カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

詐欺にもあわず幸運にも見放された人

2024-05-24 | net & 社会

 橘玲のブログ読んでたら、フィッシング詐欺の文面が、どうしてこうも馬鹿っぽいのかの解説がなされていた。
 SNSにもメールにも、何かの当選であなたが選ばれたとか、荷物が届いたとか、契約を急げとか、お金をあげるとか、まあなんとも色々あるにせよ、実際のところこんなものにいったい誰が引っかかるものなのか、疑問に思える文面が多いことに失笑していたわけだが、実はそういう文面だからこそ、意味があるというのだった。
 要するに詐欺行為は、詐欺に引っかかる人をひっかければ成功なのである。引っかかりにくい人を思考を凝らして騙そうとしても、その労力に見合う成功は難しい。要するに引っかかるような馬鹿を探せばいいのである。そういうバカを対象にするために、いかにも馬鹿っぽい理屈で引っかかる人間に当たればいいのである。もちろん犯罪グループが外国人で、日本語が拙い、という文面もありそうなのだが、むしろそれでも引っかかる人がいるからこそ、そういうものがはびこるのだ。馬鹿を探すには馬鹿目線で、ということで、一定の成功する事例があるからこそ、ネットやメールという無差別でコストのかからない手法に添えて、このようなバカな文章を量産して送っている訳だ。迷惑極まりないものの、それにもかかわらず引っかかる人が絶えないので、さらにその成功事例に基づいて、馬鹿な文章が量産されているということなのらしい。たまに被害届が出るのだろうが、既に相手は閉鎖するなどとんずらしている。そうして次の馬鹿を探している訳だ。
 オレオレ詐欺などもそうかもしれないが、引っかかる人はまさか自分がそうなるなんて思いもよらなかった、などと言っている。国際ロマンス詐欺などもそうなのだが、被害者はお気の毒だという側面もあるものの、むしろそういう被害にあうはずもない普通に見える人であっても、引っかかったりしている訳である。ひとえにそれは、馬鹿では括れないものがありそうにも感じられるのだが、要するにそういう事態に遭遇してしまった人間が容易に馬鹿になれるような習性が、ひょっとするとヒトそのものには備わっている可能性があるのではあるまいか。そのような境遇に自分が置かれているという、いわゆるスペシャル感のようなものが、自分に巡って来ると信じられるような……。もちろん引っかからない人には、そのような冷めた現実感から抜けられない悲しさのようなものが、逆にあるというだけのことかもしれない。どっちがしあわせなのかは僕には分かりかねるが、詐欺にもあわず幸運からも見放されている現実は、まさにひとの日常ともいえるのかもしれない。
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ギャンブル依存症の恐怖と教訓

2024-05-04 | net & 社会

 大谷選手の通訳の賭博事件を通じて、いわゆるギャンブル依存症と、特に若年層に広がっているとされるギャンブル依存にかかりやすい社会環境の変化について、関心が集まっているという。通訳の一平というひとは、現在奈落の底に突き落ちている状態だと思われるが、それはおそらくその家族も含んでのことだろう。大筋では本人としては自業自得だが、その周りの人に、いったい何の落ち度があったというのだろうか。
 大谷選手が大物だからその周辺の人物が狙われて、そうして引っかかったのが彼だった。そういう事件の背景も明るみに出ているわけで、狙った上に違法の同元である人間は、何の起訴の動きも無いのだという。騙した方は合法の範囲にいるという事らしい。さらにその胴元と言われる人物は、過去に同じようにギャンブルで破産したことのある人で、自分がはめられた手口を用いて、それでこの世界でまたのし上がったということなのだった。それが米国社会だと言えばそれまでだが、割り切れない思いがするのも普通の感覚なのではあるまいか。
 280億という負け総額の数字もさることながら、そんなものはそもそも返せるはずが無いのだから、最初から落とし込んでいるだけのことだという事だけは明らかだ。結局それは、金づるを持っている人物に破綻するまでお金を貸して、行きつくところまで行った到達点ということなのであろう。病気なのだからやっちまうだけのことで、周りの人間が気づいたときには、既に火の車だったということなのだろう。このような脅威に無防備だったという一点において、その不備のために大谷サイドは追い詰められた訳だ。
 また、一平という人はそもそも、合法のスポーツの賭けは以前から習慣的にやっていたらしい。合法の賭けの方は、最初に課金する必要があって、それこそ自分の持っている範囲でゲーム・オーバーである。彼の心理は分かり得ないが、それだけでは物足りなくなるというか、大谷選手の後ろ盾がある(彼は金を恐ろしく持っている訳で)ことを知っている胴元から、いくらでもお金を貸してもらえる環境になって、のめり込んだのである。ギャンブル中毒になる素地は、合法ギャンブルに飽き足らなくなる心理を突いた、魔の誘いなのである。ふつうは破綻する人間に金を貸すような人間はいないはずだが、相手が破綻するまでの通過点であっても、大金が稼げることを狙っているのだ。
 こういったことが、どうしてもなんだかもやもやする原因なのだが、今のところ日本の大きな関心は、情け心で金を工面した可能性のある大谷選手に、本当に違法性があると判断されてしまうことにあるようだ。あちらの法律だから、よく分からない部分は一旦すっ飛ばして、そういう関心になってしまうのだろう。それって結局次のターゲットを救う手立てには、まるでなっていないようにも感じられるわけで、さらにもやもやしてしまう。もっともこれだけの大きな事件になったことで、海外に出ていく選手は緊張感を持っていくことにはなるだろうし、また日本にいる他のギャンブル中毒とその家族においても、何らかの道筋を立てられる材料になっていくかもしれない。そうでなければ、このもやもやの行くべきところを見つけられないのである。
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消えゆくのかストロング

