カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

満男の中に生きる叔父   男はつらいよ・お帰り 寅さん

2019-12-31 | 映画

男はつらいよ・お帰り 寅さん/山田洋二監督

 満男は会社勤めをやめて作家になっている。6年前に妻を亡くしたが、中学生の娘と暮らしている。本のサイン会の折に、ちょうど国連の仕事で日本に帰ってきていた泉と再会を果たす。以前の思い出とともに叔父の寅次郎との日々が、満男の中に何度もよみがえってくるのだった。
 妻の七回忌の法要などもあり、実家の柴又へ帰るなど、今やおいちゃん、おばちゃん、タコ社長、御前様など、多くの人が亡くなった後の、くるま屋の様子もよくわかる。店はだんご屋ではなくカフェになっている。肝心の寅次郎は、どういういきさつで亡くなっているなどを説明は一切無い。恐らく亡くなっているはずだが、元気だったころのおじさんと満男とのつながりや、いまだに満男の思いの中に生きている寅次郎の考え方のようなものが、時折懐かしい場面とともによみがえってくるのみである。
 男はつらいよが作られてから、50年の歳月が流れている。主演の渥美清をはじめ、多くの出演者は鬼籍に入ってしまっているのに、このように続編が作られた。いかに国民的な人気映画かということであるが、ここまで長く愛され続ける作品が世の中に存在すること自体が、奇跡のようなものであろう。さすがに死んだ人間が、新たな演技を披露することはできないのだが、しかし、単なる思い出だけで、今に存在するわけではない。生きている我々の中に生きている人間であっても、生きている我々に影響力を与え続けているのである。
 このような作品は、映画として出来栄えがどうだとかいうようなものを超えている。個人的なことだけれど、我が家では日常的に寅次郎作品を繰り返し見続けているのだが、そういう日常の寅次郎と、ある意味で同じ場面を観ることになっても、この映画で観る寅次郎は、また新たな感慨をもたらすものだった。
 一つだけ残念だったのは、泉の父役の寺尾聰が出ていなかったことだ。橋爪功の演技が悪いとかそういうことではないのだが、設定があまりにも違うような気がして、かなりの違和感があった。せめてもう少し、違う邂逅があっても良かったのではないか。満男が泉ちゃんとの長い時間を過ごす必要があったのだろうけど…。
 まあ、このシリーズへの思い入れが強いほど、いろいろとあるのかもしれない。リリィの名啖呵もカットされていたしね。こればっかりは、旧作を観るよりないのだろう。何度もマドンナを演じた人もいるし、役を変えて出てきた人もいる。ノボルやポン衆みたいな仲間も、今回の流れでは外れていた。寅さんのやくざなところは、思い出では、だんだん薄れていくのであろう。
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一重まぶた炎上とは何か

