ。
 理系の人には、それが少ない。僕にはそういう判断に、安心感を覚える。信用という点で、信頼しすぎず、慎重になる。容易に正しいと思っていないし、今後も正しいと確定し続けるわけでもない。確率的にいくらか負荷があるな、という程度。それが分かればいいのではないか。
 しかし、数字はやはり強いなあ、とは思う。日本は小さな国という文学的事実は、ちゃんと比較することによって文学性を失う。感情は文学でいいが、事実は文学では困ると思う。もちろん嬉しい悲しいも事実なんだか、混同して普遍化すると厄介だ。
 やはり、自分だけとりあえず理解するといいだろう。そういうことができる大人になって欲しいと思っている。いや、もともと子供だからできることを、変な成長で失わないで欲しい。
 しかし人間の社会性というものは、もともと持っているものを失いすぎて、獲得されるものなのかもしれない。これは分かりにくいことだろうけれど、特に日本で生きにくいことを思うと、それはそれで確かにあることだと思う。
日本が小さな国と思っているほうが、子供のしあわせなのかもしれない。僕は余分なことをしているだけなのであろう。
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なぜかまた、お勧め映画

2007-08-24 | 映画
 会議中昔見た映画でもう一度みたいけど題名が思い出せなくて悶々としていた。やたらにぬるいが面白い映画だったと記憶するが、大杉漣以外役者も無名で取っ掛かりがない。気になりだしたら気になって仕方がない。なんか縫い物をしていたなあ、と場面を思い出していたら、ふっと題名が浮かんだ。「アベック・モン・マリ」だった。思い出せただけで激しく嬉しい。さて、ビデオ屋に置いてあるものだろうか。ご近所で見つけた人は教えてください。
 ついでにK村君が癒されるものを見たい(ひょっとして音楽の話だったか)といっていたので思い出したが、「あの子を探して」がいいんじゃないかと思った。または「運動靴と赤い金魚」もすばらしい。激しく笑えて、感動で涙がとまらない。
 両映画とも貧乏で、既に日本では撮影が不可能である。いや、今となっては意味の分かる子供がいるものだろうか。貧乏がいいとは決して思わないけれど、金があるからいいとも決していえない。人間の純粋さというものは本当に尊いことだと思う。汚れてしまった今でも、この子達の前でひれ伏してしまう。
 癒しという言葉は、正直言って好きではないのだけれど、思い切りさわやかに泣くのも、精神衛生上たいへんによろしいのではないか。この映画で感動を共感できた人たちで、一緒にお酒を飲みたいなあと思う。それはもう心を割って話せる友人になっているはずだからである。
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時には本当にバカになってみよう

2007-08-23 | 映画
 A水委員長のブログで「ショーシャンクの空に」の紹介があったけれど、これは巷間ではお勧め映画として、必ずベスト3に選ばれる作品である。あんまり他人が褒めるものだから、天邪鬼の僕は少しくらいくさしたくもなるけれど、くさすところがほとんど無い。まだ観てない人はしあわせである。必ず外れない作品を選択できるからである。
 この映画のカタルシスは本当にすばらしいと思う。人を選ばず誰でも感動できるという貴重な映画ということだろう。映画の世界では刑務所ものには傑作が多いのだが、理由は良く分からない。人間社会の縮図なのかもしれない。またこの映画は「ニュー・シネマ・パラダイス」などと並んで必ず人に勧めたくなるというのも似ている。自分だけ気持ちよくなるのでは満足できない。他人に分け与えてあげたい快楽というものがあるのだろう。
 ホラーの名作「悪魔のいけにえ」も見事に不快な映画で、絶大な人気がある。村上春樹が好きだということで、無理に好きになっている人もいるように思えるが、さすがに変なところが多くて、見所満載である。
 僕はあの爺さんが気になるが、考えてみると本当にこの映画はホラーなのだろうかという気もしないではない。観ているときはとても笑えないのだけれど、思い出してみると、しみじみ可笑しくなってくる場面が多くて、しんみりコメディの傑作なのだという気がしないではない。この話は実話を元にしている(というところが、実は実話と違うという意味なんだけど)というから、米国は懐が深い。こういうときだけは僕は米国に愛着を感じる。
 フーバーといえば「スパース・バンパイヤ」を劇場で見たことがある。これは愚作だが当時はそれなりにHな作品だと思った。今見るとなんでもないのだけれど、若かったのである。
 スピルバーグはフーバーの大ファンだったのでいろいろと援助したようだけれど、金をかけるとろくな映画を撮れないのが不思議な人である。しかし「悪魔のいえにえ」は確かに不思議な魅力があって、スピルバーグの映画より歴史に残るかもしれない人類の遺産となるといわれている。いや、本当にそういっている人は多くて、この映画を愛することが、人間として崇高であるかのように勘違いしているのかもしれない。僕は素直にバカな映画なのだということで、やはり愛している。この映画が一般には嫌われるという状況のほうが、本当は心から嬉しいのである。