2024-04-02 | net & 社会

 チューハイなどの、いわゆるストロング系の飲み物が衰退しているのだという。僕はそもそも飲んでいた方ではないので、言われてみれば、という程度の認識ではあるが、今時の健康志向に合わせて、メーカー自体がその数を減らしているともいわれている。徐々に売れなくなっているということもあるのかもしれないが、むしろそのように消していく方向へ少しずつ舵を切っているという解説を聞いた。
 ストロング系の売り上げは、メーカーによっては数十パーセントを占めるほどになっていたともいわれ、売れるのはいいのだが、コロナ禍になって家飲みの習慣の人も増え、アルコール度数が高いにもかかわらず値段が安いために、アルコール依存などの社会問題化の背景にもなっているという指摘がなされるようになっていたのだという。そういうことの反動もあるためと、アルコール飲料会社の社会的な立ち位置として、健康志向への取り組みをしているというアピールもあって、業界1位とかでない立ち位置のメーカーであれば、そのようなイメージを払拭させる戦術に転じるところが出てきたとも考えられる。さらに今は、逆に微アルコールであまり酔わないで飲めるというような嗜好風土を持つ若者が出てきたともいわれていて、そのようなニーズに合わせて方向転換をするところが出てきたのかもしれない。そもそも売り上げも落ちてきているというのが第一だとしても、社会的な圧力もあって流れを変えようとしている、ということなのではあるまいか。実際のところはアルコールを売っている身ではないので、よく分からないのだが……。
 ストロング系と言っても、以前飲んでみて驚くほどでは無いが、なんとなくジュースのような口当たりのものが多くて、なんとなく物足りない気がしたような記憶がある。そうであるから飲みすぎるのであるらしいのだが、そうであるなら日本酒であるとか、ワインであるとか、そういうものでもいいんじゃないかと思ったことだった。普段買うことは無いのだが、出張などで飲んでホテルに帰る時にコンビニに寄って、帰った後にシャワーを浴びた後にもうビールじゃなくて何か飲まなくては、という時に買ったりしたことがあるのである。ストロング缶を買って、ワインかワンカップのようなものを買うのである。そうしてシャワーの後にそれをもう少し飲もうという算段なのであるが、確かにすでに飲んでいるので、ストロングを飲んだらすぐ眠たくなってしまうというのはあったようだ。そうすると一度缶を開けているので、最後まで飲まなければならない圧力のようなものはあるのだ。そういうところはせこい感情だと思うのだが、律義なところでもある。ワインなどは栓を開けなければそれでいい感じもするし、その前に酔ったのだからもう開けなくていい。せめて開けたストロングくらいは飲み干さなくてはならないのではないか。そうやってアル中になるのかどうかは分からないが、しかし本当に眠ければそのまま寝てしまう。翌朝になってまで飲もうとは思わないので、少し残りのストロング缶がわびしさを演出するというのはあるのかもしれない。そうして手を出さなくなったのかもしれない。
 それでもまあチューハイのようなものが無くなるとは思えないし、時にはレパートリーの一つとして存在しておいてくれてもいいのではないか。まあ本当に売れなくなって消えてしまうのなら仕方のない事だが、何か妙な圧力で消えるというのは、単なる政治である。そういうのがいいことだとは、あんまり思えないのだが。
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親ガチャっていう人の不幸をどうする?

2024-01-31 | net & 社会

 親ガチャっていうのは、どういう訳かそれなり市民権を得たことばになった感がある。ちょっと前に流行った流行語というよりは、それを使って現代日本を語る人が増えているのだろうか。それだけ社会性がある問題とリンクしているという、一般的な感覚めいたものがあるのかもしれない。ところで実際のところ、元になっているゲームというのはまったく知らなくて、それが何なのかわからずに、最初はガチャポンに由来すると勘違いしていた。あれは生まれるので子供の方かもしれない。いや、どうなのか。
 僕らの時代は「頼まれて生まれてきたんじゃねえ」とか言って、怒った親からビンタされるというのがドラマの定番だったが、自分で望んで生まれてきたんじゃないのは親も一緒であって、それを親に言って言葉の暴力をぶつける意味だというのは分からないでは無いが、ふつうの親なら、お前に言われてもなあ、という残酷な感想が本音であろう。そんな不良なんか本来はいらないのだが、道義上仕方なく付き合っているだけのことだろう。しばらくケガをしない程度に、ほとぼりが冷めるまで出ていってくれたらいいのである。
 話がずれたが、親ガチャの問題は、要するに格差社会のことであるらしい。親の格差が子供に連鎖するという、いわゆる負の連鎖から抜け出せない底辺の生活がある、ということのようだ。そうかもしれない場合もあるようだが、実際にはそう底辺でもない世帯の子供まで、そのような感覚に浸っている場合もありそうなのである。むしろそういう高望みの人々に限って、親ガチャを言っているよう気がしないではない。
 実は格差社会というのは、長く平和が続いている結果であるともいわれている。戦争などの有事があると、格差なんてものが吹っ飛ぶ。日本で言えば、終戦すぐが皆底辺に居て、ある意味皆貧しいということでありながら、格差は少なかった。だんだんと時を経て、格差が開いて行って、現代にいたる訳だ。そういう意味では歴史的なものがあって、ヨーロッパの階級的なものとか、今の米国のような階層のようなものと、日本の格差はやっぱり異なるのかもしれない。日本の富裕層は、いちおう建前上貴族は居ないので、医療関係などが大半を占めるのであって、これは一種の階級と呼んでいいものかは分からないが、それなりの競争を経て(試験があるので)の結果ともいえるもので、そのことをもって問題視する人はまず無いだろう。
 そういう訳で、階層や階級としての格差ということではまず無くて、親の性格的なもの(子供への理解度のようなもの)や、離婚などの不遇さ、虐待などの逃げにくい体験などを、指しているものらしいのである。そのようにして子供時代を過ごす不遇全体を指して、絶望的な自分の境遇を呪う言葉の総称になっているということだ。
 そうするとさらに問題は、そのように感じて不平を言うことの一般的な感覚についてである。実はそのような境遇の人というのは、実数としては必ずしも限られた人々ではないようなところが、親ガチャの問題点のようなのである。家庭の問題は、今風に言うと自己責任というか、それなりに孤立したものがある。そうした隠されたものの中に、さまざまな不幸があって、子供がそのために虐げられている。子供の自らの力では、どうすることもできない。社会が悪いと言っても自己責任の領域である。そうであるならば、一番の原因は親そのものなのではないか。親が悪いから、自分は不幸なのだ。短絡的に言うと、そういう事だろう。
 さて、そういうことに気づいたのちに、自分の力でこれをどうにかすることができるようになるのだろうか。そのような仕組みづくりが、いわゆる親ガチャ問題の解決の糸口かもしれない。教育の時間はそれなりに長い年月と言えるが、その質は、初期の段階からの積み上げが、なんといってもものを言いそうだ。多少乗り遅れても大丈夫なようにすることが、可能なのだろうか。そういうことあたりにヒントがありそうだが、さて、どうしたものだろうか。
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捨てるより育てるにはどうするか

