カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

廃れたものをどう更新するか、それが問題だ   太秦ライムライト

2018-03-31 | 映画

太秦ライムライト/落合賢監督

 ちなみに太秦は「うずまさ」と読む。京都の撮影所のある場所らしい。
 長年チャンバラ劇で斬られ役だった男が、時代の流れにあらがえず、若手に役を奪われ寂しくなってきている。そんな中新人女優の殺陣の指導なんかもしている(その後女優には芽が出る)。いよいよ引退と自ら田舎に引きこもるまでになるが、元師匠として再度撮影所からお呼びがかかるのだが…。
 ほとんどノスタルジーだらけの寂しげな展開が続くが、斬られ役とはいえ、殺陣に精通した玄人芸として、多くの信頼を集める人物の物語である。時代の流れにあって多くを語らず、ある程度は仕方がないと諦めているし、また自分の力も確実に落ちている。しかしどうしても諦めきれない心情を捨てることが出来ない。周りもそのことを重々承知しているからこそ、何とかこの男を引き立ててやりたいと願っている。そういう中で、本当にやっと最後に大きな舞台が巡ってくるのだった。
 凄いといわれても、映画を観ていてもこの役者さんがある程度落ち目であるのは見て取れる。それは演技ばかりでは無くて、顔に特徴のある存在感がありながら、何か地味な人生を送ったのかもしれないそのものの姿が現れている。寡黙に日々を送る姿は確かに格好よく描かれているものの、何かその未練がとても哀れである。やっぱり引退は避けられないし、同情だけで生きて行くには厳しい社会なのだから仕方ないではないか。
 そんなことをどうしても考えてしまう映画で、ちょっと浪花節的な感じもあるかもしれない。例えばヒロインは最初から動きもいいし(演技は素人らしく大根であるが)、才能があるのが一目でわかるが、本番の苦労はワザとらしい。主人公の男もどこかまどろっこしい性格が見え隠れしていて、なんだか素直に応援する気持ちが揺らいでしまう。まあ斬られて倒れる技に、なかなかの迫力があるのは確かだが。
 時代劇は廃れる運命だとは僕は思わないが、廃れるものは廃れるのが当然だと思う。そういうものにノスタルジーを感じるからこそ成り立つお話なんだから仕方ないが、新しいものに転換できないものは、早々に退場してもらった方が平和である。それがなかなかできない世の中だから、いろいろ弊害が起こるわけで、迷惑な話なのではないか。
 でもまあ未練があるとやめられない。それは人間の持っている性のようなものなのだろう。まったく悲しいものである。
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四ツ谷くらいからまわってみる

2018-03-30 | 散歩
 そとは既に雨が落ちてきていて、ホテルに近い焼き鳥屋に入りました。まずはビール注文したら、お隣の外人さんに持って行ってました。ひと悶着やってましたが、僕のじゃないかと話しかけたら解決しました。
 その後その外国人さんは、お冷を二杯注文され、おそらく中国人留学生とインドネシア系の留学生とディスカッションしながら乗り切っておられました。メニューにないし、わけわかんないですよね、確かに。



 でもこのお店、ほんとに最悪なところでした。ビールが出てくるまでもずいぶん間があったので、ビールを待つ間に注文も済ませてました。でもビール2杯目くらいでやっと付け出しが来て、その後15分くらいして日本酒飲んで、その後20分くらい待って焼酎飲むころにやっと冷ややっこが出てきました。また焼酎お代わりして、20分くらい待ってからようやく最初の注文の焼き鳥が出てきました。他の客はどんだけ辛抱強いのか、もうきょろきょろしてましたよ、僕は。
 実はカウンター席だったんで、仕事ぶりは分かります。目の前でオヤジと留学生の一人が黙々と焼き鳥焼いているのは分かります。でも何とか焼きあがっても、伝票つけて運ぶための窓口のようなところに皿を置いても、店員さんが誰もとりに来ようとしません。そのまま最低10分くらい放置して、もう置かれている皿が満杯って感じになってやっとおもむろに店員が運ぶので、もうほとんど冷め切ってるんですよね。ホントに残念。あーこれはダメだな、って思いながら酔うしか方法が無い。つらいです。
 腹減ってたんでやっと来た焼き鳥は、がっついて片づけるように食べました。それで5000円弱ってところ。やっぱり途中で帰れば良かったな。



