カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

キャラが重要とはこのことだ   キャラクター

2022-07-31 | 映画

キャラクター/永井聡監督

 漫画家として独り立ちを目指してアシスタントをしている山城は、スケッチ中に一家惨殺現場を目撃してしまう。警察には犯人を見ていないと言ってしまうが、この犯人を主人公にして漫画を作品化したところ大ヒットする。ところがこの漫画に描かれる殺人を模倣した殺人が実際に行われるようになり、警察の捜査は、何故作品と殺人がリンクするのかということに及んでいくことになるのだった。
 途中で確かに殺人鬼がいることが分かってくるのだが、何かこの作家との境界があいまいになるようなところがあり、幻惑される。そうした演出もなかなかに上手く撮られていて、観ている人間はいい意味で振り回されることになるだろう。漫画を描くという狂気があって、しかし人々に受ける漫画を描くためには、そのような狂気に浸らなければならないようなところがある。もともと画力はあったものの、悪を描けない人間の悪の発見に大きな転機がみられ、そうしてそこに殺人鬼や警察が重層的に絡んでくるようになる。
 殺人のやり方はかなりえぐいものがあるが、そういうあたりはあまりホラーに偏りすぎない撮られ方をしている。殺しそのものより、惨殺された結果を描くことにより、内容が分かるような感じだ。しかし殺人鬼はそのような殺人そのものを楽しんでおり、漫画家とのいわばコラボ作品として、世の中に挑戦状を送り続けているということなのだろうか。実際にこのようなことが起こると、日本の社会は大混乱になることだろうが、しかし殺人鬼の混ざっているこの社会を、人々はどうすることもできないだろう。そのような潜在的な恐怖というものも考えさせられ、作品の深みのようなものも感じさせられるのである。
 出演しているタレント性なども話題なのかもしれないが、映画として、そうしてエンタティメント作品として、なかなかにいいところまで来ているのではあるまいか。日本映画は韓国映画などに娯楽作品としては少し水をあけられている印象を持っていたが、このような作品が撮られることで、また状況が変わるような期待も持つことができた。原作などがあるのかは知らないが、脚本がいいと、やはり作品自体が引き締まっていく、ということなのかもしれない。素直に面白さに引き込まれて観ることができました。
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人間は神にはなれない(ディエゴとマラドーナ)

2022-07-30 | ドキュメンタリ

 BSで録画していたマラドーナのドキュメンタリーを見た。誰でも知っているサッカー界のスーパースターだが、改めて彼の足跡をみると、なんとも凄まじいものがある。
 マラドーナは、ディエゴ・マラドーナというのだが、このドキュメンタリーでは、サッカーに打ち込む人柄をディエゴとして、人気に対するおごりや麻薬に溺れる姿をマラドーナとする、二つの人格に分けていた。実際マラドーナは、まさにそのような二つの人格を持っているような人物だったようだ。
 元々サッカーに対する才能はずば抜けていて、あまりの能力の高さに13歳で学校を辞めてサッカーに専念するようになる。15歳ですでにプロ選手となり、一家の大黒柱として家族を支える存在になる。とにかくマラドーナが試合に関わると、点も取るがチームの能力も上がり勝つようになる。国内で大活躍した後、やはり莫大な移籍金を得てスペインのFCバルセロナへ移籍。そうしてさらにイタリアのナポリへ移籍する。当時のナポリは、まだ優勝経験もないし上位に名を連ねるチームですら無かったが、ディエゴの活躍で瞬く間に強豪チームにのし上がる。そうして翌年にはチームを初優勝にまで導く。ナポリの街はは、この驚くべき奇跡的快挙を受けて喜びが収まらず、2か月もお祭り騒ぎが続いたという。ディエゴは「ナポリの王」とも言われ、実際に神と同等の存在として崇められた。ディエゴの悪口を言うものは、ナポリではとても許される行為では無かった。さらにワールドカップでもアルゼンチンを優勝に導き、神の手ゴールや五人抜きゴールなど、後世に語り継がれる伝説も打ち立てることになった。
 しかしながら一方で、あまりの熱狂的な人気もあり、マラドーナには好きな時に外出できるような自由は無かった。住んでいる家の周りには常時ファンが取り囲んでおり、ちょっとでもディエゴの姿を見たいと待ち構えているのだ。だからなんとか外出できるときは、地元のマフィアなどの協力で飲み歩き、羽目を外すことが息抜きとして欠かせなかったようだ。そうして以前からの習慣があったとされる麻薬にも染まっていく。マラドーナは試合後すぐに飲み歩き、麻薬でフラフラになった。試合の三日前から麻薬を抜いて汗を流し、なんとか試合に出ているという感じになっていく。マラドーナは結婚していたが、奥さんの妊娠中に愛人が出産し、その子の認知を拒んだためにスキャンダルとしてイメージが低迷する(しかしまだ当時は許されていた)。麻薬騒ぎやマフィアとの関係は公然の秘密で、ナポリが勝つ限りは、まだまだ大衆はマラドーナを大目に見ていた。
 ところが運命は皮肉なもので、ワールドカップの準決勝でイタリアはアルゼンチンと対戦することになる。さらに試合会場はナポリだった。イタリア開催のワールドカップだったため、イタリア国民は当然優勝を熱望していた。そういう中でPK戦でも勝ちを決定づけるゴールを決め、イタリア国民とナポリ市民両方との関係を悪化させてしまう。その後麻薬の摘発を受けて執行猶予付きの実刑を受け、地元マフィアは摘発を恐れ後ろ盾をしなくなる。さらに試合後のドーピング検査で禁止薬物が見つかり15か月にわたる出場停止処分を受けて、事実上イタリア追放ということになってしまうのだった。その後も(アルゼンチンの)地元などで選手生活は続けたようだが、麻薬に溺れる生活からは抜け出すことができず、以前のような活躍をすることなく引退し、引退後も麻薬に溺れ続けブクブクと太り、薬物入院などを繰り返した。
 マラドーナは現役の選手としては、歴史上の偉大なプレイヤーだったことは間違いない。背は低いが強靭な肉体とバランス感覚を持ち、ドリブルやシュートが素晴らしいだけでなく、試合をコントロールする動きやパスを繰り出すことができた。子供時代から様々なチームにおいてキャプテンを務め、人心掌握能力にも長けていたと言われる。引退後の監督としても一定の評価を受けている。何しろ指導力があり、チームのモチベーションをあげるのが上手かったらしい(皆マラドーナに憧れ尊敬しているだろうしね)。しかしながら一方で時にメディアの前で傲慢な発言をし、麻薬から手を引くことはなかった。私生活は褒められたものでは無かったのだろう。
 そういうことではあるにせよ、そのような麻薬に染まる生活を容認することはできないとはいえ、やはりマラドーナは神ではなく人間だったということだろう。人間は誰かの欲望のためだけに勝負をつかさどる神にはなれない訳だし、いつも期待に応えるために努力を積むことはできかねるということだろう。相当なプレッシャーを背負い続け、結局は精神バランスを保つことが困難になったのではあるまいか。マラドーナ自身の性格もあるとは思うが、マラドーナの二重人格を作らせたのは、彼を神と崇め、一方で敵として憎んだ大衆にあるのは間違いなかろう。それはおそらく、マラドーナ以外のスターにも言えるだろうことではないのだろうか。
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重層的なつながりに、驚く   藁にもすがる獣たち