2024-01-17 | net & 社会

 高齢者がペットを捨てているという。要するに年を取って、これ以上ペットを飼えない状況になり、捨ててしまうのだ。もちろん身寄りが無かったり、引き取り手を見つけることができなかったり、ということもあろうし、病気でそのまま入院してしまったり、施設に入らなければならなくなったりして、捨てざるを得なかった人もいるようだ。伴侶が亡くなるなどして、一人で世話をできなくなった(育てるのに不安を抱えるなど)とか、とにかく猫などが飼ううちに増えすぎてどうにもならなくなる人だっている(こういうのが一番困りものだ)。可愛いし、最初はちゃんと飼ってはいたのだろうが、小動物とはいえ、犬や猫はあんがい寿命が長い。近年家の中で飼われることが当たり前になって、犬は寿命が延びたともいわれているし、猫は代謝の効率がいいのか、そもそも二十年くらい生きる個体は稀ではない。自分の寿命を勘案してみると、最後まで飼いきれるのか高齢者? という立場の問題になってくるのである。人間の寿命が延びたと言っても、必ずしも健康寿命とは違う場合もあるだろうし……。
 そういうペットを引き取って育てているNPO団体や、支援しているグループというのはあるにはある。しかしながらたとえそうでも、すべてのペットを引き取れる余裕などはないという。それほど捨てられるペットの数は多すぎる訳で、さらに仕方なく処分される命もたくさんあることだろう。いまさら野生で生きていけるようなものでもなさそうだし、人間社会の制約もあって、野生で生きる道など最初から閉ざされているに違いない。人間は、野生と共存できる生き物では無いのである。
 また、ペット共に入居できる高齢者施設もあるそうで、それはそれで新しい試みかもしれない。もっとも、ペットを嫌う他の利用者がいないとも限らないので、そうした線引きなどの問題はありそうだった。
 いずれにしても飼っていたペットを捨てる行為そのものは、身勝手のように見える。それほどペットというのは、飼っている人の所有物とみなされているからだろう。しかし同時に生き物で、その生死を飼い主の都合のみでどうこうするのは倫理に反する感じがする。そういう前提がありながら、人間にも寿命があり、健康や家族の在り方にも、それぞれ事情がある。そういうことをすべてクリアした人でなければ飼う資格がないということを、いったい誰がジャッジできるというのだろうか。
 悲しい現実を前にして、やはりこれは一定の金を掛けて取り組むべき問題ということにもなるかもしれない。税金という形で何とかして欲しいというのもあるが、しかし行政として、ペットと関係ない市民からまでも負担を求めることは、それなりにむつかしい面があるかもしれない。そうなるとペットを売買するときにお金が発生する訳で、そういう時に、価格とともに負担金を集めるということにもなるかもしれない。または、ペットを捨てる行為の前に、預り金を徴収するシステムを作るなどもあるかもしれない。企業協賛も必要だろうし、篤志家にアピールする啓蒙活動もいるだろう。そういうことを可能にしながら、受け皿を育てることを考えるべきだろう。保護犬(猫)運動もあるし、それらをどうするのかということを地道に考えないことには、捨ててしまう高齢者問題では、ものごとは解決しないだろう。もうそういう事をやっている人はそれなりにいるとは思われるものの、現状はそれ以上の数のペットの命がある、ということなのだろう。
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当然なら称賛も無い訳で……

2023-08-23 | net & 社会

 イクメン君と言われるような人もちらほら見るようになった。もちろん職場環境もあるようで、そのような人がいない職場もあるという。そもそも働き方として無理という事か。ところでイクメン君にそれとなく聞いてみると、素直に「怒られるから」という返答が返ってきた。なるほど、そうなのか。そういうことかもしれないですね、確かに。
 妙に納得はしたものの、内容としては基本的に分業制で、曜日を決めて保育園に迎えに行くとか、そういう時は彼が先に帰るので、夕飯を作る、ということのようだ。簡単なものは作るが、お惣菜を買う場合もあるという。夕飯の用意ができればいいというかんじなのか。お子さんの風呂入れはだいたい役目で、そのあと寝かしつけるなどは奥さんの方が多い(ということは、することもあるということか)という。最初は出来なかったらしいが、二人目の時に育休を数週間とって、その時にだいぶ覚えたのだそうだ。これも奥さんと話し合ってのことのようだ。奥さんも働いているので、一人では限界が来たのだということだろう。それにしても聞いているだけで偉いものだな、と素直に感じるが、それでもまだ不十分なのは分かっているので、奥さんの不満は無くなっていないはずだそうだ。
 若い人というのは、やはり実にえらいな、と思いながら、そういうイクメン君の話を聞いたのだが、ある時雑誌の記事で、イクメン君がちょっとした家事をするだけでもてはやされ、一般的な妻が圧倒的な家事の負担をしていても、おおかたの人は無視をしている、というのを読んだ。なるほど、確かにそうだな。僕は素直にイクメン君スゴイと感じたが、そういう感覚は、頑張っている女性を少なからず傷つけることでもあるかもしれない。なかなかに難しいが、こういう感覚が残っている中での、過渡期としてのイクメンもてはやしは、やはり少数者としての無理解の上での称賛に過ぎないのかもしれない。イクメンも、もっとすごいイクメン、例えばキャラ弁などの特殊な方向に行ってこそのものが正解なのだろう。
 そんなことがあってSNSを眺めていると、僕は世代が違うので多くは無いけれど、検索するとやはりイクメン自慢は出てくるようだ。料理は結構あって、これは得意不得意もありそうだけど、お弁当作りなんてものも結構ある。お弁当を作ったことが無いことと、毎日ということを考えると、やっぱりすごい人もいるものである。でもまあ、イクメン自慢のものの多くに、奥さんの影が薄い感じもなんとなくあって、これはモチベーションでやっている可能性はあるものの、そういう意見も是非聞いてみたい気もした。相方が面白くない、と思っている可能性もあるし、うまくノセている可能性もある。いや、そういう見方はうがったものなのだろうか。
 子育ては女性だけが担うのが当たり前でないというのは、倫理的には当然のことだけれど、その理屈で分かっている当たり前は、現実にはかなりというか程遠い理想であり続けている。打破するその為には、当たり前のイクメンを育てていくよりないとも思う。しかしイクメン称賛は、ある意味では今の時点で問題も含んでいるかもしれない。それは必ずしも育児を当然としている今の女性の負担を(とくに精神的なもの)、軽くするものではないかもしれないからだ。それは冷めた視線でもダメそうで、しかし頑張れ応援も必要ではあるのである。ジレンマに陥ると何もできない。さらにもう自分は孫にしか可能性を見出せない(いないけど)。期待もされていないかもしれない。ペットの面倒を見るくらいしか、模範的なことはできないのかもしれない。
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みんなための公園の消失

