カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

宝くじが当たった不幸   トゥ・レスリー

2024-07-31 | 映画

トゥ・レスリー/マイケル・モリス監督

 宝くじを当てて調子に乗ったレスリーは、その賞金(19万ドル。3000万円弱=当時の為替としてはもう少し低いかもしれないが)を数年で飲んで使い切ってしまう。シングルマザーだったのだが、息子は事実上放置してしまったので、どこかに行っているようすだ。映画の大半は、このグダグダに飲んでダメダメ女の姿が延々と流れる。
 しかしながらこの映画は、おそらくだがアル中女の姿をさらけ出すために撮られたものではないと思われる。基本は、行ったり来たりしはするものの、人間の再生を描いている。僕としてはこんな調子がずっと続くなら、観るのやめようかと逡巡していたのだけど、ラストに向けてその苦悩の中にありながら、なんとか踏みとどまろうともしているレスリーの姿に、だんだんとリアルな人間的な質感のようなものが感じられるようになり、ひそやかな感動を覚えた。わりにいい映画だったのである。観終わってみないとわからないことだったのだけど……。
 自分のまいた種だとはいえ、レスリーは基本的にまちの嫌われ者になっている。それでも酒はやめることがなかなかできないし(むしろそのストレスが循環して酒に向かわせている)、遅くまで飲むので、なかなかまともな仕事にもならない。ほとんど見捨てられた状態にありながら、なんとかモーテルの部屋の掃除の仕事をしている状態だけれど、このモーテルの経営を切り盛りしている男に気に入られているので、なんとか辞めさせられないで、持ちこたえている。しかしながら時々過去に関係のあった人々にも出くわすことになって、ひどくいじめられることになる。そんなときにもレスリーは気が強いところがあって、却って罵倒し返してより関係を悪くしている。そんなレスリーを、やはり多くの人は許すことができないのである。
 そんな状態から復活するのだが、何も魔法は使えない。いや、一種の魔法めいていると考えてもいいのかもしれないが、魔法なのではない。実に自然に、それは成し遂げられる。いやそれも違う。これから再生の道を歩むことになることが示唆されているだけなのかもしれない。でもまあ、それでいいじゃないか。やっぱり駄目だったじゃないか、という人間が再生するということは、そういう道筋しかないのではあるまいか。多くのアル中の人々にとっても、この映画は何かを伝えることになるのではないか。実際がどうなのかは、見せてみないことには分からない訳だが……。
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日本はもう、何も学ぼうとしていない、としたら

2024-07-30 | 時事

 オリンピック自体がどうなっているのは僕には分からないのだが、これを書いているオリンピック開催前の状況で、日本の男子バレーが復活してメダルの可能性があることが報じられていた。栄光の時代から転落したまま半世紀の間、日本の男子バレーは国際的に低迷していたとされる。日本が金メダルを獲得してから、諸外国のバレーは日本の様々な技術を習得し、あっという間に追い抜き、そうして差を広げてきたのである。
 そんな日本の低迷に喘ぎながら、かつての日本のエースだった中川内は、米国にコーチの手法を学びに行く。そこでさまざまな手法を学ぶとともに、バレー先進地の彼らの言葉に耳を傾けた。そうして一番言われたことは、「かつて日本の松平をはじめとするバレーは、本当に素晴らしかった。私たちは必死になって日本に学んで追いつこうとした。だが、その後の日本は、長く低迷してしまった。日本はもう、何も学ぼうとしていない。本当に残念なことだ」と。中川内は迷いに迷い、そうして海外のコーチを招聘する道を選んだという。また日本の選手たちも、自らのレベルアップを目指して、積極的に海外のチームで活路を見出すものが現れるようになった。そうやって、日本は強くなってきたのだという。
 つまりはそういうことなのだ。これはバレーに限ったことではないのではないか。もちろん事情の異なることがたくさんあるだろうことは、承知している。しかし日本のバレー界は、明確に、謙虚に、事実を認めることから始めた。生まれ変わったのは、基本的にその気づきなのであろう。
 オリンピックの結果においては、僕はそれほど興味は無い。しかしながら、そのようにして必死になって戦っている選手やチームには、深い敬意を払いたい。そりゃあ僕も日本人には違いないので、日本を贔屓にしている気持ちはある。しかしながらだから僕らはどうするのか、そのことの方がずっと僕の関心の高い領域である。学び続ける事が今できる事になるように、その前の謙虚さこそが、誰にとっても必要なことなのだ。このような機会に気づかされるとしたら、オリンピックも意義深いものとはいえるかもしれないが。
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農耕民とは誰の事か