2022-07-29 | 映画

藁にもすがる獣たち/キム・ヨンフン監督

 重層的な物語になっている。韓国映画だが、日本の小説が原作のようだ。大金をめぐって、さまざまな人がその金の周辺でドラマを展開させる。借金で首が回らない男が、チンピラの男と組んで金を得ようとしたり、たまたまバイト先で大金の入ったバッグを見つける男がいたり、暴力をふるう夫に保険金をかけて殺してみたり。親切にアドバイスをくれる人物がとんでもない人だったり、たまたまの連中がもっと困ったことに巻き込まれたり、親の介護で苦しんでいるが、さらに親は態度が悪いままだったりする。実はこれらの物語が、ちゃんとつながった展開になる面白さもあるし、それぞれのお話がちゃんとリアルだったりもする。しかし金にまつわることで、何か微妙な緊張感を伴い、恐ろしい。もちろん韓国映画だから、刃物などを使った血がたくさん出る。肉食だと、同じ東アジアでも、こうも違った味付けになるということだろう。原作は読んでないけど。
 しかしながら実際この映画はよく出来ている。どんどん展開は流れるが、ちゃんと物語がつながっていくことに、ついていけるはずである。怖いことは次々にやってくるが、それなりに工夫がされていて、あっと驚くこともある。うまくいっている人が破綻したり、うまくいきそうな人の妨害が多かったり、出てくる人々はみな事情もあるが、悪人ばかりである。しかし悪人だって困ることはあり、実は騙しているのは堅気の方だったりする。
 俳優陣の演技も安定しているし、演出も冴えている。いろいろと危機的なことが続くけれど、疲れることなく楽しめるだろう。血が多いのは僕としては苦痛だが、物語の面白さを邪魔する程ではない。悪人の使い方も上手で、ワルの上にもワルがいるという感じだろうか。
 間違いなくエンタティメント作品として優れていて、今年観た映画でもかなり上質なものである。人間ドラマを楽しんだうえで、観ながらその立場を味わい苦しんでください。実際お金にまつわる人間が一番恐ろしいものなのかもしれない。学習能力の高い人は、マネしないように。
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戻らない杏月ちゃんの日々