2019-12-30 | net & 社会

 一重まぶた炎上というのがあるらしい。見た目として、二重まぶたを好む傾向と、その見た目にこだわる(ルッキズムというらしい)人々との間で、軋轢が生まれる。激しく罵倒する人もいる。面白がっているだけなのだが、その攻撃性は異常だ。
 容姿というのは、確かに避けられない事実めいている。そのことを言うのは、何かをさらけ出すようなものを含んでいるのかもしれない。例えばブスという言葉があるが、そうであるかないかにかかわらず言うことは可能だ。単なる攻撃的な卑劣なものだが、浴びせられる、受ける側のダメージと否定が難しい言葉かもしれない。きょとんと分からないふりをするくらいしか、思い浮かばない。否定すると言葉のループにはまり込みそうだ。
 料理に対する「まずい」というのも、単なる判断なのに、非常に攻撃的だ。客観性のある味に対して、主観的な断定判断が可能だ。多少クレージーでも、一瞬で全否定が可能である。
 要するに、容姿である。それが批評の対象になるとき、人々はそれなりに大胆な判断をするようになるのではないか。そうしてこれの象徴的な言葉に、一重まぶた、または二重まぶたがあるのだろう。
 確かにこれは呪いめいている。僕は男であるけれど、母から繰り返し二重まぶたのことを言われたものである。関心が無いので受け流していたが(それは男である僕ができる環境にあった幸福だろう)、この言葉を繰り返し言う価値観に、母の世代的なものを感じていた。僕は女の人を恐れているので、容易に容姿に対する批評はしないが、母以外の者にも、そのような価値観があるらしいことくらいは、肌感覚として分かる。だから何だというのは考えたことが無かったが、この言葉で炎上したという流れが、とても意外に思えたからだ。
 それというのも、最初は「一重まぶたはかわいい。みんなもっと自信を持て」というようなつぶやきに対して、何の関係も無い赤の他人が「自分は二重にしたいと思っているだけだ。二度と口に出すな(大意)」という返答があり、炎上していったのだという。まあ、他にもパターンはあるだろうが、これが延々とループして言葉が重ねられていくというのだ。
 一重まぶたがかわいいという価値観は、実は何の問題も無い感想だろう。しかしそれは事実としてより、何か別の意味を持つ逆説的な批評性を帯びてしまうということだろう。あえて一重まぶたをかわいいとすることに、何かの価値観を壊すような攻撃性をみて、反応があるということなのだろう。それもかなり攻撃的に、そうして過剰である。
 人のどうありたいという願望にとやかく言っても仕方がない。ましてや容姿のようなものに対してどう思うというのは、そう思うことに何か言っても始まらない。しかし何か言ってしまって始まってしまうと、取り返しがつかなくなって炎上してしまうのかもしれない。
 ここまで書いてきて、段々と分かってきたが、やはり人は容姿に囚われているということのようだ。避けられないし逃げられないから、匿名の世界などになると、言わずにいられない人が居るのだろう。これが日本人の特徴なのかどうかまでは分からないが、少なくとも日本社会の中の、何か閉塞した共通の価値観に対する人々の鬱憤だろう。壊したいが、すでに共通価値観として確立している何か、なのだ。ある時に一瞬で壊れてしまわない限り、個人の力では崩せるものではないのかもしれない。そこに、憤りが生まれるのかもしれない。

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分からないではないがすべっている   Destiny鎌倉ものがたり

2019-12-29 | 映画

Destiny鎌倉ものがたり/山崎貴監督

 
 鎌倉が、妖怪や幽霊と人間が共存する街として描かれている。そこに住む作家の家に嫁いできた新婦の目から、驚きの毎日をつづっていく。ということで、変な街を面白おかしく紹介するもののけ映画なのかと思っていたら、思わぬ事態に夫婦がまきこまれていくのだった。そういうことで、後半はスペクタクル活劇になる。
 原作マンガは西岸良平。この監督は「三丁目の夕日」も大ヒットさせているし、作家として西岸作品に思い入れのある人なのかもしれない。この原作作品の漫画の方は読んでいないが、他の作品を読んだことはあって、その印象から推察するに、モチーフとしては啓発されてはいるものの、かなり実写映画として手入れをしやすいと考えてのことではないか。それくらい、例えば三丁目などは、漫画と映画との印象が違うように僕は思う。
 さて、この映画においての正直な感想を言うと、よくできた映画ではあるんだけど、あまり成功していないという感じだった。ぬるい面白さがあるというのは分かるが、ちょっと滑っている感じがするのである。俳優たちの個性も生かされていて、さらにちょっとした意外性もありながら、それがなんとなくズレているということだろうか。面白くなりそうだけど、予定調和しすぎているというか。もう少し緊張感があって、もっとこれは困るな、というくらいになると、うまくいったのではなかろうか。困る状況になっても、なんとなく安心感が流れていて、子供向けの舞台の演劇を観ているような気分になるのだった。
 いわゆる特撮映画としては、おそらくものすごく工夫がなされている作品なんだろうと思うけれど、最近のスペクタクルものの出来栄えを考えると、やはりこういうのはハリウッド物が頭一つ抜けている印象を受ける。だから日本がやらなくていいということではないが、何か別の打開策を用いないと、なかなか厳しいのではないかという気もした。いろいろと状況は、難しいのかもしれませんけどね。
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今更ながら吾妻ひでお追悼

