カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

恋愛が禁じられていた頃   キャロル

2017-12-31 | 映画

キャロル/トッド・ヘインズ監督

 デパートで売り子のアルバイトをしているテレーズに、娘へのプレゼントを買いに来た妙齢の女性・キャロルが一目ぼれする(いや、お互いに良い感じだったかも)。売り場に手袋を忘れてしまうが、それがきっかけになって二人で食事に行くことになる。そういうことでつきあいが始まる訳だ。テレーズには同棲している恋人がいるが、結婚はしていない。キャロルは離婚しようとしているが、その時代は同性愛が禁じられていたようで、二人の関係が夫に知れると、ちょっとまずいことになるようだ。そういう危険な状態でありながら、二人の思いは急速に燃え上っていくのだった。
 後で知ったが、原作はパトリシア・ハイスミス。あの「太陽がいっぱい」などの原作者だ。当時は別のペンネームでこの作品を発表し、ベストセラーになったそうだ。自身の体験を元にしているという事で、やはり時代として同性愛がはばかられるという背景があったのだろうと思われる。
 今の時代は、異性との恋愛劇を描いても、なかなか純愛は描けなくなっているように思う。さらに禁断の愛といっても、そういうハードルを描くことも難しいかもしれない。それほど恋愛に対する人々の認識はずいぶん変わったものだと思う。あとはイスラム文化圏などでは無いと、悲恋のような圧倒的な障害は描きにくいのではないだろうか。さらに恋愛至上主義のようなものがあるようにも感じる。要するに以前の時代には合わなかった恋愛劇が、今の時代性に見事にマッチしていて、この作品を輝かせているという印象をもった。恋愛としては実は普通の筈なんだが、これがどうしようもなく切なく難しいのである。
 ほとんどこの主演の二人の世界を描いている訳だが、それ以外の世界は、なんだかとても乾いていて別のもののようにも思える。それが恋の力のようなものであるというのは、観ている側にはよく分かる。別ちがたい感情を引き裂く無常は、あくまでも冷酷にどうにもならないのである。
 今ではもうこういう映画はたくさんあるので、僕なりに慣れているというのはある。要するにまだ慣れていない人のためにある映画なのかもしれない。ある意味で実に自然な流れだが、それでは恋愛の衝撃度などは感じられないだろう。もちろん身近にそういうことがあると、それなりに驚くかもしれないが、しかしやはりそう特に取り立てて騒ぐことはしないだろう(当事者でないかぎり)。美しい映画であるが、そういう意味で観る人の感傷の違いは大きいのではないだろうか。
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止めるのは最大の勇気だ

2017-12-30 | 境界線

 暴力はイカン、という認識は誰にでもあるものと思う。それを堂々と肯定するような人は、そんなにいない。いたとしたら問題なはずだ。そのはずなのに、実際問題としたら、躾などで叩くなどの体験的な話で、いわゆる体罰的なことを肯定している人は多いように思う。体験的に必要だったと、そう感じている人が多いというか。
 昔はよく殴られたなどと懐かしく話す人もいる。教師や先輩はもちろん、親からもけっこう殴られたらしい。さらに指導的な立場になって、愛の鞭を振るわなければならない場面を語る人もある。子供を叱る際、どうしても必要だったという話はよく聞く。ひとの子供だから勝手にしても関係ないが、聞いていてなんとなく座りが悪い。一所懸命の気持ちは分かるのだが、なんとなく不幸なことだったように感じるからだろう。
 確かに殴られても仕方のない人はいるにかもしれない。そのような怒りをぶつけたくなる人というのはある。また、跳ねっ返りの年頃の子供など、静かに叱ったところで言う事を聞くはずが無い、という思いもあるだろう。ちゃんとして欲しいという強い願いが、肯定の正当さを、感情的に担保するのかもしれない。それはいつの間にか暴力の範囲から外れて、そうではない何か、に具体的に変化するような心持があるのかもしれない。
 人間の中に暴力的なものがあって、だから暴力のような行為は存在する。そのこと自体を否定してもしょうがない。いわば人間の人間たる属性だ。しかしながら問題は、やはりそれでも肯定していいのかどうか、かもしれない。特に教育的な場面で、肯定せざるを得ない体罰というのはあるのか。さらにいうと、人間的に仕方なくても、やはり最終的には咎められることでは無いのか。
 解決策としての暴力は、やはり肯定の根拠にはなりえないのではないか。人間的に仕方ないという感情がある事と、実際になされた暴力に対しての対応は、だから別のものだろう。いわゆる犯してしまったものは、責任を伴うものだということだ。そして、それは過ちになるという事だろう。
 もちろんその重さには、判断の必要なところだ。全部退場というのも一つの選択で、それは連鎖の抑止には必要なことかもしれない。それでも無くならないという考えもあるが、その都度それは厳しく判断するのも、また必要なことになるかもしれない。特に組織としての規則であれば、そう決めるなら例外は作らない方がいい。厳しいことだが躊躇をすると、信用そのものが失われる。暴力を肯定する人は、その信用を自分に問わない人なのではなかろうか。
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こんな会社に勤めているのは不幸なんじゃないか   サンドラの週末