2022-07-28 | 感涙記

 杏月ちゃんが死んで一年以上になるのに、いわゆるペットロス状態は続いていると思う。僕は子供のころから犬を飼う家に育ったから、犬と暮らすという感覚は、いわば日常的なものだった。すでに名前を思い出せないほど(20匹以上になるだろう)の数になるが、犬が死ぬたびにひどくショックは受けていた。毎回泣いているかもしれない。しかし、これまでペットロスの経験はほぼ無かった。考えてみると、犬以外にも飼っていた動物は居たようだし(ヤギとかインコとか、ましてやほかの犬とか)、そんなに間を置かず、また犬を飼ったりもしていた。そういうこととも関係があるのかもしれない。
 しかしながら今回は、なんだか他の犬を飼う気にさえなれないのである。失ったのはあづちゃんで、その最後の苦し気な姿が、どうしても思い出されるのである。犬を飼うと、僕よりたぶん先に死んでしまうことになり、そうしてまたあの苦しそうな日々を迎えることになる。そこまで順を追って考えている訳ではないのだが、直感的にそのような思いに捉われてしまう。今の可愛い犬という姿は、必ず失われるものなのだ。
 それは人間でも同じことだし、おそらくほかの動物だってそうである。しかし犬の特殊性というものがあり、犬でなければこのような感情は生まれ得ないのではないか、とさえ思う。
 あづちゃんの母親はトイプーとシュナウザーの混血で真っ黒だった。父親はマルチーズで真っ白だ。あづちゃんは黒っぽい基調があるにせよ、なんとなく茶色くみえるところもあり、足やおなかには白い毛もあった。全体に毛は薄いのだが、特に顔周りの毛は伸びた。目に涙や目やにが溜まるようになるので、毛は定期的にカットしていた。そうしてその毛が伸びる段階で、シュナウザーっぽさが出る場合もあるし、トイプーのような感じにもなるのだった。黒っぽいせいか、マルチーズの雰囲気は、あまり感じられないのだった。
 道を歩いていると犬の散歩をされている人ともすれ違う。日本ではトイプー・ブームというのが席巻しているようで、散歩の犬の半数近くがトイプーである。そうすると、毛の色は違うものの、あづちゃんっぽい感じの毛並みのワンちゃんが居ないわけではない。犬というのはただでさえ可愛い存在だが、あづちゃんに似ている犬は、特にかわいい。思わず抱き上げたくなるような感情が湧くが、よそ様の犬をむやみにそうする訳にもいかない。ワンちゃんも、そのようなまなざしで見る後期中年男性を、良い気分で迎える準備が無い。でもなあ、とも思うのである。似ているけど、やっぱり杏月ちゃんでは絶対に違う。よく見ないまでも、その違いは歴然だ。唯一の杏月ちゃんは、やはり何物にも代えがたいのである。
 結局そんな感じでペットロスが続いている。しかし以前のように、いつの間にか泣いている、ということは少なくなってしまった。時間が悲しみを癒してくれるというのはよく分かる感覚であるが、そのようにして杏月ちゃんの思い出までも薄れていくことに、さらに深い悲しみを覚えるのだった。あづちゃんは、どうして僕より先に死んでしまったのだろうか。子供のようなまま死んでしまう犬というのは、罪深いのではないか。子が先に死ぬことが一番の親不孝だという。おそらくそういう意味は、ペットロスの本質的なことであろう。
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妙な恋愛劇には違いない   ベイビーティース

2022-07-27 | 映画

ベイビーティース/シャノン・マーフィー監督

 妙な行動を取る見るからに不良の青年か近づいてきて、そのまま仲が良くなってしまう。女の子は何か事情のある病気のようで、実は頭を丸めているために普段はカツラを使用している。学校でもおとなしいのか、あまり友だちは居ないし、居てもそんなに心が通っていない感じだ。両親は仲がいいようだが、彼女に干渉するあまり何かギクシャクしている。不良の青年は時に物を盗んだりして家族とも関係がどんどん悪化する。しかし彼女は青年をかばい甘やかしている。それが唯一分かり合える関係なのかというと、どちらかといえば利用されているだけなのではないか。
 基本的に若い二人の恋愛劇なのだろうけれど、事情があってナーバスになっているのは分かるが、不良の青年は働くわけでもなく、遊んでばかりだし、実際見るからに不良だし、だからと言って恋愛に対して努力をするわけではないし、家族に嫌われて当然ではないか。
 家族もなんとなくみな精神的に不安定になってしまうのか、隣人との代わったエピソードなどが盛り込まれていて、ちょっとした群像劇のようなことにもなっている。しかしながら、それらが何を言わんとしているのか、正直言ってそれはよく分からない。気分のようなものを味わう映画なのかもしれなくて、そういうちょっと変だとか、違和感のようなものを日々発見するような映画なのかもしれない。有名な俳優があまりいない感じもするので、いわゆる低予算で、実験的なものがあるのかもしれない。
 そういうことだが、あまり感情移入をしづらいところもあって、結構我慢して観ていたかもしれない。そうであるからこそ、若い人には訴える力があるのかもしれず、要するに世代を選ぶかもしれない青春のありようなのだろう。乳歯が残っているままの大人の恋というなにかこうギクシャクした感じを、大人が理解してくれないままに(理解しようと努力しているけど)言ってしまうと、こういう感じにもなるのかもしれない。まあ、雰囲気を味わう映画なのでありましょう。
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シャンプーを思い出せない