 映画を楽しむということでバカ映画を二本お勧めする。
 ひとつは「スネーク・フライト」。まさにマザーファッカーな程カタルシスのある傑作だと思う。こういう映画こそ映画の王道なのではないかと本気で思っているけれど、観る人の多くはそう思わないかもしれない。表現は下品でおかしなところもたくさんあるけれど、子供から年寄りまで、みんなで楽しめる映画だと思う。エロもあるので、一緒に落ち着いて楽しめるかどうかは疑問だけれど、本当は、みなそれぞれに楽しんでしまうはずである。僕の偏見だが、ディズニーよりも現実的にはずっと健全なのではないかとさえ思う。
 いや、身を任せて楽しんでください。観れば分かる単純な世界なのだから…。
 もうひとつは本当のバカで感動できる「ワイルド・スピード3/Tokyo drift」。ありえないから面白いわけで、まったく理解できないから笑えるのかもしれない。突っ込みどころ満載で、世の中には本当にバカがいるということがわかって爽快である。日本人の俳優の使われ方もバカげていて最高である。たぶんつくっている方もわかっていてバカに徹しているのだと思う。ふざけないでバカになれるということは、人間として尊いことだ。この映画でまじめに感動してしまえる人は、少しあぶないけれど、違う世界の住人として近寄らなければいい。友人の選別は、教育界では誰も教えてくれないので、僕が教えてあげます。少なくとも、それは平和の選択だと思うのである。
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ワイパーのタイミング

2007-08-22 | 雑記
 二日連続して朝方少し雨が降って涼しそうに感じるが、やはり外は暑い。騙されたという気分だ。
 車を運転していると天気雨になって、青空なのにワイパーをかけている。それなりの雨量で、明るいが視界が悪い。ときおり本当に激しくなって、前の車のテールランプが見にくくなったりした。そういう雨の中なのに、対向車でワイパーの動いていない車もあるようだった。進行方向で雨脚が違うものだろうかなどと考えた。しかし、やはり雨はちゃんと降っているはずであった。
 こういうときはどの程度ワイパーを動かすのか気になるときがある。人によっては、できるだけワイパーを動かさない主義の人がいるような気がする。タイムラグの調整に忙しかったり、ひっきりなしにどのようにワイパーを動かすか思案しているようだ。そうして手動でギリギリになってからやっとワイパーを動かすなどする人がいて、それなりに苦労しているようにも思える。そうまで苦労しがいのあることなのか疑問に思うが、個人の趣味なのだからとやかく言わない。なんとなく神経質そうな感じがして、個人的には気に食わない。せわしない動きでも気に食わないのに、そういうことに細かく左右されるという感覚が嫌なのかもしれない。
 しかし、確かに雨が落ちていないのにいつまでもワイパーを動かしていることに気づくと、なんとなく気恥ずかしい思いがすることもある。誰も見ていないときでも、頭をぽりぽりかいてしまうようなバツの悪さだ。一種の間抜けということなのだろう。
 いつの間にか雨をぬけていて、ワイパーのゴムがフロントガラスに引っかかりながら動いている。やはりタイミングはむつかしいものだと、改めて思うのだった。

 寺子屋でカキ氷を作って片付ける時に、机の脚がやたらに汚れていた。そういえば雨が降ったので、泥で汚れてしまったのである。中庭は見た目にはすっかり乾いているように見えて、仔細に見ると雨の痕跡は残っていた。
 暑いのも、もうあと少しだろうなと、期待を込めて思うのだった。
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話題のズレと興味の違い