 結局部屋飲みで、平静を保つことができました。



 実は風邪気味だったんでよく寝たのは良かったかもしれません。風邪薬も飲んでました。外は雨みたいだな。



 新聞読んで朝食食べて。



 一応ぶらっと行きましょう。





 一度トイレに帰って、やっぱり出発しよう。いけるいける。





 四ツ谷駅まで一度のぼります。





 前もここ散歩しました。いいところですね。





 ホテルオークラ側。



 ちょっといりくんでるところ、赤坂離宮側を選択。



 警察は多いけど、なんとなく静かです。





 またビル街に戻ってくる。



 陸橋わたってみる。



 もう30分は無い感じ。そんなに遠くないはずだけどな。
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そばに居たら困った君だけど   ジュンのための6つの小曲

2018-03-29 | 読書

ジュンのための6つの小曲/小谷田奈月著

 ジュンというちょっと特殊な感性をもった少年は、トクというギターで作曲をする少年と出会う。しかし興味を持ったのはトクが弾くギターの方で、ジュライという名前を付けて盗もうとする。楽器に興味があったのだ。ジュンは天性の歌い手で、しかし純粋に一般的な歌手なのでは無く、自分の生きている表現を歌にせずにはいられないようだ。人間という生き物を越えたような、妖精のような存在で、だからまわりの人々にはまったく理解されていない(されるはずがない)。ところがトクとの出会いの後に、不思議とまわりとのつながりが出来ていき、そうして豊かな感受性が発揮されるような音楽の世界も広がっていくのだった。
 ちょっと説明するのが難しい類のキャラクターである。読んでいると分かるのだが、ちょっとした障害の疑いもあるはずであるが、しかし変わった感性という範疇に収めて物語が進んでいく。本人は進学も難しいという感じだ。同級生などは付き合うだけで仲間外れにされかねない。そういう少年世界にあって、少し自分自身をもっているトクという少年が、ジュンの才能を認めながらも、葛藤していく様が見て取れる。音楽的な才能のある一部の人間の、さらに感受性に優れた人にしか分からないジュンという特殊能力者に、翻弄されながらも惹かれていくという事なのだろうか。何しろ本人にはまったくの自立性もないし、その不安定な立ち位置は変わりそうにもない。夢のような自分だけの世界観で、ただ歌を歌うのみである。
 これが小説世界なのかもしれないな、という素直な感想も持った。不思議くんの独自の世界に寄り添って、何かそれが理解できるような気にもなってしまう。常識的な軌道からかなり外れた世界であるにもかかわらず、共感できる力がある。だけれど本人が、その理解をさらに妨げるような奇行ばかり繰り返す。普通ならまったくダメなものなのだが、そうしてその無理解に対しても怒りを感じさせられるのだが、ジュンの持つ不思議な才能を応援したくなる心情になって行く。小説は断片を切り取って未来は分からないのだが、恐らく何か世界を変えていくような芽が出ているようなことは分かるようになっている。
 普通ならこのような小説は途中で投げ出してしまうものだけれど、不思議と最後まで引き込まれてしまった。独特の小説世界にはまり込むのなら、この作家は注目すべきかもしれない。
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またハブられた?