2022-07-26 | つぶやき

 風呂に入っているときには、たぶんいつも何かを考えている。風呂に入ると言っても、僕はほとんどシャワーで、風呂につかるのは週に一回程度だが、そうであっても風呂に入るとは表現として使うので、勘弁してほしい。要するにシャワーを浴びているときに、ああいうところでの動作というのは、ほとんどルーティンになっていて、何か考えて洗うというようなことをしないでいい。いわば次はどうやって洗うなどはしていないと思う。自動の行動になっていて、そういう時には別のものごとを考えるのに都合がいいのかもしれない。おそらくだが、僕以外の人たちもそうしているのではあるまいか。そうしているでしょ?
 しかし、不思議なことにこの時に考えたことを後で思い出そうとしても、むつかしいのである。これがどうしてなのか、僕には分かりかねる。何かを考えて、上がったら何かしようとしていたことまでは思い出せるのだが、上がった後は、そういう考えを持っていたこと自体を忘れてしまう。それもきれいさっぱり。おや、何かしようとしていたけどな、とは思いだすことはあるが、何かそのことが頭の中の霧のかなたに霞んで見えなくなっている。惜しいところまで行くことはあるが、その時はその霧の中をさまようことしかできない。ヘウレーカ、とか、ユーレカとか叫んで風呂から飛び出す経験もないし、僕はとてもアルキメデスにはなれそうにない。
 そういう風にして考えていたことを忘れるのは残念だが、どうせたいした事では無かったのだろうと諦めることができる。何しろそれがたいした事だったかどうかさえ分からないのだから。しかしながら困るのは、そうやって考えていたことと、その時気付いたことも含めて忘れてしまうことがあることだ。どういうことかというと、シャンプーが切れそうだということも忘れてしまうのだ。上がったら補充液があるのかどうか、確かめてみよう(実際はつれあいに聞いてみようだが)、と確かに考えたはずなのだ。しかし次にシャワーを浴びるときまで思い出すことができない。あっと思って確かに昨日そう考えたことは思い出せる。その24時間近くの間がなんなのかはよく分からない。上がった後に何故思い出せなかったのか。本当に悔しい。
 風呂の中でシャンプーを思い出すように、ずっとそのことを考え続けていたこともある。繰り返し繰り返し考え、忘れないようにと思う。僕はシャンプーの後に体を洗い。その後髭を剃る。シャンプーの後の時間が長くなるのである。繰り返し忘れないようにしていたはずなのに、もう飽きてしまって、いつの間にか反芻を忘れている。そうとしか考えられない。何故なら上がった後には忘れているから。
 風呂から上がったら、風呂での出来事を思い出すようにしようとメモ書きをして風呂に入ったこともある。しかしどういう訳か風呂から上がるとそのメモを読み返そうともしない。シャンプーが完全に切れていない場合は少しだけお湯を足して薄くなったシャンプーで洗う。そうしていよいよ出なくなると、石鹸などで洗う。髪がゴワゴワするように思える。
 でも、シャンプーの詰め替えは時々行っている。これは困ることなので、ときどきは思い出すことができるということだ。困る状況なら思い出せるのなら、やはり風呂で考えたことのほとんどは、思い出せなくても困らないことなのだろう。そうであって欲しいものである。
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人間ドラマではない   バンブルビー

2022-07-25 | 映画

バンブルビー/トラヴィス・ナイト監督

 子供向けロボット映画のようだ。少なくとも政治的な背景や展開は、そういうゆるい感じの脚本の設定がなされている。アメリカ映画にはこれが多いのだが、脚本が子供のことをよく分かっていないのだ。だから胡散臭い物語に成り下がっている。細部に面白さがあるがゆえに、残念な感じかもしれない。
 観ていないので知らないが(監督が嫌いなので観る気になれない)、トランスフォーマーという映画あるらしく、それのスピンオフ作品のようだ。自動車などから形を変えることのできるロボットがいて、これが人間社会で活躍する。非常に高い文明下の戦士のような存在のようで、地球とは違うところで戦争をやっていたけれど、地球に逃げてきた奴がいて、それを追ってきた悪党二人が襲ってくるという設定だ。その間の平穏な時間を、ハイティーンの女の子と友情を育てるという物語になっている。この女の子の設定も、ある意味で典型的すぎてどうなのかというのが多く、まず倫理的に落ち度のある行動ばかりとっているのに、主人公だから許されるというエピソードが多すぎる。自分が失敗して相手に損失を与えているのに、相手が許しているにもかかわらず復讐して痛めつけたりする。今時いじめっ子でもそんなひどいことはしない。そうしているのに、それがギャグとしての笑いどころになっている様子だ。アメリカ社会では、いじめ問題は深刻ではないのだろうか?
 ロボット同士のアクションはCG的過ぎて面白みは無いが、主人公に激しいハンディキャップを負わせながらも、何の工夫もなく強力な敵を倒せてしまう。結果的に相手が馬鹿すぎたか弱すぎたせいのような印象を与えていて、これもどうなんだろうか。やはり脚本が悪いと物語は挽回できない。最初に地球に降りてきてのカーチェイスの緊張感は良かったのに、ロボット同士だとダメなのは、やはり人間的なものが混ざらないと、こういうものには緊張感が保てないのかもしれない。機械の顔がいくら苦痛に歪んだとしても、どこか嘘っぽいのかもしれない。
 まあこれを最後まで観てしまった僕が、一番の敗因かもしれない。皆さんは観ないように!
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夏は踊る季節なのかもしれないが

2022-07-24 | 時事

 勘違いしている人が多すぎるので、メモ的に記しておく必要があるのかもしれない。
 こういう時は原則に立ち返る必要がある。死の危険がある感染症だから、国が規制してでも広がりを抑えなくてはならない、という話だったはずである。亡くなる人がいることは確かだが、これはトレードオフの問題があって、病気で亡くなるより規制することによって亡くなる人が多くなっている可能性が高い現在において、どちらかを選択する必要がある(はっきり言うとコロナを規制したせいで亡くなった人のほうが、病気で亡くなった人より遥かに多い可能性のほうが高いのである。今後はその差がさらに広がりそうだ)。他国が規制を緩めている理由は、合理的にそういう事である。非合理ならばそういうことはしない。さらにそれを理解できる国民性があるということか(実際に日本人は聡明でない可能性が高い。今のところそのような反応をしている人々が、比較して明確そうな証明しかない。なにが国民として劣っているかは、今後とも考える必要がある)。そもそも総量で感染者が何人であるという執拗な報道をしている国は少数であろう。だからこそまずやめるべきは一日の感染数のみをスクープしないという落ち着きだろう。
 さらに規制緩和が必要なのは、濃厚接触者である。これは政府が冷静に判断して、定義を変えた。どうしても過剰反応して無症状でも陽性者が出ている現状があって、さらに濃厚接触者が社会を停滞させるわけで、いわゆる踊らされるだけのことで何もできない人々を生んでしまう。冷静に考えると、症状がない人までの規制は、これまでが過剰であった反省であろう。
 さて、しかし感染者が増えているではないか、医療現場は大変である、というのがある。それは感染症や病状の結果である。現状が規制することにより、そのような現状を緩和できる可能性があるのであれば、やるべきかもしれないという議論はある。しかし、そのような可能性において規制強化が有効でなかったことしか、これまでの経験で分かったことは無いのである。特にその水準を今後は越えてくる(ピークがよくわからない)。だからこそ必要なのは、冷静になって重傷者に真摯に向き合う事である。命の大切さを本当にまじめに考えるならば、ふざけた恐怖感ややじうま根性で揶揄するのではなく、必要な人に届く政策を精査して行う仕組みの再構築にあるとしか言いようがない。なに、何も難しいことは無い。すでに日本以外の多くの国は、そういうかじ取りを切ってそれなりの時間経緯を得ている。日本人の狭窄視点を広げるだけで、世界は変わるのではないだろうか。
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勢いで押し切ってしまった   007/ノー・タイム・トゥ・ダイ