2017-12-29 | 映画

サンドラの週末/ジャン=ピエール&リュック・ダルデルヌ監督

 病み上がり(おそらく精神病)で仕事に復帰するにおいて職場で投票があり、彼女を復帰させるか、やめさせてその分ボーナスをもらうかという選択がある。一回目はあっさりと彼女の復帰は否決されてしまう。皆ボーナスをもらいたいのは当然で、条件が悪過ぎる。しかしサンドラに同情した同僚が社長に掛け合い、月曜に再投票をするという約束を取り付けてくれる。過半数に必要なのは九票。サンドラは苦しみながらも一軒一軒に足を運んで、投票を依頼しに回ることになる。
 こういう投票が成り立つのかどうかという疑問が最初にあるので、どうもしっくり物語に入り込めない感じがするのだが、まあ、外国のことだし設定上のフィクション的な危機という事で了解するより無い。サンドラはおそらく病気で長期にわたって休んでおり、その穴を埋めるべく皆が頑張って働いた末、週末の残業代も含め、ボーナスをもらって当然という労働者の意識がある。しかし彼女がかえってくると、その取り分であるボーナス(一人頭1000ユーロ。十数万円)を放棄しなければならない。また、彼女を復帰させたからといって、いずれ誰かの首を切らなければならない状況に代わりは無いとも考えられる。
 サンドラもそのような相手側の仕方ない選択であったことに対して理解はしている。しかしそれでは自分は失業し、やっと病気が治って働けるのに収入が絶たれてしまう。パートナーの給与では子供と一緒に今住んでいる場所に住み続けられないかもしれない。
 協力の約束を得られたり、やはり断られたりして一喜一憂し、精神状態はボロボロに傷ついていく。何か精神安定剤のようなものも頻繁に飲んでいる。やっぱり止めてしまおうと諦めたり、パートナーになだめすかされして思い直したり、車の中でラジオの歌を歌ったりする。
 そういう酷い精神状況が延々と続く。サンドラが投票を依頼することで親子の仲の悪くなる人もいるし、パートナーとケンカして離婚を決意する人もいる。逆にこのような選択に心を痛めて、サンドラに懺悔のような感情を抱く同僚もいる。仲の良かったと思っていた同僚からは、居留守を使って避けられたりする。皆この条件にありながら、究極の選択を迫られている訳で、サンドラの復帰そのものに反対するというよりも、自分たちの生活やこれからの不安などを勘案して、皆の感情も激しく揺れ動いている感じである。
 普通に見ていてこれは限界だな、という気分になるが、まさに映画の方も、限界に向かって突き進んでいく感じだった。結末も一応は意味があるのかもしれないが、日本人の感覚からは、こんなことが無くてもそうなるのは当然という気もするので、外国人の考え方というのはずいぶん違うものなのだろう。それは見てから判断してみてください。
 また、働くのは生活の収入の為という理由しか語らないのも、日本人の感覚からすると少し不思議という感じもした。自分がどれだけ仕事が好きか、又は会社に貢献できるか。場合によっては自分の仕事の重要性などは語られることは無い。あなたたちだってボーナスが無くて困るだろうけど、こちらは生活が困る、どうする? って感じなのだ。外国人の労働観っていうのは、本当にこの映画のように単純なものなのだろうか。僕には少し不思議です。
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鳥の顔って確かに怖いかも   鳥類学者無謀にも恐竜を語る

2017-12-28 | 読書

鳥類学者無謀にも恐竜を語る/川上和人著(技術評論社)