2018-03-28 | 散歩
 日産の店で人だかり写真撮ってる人が多かったので、僕も混ざってパチリ。
もうなんて言う車なのかわからんけど、スポーツカーいいですね。海外ユーザー向けなんだろうか。



 有楽町駅方面へ歩きます。





 数寄屋橋公園



 で、山手線くぐります。



 商業地区からオフィス街へ、ガラッと変わる感じですね。



 なんかカメラ持った人がいたけど、何を映してたんだろう。



 よく分からんことがいつの間にか行われていて、そうしてすぐに人が集まる。そういういつも飽和状態のまちなのですね。



 昼ごはんも落ち着いて、みな仕事に戻ったでしょうか。



 日比谷公園見えてきました。


 なんかイヴェントの準備っすかね。





 こっち側が僕らのフィールドって感じに思えるようになってきました。





 裁判所だっけ。頑張ってください(なにを)。



 あのあたり、騒がれてる外務省かな。もう中の人たち大変だろうね~。もう誰も死なないで欲しいな。




 さすがに疲れて少し休憩後に会議に出席。何事もなかったようにみなさん発言されて、僕は総会前で大体のところは確認できてたんで(でも厳しいことが書いてあるよ、実際は厳しいな)ふむふむと資料見まわしておりました。17:30分には終了。疲れた。



 確か前回ね、懇親会があるようなこと聞いたような気がしたんだけど、またはぶられたかな。いくつかのグループは固まってさようならしました。



 なんかみんなスマホもってたむろしてたんですが、待ち合わせってばかりでもなさそうで、新しいアプリかなんか出たのかもしれません。大人も遊んでますな。



 この辺は飲みに行く組だな、たぶん。



 あっちはまだ買い物だろうか。



 僕はとりあえずホテルに荷物を降ろさなければ。



 で、部屋からの眺め。スカイツリー側の窓でした。



 シングル満室とのことで無駄にツインの部屋でした。



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正義を語るジャーナリズムはダメではないか   ニュースの真相

2018-03-27 | 映画

ニュースの真相/ジェームズ・ヴァンダービルト監督

 ブッシュ息子大統領の選挙の時に、ブッシュの空軍でのダメぶりをスキャンダルですっぱ抜いたジャーナリスト・テレビ番組があった。ところがその中の資料の一部は、完全に裏の取れていないものが含まれていて、ブッシュ側の反撃でそのことを取り上げられて逆に番組が窮地に立たされる様を描いている。
 日本にも似たような事件があるようにも感じたが、実話をもとに映画化されたものらしい。それなりにドラマとしてよくできた作品ではあると思うが、いかんせんもとになった話の正義感は、どうにもダメな話のように感じられたのも事実である。事実のために多少の間違いがあってもいいのだという姿勢は、どうも左翼の側にはよく見られる論法で、まったくどうにも救いがたい信念なのではあるまいか。
 スクープとしてブッシュ・ジュニアはダメ人間であるというのは、面白い題材なのかもしれない。そういう人間を大統領にしていいのか? そういう疑問や正義感というのは分からないではないが、結局選挙期間中にそういう情報を流すという事は、一種の政治的なテロと一緒である。過去がどうとかいうのは確かに許しがたい材料が混ざっているのかもしれないが、現在の大統領の能力というものとは、つまるところ別問題である。そういう極めて政治的な誹謗であるからこそ、当局は慎重に調査し、スキャンダルの出所を精査しているに過ぎないと思う。それがたとえこの物語のように、相手も怪しいし騙されているような場合であっても、やっぱり使ってしまうのはよくないのである。その代償が大きく、ジャーナリストとして失脚してしまったというのであるのは、きわめてまっとうな教訓という気がする。それでも繰り返して同じようなことを繰り返している日本のマスコミもいる訳だが、ダメなものはダメだという教訓を何も学んでいないに過ぎないのではないか。
 モノの観方の公平さを失うジャーナリズムは、要するに全部失墜して欲しいと改めて感じた映画だった。
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人は死んで街も変わる