2022-07-23 | 映画

007/ノー・タイム・トゥ・ダイ/キャリー・ジョージ・フクナガ監督

 過去に何か訳ありで雪深い山の中で襲撃された母子のうち、なぜか氷の張った池に落ちた娘は殺されずに生き残ったらしい。後にその娘は引退して悠々自適になったジェームス・ボンドと結婚してヨーロッパでバカンスを楽しんでいる。しかしそこで襲撃を受けて、どうもその嫁さんであるマドレーヌにも秘密があるらしいとボンドは察し、駅で別れて疎遠になってしまう。そうして月日は流れ、ジャマイカでのんびりしているボンドに、また仕事の依頼が来る。一度は断ったもののいきさつがあり、結局は新たなミッションに向けて動き出すのだったが……。
 展開が早くて、最初はちょっと何が何だか訳が分からない。伏線が貼ってあるらしいことは分かるが、それをたどるだけでも大変だ。アクションもふんだんに大変だし、いったい今は何がどうしてこうなったのか、考える時間が欲しい感じ。いちおう整理しながら考えるけれど、そういうのはあまり重要ではないような扱いを受けたりする。ともかく尺は長いが忙しい内容ということになろう。
 そういえばビリー・アイリッシュの歌う主題歌は知っていたので、ああ、この映画のものだったんだ、とは思ったが、これってやっぱりダニエル・グレイグとしては最後なんだろうな、というのは分かる。あとで解説を見てもそう書いてある。しかしながら、それでいいのかな、とは思うけれど……。ジェームス・ボンドは誰でもいいとは思うけど、ダニエル・グレイグの作品群が、やっぱり何と言ってもかっこいいのは確かだった。他のは当時の世相もあるだろうけど、やっぱりなんだか人物としては薄っぺらい。そういうのを払拭して新しいものを作り上げてきた歴史のようなものを背負っていたところは素晴らしかった。本作もそういうところはあるにせよ、終わることにはやっぱり寂しさを拭えない。はっきりしないし、プロットはあまり良いとはいえないまでも、勢いで押し切ってしまった。こういうカッコよさもあるというのは分かるんだけど。
 しかしまあ、本当の不満は、偶然の要素が多すぎることと、やっぱりボンドが超人的過ぎる強さがあることかもしれない。リアルである必要のない作品かもしれないが、本当のスリルということでは、物足りない。血の通った人間だから、恐ろしさがあり、そうして爽快さがある。アクション映画には、そういうことも求められるように思う。最近の派手なアクションには、それが無さ過ぎて過剰になりすぎてしまった。架空なものがさらに混ざって、説明も必要になっている。漫画的にはいいのだが、それは漫画に任せるべきではなかろうか。
 長すぎるので分けて観たが、いちいち少し時間をさかのぼらないと覚えていなかった。今でも細かいところは思い出せない。それは僕が年を取ったせいもあるだろうけど、やはりこれは何か詰め込みすぎてしまったということもあるだろう。豪華だけれど今一つ、な印象になってしまうのは、つまるところそういうところなのではなかろうか。
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礼儀を重んじるのはいい習慣ではない