2024-07-30 | 境界線

 日本人のルーツとして農耕があって、皆が共同体として生きる日本独自の社会が形成されているのは、農耕民族日本人がある、という話は死ぬほど聞かされてきた日本人文化論である。多くの人にとっては、これが信仰にまでなっていると感じる。いわゆる揺るがない、当たり前で当然の事実であるという訳だ。
 しかしながらこれに納得したことが、僕自身は一度としてない。何故なら日本人のルーツは農耕民族ではないことくらいふつうに知っていることだし(というか農耕民になった歴史が西洋よりはるかに遅い)、その為に日本人が共同体で生きるようになった事実は、ほとんどない事だからだ。でも、このような感覚は揺るぎが無い人が多いようで、そう言った事実は違うといったところで、納得する人は見たことが無い。真実というのは、無駄な事実ということになるのだろうか。
 僕が個人的に日本人が農耕民族ではないと普段から感じているのは、日本人が農耕民族的な考え方をあまりしていない、とも感じるからかもしれない。僕の家はそもそも農家では無かったし、大人になって農業を仕事でするようになって初めて、ある意味での共同体的な考え方を知ったということもあるかもしれない。農業は基本的に住んでいるそばでやる場合が多くて、僕のような通いの人が共同体に入るのは、それなりに大変だった。しかもその共同体は、必ずしも皆で協力するためだけに存在するものでは無かった。いちおう水の管理など共同や役割分担をしてやるものがあるが、普段から水というのは取り合いがあって、いかに抜けがけして水を調達するのか、という競い合いがある。ちょっとでも気を抜くと、騙されるという関係にあるのだった。そういう意味では、お互いを監視し合う仲とはいえるかもしれないが、近隣関係が必ずしも良好でないのは、日本人の特徴ではなかろうか(まあ隣人関係は、西洋でも悪い人はいるだろうが)。
 僕が暮らしている地区においても、農業を営んでいる人というのは、圧倒的に少数派である。子供のころから同級生で農家というのは数えるくらいしかおらず、実際農業従事者というのは、日本全国でも少数派であったろう。地元がずっとここだという家が多数派であるにもかかわらず、農業従事者というのは、そもそも少ないのである。畑や田んぼがあるといっても、いわゆる兼業で、週末などに手入れするというところだって、そうそう多くは無いのである(僕の住む集落では皆無だ。田舎なのに)。
 そういった具合に何世代にもわたって農業さえ営んでいない人々が多数派であるのが、日本のふつうの社会の在り方だろうと思う。僕の住んでいるところが例外的な場所だとは考えにくい。もちろん以前はそうではないとはいえるかもしれないが、少なくとも農業や農耕の伝統を受け継いでいる人々が、ずっと暮らしてきたとは、とてもいえそうにないのである。
 また、僕の親世代だからと言って、すでに核家族化は進んでいた。僕の家がそもそも最初から勤め人であったわけだし、祖父も転勤族だったらしい。親戚を見回しても農業を営んでいるところは無かったし、庭に畑がある(売ることは無い)という程度は何件かあるくらいだったろう。いわゆる農家的な農耕的な考え方が何であるのか、かなりのミステリだと言ってもいいのではあるまいか。実際農耕民的な思考なんてものは、具体的に何を指して言っているのだろうか。少なくとも農耕民族的なアイディンティティを失った人々が大多数を占める国民性が、日本人なのでは無いだろうか。
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レクター博士はやはりすごい   レッド・ドラゴン

2024-07-29 | 映画

レッド・ドラゴン/ブレット・ラトナー監督

 「羊たちの沈黙」の前に書かれた原作小説の映画化である。しかも二度目。羊たちの大ヒットによって、前日譚として作品化されたように見える。基本構造は羊たちと同じように、捕まったレクター博士に連続殺人犯についてアドバイスを求めて、事件を解決に導こうとする捜査官がいる。しかしながらレクターさんは更に狡猾で、刑務所の中に居ながら、連続殺人犯と通じ合う方法を使ったりして、捜査官を追い詰めて行ったりする。要するに捕まえられた恨みを晴らそうということかもしれない。また、これが伏線になって羊たちがあることも示唆されていて、羊たちを見たことがあるものは、また心理的恐怖を味わい直すという趣向がある。基本的に娯楽サスペンスものなのだが、かつてはこういう作品が確かに多かったなあ、という感慨を味わえるそつのない作られぶりだった。
 もっとも考えてみるとレクター博士がたどり着ける内容は、優秀な捜査官たちなら、自力でもできたのではないか、という疑いが僕には感じられた。それで自ら危機を招くわけで、マッチポンプである。いや、自分でやっているわけではないのだが、観ている側にはその危険が分かっているので、なんとももどかしいという事かもしれない。愛する家族を危険にさらすわけで、微妙にやりきれないのである。もっともこれにも伏線はちゃんと張ってある訳だが……。
 神格化されたレクター博士だが、ダークでありながら、このような狡猾さをみせる人物こそ、我々は欲しているということなのかもしれない。ほとんど一種の神のような存在で、そのすごさを崇めるよりほかに無い。刑務所に居ながら、厳重に管理し、ある意味間接的にいじめながら、レクターを恐れ続けなければならない。何故ならレクターなら、なにかの方法で必ず復讐してくるからなのだ。それを止めることは、もはや人間には不可能であるかのように。
 今回は実際の連続殺人犯の狂気も用意されている。この人が恐ろしいだけでなく、人間的な弱さや、心優しさを見せることで、より残酷な行為へのコントラストが映える仕組みになっている。サイコパスとしては最悪だが、狙われた人々は残忍に殺されなければならない。そこに選ばれる要素があって、そういうきっかけがまた恐ろしいのである。まあ、悪人っぽいのも殺される訳だが……。
 ハラハラしながら映画を楽しむ、基本形がここにある。それにしても原作のトマス・ハリスは、よくもまあこんな悪魔を作り出したものである。まさに悪魔だから、崇められもするのであるが。
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埼玉散歩・さいたま新都心など(その5)