2007-08-21 | 時事
 事務所で一般の話題といったら、僕はどうにもついていけない落ちこぼれになる。本当に盛り上がっているときは、僕無しのときに爆発するものと思われる。それなりに気を使ってもらっているのかもしれない。ほとんど同じようにテレビを見て、新聞を読んでいるはずなのに、社会的話題というものはかなり偏りを見せる。人の興味というものは、かように多様なのであろう。
 そういう中でも高校野球の話題というのは、特に今年の場合は都合がいいらしい。前にも書いたが、僕の出身母校が活躍しており、改めて驚かれたりする。まあ、お互いにらしくない関係なのかもしれない。僕は母校を応援してないと素直に言えなくなってしまって困るが、快進撃に悪い気がしないわけではない。ぜひ長崎県として、という空気をあえて乱す必要などないだろう。来年あたり清峰などが連続して活躍するとサッカーだけでなく野球王国として盛り上がるかもしれない。その布石としてはがんばってもらうのもいいとは思う。
 しかし考えてみると母校とはいってもあんまりなじみは無い訳だし、関係ないのであれば応援してもいいような気がしないではない。他の運動部の青年達よ、裏切って申し訳ない。しかし、こうやって勝ち進んで露出が多くなると、別の意味で愛着がわいてくるものである。
 ピッチャーの妙に軟弱な動きと笑顔の感じも、離島出身の少年らしくて好感が持てる。応援団のうなぎのキャラクターも、今となって活き活きしてきた。時の勢いというものは確かに掴んでいるようにも思う。実力は今のところ広陵が凄そうだが、ここまで来ると、絶対にどこということではないのであろう。

 もうひとつしきりに話題になっていた「欽ちゃん」なのであるが、確かにテレビで少し見たことは見たが、そんなに話題になる話題なのだろうか。ずいぶん昔は欽ちゃんのどこが面白いのかということはしきりに議論になっていたが、そのなんだかよくわからないが、よくテレビのレギュラーはたくさんあった時代だった。いつまでたっても素人くさく、わざとらしい。しかし、憎めない人というのはそうなのかもしれない。
 こちらの春のイベントでは、佐世保から島原までの105キロだか歩くものがあるが、あれも確か24時間の時間制限があるのではなかったろうか。完走するのはかなりむつかしいらしい。欽ちゃんは走ってそれよりか少しばかり短い距離(正確には知らないという人が多いのにも呆れる)を行かなければならなかったらしい。長距離は走るより歩くほうがそれは長い目で見て逆に早い話であるように思う。事実上ほとんど歩いていたらしいから、最初から歩くべきだったのだろう。
 それにしてもテレビのイベントで個人にこういう課題を課すのは、一種のいじめであるようにも思う。その立場になった人のことを思うと、可哀相である。それが欽ちゃんであるからだとか、そういうことではなく、今年はおいらが挑戦したい、という人でなければならない気がする。話題性でキャラクターを要請するテレビ局のあり方が、僕には不快である。また、そうであっても話題になっている大衆というものも、僕には不可解なのかもしれない。結局どうなったか、ということも、話を聞いていて良く分からなかった。まあ、僕は散歩の歩数を伸ばすことにしよう。

 夜は仮入会セミナー。いろいろ話が聞けて、それなりに面白いとは思った。これは仮入会の人以外のほうが楽しめるものかもしれない。変な話だけれど、これを受けて理解するという方向にならないほうがいいとも思う。こういうことがあったという印象が残ればいいのであろう。何でも早く分かることはろくでもない。仮入会の人が良く分からないという感想を持つことで、セミナーの目的は達成されたのである。まあ、そのロジックはまた機会があれば語ることにしよう。
 引き続いて懇親会で、A水委員長の映画の話を聞く。けっこうオタッキーの素養を見て、嬉しく思いましたよ。田舎のビデオ屋には今は置いていない作品もおさえているようだ。読書もそうだが、いかにランダムに一定数をこなすか、それがなにより重要だと思う。映画を見る目を養うには、2千本あたりが最低ラインだと思うが、そんなにむつかしい話ではない。映画というのは時間がくれば勝手に終わるので、回していれば、身をまかして済む話だ。そういう時間を自分なりにすごせば、素養も身につくのである。面白かった、面白くなかったと、いつまでも単純な感想ばかりで映画を観ているのでもいっこうにかまわないけれど、面白さというものは、実はそこでとまっているものではない。気に入れば人の話題より、自分の興味を大切にする。映画は作品だから、監督も当たり前だが重要だ。面白くないものをたくさん観る機会があれば、人生も豊かになるだろう。本当に面白い作品は、多くの駄作を観た上でのほうが深く楽しめるものなのである。
 映画のことを考えていたら、最後の挨拶のことを忘れていた。いつもそうだといえばそうだけれど、ボロボロの体験というものもまた、いい経験であった。すまないとは思うけれど、まあ、こういう日もあるさ。喪中なのでてくてく夜空を眺めながら歩いて帰ったのであった。
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やはり暑さは続く