2019-12-28 | 感涙記

 最近亡くなった吾妻ひでおだが、晩年になって「失踪日記」等で大ヒットを飛ばして、再注目されたが、僕らにとっては結構リアルな過去の人であった。
 僕らの小学生のころに、吾妻は少年チャンピオンに連載をしていた。エロ・ナンセンス・SFといった作風で、内容ははっきり言ってそんなによく分からないものの、実際にはたいていエロの要素で、少年たちを惹きつけていたと思う。吾妻の描くロリコンっぽい美少女は、子供心にもたいへんにかわいいキャラクターで、何を考えているかよく分からない存在ながら、すぐに服を脱がされてしまっていい人なのであった。エロ漫画なので当たり前だけど、親たちの激しい検閲のある中にあって、弾圧を受けていた作家だったように思う。一番は永井豪だったろうけれど。そういうわけで、ほぼ禁書扱いで、子供自身がコミックなどを手に入れるのは、それなりに難しかった。いや、厳密には買えはするんだが、当時の書店のおばさん店員さんは、おそらくPTA等の圧力があってのことと思うが、小学生くらいの男の子には、このような漫画を買うときに、少なくとも一度注意するようだった。そういうことがあると、二度目には気遅れてしてとても買うことができない。そうやって少ない成功体験を潜り抜けて手に入れられた作品は、重宝して回し読みされたのだ。
 そうではあるが、一番うらやましかった友人はマンブー君だった。マンブーには年の離れた労働者の兄がいて、そのお兄さんが吾妻ひでおのファンらしく、ほぼ全巻コミックをコレクションしていた。マンブーん家に遊びに行くと、お兄さんの部屋の本棚に、整然と吾妻作品が並んでいた。ところがであるが、これを手に取ってみることは、固く禁じられていた。後でお兄さんに怒られるという理由で、マンブーが見せてくれなかったのだ。だからいつも背表紙だけを眺めて羨ましがっていたというわけだ。
 しかしまあ中学生くらいになると、おこづかいも増えるし、小学生みたいに(多少は)気後れしなくなる。しかし吾妻自身は、メジャー雑誌の連載から離れ、マイナーな媒体で、よりマニアックな作品を描くようになっていた。田舎暮らしではそれらの作品は手に入りにくくなっていった。そういう時にたまに目にする吾妻作品は、不条理ギャグに冴えがわたり、ちょっと不思議ながら感心する作品が増えていったように思う。マイナーながら、それなりに売れていたのではないだろうか。また、漫画家同士の評価も高い作家で、明らかに吾妻作品に誘発されたようなものも見受けられたように感じた。もう僕らは、エロ目的だけで吾妻作品をみていたのではなかっただろう。
 正直に言ってその後はずいぶん忘れていたのだが、その間病気や失踪などをしていたようで、文字通り消えた作家になってしまっていた。それらの体験記をつづった失踪日記は、だから衝撃的な再ブームを巻き起こしたのである。本当に驚くべき面白さのある作品で、改めて吾妻の偉大さを思い知ることになった。僕は福祉の仕事をしているということもあって、これらの吾妻作品を読むということは、福祉的な仕事の参考に、大いになったと感じている。もちろんそういう仕事をしていない人にとっても、たいへんに為になる内容だろうと思われる。結局その本の内容のような過酷なことが、少なからず影響もあったことだろう。まったく亡くなってしまって、本当に寂しい気分である。
 因みに吾妻ひでおは1950年生まれで、同い年では、志村けん、由美かおる、スティービー・ワンダー、和田アキ子らがいる。
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うぎゃあとか、うげええとかいう気分  刑務所の前

2019-12-27 | 読書

刑務所の前/花輪和一著(小学館)