2024-07-28 | 散歩

 さて、鉄道博物館も一通り見てしまい、また飛行機の時間まではちょっとあるな、という感じである。予定時間は購入の条件の関係で変えられないらしいので、まだ観光しなくてはならない。でもまあ雨だし近場かな。
 いったん大宮まで戻ってみて、一度外に出てみるが、やはり雨である。駅前のソニックシティをぐるっと回って歩いたが、すぐに濡れてしまう感じもして、いつまでも歩くのは断念した。そごうにも入ったが買うものが無いので、すぐに出てしまう。十数年前に一度来たことがあるはずなのだが、まったく記憶が蘇らない。だいたい何の用事で訪れたものだろう。
 駅まで戻ったが、じゃあ行ったことないのはお隣の「さいたま新都心」かなと思って移動する。何やら女子率が急に高くなって、ケヤキ広場に行ったところで原因がわかる。何かアイドルなどが集まるイベントが、さいたまアリーナで開催されているらしい。複数のグループが参加しているようで、女子の団体もなんとなくいろいろあるようだ。数日前には東京ドームで韓国アイドルのイベントで女子に囲まれたが、日本には女子の人口が集中する場所があちこちにあるらしいと分かった。
 しかしながらイベント会場でないところは人通りが閑散としていて、そのコントラストが著しい。オフェス街でもあるようで、巨大なビルに官公庁のオフェスが入ったりしているようだ。大きな病院や役場の機能のあるものがあちこちにある感じだ。この場所と駅をはさんで商業施設などがあるようで、奇妙な構想の建物と、四角いショッピングモールがあちこちに見えている。さすがに歩き疲れてきた感じもあるし、夕方ではあっても飛行場で食事などもしておきたいし、移動することにする。
 で、今度はJRに乗ったが、これがひどい混雑だったのである。日曜をなめていた。さすがにラッシュのぎゅうぎゅう詰めではないにせよ、荷物を持っている人も多い中で、つり革につかまれない人もいるくらいである。結構外国人もいて、やはり観光だったのだろうか、東京駅で少し降りたが、また乗ってくる人も多く、品川で乗り換える時もまた大勢いて、夕方の移動はやはり大変なのだった。京急蒲田でやっと座れたが、残り10分の休息であった。
 おみやげは買うなと言われているので買い物は止して、何か食っておこうという思惑に反して、食べ物屋さんはどこも長蛇の列である。羽田の食堂をなめていた。ほとんど唯一と言っていいくらい並んでなかった店がカレーうどんの店で、トマトのカレーを汗だくなりながら食べた。いったい俺は何をやってるんだろう、と自問しながら、しかしうどんとしては細麺すぎないかという疑問を抱きもしながら、カレーうどんをすすった。他の客も並ぶの嫌だもんね、という仲間のような人々が多く、会話のが少ない静かなうどんタイムだった。
 万歩計を見ると珍しく2万歩をカウントしており、空港内をもう少し散歩して久しぶりに(一年ぶり、やはり昨年の東京出張以来のようだ)この日は2万5千歩以上を達成した。まったく慶賀に値する。くたびれたが達成感の方が強く、余は満足である。
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憧れの上流階級社会へのとまどい   ソルトバーン

2024-07-27 | 映画

ソルトバーン/エメラルド・フェネル監督

 オックスフォードの新入生のオリバーは、何か要領が悪いというか、田舎者のせいか、最初はろくに友達もできない。いちおう友だちっぽい顔して、数学のネクラ野郎に付きまとわれる始末だ。しかしながらちょっとしたきっかけで上流階級のフェリクスと知り合い、夏休みに彼の実家のあるロンドンからは遠く離れたソルトバーンというところに招かれる。それは立派なお城で、フェリクスは上流もなにも、由緒正しい貴族の末裔の大富豪だったのだ。執事はもちろん召使が何人もいるような城での生活は、何もかも別世界で、夕食は毎日正装して参加するという奇妙なものだった。しかしながらオリバーは、途中から変にここの生活にどっぷりとなじむような行動に出るようになり、不思議な人間関係を形成していくようになるのだったが……。
 いわゆる人との絡みに関するミステリなのだが、現代にも残る貴族社会に憧れる一般人が、どのようになっていくのかというのが一つの見どころで、圧倒的な財力と身分の差がある中に、微妙に差別の対象でありながら、したたかさもある逆転劇へとつながっていくのである。いや、厳密にはそうなのかどうなのか。
 音楽の使い方や、凝った映像にもなっていて、さらになんだか気持ちが悪い。それが愛の形なのかどうなのか僕には分かりかねるのだが、激しい愛ゆえに憎悪が錯綜している、ということになるのだろう。おいおい、大丈夫か? と途中でヒヤヒヤしてしまったが、彼にしてみると自然な行動だったのかもしれない。途中で明かされるオリバーの姿は、差別を受けるような人間とは、そもそも違うものだというのは示唆されるのだが、例えそうであっても、身分の差はどうにも埋めようがなさそうである。そう思い直してみていると、突然風景が一変してしまう、大どんでん返しが起こるのである。
 まあ、変な映画を観てしまったな、という感慨は受けるだろう。やたらに裸になるし、それはそれでコメディなのかもしれない。それが楽しいことなのかどうかさえ、僕にはどうにもわかりかねる。いわゆる共感が持てないのであるが、金持ちに憧れるという意味では、分からないでは無いから恐ろしいのかもしれない。それにしても現代にこんな世界が残っているような英国社会というのが、そもそも前提としてかなり異常なのである。
 ということで一種のファンタジーでもあるが、それが一つの批評性というとらえ方もできるのかもしれない。何かしあわせな気分にはなれないが、ミステリとしてはよく出来ているのかもしれない。ともかく、変なんだけれど……。
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埼玉散歩・鉄道博物館(その4)