 題名を見ると、なぜ鳥類学者が恐竜のことを語るのか、という問題がありそうだが、既に知っている人もあるだろうが、恐竜を祖先に持っているらしいのが、鳥類だからである。恐竜は、恐竜としては絶滅した訳だし、恐らく恐竜は爬虫類のようである。トカゲがデカくなると、なんとなく恐竜っぽいことになるような気がする(なんとかサウルスとは、トカゲの意味である)。しかしながら、そうとばかりではなく、鳥類はどうも絶滅した恐竜と縁のあるルートが生き残って、後に鳥類になったものらしい。だからこそ鳥類の特徴などから類推することで、今は化石でしかその存在を知ることのできない恐竜のことが分かるかもしれないのである。そうしてそういう恐竜のことをあれこれと説明した本が、この内容である。
 文体にユーモアがあふれていて、人によってはちょっとこの調子に慣れるのに時間がかかるかもしれないが、内容的には情報量が多く、目から鱗が落ちることになるだろう。ときどき冗談なのか本当なのか考える時間も必要になる場合もあるが、しかしその冗談に使われている内容であっても、オタク的に啓発されるものが混ざっている。いわゆる博識と時に偏った情報が混在していて、なかなか味のある内容なのである。まあ、それは読んで体験してみてくれればよいだけだが。
 今の時代の恐竜に関して言えば、子供向けに着色したものが多すぎて、変に誤解をしている人がいるのではないかとも思われる。考えてみると生きて動いている姿を見た人は誰も居ないので、見つかった骨の化石などから想像を働かさせて映像化している訳だが、一般的にみられる恐竜たちが、本当にあのような(とは勝手にこっちも想像している訳だが)姿なのかは確定している事実なのではない。皮膚や毛がどうなのかは分からないし、色だって不明だ。さらに鳴き声だってわかるわけが無い。一応草を食べていたり肉食のものがいたりしただろうことは分かっているが、実際にどんな風に狩りをしたり、何を本当に好んでいたのかなどは、少ない化石の証拠から類推していくしか方法が無い。さらにその子孫である鳥類の生態から、遡って考えることが出来るかもしれないという事が、この本を読んで改めて分かる訳である。しかしながらその想像力も、やはりさまざまな証拠をもとに多岐に亘って類推する必要がある。そういうことを細かくやっていくと、とても付き合うのが難しい研究になってしまう。そういう部分を楽しく紹介しようという、工夫に満ちた本だと言えるだろう。イラストもふんだんで、柱脚も(ふざけたものも含め)なかなか読ませる。
 面白い本というのは、トイレの時間を長くする。妙な告白だが、そういう事実がこの本の面白さを証明している。もちろんトイレで読まなければいけない本ではないが、読みだすと手放せなくなる類の本ではなかろうか。
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寛容さの対局の世界を描くと   沈黙―サイレンスー

2017-12-27 | 映画

沈黙―サイレンスー/マーティン・スコセッシ監督

 遠藤周作の原作を読んだのは、高校生くらいの時だったと思う。衝撃を受けて宗教の恐ろしさが身に染みた訳だが(作者の意図とは違うかもしれないけど)、そういう作品をまた映画で観るなんて、まったくマゾ行為だと我ながら思った。しかしながらなんでまたそんなに前の作品を今なんだろうという疑問もあったが。
 予想通り大変に気が重たい拷問の続く映画だった。それ自体を評価にしてしまうと、とても見る気になんてなれないだろう。観た方がいいとは思うが、事実、それでいいのかどうか。
 さらにクリスチャンの母を持ちながら何の信仰心も無い上に日本人である僕という立場からすると、この話の細部にはいろいろと言いたいことや考えさせられることがある。そういうのを語りだすと感想どころではないし、映画の本筋から外れてしまうだろう。映画自体はキリスト教の信仰についての話だが、考えようによると、やはり宗教の独りよがりな話かもしれない。それは監督の意思を素直に読み解くという事を越えて、複雑に観る者に与えてしまう偏見のようなものだろう。また現代の時代性を考えてみても、この不寛容な江戸時代というものが、場所によっては存在するかのような気もする。それならそういう場所については、本当に放置することがキリスト教にはできるのだろうか。いや宗教を挟まなくとも、はっきり言って近代民主主義にそれが出来るのだろうか。
 含んでいるものは複雑だが、ストーリーは単純だ。日本に布教しに行って迫害に会い棄教してしまった宣教師を探しに(そのことを信じられずに)、危険を承知で二人の宣教師がまた日本に赴き、そうしてその現実の厳しい迫害を目にする。彼らにとってのキリスト教は絶対的なもので、そうであるからこそ日本の迫害の現実は、厳しかろうと何か希望の持てるところのあるものだったのかもしれない。当時の航海のありようからすると、一方通行だっただろうことは予想されることで、いくら楽天主義者であったとしても、事実上自殺に行くようなものである。そこまでは時代性から分かり得ないということは多少は言えようが、宗教的な精神の強さがあるが故の、ある意味での過信があっての無謀さであろう。しかしそれは、おそらく想像以上に強大な力の違う一方的な迫害なのであった。
 そういう背景そのものも、実は一方的な見方であるが、当時も今も、少し分かりにくいもののように思える。もう昔のことなので、分かりようもないだろうし。さらに原作もそうなのだが、事実と混ざっている事柄があることから、何か史実をもとに作られた話のような印象も受けるが、基本的にはフィクションである。そこのあたりはつくりの上手さがあってのこともあるが、だからこその弊害もそこにある。
 映画の中で印象的な人物としてキチジローという人がいる。キリシタンのようだが、踏み絵を何度も踏み、いわゆる裏切りながらも信仰を捨てない人物である。ある意味では現実的な人なのかもしれない。狡猾さもあり哀れであり、そして憎むべき悪魔で、取るに足らない唾棄すべき人である。しかし僕がこの映画を観てもっとも教訓的に感じたことは、ある意味では自分なりに純粋に生きているこのキチジローという存在こそが、もっとも近づいてはいけない人生の罠だと思う。出会わないで生きられた人間は、それだけで幸福と言えるだろう。しかし残念だが、そのような人間は現実に存在する。そのことに気づきながら、人々はどのように生きているのだろう。
 恐ろしい作品を観て、今後のことを考える。後悔する前に身につけておきたいものである。
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遠い世界のパンの耳