 漫画、全三巻。凄い作品であるという噂を聞いて、ずいぶん前に買ってはいたが、積読のまま月日が過ぎてしまった。書類に埋もれていたのを、ああそういえばと手に取ったら、ぐいぐい引きこまれて読むことになった。まさにむさぼり読むという感じだろうか。
 著者は銃刀法違反で実刑を受けた経験があるようだが、そういう経緯を含めた体験談が語られているはずの内容である。そうであるのだが、実はいきなり時代劇(おそらく室町)でもあり、鉄砲鍛冶屋の娘の視点で、親子の屈折した憎悪や愛などを描いたものである。あまりにも内容が錯綜してあり、とても一言では筋を語ることはできないが、著者の銃に対する強い偏愛も描かれるし、デフォルメした銃の収集喜劇も挟まれる。刑務所の克明な生活の記録もあるし、銃そのものを丹念に描いた世界も十二分に描かれている。ものすごく変だけど、ものすごくリアルで、なおかつ得体のしれない説得力がある。いや、とても理解できない世界なのだが、その理解できなさ加減が半端なくて、ただ呆れているが、同時に引き込まれてしまうのである。まさに魔力的な世界観である。
 この作品では主に娘の視点から、母や父との関係を描いているのだが、この関係は、おそらく著者の実体験が元になっているのではないかということが、容易に想像される。凄まじい憎悪の中でもがき苦しんでいるわけだが、同時にふっと冷めた視点や科白が挟まれて、しらっとしたりギョッとしたりさせられる。いったい何なんだこれは。という妙な宗教観が随所に挟まれていて、人間というものが本当に恐ろしい存在のように見受けられる。デフォルメがあるのだが、こんな苦しい世界にありながら、人間は生き続けなければならないのだろうか。親にどうして欲しいという思いがありながら、しかし苦しめられた自分というものがあって、おそらく復讐もしたいのである。しかしそれは自然任せというか、自分自身で何か実行した結果ではない。いざ境遇が変化すると、今度は冷たく距離を置いて、自らも泣くのである。冷めた視点で見ると、妙にバカバカしいようなやり取りがあるのだが、しかし事は大仰で残酷で、そうして救いが無い。うげええ、とか、うぎゃああ、とか、そういう偽濁音で呻かなければしっくりこないような感情が渦巻いており、実際にぐあああ、というようなぐちゃぐちゃな気分にさせられる。
 この作品に驚愕し、同時に感心してやまないプロのファンがたくさんいるだろうことは、それだけこの世界が、異常で素晴らしいからである。感動するとかしないとか、そういう次元では語ることのできない傑作漫画である。
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本来は人間の原罪を認めたほうがいい

2019-12-26 | 

 外国にはビーガンというのがいるらしいとは聞いたことがある。いや日本にもいるだろうが。詳しくは知らないが、要するに肉食の文化があり、その反発のようなものか。肉は命を殺さなくてはならないという犠牲がある。そういうことに嫌気がある人が居るのだろう。ある種の正直さと潔癖さが、そのような主義的なものを生んでいるのではないか。
 もちろん、単に肉類が食べられない、という人が居る。アレルギーなのかどうか、病気の問題がそうさせる人もいるかもしれない。そういうことも個性の一つで、尊重する対象で、そうなる、というのがあるのか。イスラム的な戒律で、肉を口にしないということと分けている人もいそうだ。宗教ではないと言いながら、菜食主義者は宗教的なにおいがする。しかしそれは人々が認めるべき権利であるという考え方や、イデオロギーを内包している。結果的に個性の問題としている態度も見えている。
 しかし食事である。卵やミルクは許容している菜食主義者と、それらを含んだビーガンは区別される。実際問題としては、厳格化すると、集団の中で埋没できない。孤立がありながら、それをいつも主張するようなことになる。それ自体が、価値のあるものであるかのようだ。
 日本の、あるいはアジアの、精進料理を歓迎するビーガンもいるという。確かに受け入れやすい食文化ともいえる。しかし厳密にいうと、仏教的な精進料理は、野菜においても生命を殺すことに、罪のようなものを背負っている。そういう考え方は知らないわけではなかろうが、しかし西洋的な菜食主義者には、そもそもとしてのそういう考え方は、持っていなかった疑いがある。何故ならそれは肉食に対するアンチテーゼだからだ。精進料理は、いわゆる修行のようなものを含んでおり、それは肉食に対してのアンチテーゼではありえない。肉食に関して関与をしないのである。
 野菜を美味しく食べようという考えは、楽しみがある。食事自体は楽しいもので、特に戒律の中にある場合、それは大きな快楽だ。栄養を取るだけの食事ではないものが、生きるということの喜びというものが、食事にはある。精進料理というのは、そのような娯楽のようなものなのではないか。ビーガンの野菜料理にそれが無いわけではなかろうが、何かそこには、必ずしも楽しまなくてもよいような、そんな印象も受ける。制限はあるが、生き方としての芯の強さの上に、犠牲にしていいものがちゃんとあるというか。
 要するに誤解もあるのだろうが、考え方のアヤの中に、ちょっと闇を感じる。それは人生の深みであるかもしれないが、落とし穴かもしれない。少なくとも不合理の中に身を投じているような、そのような戦いめいたものを感じる。嫌悪というのではないけれど、そういう非合理を追及する誠実さのようなものに、何か諦めめいたものを思うのかもしれない。
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混血だと何の問題があるのだろう   ラビング 愛という名前の二人