2023-08-19 | net & 社会

 公園が使えないのだという。どういうことかというと、禁止事項が多すぎるためだ。広い公園で遊歩道も整備されている。そこで子供がスケボーを持っていくと、知らない人が駆けてきて「駄目だ駄目だ」と叱られる。人もまばらだし危険では無いが、禁止ならある程度は仕方がない。ところがこのまちにある公園のすべてで、スケボーはそもそも禁止であるそうだ。スケボーするなら自宅の駐車場などでやるしかないのだろうか。基本的にはスケボーをしてもいいところへ、親に車に乗せてもらって隣町など遠くまで行くほか無いという。
 禁止になったのは近所から苦情があるからだという。町内会長さんのような人がコメントしていたが、スケボーの音は、関係ない人にとってはうるさくて仕方ないのだそうだ。公園を利用する他の人の危険の為ですらなかったのか……。
 近頃の行政の設置している公園の多くは、ボール投げなども禁止しているところが多いらしい。小さい子供と柔らかいボールを投げ合っていると叱られるという。これも危険というより、何かあると困るということか。
 他にもベンチで長く座るのが禁止だとか、妙なものも多い。不審な人を警戒しているのかもしれない。ホームレスにも来てほしくない、ということか。
 住宅街の近くにある公園は、事実上閑散としている。利用している人が稀なのは、禁止事項が多くて子供が遊べないからである。遊具は危険なので使用禁止のテープが張り巡らされている。動くものを子供が利用して、怪我をすることがあるためだという。ある程度は、とも思わないでは無いが、そもそもブランコなども、利用の仕方を少しでも守らないのなら、基本禁止なのだ。年齢制限もあるので、大人は最初からNGである。
 そもそも公園が多く作られるようになったのは、高度成長期に子供が道路で遊んで事故に巻き込まれるケースが多く、なんとかならないか、というところからスタートしたとされる。道路でしか遊ぶ場所が無いのだから、せめて公園を作ろうということだったのだ。そうして子供が遊ぶようになると、そこでも怪我をするので禁止が増えていった。公園で遊ぶ子供さえもいなくなってしまったのだ。
 ただし、地域住人が公園を大切に扱い、禁止事項のほとんど無いところも存在する。地域住民は公園でバーベキューをして、地域行事をして、清掃を行う。ここを使う人には、特に禁止事項が無い。それは自分たちが利用するための場所だからだ。
 自分のための公園が無い。それは自分たちの公園ですらない、ということなのだろう。行政の管理する公園は、だから一般の人のためのものではないらしいのであった。
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匿名だから行われることもある