2024-07-26 | 散歩

 ホテルに戻って少しうだうだした時間を過ごして、このホテルにも何やら美術館があったらしいのだが、改装中で休館だという。なんとなく残念である。雨なので屋内の施設の方がいいと思う。そこで思いついたのが鉄道博物館だった。浦和からすぐお隣の、大宮にあるじゃないか。
 実際には大宮で、ニューシャトルというモノレールに乗り換えて行く(後で調べたら、モノレールじゃなくて、なんとタイヤで走っているらしい。乗り心地はモノレールのそれに似ていたが、タイヤの外枠がレールの枠に挟まっている妙な構造をとっているようだ)。この日は日曜で、家族連れが非常に多い。リュックを背負った子供が結構いて、ハイキング気分で鉄道博物館に行くらしい。一駅で着いたが、乗客の半数が降りたのではなかろうか。
 駅から降りて、ほぼ博物館行きのための道が続いて、なんとなくワクワクする。道には古い鉄道の時刻表などが、レリーフとして印字してある。建物もかなり大きな感じで、いったい中はどうなってるんだろう? って感じである。
 当日券1600円で入場してすぐに右手の暗めの体育館のようなところに、たくさんの鉄道車両が展示してある。古いものから新幹線まで、あちこちから歓声が上がっていて、団体・家族連れ、外国人などがたくさんいるもようだった。僕もいろんな車両を見て回り、乗れるものには中に入った。電車に乗るのなんてなんとも思ってなかったが(いや、結構好きな方だとは思うけど)、動きもしない車両にのってこんなに楽しいなんて、なんだか不思議である。これは子供が喜ぶというよりも、やっぱり鉄っちゃんが喜ぶということなのではないか。そうして子供を連れて行きたくなる、ということなのではないか。または雨だし子供を連れていくにはココしかなかったんだよ、という人もいるかもしれないが、それでも初めてであれば、大人としてもいい感じじゃないか、とは思うのではないか。
 鉄道で働く人々の寸劇を見たり、ジオラマ見学などもした。個人的にはこのジオラマが特に良かったが、そういえば別の鉄道博物館でもこんな感じの見たことあるな、とは思った。そういえば、向島の東武博物館に何年か前に行ったんだった。それよりもいくぶん規模の大きなジオラマで、両方みるとさらにいいのではないか。趣もいくぶん違うようだし。
 昼時というのもあって、食堂やお弁当屋さんなどは長蛇の列ができている。お弁当を買って、外の列車の中で食べるシステムなどがあるようだ。持ち込みのお弁当などを食べるスペースもあって、やはり家族連れでにぎわっている。おじさん一人でウロウロしているのは完全に少数派で、僕は一人テクテク貸し出しの傘をさして外のスペースを見学していた。小さい箱のような電車に乗って遊んでいる人なんかもいて、中の子供が手を振ってくれる。ながめながら手を振り返して歩いて回った。子供向けの科学的な仕組みを学ぶコーナーもあったが、さすがに大人として遠慮した。いろんなものを投げつけるだけの乱暴な子供もいたりして、なかなかに大変そうなのだった。
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とにかくカッコいい北の男   コンフィデンシャル:共助

2024-07-25 | 映画

コンフィデンシャル:共助/キム・ソンフン監督

 北朝鮮の高官が政府を裏切り、南に亡命し北の最高技術で作られた偽札の合板を持ち出した。その裏切りの際に妻を殺され一時は仲間として北の政府から拷問を受けていた特殊部隊の男が、復讐と合板を取り返すために南の政府と協力して韓国内で活躍する、という話である。韓国の警察は国際協力の名目のもと、表面上は共同して捜査しているふりをするが、実際にはこの北の警察の男を監視し、妨害ばかりする。それでも能力が突出している男の行動を止めることができない。そこのあたりが物語の見どころになっていて、最悪で困難な状況にありながら、さらに強靭で狡猾な悪の権化のような亡命組織と対峙する展開を見せる。アクションや格闘シーンも迫力満点で、ハリウッドのそれより質が高いくらいである。
 僕は知らなかったのだが、主演の北の男は、大ヒットした韓国ドラマの「愛の不時着」の主人公であるらしい。アクションも素晴らしいが、なんともかっこいいのである。この人のための映画と言ってもよく、これだけのスター性のある人間なら、荒唐無稽でストイックでかっこつけのくせに鼻につかない男は、演じられないのではないか。一方の南の刑事は、さえない風貌の上に最初は臆病で失敗ばかりしていて、どうにもだらしないのだが、しかし立場を利用して北の男になんとなく協力するようになり、最後も大失敗ですべてを破綻させかねないミスを犯しながらも、友情を育んでいく。いわゆるバディ(相棒)刑事ものという側面がある。敵をしとめる時のミスには、僕は映画を観ながらかなり腹立たしい気分に襲われたものだが(だからバディものとしては、ちょっとどうかな、ということである)、結果的には最後を盛り上げるためなのだから、目をつぶらなければならないのだろう。
 一応の完結もので、確かにそれは成り立ってはいるが、続編もある。それは観ていないので何とも言えないのだが、この映画の伏線を回収するためのものではないのではないか。そうなのだが、物語としては他に膨らみようのあるエピソードがそれなりにある。大きなスジを支える事件は終わったとしても、それらのものはこの映画だけで終わってしまうには惜しい気分が残る。北の事情はわかり得ないのだが、これだけの能力のある男が南から去ってしまうのは惜しいのである。いや、だから続編は作られたと考えるべきで、観終わってからの余韻のようなものに襲われること必至である。荒唐無稽なアクション映画でありながら、このヒーローの活躍を終わらせてはならない気分になるのであろう。
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埼玉・浦和散歩(その3)