2022-07-22 | culture

 外国人の持つ日本人の印象の中に、礼儀正しさというのがあるらしいのだが、それは極めて卑近な誤解に基づくものだと僕は思うが(日本人は外国人に比べて礼儀正しくなんかは無いから)、いきなり脱線するのでそれはいいとして、何かをしてもらったら、お礼を言うというような礼儀正しさは、どこの国の人であろうと、すべきことには違いはない。だからこそ、外国人であったとしても、日本人の儀礼に対して、習慣に違いがあろうとも、その敬意について、気づくことができるというだけのことだろう。
 しかしながら、車に関するマナーにおいては、そういう謝意などをあらわす方法がなかなかに難しい場合がある。皆急いでいるとは限らないまでも、車の量が多すぎるところや時間帯などでは、車の動きについて、憤りを覚える人もいることだろう。譲ったのに礼もしなかったとか、運転しながら怒っている人を何人も見たことがある。なかには相手に聞こえないからなのか、あからさまに罵倒する人もいる。意味が無い行動という意味では、これこそ日本人らしいと僕なんかは思うが(罵倒するなら相手にちゃんと意思を伝えるべきだ)、さて、外国人はそういうのは見ていないのだろうか。
 車種などにもよるだろうが、クラクションを鳴らすというのは対面などで道を譲られる場合などは、ある程度効果的だとは思うが、実際のところその相手の身ではなく周辺の人にも、これが聞こえるということを考えると、近所迷惑である可能性もある。クラクションの音を変えてボワーンと凄い音を出すヤンキーの人もいるが、これは「ああそういう人ね」という感じで格好が悪い。でかいトラックのパプーッというのも迫力がありすぎて困るが、まああれは仕事柄仕方が無いのかもしれない。そうではあるが、僕は一人で運転しているときは音楽のボリュームが大きいので、相手がクラクションを鳴らしているかどうかなんてほとんどわからない。だから僕に対しては、ほぼ意味のない行動である。
 すれ違いざまにちょっと手をあげて謝意を表すおじさんも多いが、やはりこれは、ご婦人にはハードルが高い動作であるようにも感じられる。それというのもちょっと敬礼っぽいものがあることと、実際にやっている人もあまり見ないためだ。なんとなく頭を下げているような動作の人が多いようで、フロントガラスの光の反射具合で、確認の難しい場合がある。苦慮している人もいるのではないか。
 さて横道から流れてきた車を前に譲らせる、いわゆる割込みを許す場合に、近年はサンキューハザードをする行為が、それなりに定着している。これはだいぶ昔にドリカムが愛しているのサインでブレーキを踏むとか訳の分からないことを歌っていて、ヤンキー文化というのはまったくしょうがないと思って嫌だったのだが、愛しているのサインではなく、ありがとうのサインとして理解している人が増え、実行しているものと思われる(まあブレーキランプとハザード・サインはちょっと違うけど)。もともとはヤンキーの人とかトラック運転手の習慣だったみたいだけど、一般の人にも広く定着し、よっぽどの高齢者でない限り、やっているという感じがする。多少うざいという人もいるが(強引に割り込んでハザードは点けるというのがいるし)、まあ、これは分かりやすいかもしれない。テレビで見たのだが、これを日本の美徳の習慣として感動している外国人がいたので、面食らってしまった。外国でもこれはやるらしいのだが、要するにまちまちのことで、誰もが習慣としてやられるものではないという。単に一律に右へ倣いをする日本人であるに過ぎなくて、いつまでもマスクをしているようなものと変わらない精神構造に過ぎなくて、僕ら日本人にとっては醜悪ではあるが仕方名の無い結果なのだけれど、感動されるのであれば、勝手にしてもらってよい。
 しかしながら、そもそも車で謝意を表明するなんて必要が本当にあるのだろうか。譲ってやってお礼を言われるのが当然だと何故考えるのだろうか。
 実をいうと僕の場合は、そういう礼を言われる筋合いはない、という感覚がある。ある程度スピードが緩んだり、ちょうど車間が開いていたというような場合に、どうぞお入りくださいとやる方が当然なのであって(全体的な車の流れがスムーズになり社会秩序が保たれるから)、別段お礼をされたくもない問題である。譲ってもらう側としたらお礼したい気持ちになるのは分かるが、出来れば相手のドライバーの顔を確認でき、僕は男なのでちょっと右手を上げるくらいのことで済ませたい。ハンドル操作をしながら今度は左手てハザードボタンをちょっとだけの時間押すというのは、やっぱりちょっと恥ずかしい。それは僕がヤンキー由来の人間ではないことと、やはり世間に流されている日本人を意識するからだろう。さらに僕の本心としては、譲る側の人間としては謝意の表明の必要を感じていない人間である。当然のことをしたのにお礼なんてされたくないのだ。
 そういう葛藤とのバランスの悪いサンキューハザードだが、これは今後も無くならないだろう。いずれ世界の共通語になり、しない人間を非礼として糾弾する人々を生むかもしれない。非寛容な世の中に対して、僕は憂いているのである。
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時代を翻弄し書きまくった人   トルーマン・カポーティ 真実のテープ

2022-07-21 | ドキュメンタリ

トルーマン・カポーティ 真実のテープ/イーブス・バーノー監督

 作家カポーティの伝記映画。子供の頃に読まれていた作家だったし、映画化作品もあった。ちょっと変わった人でアル中だということは知っていたが、時代が下ってゲイで個性的な人だったということくらいは知識として知っていた。さて、そういう人物のドキュメンタリーが、なぜ今の世に……。今の世がタイムリーなのかどうかはともかく、改めてカポーティを理解するにはいい頃合いなのかもしれない。時代に愛されながらも、ある意味で、ちょっとゲテモノで、先取りした感覚はいくぶん早すぎて、そうして死んでしまった人だったのかもしれない。
 背は高くないが独特のファッションに高い声、最初に出会った人はちょっとびっくりするだろうが、話は面白く人を惹きつける。そうして話題の中心に座る。書いている作品はヒットする。文章も素晴らしい。映画化もされる。文化人だけでなく、いわゆる資産家や著名人に仲間を広げ、社交界の中心人物になる。社交界の在り方の原型を作ったともいわれる。しかしあることで信用を無くし、今度はより過激なセックス・ドラッグ・サブカルチャーの波にもまれていくことになるのだった。
 変わった人だということは、他の様々な文章から知られている。面白い人だったようだが、晩年はアル中気味で問題も多かった。そうして結局まだ50代の若さで世を去った。稀代の才能に恵まれた人気作家でありながら、出生は不幸で、エキセントリックで繊細な心持がありながら、大胆にも著名人になっていく。そのすべてが、いわゆるアメリカ的であり、時代を先取りしたような人だったのかもしれない。死後も古典化してまだ読まれているようだし、完全に消え切った人間ではない。多少時間は空いてしまったが、覚えている人も多い中にあって、まだまだ影響力を持ち続けられている人物なのだろう。ちょっと悲しい雰囲気は漂ってはいたものの、そのような人生を駆け抜けていくしかない生き方もあるということなんだろう。
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リールに取り込まれそうになる