2023-07-23 | net & 社会

 精子提供者を知りたいと考えている人の、活動をとりあげているものを見た。不妊治療で精子提供を受けて生まれた子供が成長し、自分の本当の父親(実際には精子の無かった父親とともに育てられている)である精子提供者を知りたい、という事であるらしい。しかしそれが現行では許されないのは、精子提供者はドナーとして匿名が守られており、その条件をもとに精子提供に至ったという経緯があるからである。その多くは当時の医学生と考えられていて、すでに今の生活もあるので、本当の子供だからという理由でその人が自分の存在を知ることを、どのように捉えているのかは知る由もない。
 そうではあるが、そうやって生まれてきた子供としては、自分のルーツのようなことを知るという最小限の願いであり、その取り決めを後で変えることができないか、という純粋なものであるようだ。また、そのようにして育った子供の多くは、実際にそのように自分の由来である片方の親のことを、強く知りたいと思うようになるものだという。アメリカなどにもそのような事例があるともいう。最初から匿名でない条件で精子提供をするようなケースもあるのかもしれない。そのことでのトラブルがあるのかないのか、そこのあたりははっきりはしなかった。
 また、そのように精子提供で子供を持つ母親の例もあげられていたが、そもそも父親が誰であるかというような問題を子供に教えるつもりなどみじんもなく、自分もその精子提供者がどのような人間であるのかさえ知る必要が無い、と考えている人もいた。そうであるからこそ、子供を持つことが出来た、という事でもあるのかもしれない。
 なかなかに悩ましい問題なのだが、最初の取り決めであるならば、それが誤った考えであるということにならない限り、それなりにむつかしい問題だろう。ただ、そうやって生まれた女性が言っていたことだが、「自分のことなのに、周りの人の方が(平気で)妨害するし、意見で押さえつけようとするのが分からない」という。しかしこれは、最初の取り決めを破ろうとする行為であると考えるならば、十分に暴力的なことにつながっていて、気持ちは分かるし、そういう境遇の悩みであることはそうだろうとは思うものの、提供者の方を守るべき問題の方が先にあるという気はする。それは本人には残酷なことであるのかもしれないが、子供が生まれるというのは、そもそもそのような残酷さを含んでいるものとも考えることが出来る。親は選べないともいうが、親だってそのような子供になることは選んではいない。あえて恨むとするならば、子供が生まれない境遇にあった両親(もしくは母親)という事になり、それが間違いであったと、問うべきではないか。それは、子供が生まれない人には、子供を持つべきでない、ということと、結果的には通じるものがあると知るべきだろう。その人の生まれてきた機会を奪うべき問題なのか、とも通じるので、自分にも矛先は向けられているのである。だから社会が反応しているので、個人の問題に口出しを出しているという事なのではないのであろう。
 しかしながら有名なスティーブ・ジョブズも、本当の父親を捜したが見つけられなかったというし(彼の場合の父親は精子提供者ではないが)、実際問題として彼女以外にも多くの人が、そういう境遇にはあることだろう。個人の問題だから、その他の人は関係ないともいえるが、悩みの多くは個人の問題である。この問題は暴力的な仕打ちではないものなので、さらに事を難しくしている。匿名でない精子提供のドナーという問題を創ればいいと思うかもしれないが、そういう人に問題が無いかということも考えるべきだろう。
 また、現在は医大系の病院などでは、ドナーが不足して(このような問題が顕在化したからだろう)公式な精子提供による不妊治療が滞っているともいわれるし、逆にネット上では、そのような現状をぬって自分の精子を売買している人も少なからずいるともいい、結局はその利用者が増えているともいう。そういう状況が望ましいものかも、検証が進められるべきであろう。
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変わりゆく難しさと変わらない先の格差を思う

2023-06-27 | net & 社会

 子供の時代には冷戦があったので、核兵器の恐怖を描いた作品というのは多かったと思う。それでもいつの間にか冷戦は終わってしまって、そういうものはないことになったと聞いてはいた。しかし、大人になって今の状況を見てきた中で思うことがあるのは、冷戦は続いており、ちょっとしたはずみで、変わりゆく人生のようなものがあるのかもしれない、とは思うわけだ。それでいいという事ではないのだけれど……。 
 ウクライナで戦争が行われていることは報道を通じて分かっているのだが、それなりに時間が経過してきており、諦めめいた空気感もあって、日常化しているというか、それほど気にも留めなくなっているように感じる。ある意味仕方ない面もあるのだろうけど、そういう後ろめたいような感覚を持ちながらも、平然と暮らしている現実がある。それは個人の力では抗いがたい事であり、そうであるならば、このような運命めいたことというのは、やはり防ぎようがないことなのかもしれないと、示唆されてもいる。自分たちには関係ないようでいて、しかし避けがたい危機にあることに目を向けなくなっている。またはそのような考えに、仕方なく傾いているのではないか。近くには紛争の火種がたくさんあるにもかかわらず、それはもう避けることは不可能に近く、止めるには武力行使しか選択が無さそうでもある。恐ろしいことなのだが、外交的な手段は、ものすごく小さいように感じられる。起こってしまえば、すべてが終わってしまうかもしれないのに……。
 武力行使は最終手段であるとされるが、今の状態を打破するにも、結局はそのような力を示す以外に、本当に方法は無いのだろうか。実際の外交の取引として、条件を突き合わせるためには、バックには軍事力という背景が必要なのだろうか。もっとも相手が欲しいものに対して、譲歩的に何かを差し出すことが、本当にいいことなのだろうか。話し合いのためには、そのようなものが無い限り、成り立たないのではないか。
 そうであるならば、大切であるとされる対話以前のものが、やはり必要そうにも見える。また、民主国家というものは、その時の状況で為政者が選挙によって選ばれて変わってしまう。その分世論をくみ取りやすいとも考えられるが、継続して対話するには、それなりに無理が生じるように思える。それは日本だけの問題ではなく、諸外国においても同じことである。独裁者や独裁的な組織運営である国家と渡り合うには、タイムスパンの軸が違いすぎるのである。刻々と変わり得る状態に住んでいる我々は、旧態依然の組織や歴史観を持つ国とは、きわめて渡り合いにくいということになってしまう。その為に、今の状況に不利になる可能性があるのは、変わりゆく国の方なのかもしれない。
 もっともそれは、やはり近視眼的な見方であって、自由で豊かな国が形成されるのは、やはり変化の賜物だろう。そうして時間軸が移って豊かさの失われた側の方が、緩やかに譲歩に歩み寄ってくるかもしれない。少なくともそちら側に住む人々が、耐えられなくなっていくのではないか。願わくばそれが、近い将来であって欲しいものなのである。
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幸せ至上主義がまねく不幸