2017-12-26 | 

 子供のころにパンの耳を食べていると言ったら、なんとなく貧乏くさいような印象があったように思う。パンの耳は捨てるところの代名詞のようなもので、それをわざわざ食うというのは、それなりに苦しいことの告白のようなものがあったのかもしれない。また、子供というのは残酷というのもあるし、苦味が苦手ということもあって、パンの耳を敬遠してしまう心情というのがあったのかもしれない。
 しかしながら僕は、積極的にパン耳だけを食べるのが好きだという事ではないにせよ、パンの耳自体が嫌いな訳では無い。今となっては牛乳が苦手だからやらないけど、子供のころには牛乳とパンの耳というのは、なかなか相性のいい食べ方だったような記憶がある。食パンの真ん中の部分はそのまま食べても大丈夫だから、耳の部分だとそんな風にして食うというのがあったのかもしれない。
 大人になってみると耳の部分というのは、ご飯でいえばおこげのようなもので、それ自体に味わいがあって、なかなかいけるような気がする。いろいろ何かにつけて食べなくても、独立して食べられる優れものの部分かもしれない。もちろんワインなんかと食べると、特に美味しいだろうけど。
 朝からパンを食べる習慣もないし、学校給食を食べるような日常でもない。そうすると食パン自体を、めったに食べる機会が無い。サンドイッチなら時々手にすることもあるけど、そうすると耳の部分はついていない。バランスを取ってパンの耳を食べる一族がいるのだろうか。居たとしてもそうした一族との付き合いも無い。
 考えてみるとパンの耳との縁というのは、ずいぶん遠いものだ。これからもたぶん予測として遠いままという気もするが、あえて考えない限り遠いままなのかもしれないです。
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時間を越えて、国を越えて   黄金のアデーレ・名画の返還

2017-12-25 | 映画

黄金のアデーレ・名画の返還/サイモン・カーティス監督

 第二次世界大戦下、ウィーンで裕福に暮らすユダヤの家族があった。その時養母のようによくしてくれた美しい伯母の肖像画が部屋には飾られていたのだが、当然ナチスに奪われてしまった。戦後その絵はさらに著名になり、オーストリアのモナリザのような扱いになっている。アメリカに渡って生きのびた姉妹は、姉が亡くなりその絵に関することが書いてある手紙が残り、さらにオーストリア政府が、ナチスから奪われた品物を返還するという動きを見せていた。元の持ち主であることは間違いないものの、国の秘宝化されている絵が、年代を越えて本当に持ち主の元へ返るのだろうか。亡くなった姉も、基本的には美術館へ寄付する意向を持っていたと思われる。ところが法的な解釈の仕方によると、わずかだが一縷の望みが残されていた。当初はお金目的だけだった若い弁護士は、この裁判に全身全霊を賭けて臨むようになっていくのだったが…。
 脚本が良く練られていて、その展開を見事に少ない言葉で表現している。映像も美しく、場面転換が自然に時代を越えて映し出されていく。静かだが演技も素晴らしく、そのまま物語に自然に引き込まれていく感じだった。
 個人的なことだが、今年観た映画では、ダントツに一番である。大人になったらこのような映画を観るべきだろう。いや、子供のころからこういう映画を観ておいた方がいいと思うが…。
 ナチスものになると、特に残酷すぎる運命を描いたものになると、反戦色や正義感が強く前面に出過ぎて食傷気味になる場合がある。それだけ人に訴えかけるものが大きすぎるためであるが、この映画ではそういう感情もきっちり描きながら、その内面の複雑な思いも、丁寧に描き出していると思う。ナチスは絶対に許すことは出来ないが、しかし自分自身ですらその傷の深さに、自分を苦しめることから解放できないのだ。
 戦争を体験したものに戦後は死ぬまで終わらない。繰り返せば、さらにもっと時間を要することだろう。現代に生きるものにその責任なんてものは無いはずだが、人間の感情としては、世代を超えて携わっていくことが必要になっていくのだろう。その思想そのものには僕は考えとしてくみしないが、立ち止まって考えることも必要だと思ったことだった。
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サンタが来ない家