2022-07-20 | 掲示板

 フェイスブックにリールという短い動画をあげてあるヤツがあって、これは別段友達じゃないひとのを見られるようになっているようで、なんだろうと思ってつい見てしまった。よく分からないが、知り合いの娘さんがティックトックにハマっていていろいろ踊っている動画をあげるのを楽しみしていると言って見せてもらったことがあるのだが、おそらくそういうことと似たようなものなのだろうと思う。実際可愛らしい女の子が何やら短い歌に合わせて踊っているというのが多いのは多いのだが、最初のころはそういうことでは無くて、なぜか短いスカートをはいている女性がゴルフをしているなどがあった。あとはオムレツのようなものを作る料理もの、日曜大工のような作業、鉄棒をやっている人、バク転をする人、トランポリン、釣り、動画を美しく撮る方法(のようなもの)、女子高生シリーズ(ダンスのようなもの、たまに靴下を履くとか、要するにエロ)、スケートボード、ヤンキー車、事故動画、美容師が髪を切るヤツ、海の魚たち、等々。
 まあいろいろあったのだが、これが特に面白くも感じていない割に、なんとなく手持無沙汰だと見てしまったりする自分がいる。あとでもう少し見たかったな、というのがたまにあるが、もうそういうのはあまり後から見ることはできない。どんどん新しいものに切り替わって、しかしモデルのような女子が出る奴は何度も出たりする。そういう感じで流していたつもりだったが、数日してふと気づくと、どうもエロ動画の割合がだんだんと増してくるような感じなのだ。要するに僕を男として認識していて、それのニーズに合わせてくれているということなのではないか。しかしながらそういうのが完全に嫌いではない正直な気持ちもあるけれど、エロばかりを見たいわけでは断じて違う。むしろそういうのが続くと、ちょっと煩わしい。女子高生が短いスカートのまま踊っていると言っても、僕からすると子供は子供である。マスクしてることもあるので、そういう制服と生足であるというのは分かるが、実際はどんな女の子なのか識別はむつかしい。おそらく同じ子ではない人たちがいろんな形でそういうものをあげているか、たぶんだけどそういうのを好きな男性が、こういうのを集めて撮らせている感じもする。要するにツリのようなものである。確かに見ている僕がいるのでこれらを流しているものと思えるが、ちょっと面倒である。なかには滑り台を滑る女性というのもあって、趣旨は分かるが、だからどうなんだという気もする。犬や猫などもあるし、ネズミや動物というのもあるが、だんだんと女性度が侵食してきて、多様性が失われていくような気がする。完全なヌードというのは無いのだけれど、水着もあるし、薄着もある。そういうプロモーションがあるんだろうか。また人生哲学のような人が現れたり、社長などに短いコメントをもらうものもある。何を言ってるんだかよく分からないけど偉い人というのもいるのだな、とは思うが、やはり需要があるのだろう。ワンポイント英会話などもあるし、外国の事情などもあるし、教養がまったくない訳ではないが、オチがつまらなかったりもする。しかしそういうのに交じって必ずエロである。居酒屋やラーメンなどもあり、キャンプがあって、大自然ものもあるんだが、すぐにエロに戻ってしまう。やっぱり一番の需要と供給網が充実している分野はこれなんだろう。見てしまった後は、なんとなく脱力感があって、要するに時間を無駄にしたような虚無感もある。しかしこれが中毒性が高いのも確かで、数日間何度も見たことは正直に告白する。だからこそそういう変遷があったし、これが多くの場合インスタグラムとも連動していることも知った。そういう具合の顧客の引き合いがなされているのだろうとも思うし、SNSの利用のされ方の変遷そのものなのかもしれない。
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忙しい毎日は人気の所為だ   エイト・デイズ・ア・ウィーク