2019-12-25 | 映画

ラビング 愛という名前の二人/ジェフ・ニコルズ監督

 白人の煉瓦職人の恋人(黒人)が妊娠していると告げられる。喜んで結婚を申し込むが、1958年のバージニア州では、異人種間での結婚が認められていなかったので、ワシントンDCまで行って結婚式を挙げ、戻ってきて一緒に暮らし始めた。ところが誰かが通報したらしく、二人は警察に捕らえられてしまう。結果的に裁判になり、便宜上罪を認めて執行猶予25年で釈放。さらに条件が付いて、州内では二人の接触が禁止されることになる。要するに州外に退去させられるわけだ。
 出産のときに、やはり地元が良かろうということで戻ると再逮捕。弁護士の機転でなんとか釈放。要するに地元では、誰かが監視するか敵対している様子。人種差別なので、白人も黒人も信用ならない。周りにいる誰が敵か分からない。
 結局州外で暮らして、子供も三人もうける。徐々に時代が流れて、このようなカップルに対してマスコミの関心等が高まりを見せていく中で、人権派の弁護士から、あえてわざとつかまり裁判に持ち込んで、憲法を変えよう(歴史を変えよう)と持ち掛けられる。
 それにしてもほんの50年ほど前のアメリカの話。ごく最近まで、公然と憲法で差別してきたアメリカの暗黒史の中で、翻弄されるカップルを描いた、ほぼ実話の映画らしい。有名な話なのかどうかは知らないが、このようなカップルが他にも絶対にいたはずで、その先鞭をつけた事例なのかもしれない。主人公の白人男性は、寡黙でしかもそれなりに慎重である。このような社会にあって、自己主張を控える心情があるのかもしれない。それに対して女性である黒人の妻としては、己の人種の解放ということも伴っているので、比較的マスコミに同調的である。それが白人が黒人を差別しているという構図であるので、そもそも夫婦であっても対等ではありえないということを暗示している。白人が理解があるから成り立った、という単純な夫婦ではないのである。
 アメリカの歴史は差別に対してひどいものがあるけれど、繰り返しこのような映画は作られている。そうして世論的には評価も高い。だからと言ってアメリカ政府が謝罪などして補償するような話は聞かない(そうすべきという話はあるが)。これが日本を取り巻く東アジア情勢とはひどく異なるところだと思う。まあ、言っても仕方ないが。
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会議撲滅運動をやりたい

2019-12-24 | 掲示板

 そもそも好きな人なんているのか疑問だが、会議は開催される。もちろん必要をもって会議がもたれるのは分からないではないが、しかし、そんなに必要なのか疑問があっても、会議には呼ばれるものである。ごくたまに有意義なものが無いではないが、あまりそういう体験はしない。しかしながら少ない人数のものは比較的意見があり、会議としては成立していると思われるが、特に問題なのは、大人数での会議ではなかろうか。形骸化しているだけでなく、順に発言するようなものは、特にひどい。誰も発言しないのは論外であるが…。
 しかしである。こういう会議を開催したい人が一定以上いるのも確かであるように感じられる。そうしたほうがいいと真面目に考えていたり、真剣にそういうものが正しいと信じているような人が、実際に存在するのである。だからこそ会議が開催されているわけで、さらに大人数化するのである。正直言って多くの人数が集まるようなものは、一定以上になれば(例えば20人程度)メールで送信して済んでしまいそうな内容化しているように思われる。また、多くの場合は責任逃れで開催されているように感じる。既成事実が肝心で、責任を分散させて形骸化させてしまうからである。さらにそういう席で発言するような奇矯な人の意見が生かされるような、異常事態になる。反論するとさらに面倒なことになりそうで、ざわつきながらも、変なものがまじめに取りざたされたりする。ウンザリを目撃しても、何もできない。そういう人が参加しない会議を欲して、また別の会議が開催されたりする。ものすごく無駄が増産される。呼ばれなくなることを願っても叶うわけが無く、病気になって引退するよりない。まったく恐ろしい人生だ。
 ということで、大人数会議撲滅運動が必要ではないか。まずは採決のために集まりましょうか?
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何とも嫌な気分に陥りながら娯楽作   ゲット・アウト