2017-12-24 | culture

 職場でクリスマス会があるので、恒例でサンタの格好をさせられる。近年は予算の範囲ではあるが、事前にだいたいの希望を聞いてプレゼントを買っているらしい(担当の職員が)。プレゼントの袋に付箋紙で名前が書いてある。それを僕が配る訳である。お礼を言われて毎回申し訳ないような気分になる役割である。
 それはいいのだが、そういう訳で当たり前だが、誰もサンタさんがプレゼントを持ってきたとは本当は思っていないと思う。自分の子供が小さい頃はサンタさんは居たはずだが、いつの間にかまったく気配が感じられなくなったものである。
 僕の母親はクリスチャンだから、子供のころにはサンタが来た記憶がある。僕には下のきょうだいも居たので、しばらくはサンタが来た。24日には七面鳥で無くチキンを食べて、翌朝になるとプレゼントがあったような記憶がある。何故か、7つ上の姉が一番はしゃいで盛り上げていたような気もする。今考えると、親とグルになっていたものと考えられる。姉もサンタさんだったに違いない。おもちゃなどのほかに、靴下にキャンディなんかも入っていた。確かにしあわせな記憶だが、いつまで続いたのかよく分からない。何故か父がいたかどうかもあんまり記憶にない。
 子供のころの記憶でいうと、サンタがいるかもしれないというのは、小学一年生くらいまでだったと思う。何故ならサンタが親だと教えてくれた友達とケンカした覚えがあるからだ。でもなんとなくは分かっていたような気もする。分かってしまうのがつらかったのだ、たぶん。
 ある本を読んでいてびっくりしたのだが、最近は高校生になってもサンタからプレゼントをもらう人が5割に達するらしい。いや、厳密には親がそうしているという事だろうけれど、中には親からのプレゼントとは別にサンタからももらうのだという。これを夢のある話だと考えている親が多いらしいが、かなりクレイジーなんではないか。日本は大丈夫だろうか。
 自分の子供がいつまでサンタを信じていたんだろうか。上の子は、しばらく信じていたいと思っていたフシがある。ともあれ彼らが小さい頃は、24日の夜はなかなか寝ないので、こちらもサスペンスな夜更かしをした。そういう時期があったことは良かったが、それが長く続くのは、やはり御免だという気がする。子供が大人になって本当に良かった。
 大人になってサンタがいなくなって、クリスマスがつまらなくなるかというと、そんなことは無い。そういう習慣はあっても良いし無くてもいい。誰もがするのなら参加しないし、自分がやりたければ、勝手にやるだけことである。そういう感じが一番いいのではないだろうか。
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こんな父にはなりたくない   きょうのキラ君

2017-12-23 | 映画

きょうのキラ君/川村泰祐監督

 原作は漫画らしい。映像を見ていても少女マンガだろうとすぐに分かるが、それでこそこの作品の良さである。
 恐らくいじめが原因で前髪で目を隠して人の顔を正面から見ることすらできないネクラのクラスメート女の子(ニノ)が、前から憧れているキラ君に突然告白し、何故か受け入れられて付き合うようになる。キラ君は心臓に病気を抱えており、それが原因で笑う事すら忘れていた。しかしこの天然で純粋なニノと付き合っていくうちに、確実にキラ君そのものが変化していくのだった。
 まあ、ストーリーはどうでもいいのかもしれない。学園生活の中で行われる可能性のある恋愛のシチュエーションの中で、少女の妄想を実現するとしたらどうなるのか、という事を忠実に再現した映画である。憧れのキラ君は、横柄なところはあるが理想的なカッコいい男の子。ちゃんと影も過去も女子のライバルもいる。そういう中で、時にはぐいぐいキスしてくるし、ちゃんと嫉妬もしてくれる。
 キラ君役は中川大志という人だが、ネットでみると当然のごとく福士蒼汰との比較がみられる。本当に似ていて、途中でなんだか分からなくなるくらいだった。まあ、ちょっとだけ不良っぽいという感じは確かにしたが。
 僕は美男では無いという自覚があるからどうしようもないが、女の子の多くは、このようなカッコいい男の子と、学園生活での妄想生活があるのではないだろうかと妄想した。こんなことがあると、確かに楽しいでしょうね。僕も映画を観ていて多少恥ずかしいとは思うものの、やっぱり楽しいな、と思いました。もうこの時代に戻りたいとは思わないけど、こんな映画を観て恥ずかしいと思うのは悪くないです。
 そういう映画なんでケチつけても仕方ないが、ニノの親の世代としては、ニノの父親の気持ちはこれっぽっちも共感できなかった。下手をするとこの子に生涯恨まれても仕方のない、どうしようもない親だと思った。子供は親の持ち物じゃないし、感情を逆なでされるような暴力を一方的に受ける存在では無い。もうちょっと考えましょうね。まあ、原作の所為かもしれませんけど。
 ということで、特にいい映画という事ではないけど、娯楽作なのでいいのである。
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マクダの引き返せない生き方