2018-03-26 | 散歩
 こっちの方向は実に適当。



 あ、東京タワーが見えるな。ふむふむ。





 御成門駅あたりのようだ。





 公園になってて、増上寺あたりまで行けるんだろう、たぶん。





 大門あたりなのかな、地下鉄では通るんだけどな。



 あっちが浜松町あたりだと踏んだな。たぶん。



 これは消防署みたいだな。



 あのモノレールみたいなのは、ゆりかもめだろうか。



 ガードくぐって確かめてみよう。





 うーん、たぶん間違いないや。以前青島幸男が都市博を中止させた時はここはどうなるかと思ったけど、ビル髙いのが林立しましたね。



 そんな意地悪ばあさんも今は亡き人。時代は変わるもんだ。









 あっちが銀座だな。



 あれ、日テレのからくり時計も写真撮ったんだけどな。無いな。ま、仕方ないか。

 また銀座行ってみよう。



 新橋跡の親柱、なんだって。







 やっぱり外国人多いですわ。アジアが一番西洋1割ってかんじですか。日本人より多いかもです。


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めったにないが見られないことも無い   ひるなかの流星

2018-03-25 | 映画

ひるなかの流星/新庄毅彦監督

 都会へ越してきた純粋な田舎娘が、人間関係(特に女性)をつくることに問題のあるクラスメートのイケメン男子と、最初の出会いからいい感じで絡んでくるこれもイケメンの担任教師との三角関係の中で、葛藤する映画。最初から圧倒的にイケメン教師へと思いは傾注してしまうのだけれど、どういう訳かそんなに障害が無いにもかかわらず揺れ動くところが少女的かもしれない。あまりにも恵まれた恋愛環境の中にあって、恋敵との友情も育まれていく。結局都会の人間はみんな親切なのである(そんな話ではないのだが…)。
 しかしながらこの映画を観ていて、おじさんとしては、どうしても教師の方がずるいような印象を受けるのも確かだ。彼なりに後に葛藤していることを知ることになるが、大人なんだから当然という感じかもしれない。それより謎めいたヤンキー青年ながら、恋に動かされ心を開いていくクラスメートの方がいくぶんか素晴らしいという感じだ。少し女にモテすぎるきらいがあるが、しかし一途な感じが萌えるところかもしれない。
 田舎の人間だから恋愛に奥手だとか、都会の子が早熟だとかいうのは、昔からある幻想だろうと思う。たとえそういうことがあったとしても、統計的な分母の数マジックで、実数が多いくらいのことだろう。割合としてそこまでの差異がみられるものではないだろう。実のところ田舎暮らしで生きてきた人間の感覚からすると、凄い奴は凄かったようだし(中学女子の妊娠は今考えると確かにあったようだ)、だから全体が凄かったのかというとかなり疑問だ。特定の場所がそうなってしまうような事が日本国内で無かったとまでは言い切れないけれど、このようなステレオタイプ的な人間関係というのは、やはり極めて漫画的な架空社会なのではないかと思う。そうしてそれこそが、憧れられる学生生活なのである。
 しかし若いころには、この題名にもなっているようなひるなかの流星を見てしまえるような、劇的な心の動きを経験することにはなるのだろう。たとえそれがどろ臭くても、それが人生を変えてしまうものなのかもしれない。まったくそれは、楽しいことなのである。
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颯爽と大チョンボ

2018-03-24 | 散歩
 さて、今回も順調に出発できそうです。



 あの飛行機、スターウォーズってかいてあるような。ま、なんかの宣伝なんでしょう。



 僕は歩くの遅いんですけど、羽田の通路歩きながら、だんだん東京モードで足早になっていくような気がします。



 既に歩きながらアプリを見て京急の出発時間は分かってます。そういう時間内でトイレに行ってなど空港内の行動は決まります。





 で、とりあえず新橋まで。ここまではもうほとんど無意識で来てる感じになってきました。



 しかし、ここでの問題は昼飯のこと。適当にさらりと店に入るってのが、なかなか出来んとです。



 頭の中で蕎麦にするかうどんにするか、はたまたそれ以外か、などと逡巡しております。
 でも今回はつまようじくわえたオヤジが出てきた感じが良かった店に、入ってみることにしました。居酒屋さんがランチ営業してる店みたいですね。



 確か鳥丼か豚丼かサイコロステーキ丼の三択だったと思います。僕は鳥を塩で、を選択。



 いやいや、旨かったです。チキンスープもお代わりしてもらいました。
 こんな看板で、地下でした。今写真で見ると他にもメニューあるみたいだな。



 ここまでは今回ものすごく順調で良かったのですが、なんと大チョンボしてしまったとです。
 開会時間13時からと思って会場入りするとだーれも居らんとです。そとで同じように時間間違えた! と言っている人がいて、聞いてみると15時半からの開会だそうです。がーん。