2024-07-24 | 散歩

 総会終えて、懇親会。会場は居酒屋でワイワイやる。ほんとにコロナ明けで知った人も知らない人もごちゃごちゃと飲むしあわせをかみしめる。素晴らしいですね。結局居酒屋二軒はしごする。店員さんは外国人が多く、一人一品以上注文してください、と注意される。飲む方に集中しすぎてしまった。
 宿泊のホテルは格式高き感じで高層で、部屋も広かった。シャワー浴びて就寝。何やら遠くから犬の鳴き声が聞こえて目覚めて、格式高きオムレツ含む朝食を頂く。納豆、梅干し、焼き魚、岩のり、キュウリの酢の物、たぶんポテトのフライ、マグロの身をこねたようなもの、みそ汁、ごはん、オレンジジュース。コーヒーは部屋に持ち帰って飲んだ。
 外は小雨で、傘をさして散歩する。すぐ近くに王蔵院という寺があったのだが、拝観は9時かららしく外から眺める。道を挟んで続いている境内になっているようだ。隣に小さい公園もあった。
 なんとなく駅前の方向へ行ってみると、今日の研修のために集まってきた昨日の人たちと会う。早くから準備をするらしい。偉い! 
 駅前には浦和うなこちゃんのキャラクター象があった。さらに下を見ると、浦和レッズの歴代の選手たちの足の裏の型のレリーフが並んでいた。小野選手のものを写真にパチリ。レッズ・ファンは熱狂で有名だが、やはり街をあげてのものなんだろう。
 その後線路に沿って、何故か今度は北を目指して歩く。なんとなく距離が稼げたらいいという感じもあって、今のうちに歩いておこうと思ったのだ。何しろ梅雨入りしていると、歩けない日が多くなる。ワンちゃんの散歩だってままならない。僕は基本的に万歩計で一日8,000歩を目標に歩いている訳で、歩けない日が続くと万歩計の記録がマイナスになっていく。これが精神的に堪えるのである。週の目標であるとか月の目標であるとか、年の目標の歩数がちゃんと記録に残る。これがマイナスだった年は、2012年の12年前に一度記録したのみなのである。まさか今年をそれ以来のマイナスにしてはならない。そういう思いが、僕を散歩に駆り立てるのである。
 ということもあって、線路と道路が交差するところ(後で調べたら国道463号線・越谷浦和バイパスだった)で左に折れて、しばらく行くとハローワークがあった。この道路をまっすぐ行くと所沢まで行けるらしい。ふむふむ。
 さすがに僕以外で散歩している人なんかいない。いつものことだが、ひとは何らかの目的地が無いのに歩きはしないものなのだ。
 右向かいに少しデカめの埼玉りそな銀行があって、そこから今度は標識としては巣鴨方面の道を行くことにする。要するにここから戻る訳だ。右手に保育園、そうして教会をやり過ごしてなんとなくにぎやかになりそうな予感のある道である。アジアンな食堂(しかし韓国中心かな)があり吉野家がある。そうして警察署があり、右手に鐘のある塔のようなものが見える。これがさいたま市役所らしい(県庁と市役所が浦和にある訳だ)。ここで曲がれば泊りのホテルだったようだが、自分の勘で歩いていたので、次の次あたりで左に曲がると、また県庁についてしまった。どんだけ埼玉県庁が好きなんだって話である。
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元々いきなり世界性がある作家   もういちど村上春樹にご用心

2024-07-23 | 読書

もういちど村上春樹にご用心/内田樹著(文春文庫)

 村上春樹に関する論考集。村上春樹が素晴らしいという思いを、さまざまな角度で論じられている。元は著者のブログで書いたものを下敷きにしているようだ。著者の内田先生は、村上春樹が日本の主論壇で正当な評価がされていない感じに不満があるようだが(実際村上を無視するものを含め、明らかに嫌っている日本の古くからの批評家はそれなりにいる。もちろん嫉妬している人も含めてかもしれないが。批評家のすべてがそうとは言えないまでも、作家になれない批評家というのは、それなりに存在する。村上はそのような批評家を過去に何度もあざ笑っている。要するに村上自身も不満があるということなのだろう)、村上春樹は確固たる世界的な評価の高い世界文学者である。そうして実際にその文学性は、驚くほどに世界水準で抜きんでている。いったいそれは何故なのか。それは、読むもの一人一人に対して、実は私のために書いている物語なのではないかと思わせるものを、村上が書ける作家だからなのである。そうして日常のことを書きながら、異界の世界へ出入りして、そうでありながらそれなりに訳が分からない。
 村上春樹のそのような描写の解釈であるとか、テーマ性であるとか、音楽であるとか、料理であるとか、アイロン掛けであるとか、父性の不在や、邪悪な不条理性なども論じてある。なるほどね。それらは僕らを虜にして離さない、村上春樹の魔術のそれぞれである。なんだか最近は、ノーベル文学賞を受賞するほぼ確実性について盛り上がっている感もあるけれど、それもどうだかよく分からない感じになっている。昨年久しぶりに長編小説が発表され、もちろん小説としてはベストセラーになったものの、これまでの村上作品のように爆発的には売れなかったようにも感じられた。村上春樹は国民的な作家であるだけでなく、繰り返すが全世界的な作家であり人気があるが、普通の男にはできないことをさらりとやり遂げて、しかしながらそれを何とも思っていない風を装っており、嫉妬される。そういうことを繰り返して、毀誉褒貶が絶えることが無いのである。
 僕もご多聞に漏れず中学生からの読者で、おそらくコアな村上ファンだ。何度もファンレターのようなものを書き、それらに媒体を通してお返事も頂いたこともある。当時は感激し、それらは家宝にしている(たぶんあると思うが)。村上春樹についてわからないことがあったら、ご用心を読んで、さらに混迷を深めてほしい。
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埼玉散歩・浦和(その2)