2017-12-22 | 雑記

 マクダ・ゲッペルズはナチスの良妻賢母の象徴として有名な人だ。建築家と家政婦の間に生まれた私生児で(のちに両親は結婚するがすぐに離婚したようだ)、後に母はユダヤの男性と再婚しマクダも当初はユダヤ系の性を名乗っていた。貧困などもあり実父とも交流はあった(養育問題など)とされる。
 年頃になり20上の実業家と結婚。その後離婚はするが、莫大な慰謝料などで裕福だった。そういう中でナチスのゲッペルスの演説を聞いて興味を持ち、ナチスの集会などに顔を出すようになる。美しい人だったことと、ナチスといえば極左政党でもあり、財界との橋渡しの出来る人物という事で、すぐに党と馴染んでいくことになる。ゲッペルスも夢中になったようで、二人で共にすることも多くなる。そうしてヒトラーとも出会う。
 ヒトラーに対しても愛があったとされるが、ヒトラーは政治のために結婚は拒んだようだ(のちに有名な愛人はいるが)。ヒトラーが取り持って、マグダはゲッペルスと結婚する。その後6人の子を産む。前の夫との子も養子縁組にしたようだ。
 マクダには結婚前にも愛人がいたようだが射殺されており、結婚後も以前付き合ったことのあるイスラエルの建国に関わった活動家(ハイム・アルロゾロフ)とも連絡を取っていた。後にイスラエルで暗殺されるが、ゲッペルスが裏で糸を引いていたと言われている。
 ゲッペルスは結婚後浮気をし、そういう事でもマグダは苦しんだ。ヒトラーが仲介し、ゲッペルスは愛人と別れさせられた。二度と会わないという誓約書も書かされた。
 ヒトラーも自殺しその後夫のゲッペルスは首相になるが、無条件降伏を拒否。マクダは6人のわが子を殺し、恐らくゲッペルスと共に自死した。ナチスの妻や子供まで罪に問われないだろうという忠告もあったようだが、生き残ってもゲッペルスの子として生きることは辛いだろうし、復讐を恐れてのことだったともいう。
 マクダの心情というものは計りかねないが、何か急激に坂を上ったり下ったりしたような人生のようにも思える。歴史には名前が残ったが、生きているときにそのことを考えたことは有ったろうか。ひとの一生はワンウェイであることは間違いない。しかし引き返せない人生というのは、選択として恐ろしさのあるものと思う。
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このような大統領が選挙に勝てる気がしない   未知への飛行-フェイル・セイフ

2017-12-21 | 映画

未知への飛行-フェイル・セイフ/シドニー・ルメット監督

 1960年代の米ソ冷戦時代の世相を反映した映画。米国爆撃機の編隊に、誤ってソ連への水爆投下の命令が下る。当然間違いだから取り消そうとするが、さまざまな妨害が重なり、さらに特殊事情の為訓練では無く職務を全うするための決まりごとを、逆にパイロットたちはまっとうする行動をとらねばならなくなる。マニュアルに則って、大統領の直接の指令も無視するしまつである。仕方がないので自群の戦闘機で編隊を打ち落とそうとするが、全機は無理。さらに何とソ連にお願いをして、自群の戦闘機を打ち落とす作戦を展開する。何しろ打ち落とせなければモスクワに水爆を投下してしまう。当然ソ連はその報復として反撃をするだろう。そうなると事実上人類は滅亡するだろう。
 白黒映画で、ほとんど会議や電話などの場面のみでお話が展開する。それは同じルメット監督の名作の「12人の怒れる男」と似たような作風かもしれない。大変な危機に米国軍隊のお偉いさんは大混乱。この機に一気にソ連を叩こうとする強硬派や、ソ連自体の陰謀説をぶつもの、上官の命令を受け入れられないもの、そもそも味方に攻撃を加えなければならない苦痛に耐えられない神経のものもいるようだ(当然だろう)。さらに米国大統領は、もしもモスクワに水爆が投下される事態に陥ったのなら、世界大戦を防止するためにニューヨークにも水爆を落とすという判断を下すのである(同じような犠牲無しに、ソ連が報復を諦めるはずが無い為)。もう無茶苦茶である。
 映画としては緊張感があって、名作という声も多い作品である。冷戦当時のことを思うと、大変なリアリティをもった恐るべき作品であったというべきかもしれない。派手な特撮は皆無だが、演出もなかなか考えられている。絶望とは何か、衝撃を受けた人も多かったのではないか。
 という事で簡単に僕の感想を言うと、そうではあるが、やはりこれらはあり得ないとしか言いようのない話という印象をもった。このような危機感はずっとあったと思うし、このような事故もあり得る状況はあるだろう。そういう部分に対してはとくに合意するものだけれど、それを受けての大統領の判断は、ちょっと人間離れしていると思う。そのような人間的な合理的判断というのは、哲学や倫理問題のような考え方の実験としては成立しえても、個人の大統領としての立場として生み出されるものでは無いように思う。ちょっと特殊すぎるのである。いくら大統領の権限があるとしても、米国軍がこれらに従うとも考えにくい。さらにその後の米国世論が、大統領の判断に納得することは無いだろう。それくらい人間は身勝手だし、それが民主国家の悲しい性だと思う。
 「シン・ゴジラ」もそうだったけど、映画を作る側の人は、国を動かすようなリーダーに過大な期待をかけすぎているのではないか。彼らも人間だし、もっと間違うことを想定して映画をつくってもいいのではないか。そういうことが、リアリティという気もするんだが…。
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深くは考えないから上手くいく