2023-06-01 | net & 社会

 SNS依存症というのがあるのは、前々から問題にはなっていた。ちょっとした日常の出来事をUPしているということなのだが、そのちょっとした自慢めいたものの方が、そうでないものより多くなる。美味しいものを食べた(以前はこれがほとんどだった)というのを写真付きでつぶやくのが典型で、美しい風景だとか、珍しい出来事とか。写真の上手下手もあるかもしれないが、補正する技術もあるらしく、それらしく加工して素晴らしい、というのもあったのかもしれない。
 一方でこれを、いわゆる「リア充」自慢として妬む人のコメントも結構あったりする。直接うざいとか書き込む人なんかもいる。それなりにひねくれているわけだが、つらいものはつらいのかもしれない。まあ、見なければいいというだけの気もするが、利用する人にはいろいろ事情があるのだろう。むしろひどく毒を吐いている人のを見ることもあって、見せられる方はその方がつらい。そういう人はおそらくそれには気が回らないようで、慰めて欲しいのかどうかは分からないが、ひどく甘えているようにも感じる。それにちゃんとフォローする仲間が居られることは救いだが、それすらないと、ちょっと警戒感が漂う。そういうこともあって、リア充の報告がたくさんある世界の方が、どちらかというとふつうに健全そうに感じるのだが、まあ、それもバランスかもしれない。
 そういう風に思っていたのだが、しかしこの皆から「いいね」をもらう事での満足ということには、少なからぬ危険が潜んでいるそうだ。「いいね」というのはいわゆる評価であって、それの多寡によって自己の承認欲求を満たすことに問題があるらしい。
 何が言いたいかというと、そういう承認欲求に満たされなければならないということに、自分が振り回されてしまう、ということらしい。そういう欲求を満たすために、いつもいいものを食べ、美しい場所を訪れ、きれいに着飾って、そうしてメイクなんかにも凝っていく。すべては他人から、「いいね」をもらうためだけのために。
 そういうのを「幸福至上主義」というらしく、そのような考え方が、実は自分の幸福度を下げる結果に陥らせるらしい。皮肉めいているのだが、何故なら自分の幸福は、他人の評価次第だからだ。自分がいいと思われたいところを、他人の「いいね」にゆだねてしまっているのが、問題なのだ。しかしそれが、SNSの本質でもあるわけだが……。
 なかなかに難しいものだな、とも思うのだが、はて、しかし僕自身も長年ブログを書き、SMSにあげてはいるわけだ。
 確かに「いいね」がたくさんつくと、「おお」っという嬉しさがあったのはあった。正直言って今もあるかもしれない。そうなんだけど、やはり僕はそういうのとは、実はちょっと違うところがそもそもあるのだ。
 経過からするとすでにブログ自体は十数年(※後で考えると20年近くでした。少なくとも17年以上にはなるようだ)にはなっていて、フェイスブックが始まってすぐに連動しだしたと思う。最初は十数個すぐに「いいね」がついたりして、いい気分はあったかもしれない。しかし僕のブログはそもそも長いし、読んでくれている人は実際には数人だろう。一時期フォローするカウント数も250を越えたりして、さらにいい気分だったが、しかしその後は下がり続け、もう何年も100ちょっとというのが続いているかもしれない。まあ、これも慣れと言いますか、書いていることはそれなりに変化しているものと僕自身は思うのだが、つまるところ考え方がそう変わるわけではないので、ずっと読んでくれている人がいるというよりも、ちょっとずつくらい変化もありながら変遷があるのだろうな、ということに過ぎないと思われる。気にしてない訳では無いが、基本は備忘録と、自分の考え方のまとめなので、書かざるを得ない事情が僕なりにあって書いているものを、たまたまこういうかたちで上げているということなのだ。
 それはあまり理解されづらいことではあるようで、つまるところ評価されるのを求めてというよりも、他人の目がある前提でものを書くという自分なりの訓練のようなものであって、そういう中で物事を考えていくことが、自分にとってはそれなりに必要な手段ではないのか、という実感があるためなのである。
 多少無理やりに自分に納得させている面があるにはあるが、たぶんそんなような感じで間違いなさそうだ。もちろん突然やめてしまうかもしれないが、文章を書くというのはちょっとした快感もあるので、そういう意味では依存症ではあるかもしれない。自分なりに書いて、書き直したりする作業に没頭すると、それ自体が楽しいのである。もちろん楽しくない時も、あるのだけれど……。
 という感じで自分の考えを表に出そうとすると、字数が増えていく。単にそれだけのことなのであって、これって幸せ至上主義にあてはまることなのだろうか。
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出なければよかったものは制限しよう

2023-05-20 | net & 社会

 コロナのことを思い返してみると、本当にこの三年間って何だったんだろうな、と思う。世界の近代性の脆弱さというのは、その前から指摘されていたことだけれど、見事にその現代人の弱さが露わになった時間ではなかろうか。別にグローバリズムであるとかそういうことではなく、原発問題なども同じような根っこにあると思うが、見えないものへの恐怖と連鎖に過剰に反応して、個人では対応できないうねりを作ってしまう。もう少し前の世代の人間なら対処できたのかどうかはわかり得ないが、これからの人間にも、これはちょっと無理なイシューであることがよく分かった。今も日本では、ポーズのみでマスクをしている現状もあるが、まだまだ変え得ない社会があるということの証左でもあろう。日本が住みにくく不幸な国であるのは、そのような脆弱さの上に成り立っているからだろう。
 それはそうではあったにせよ、一応の終焉を迎えてもなお、三年の余韻があるのはそういうものかもしれない。名前の消えかかった人に再度発言が許されると、まだ終わりでないと言っているらしい。まあ、ポジションもあるのかもしれないが、もう聞かなくていいだけのことであろう。聞こえてきても妙にしか聞こえない訳だし。
 しかし、コロナでよかったかもしれないと思われることもいくつかは考えられて、制限があったからこそ、様々な自由も生まれたようにも感じる。要するに無理な人付き合いが減ったので、かなりストレスが軽減されるようなものもあった。立場上の人もいるだろうが、それなりに肩の荷が軽くなった人も多かったのではなかろうか。やりたいことがやれずに残念だった人の影に、そのような開放を味わった人も多かったのではなかろうか。仲間の輪は脆弱になったとされるが、そもそもその輪に引っかかっていた人には、外れるいい機会になって良かったのではないだろうか。また同じように戻らなくてもいいものは、それなりにありそうで、この機会に淘汰されるように消えてなくなっていいものは、もう復活して欲しくないものである。そのようにして動き出すものの中に、選別されるものが含まれていて欲しいものである。
 ウェブで済ませられるものはそのままでもいいはずなのだが、どうもそうならないようなものも多い。やはり集合に戻るべきものはほとんどだとは言えるが、その中に混ざって、率先して戻らなくていいものが、頑張っているところもある。困るが、そういうものに限って、力強く呼んできたりする。あからさまに迷惑顔もできないので、付き合うものは静かに付き合う。ハイブリットで参加している人がいたりすると、俺もそうすればよかったと悔しく思うが、出てしまったものは取り返しがつかない。もう少し考えておくべきは、僕個人にあったのかもしれない。
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お前はすでに死んでいる、かも