 となると、うろうろするしか無いッス。偉い人は役員会やってるそうですし。邪魔してもいけません。



 汐見坂というのを上ります。



 なんか工事中でした。



 ちょっと静かな感じの通りに入ります。



 なんか周りは大使館のようなものがあるような。



 そのせいか西洋風の外国人が歩いているみたいです。



 坂道(階段)下りきると、ここは神谷町だろうな。見おぼえあります。20年前の出張ではこのあたりだいぶ散歩したものです。当時は年に一回か二回上京する程度でしたけどね。


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教育をこっぴどく叱る   春宵十話

2018-03-23 | 読書

春宵十話/岡潔著(角川ソフィア文庫)

 日本の著名な数学者が新聞に掲載して話題を呼び、その後ベストセラーとなった随筆集。数学者の語る数学論という訳では無く、主に文化批評であったり世間の考え方であったりする。数学は情緒であるという言説も、何か奇をてらったものなのでは無く、素直にその本質的なものを批評性をもって表現したものであると考えられる。おそらく世間一般の人は数学はチンプンカンプンで、岡の考える数学論は理解が出来ない。実際高度すぎて専門の人以外には理解不可能な世界なのだろうけれど、それによって誤解される数学に対するある種の冷たさのようなものに対して、大きく異議を唱えたのかもしれない。数学に対していだかれているだろうおおよそ正反対の真理について、理解をして欲しかったのだろうと思う。実際にはその情緒を論理的に説明することは特にしていないが、随筆を読むと、その岡の抱いている豊かな情緒性が、ありありと分かるようになっている。時折おかしな言説も無いではないが、それがまさに愛嬌があるというか、情緒的な面白さになっている。文化勲章をとった日本的な有名人の物珍しさで手に取った人を、実際には文章の面白さで虜にしてしまう、不思議な文才のある文章になっている。
 数学の道を厳しく追及した人生を本人は歩んだことに間違いないが、しかし彼の言う教育の教えというのは、実際には詰め込み式の勉強とは正反対である。毎日机でうんうん唸って勉強するというものではなく、外に出て写生するようなことをしきりに勧めている。絵の勉強こそ何より大切であるとも説いている。絵を描くことが必ずしも画家になる為だけであるとは思わないが、数学者になるために親が子供に進めることだろうか。しかし数学の大専門家は、実感としてそのようなすすめに徹している。実際は子供のころから勉強はよくできたようで、苦労が無かったとは言えないが、当たり前に何でもよくできていたようである。そんな人間の言葉に説得力があるのかどうか分からないが、しかし情操がよく育つことが、自分自身にもあったのだと言いたいのかもしれない。それが後の数学的な道のりを歩くうえで大いに役立ったという事なのだろう。
 現代人の目からするとまだまだ大らかな時代にあったように感じている昭和の時代の教育の世界で、しきりに心配して現代的な批判を繰りかえしている。その子供たちの世代の子供が、現代の僕らという事なのだろうか。既に批判されて上手くいかなかった人々に育てられた僕らは、さて、その後もちゃんと生きて行くことが出来るのだろうか。
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男は負け続けている