2017-12-20 | 掲示板

 別段奇をてらって言っている訳では無いのだが、ものごとは、基本的にあまり深く考えない方がいいと思っている。はっきり言うと、物事を深く掘り下げて考えようとすることは、多くの場合害悪をもたらすものであるとさえ思う。
 石橋をたたいてわたったり、後先考えずに先走るというのも、程度問題である。そういう場合が、あるにはある。しかしながら特に、多くの人は、何かの対象について、少し掘り下げて考えることを推奨する考えに縛られているように感じる。
 僕はある団体に長く所属していて、ある一部の先輩から、本当に口を酸っぱくして言われたのは、物事を何回も掘り下げて深く考えろ、という事だった。その当時は僕もそれなりに素直なところもあったので(ところもあったというだけだが)、まあ、そうかもしれないと考えたりして、うんうん唸りながら深く掘り下げて考える訓練をしていた。そうして考えて出した答えというものに対して、さらに疑問が投げかけられて、大抵は思うようなことが出来たためしは無かったが。
 まあ、反省すべきところは僕にはあったとは思うが、それが僕の人生において、特に意義深い糧として蓄積されたという覚えがない。結局僕なりに考えなおして、失敗が積みあがっただけのことであるようにも思う。さらに考え直して思ったことは、やっぱりそんなに深く考える必要は無かったな、という実感かもしれない。むしろもう少し考え方の方法のようなものに工夫して、単純とまでは言わないまでも、シンプルに素直に考えるという事がもっとできたと思っている。
 もちろん考え方の目的に対して、一方に良いことであっても、必ずしも他方にとって良いという事ばかりでは無い、という事はある。そういう一種善良な多方向性をもった結論というのは、結局害が無いばかりか、意味のないものにしかなりようがないという事はある。そういうものが、本当にやるべきことなのか、という事に対しては、かえって疑問がわくという事はある。そもそも労力を費やすべきことなのか。根本に立ち返ると、そういうことになる。
 今は何というか、それなりに走りながら考えるという感じはあるかもしれない。やる前にあれこれ考えてからスタートするより、ちょっとくらいスタートした後になって考えた方がいいように思う。それは必ずしも浅い考えであるという事では無くて、そういう風に考えないと、ちっとも現実的ではないという事かもしれない。やりだして気付くことというのはたくさんあって、そういうものはやっぱり何か走り出さなければ分かり得ないものなのではないか。分かり得ないものを走る前に考えてしまうと、やっぱりその分のロスが大きすぎて、修正するのが難しくなったり、失敗と確定するまで気づかなかったりするように思う。やる前の自分なりの深い考え方の達成感は、物事を見誤る原因になりかねない。自分の見方を曇らせることになりかねない。危ないのは、そのような素直さに対する自分の強さのようなもので、自分をあまり強く保たないためにも、現実を素直に見る余裕があった方がいいと思う。
 ある程度深く考えすぎないようにすることは、精神衛生上も悪くない。深く考えてない自分が悪いのではなく、そういうものだという割り切りに自分を置くことかもしれない。そういうルールの中に自分がいる。だから考えきれないのではなくて、考えていないだけのことなのだ。それは能力とは関係ないから、自分を責める材料にもなりえない。
 深く考えないことで前に進んでいけることは多いと思う。ただでさえ問題はたくさんだし、個人の能力には限界がある。そうしてやっぱり、一ミリでも前に進んだ方が、見えている風景は違うだろう。考えないで行く方が、視界は良好なのである。
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寂しくても、近寄ってくる人には注意が必要だ   八月の鯨

2017-12-19 | 映画

八月の鯨/リンゼイ・アンダーソン監督 

 なんだかすごく昔の有名な女優の共演という事で著名な映画。そういう訳で高齢率が異常に高く、この映画に出ている人で現在生きている人なんているんだろうか?
 小さな島の岬の家で暮らす老姉妹。夫には共に先立たれている。姉は目が不自由なようだ。そんな姉の世話をしながら妹は、姉の頑なな考えに手をこまねいている。訪れる限られた人々との交流はあるが、基本的には二人だけの寂しい日々である。皆は親切に接してくれているのだが、やはりそれぞれに事情があって…。
 アクションなど一切なしの静かな演出ながら、心の葛藤を見事に描き出している。会話がゆっくりなので、僕なんかには英語の勉強になったりした(話している単語が、日本人にもよく聞き取れる)。
 年を取るのはなんだか悲しいというのは分かるが、これほど切実なのもなかなか少ない気がする。さらに外国の作品なので、あちらだと年をとってももっと頑張ろう、などと言いだしかねない。なんとなく日本的な心情を描き出したような作品と言えるかもしれない。会話自体は西洋特有の大げさな修飾の多い社交辞令だらけだが、心の中の言葉は、ちゃんと皆心得ているのである。僕なんかは自己中だから、彼らのようには相手のことは分かっていないかもしれない。そういう意味では、やはり年を取ると人間というのは深みが増すと言えるのであろう。もっともそれすら分からなくなる可能性はあるのだけれど。
 ちなみにこの姉妹。実際の年齢は妹の方が15ほど上である。それぞれサイレントの時代から活躍し、お互いに100本以上の作品に出演したという。ググったらやっぱり二人とも亡くなっておられました。
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長い夜