2007-08-20 | 雑記
 久しぶりに家にいる感じのする朝は、やっぱり杏月ちゃんにかまれて起こされる。ほとんど家にいなかった所為もあるが、杏月ちゃんは激しく興奮している。挨拶で飛び跳ねてくる勢いが尋常ではない。鼻や耳をかまれて痛い。おきたくないがおきるより仕方がない。
 日中は猛暑が続いており、歩ける環境にはない。暑い日は確かに続いているけれど、もう少しという気分だけはある。それは期待なのだろうか。しかしながら歩けるうちに歩数を稼ぎたい。新聞をとりにいくついでに家の回りの一ブロック程度を散歩する。ちょうど10分1000歩程度。これがやっとで噴出す汗をぬぐいながら新聞受けをやっと開ける。体を冷まさなければ、読むことは不可能である。服を脱ぐと万歩計まで体から離脱する。それすらなんとなくもったいない気分だ。
 泳ぎに行ったという人の話だと、盆前からイラにやられたとか、今でもイラがいないだとか、情報がはっきりしない。同じ海水浴場のようであるから、部分的な場所の問題なのかもしれない。
 一般的には盆を過ぎると海水浴は行ってはならない、といわれていた。イラがいるので泳ぐどころではないというわけだ。盆の間も地獄のカマがどうだとか脅されて泳げない。もちろんそれでも子供時代にはよく泳いでいたわけであるが、連日水の事故が報じられるのを見ると、暑いからといって水に近づくのを恐れる風習があるのではないかとも思われる。
 冷たい言い方だが、ある一定人数は水の事故で亡くなることだろう。僕の父は夏休みの第一週目の日曜と最後の日曜は泳いではいけない、と言っていた。毎年この日が特に死亡記事がにぎわっている。そうであるからあぶないに違いない、という理屈だったようである。しかしながら相対的に泳いでいる人数の問題であるわけで、一定数に対して死亡数というのは比例するに違いない。その中に入らないように注意して泳ぐこと。遊ぶというのは危険を伴っているということを自覚することであろう。
 昼は素麺をつるつる。僕の持論は夏バテ予防は素麺に逃げないということだが、御飯もたくさん食べているのでこれはいいだろう。今年は素麺しか食べられないような夏バテ素麺病には罹患していない。それなりに暑い中でも外に出ている所為じゃないかとも思う。何事も逃げているとかえってやられてしまう。いやこれは個人的自覚であって、無理をするのもいけない。何事も程度ということを勘案することである。
 夜には法事の集まりがあって、共通話題が少ないので百姓の話など。しかし、この話が共通項であるという集まりも最近は珍しくなってきた。ある一定年代から下ると、ほとんどオタクの世界なのかもしれない。それでも僕なりにはためになる話が聞けて、昭和のはじめの農業の状況なども考えさせられて収穫だった。以前があって現代がある。突然に現在が現れることはなく、やはり連続した中に僕らは位置しているということだ。農業の話のスパンというのは、そういうことを改めて感じさせてくれるのである。
 つれあいの運転で帰宅途中に、遠くの空で雷がなんども光っていた。激しい閃光のシグナルはあるが雨の落ちる気配はない。
 そのまま朝まで蒸し暑い夜だった。
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竿竹屋

2007-08-19 | 雑記
 これだけ長期間仕事場に行かない状態は、出張を別にして初めてのことではないだろうか。なんだか仕事をしていたことさえ遠い過去のような気がする。
 万歩計の歩数も、この暑さで伸びない。どんどん抜かれて5位に後退。実際の更新もしていないので、本当は4位というところか。じわじわ実力者が上位を固めており、さすがという気がする。全国一位の「しろくまさん」という人は、一年中二十四時間テレビ状態なのだろうか。それともマグロのように進み続けないといけない宿命なのだろうか。
 新聞を取りに行くついでに少しだけ家の近所をぐるりと回る。人は住んでいるけれど、密集した住宅街という場所ではない。犬を連れて歩いている人や坂道をぐんぐん登るランナーの人もいる。朝の一時の涼しい時間を、少しでも有効に使おうという人たちも多いのかもしれない。若い頃にはとても尋常には思えなかったものだけれど、今はささやかながら共感を覚える。人類には僕の共感など必要なかろうが、小さくまとまりの無い同士は存在するはずであろう。