2023-04-30 | net & 社会

 選挙の話になると、本当にたいがい誤解ばかり、という感じ。悲しいことに政治的にそれなりに理解ありそうな感じなのに無知、という人が本当に多い。大人ってこんなに馬鹿なんだなって改めて思います。僕の若いころと何ら変わりはないのだけど、いつの間にか僕と同じ世代の人々が、昔の馬鹿な大人になっただけというか……。当事者なのに、いまだに社会が悪いと思い込んでいるんでしょうかね。それはあなたのせいなのに。
 でもまあ、考えてみると、馬鹿がいるから今の社会もあるのかな、とも思う訳で。こういう人たちは学歴は高い人も含まれているんだろうけど、そういう保険のかかった社会では上手くいくこともあるのかもしれないけど、結局融和的なことに欠けている、ということかもしれない。話せばわかるという民主的な取り組みは、相手の意見も聞くという事であって、自分の考えの押し付けではない。だから民主的な最終決定の多数決が成り立つわけで、今の政治はそれのための手続きに時間がかかりすぎている。圧倒的な数の優位性がありながら、なかなか早くに決められなかったり、誰かが即決して物事を進めることは、ほとんどなくなっている。結局それでいわゆる専門的に正しいという解答がありながら、政治的にゆがんだ世界になっているだけのことである。大衆に理解がないのだから、政治的に歪んでいる訳である。
 そういうことは分かっているのだが、人間的にそれを許容しているのが、今の政治だ。だからそもそも何かは間違っている。しかしそれが民意なのだ。そうして戦争はなくならないし、対立は顕在化している。人間というのは、それだけ愚かさを含んでいるから人間らしいのだろう。根本的には人間は愚かなので、政治があるのである。
 いい加減理解したほうがいいが、理解できないから大衆であり、ゆがんだ個人である。悪いのは政治家ではなく、自分自身だ。ガス抜きのために他人があるのではない。自分に向き合うことなく政治は無いのであって、不満に思う世の中は、自分の中にあるのである。行動すべきはそういう意味での民主性なのである。馬鹿でいられるのは本人の自由かもしれないが、ちゃんと目覚めないと、いつまでも民主的な人間になれないまま死んでしまいますよ。

※ 後で読み返すと、何に怒っていたんだろう。僕が戦うべきものは、そんなものでは無いのだけれど……。しかし毒というのは、時には吐く必要もあるのかな、とも考えたので、そのままにしておきます。どうもすいません。
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理由なく人を嫌ってはいけない

2023-04-22 | net & 社会

 時にはそんなにたいした理由なく苦手というか、気に入らないものがある。その代表的な人物がイーロン・マスクであった。彼を称賛する人々がたくさんいることも知っているし、その理由もそれなりに同意できる。その上でこれ以上ない成功をおさめ、まだ人生においても若い。
 別に金持ちが嫌いってわけでもないし、若い人が嫌いなわけではない。妬ましい感情が無いとは言えないが、他人が金持ちであろうがなかろうが、基本的には僕とは関係が無い。自分が金持ちであるとか貧乏であるならば、その立場で自分を考えるだけのことだからだ。しかしそれでももっと金が欲しくて、大金持ちであるイーロン・マスクが僕に何もしてくれないのはどうかしていると考える向きもある。しかしそんなこと考えたって仕方ないじゃないか。考えたところで、どうせ金など工面してくれないのだから。
 若さにおいてはちょっと年下くらいの若さだ。そんなことで嫉妬しない。それに僕は、若いからいいという考えはない。今より若くなりたいとも思わないし、若い頃に戻りたいとも思わない。また同じような苦労を繰り返したくない。
 マスクさんのことだった。ずいぶん前からこの名前はメディアに露出していたわけだが、特に興味は無かった。あるドキュメンタリーでマスク氏のインタビューがあって、宇宙のこととか電気自動車のことなどを語っていた。まあ、凄いのかもしれないけれど、そんなものかな、とも感じた。やりたいことをやりたい人がやればいいのだ。でも、ちょっと気になったのは、投資家を呼び込むためなのかどうか分からないが、ちょっと盛ってる感があることだった。既に相当な資産家で、さらに会社の資産価値も高い。それだけでも十分に資源があるように思われるのだが、さらに欲しがっている風である。まあ、そういう世界の人はそういう感じなのかもしれないが、そこに何か胡散臭いものを嗅ぎ取ってしまったというか。さらに続けて地下の高速輸送網の話もしていた。これは妄想ではないのか。絶対に無理だとは言えないかもしれないが、まあ、無理なたぐいだろう。そういうものを他の事業にも含ませているのではないか。そんな疑問がインタビューを見ていて湧いたというのがある。
 彼の会社の代表格であるテスラの資産価値は、トヨタの4倍以上の120兆円と言われている。しかしその車の生産量は100万台くらいだから、1000万台を売るトヨタの10分の1程度である。もちろんこれから伸ばすということだろうけど、同じになるだけでも相当な労力が必要だろう。要するに資産価値は期待値で、実際の実力とはかけ離れている。だからまちでテスラ社の車を見るだけでも苦労する。僕の住んでいるまちでテスラの販売店が何処にあるのか、僕は知らない。
 何らかのからくりがそこにあるはずだが、それが宇宙開発やエネルギ―関連の他の会社などとも連動しているということであれば、まだまだ勉強不足の僕には分からないだけのことかもしれない。しかしながらそれは、基本的には期待値であろう。
 そうしてツイッター社の買収の騒動があった。これもいろいろ分からないところをたくさん含んでいるが、その不可解さの基本には、彼の自己顕示が透けて見える。これ以上ない成功者が、それでもまだ称賛を欲しがるものなのだろうか。事実はそうであると言っているようなもので、そんな金を使ってまでエキセントリックな言動に歯止めがかけられないもののようだ。それらの彼なりの正しさというものは何なのだろうか。
 まだまだあるが、そのような一連のいかがわしさなどがあって気に入らなかったわけであるが、しかし最近ちょっとした変化があった。これも過去にマスクさんが言ったことらしいが、若い人がイノベーションを起こすためのアドバイスとして「基本原理に立ち戻ることの大切さ」を説いていたのだ。多くの人はそんなことはしないで、その先のことばかり考えている。しかし本当に大切なのは、もっとも基本にある真理を見つけ、そこから考えをスタートさせないと、イノベーションは起こせない、ということらしい。なんだ、それは。確かにそれこそが大切なことで、完全に同意できる素晴らしい考え方じゃないか!
 という訳で、僕のイーロン・マスク評価は揺れている。本当に彼が基本原理を大切にしているのであれば、イノベーションは起こせるかもしれない。その真理が間違っていなければだけれど。
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地元のお勧め観光地