2024-07-22 | 散歩

 埼玉県庁の周りを歩いたところで、実のところ観光という感じでは無いので、そういえば今日泊まるホテルを確認しておこうと思った。で、その方角を見てみると、ひときわ高いビルが見えてきた。なんだあれがそうか、と思うとなんだかもう目的は果たした気分になり、行くのをやめるのだけれど、じゃあどこに行く当てもない。そのまま気分的には線路と並行して南側に行くことにする。
 駅に近いこともあるのだろう、人通りは多い。都心とは違うと言えば違うが、にぎやかな街である。この日は土曜日ということもあって、買い物風の人が多い。夫婦やカップルといった、いわゆる一人で歩いているわけではない感じの人たちが多いのである。自転車も時折通っていて、やはり平坦な街なのだろうと思われる。高い商業ビルが多い中、背の低い住宅もある。そうしていくつもの高層マンションがあちこちにそびえている。交通の便がいいので、通勤に便利な住環境が整っているということだろうか。
 そうして実際に鰻屋が結構あるのである。居酒屋風の店だったり、いかにもの老舗風だったり、料亭風だったりする。メニューが表示してある店の値段をちらりと見ると、3,000円から6,000円というような感じだ。うーむ、やっぱり鰻はごちそうなのである。それにしても昼飯で6,000円か……、やはり抜いておこう。
 そういうところをなんとなくぶらぶらしていたら、前方に木の茂ったところが見える。神社かなんかだろうと思って近づくと、果たしてそうで、境内なのか公園なのか、蚤の市をやっている。いたって適当な感じの人々が木の下とか簡易テントなどを張り、ゴザとかなんだかの上に骨董品や陶器、雑貨や服など、さまざまなものを並べている。高齢率が高い感じだが、それなりの客がいる。皆冷やかしているのかどうか分からないが、僕はほとんどすり抜けるだけである。話しかけられると面倒な感じもする。何しろ買う気がまったく無いのだ。
 よく見ると少し戻ったところが神社のようで、「調神社」と書いてある。なんと読むのか分からないが、「しらべ」では無かろうとは思われる。手水舎にはウサギが水を吐いており、池にはウサギがやはり水を出していた。帰りに分かったが、狛犬ではなく狛ウサギだった。そうして携帯で調べて分かったが調(つき)神社と読むそうだ。なるほど、月にはウサギがつきものだもんね。
 神社は鬱蒼として日影が多く涼しかったが、境内から出ると日差しが強い。また適当にぶらぶらしてみるが、少し駅から離れたので住宅街である。ほとんど店は無くなって、空が広くなる。しかしながら遠くの風景に山が見えない。こういうのは決定的に九州とはべつの場所だとわかる。九州で山の見えない風景なんてそうそうない。関東平野おそるべしである。ここらあたりまで武蔵野の国ってことなのだろうか。たぶんそうだろう。歴史や土地勘に疎い遠い場所だけれど、なんとなくは聞いたことがある。東京が巨大になったから周辺というとらえ方をしてしまうと、いろいろと間違ってしまう。江戸なんかよりこっちの方が古いんじゃないだろうか。知らんけど。
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北と南の複雑な関係   モガディシュ 脱出までの14日間

2024-07-21 | 映画

モガディシュ 脱出までの14日間/リュ・スンワン監督

 舞台は90年のアフリカ・ソマリア。韓国と北朝鮮は国連加盟のため激しいロビー活動を展開していて、アフリカ諸国に働きかけをしていたという事らしい。そういう訳でソマリアのモガディシュという街に大使館を置いて、国を挙げての活動をしていた。お互いにライバルなので妨害をかけたりして政府機関にとりいっていたのだが、そういう時に市民武装勢力が隆起し内戦となる。現政府に近い両国の大使館は武装勢力の暴動の波に襲われ、最終的に力を合わせて国外脱失を図ることになるのだったが……。
 最初は北朝鮮大使館が武装勢力に襲撃される。着の身着のまま、暴徒に殺されるかもしれない状況に放り出される。頼れるところが無く、よりによって政敵である韓国大使館に頼らざるを得ない。何しろ命には代えられないではないか。しかし最初は韓国の態度は冷たい。何しろロビー活動では散々妨害され、面白く思っていないのである。しかし状況は状況で、仕方なく受け入れることになり、そうして韓国大使館も盤石な防御は出来なくなり……。
 緊迫しているが、同時に喜劇的でもある。犬猿の仲がそう簡単に和解できるわけがない。しかしながら命がけでもあり、時間も限られている。武装勢力は東洋人なんて虫けら同然の扱いしかしていない。そもそも大使館の人間なんて、政府軍の協力者だったわけで、明確に敵なのである。頼れるのは付き合いのある国同士の大使館しかない。方々連絡を取るが、なんとかイタリア大使館が国外退避の飛行機に空きがあるということで、そこを目指すことになるが、その道のりに武装勢力がわんさか待ち受けているのである。絶体絶命にどうしたらいいのか、という展開になっていく。
 もとは同じ民族の仲間なのに、北と南に分かれている国の悲劇がある。韓国と北朝鮮の関係は、本当に複雑なものがあるようだ。一緒に食事をとるシーンがあるのだが、北の人々は、なかなか韓国が提供したメシを食うことができない。腹ペコで仕方ないのだが、恵んでもらうような形では、食べることができないのだ。ここらあたりはかなりアジア的な心情だと思うのだが、大使館の家族は、子供たちを含めてソマリアにやってきている。そういう政治的にはプロではない人々が、複雑な心情のもとに別々の国で屈辱的に暮らしている現実がある。お国の為もあって、個人ではどうしようもできない事なのに、それに逆らうことができないのである。こういうのは、可哀そうとか、そういう次元の問題では無いのである。
 基本的には娯楽作なので、気楽に観てもいいのだと思うが、北と南問題はこれからも切実なテーマとして取り扱われることになるのではないか。残念ながら、そう簡単に終わりそうには無いのだから……。
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埼玉散歩・浦和(その1)