2019-12-23 | 映画

ゲット・アウト/ジョーダン・ピール監督

 白人女性と付き合っている黒人写真家が、彼女の家に遊びに行くことになる。彼女の実家は静かな湖畔脇の豪邸で、典型的に裕福な白人家庭であった(両親とも医者)。さらに黒人の使用人が二人もいる。終始不穏な空気が流れており、歓迎を受けながら何とも言えない違和感を覚えるのだった。実際にとてもありえないことが次々に起こり、精神的に耐えられない気分に陥っていくのだった。
 白人社会の中に放り出される一黒人という立場を、これほど明確に描き出した作品は割合に少ないのではないか。迫害差別されていた時代の黒人を描いたものは、それは数多く作られているわけだが、現代社会の中での黒人に対する白人が持っているだろう暗黙の差別意識や、逆に黒人が抱き続けなければならない不安というものを見事に描き出している。確かに娯楽作品としてのホラーなので、そういうあたりのご都合主義はあるのだけれど、低予算でまったく無名の俳優を使いながら、見事な演出とアイディアの詰まった驚きの傑作といえるだろう。何とも言えない嫌な気分を随所に混ぜ込みながら、そうして実際に絶望的な立場に追い込まれていく主人公の体験を、一緒になって味わう恐怖が堪能できる。何度も裏切られながら、過去の伏線が見事に張ってある展開で打破していくストーリー運びは、見事というしかない。ここにきてこういう方法があったのか! というカタルシスは、このような映画を見る醍醐味といえるだろう。後味が悪くないわけではないが、気分までは悪くならない。考えさせられるところがありながら、面白くなんだかスカッとすることになるだろう。大ヒットの上に評判の高かったというのも、十分にうなづけるものだった。評判は聞いていたにも関わらす、何故だか見逃していた。もっと早く観るべき作品であった。
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読書しない人が読まないのは何故だろう

2019-12-22 | 雑記

 僕は日常的に本を読むが、本を全く読まない人が居るらしいということも聞いている。そういう人が珍しいのかどうかまでは確信が無いが、しかし先日そういう人と話をした。別に本を読まなくったって何の支障も無かろうし、それでいいと思うが、しかしその人は、本を読んだ方がいいと漠然と考えているという。ではなぜ読まないのか不思議に思うが、読めないのだという。何も字が読めないというのではない(おそらく)。忙しいのが一つと、さらに読みだしても先に進まない。内容が頭に入らないし、読まなくなるのだという。ふーん、まあ、そんなことがあるのは、本を読んでいるといくらでもあることである。分からないのは、だからと言って本を読めないわけではなかろう。
 本は乱読するのが一番だと思うが、何故なら、その日の調子で読めたり読めなかったりするときでも、本を変えると読めたりすることがあるのである。ふつうの人は、だから数冊同時に読むものだと思う。調子に乗れば、いつの間にかそのまま読んでいるし、やはり先が気になるというか、いつの間にか読み進むものである。もちろんつまらなくて我慢して読んでいることもあるけど、何かのはずみで面白くなることだってある。そうしたらしめたもので、また先を読めばいい。別段読んでしまうのが必ずしも読書の目的ではないにせよ、まあ、一種の達成感のようなものはある。そうすると、また読みたくなるのが人情ではないか。
 まあしかし、読みたくも無いのに読む必要などみじんもない。読書は一定の時間を食うので、悪癖なのである。他のことに熱心になれないし、時には他のことをしていても気になったりする。空き時間に読むことにはなるが、面白いものになると、やはり何かを犠牲にして時間をつぶす。これでは人生の消耗だが、しかし暇つぶしにはなる。暇を持て余すのはつらいことなので、それよりもずいぶんマシなだけである。もっと時間があったらなあ、と時々思うが、しかし本当に時間があれば(さらに金があれば)旅行しながら読むのにな、と思う。まあ、おかげで楽しいのかもしれないとは思うけれど…。
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女性に幻想を抱いた男たちが成長する姿   ペンギン・ハイウェイ