2017-12-18 | 掲示板

 僕は日常的に酒を飲むので、どこか酒を飲む日常というのを当たり前のように思っているところがある。もちろん下戸という人達がいるらしいというのは、頭の中では分かっている。それに体調のことを考え(させられて)休肝日だってあるので、自分自身が酒を飲まない日がある。入院して何日間か連続して飲まなかったこともあるし、10代以前の記憶はほとんど無いにもかかわらず、その頃には飲まなかったはずだ。だから飲まない日というのは、理解しているのである。しかしその、飲まない日常というのが、やはり今一つピンとこないというか、僕は自己中だから、理解しようとしてないというか。
 でも時々飲まない人の日常のことを聞いていて、なるほど、それで成り立つのか、とそれなりに驚く訳だ。
 以前知人の玄関のところに、ドアが風などで閉まらないようにだろう、重石がわりに缶ビールの塊をビニールテープで巻いたものが置いてあった。その色あせた缶ビールを見て、当然中身が入っているのを見て、ちょっと愕然とするものがあった。その人は「いやー、下戸にはこれくらいしか(缶ビールの)使い道が無くて…」と言っていた。
 吉行淳之介の短編(エッセイだったか)に、女の人が生花をもらって、高級ウイスキーか何か(たぶん洋酒)をドボドボと捨てて花を生ける話があった。読んだのは高校生くらいの時分だったろうけれど、十分その恐ろしさは理解できたものである。
 酒瓶などが溜まると邪魔になるというのは理解できる。しかし中身があるものでも邪魔になるなんて、ちょっと想像を超えている。もちろんつれあいは、そう考えているのかもしれないが。
 夜に酒を飲まないと、時々本当に時間を持て余す。テレビなんかを見ていても、特に面白くも何とも感じない。やることはあるはずだが、酒を飲めないまま何もやることをしなくていいなんて、とても不都合な感じがする。そのまま眠るのが、とても変な感じがする。そうしてやはり眠れるのかとても不安になる。早く朝になってしまえばいいのに。そう考えるだけで夜が長くなるような気もする。でもなんとなく眠くなってきて、しかし眠いと思いながら寝られなかったらどうしようと思う。飲まない日は、そんな余分なことを考えるから長くなってしまうのかもしれない。
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志ん魚、ふたたび   の・ようなもの の・ようなもの

2017-12-17 | 映画

の・ようなもの の・ようなもの/杉山泰一監督

 もちろん有名な森田芳光監督デビュー作の、その後を描いた作品。というのは僕のようなコアなファンに対する説明で、一般の人には何のことやらわからん話かもしれない。
 師匠のそのまた師匠の十三回忌に一門会をやることになるが、スポンサーの依頼で、その当時の弟子であったが失踪している志ん魚(しんとと)というのを探すことになる。やっとのことで探し出すが既に落語とは縁遠い何でも屋をやっており、話をするのは断られる。しかしこれは一門にとって大問題であるようで、何とか取り繕ってもらおうと奮闘させられる志ん田(しんでん)の格闘を描いている。
 元になっているお話の主人公は、もともとものすごく話が下手で、実際の役者さんも、本当に演技をしているのか疑わしいほどの大根役者であった。今でもあまり変わらない感じはあるが、これはどうにもならないという感じが映画の土台を支えており、何とも言えない可笑しみと悲しみを誘うのだった。僕は高校生くらいの時にその映画を観て、そんなに面白くも無い話であるはずなのに、すっかりのめり込んで何度も観た。いわゆる映画にはまり込むきっかけになった作品といっていいかもしれない。一般の人が面白がって観るような作品では無いと思うが、マニアックに人を引き付けるようなところがある。なんとなくつかみどころは無いが、面白いのである。その後僕は落語も聞くようになり、そのバカバカしさに翻弄される。それはいいが、とにかく不思議な作品なのである。
 で、年を経ての続編だが、助監督をしていた人が作ったようで、確かに森田作品のような感じはある。なるほどたくさんのオマージュのある作品なんだろうな、と思う。ただし、森田作品とやはり違うのは、やはりちょっと説明的なところかもしれない。そういう距離感はやりすぎるとシラケるし、まったくやらないと訳が分からない。そういうものが、やはり一番難しいところかもしれない。
 落語というのはある種の演技なんだろうけど、役者の演技が上手いからといって、落語の話が上手いとは言えない。その逆もしかりだろう。喋りだけなのに特殊な芸能であるのは確かで、やはり噺家の人が話さないことには、いわゆる落語らしい可笑しみは少ない。話自体が面白いから、ある程度はその話の力で笑わせられるという事はあるんだけれど、やっぱり話者が誰かという事と、その話しぶりにこそ価値があるという事だろう。志ん魚役の伊藤克信という役者さんは、失礼ながら個性が強すぎて演技が上手いとは言えない人なのだが、確かにこの落語の面白く無さに、味があるような気がしてならない。それが映画というものかもしれないが、映画全体に流れる不思議なトーンになっているのである。でもやっぱりある程度は人を選んでいて、普通の映画のつもりで観ていると、素直に面白くは思えない人もいるような作品なのかもしれないが…。
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