2018-03-22 | 境界線

 男と女の違いというのは確かにあるだろうが、能力の違いのようなものもあるのではないか。そういう疑問はいつの時代にもあっただろうし、今は言いにくいとはいえ、同じようにあるだろうと思う。言いにくいのは結論がどちらであっても、恐らく正しくは無いという答えが既にあるからだろう。さらに僕は男だから、男の立場として女がどうということをいうと、差しつかえる場合がありそうだという事だ。
 しかしながら子供のころから漠然と感じているのは、男より女の方が、断然能力が高いのではないかという事である。成長が早いという感覚もあったが、女の子の方が賢いというのは確かそうに思えた。男の子にも賢いのはいるが、圧倒的に数が少ない。学校の成績もおおむね上位は女の子で、中間から下は男ばかりという感じでは無かったか。高学年になるにつれて様相は変わってくるが、何か女の子の方に別の忙しさが加わって、学業を怠るような人が増えるという感覚があったのではなかったか。女はそれで良いという風潮があったのは間違いなくて、そういうものが徐々に浸透するような事があったのではないか。
 しかし能力という面から考えると、依然彼女らの方が高いままであったはずである。僕らが考えているより何か上位のものを、彼女らは求めていた。それが何かはいまだにはっきりとは分からないが、そういうもののために彼女らは、別に能力を割いていたように思われる。結局おとなになってからもこの差は変わらないままで、男たちは平均点が低いまま生きざるを得なかったのではなかろうか。社会の中の多くは男女別が結構あって、混ざっているとはいえ分野によって男社会が土台にあって、その中で生きるより無かった。もちろん女社会の中に入れば、あまりにも勝負にならないことだけは、確かそうだった。そうであるならば低い階層の中で、切磋琢磨するより他に生きようがなかったのではないか。
 この能力差は考え方や文化というものでは無い。知力や頭脳の差でもなさそうだ。生きて行くための全体的なもので、あらゆる環境に適応するという事も含まれているように思う。もちろん瞬発的な体力のような世界では、男の筋力の量的なものの方が多いかもしれない。しかしそのために失われるものは、やはり男の側の方が多いのではないか。例えばお互いに殺し合うのは、やはり男同士の方が多いような感じで。本当に強いのはそのような筋力の問題では無くて、何か耐性のようなものでは無いか。
 冷たい水に手を浸けて限界まで辛抱する。そうすると平均して男の方が長時間耐えられることが分かっている。ちょっと意外な気がしたものだが、実験は確かそうである。そのような競争では、アドレナリン作用で男が勝つような事があるのだろう。しかしそれでも本当に痛い場面では、男が様々なところで負けているような印象が強い。試合中なら痛みを感じない屈強な男が、試合終了後にはうんうん唸って泣いている。そのような姿の方が本当なのではないか。
 とにかく僕らは負け続けていて、そうしてどうしても能力的に勝てていない気がする。もうとにかく敵わないものは仕方がない。どうにもならないので、諦めて戦っていることを忘れようとする。そうすると既にそういう次元では戦っていない女たちの偉大さを改めて知ることになる。今はそんな感じのことを思っている。やっぱり差があるままなのである。
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性行を伴う男女の仲を考える   イット・フォローズ

2018-03-21 | 映画

イット・フォローズ/デビッド・ロバート・ミッチェル監督

 付き合いだして良い感じになっている男と、それなりにデートを重ね関係を結ぶ。すると男から薬で眠らされて車椅子に拘束されている。そして性行をすると憑き物にも感染するという話を聞かされる。その後実際にソレを見せられて自宅前に捨てられる。要するに真面目に信じろという事らしい。捕まると殺されることは示唆されている。しかし化け物はゆっくりと歩いてくるので、簡単に逃げられる。自分たちには見えるが、感染経験の無い人たちには憑き物は見えない。車で遠くに逃げたら時間を稼ぐことが出来る。そうしてこの化け物から逃れるためには、また別の人にセックスをしてうつせばいいらしい。ただしうつした相手が化け物に殺されたら、また順番が遡って自分が追われることになる。
 設定は喜劇的だが、これが非常に困ったことである。ゆっくり追ってくるといっても、どんな姿でいつ追いついてくるのか見当がつかない。おちおち寝ていられないし、逃げるコースを確保しておかなければならない。さらに人にうつす方法がセックスより他に無いらしい。幸いというかヒロインは大変にきれいな子で、相手はそれなりに候補が居そうである。だが、だからといって自分がやりたい訳でもない男と簡単にできる訳がない。このような設定を理解してくれる相手で無いと、結局殺されてまた自分のところに戻ってくる(実際に映画では、そのようなことになっているように思える)。それで友人たちと協力して、この憑き物を根本的に退治してしまおうと画策するのだったが…。
 映画的にも非常に面白く、怖い。ストーリーはこの展開に尽きる訳だが、この仲間たちがなんだかけだるく、垢抜けしてない連中ばかりである。デトロイトは産業が廃れて、まち自体に活気が無い。みんな半分不良か、何か溌剌とした遊びをしない人たちばかりに思える。一緒に逃げてくれるし戦ってもくれるが、何か関係は少しゆるい感じなのだ。
 結末は観たものに考えさせるつくりになっているのでネタバレは出来ないが、これもなかなか考えられたメタファーのようにもなっている。おそらく憑き物の正体のようなものとの、付き合い方を語っているのだろう。
 観たからといって一人でトイレに行きづらくなったりするような映画では無い。しかしながらホラーとして、たいへんによくできている。セックスをするからといって、ポルノでもない。青春映画として楽しめるし、若いころに観ておくと、教訓的にも男女の付き合い方も学べるのでは無いだろうか。
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稲荷寿司を食う