2022-07-19 | ドキュメンタリ

エイト・デイズ・ア・ウィーク/ロン・ハワード監督

 ビートルズの伝記的ドキュメンタリー。ビートルズのドキュメンタリーは数多く撮られているわけで、さらにビートルズファンとしては、これらの一連の流れを知らないわけではないが、たとえそうであっても、その時代の空気感を実に見事に切り取って、まとめたという作品になっている。ビートルズの貴重な映像もあるし、現在生きているメンバーのインタビューもある。ということはジョン・レノンだけはないことになるが、彼は作中にたくさん出てくるわけだし、どうして出られないのかなんて猫でも知っていることなんで、どうだっていいでしょう。それにしても彼らの時代の彼らの若さと無謀さというのは、改めて凄いものがある。最初からいきなり売れたわけでは無くて、それなりにライブ活動など経験を積んでいるプロ集団が、すでに成熟して油が乗りきっている状態でいきなりピークに達して、そのままムーブメントに乗って何年も君臨する。そのうえで苦悩の上に、さらなる高みに上ろうとするのだった。いや、ほんとに凄いことですよ。ビートルズは様々な奇蹟が重なってその才能を爆発させるのだが、やっぱり天才がちゃんとそろっていたことが改めて観て取れる。彼らは天才で非凡すぎる。そうやって世界を変えてしまったのだ。
 たとえそうであっても、彼らのような体験は唯一無二のものだ。それまでにもスターは数多くいたはずだが、ビートルズのようなスターは居なかった。あまりにも強い影響力があって、世界中がそれに反応していく。そうしてそれは彼らが望んでいたことでは無かった。彼らは音楽を楽しんで作って、それを楽しんで演奏できる人間たちだった。それを難しくさせていたのは、ほかならぬ絶大な影響力を持った人気だった。彼らを生で観たい人が多すぎて、そういう人たちと距離を取らざるを得なくなってしまう。それは不幸なことであると同時に、彼らがやりたいことを明確化させることだった。彼らはすべてを手にして、しかし存在し続けることが困難だった。もううんざりしたんだろう。それは凡人である僕らにも、理解できるはずのことである。そうして過去のことになり、しかし現在も彼らは忘れ去られることなど無いのだ。音楽の力が、そうして彼らの存在が、今の世界を変えてしまったのだから。
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カマトト嫌い

2022-07-18 | 境界線

 僕は日常的に映画を観ているが、見ていて時々耐えられないくらいイライラすることがある。直接的な言い方で申し訳ないのだが、いわゆるバカが嫌なのである。ふつうに警察に通報すれば済むことをやらなかったり、危ない目に合うかもしれないのに準備をしなかったり、自分の仲間を傷つける可能性があるのに、軽率だったり。映画的な文法として仕方のない場合もないではないが、わざわざそういう痛い目にあいたい人間がそうなってしまうのは、まったく同情できないし共感できない。まさか愚かな人間は愚かな罰を受けるべきだと考えて映画がつくられているわけではなく、そのような不幸に見舞われた人間を救済すべくストーリーが練られている可能性があるのだ。そうすると映画の作り手に問題があるという事になり、急激に映画の価値が下がっていくことなる。そういうイライラを伴いながら、サンクコストを払いながら映画を観続けている自分の馬鹿さ加減にも呆れるし、しかしひょっとするとこの先、見ていて救われるかもしれない期待にあらがえない。人間とは本当にちっぽけで弱い立場なのだ、と痛感させられる。
 この馬鹿な人間に少し似た立場で、なおかつ映画的に多い人物に、カマトトがある。知らないなんて考えられない立場の人間が、あたかも全くそのことに気づかないままに、ストーリーとして主要な人物であり続けていることに、心から嫌気がさしてしまう。だいの大人が、そんなことはあり得ないのである。ましてや恋の主人公たる女の人が、そんな心情でいられることはあり得ない。しかしあり得ない人物は、カマトトとして君臨し続ける立場にある。それはカワイイと混同して存在し続ける、勘違いなのである。いや、せっかくかわいい主人公であっても、カマトトであるだけで、なんだか人間的に汚く厭らしいどろどろとした心持のある人間に思えて仕方なくなる。そういう人間を応援しながら見続けられるのだろうかという不安を抱えながら、見た目はかわいくも心の汚らしい人間が成功するのを見届けなければならない。それは見ている人間の人間性まで貶められる蛮行なのではあるまいか。
 という事で、お願いしますから、自分の気持ちや心に偽らず、それでもそのようにふるまう事こそが難しい現実社会を、うまく乗り切ってもらいたいと思います。それはカマトトには起こりえない、真の人間らしい成長のためなのである。
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コメディだけど順にホラーに   この世に私の居場所なんてない  

2022-07-17 | 映画

この世に私の居場所なんてない/メイコン・ブレア監督

 独身で年増になっている看護師の家に空き巣が入る。ノートパソコンと家族の思い入れのある銀食器などが盗られるが、警察は今一つやる気が無い。ちゃんとカギをかけてもいなかったことなど逆に非難され、気分悪い感じである。犬の糞の始末をちゃんとしてくれていないだろう隣人の犬を飼っている友達がいない風の危ない青年に文句を言いに行くと、意外に彼はいい奴で、盗まれたノートパソコンが転売された先の黒人の怖い兄さんたちのいるところに乗り込んで、パソコンを返してもらうことに成功する。どうも盗品は中古買い取りリサイクル・ショップに持ち込まれているらしく、そこに行くと犯人の手がかりが付くのではないかと出向いていくのだったが……。
 基本的にはコメディ映画なのだが、犯罪被害者が、いつの間にか犯罪組織の凶悪な片棒を担がされていくようになって、だんだんとホラー映画化していく。描写がえぐいので、それなりの覚悟がいるかもしれない。しかしながらそれも含めて笑うべき映画かもしれなくて、たいへんに趣味が悪い。これはいったいどうなってしまうの? という不安に駆られながら、どんどんお話自体がおかしくなっていく主人公の体験を追いながら、映画を楽しむしかない。年増女性で本人は非力なのだが、それなりにタフなところがあって、カタルシスもあるかもしれない。ここまでの暴力にさらされて、平気なわけないと思うけど、もう開き直るしかないじゃないか。
 変な人ばかり出てきて、時には描写がひどすぎて嫌な感じにもなるんだけれど、これがある意味で中毒性のある面白さにつながるところもある。なるほどそういうトーンなのね、と理解できると、ジワジワ来るのではないか。いい趣味とはいえないまでも、そういう意味では今後も期待できそうな作風のものではないだろうか。
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