 朝から竿竹屋が近所を回っている。ベストセラーになった本を読んでいる人が呼び止めることはないだろうけれど、やはり呼び止める需要はあるのだろう。実は僕自身は、竿竹屋に疑問は無かった。路上のスイカ売りや、パチンコ台売りのように、実売の値段にトリックがあるのだろうと思っていた。
 二十年以上前になるけれど、仕事でちり紙交換をしていたことがある。なんというか、同類のような親近感があったものだ。お互い少しばかり怪しいところが、妙に親しみのある関係を築いていたのだろう。もちろんだからといってお互いが利用しあうことなど絶対にない。怪しい関係は、基本的には交わらないのであろう。お互いがお互いのテルトリーを守って行動すればいいのである。僕らの関係はクモの巣のようなものだったのかもしれない。
 竿竹屋のテープを吹き込んだ人もいるはずで、どういう状態で録音したものだろうかということもなんとなく気になる。そういうことを請け負う仕事もあるのだろうか。調子はいろいろあるようだけれど、妙に声の質が似ているようにも感じる。
 中国にいるときは、よく傘の修理屋が近所を回っていた。決まって真っ黒の顔をしたおじさんが、傘の修理と自動傘の修理をすると、大声で怒鳴りながら歩いていた。どうして自動傘というものを別に分類して強調するのだろうと思っていた。日本では傘は使い捨てのようで、傘の修理屋が歩いているのを見たことが無い。いや、今でも中国で傘の修理屋が歩いているのかさえ、僕には不明である。
 ちなみに竿竹屋を中国で見たことも無かった。洗濯物はロープに下げてあるのが一般的だったようにも思う。
 大声で怒鳴りながら住宅街を回る仕事というものは、国によって違うものなのだろうか。
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ひよっ子

2007-08-18 | 雑記
 盆休みということもあろうが、いろいろあって更新かなわなかった。たとえは悪いが、まつりごとが再び来たという感じかもしれない。向かってゆくより他に無い。しかもドラマふんだん、長時間。これは、体験として別世界のもので、いつもあっては困るけれど、それなりに貴重なものだったと思う。
 僕は人間社会の縮図を見た感じがした。それは僕自身がまだ人間社会になじんでいない所為もあることではあろう。人間になりたいなんてこれっぽっちも思わないけれど、少しぐらいは知らないわけにもいかないということなのである。いづれ浮世の世間とは離れることにはなろうけれど、浮世をまっとうするためには歩として通らなければならなかった道なのである。
 ともあれ、僕以外の社会がまっとうであることは確認できた。好んで進むわけではないけれど、外道という意識を持ってこれからも生きていくことになるのであろうな、ということだけはよく分かった。
 人間として生きていくことで思うのは森鴎外である。彼は人間として、世間的にも身内に対してまでも、いい人であったらしい。僕は、彼自身は偉い人だと思うけれど、本当に楽しい人生をまっとうしたものだろうか、と思わずにいられない。人の人生だからどうあろうと勝手だが、人から嫌われるぐらいでちょうどいいと、最近は思ったりする。わざわざ嫌われることもないけれど、自然に嫌われるぐらいは仕方の無いことだ。気にならないといえば嘘になろうが、気にしないぐらい無頓着な人間になりたいと思う。自然に無頓着な人間がうらやましい。成長して、無頓着になれるぐらい大きくなれば、人生というものが本当に開けるのではないだろうか。
 今はちょっとだけそんなことを考えて、やはり浮世の義理を大切にしようと思う。少なくとも、まだ僕は人間にならなくてはならないようである。世を捨てるには、世間を知らなさすぎる。人間を知らなさ過ぎる。結局は、ひよっ子なのであろう。
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目に見える報酬

2007-08-14 | 雑記
 MDのデバイス処理ばかりして時間を浪費する。こういう単純作業はどういうわけかやめられない。別に楽しいわけではないのだが、やめるにやめられない。ひとつきりのいいところでやめようと思いながら作業を進めて、終わってしまうともう一本という気分に変わるのである。やめられない自分にイライラしてしまう。しかし、この楽しくないというのが、かえって継続にはヒントかもしれないなあ、とも思うのだった。
 面白くないけれどやめられないのは、簡単に成果が上がるせいもあるのではないか。確実に実績が積まれていく。簡単なので面白くは無い。しかし目の前に成果がつみあがっていくのが確実に理解できる。
 わけのわからない仕事がつらいのは、自分のやったことがはっきり見えないせいではないだろうか。終わることだけを楽しみに仕事を進めるより無い。形の無いものをどのように具現化できるか。
僕はメモした仕事を済ませた後に、斜線と入れるなりその用紙自体を捨てるのが、それなりの快感である。ひょっとすると、これが成果主義なのだろうか。つまらないようで、真理だったりして、などと考えながら、またMDの処理を続けるのであった。
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