2018-03-20 | 

 寿司というのは少し大人になってからという食べ物のようにも思うが、しかし寿司と名のつくものであっても、大人用とは限らないものがある。その代表がいなり寿司だと思う。いや、子供の食べ物という限定ではないが、子供のころから一貫して大好きという事でいうと、まさに代表的なお寿司といっていいのではないか。
 しかしながら大人ぶった時期があって、稲荷をあえて食わない頃というのがあったようにも思う。最初に飯物である稲荷を食うと、酒がすすまないような気がする。ある程度飲んだ後ならいいが、少なくとも飲み始めた最初から手を出すわけにはいかない。そんな風にも思っていた。
 そういう時期を経たにしろ、その後ふと、必ずしもそうでもないようにも思えてきた。最初だろうと最後だろうと、稲荷寿司の味というのはいいのである。昼飯だろうと晩飯だろうと、酒のつまみだろうといいのである。その存在感は確かにあって、後先考えずに食べていい。ちょいとつまんで食べてみて、またホイホイ続けて食べてもいいし、一休みして何か飲んでもいい。独立感もあるし、協調性もある。その個性はやはり素晴らしいのではないか。
 僕はひとの作ったおにぎりを苦手としていたことがある。考えてみるとこれが、稲荷だと割合平気だったことにも気が付いた。食い気の方が勝るのである。稲荷というのは寿司屋のものとは限らない。ひとのあつまる祭りか何かの時に、ダーと並んだ稲荷寿司を見ると、少なからず興奮する。鉢盛などの派手な料理などより、何かその迫力の度合いが違う。一個でもその存在感はあるが、並んでいるから素晴らしい。できれば誰もが奪い合うように手をつけてくれるとありがたい。もちろん残ってしまったとしても、かぶりで持ち帰るのもありがたい。
 そうして持って帰って冷蔵庫で保管して、少しパサついたような不味くなった稲荷を食うと、何か楽しかった思い出がよみがえるような、そんな心持が少しだけするのである。
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幽霊と人間の近い関係   ブンミおじさんの森