2024-07-20 | 散歩

 今回は埼玉・浦和である。お仲間として親しくさせてもらっている協議会の総会に呼ばれたのである。3日前にうちの総会のような会にお呼びしてたので、お互い様なのである。この協議会の中心的な役割をしているところが埼玉なので、毎年総会は埼玉ということになる。ちなみに昨年は川越だった。
 浦和なので京急を品川でJRに乗り換えて、そのまま行ける。なんだかかなり近い感じで、実際に近いのである。ただし乗り換えの際、僕は間違えてグリーン車の車両の前で待っていたらしく、慌てて違う車両まで走らされた上、その車両がボックスシートだった。乗客も多くて窮屈きわまりない。こういうのは、事前に調べておく必要がありそうだ。東京の電車はロングシートだと決めつけてはいけない。特にJRは。まあ、長い距離走るんで、そういう人向けの配慮なんだろうね。
 そうして普通列車なのに、どんどん駅を飛ばして走る。こういうルールも田舎者にはよくわからないところだ。だから目的地には早く着くわけだが、細かく降りたいのなら山手線とか京浜東北とかに乗れって事のようだ。まあ、アプリ次第なので、そのあたりはあんまり考えなくてもよさそうだけど。
 ということで、空港から一時間くらいで着いてしまう。反対廻りだと新宿に行くくらいの時間である。開式の時間までは当然余裕があって、しかしビルも多いし会場のあたりを付けるために先に歩いてみる。駅前ビルの中を抜け賑やかな通りを歩いたら、すぐに突き当たってしまった。なんだ、こんなに近かったのか。会場の部屋に行くと事務局の人たちがご飯を食べていて、いわゆる休憩しておられる。荷物を置いて早々に辞したわけだが、あちらも気を使って、ここらあたりは鰻が名物だと聞かされた。実はダイエット中なので、一人の時は昼食はとらない。誰かいるとそんなわけにもいかないが、一人で散歩することができれば、腹はすかない。どういう訳か13:30くらいに時間が経過すると、完全に腹の虫がおさまる。だからぜんぜんつらくないのである。さらに飯を食わないと、午後からあんまり眠くならない。一石二鳥なのである。でもあんまり痩せないのだが。
 さてしかし外はそれなりに炎天下で、荷物も上着も置いてきたとはいえ暑い。鰻には心動かされるところはあるのだが、食べないのだから歩くよりない。目の前の標識に県庁って書いてあって、すぐそばが県庁だった。なんで浦和に埼玉県庁があるのか、とは思うが(後で調べると埼玉の歴史ってそれなりの面白いことになっているようで、考えてみると今は合併してさいたま市になっているから県庁所在地はさいたま市が正しいのだが、浦和にあることには変わりないのである)、いちおう埼玉県庁の入り口だけ見学する。浦和は(というより埼玉全般においてであるが)だいたいにおいて平野なのだが、この県庁あたりの前の道路の形状については、谷というか坂道の窪みめいた場所になっていて、ちょっと不思議である。そうしてまた上って行って建物がいろいろあるのである。坂道と言っても、長崎とはまったく別物なんだけれど。
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洗脳から逃れて自由に生きる   「集団主義」という錯覚

2024-07-19 | 読書

「集団主義」という錯覚/高野陽太郎著(新曜社)