2023-04-13 | net & 社会

 またチャットGPTで遊んでいるわけだが、地元の大村市に県外からの客を案内するとして、お勧めの場所はあるか、聞いてみた結果が以下である。

大村市は、歴史的な建造物や自然豊かなスポットが多数あります。以下は、おすすめの観光プランです。

  1. 大村湾クルーズ 大村湾を船で巡るクルーズツアーは、大村市の美しい海岸線を楽しめます。船からは、大村湾国定公園の美しい景色が一望できます。
  2. 西南戦争史跡めぐり 大村市は、西南戦争の重要な史跡が多数残されています。西南戦争の歴史に興味がある人には、史跡巡りがおすすめです。
  3. 大村市博物館 大村市博物館には、大村市の歴史や文化に関する展示があります。博物館は、大村市内にあるさまざまな史跡を巡る前に訪れることをおすすめします。
  4. 大村市立動植物園 大村市立動植物園は、さまざまな種類の動物や植物を見ることができます。動物たちの生態や、自然界の美しさに触れることができます。
  5. 奈良原公園 奈良原公園は、市内にある人気の公園です。季節によって異なる花々や、緑豊かな景色が楽しめます。また、公園内には、動物園やテニスコート、遊具があります。

以上の観光プランを取り入れると、大村市での観光も十分に楽しむことができます。また、地元の人ならではのおすすめスポットがあるかもしれないので、その点も参考にしてみてください。



 ということで、だいたいの実力がわかるのではないだろうか。もちろん聞き方や設問ではそれらしき返答があるのは確かだが、それを判断できない人間のほうに問題が多いようにも思われる。自分が知らないからAIに騙されるだけのことなんではなかろうか。そうするとAIの問題というよりも、つまるところ人間の方に問題が多すぎる、という事が露呈しているだけではなかろうか。
 まあ、面白いですけどね。
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著名人の政治発言

2023-04-06 | net & 社会

 ロジャー・ウォーターズがまたウクライナ問題での発言で非難を浴びているようである。日本のニュースを見る限りでは分かりにくい感じだが、要するに戦争には反対だがウクライナに武器供与をすることは代理戦争を長引かせることでもあり、和平を進めるうえで本当に有効なのかということであるらしい。そういう考えがあることは意見としては一定の理解があるとは思うのだが、問題なのはロシヤ側の要請があって国連でスピーチした内容であることだろう。いわゆるロシヤ擁護の立場の発言であると、多くの人々は認識したはずである。だいたいにおいてロジャー・ウォーターズは、政治的には自由主義諸国に対して批判的な発言をこれまでにもしてきた変な人ではあるのだが、それは変ではあるが一般的な西側の正義というものについても疑問がある、という考えの持ち主だからでもある。うまく理解されないような発言の仕方をするので、多くの場合は誤解を生んでいると思われるが、僕の若いころからずっとそんな人として生きてきた人なので、困ったことだが、ある意味で一貫性がある。僕らファンとしては、それでも彼の音楽性は素晴らしいものがあって、変な部分がありながら受け入れてきたということかもしれない。政治的にも、人間性も感心しないし、デビット・ギルモアと喧嘩ばかりしていい加減にして欲しいが、おかげでピンク・フロイドの再結成なんてことは夢のまた夢の彼方になっていて残念である。まあ今更ではあるのだが……。
 こういう変人だけど長い間音楽界の主流であり続けられるというのは凄いわけだが、しかしこういうことが繰り返されてうんざりする気分になるにつけ、著名人の政治発言というのは、やはり何か困ったものを含むものだと感じる。人として考えると、政治的な立場や発言をすることには本来問題など無いはずだが、要するに影響力がある人であることと、実直に音楽なら音楽分野で頑張って欲しい訳で、それ以外に余分なものが混ざるのが、残念な感じをもたらしてしまうのだろう。もちろん政治的な立場が同じなら賛同して素晴らしいということを思う人もいるのかもしれないが、たとえそうであっても、何か白々しさを感じないものだろうか。音楽家に限らず、ときどきジャーナリスティックな物言いをする著名人もいるのだが、まっとうなことを言ったとしても、ほとんどバカにしか僕には見えない。政治的発言がバカに見えるのは、本当は分かっていないのではないか、という疑いがもたげられるからだと思う。政治の世界で生きてきたとは限らない人であることは明快だし、無関係だからこそ安全なところで発言している風に見えると、いいことを言っているようでいて、その実、軽薄に見えるのである。いや、そのように感じる僕の方にも問題があるのだろうけれど……。
 こういうことを言うと政治発言こそ立場を越えて大切なことだ、という人がいる。しかしこれは一般的に言って、要するに対立の構造があるのにあえて発言することに、気分の悪さを感じることを無視している。公的な場で政治や宗教・果ては野球のひいき話などがタブー視されるのは、争いを避ける心情が、いわばマナー化しているからだろう。狭い範囲での話なら構わないが(それでも場を壊すけど)、そもそも大きな声を出して話しているのと同じようなものを、著名人の影響力が持っているのである。何であれ大声というものは迷惑さがあるので、嫌な感じを拭えないのであろう。
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