2019-12-21 | 映画

ペンギン・ハイウェイ/石田祐康監督

 アニメ。原作は森見登美彦。そういえば、他にも森見作品アニメは見たな。絵的に興味を抱かせる作家なのだろうか。いちおうSFだし、アニメーターの興味を引く作家なのかもしれない。
 小学四年生の研究好きの変わった少年は、女の人の胸に異常に興味を抱きながら生活している。そういう中、街中にペンギンが現れる。当然このような不思議な現象についても、少年は研究を進めていくのだったが、これが胸の大きなお姉さんや、街を巻き込んでの大きな事件へと展開していくのだった。
 まあ、確かに文学的ファンタジーである。時折原作の文章であるだろうナレーションも入る。ユーモアの中に、文学的な香りが漂う作風になっている。ペンギンは不思議であるとともに、最初はちょっと変くらいの出来事として捉えられている。ちっとも科学的ではない研究に見えるが、段々とそれらしく世界が変貌していき、文学的に研究が進んで、世界が大きく変貌するということになっていく。最終的には個人の問題のようなことになるのだが、実際それでいいのだろうか。
 まあ、なんだか分かるような分からないような話なのである。少年たちの世界と大人たちの世界との対峙があるが、成長してこれらが解決に至るようにも見えない。最終的に悲しいお話になるのだが、それは大人への脱皮ということになるんだろうか。考え方は面白いのだろうけれど、もう少し研究の方は進めて欲しいような印象も受けた。まあ、それで分かりえる話なのではないのだろうけれど。
 確かにこういう作品は、アニメだからできるというのはある。しかし万人に向けて理解される作品ではなさそうで、そういうのはオタク的なのかもしれない。
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進駐軍が恐れた復讐劇

2019-12-20 | culture

 僕は忠臣蔵が好きではない。それはもちろん僕の基本的なひねくれた精神を表していると思われるが、母が討ち入りの日の生まれ(実際は旧暦だから違う日のはずだが)ということで、小さいころから聞かされていたこともあるかもしれない。ただでさえ年末は繰り返し忠臣蔵が演じられたり、テレビ放送が盛んなんだが、それに輪をかけて聞かされるわけだ。嫌にならないほうがどうかしているのではないか。
 ところで戦後しばらくは、米軍はこの忠臣蔵を上映禁止にしていたらしい。確かにこれは復讐劇で、こういう話で日本国民が盛り上がるのは、ちょっと都合が悪いというか、なんとなく恐ろしさも感じられたのかもしれない。しかしながらこれは、米国と戦うはるか前の江戸時代からの流行が定着したものだから、的外れだったはずなんだが…。まあ、忠臣蔵に限らず復讐劇は自重させられたそうだから、滑稽でいい話である。当時の日本人がどう思ったかよく知らないが、なんだ米国の人は、あんがい気が小さいな、と思ったのではないか。それでも何度も陳情してやっと解禁にこぎつけたともいわれていて、やっぱり日本人の多くは、なんだか変でもある。僕にとっては、という感覚ではあるけれど。
 忠臣蔵は史実をもとに作られたフィクションだが、つまるところテロリズムである。やり方も極めてやくざなものだと感じる。切腹するからいいじゃないか、というわけにもいかないと思う。もちろん、そうしたからこそ人の心を打ったのだろうけど、そうだからこそ、テロなのである。そういう意味では、実に歴史的に大成功したテロの記録なのかもしれない。
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とにかくホテル廻りぐるぐる

2019-12-19 | 散歩
 踏切には遮断器も無いんですよね。生きてるのかな。


 時々車は確かに通っているようでした。


 Bってのはおしゃれな雑貨屋のようでした。


 ここまでくると見覚えあるな。香川駐車場など。
 その時はあんまりぴんと来てなかったけど、右側のビルは駅だったようです。へえ~。




 専光寺。


 そしてまた、路地は細くなります。


 あれが今日の会議のホテル。


 でも泊は違うので、やり過ごします。


 手取天満宮。


 ということでいったん散歩は終了。でもやることないから、会場で本でも読もう。


 妙に外国人(英語圏ではない。スペイン語かな)が多かったのですが、前日までハンドボールの大会があってたんだね。なるほど~。


 そうして読書の予定だったけど、早く来ている人は数名いて、なんとなく緩く話をして時間つぶしました。
 会議は事務局の方が十分話をまとめてくれたので、役割無し。ちょっと思うことは無いではなかったけど、まあ、静かにしてました。
 懇親会はそれなりに盛り上がり、やっぱり九州の仲間はいいな、という感じですか。いい先輩方に恵まれております。ちょっと危ない話も出たんですが、バランス感覚は絶妙です。皆さん頭もいいのです。