 副題「日本人論の思い違いとその由来」。日本人が集団主義的だというのは、いわば常識化している言説である。僕はそうではないと知っていながら(これまでもその説は怪しいというのは聞き及んでいたので、完全には洗脳されていないと思っていた)、これを読むまでは、本当には知らなかったことを知った。日本人が集団主義でないことを、これでもかというほど実証している訳だが、それでも集団主義だという思い込みは、海外からも日本人からも抜けてはいない。その謎がどうしてなのかも証明してある。証明しているが、それでも呪縛から抜けることが、簡単でないことも解説してある。それほど根深い問題が、間違いなのに完全に流布している。それが日本社会であり、西洋人の思い込みだ。何でもステレオタイプに理解すると話が早い。そうであると認める方が、お互い分かり合えると誤解できる。それほど思い込みというのは厄介なものだ。それを思い知ることは、人間として生きていくためには必要なことのように思える。必要なことなのに、それを備えていない人間の方が多数である。それを絶望するか、はたまた喜ぶべきか、読んで確かめてみるべきだろう。
 実を言うと、そのような洗脳から逃れられない日本人論を、喜んで納得して読んできた個人の歴史もある。ブログを見返してみると、昨年も日本人の働き方を論じた西洋人の本を読んでいた。その内容をそれなりに正確に理解したうえで、今思い返してみると、その実証的な調査に基づいて論じてある論旨は、ある程度間違いであることにも今気づかされた。彼女らの考えのもとに間違ったバイアスの認識があるので、日本人を誤解していただけだったのだ。ちゃんとした学者の研究なのにこれだから、日本人論は難しいのである。おそらくちょっとした正確さをもって日本人を見ている外国人は、コンマ1%も居ないことだろう。
 もっとも同時に、例えばアメリカ人が日本人に比べて個人主義的か、という問題がある訳だ。正しい答えとしては、ちゃんと実証すると、日本人とアメリカ人は、同じ程度には個人主義的ではある。むしろ日本人の方が少し個人主義的なのだが、誤差の範囲かもしれない。今のアメリカの大統領選前の雰囲気を見ても分かる通り、アメリカ人というのは、非常に集団主義的な人種でもある。様々な人種が混ざり合い、アメリカとして団結するためには、個人主義だという価値観を持ちながら、集団主義的に物事を把握していかなければならないようだ。個人主義的な日本人の目から見ると、かなり奇異なる光景なのだが、そのことに気づかないほどに熱中して集団主義を邁進しているのである。そうして彼らは、個人の自由を犠牲にして自分たちを保護し、ひどく差別的な政策を自己正当化していくのである。彼らに個人主義的な価値観が少しでも残っているのなら、そんなことにはなり得ないのである。
 それでも日本人は、これからも集団主義的であると信仰してはばからないだろう。ほとんど馬鹿みたいだが、それが洗脳というものである。もっと自由に生きていきたいなら、迷わず読むべき必読書であろう。
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最終日、乗り換え間違えたり(その4)

2024-07-18 | 散歩

 僕はアプリで水道橋駅で事前に検索していたのだが、聞くところによると後楽園の方が厚労省に行くには都合がいいらしい。丸の内線で一本。ドーム球場の反対側に歩いていくと駅ビルがそびえていて、いろいろ路線があるようだ(というか丸の内と南北線が交差している)。この辺りはちょっと歩くと本郷三丁目駅もあるし、JRと都電の水道橋駅がある訳で、何処にだって行けるようなものだ。まあ、電車は乗り換えたらどこにだって行けるわけだが……。
 ここで事務局を預かる一人が、都合で合流が間に合わないことが分かる。じゃあ霞が関で、ということになるのだが、何しろ彼が基本の資料なども持っている。先に行って挨拶しているうちに来るだろう、ってことで移動する。先生とはお別れ。なんと講師料渡すの忘れていたが、後で振り込んでね、ということだった。いい人だ。
 別会の会長も一緒だったのだけど、そちらの方が土地勘に詳しく(愛知の人と埼玉の人)、ほとんど後をついていく。便利便利。厚労省はセキュリティがやかましく(官庁はどこもそうだけど)、代表者と人数、電話番号など確認されたりするが、割合素直と言えばそんな感じで事が運ぶ。しかし何階だっけ? 担当者の名前なんだったっけ? とかはあって、しかし何とか見つけ出し面会にこぎつける。思ってたのとはちょっと違う感じの人だったけれど、結構陳情その他うまく行き、全国大会にもちゃんと参加してくれるそうだ。ありがとうございました。
 終了後昨年までの担当者とか後援名義に動いてくれた職員さんとかにも挨拶して、終了。いったん外に出て、目の前の日比谷野音前のカフェでコーヒーを飲む。緑が豊かで素晴らしいところである。ここでも話が弾んで本当に有意義だった。皆さん実際に日頃から素晴らしい活動をしておられる。頭が下がるし、僕らなんかと付き合ってくれることに対して、ちょっとだけひけ目さえ感じる。もう少しやれることがあるんだよな、反省反省。でも一歩づつ。頑張らないで、まじめにやろう。
 昨日までの雨のために靴底がはがれてしまった靴を履いている人は、靴を買いに消えて、後は三々五々に帰ることに。ここでしゃべりながら歩いていたせいで、一人の方と一緒に丸の内線に乗ってしまい(ほんとは日比谷線だと勝手が良かった)、隣の銀座で降りて乗り換える。さらに浅草線に乗り換えるつもりが、改札に成田空港行きと書いてあったので一旦外に出て、再度別の入り口探して入り直すが、よく分からない。駅員に聞くと、羽田でも問題なしという。いったいどういう事かわからなかったが、同じホームで大丈夫だった。驚かせないくれよな。しかし一方的に僕の勘違いだったわけだが。
 本当はまだ時間があったのだけど、つれの人たちは疲れ果てていて、おみやげ買ったりしたいのでとにかく空港に行きたい、とのことだった。まあうだるような暑さだし、銀ブラは断念して一緒に乗って帰る。空港内をなんとなく散歩して歩数を稼ぎ、読書したり水飲んだりして時間稼ぐが、なんと便は30分近く遅れた。この時間帯は地方への出立便が多すぎるのである(基本的に遅れがちだ)。飛行機の中では、疲れて文字を追うのがつらくなってしまった。それでも読んだけど。
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