2018-03-19 | 映画

ブンミおじさんの森/アピチャッポン・ウィーラセタクン監督

 よく見ていても良く分からない映画。病気をしている男のところに親戚(おそらく妹か)が訪ねてくる。ダラダラ過ごしていると死んだはずの妻が幽霊となって現れる。ちょっとだけ驚くが皆はそのまま談笑している。そこに今度は山の精霊(といういう着ぐるみの猿)となってしまった行方不明の息子がやってくる。それはさすがにびっくりするが、やっぱり皆は談笑する。過去にとんで何かお姫様のような人が川の中で悶えてみたりする。農園ではちみつ食べたりずっとダラダラ過ごしている。そうして彼らは森に入り洞窟に入り、また過去に記憶が飛び軍隊の話が入ったりする。結局ブンミおじさんは死んでしまう。そうして葬式をして幽体離脱した出家した息子と親戚の妹がカラオケ屋で佇んで終わる。
 思わず全部のあらすじを書いてしまったが、まあそんなに観る人もいないだろう。パルムドールを受賞した作品らしいが、何かの間違いかもしれない。確かに幽霊が出て特撮もそんなに無いのに独自の雰囲気で、まったく面白くない訳では無い。理解できないだけのことで、こんな映画は本当に初めて見たかもしれないという感慨はある。こんなのハリウッドで制作されたら、負債を抱えることは必至で、責任を巡って裁判で負けるに違いない。
 恐らくタイの農村では、いまだに精霊や幽霊などと人々とのつながりは、残っているのだろう。だからこそこういう話が生きていて、不思議なりに皆が納得できる土壌があるという事かもしれない。それをまた別の文化圏の人間が見て驚愕する、という図式が成立しているのかもしれない。まったくよくこんな作品つくったもんだよ。
 原作のようなものがあるらしいが、やっぱりそれは皆に読まれるんだろうな。タイという国は、確かに奥深い国なのである。
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快適に帰る

2018-03-18 | 散歩
 昨夜はそんなに飲まなかったのですっきり起床。



 皆さん通勤時間です。



 人も多いけど自転車もぴゅーですな。



 バスにも人がよんにょ乗っとりました。



 あんまり人が居ない通りを探します。



 車の中で待機している人がけっこうあって、一体だれを待っておられるのだろうか? そういう仕事なんでしょうかね。



 まあ僕には関係ないので散歩しなければ。





 歩いていると体調がなんとなくわかります。お腹の調子もそれほど悪くなさそうで、これは朝食は抜いて、早い便で帰る事にしよう。



 で、チェックアウト。お世話になりました。



 ほんとはこの店でおみやげ買うつもりがちょっとあったんだけど、まだ開店前です。この後家人が期待してたと聞いて、まったく間の悪いものだと思いました。



 無事早い時間に替えてもらって、乗ることが出来ました。めでたしめでたし。



 最近は九州号もけっこう人が乗ってる感じなんですが、久々にガラガラしてました。それだけでもなんだかのんびりしている感じがします。



 お迎えも来てくれてました。ありがとう。



 ご飯も準備してくれました。僕の精神年齢にあわせて、アンパンマンでした。マジウマでしたよ~。ごちそうさまでした。

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天才に憧れる人々   四月は君の嘘

2018-03-17 | 映画

四月は君の嘘/新城毅彦監督

 原作漫画があるらしい。それも少年漫画。映画を観た印象では、少女マンガとばかり思っていた。
 厳しいレッスンをしてくれた母の死後、ピアノが弾けなくなってしまった元天才ピアニストだったが、同級生のバイオリニストの出会いからいろいろと振り回されるうちに恋に落ち、またピアノに向き合うようになって行くのだった。しかしながら仲間内との三角関係などもあり、苦悩する。実はバイオリン弾きの彼女は重い病にかかっており、生死を懸けた手術をすることになるのだった。
 嘘というのは最後の手紙の内容のことだろうと思われるが、これを嘘だと思う人はそんなにいないのではないかと思う。それにこういうことが無くても、二人の仲はどうなっていたかという事である。必ずしもハッピーエンドでは無いとも思われるが、ある意味ではハッピーそうな終わりを迎える。音楽映画でもあって、何か演奏的に凄いことが行われている雰囲気は楽しめる。
 青春映画なので、いろいろ恋愛の葛藤の場面が続いて、学生時代は楽しそうだな、と思う。実際はなかなかこんな風にはならないだろうけど、ファンタジーだからそれでいいのである。少女マンガじゃないかと勝手に思っていたのはそういうことで、恋愛駆け引きはややわざとらしいにせよ、まあ、楽しいです。それにやっぱり悲しい話だな、とも思います。
 ただ僕はこのような音楽的な話を観ていて少し疑問なのは、やっぱり天才的な人であっても、相当打ち込んで練習するものでは無いかと思うことだ。努力が足りないとまでは思わないが、何か尋常でない打ち込み方があるからこそ天才になれるのではないか。そういう描き方にもう少し工夫があっても良かったかな、と思った次第である。
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