 さらに二次会付き合っていただいて、コンビニによって帰りました。特に写真は撮らなかったけど、この夜に電話でいろいろあって、まあ、大変でした。目が覚めたら全部解決してたらいいな。

 しかし僕の部屋2階だったんですけど、街頭の明かりの真ん前だったので、なんとなく寝付けなかった。というか4時台に目が覚めて、7時くらいまで断続的にウトウトしてしまいました。


 朝飯食って新聞読んでコーヒー飲んで、だらだらと身支度して、もう体調も何とかなるだろうということで、やっと部屋を後にしました。



 時間的に近所をぐるっとする程度ですが。


 写真じゃわかりにくいけど、熊本城も見えます。


 キャッスルホテル前曲がって。


 電車通り出ました。



 そしておてもやんとバス停。


 熊本よ、また三月まで!



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熊本雨散歩

2019-12-18 | 散歩
 今回はバスの旅。


 当たり前だけどちゃんと二回の休憩があります。以前は一回だったとは思うけど、何か話し合いがなされたに違いありません。安全意識ってやつでしょうね。まあ、自家用で行くと疲れるんで、その分のんびり致しましょう。


 ということでやってきたのは熊本。


 昼は抜いているし、散歩するよりありません。


 熊本中央警察署。妙に近代的です。 


 9beというのは九州美容専門学校の略らしい。まあ、デザインですね。


 藤崎宮参道の大鳥居。


 緩やかに右カーブ。Hirataって会社の青いビルが目立ちます。


 浄行寺。


 坪井繁栄会通りの立派な入口。


 カガワの自転車。熊本ではビッグな自転車屋さんのようです。


 ぽつぽつは来てたんだけど、このあたりからそろそろ傘ささなきゃって感じになってきた。


 ここらあたりで戻るかな。


 はっきりと本降りに。


 踏切先に高校があった。


 線路と住宅と道路が近くて、なんだか鎌倉みたいですね。




 立田口大神宮。


 鳥居も立派です。


 狭い通りがいろいろあって、要するに古い街なんでしょうね。車時代よりはるか前から。





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クレイジーが面白い傑作   コンビニ人間

2019-12-17 | 読書

コンビニ人間/村田紗耶香著(文春文庫)

 コンビニでのバイト風景と、主人公の36歳・女である古倉の小人生的なことがつづられている。妙な感じはするにはするが、ちょっと変わった感性の女性なんだろうという風に思いながら読み進んでいた。ところが段々と常軌を逸してきて、とんでもないお話に発展していくような感覚に陥る。なんなんだこれは。
 個人的な体験談であるし、小説であるが、確かにこれは社会批評でもある。主人公は変ではあるが、同時に彼女を変だとしている、おそらく我々の社会も、見方によるとずいぶん変なのだ。それが彼女を通してあぶりだされていくようで、妙な気分になる。出てくる人たちがすべてクレイジーになっていくような、まるでホラー小説のようだ。
 途中から妙な成り行きで同棲することになる白羽という男が、病的に狂っていることは最初から分かる。が、その彼に同化しているわけではないのに、合わせてしまえる不思議な同棲生活が始まる。これがギャグとして面白いんだか、やはりホラーとして怖いのだか判然としない。いわゆる危うく、しかしどうしようもなく可笑しいのである。こんなことが成立するはずが無いのに、ちゃんと理屈として成り立っており、一見うまく事が運んでいくのである。これはぜひ読んでもらって体験してもらうよりなかろう。
 僕は熱心にコンビニに立ち寄る人間ではないが、コンビニで働いている人など、それなりに知り合いがいる。いろいろあるけれど、コンビニで働くことは、実際は結構楽しいことなんだという話も聞く。そういうことを聞くと、なんだか意外な気もしたのだが、確かに人間関係を含めて、面白いものがあるのかもしれない。仕事も複雑だし、大変であるというのは見て取れるのに、働いている人々は、それなりにハッピーなのである。映画などで観るコンビニ風景は、なんだか社会の縮図的に問題提起されたものが多いように思うけれど、実際に働いている人たちは、そういう風には思っていないのではないか。まあ、それは小説とは関係ないことだが、そういう社会的に誤解されている風のことも含めて、コンビニはあまりにも身近なことになりすぎていて、このような小説になってびっくりしてしまうのかもしれない。著者は芥川賞を取った時も、確かコンビニでバイトしていたはずである。まったくすごい発見をしたものではなかろうか。
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